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13 海が凪いだら

早朝。ペリドットへ出かけるまでの短い時間。海岸沿いの道をハルとシラセが歩く。二人の表情は晴れ晴れとしていた。昨夜の一件ですっかり憑き物が落ちて、生まれ変わったかのような顔つきだ。ハルもシラセも、肩で風を切って歩いているという言い方が相応しい。まあ、アブソルのシラセに「肩」と呼ぶべき部位は無いのだけれど。

右手に望む海は凪いでいる。少しの乱れもなく、鮮やかな青がどこまでも広がっている。さながら二人の心境を投影したかのような穏やかな海の在り様は、呪縛を解いたハルとシラセの新たな門出を静かに祝しているかのよう。

「ええ気持ちやな」

ハルが空を仰いでつぶやく。まったくだ、と言わんばかりにシラセが頷く。同じ気持ちを共有していることがありありと見て取れた。

「お姉ちゃん、って言うたら、気持ちがスッとしたわ」

瑞穂と沙絵、二人の姉を「お姉ちゃん」と自らの言葉で呼んだことで、ハルは彼女らと真に心を通わせることができた。瑞穂と沙絵、二人と本当の意味で姉妹になれたと言ってよい。ハルは瑞穂と沙絵の妹になり、瑞穂と沙絵はハルの姉になった。昨日までとは全く違う関係で、三人は結ばれている。

「うちがここに居ってもええんやって、そない思えるようになった」

「シラセも同じやんな。うちと」

ハルの言葉をシラセは快い気持ちで受け入れる。此処に居てもいい、それが分かっただけでこれほどまでに気持ちが楽になるとは。シラセはそう実感していた。瑞穂も沙絵もそれにハルも、自分を家族の一人だと思ってくれている。母と生き別れ、これからは天涯孤独の身と考えていたシラセにとっては、何よりも心強いものだった。

「なあ、シラセ。なんやこう、今更かも知れんけど」

「うち――これから、榁で暮らすわ」

吹っ切れた表情で、ハルが明快に言い切る。榁に住み、榁で暮らし、榁で生きていく。姉たちとの交流を通じて、ハルはその意思を固めるに至った。その顔に、その言葉に、迷いは一片も見られない。ここから新しい日々が始まることを確信している表情だった。シラセもそれに異論を挟むことはしない。挟むべき異論など持ち合わせていなかったからだ。

爽やかさを纏って堂々と歩くハルとシラセ。するとハルが、視線の先に見慣れた人物の姿を見つけた。ハルは足を速めて駆け寄ると、背中に向けて声を掛けた。

「ヒロ!」

「ん? あっ、ハルじゃん」

そこに居たのはヒロだった。走ってきたハルを出迎えて、お互い目線を合わせる。

「今日はマキちゃんおらんのか」

「ああ。昨日遅くまで起きててさ、まだ夢の中だぜ」

「よう見たってるんやな。ええお兄ちゃんぶりやん――」

ハルが口元ににやりと笑みを浮かべて、こう続けた。

「――ヒロちゃん」

ヒロちゃん、とアクセントを強調して口にしたハルを見たヒロは、目玉が飛び出さんばかりに驚いていた。彼の――いや、彼女の様子を見ただけで、ハルは自分の考えが正しかったことを確信するに至った。

「自分、ほんまは女の子やろ? マキちゃん抱く時とかの手つきで、そうちゃうんかな、って思とってん」

以前ヒロが飛びついてきたマキを抱きしめたとき、その手つきが男性的ではない、優しいものだったことをハルは見逃していなかった。それからも仕草を細かくチェックして、ハルは自分の考えが正しいかを密かに確かめていたのだ。そしてヒロが一人になった今を狙って「答え合わせ」を仕掛けた。そんなところだ。

「ちぇっ、バレちゃしょうがないか」

「ほんまの名前、なんて言うん?」

「千尋だよ。ち・ひ・ろ。いかにも女の子って感じの名前だよな」

「せやからか。まあ、ヒロでも間違いやないわな。略しただけやし」

ヒロ、もとい千尋が照れくさそうに自分の名前を口にする。なるほどヒロでも間違いではない、と納得するハル。なんだか可笑しくなって、二人揃って笑い声を上げる。

「自分あれやろ、マキちゃんのために『お兄ちゃん』やっとるんやろ?」

「そうだよ。なんせお姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃん、って懐かれちまったからな」

「そない言うけど、ええお兄ちゃんしとると思う。パッと見男の子にしか見えんし」

「ありがとな。できればだけどさ、マキの前ではおれのこと『ヒロ』って呼んでほしいんだ」

「せやな。うちかてそれくらい分かるわ。マキちゃん可愛いしな」

普段よりも朗らかかつ饒舌なハルの様子を、ヒロが興味津々と言った面持ちで見つめている。どうやらハルに何かいいことがあったらしい、とヒロは見たようだ。

「今日はタツマキ連れとらんの?」

「まだ寝てるんだ、あいつ朝弱いから。中学に上がったら朝練あるし、早起きできるようにしてやりたいんだけどさ」

「朝練? なんか部活でもやるつもりなん」

「ポケモン部だよ。知ってるか?」

「ああ、そういうことか。知っとる知っとる。うちのところでもやっとる先輩おったし」

ポケモン部、という言葉にハルは合点がいったようだ。確かに朝練があるし、自分だけではなく相棒のポケモンも早起きさせる必要がある。以前もヒロはハルとポケモンバトルをしたがっていたし、ポケモンバトルをする部活動であるポケモン部を目指すのは自然なことと言えた。

「小学校卒業したらさ、おれ中学に行くつもりなんだ。向こうにある小山中学校ってとこ。外に出てくのは、なんか違うなって思うし」

「それ分かるわ。うちも同じ。リーダーも考えなしにトレーナーになるのは良うないって言うとったな」

「だろ? でもさ、バトルはしたいからさ、それでポケモン部に入りたくて」

「ええやん、ちゃんと目的あって」

「この間先輩ともバトルさせてもらったんだ。もちろん負けちまたけど、でも楽しかったぜ。もっといろんなやつとバトルしてえな、って思ったし」

バトル、そしてポケモン部について熱く語るヒロを見ていたハルが、自分の胸に手を当てる。雑然としていた言葉を整理して、大きく息を吸ってから、ヒロにこんな問いかけをした。

「ありがとう、ヒロ。ポケモン部のこと教えてくれて」

「大したことじゃないさ。知ってることを話しただけだからさ」

「うちもちょっと考えてみるわ。夏休み終わったら、こっちに転校するつもりやし」

「えっ!? お前榁に住むのか!?」

「うん。お姉ちゃんらと一緒に暮らすって、うち決めたから」

ハルが転校して同じ学校に通うと知ったヒロは、もちろん喜んだ。ハルのことを気の合う友人だと思っていたから、当然の反応だった。

喜ぶヒロを見て、ハルがにっこり微笑む。少なくとも、転校初日に孤立してしまうようなことはなさそうだ。

変わっていくハルを、隣でシラセが見守っていた。

 

瑞穂とハルはペリドットへ、沙絵は榁のポケモンジムへ。上月家を出てそれぞれの一日を過ごした後、また上月家へ戻ってくる。新しい日々が始まると言っても、何かが大きく変わるわけではない。昨日までとよく似た風景、けれど各々の心持ちは、やはり大きく様変わりしていて。

夕飯を済ませた後、沙絵の提案で外を散歩することにした。外が雲一つない快晴で、星空が良く見えるに違いないから、というのが理由だった。瑞穂もハルも、それからシラセも賛成する。美しい星を見ながら語らうのも、また風流というものだろう。

「外に出てきてよかったね」

「ホンマやな。今日は涼しいし、ええ風が吹いとる」

「これはきっと、明日も晴れだね。それも雲一つない快晴。今からいい気持ちだよ」

心地よい風を浴びながら、姉妹たちが堤防に腰掛ける。ハルを真ん中に、瑞穂が右に、沙絵が左に座る。姉二人に囲まれたハルは、心なしか嬉しそうな顔をしていて。沙絵の横にちょこんと座ったシラセが、姉妹たちの顔を代わる代わる見ていた。

誰ともなく空を見上げたかと思うと、いつの間にか三人揃って星を眺めていた。天然のプラネタリウムとでも表現すべき、まさしく満天の星空。遮るものは何一つなく、榁の夜を煌びやかに彩っている。

「綺麗な星だね。きっと神社の神様も喜んでるよ」

「夢を叶えてくれる星の神様だっけ。だろうね、どんな願いも叶っちゃいそうだよ」

「これで、今流れ星の一つでもチラッと見えたら完璧やねんけどな」

ハルの言葉に、左右に居る沙絵と瑞穂が朗らかに笑う。二人の前で遠慮なく軽口を叩けるようになったハルをお祝いするかのように。

「今ここで見てる空、うちが日和田におる時にも見とったんやな」

「そうだね。今はいないけど、お母さんとお父さんも」

「何処に居ても、結局は同じ空を見て、同じ空の下で生きてる。そういうことだよね」

沙絵とハルが瑞穂の瞳を見つめる。すべてを受け入れるかのような優しさを滲ませて、瑞穂が二人を見つめ返した。

これからハルは、沙絵と瑞穂と同じ家で、同じ空気を吸って生きていく。姉妹だからと言って何かを強制されることはないし、自分にとって必要なことは自分で決めていかなければならない。けれど、もし何かに躓いたり行き詰ったりしたら、隣に二人がいることを思い出してほしい。瑞穂の目はそう語り掛けていて、そしてそれはハルと沙絵にもしっかりと伝わっている。シラセは彼女たちの心の流れを読み取りながら、そう実感していた。

「お姉ちゃん。うち、こっちで暮らすわ」

輝く星を眺めながら、ハルがぽつりと呟く。

「榁の学校に転校して、中学校もこっちで通いたい」

「おっ、さりげなく移住宣言来たよー」

「いいよ、ハル。夏休みも終わりが近いし、明日から準備しよっか。私と沙絵がお手伝いするよ」

「お姉ちゃん、ありがとうな」

瑞穂と沙絵にお礼の言葉を口にしたハルが、少し表情を改めて、さらに言葉を重ねる。

「二人とも知っとるやろけど、うちが小学校出たら、向こうにある小山中学校いう中学校に通うことになるやん。そこにな、ポケモン部いう部活があるねん」

「あるね。この間ハルと二人で歩いてる時も、部員さんとすれ違ったし」

「うん。それでな――」

顔を上げたハルが、決然と言い放つ。

「――うち、ポケモン部に入りたい」

ポケモン部に入りたい。自分の言葉で、はっきりと明確に、ハルはそう口にした。

ハルの眼差しを瑞穂と沙絵が目の当たりにする。揺るぐことのない強い意志を感じさせる瞳をしている。ハルが自ら決めたこと、自ら「やりたい」という意志を持ったもの。本気の本心から発した言葉であることは誰の目にも明らかだった。

「……うん! いいよいいよ! やろうよ!」

「お姉ちゃん」

「ポケモン部ってことは、やっぱりバトルするんだよね。私絶対いいと思う! ハルがそう言ってくれて、今すごい嬉しいもん!」

「ハルもやりたいことを見つけられたんだね。それなら私も全力で応援するよ。だって、ハルのお姉ちゃんだもの」

「私ともバトルできるね! よーしっ、明日からまたパオと特訓だぁ!」

沙絵も瑞穂も、ハルの決断を受け入れてくれた。沙絵に至っては前のめりなくらい乗り気で、明日からいっそうトレーニングに精を出すと張り切っている。瑞穂も心から嬉しそうな表情を見せて、頬を緩ませていた。

「ありがとう。うち、やっと素直になれたわ」

「うちは……ポケモンと一緒におるんが、好きなんやって」

抱えていたわだかまりや暗い気持ちは綺麗に消えて、今仰ぎ見ている空のように晴れ渡った爽やかな思いだけが心に満ちている。ハルはずっと押し隠していた自分らしさを、ようやくすべて取り戻すことができたのだ。

「せやからうち、ソラ引き取りに行くわ。また一緒に、ここでバトルしたいから」

「ヘラクロスだよね。これは手強いライバルになりそうだよ!」

「うん。スズさんに預けっぱなしにしとったから、いっぱい甘えさせたらなな」

「またひとり、家族が増えるんだね。うん、家が賑やかになって楽しいよ」

「せやな。大分待たせてしもたし、ソラに『お待たせ』って言うたりたいわ」

かつての相棒だったソラを引き取りに行きたい、ハルの言葉に沙絵も瑞穂も賛同する。

「ね、ハル。私たちも一緒に、日和田に行かせてもらえないかな。ハルが暮らしてた街、私も見てみたいし」

「もちろんや。うちが案内したるから、大船に乗ったつもりでおってや」

「乗り気だねーハル。これからもさ、旅行気分でちょくちょく行けるといいよね」

日和田へ二人もついてくると聞いたハルが、自分が案内すると意気込みを見せた。ハルにとっては生まれ故郷の街、言わば庭のようなものだろう。そんなハルの気持ちを慮ったのか、沙絵が「ちょくちょく行けるといいよね」と付け加える。向こうの友人との縁も繋いだままにしてほしい、沙絵のささやかな気遣いをハルはしっかり受け止めて、何度も大きく頷いて見せた。

「ハルがお世話になったっていうジムリーダーさんにも、ちょっと挨拶していきたいしね」

「挨拶ついでにバトルもしていきそうやな、お姉ちゃん」

「じゃ、私はシラセと一緒に応援させてもらおうかな。がんばれー、沙絵ー、って」

屈託なく笑う。ただ笑う。ずっと求めていた時間が、ここには確かに存在した。

快い夜風を浴びながら、瑞穂が手に提げていたバッグから何かを取り出す。

「いい気分だね。せっかくだし、ちょっと一曲弾いちゃおうかな」

「あーっ! 出た出たっ お姉ちゃんの月琴!」

「へぇ、これが前言うてた月琴いう楽器かぁ。おもろい形しとるなぁ」

「今度ハルにも弾かせてあげるよ。私の指導付きでね」

瑞穂は妹二人に優しい眼差しを向けてから、月琴を携えて指を繰り始める。穏やかな波の音と共にデュエットを紡ぐかのように、美しい弦の音色が奏でられていく。

シラセは彼女らを一瞥してからそっと目を閉じて、瑞穂の奏でる月琴に身をゆだねた。

 

ハル、沙絵、瑞穂、それからシラセ。

海が凪いだら、何をしようか。ずっとそのことを考えていた。ずっとその時を待っていた。

今、彼女たちの海は安らぎを得て、凪の時を迎えている。

 

物語は――ここから始まるのだ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。