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冷たい手のひら

寒いのは、すごく苦手だ。

冷たいのは、とびきり嫌いだ。

 

「惜しいなあ……あの時うまく相手を吹っ飛ばせてたら、僕の勝ちだったのに……」

一人きりの家。僕はコタツにもぐり込んで、少し前に買ってもらったばかりのゲームで遊んでいる。父さんも母さんも出かけていて、僕がボタンを押す音と、ニンテンドー3DSから聞こえてくる音楽と効果音だけが家の中に存在する音だった。後はせいぜい、冷蔵庫がごうごうと唸りを立てているくらいだ。

対戦でぶつかったダックハント使いのプレイヤーになかなか勝てなくて、そのまま二十試合くらい繰り返しバトルしたけど、結局半分も勝てずに終わってしまった。キリのいいところでやめにして、僕はパタンと3DSを閉じてしまう。天井を見上げてはぁーっとため息をつくと、何も考えずにただぼうっとする。

「今日も外寒いだろうなぁ……」

窓から見える外の風景は、灰色を塗りたくったような、寒々としたものにしか見えなかった。

 

僕は光輝(こうき)。苗字まで入れると「前原光輝」。日和田市にある小学校に通っていて、もうすぐ六年生になる。今は五年生だけど、あと少しで六年生だ。

父さんの仕事の都合で、半年前の夏休みに豊縁の哉澄(かなずみ)市からここ静都の日和田市へ引っ越してきた。引っ越しそのものは前にも経験していたからそんなに気にならなかったし、日和田市は静かで綺麗なところだったからすぐに慣れることができた。空気はおいしいし、かと言ってバスや電車が少ないなんてこともない。買い物をする場所にだって困らないし、海も山もある。父さんも母さんも住み心地がいいと言っていたし、僕も基本的には同じ意見だ。

だけど、ひとつだけどうしても困ったことがある。

「静都はそんなに北ってわけでもないし、日和田なんてその中でも一番南にあるのに、どうしてこんなに寒いんだか」

冬になると、信じられないくらい寒くなることだ。

僕は寒いのが大の苦手で、冷たい風に当たるともうそれだけで鳥肌が立ってしまう。風邪を引きやすいとか、そういうわけじゃなかったけど、とにかく寒いのが苦手だった。嫌いだって言ってもいい。寒いくらいなら、まだ汗びっしょりになるくらい暑い方がずっとマシだって思うくらいだ。

幸い家の中まで寒くなるなんてことはなかったから、僕はコタツへもぐって悠々と過ごしている。ゲームをしたり本を読んだり、自分の好きなように過ごせる。ああ、これが幸せなんだ……と、僕はコタツの布団を掴みながらひしひしと実感する。外はびゅうびゅう風が吹いていて、一歩でも出ようものならたちまち悪い意味で目が覚めてしまいそうだった。それにしても、こんなにも寒い理由が分からない。誰か僕に教えてほしいと心から思う。

「とにかく、僕は寒いのが嫌いだ。だから外には一歩も出ないぞ」

僕は高らかにそう宣言すると、再びコタツに潜り直すのだった。間もなく体がぽかぽかと暖かくなってきて、まぶたがとろとろと降りてきそうになる。眠っている夢を見て、起きたと思うとまだ眠っていて、そうしていると時々ホントに目が覚める。だけどそれも長くは続かなくて、また眠りに落ちてしまう。

そうやって、起きているのか寝ているのかよく分からないまま過ごしていると、チリンチリンと鈴の音が響いてきた。あれは玄関の扉に付けられたベルの音だ。父さんと母さんが買い物から戻ってきたに違いない。僕はようやくちゃんと目を覚ましてコタツから這い出る。

「ただいま、光輝。ちゃんと留守番しててくれたみたいね。助かったわ」

「お帰り。買い物はもう済んだの?」

「ええ、今日はそんなに並ばずに済んだわ。それより、ちょっと話したいことがあるの?」

「話したいこと?」

母さんによると、何やら僕に話したいことがあるらしい。一体何の話だろうかと僕が首を傾げていると、母さんから少し遅れて、父さんが玄関から中へ入ってきた。車を駐車場に停めてたから遅くなったのかな、僕は深く考えずにそう思っていたけれど、どうもいつもと様子が違う。様子が違うというか、雰囲気が違う。

誰かを連れてきている――? 僕は直感的にそう思った。姿は見えないけれど、父さんはこちらに誰かを導いて来ているように見える。一体誰だろう、親戚だろうか、でも日和田に親戚がいるなんて話は聞いたことがない。迷子でも拾ってきたんだろうかとも思ったけれど、自分の家にまで連れてくるなんて不自然だ。じゃあ、一体誰だろう。

「おっ、光輝じゃないか。ちょうどいいな。実はな、光輝に紹介したい子がいるんだ」

「僕に……紹介したい子?」

ええっ、僕に紹介したい子って、一体どういうことなんだろう。というかどこの誰なんだ、僕や父さん母さんとどんな関係がある子なんだ。ますますわけが分からずに、僕が左右に首を傾げる。すると、だ。父さんの背中から覗いた影が、瞳がきらりと光らせるのが見えたじゃないか。背丈は僕より少し小さいくらいだから、父さんの言う通り子供で間違いなさそうだった。けれど、まだ姿ははっきり見えない。誰だ、誰なんだ。

「ああ。さあ、こっちへ出てきて自己紹介をしてくれ」

とにもかくにももどかしいと感じていた僕の気持ちを察したように、父さんが前へ出るよう促す。するとほどなくして、後ろに隠れていた小さな影が僕の前に姿を現した。

「えっ……!? 僕に紹介したい子って……ゆ、ユキメノコだったの!?」

僕の目の前に現れたのは、紛れもなく、ポケモンのユキメノコだった。

ユキメノコはおずおずともう一歩前へ踏み出すと、僕に向かってうやうやしく、丁寧に頭を下げた。

「初メマシテ。私(わたくし)ハ『雪音(ユキネ)』ト申シマス」

「しゃ、喋った!? ユキメノコが、人の言葉を……!?」

頭をぶん殴られたような衝撃とは、きっとこんなことを言うのだろう、僕はしみじみそう思った。目の前にいるユキメノコ――雪音は、ほんのちょっぴりだけたどたどしいけれど、ほとんど人のそれと変わらない発音でもって「言葉」を口にして見せたのだ。「はじめまして、わたしはゆきねともうします」。言葉としてはごくごく短かったけれど、僕を驚かせるにはまったくもって十分に過ぎた。

驚きのあまり酸欠になったトサキントのごとく口をぱくぱくさせている僕を尻目に、父さんと母さんが雪音についてあれこれ話し始めた。

「お父さんの知り合いの伝手でこの雪音ちゃんを紹介してもらってね、あれこれ相談して、うちで『奉公』してもらうことにしたの」

「『ホウコウ』?」

「一緒に家に住み込んで、家事の手伝いや日常の仕事を手伝ってもらうことさ。最近母さんも仕事へ戻って人手が足りなくなっていたから、うってつけだと思ったんだ」

「小さい頃から家事を仕込んでもらって、人の言葉も話せるようにしてもらったそうよ。さっき光輝に挨拶したみたいにね。それにしても上手な発音だわ、ホントに人間みたい」

雪音が人の言葉を話せるのは「仕込まれたから」らしい。それは裏返しにすると、雪音は人の言葉を覚えるくらい頭が切れるってことだ。とんでもないユキメノコもいたもんだと驚かざるを得ない。

「雪音ちゃんはずいぶん器量がいいとは聞いていたが、どうやら知り合いの言葉にウソはなかったようだな。実に素晴らしい」

「そ、それはともかく……! このユキメノコ……雪音は、結局家で僕らと一緒に一緒に暮らすことになるの?」

「そうよ。さっきも言ったけど、住み込みで奉公をしてもらう形になるの。もっとも、雪音ちゃんに家事を全部押し付けたりするつもりは無いわ。家でのんびり暮らしながら、時々ちょっぴりお手伝いをしてもらう感じよ。時々私たちの話し相手になってくれたりしたら、それだけでもう十分よ」

「ああ。この子は頭もよく回るし物腰も穏やか、それになんたって愛嬌がある。帰ってくる途中も、母さんと三人でずいぶん盛り上がらせてもらったからな」

父さんも母さんも、ユキメノコの雪音を大いに気に入っている。べた褒めもべた褒め、大絶賛だ。僕が戸惑っていることなんて露知らずといったところで、あれよあれよと言う間に話が進んでいくじゃないか。

しかし、僕は一体どうすればいいんだろう、雪音とどう接すればいいんだろう。人の言葉を話すポケモンなんて、それこそもう何年も前に見なくなったポケモンアニメに出てくる「ロケット団のニャース」みたいなものじゃあないか。あれはアニメの世界だから喋ろうがギターを弾こうが別にカンケーなかった、だけど僕は現実の世界、リアルの世界に生きている。アニメとは分厚い壁を隔てた向こう側の場所だ。なのに雪音はその壁を(ゴーストタイプらしく)すり抜けて、喋るユキメノコとして僕の前に立っている。リアルの世界に住む僕の前に!

どうしようどうしようと頭をクルクル懸命に回して、僕が辿り着いた結論は。

(あんまり……関わらないでおこう)

だ。とにかく「こおり/ゴースト」というタイプが心身ともに徹底的に寒々しい。徹底どころか、底抜けの寒さをもたらしてくれそうな取り合わせだ。前にも言ったけど、僕は寒いのと冷たいのが大の苦手だ、嫌いだって言いきってもいい。だからあまり関わり合いになりたくない、これが僕の偽らざる本気の本音だ。

だけどそれ以上に、僕は目の前の「人の言葉を話すポケモン」をどう受け入れればいいのか分からなかった。一番の引っかかりはそこだった。これじゃあまるで、ポケモンが人に成り代わるみたいじゃないか。だからどうだってわけじゃないけど、とにかく単純にすっきりしないというかもどかしいというか、座り心地が抜群に悪かった。

「さあ光輝、光輝もきちんと挨拶するのよ」

「これから雪音ちゃんには、光輝の相手をしてもらうつもりだからな。光輝も雪音を妹だと思って、可愛がってやってくれよ」

「……ええぇえ~っ!?」

僕の目論見はきれいさっぱり勢いよく外れて、家にいるときは雪音と一緒にいることになってしまうのだった。

翌日早朝。

「うーん……あとちょっと……」

僕は蠢いていた。自室の端、ドアからのすきま風も、窓から吹き込む風も届かないスペースに置かれたベッドの上で、ふかふかの布団にくるまってごろんごろんしていたのだ。空気をたっぷり吸い込んだ掛け布団、かすかなざらつきが大きな安心感をもたらすカバーの掛けられた敷き布団。そしてその間に丁寧にサンドイッチされた僕は、二つの布団が織り成す暖かさのハーモニーに酔い痴れる! これぞ幸福の絶頂! まさに至福の極み!

平たく言うと、布団にくるまって横になっているのがあんまり気持ちよすぎて、起きるのが億劫だったのだ、僕は。

「ああ、あったかいぃ……」

今日は平日、僕は小学生。この二つだけで導き出せる答えがある。今日、僕はこれから学校へ行かなきゃいけない。日和田第三小学校、それが僕の通っている小学校の名前だ。

僕の知っている限り、この小学校には取り立てて変わったことなんて一つもありはしない。せいぜいグラウンドの隅っこにちょっと大きなバトルフィールドがあって、生徒が好きなようにポケモンバトルをさせられるようになっているくらいだ。なんでも母さんから聞いたところによると、日和田第三小学校からは毎年多くのポケモントレーナーが旅立って行くらしい。学校もそれをキッチリ理解してるから、トレーナーのタマゴが腕を磨ける場所を用意したってところだろう。

だけど、僕には関係の無い話だった。父さんや母さんは「トレーナーになんてなるもんじゃない」と事あるごとに口にしていたし、それにハイハイと従うわけじゃあないけれど、僕自身もトレーナーになんてなるつもりはサラサラ無かった。他に将来の夢があるわけでもない。ただ、トレーナーになるのは「正解じゃない」と、僕はこれまでの短い(十一年? もうすぐ十二年かな)人生経験の中で得られた限られた情報からでさえ判断できた。

哉澄に済んでいた頃の友達には、ちょっと歳の離れた兄貴がいた。なんでも音楽をやってるとかで、バイトしながら仲間と一緒にバンドを組んでるらしい。ふうん、そうなんだ、いいんじゃない、と僕が気のない返事をすると(僕は音楽が得意じゃないから、単純にイメージが湧かなかったのだ。僕は友達の話を適当に聞き流すほど薄情なヤツじゃない)、友達は首を横に振ってこう呟いたのだ。

「兄ちゃんは、オトナになるのを『明日』にしてるだけだよ」

明日。僕はその時ほどネガティブで強いマイナスイメージを伴った「明日」という言葉を耳にしたことはなかった。もしかしたらこれから先もっとショッキングな使われ方をする場面があるかも知れないけど、少なくとも今のところはあの時の「明日」が一番ショッキングだった。

だって「明日」って言葉は、ほとんどの場合ポジティブな意味で使われるじゃないか。「明日があるから頑張れる」とか「明日のために戦う」とか、明るい未来をイメージしていることがほとんどだ。そもそもの成り立ちが「明るい」に「日」だし。だけどその友達の言葉には、そんな僕のフワフワしたイメージを吹き飛ばしてしまうパワーがあった。あの時ほどショックなことは無かったと、僕は自信を持って言える。

僕が友達の台詞を耳にしてからしばらくして、今度は別の友達と二人でポケモンセンターへ行く機会があった。こっちの友達には妹がいて(僕はあの辺じゃ割と珍しい一人っ子だった。みんな兄弟や姉妹がいたはずだ)、妹はポケモントレーナーになるための英才教育を受けるとか言っていた。君は? と訊ねると、

「オレ、ポケモンアレルギーなんだ。だからポケモンには触れなくてさ」

彼はカラリとした声で答えた。僕は彼と妹が、あるいは彼と彼以外の家族が家でどんな関係にあるか、しなくてもいい想像をせずにはいられなかった。物事をあれこれ広く深く濃く長く考えて想像にふけってしまう、僕の悪い癖だった。幸い、この癖のために損や失敗をした記憶は、今のところ無いけれど。

そんな友達がポケモンセンターに来たのは、妹が預けたポケモンを引き取るためだった。とうの妹はどこで何をしているのやら、僕が疑問を感じているのをつぶさに読み取って、今日はトレーナーズスクールで勉強する日になってるから、代わりにオレが引き取りに行けってさ。またしてもさらりと答えて見せる。この友達は気さくで剽軽なキャラクターをしていてクラスの賑やかし役で通っていたけれど、それがどこまで「ホントの」姿なのか、僕には実に曖昧に思えてきた。

彼と手短に話をしてからしばらくして、僕は不意に周囲がよく見えるようになった。それは視界が開けたとか視野が広がったとかの、物理的な意味じゃあない。僕らの回りにいる人々の様子・仕草、あるいはまとっている雰囲気や空気、普段は気にも止めない些細な情報が、突然敏感にキャッチできるような感覚を味わったのだ。

(あの人は……近所に住んでる高校生と同じくらいの背丈だ。ソファに座ってうなだれたままずっと動かない。側にいるのはポケモン、「木を背負った亀」のようなポケモン。あれには見覚えがあるぞ、深奥(しんおう)地方にいたポケモンのはず……ん? 見ると、ジムバッジが四つ付いてる。いや、四つしかないって言うべきなのか。僕が聞いた話だと、プロのトレーナーになるような人は、大抵は一年以内にバッジを八つ全部集めてしまうらしい。バッジは四つしかない、深奥出身に見えるのにどうしてだか日和田にいる、そして疲れ切ってうなだれている――)

(向こうの女の子はどうだろう。縮小したモンスターボールを付けてるから、あの人もトレーナーに違いない。僕より三つか四つくらい上かな、ちょっとキツそうな感じの顔だ。なんだかこっちもなんだか疲れてるように見える。時折スマホを覗き込んで……画面を消してため息をつく。もう何度も繰り返してるぞ。あっ、またスマホを弄り始めた。今度は電話を掛けたぞ、何々……「掲示板見ました。これから会えませんか」――だって? 掲示板のやりとりなのに、メールアドレスだとかフェイスブックやツイッターの名前とかじゃなくて、いきなり電話で連絡するなんて。コミュニケーションをとることじゃなくて、まるで出会うことそのものが目的みたいだ――)

ポケモンセンターにはいつもたくさんの人がいる。無邪気な子供や仕事中の大人、あるいは人生の残り時間をのんびり過ごす爺ちゃん婆ちゃんといった、少なくとも帰る場所のありそうな人も大勢いる。だけど彼らに混じって溶け込むように、けれど溶け込めずにどこか浮き彫りになっている、活力を失った人も少なからずいる。そういうタイプの人は、なぜか決まってポケモントレーナーだった。みんなが憧れて、みんなが目指すはずの職業。なのに彼らの顔からは、揃いも揃って生気が失われている。その時、僕は悟ったのだ。

彼らは、あの友達の兄貴と同じなんだ。ただ、「音楽」が「ポケモン」にすり代わっただけなんだ、と。

(そういうわけで、僕はポケモントレーナーになるのは遠慮しようと思う。勉強して知識をつけて、派手じゃなくても堅実な仕事ができるだけの下地を作るんだ。そのためには学校へ行かなきゃいけない、行かなきゃいけないのは、嫌ってくらい分かってるんだ。断じて理解してないわけじゃないぞ)

(……だけど、寒いのは苦手なんだ……)

ああだこうだと言ってきたけれど、僕はベッドから一ミリたりとも起きようとしていない。この時間は冷え込みがキツくて、ぬくぬくのお布団の中とは天国と地獄という言葉すら生易しいほどの違いがある。そういうわけでなかなか起きられずに、いつも遅刻寸前になってしぶしぶ這い出してくるという有様だった。

というわけでもう少し暖かいお布団タイムをエンジョイ――しようとした僕だったけれど、不意に周囲の温度ががくっと下がった気がした。冬の朝が寒いのはいつものことだけど、今この瞬間僕が感じている寒さは普段のそれとは明らかに違った。何事だと僕はたまらず起き上がって、無意識のうちにベッドの隣を見た。

「オ早ウゴザイマス。昨日ハヨクオ眠リニナレマシタカ?」

あの、昨日僕の家にやってきたユキメノコ――雪音が、僕の側に立っていた。

「お、おはよう……よく眠れたかって? まあ、いつも通りだよ、いつも通り……」

僕は雪音に自己紹介をされてから、まだろくすっぽ話をしていなかった。

雪音ちゃんが家に来てくれたお祝いだから。母さんはそんな風に理由をつけて、昨日は普段よりちょっぴり豪華な夕飯になった。空いていた座席が埋まって賑やかになったな、父さんがそう口にした先には、今まで誰もいなかった僕の隣に座る雪音の姿があった。雪音はちょこんと椅子に腰かけて、父さんと母さんが取り分けてやったグリーンサラダだとかグラタンだとかいった料理をとても行儀よく食べていた。僕より明らかに上品な食べ方をしていたはずだ。箸の使い方もすごく上手だったし。

だけど、僕は言いようの無い違和感を覚えていた。覚えずにはいられなかった。それがどこから来ているのか、ちゃんとしたことは分からない。雪音自体が怪しいとか、そういう感情もないわけじゃない。ユキメノコにはいろいろと恐ろしい噂話がまとわり付いていることは僕だって知っている。だけどもっと根本的なところで、僕は猛烈な違和感を抱いているのは疑いようが無かった。

「朝食ガ出来テイマス。宜シケレバ、召シ上ガッテ下サイ」

「は、はあ……」

例によって深々と頭を下げて、僕に朝食を食べるよう促す。甘くない綿飴を胃に目一杯押し込まれたようなもやもや感、そんな言葉を持ち出したくなるような気持ちになりながら、僕は雪音に言われるままにベッドから降りてリビングへ向かった。

テーブルに着いてみると、確かに朝食ができていた。ほんのり焼き色の付いた鮭の切り身、芯がしっかり残っているように見えるひじきの煮物、そして付け合わせに白菜の浅漬けが少々。雪音は僕が座ったのを確かめてから、お茶椀にご飯をよそい、お椀にみそ汁を注ぎ、それぞれ僕の前へコトンと置いた。

(ユキメノコだけど……ご飯が冷たかったりするわけじゃないのか)

僕としてはどうしてもそこが心配だった。ユキメノコはいかにも「雪女」といった感じの姿で、冷たいものや寒いところが大好きなようにしか見えなかった。だからもしかすると雪のように冷たいご飯(ついでに氷のように固い)が出てくるんじゃないかと内心不安だったけれど、とりあえずそんなことは無さそうだ。ご飯もみそ汁も白い湯気を上げていて普段と何も変わったところは見当たらない。僕は恐る恐る箸をとる。

「ユックリ召シ上ガッテ下サイ」

僕が朝食に手をつけたのを見て、雪音は目を細めて微笑む。僕はどう反応したらいいのか迷いに迷って、結局「は、はぁ」とでも言いそうな顔つきで小さく頷くことくらいしかできなかった。もっとこう、気の利いた反応というか分かりやすい受け答えがありそうなものだったけど、起き抜けでいまいち頭が働かない今の僕はどだい無理な相談ってものだ。

やがて雪音は音もなく静かに立ち上がって、干し終わった洗濯物を折りたたんだりハタキで埃を落としたりして、せっせと家事に勤しみ始めた。対する僕はと言うと、鮭をのそのそとほぐして口へ運び、時々ご飯を食べたりみそ汁をすすったりするばかりだ。あたかも家事をする母親をぼうっと見つめる幼稚園児のごとく、ただてきぱき働く雪音の様子を見ているだけ。時折目線が合うと、雪音はさっきのような微笑みを見せて僕に会釈をする。その度に、ますます僕の中でもやもやが増していく。

「ごちそうさま。僕、学校行ってくるよ」

ぎこちない朝食の時間が終わる。普段ならもう少しテーブルについたまま時間を潰すところだったけれど、雪音がいると気持ちがそわそわしてまるで落ち着かない。だから、さっさと学校へ行ってしまうことにした。部屋から教科書とノートを詰め込んだランドセルを部屋から引っ張ってきて背中へ提げると、僕は玄関で運動靴へ履き替える。

「光輝サン。オ気ヲ付ケテ、行ッテラッシャイマセ」

僕がドアを開けて外へ出ようとすると、雪音がリビングの方からパタパタと駆けてきて、再び恭しく挨拶をして見せる。僕はまたしてもどう応対したらいいのか判断できずに、ただ「行ってくるよ」とだけ言って、ドアをバタンと閉めるのだった。

頭には黒い毛糸の帽子、耳にはさらに耳当てもセット、首にはふわっとしたマフラー、口元には白いマスク、厚手のジャンパーでしっかり全身を覆って、おまけのおまけに両手には分厚い黒の手袋。考えられる限りの防寒用品を全身に装備したと言えるに違いない。これだけ守りを固めれば、寒さなんてへっちゃらなはず!

「うぅ……どうして冬は寒いんだろう……」

なんて訳はちっとも無く、僕は生まれたてのシキジカのようにガタガタと体を震わせていたのだった。身も心も寒々とした思いに囚われてしまって、意気揚々と冷たい風をビュウビュウ吹かせる灰色の空を恨めしげに眺める他なかった。

寒いのは苦手だ、冷たいのは嫌いだ。道端に落ちていたカラカラの枯れ落ち葉を踏み砕いて、僕はただ一心に学校目指して歩き続ける。学校に早く行きたいという思いからだ。もちろんそれは学校が楽しいとか勉強に心踊らせているとかいった理由じゃあなくて、教室はストーブが炊かれて暖かいからに他ならない。そう、教室は暖かいのだ。だから僕は一秒でも早く学校へ辿り着きたかった。

「雪音、か……一体どう接したらいいのか、僕には分からないや」

吹きすさぶ風に身を縮こまらせながらも、どうにかその寒さに体が順応してきたようで、別のことを考える余裕がでてきた。余裕のできた頭で僕が真っ先に思考の俎上に載せたのは、昨日突然家へやってきたユキメノコ・雪音のことだった。

今日は母さんも父さんも早く仕事へ出なきゃいけなかったみたいで、奉公し始めていきなりだけれど、雪音に家事を全部任せたみたいだった。雪音はいつまでもベッドにしがみついていた僕を起こしにきて、普段食べているのと何も変わらない――ひょっとすると、ご飯の炊き具合や鮭の焼き加減は母さんより上手だったかも知れない――朝食をきっちり支度して、ついでに洗濯や掃除も手際よくスイスイ片付けていた。その働きっぷりは、あまり家のことを気にしない僕だって驚くくらいのレベルだ。雪音があんな風に働いてくれれば、僕達家族はさぞ大助りだろう。

だけど、と僕は思考を混ぜっ返す。雪音はユキメノコで、ユキメノコはポケモンだ。つまり雪音はポケモンだってことになる、何を今更当たり前のことを、なんて思わないで欲しい。僕はここへ来てやっと、雪音に対して抱いていた違和感の正体を掴みかけてきたところなのだ。

(雪音はポケモンだけど、人の言葉を話すし、人がする仕事だってできる)

せっせと食事の支度をする雪音の姿を思い出すたびに、僕は本当にこれでいいのだろうかという考えを抱いてしまう。僕や父さん母さんは人間、雪音はポケモンのユキメノコ。それはきっととても大きな違いで、ちょっとやそっとじゃ乗り越えられないようなものだと僕は思う。だけど雪音は片言だけど人の言葉を話して、普段なら母さんがやるような仕事を全部やってしまう。なんて表現したらいいんだろう、どう形容したら適切なんだろう。

考えに考えを重ねて、エネコが目一杯遊んだ後の毛糸のようにこんがらがった思考を抱えながら歩いていると、僕は普段何気なく通り過ぎている市立中学校の前で思わず立ち止まった。

「にょほほ! 先手必勝ぞよケケっ、必殺・みだれひっかきぃ!」

「当たらないぞ! そこだサニー! はなびらのまいで吹き飛ばすんだ!」

この中学校には――ここに限らず、ほとんどの中学にも、だけれども――「ポケモン部」という部活動があって、そこでは学生同士のポケモンバトルが行われている。ちょうど朝練の時間とかち合ったみたいだ、グラウンドにジャージを着た部員が集まって、めいめいにスパーリングをしているのが見える。僕から見て一番近くで繰り広げられているバトルは、ケケと呼ばれたニャースと、サニーと呼ばれたキマワリというカードだった。

ニャースもキマワリも、トレーナーの指示を受けてまっすぐ相手に突っ込んでいくし、向かってくる相手を撃墜することにためらいというものがない。言われた通り敵をひっかきにいくし、花びらをバラ撒いて敵をぶっ飛ばしてしまう。どこでも見られる「ポケモンバトル」の風景、そのものだった。

「レディアンっ! リフレクターからの大ジャンプだ! ツバサの背後を取れ!」

「させない……! ツバサ構えて! はがねのつばさで迎撃するよ!」

ちょっと進むとまた別のカードでスパーリング中だ。こっちはレディアンに……ツバサって呼ばれたのは、エアームドか。エアームドの翼には大小たくさんの傷が付いている。あれはバトル中に付けられた物に違いない。それだけたくさん戦ってるってことの証拠だ。指揮しているトレーナーは大人しそうな女の子だけど、指示には迷いがこれっぽっちもない。ついでに、エアームドが指示を疑う様子もない。カケラも、わずかたりとも。

「まずは出方を伺わせてもらう! カガリビっ、ひのこをバラ撒け! 敵を牽制しろ!」

「そう来ると思った! 行くよ、おーちゃん! 地面に尻尾をたたきつけて、火の粉を消しちゃえ!」

「よーしっ、出るんだコラすけ! 火はおーちゃんに任せて、ひっさつまえばで一気に攻め立ててやるんだ!」

「やってくれるわね……でも、そううまく行かないのがポケモンバトルってもんよ! メリッサ! はっぱカッター!」

こっちじゃタッグバトルの練習中だ。「カガリビ」はヒトカゲ、「おーちゃん」はオオタチ、「コラすけ」はコラッタ、「メリッサ」はチコリータ……多分これで間違いないはず。互いに連携しあって、目の前の敵を倒そうと立ち向かっていく。

(あっ、コラすけがカガリビに体当たりしたっ、おーちゃんに葉っぱが直撃してる……!)

ポケモンたちは傷ついて、地面に倒れ伏して、それでもまた立ち上がって敵に向かっていく。それはトレーナーの指示があるから、トレーナーから指示を受けたからだ。

僕の胸中にある「人とポケモン」の関係と言ったら、まさしく今ここでこの瞬間こうやって展開されている光景、そのものだった。

人とポケモンは明らかに違う存在で、全然違う役目を担っている。ベンチに座って指示を飛ばす監督と、バッターボックスに立つ野球選手みたいなものだ。あるいはそれよりもっと明確に違うものかも知れない、そもそもがまるで違う生き物なのだから。だからポケモンが人のように振る舞っているのは想像できなかったし、ましてや言葉を話すなんてあり得ないと思っていた。マンガやアニメの世界とは違う、ここはリアルの世界なんだから、と。

(でも僕の家には今、人間みたいに振る舞って、人間の言葉を話すポケモンがいる)

何を隠そう、雪音のことだ。

なんて言えばいいんだろう。雪音は僕の中の「ポケモン像」と徹底的にズレていて、うまく噛み砕けない固いチョコレートのようなものだった。僕より上手に家事をしてしまうし、人の言葉だって話す。何よりあの物腰の柔らかさからして、戦うところがまるで想像できない。ポケモン=戦うもの、そんな僕の認識を、雪音はあっさり覆してしまった。

とにかくすべてにおいて訳が分からなくて、僕は未だに雪音を受け入れてしまっていいのか判断できずにいる。父さんや母さんが何も疑問に思っていないのが不思議なくらいだ。本当に、どうしてすんなり受け入れられてしまうんだろう。

「よく分からないなあ、ホントによく分からないぞ」

僕がため息まじりにつぶやくと、言葉と一緒に真っ白な息が吐き出される。外が寒いこと、空気が冷たいことを思い知らされて、僕は憂鬱な気持ちにならざるを得なくなる。

ああ――。

寒いのは、すごく苦手だ。

冷たいのは、とびきり嫌いだ。

入り口で上履きへ履き替えてから何事もなく階段を登って廊下を歩き、そのままするすると教室へ入ることに成功する。机の上にランドセルを置いてひと息入れると、僕は帽子を脱ぎ、耳当てを外し、手袋を取り、それからマフラーを巻き取る。マスクに手をかけてからすぐぐらいに、隣から僕に呼びかける聞きなれた声が聞こえてきた。

「よっす光輝。相変わらず着込みまくってるな」

「だってさ、外寒いし、これくらい普通だって。コウジ君はそんなんで寒くないわけ?」

「俺か? 別に寒いと思ったことねえけどなあ」

話しかけてきたのは同級生の男子、名前は会話でも出てきた通り「コウジ」……ではなくて、実は「孝治」と書いて「たかはる」と読むのが本当の名前だ。みんなが読み方を間違えて「コウジ」「コウジ」と呼ぶものだから、今じゃ完全に「コウジ」で通ってる、俺は別にどっちでもいいけどな、という話をちょっと前に聞かされた。ちなみに、僕が半年前に越してきて、一番初めに友達と言える関係になったのがこのコウジ君だったりする。

「寒いって、絶対。なんで日和田ってこんなに寒いんだか」

「ま、お前寒がりだからな。ここんとこずっと寒い寒いって言いっぱなしだし」

「事実だからだよ。こんな有様なのに、よく外でバトルなんかできるなあ」

「おっ、今日も誰かバトルしてたのか?」

「やってたよ。多分あれ、斉藤君と二組の宮部君だよ。ドードーとピジョットだったし」

「多分斎藤が宮部に仕掛けたんだろうなあ。あいつ負けず嫌いだし」

「この間はあれだよ、僕より一足先に転校してきた女子に徒競走で負けたって言って、すごい悔しがってたしね」

「早乙女だろ? あいつ走んの速過ぎんだよ。一体どんなテク使ってんだか」

とまあ、こんな具合に普通の雑談をあれこれ交わしていた僕とコウジ君だったけれど、ある時コウジ君がちょっと変わった話題を切り出してきた。

「そうだそうだ、聞いてくれよ光輝」

「まるで僕がコウジ君の話を聞き流してるみたいじゃないか。僕はちゃんと聞いてるぞ。で、どうしたの」

「昨日父さんが『パソコンの調子が悪い』って言い出して、あれこれ説明書ひっくり返してたんだけどさ、どうやってもうまくいかねえって首ひねってたんだよ。で、しょうがないからメーカーに問い合わせることにしたんだ」

「自分で調べて分からなかったら、普通はサポートに聞くよね」

「だろ? 普通に電話してたけどよ、これがなっかなか繋がらなかったからさ、何か他に手は無いかってネットで調べたんだ。そしたらさ、電話がつなぎにくいときはスカイプでも連絡取れるってのが分かった」

「へえ、珍しいね。いや、僕が知らないだけかも知れないけどさ」

「俺もあんまり聞いたことねえや。でさ、書いてあった番号にスカイプで繋いでみたんだけどさ、そこですっげえ相手が出たんだ」

「すごい相手?」

「ああ。画面に映ったのが、ポケモンのライチュウだったんだよ!」

コウジから「ライチュウ」という単語を聞いた僕は、目を大きく見開いて「えぇっ!」と言わんばかりの驚きの表情をして見せた。僕は別に狙ったわけでも何でもなく、素直にビックリしたから出た率直な反応だった。コウジ君的にはここで一番驚いて欲しかったようで、何べんも頷いて満足そうにしている。僕もコウジ君の立場で話していたら、相手が明らかにビックリしてくれたら喜ぶだろう。そして僕だって頷くだろう。

「ライチュウが電話に出るなんて、どうなってるのさ。間違い電話じゃなかったの?」

「初めは俺も父さんもそう思ったけどよ、画面見たらライチュウが制服ばっちり着込んでるし、会社のロゴが入ったバッジも着けてるし、こりゃ間違いじゃなさそうだってなったんだ」

「制服まで着てたの!? 訳の分からないことをする会社もあるもんだなあ」

「それからちょっとしたら、ライチュウが『ゴ利用アリガトウゴザイマス。デハマズ、スタートメニューニアリマス「PC健康診断つーる」ヲ起動シテ下サイ』って、ちょっと発音おかしかったけどすげえペラッペラで喋り出してさ」

「わあ……そのライチュウ、喋ったんだ……」

「父さんも初めは戸惑ってたんだけど、ライチュウがいろいろ教えてくれてさ。最後の方になるともう普通に話してて、トラブルもちゃんと解決したんだってさ。信じられねえよなあ」

「側で見てたらきっと僕だって驚くだろうね。アニメとかじゃ『ラーイ』とか『チュウ』とかしか言わないのに、いきなり『ゴ利用アリガトウゴザイマス』なんて言われちゃあ」

「だよなあ。父さんに聞いたら、前使ってたパソコンがトラブった時に電話したら、これまた片言の外国人が電話に出たらしいんだ。だから多分前は外国人を雇ってたんだろうけど、最近はポケモンになったんだな。もう人ですらねえや」

コウジ君の口にした「もう人ですらねえや」って言葉が、これまた僕の心にしっかりフックをかけて力強く引っかかってきた。そう、コウジ君の言う通り、電話の向こうでコウジ君の父さんのサポートをしたのは人ですらなかった。人ではなくポケモン、ポケモンがパソコンのトラブルを解決へと導いた。これまで人がやっていた仕事を、今はライチュウがこなしているというのだ。

もちろん、そのライチュウは特別な教育を受けた、とても賢いライチュウに違いない。どんなライチュウ、あるいはライチュウ以外のポケモンであっても、すぐに同じ仕事ができるとは僕だって思っていない。だけど、ライチュウが人に代わって仕事をこなしているというコウジ君の話は、僕にとって実に実に鮮烈な印象をもたらした。

「あのさ、コウジ君。実は昨日、僕の家でも同じようなことがあってさ」

「光輝ん家でも? そっちはどんな感じだった?」

何せ、僕のところにも「片言だけど流暢に喋って、人間がしていた仕事をこなすポケモン」がやってきたからだ。

「父さんが知り合いと話をして、ユキメノコを一匹引き取って一緒に暮らすことになったんだ。まだ背が低くて、多分僕と同い年かちょっと下くらいだと思うけど」

「えーっ、ユキメノコが? そりゃ災難だな、お前とびっきりの寒がりなのに」

「そうだよ。おまけにそれだけじゃないんだよ。なんかうちに『奉公』するって言ってさ、さっきのライチュウみたいに喋る上に、洗濯物干したりご飯作ったりして、家事までこなしちゃんだ」

「なんだ、いいじゃんそれ。家のことやってくれるなんてさ。あれだよほら、よく言うメイドみたいなもんだろ? いいなあ、俺もメイドさん欲しいよ」

「まったく脳天気なんだから。だいたい、小学生の分際でメイドを欲しがるってどうかしてるよ、クレイジーだよ。それに、ユキメノコの姿考えたら分かると思うけど、メイドって感じじゃなくてもっとこう、和風な感じだしね。ええっと、なんて言うんだっけ? 仲居……じゃあないな、女中? 家政婦? とにかく、雰囲気としてはそっちの方が近いよ」

「うーん、そいつはそいつでありだな。だけど、雪女みたいなユキメノコじゃあ、向日葵のような、ってわけにはいかねえよなあ」

「何の話さそれ。前原家乗っ取り計画とか画策されたり地下にヘンな王国とか勝手に作られたりしたらすごい困るんだけど」

コウジは能天気なところがあって、僕の考えている疑問というか懸念というか、言葉にしがたいもやもやした感情を拾ってくれるほど気は利いていない。おかげで普段はバカなことをポンポン言い合える付き合いやすい友達でもあるんだけど、今はちょっとかみ合わない感があってもどかしい。

僕らが人に混じって働くライチュウとユキメノコの話をしている横では、女子が三人ほど固まって別の話をしていた。

「この前お父さんが買ってきてくれたニャスパー、なかなか懐いてくれなくって……」

「懐きやすいポケモンと懐きにくいポケモン、両方おるからなあ。妹もこないだ拾ったクルミルなかなか懐かへん言うとったし、うちもユニラン抱けるようになるまで結構掛かったし、分かるわあ」

「そうそう、分かる分かる。でも、懐いてくれると可愛いよね。わたしのチェリンボ、機嫌がいいとほっぺをすりすりさせてきたりするんだよ。すっごく可愛いよ」

「うんうん。たまに甘えてきたりすると、可愛いなあって思うもん!」

どうやら三人とも、ポケモンをペットとして飼っているみたいだ。一人はニャスパー、その向かいにいるのはユニラン(妹がクルミル)、そして隣に座っているのがチェリンボ。どれもこれも愛嬌があって可愛らしい風貌をしているポケモンだ。僕もそれは素直に認めようと思う。きっと異議を唱える人も少ないと思う。

僕にとって彼女達とポケモンのあり方は、ごく自然でナチュラルで「よくある」ものだという印象を持った。ポケモンをペットのように可愛がる人はとても多い。僕にとっても違和感の少ない関係だ。だから、目の前にいる女子三人組が何かちょっぴり変わっているだとか、そういった気持ちは僕には無い。

ただ。

「ポケモンをペットだって考える人もいるよね、当たり前だけどさ」

思考が五里霧中を彷徨って、曖昧模糊とした感情を抱いたまま右往左往している。僕が抱いている疑問に対する答えは見つからず、そもそも答えのある疑問なのかも分からない。もやもやした気持ちが広がる、そう、このもやもやした気持ち! 雪音を見た瞬間から途切れること無く、僕はこの「もやもやした気持ち」を抱きつづけているのだ。

「何言ってんだお前。そりゃいるだろ」

「だってさ……さっきコウジ君が話してくれた『電話を取るライチュウ』とか、僕の家に来た『ご飯を炊くユキメノコ』とか、そんなポケモンだっているんだよ」

「んー……? それがどうかしたってのか?」

「いや、まあ……ただ、ちょっと引っかかっただけさ。ちょっとだけね」

僕は曖昧に言葉を濁して、それ以上コウジ君と会話しようとはしなかった。

――そうして時間は流れてゆき、あっという間に夜を迎える。

「ほーう、今日は鍋を作ってくれたのか。それも鶏団子とは、こりゃまた旨そうだ」

「さすがは雪音ちゃんね。お母さんの出番が無くなっちゃいそうだわ」

今日の夕飯は雪音が作ることになった。雪音がこしらえたのは、ご覧(と言っても、実際には言葉から判断せざるを得ないことは分かっているけれど)の通り鶏団子鍋だ。もうもうと白い湯気を立てて、土鍋の中で白菜や人参や春菊、榎茸にシメジ、そしてメインの鶏団子がグツグツと煮込まれている。母さんが作る鍋とほとんど変わらない。一目見ただけじゃ、どっちが作ったのかはまず分からない。

僕がちらりと隣の席に視線を投げかける。

「不出来デスガ、召シ上ガッテ頂ケレバ幸イデス」

僕の両親に微笑みかける雪音の顔。僕にはそれがはっきりと、はっきりと、はっきりと見える。けれど、これをどう捉えればいいのか、彼女が何を考えているのかは分からない。それはまるで雲を掴むよう、或いは霧を抱きしめるような感触で、相変わらず形の無い感情を抱かざるを得なかった。

雪音が僕の隣に座っていること、今まさに箸を取って父さんのお椀に鍋の具をよそっていること、母さんがそれを何の疑問も持たずニコニコして見ていること、そのすべてにそわそわせざるを得ない。僕の中にある「人とポケモンの関係」のイメージを、雪音はどんどん変えていく。いや、壊していく。

僕が間違っているのか、それとも雪音がおかしな存在なのか。

「光輝サン。オ椀ヲオ借リシテモ宜シイデスカ?」

悩める僕をよそに、雪音は穏やかな笑みを向けて、お椀を借りてよいかと尋ねてきた。

「えっ!? あ、うん……どうぞ」

たじろぎつつもお椀を差し出す――今の僕には、それが精一杯だった。

雪音が僕の家へやってきてからしばらく経った、朝のこと。

「……そういえば、今日は給食じゃあなかったんだっけ……」

僕は手に提げた包みを持ち上げて目の前にぶら下げながら、誰に言うわけでもなくつぶやく。

どこの学校にだって、一つや二つくらい変わった仕組みや制度はあるものだと思う。もちろん僕の学校にだってあった。毎週金曜日は「お弁当の日」というちょっとばかし安直なネーミングじゃないの的な日に設定されていて、その日は家からお弁当を持ってきて学校で食べることになっているのだ。普段の給食は教室で食べるけれど、このお弁当はどこで食べても構わないらしい。まあ、ほとんどの生徒が教室で食べてるんだけれど。

そういうわけで、僕がぶら下げている包みの中身は、お弁当だったというわけだ。

「見た目は普通だけど……凍った鮭を薄く切ったものとかが詰まってたりはしないよね……?」

僕がどうしてこんなことを考えているのか。理由は一つしかなかった。

今日がお弁当の日だということをすっかり忘れたまま、僕がいつものように靴を履き替えて外へ出ていこうとした時のことだ。

「光輝サン、待ッテクダサイ」

「雪音……?」

台所からエプロンを付けた――母さんが「体が汚れちゃうといけないから」といって買ってきた、子供用のエプロンだ――雪音がパタパタと駆けてきて、僕を呼び止めた。靴を履き替える手を止めて、雪音の目を見つめる。

「奥様カラ、今日ハ光輝サンガオ弁当ヲ持ッテ行カレルトオ聞キシテイマス」

「あっ、いけないや。今日は金曜日だっけ」

「ハイ。デスノデ僭越ナガラ、私ガ光輝サンノオ弁当ヲ作ラセテ頂キマシタ」

懐からひょいとお弁当を取り出す雪音に、僕は何度目か分からないけれど目をまん丸くした。

(雪音は一人で朝ご飯を作って、さっきまで母さんと一緒に洗濯物を干してたはずなのに、一体いつ作ったんだろう……?)

僕は雪音がこの家で誰よりも早起きをして、父さんと母さんと僕の三人のために朝ご飯を作っていることを知っている。新聞を取りにいくのも雪音だし、部屋を暖かくするのも雪音、そして朝の洗濯も雪音がやっている。それだけたくさん仕事をこなしているにもかかわらず、雪音は僕にお弁当を作って手渡してきた。一体どこにそんな時間があるのだろうと、僕は大いに首を傾げざるを得なかった。

そんな僕の気持ちは露知らずといった感じで、雪音は優しい微笑みを浮かべて僕がお弁当を受け取るのを待っているようだ。僕はほんの少しだけ躊躇いつつ、けれど他に取れる選択肢もないので、とりあえず雪音からお弁当を受け取った。僕が受け取ったのを見た雪音は例によって目を細めて微笑むと、行ってらっしゃいませ、と僕を送り出した。

「多分、大丈夫だとは思うけどさ……」

掲げたお弁当を下げて、僕はいつも通り道を歩いていく。すると、なかなかに珍しい光景と出くわした。

「あっ、見て見てリーダー! レディバが列作って歩いてる! かわいいなあ……!」

「うんうん。みんな交通ルールを守って、一列になって歩いてるんだね」

十匹くらいのレディバがぴしっと一列になって、一・二、一・二と歩調を合わせつつ、歩道の隅っこを歩いていたのだ。一糸乱れぬ動き、というほどでもなかったけれど、きちんと並んで歩く姿は確かにちょっと可愛らしくて微笑ましい。高校生くらいのお姉さん二人と、僕と同じようにランドセルを背負った小学生が数人、レディバの様子を見守っている。

と、レディバ一行が横断歩道に差し掛かる。するとだ、先頭のレディバが足を止めて左右を確認し始めたじゃないか。ぞろぞろ付いてきたレディバもピタリとストップだ。信号が青になって、ついでに車も来ていないことをしっかり確かめて、再び一・二、一・二と歩き出す。いやあ、模範的と言っていいくらいの交通ルールの守りっぷりだ。

「あたしたちも見習わなきゃね。みんなもちゃんと、信号は青になってから渡るのよ。これ、お姉ちゃんとあたしとの約束だからね!」

「はーい!!」

元気よく答える小学生たち。みんな素直で元気がいいなあ、どこか理屈っぽい僕とは大違いだ、一応僕も小学生のはずなんだけどなあ、なんて考えてしまう。それにしても、あのお姉さん二人は一体誰だろう? どこかで見たような気がするけれど、ちょっと思い出せないや。まあ、気にしてもしょうがないか。

でも――微笑ましい光景だけれど、レディバがあんなに賢いとは思ってなかった。人間の作った交通ルールをしっかり理解して、ともすると人間以上に忠実にルールを守っている。

(僕らの歳になっても、ろくに信号を見ずに横断歩道を渡るような人もいる)

(自分たちで決めたルールさえ満足に守れない。そんな人間だっているってことだ)

なんだろう、僕は少しばかりゾッとしている。人の作ったルールを理解して順応するレディバ、自分たちで決めたルールも守れない人間。それらは互いにちょっとした例外ってやつなのかもしれない。だけど例外だろうと何だろうと、実在するってことは確かだ。

もしかするとだ。ポケモンっていうのは、人間よりもずっと賢くて、いつか人間の代わりに家を持ったり、会社へ行ったり、車を運転したりし始めるんじゃないだろうか。今人間がしていることを、気が付くとポケモンがし始めるようになる。僕らの未来に待っているのは、そんな光景じゃあないだろうか。

(だとすると、僕たち人間はどこへ行くんだろう?)

その疑問に対するひとつの答えになりそうなものを、僕は小学校で見つけることに成功した。

「はいはーい。オタチちゃん、お水替えたよー」

「ミミちゃんいい子いい子。今日も大人しくしててね」

バトルフィールドの反対側にある小屋。そこでは何匹かのポケモンが飼育されていて、低学年の生徒が「生き物係」になって持ち回りで世話をすることになっている。ここから見えるのはオタチとミミロル、僕が前に見たときは、ハスボーもいた記憶がある。今は水中に引きこもっているのだろう。

僕はそれとなく今目にしている光景を頭の中でこねくり回して、オタチが水を持ってきて女の子にあげていたり、ミミロルが女の子の頭を撫でていたりするような――小説なんかでしょっちゅう出てくる「飼われている人間」的な構図を作り上げた。さっきレディバを見かけたときに考えたものと、うまい具合につながっている。

(雪音は……)

僕ら家族の食事を準備したりして、雪音は甲斐甲斐しく家事をこなしている。その働きっぷりといったら、元々あまり手伝いをしていなかった僕はおろか、母さんも出番が大きく減るほどだ。父さんも母さんも、雪音がよく働いてくれると喜んでばかりいる。

(雪音は……僕らの代わりになるんだろうか?)

本当に喜んでいていいのか。僕は先ほど思い描いたありふれた創作的ディストピア世界が、実のところ結構すぐ近くまで近づいてきているような気がして、例によって厚着に厚着を重ねているにも関わらず寒気がした。

いや、分かっている。僕は思考が飛躍しやすくて、すぐさま話がバカに大きくなってしまうクセがあるんだ。レディバや雪音のようなポケモンもいる、だけどオタチやミミロルのようなポケモンもいる。昨日中学校で生徒と一緒にトレーニングをしていた……そう、エアームドやキマワリ、チコリータのようなポケモンだっている。何か一つ例があるからといって、それを勝手に一般化しちゃいけない。当たり前のことじゃないか。

(だけど、雪音はどうなんだろう。あれは、一体何を考えているんだろう)

それでも、雪音という「僕のポケモン観」を根底から揺るがす存在がいるということは、変えようの無い事実だった。

僕は授業を受ける。教室はストーブが炊かれていて暖かいけれど、外は相変わらず灰色の空に支配されていて、一歩出るだけで身も凍るほど寒そうにしか見えなかった。

そうして時折窓の外を見つめてみると、いつしか空から雪が舞い降りていた。

(これくらいの雪だと、音もなく降ってくるんだ)

例えば豪雪地帯に降る雪だと、きっと強い風を伴ってびゅうびゅうと風を吹き鳴らしながらすさまじい勢いで積もっていくのだろう。その雪にはちゃんと「音」がある。吹きすさぶ風の音、不格好に積もった雪が崩れて地面に落ちる音、他にも僕が知らない音があるかも知れない。いや、きっとあるだろう。自然は僕なんかの想像が及ぶチャチな存在じゃない。

だけどこの辺りの――寒いことは寒いけれど、所詮本場に比べれば全然大したことない地域で降る雪には、音というものがない。音もなく忍び寄ってきて、そしていつの間にか少し積もっている。それが日和田に降る雪だ。

(日和田の雪には、音が無い)

そういう意味では、雪音は日和田の雪を思わせる存在だと思う。この地域の雪のように、音もなく近付いてくる。近付いて来てからどうするつもりなのかは分からない。ただ音を立てること無く僕のそばへやってきたのだけは事実だ。だから「雪音」という名前は言い得て妙だと僕は実感する。

「で、これがその雪音が作ったお弁当かぁ……」

お昼を迎えた僕は自席に着いたまま、雪音が手渡してきたお弁当の包みを開く。中は全然変わったところはなくて、ちゃんと冷ましてから詰められたご飯と、卵焼きを筆頭にいつも食べているようなおかずがいくつか。繰り返しになってしまうけれど、まるで何の変哲もないお弁当だ。

恐る恐る箸を取って食べてみる。卵焼き――味は普通だ、甘いやつじゃなくて、塩味を効かせた厚焼き卵。ただ、心なしかいつもより冷たい気がする。気がするだけで本当はいつもと同じだったのかも知れないけれど、僕が「冷たい」と感じたのは事実だ。

(でも、ちょっと冷たいこと以外は、全然普通のお弁当だ……)

結局僕はそのままするするとお弁当を食べていって、すっかり空っぽにしてしまった。

(ホントに……これでいいのかな?)

僕の戸惑いというかもやもやは少しも晴れること無く、逆に大きくなっていくばかりなのだった。

さて、僕はそのまま特に何事もなく――特筆すべきようなこと、面白いことも変わったことも危険なことも何もなく――授業を受けて、まっすぐ家へ帰ってきた。この時間は父さんも母さんも仕事に出ているから、家には誰もいない。

「オ帰リナサイマセ、光輝サン」

……彼女を、雪音を除いては。

「た……ただいま」

僕はまだ彼女に馴染めずにいて、話しかけられると答えるときにどうしてもどぎまぎしてしまう。彼女の方は僕に丁寧に接してくれようとしているのだけれど、知ってのとおり僕はあれこれいらないことを考えてしまう性質だ。彼女の仕草や言葉一つに、する必要の無い想像をしてしまう。

とりあえず形だけ挨拶をして横を通りすぎていこうとした僕の手に、冷たい感触が触れた。

「わっ……!?」

雪音が僕の手を取って立ち止まらせたのだ。ユキメノコ特有の冷たい手のひらの感触が僕を震え上がらせる。この冷たさは雪音の体温の低さということももちろんあったし、幽霊というか霊的な存在だから――という理由もあった。背筋が寒くなる、そうその言葉が正しい。

「光輝サン、オ待チクダサイ」

「どっ、どうしたっていうのさ……?」

な、何を言われるんだ、何をされるんだ、と僕が身構えていると。

「――オ弁当箱ヲ、預カラセテ頂ケマスカ?」

「へっ? あ、ああ……弁当箱ね、弁当箱……」

何のことはない。雪音は僕が使った弁当箱を預かりたいというだけのことだった。僕が持っていた包みごと弁当箱を手渡すと、雪音はいつものように丁寧に頭を下げてそれを受け取った。

やれやれ、僕はどうも神経過敏になってしまっていけない――思い直して改めて歩き出そうとしたところ、

「アノ、光輝サン」

「……ど、どうかした? まだ何かあったっけ?」

またしても雪音が僕を呼び止めてきた。今度は一体どうしたっていうんだ、水筒か? 水筒は今日は持っていってないし、そうじゃなきゃ何だ、服を脱いで洗濯させてほしいとかか、やだよ寒いのに、と僕がひとり気を揉んでいると。

「オ弁当ハ……如何デシタカ?」

「お、お弁当……?」

「ハイ。上手ク作レテイタカ……気ニナッテイマシタ」

どうやらあれだ……お弁当の出来はどうだったか、僕の口に合ったかが知りたかったらしい。心なしか、あくまで僕の勝手な印象に過ぎないけれど、いつもより少しだけ表情が柔らかいように見える。理由は分からない。どう答えようか、どう答えればうまくこの場を切り抜けられるだろうか、僕は懸命に思考回路をぶん回して、どうにか答えをひねり出した。

「ええっと……大体大丈夫だったよ、普通に食べられた、大丈夫だったよ」

「ただ、なんだろう……気のせいかも知れないけど、ちょっとだけ冷たい気がしたかも……それだけかな」

僕はそう言うとくるりと向き直って、奥にある自分の部屋へ早足で入ってしまう。雪音がどんな顔をしているか、僕にそれを確かめるだけの勇気は無かった。とにかく一秒でも早くこの場から離れてしまいたかった。一刻も早く一人になりたかったのだ、僕は。

部屋に入ってランドセルを机の上へどっかと置いてから、僕はベッドへごろんと寝転がる。するとだ、忙しなく高ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。

(さっきはあんな風に言ったけど……あれで、よかったのかな……)

どこか――こう、冷たい印象を与える言葉だったんじゃないか。味は全然問題なかったんだし、何も考えず普通に「おいしかったよ」とだけ言ってあげた方がよかったんじゃないか。ただほんの少し「冷たい」気がした、わざわざそれを強調して言うことにどれだけの意味があったのだろう。

僕の言葉もまた「冷たい」ように聞こえたんじゃないか。僕は「冷たい」のが嫌いなのに。

「……まあ、大丈夫だよ。きっと」

自分の耳に届くようにわざと言葉を口に出して、僕はそこで無理やり思考を断ち切る。もっと気持ちを切り替えたくて、そばに転がしてあったニンテンドー3DSを拾い上げる。学校で考えたルカリオのコンボ練習をしよう、ダミーはこの間手こずらされたダックハントがいい、場所はランダムでいいや。ボタンをポンポン押して進めていき、ランダムで選ばれたステージは。

「このステージ……『秋・冬』から始まることもあるんだ……」

降りしきる雪がずいぶんと寒々しい、なんとも「冷たい」印象を与える――ヨッシーアイランド<秋・冬>、だった。

翌日は土曜日で、僕は家でくつろいでいた。

「……やっぱりロックマンは合わないや。なんかこう、強くなりそうな部分はあるんだけど……」

くつろいでいたというより、ただボーッとしていたと言う方が正しかった、けれど。だらだら遊んでいた3DSをパタンと閉じて、ベッドの上でうだうだと身をよじる。僕は元々何かを作ったり書いたり描いたりするような趣味は無くて、そういうのは大体苦手だったけれど、それでも今こうしてベッドの上で丸太のようにごろんごろんしているのは、明らかに時間の無駄遣いだなあ、と自覚する。だからどうするってわけでもないけれども。

何もせずにただ時間を食いつぶす。軽い罪悪感を覚えながら、それ以上の倦怠感が勝って体をろくに動かせずにいた僕は、ふと空気が少し冷たくなったことに気が付く。

(何だろう……この、少しずつ寒くなっていくような、むずがゆい感触は……)

冷気の出所が気になる。僕はゆっくり身を起こして部屋から出ると、冷たい風がどこから来ているのかを探り始めた。

お風呂場は違う、トイレは違う、キッチンも違う、リビング――ここから流れてきているような気がする。だけど窓が開いていたりするようなこともない。だとすると、その奥にある和室が怪しい。足音を立てないように恐る恐る、僕はリビングを抜けて和室へ足を踏み入れる。明らかに寒さが増した、そう感じた僕が見たものは。

「……雪音……?」

庭につながる窓を開けて、外で洗濯物を干している雪音の姿だった。

通りで寒い訳だ、なんたって窓が全開になっているんだから。冬の冷たい風がひっきりなしに吹き込んできて、立っているだけで凍えそうになる。雪音がまるで気にしている様子を見せないのは――まあ、彼女はユキメノコだし、寒いのはまるでへっちゃら、むしろ心地よいくらいかも知れない。

とはいえ僕はへっちゃらでもなんでもない。僕は雪音に向かって声をあげた。

「雪音っ、ちょっといい?」

「光輝サン」

干しかけていた洗濯物をカゴへ戻して、雪音が僕の方に駆けてくる。

「ドウシマシタ?」

「えっとさ……窓開けてると寒いから、悪いけど、閉めてくれない?」

僕がそっと開けたままになっている窓を指差すと、雪音がハッとしたように口元へ手を当てて、慌てて窓の方へ向かって行くのが見えた。そのまま外へ出てきちんと窓を閉めると、僕に向けて深々と頭を下げて、申し訳なさそうな顔をして見せる。僕はどう応えればいいのか分からなくて、曖昧に頷いてから目線を離す。

視界の外で、雪音が再び洗濯物を干しはじめる。僕はそれをしっかり見ようとはせずに、顔を俯けたまま歩いて歩いて、そのまま自室まで戻ってきてしまう。ベッドに飛び乗って天井を見上げ、ふう、と大きなため息をつく。それでも気持ちは晴れなくて、胃もたれに似た感覚が僕をシクシクと苛む。

(やっぱり……言い方がよくなかったかも知れないなあ……)

雪音には僕の言葉はどう聞こえただろう。ひょっとしたら、突き放されただとか、抗議されただとか、そんな風にも聞こえたかも知れない。雪音を前にするとどこか身構えてしまう僕がいる。言葉が他人行儀というか余所余所しいのは、きっとそんな僕の気の持ちようが現れているに違いなかった。

「だって、僕は寒いのが嫌いなんだ。雪音が窓を閉めてくれればそれでいいんだ」

そして前と同じように、思いを口に出すことで自分に言い聞かせる。クセのようなものだった。

さっき雪音の見せた申し訳なさそうな顔が思い浮かんでは、ぶんぶんと頭を振ってそれを振り払おうとする――僕はそれを繰り返して、どこか鬱屈した時間を過ごすことになったのだった。

それからも、僕は雪音とうまく付き合えずにいた。休みの日になると決まって父さんも母さんも出かけてしまって、僕と雪音が家へ残されてしまう。つまり、二人っきりになってしまうってことだ。わざわざ言うまでもないかも知れないけど。

「あら光輝、出掛けるの?」

「うん……まあ、ちょっと外に出たくなって」

「寒がりなのに珍しいわね。いいわ、行ってらっしゃい。お母さんも出掛けるから、ちゃんとカギを持っていくのよ」

雪音と一緒に気まずい時間を過ごすくらいなら、まだ外にいた方がマシだ――僕はそう考えて、いつものように帽子マフラー手袋ジャンパーマスクで完全防備を固めて、寒風吹きすさぶ外へ足を踏み出すのだった。

ひゅううう……というより、ごおおおおぅ……という音を伴う風をもろに浴びながら、日和田市内をふらふら歩く僕。当然目的地なんて無い。なんとなく時間を潰しているだけだ。僕自身すごく時間を無駄遣いしているという実感は強くあったけれど、それを差し引いても雪音と一緒にいるのは落ち着かなかったのだ。

「向こうは僕にあれこれ話しかけてくるし、時々おやつだって持ってきてくれる」

「でも、やっぱりどこか落ち着かないんだ……」

――これは、少し前のことだ。

「光輝サン」

「ど、どうしたの? 雪音……」

僕が部屋で本を読んでいると、雪音が入り口から声を掛けてきた。僕が慌てて入り口へ向かうと、彼女はお盆の上に何かを載せて立っていた。

「こ、これは……」

「オ汁粉ヲ作ッテミマシタ。召シ上ガッテ頂ケマスカ?」

雪音が持ってきたのは、何の変哲もない……ように見えるお汁粉だった。赤いお椀に小豆がたっぷり入って、中に白玉がいくつも浮かんでいるのが見える。僕は甘いものが好きだったから、普段ならきっと喜んで食べていただろう。

ただ、雪音がいきなりお汁粉を作って僕のところへ持ってきた理由が分からず、僕は困惑するばかりだった。

「これ……雪音が作ったんだよね?」

「ハイ。光輝サンガ、奥方様ノオ作リニナラレタオ汁粉ヲ美味シソウニ召シ上ガッテ居ラレタノデ、僭越ナガラ私モ作ッテミタクナリマシテ」

「な、なるほど……」

一応理由は納得できた。この間母さんが「久しぶりに作ってみたくなった」と言って、雪音も含めた四人分のお汁粉を作ったのだ。僕がその時おいしそうに食べているのを見て、雪音も同じように作ろうと考えたらしい。で、作ったそれを僕に食べてほしいそうだ。

(どちらかと言うと、僕よりも父さんや母さんに作ってあげた方がいいんじゃないかな……)

お汁粉を作ってくれたことは別によかったけれど、それなら僕なんかより父さんや母さんに作って食べさせてあげたほうが、もっとたくさん喜んでもらえるんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。だって僕は普段彼女に「素っ気ない」と思われても仕方ない態度ばかり取っていて、対する父さん母さんは「雪音ちゃんは働き者だ」「雪音ちゃんはよく気が利く」とべた褒めだ。お汁粉なんて作って持っていったら、諸手をあげて喜ぶに違いない。

とは言え、雪音が僕にお汁粉を作って持ってきたのは事実だ。僕はちょっとこわごわお椀を受け取って、そのまま机まで持っていく。とりあえずさっさと食べてしまって、後で片付けに行こう――。

「アノ、光輝サン」

「えっ? どうしたのさ」

「不躾デスガ……光輝サンがオ汁粉ヲ召シ上ガッテラッシャルトコロヲ、オ側デ見サセテ頂イテモ宜シイデショウカ?」

僕の考えを見透かすかのように、雪音がしれっと、本当にしれっと、なかなかとんでもない申し出をしてきた。僕がお汁粉を食べているところを側で見させてほしい、彼女が言ってきたのはそんな言葉だった。ええっ、と僕は言いそうになってどうにか押しとどめる。まさかそんなことを言われるだなんてもちろん想像していなかったから、僕は返答にとても困った。

だけど雪音を遠ざける理由もないし、うまい言い訳も見つからなかった。

「い、いいけど……そんな、見て楽しいものでもないと思うけども」

「アリガトウゴザイマス。私ハタダ、光輝サンノ姿ヲ見ラレレバ十分デス」

そういうわけで、僕は雪音に見られながらお汁粉を食べることになったのだった。

(いやあ、あれは緊張したなあ……)

(椅子に座って僕がお汁粉を食べる様子を、雪音がベッドに座ってじーっと見てるんだから)

(僕がちょっと振り向くと、雪音は目を細くして笑ってたっけ)

(何かこう……別の考えがあるんじゃないかって、気が気じゃなかったよ)

ガチガチに緊張しながら食べていたせいで、味がどんな風だったとかは全然覚えていない。特に違和感なく最後まで食べられたから、まずいってことはなかったはずだと思う。だけど、いまいち自身が持てない。

とまあこんな具合に彼女と一緒にいるだけでいろいろと心臓に悪かったので、僕は寒いのを承知で外へ出ることにした。

ただ。

(いつまでもこんな風にしてていいのかな……)

僕の中では――少しずつ、そんな葛藤が生まれはじめていた。

事件が起きたのは、雪音が家へやってきてから一月ほどが経った頃のことだった。

「……ただいま」

家へ帰ってくるときは、こうして必ず「ただいま」と言うようにしている。平日は父さんも母さんも仕事で家を空けているから、こうして「ただいま」と言ったところで返事はないって分かってる。

けれど、今は違う。雪音が家にいるのだ。僕が「ただいま」と言うと、決まってリビングの方からパタパタと掛けてきて、頭を下げながら「お帰りなさいませ」と恭しく返事をする。僕はそんな風に頭を下げられると却って恐縮してしまって、いつも曖昧に言葉を濁しながら自分の部屋へ逃げ込んでしまう。そう、僕は未だに――もう丸々一ヶ月は経ったというのに、雪音との距離感をつかめずにいたのだ。我ながら情けない! 僕はいつもそう考えるけれど、人の言葉を話すユキメノコという特異な存在である雪音とどう付き合っていけばいいのか、全然答えを出せそうになかった。

で、今日も今日とてもやもや感を抱えたまま、いつものように「ただいま」を言う。きっと雪音がこちらへ走ってくるに違いない、僕はそう踏んでいた――けれども。

「……あれ? 雪音……?」

今日に限って、雪音の声が聞こえてこない。どこか買い物へ出ているのだろうか、そう思って、そんなはずはないと直ちに否定する。雪音が買い物で出掛けるのは決まって午前中だ。午後からは趣味の読書をして過ごすから、家事は午前中にすべて片付けてしまうのが常だったのだ。買い物じゃあないとすると、他に行くような場所は思い浮かばない。だから、出掛けているとは思えない。

じゃあ、どこへ……? 僕が静かに家へ上がると、奥の方から何か音が聞こえてくるのが分かった。

(水の音……?)

水の流れる音、それも水道からちょっぴりずつ流しているのではなくて、もっとたくさんザアザアと流しているような音だ。

間もなくその音が消えて、家の中全体に静寂が訪れる。僕がなんとなく緊張しながら通路で突っ立っていると、後ろからひたひたと何かが歩いてくる音が聞こえて、僕は何事かと後ろへ振り返った。

「ゆ……雪音……!?」

「――光輝、サン……」

バスタオルを巻いた雪音が――僕のすぐ後ろに立っていた。

「雪音……その、恰好……」

どうやら、水浴びをしていたらしかった。頭からはぽたぽたと水が滴っているのが見える、間違いない。

雪音は普段、以前住んでいたところから持ってきた子供用の着物を着ている。元々着物を着ているようなフォルムだけど、人様の家で住まわせてもらうのだからと言って、いつでも服を身に着けていたのだ。だから、そうそう人前に裸を晒すようなことはなかった。もちろん僕だっていっぺんたりとも見たことなんてない。雪音も服を着るのが常識になっていたので、そういう意味では服に対する考え方は人間のそれと何も変わらないと言えた。

それはともかく、今の雪音は水浴びを終えたばかりで、言うまでもなく何も身につけていなかった。そりゃそうだ、これから体を乾かそうとしているところなのだから。つまり端的に言うと、ほとんど裸そのものだった。かろうじてバスタオルが巻かれているだけだ。

こんな状況で、互いにまともでいられるはずなんてなくて。

「……!!」

「……ぼ、僕は見てないからっ、僕は……!」

慌てて体を隠す雪音の姿を見た僕は間違いなくそれ以上に慌てていて、とにかくこの場から立ち去ることを最優先に動いた。雪音の横をすりぬけて、早足で自分の部屋へ向かう。

だけど、ここでさらなるトラブルが僕を襲う。

「う……わっとぉ!?」

床が水で濡れていたせいで、僕は足を滑らせて思い切り転んでしまったのだ。仰向けに転んで背中を打つ僕を見た雪音がこっちに駆け寄ってくるのが見える。いけない、と僕は目を見開いた。そもそも僕が転んでしまったのは、濡れた床の上を急いで歩こうとしたからだ。なのに走ったりしたらどうなるかなんて、火を見るより明らかで。

雪音の体がふわりと浮き上がったように見えたのは、その直後だった。

「……っ!?」

「えっ……わぁぁあっ!?」

僕以上に見事にすっ転んだ雪音が、どういうわけか空中でくるりと回って、ちょうど僕の上へ覆い被さる形になった!

「コ……光輝、サン……」

「ゆ、ゆ、ゆ……!」

雪音の瞳が僕の姿をとらえる、僕の目が雪音の顔を映し出す。あんまりにもあんまりな状況に、僕の頭はもう完全にパニック状態だ。目の前には雪音がいる、それも並大抵の距離じゃない! 10センチだって隙間は無いだろう。いわゆる密着状態ってやつだ。とんでもない状況だ!

おまけに冷たい、全身がひどく冷たい! 背中は濡れた床のせいでびしょびしょになっていたし、上からはぞっとするほど冷たい躰の雪音にのしかかられている。僕は意識して雪音と触れないよう心がけていたから気付かなかったけれど、本当に気が遠くなるような冷たさだ。伊達に「こおり/ゴースト」なんていう身も心も凍えるようなタイプをしているわけじゃない。極寒の地・シンオウ地方で発見されたのも道理だと言いたくなった。

(ど……)

(どうして……僕が、こんな目に……!)

全身を包んでいく冷たさに、僕はやり場の無い憤りを抱きはじめた。なんだって家に帰って来たのにこんなに寒く冷たい凍える思いをしなきゃいけないんだ。奥底で誰かが応える、それは雪音のせいだ、雪音が僕の家へ来たからだ。雪音が来たりしなきゃ、こんなことにはならなかったんだ!

雪音は僕や父さん母さんのためによく働いてるじゃないか? いいやそれとこれとは関係ない! 雪音がポケモンのユキメノコだからって区別する必要はあるのか? だって喋るポケモンなんて見たことない! そもそも雪音は僕に危害を加えようなんて少しも思ってないんじゃないか? そんなことはない! だって僕は今こうやって、氷漬けになりそうなくらいの冷たさに襲われているんだ!

「ス、スミマセン、光輝サン……!」

雪音に対するあらゆる感情が綯い交ぜになった僕の頬に、雪音がこわごわ手を当てる。

かあっと紅潮して熱くなっていた頬に、水でびしょ濡れにしたタオルを真冬の風にたっぷり一時間当てたような、雪音の冷たい手のひらが降れるにいたって、僕はついに気持ちを抑えきれなくなった。

「やめるんだ!」

「……っ!?」

僕は声を荒げて雪音の手を払いのけると、身をよじって雪音から大きく離れて、どうにかこうにか立ち上がった。

「僕は……僕は『寒い』のが苦手だ、すごく苦手なんだ」

「ましてや『冷たい』なんて……! 耐えられない、大嫌いだ!」

自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ口を付いて出てきた言葉を、感情に任せて吐き出すばかりだった。

「お願いだから、もう僕に関わらないでくれ! そっとしておいてくれ!」

僕はもう雪音の姿を見ているのもつらくなって、目を背けたまま自分の部屋へ向かって突き進んでいく。後ろから雪音が僕の名前を呼ぶのが聞こえる、だけどもう振り返らない、振り返れるわけなんてない。そのまままっすぐ進んで自分の部屋のドアを押し開け、転がり込むようにして中へ入る。

びしょ濡れになったシャツとズボンを脱いで、部屋に置いてあった替えの服を着てしまうと、僕はもうそれ以上何もしたくなくなって、ベッドへ入り込んで頭の先まで布団をかぶった。

(僕は……雪音に、なんてことを……)

(だけど……だけど! しょうがないんだ、こうするしかなかったんだ……!)

やり切れない感情が、いっぱいにあふれてきて。

「……ちくしょう!」

僕は、枕に拳を叩きつけるのだった。

翌日の朝の気の重さといったら、そりゃあもう尋常なものじゃなかった。生まれて初めて「どこも具合が悪くないはずなのに体がまったく動かない」なんて出来事に出くわしたぐらいなんだから。

僕は部屋の中でずっとうだうだしながら、雪音にどんな顔をして会えばいいのか悶々と考えつづけるばかりだった。何かを食べる気なんてこれっぽっちも起こらなくて、お腹は少しも空かなかった。だから余計に部屋から出る理由を見つけられない。僕は本当にどうしようもなかった。本当にどうしようもなかった。

昨日衝動的に雪音を怒鳴りつけてしまった僕だけれど、あの時感じた怒りの感情は、朝起きてみるとすっかりクールダウンして消え失せてしまっていた。残ったのは、ただ気まずさだけ。

結局何もできないまま、僕は登校時間を迎えてしまう。

「……光輝、サン」

「……」

出掛けようとした僕の背中から、雪音の声が聞こえた。僕は内心ドキリとしつつ、恐る恐る後ろを振り向く。

「スミマセン……宜シケレバ、是ヲ……」

彼女が僕に向かって差し出したのは――いつも彼女が僕に持たせてくれる、ごく普通のお弁当だった。

気まずさのあまり何も言えないまま、僕はお弁当箱を受け取る。行ってくる、ただ一言言うのが精一杯で、僕はそれ以上どうすることもできなかった。そのままドアを押し開けて、外へ出て行ってしまう。

ドアを占める間際。

「コホッ……コホコホッ……」

雪音が、少し咳き込んでいたような気がした。

僕はいつも通り学校へ行った。だけど、そこで何をしたのかよく覚えていない。それくらい、僕の心はかき乱されていたっていうことだ。

(これから雪音とどう接していけばいいんだろう……)

雪音。人の言葉を話して、人の代わりに仕事をするユキメノコ。未だに僕は彼女との距離感を掴めなくて、だけど心のどこかで、そんな僕自身のことが嫌になりつつある。つまらないことにこだわって、どうでもいいことを気にしている。そんな自分を意識せずにはいられない。この上なく居辛い思いだ。

公園に差し掛かる。いつもは何気なく通り過ぎている、ちょっと広めの児童公園。この寒さじゃ遊ぶ子なんていないんじゃあないか、そう思いつつ中を覗いてみる。

「なんだろう? あんなに集まって……」

すると、だ。僕の思いとは裏腹に、公園の中心には小さな人だかりができているじゃないか。なんとなく気になってきて、吸い込まれるように公園へ足を踏み入れる。

人だかりに近づくと、微かに聞こえていた何かの「音」が、徐々に大きくなっていくのが分かった。これはただの音じゃない、何かの「歌」だ――僕は認識を改める。人だかりの向こうには歌を歌う誰かがいて、皆はそれに見入っている、いや聞き入っているらしい。誰だろう、僕はいっそう興味を引かれる。

惹かれるままに人と人との合間を縫って静かに前へ出ると、そこにはこんな光景が広がっていた。

肩に提げた小さなキーボードを使って、電子的な、けれど生き生きとした音色を奏でるお姉さん。その隣でコーラスをする、ミミロップのような長い髪のお姉さん。二人の間に立ってノリノリでドラムの音を発している、アフロを被ってサングラスを掛けたちょっと風変わりなポリゴン2。

そして、舞台の中央には。

(――あれは……プリン?)

(だけど……『人の声』で歌ってるじゃないか……!)

はっきりとした「人の声」で歌う、プリンの姿があった。

僕は思わず目を奪われた。誰がどう聞いたって、あるいは聴いたって、あのプリンは人の声で歌っている。僕はてっきりあの二人のお姉さんのうちどちらかが歌っているとばかり思っていたけれど、それは間違いだった。歌っているのは紛れもなくプリンだ。中央にいて、キーボードのお姉さんとコーラスのお姉さん、そしてポリゴン2にアシストをしてもらっている――

――「ポケモン」の、プリンだ。

「みんなーっ! わたしたち『STAGE4』の歌、聴いてくれてありがとーっ!」

「お送りしたのは『Camel』『Coyote』、そして『JET』の三曲でしたーっ!」

キーボードをぶら下げたお姉さんが高らかに声を張り上げると、ギャラリーが一斉に拍手で応える。お姉さんたちのストリートライブはこれにて終了、といったところだった。

周りの人たちの様子を見る。みんな満足していて嬉しそうだ、いい歌を聴けたぞって顔つきをしてる。終了間際に駆け込みで入った僕だって似たような感想を抱いたんだから、初めから終わりまでいた人はさぞかし心地よかったに違いない。それだけの魅力があの歌にはあったと、僕には言い切れる。

観衆がひとり帰りふたり帰りしてゆき、少しずつ人影が姿を消していく。そんな中にあって、僕は未だにこの場を離れられずにいた。できることなら話をしてみたい、話をして――あのプリンのことをもっとよく知りたい。僕はそんな思いをもって、後片付けをするお姉さんたちの姿を見続けていた。

「お疲れ様♪ プリカちゃん、今日も絶好調だったね!」

「もっちろん! みんながいれば怖いものなしなんだから!」

「HAHAHA! 相変わらずプリカはTSUYOKIなヤツだZE!」

「プリカさん、とっても素敵でしたよ! 私も負けないように、がんばります!」

「そうこなくっちゃ! 次はあたしがコーラスを担当するから、メインボーカルは任せたわよ!」

じゃ、ちょっと飲み物でも買ってくるわ。そう言付けて、プリカちゃんと呼ばれたプリンが軽快に走り出す。一緒にいきますっ、そう言って、コートを羽織った長い髪のお姉さんも後から駆けていく。その様子をぼうっと見つめる僕。

「どうしたのかな? そこのキュートなキミっ」

「えっ!? ぼ、僕のこと……ですか?」

「うふふっ、そうだよ! だって、他に誰もいないしね」

「YES! そこの重装備BOY、いったいDo-したんDai?」

残っていたお姉さんとアフログラサンのポリゴン2が声をかけてきたのは、まさしくちょうどその時だった。僕は一瞬たじろぎながら、ちゃんとふたりの目を見て話をしなきゃいけないと、一度姿勢を正した。

「えっと……すみません。一つ、訊いてもいいですか」

「いいよ。どんなことかな?」

「あのプリン、確かプリカちゃんでしたっけ。プリカちゃんが『人の言葉』を話してて、その……不思議に思ったりとかってしないんですか」

「うんうん、いい質問だね。プリンがしゃべってたら、確かに気になっちゃうよね。だけど、わたしは全然『ヘンだなー』とか『フシギだなー』って思ったことはないよ」

「それは……どうしてですか?」

「答えは簡単! プリカちゃんは――」

お姉さんはウインクをして、僕にこう告げた。

「わたしとずっと一緒にいる、家族だから、だよ」

思わずハッとさせられた。お姉さんの表情が一層穏やかなものになったのを目の当たりにして、僕は自分の表情が劇的に変わったのだということを実感することになった。

「人間でも、アンドロイドでも」

「自然にいるポケモンでも、人の作ったポケモンでも」

「一緒にいて、お互いに心が通い合ってれば、それは家族だよ」

ね、ゲロッパ。そう言いながら、ふわふわと宙に浮くポリゴン2とハイタッチを交わす。

「So Coooooool! マリカchanのKOTONOHA、SOREGASHIのKOKOROにCritical HitだZE!」

「あははっ♪ ゲロッパったら、大げさなんだから」

ポリゴン2……彼にもまた「ゲロッパ」という名前があるみたいだ。ゲロッパが嬉しそうにしているのを、僕は食い入るように見つめる。

二人の姿は本当に楽しそうで、本当に楽しそうで。

とても――楽しそうで。

「……あのっ、聞いてください!」

「僕の話を、聞いてくださいっ!」

気が付くと、僕は口火を切っていて。

「――いいよ、言ってみて。なんかこうホラ、話したそうな雰囲気だったし!」

「YEAH! 青春にONAYAMIは付き物! YOU、話しちゃいなYO!」

本当に、無意識のうちに。

「僕の家に……雪音っていう、ユキメノコが来たんです」

ずっと胸の中に秘めていたことを、吐き出し始めていた。

「父さんが知り合いから紹介してもらって、うちで奉公してもらうことになったんです」

「カタコトだけど人の言葉を話して、僕たちに挨拶なんかもしたりして」

「それに、掃除とか料理とか、家事をたくさん仕込んでもらってるって話で」

「実際にやってもらったら何やってもすごく上手で、ホント、母さんもびっくりするくらいで」

「父さんも母さんもすっかり気に入って、雪音ちゃん、雪音ちゃんって」

「だけど……僕は、雪音のことをどう受け入れたらいいのか分からなくて」

僕のたどたどしい、その場その場で浮かんだことをただ口にしただけの言葉を、お姉さんもゲロッパも、真摯に耳を傾けてくれている。時々頷いているのを見て、ちゃんと僕の言葉を拾い上げてくれているのだと実感する。

「雪音は僕に親切にしてくれるし、気に掛けてくれてるのだって分かる……分かってるつもりなのに」

「人の言葉を話すポケモンなんて見たことなかったから、どうしても前へ踏み出せなくて」

「なんて言えばいいのか……人とポケモンって、完全に別々で、別々の生き物で、そう思ってて」

「そう、思ってたら……お姉さんたちがストリートライブしてるのを、この公園で見かけて」

「さっきまで真ん中にいたプリンが――プリカちゃんが、人の声で歌ってて、みんなそれを楽しそうに聴いてて」

「どうしても気になって話を聞いてみたら、『一緒にいる家族だから』って言われて」

さっきの言葉を、僕はきっと生涯忘れることはない。何の根拠もないのに、僕の心はそう信じて疑わなかった。

「僕は……僕は、やっと気付いたんです」

「人とか、ポケモンとか、言葉を話すとか話さないとか、そういうことの前に、そんなのよりずっと前に!」

「雪音は……僕たちの家族になったんだって」

ここまで一息にまくし立てて、全部ぶちまけて、僕は――やっと、自分の気持ちに整理を付けられたという感触を得た。

「こんなに単純なことだったのに、雪音はただ、僕たちの輪に入りたいって願ってただけなのに、僕は……」

「うんうん。気持ちが追いつかなくって、ちょっとつれなくしちゃった、ってところかな?」

「……そうです。ちょっとしたことで、きついこと言ったりして……」

「分かる分かる。いろんなこと考えちゃって、つい突き放しちゃう。誰にだってあることだよ」

「僕、これから一体どうすれば……雪音に、なんて言えば……!」

情けない弱音を吐いた僕の背中を、お姉さんがポンとたたく。

「答えはカンタン。素直になるのが一番だよ」

「今キミが抱いてる気持ち、それをそのまま、ユキネちゃんに伝えてあげる」

「それが、一番ステキだよ!」

僕はその言葉に、強く背中を押された気がして――気が付くと、僕はまっすぐに走り出していた。

「がんばってね! ココロを込めて話をすれば、きっとユキネちゃんにだって伝わるよ!」

「Good Luck! 今度はNICONICO笑顔で会おうぜ! 重装備BOY!」

雪音が待っている――僕たちの家に向かって。

「はっ、はっ、はぁ……!」

僕はランドセルを揺らしながら走った。とにかく走った。ひたすら走った。一分でも早く、一秒でも早く、家へ帰って雪音と話がしたかった。彼女と話をしなきゃいけない! その一心が僕を前へ前へ突き動かした!

謝らなきゃ、雪音に謝らなきゃ。心の中で繰り返し繰り返し何度もつぶやく。今僕の心に迷いはない。あるのはただ一つ、雪音に「ごめん」と言わなきゃいけないってこと、ただそれだけだ。

(僕は、どうしてあんなに頑なだったんだろう)

ただ悔やむ他なかった。少し前までの自分の態度を、雪音に向けていた自分の気持ちを!

(雪音に謝って、雪音は僕たちの家族なんだって言ってあげないと)

(そうしないと……一番側にいる僕がちゃんと受け入れなきゃ……雪音はいつまで経っても家族になれない!)

(家の中で一人ぼっちで、ずっと寂しい思いをすることになる……そうなったら僕の責任だ!)

今までのことを振り返って、僕は改めて雪音のことを思う。

本当は、ずっと気になっていた。ここへ一人でやってきた雪音のことが、見ず知らずの人に囲まれて暮らすことになった雪音のことが、ずっと気になっていた。なら、それをきちんと表に出して伝えるべきだったのに、おろかな僕はそれをしなかった。気持ちを正直に伝えるための勇気を持てなかった。

カタチのない「常識」みたいなものに流されてしまって、つまらないことで迷ってしまっていた。本当につまらないことだ。それがいったい、どれほど雪音を傷付けてしまっただろう! 僕は本当にバカだ、どうしようもない大バカだ!

(雪音に謝るんだ、冷たくしてごめん、酷いことをしてごめんって)

(本当に冷たかったのは雪音じゃない、僕の方だ。僕の方がずっと冷たいことをした!)

僕は走った、走って走って走りまくって、いつもよりもずっと早く家まで舞い戻った。

「雪音っ!」

門扉を開け放ってドアを開くと同時に、僕は彼女の名前を呼んだ。

けれど、普段ならすぐに顔を見せてくれるはずの雪音が、今日に限っては影もカタチも見えない。自分の部屋へ邪魔っけなランドセルを放り込むと、僕は家の中を探し始めた。

「雪音っ、どこにいるの!?」

「僕が悪かった! 本当にごめん! 遅くなったけど、謝らせてほしいんだ!」

雪音の名前を何度も呼びながら、僕は家の中をドタバタと駆けずり回る。気付かない内に、僕はキッチンの前へやってきていて。

そこで、僕が見た光景は。

「……雪音っ!?」

キッチンの床でうつ伏せに倒れている、雪音の姿だった。

「どうしたの!? 雪音っ! しっかりして!」

「う、うぅ……」

僕が慌てて雪音を抱き起こす。こうやって彼女の躰を抱き上げてみて初めて、雪音がすごく細い、華奢な体つきをしていることを実感する。

そして僕はハッとした。冷たいはずの雪音の肌が、人肌のような熱を持っていることに。

(雪音……まさか、風邪……!?)

朝出かける直前、雪音が咳き込んでいたことを思い出した。あの時はこれといって気に掛けていなかったけれど、あれは風邪を拗らせていたからに他ならない。そうだ、雪音は風邪を引いて熱を出してしまったんだ。

だったらいつまでもこんなところで寝かせてちゃダメだ、僕はそう思い至って、すぐさま雪音を背中へ負ぶった。本当に軽い、ほとんど重さというものが感じられない。こんなか弱さを感じるなんて思ってもみなかった。僕が今までどれだけ雪音のことをちゃんと見ていなかったかを、彼女のことをきちんと知ろうとしていなかったかを、それはもう嫌というほど思い知らされる。本当に、嫌になるくらいだ。

「しっかりするんだよ、雪音! 僕がすぐに部屋へ連れていくからね」

僕は雪音の部屋のドアを開ける。彼女が来るまでは物置だった部屋だ。母さんが少し片付けて使えるようにした、そんな話を聞いた気がする。中は整然と片付けられていて、雪音の几帳面さが見ているだけで伝わってくるようだ。ベッドの掛け布団を上げて、雪音をそっと寝かせてやる。苦しそうだった雪音の呼吸が、少しだけ和らいだように感じた。

彼女を寝かせてから、ふと右手に目をやったときのことだ。

「これは……前に母さんが読んでた料理本じゃないか。付箋がいっぱい挟んである……」

机の上に置かれていた一冊の本。雪音が母さんからもらったんだろう、少し古びた料理のレシピ集だった。手に取ってみると至る所に付箋が貼ってある。真新しいから、きっと雪音が挟んだに違いない。僕は震える手で、そっとその一つを頼りにページを開いてみた。

「『じゃがいものクリームシチュー』……」

「『和風ポトフ』……」

「『温玉肉そば』……」

「『ふろふき大根』……」

「『白玉入りお汁粉』……これ、みんな『温かいもの』『熱いもの』じゃないか……!」

僕は今一度、頭を鈍器でぶん殴られたような衝撃を受けた。

雪音が付箋を付けて作り方を勉強していたのは――一つ残らずすべて「温かいもの」「熱いもの」だった。本当に、ただの一つの例外さえない。どのページをめくっても、体が温まりそうな料理の写真ばかりが目に飛び込んでくる。

(僕が寒いのは苦手だ、冷たいのは嫌いだって、そう言ったから)

(だから雪音は、温かい料理を作ろうとして……!)

僕の気持ちに応えようとして、雪音は一生懸命勉強していたんだ。寒がりの僕が食べるような温かいものを作れるようになろうとして、こんなにも努力していたんだ。

雪音のこんな一途な思いを知って、僕が今まで取ってきたつれない態度を思い返している内に、僕はいろいろな気持ちがごちゃ混ぜになってくるのを感じた。瞳から涙があふれ出して、少しも止まる気配がない。ほほを伝って顔からこぼれ落ちて、ポタポタと音を立てているのが分かる。

「ごめんね、雪音……ホントに、ごめん……!」

ベッドの上で苦しそうに横たわる雪音に、僕は頭を下げた。必死に頭を下げた。許してもらおうとか、そんな虫のいいことは考えちゃいない。ただ、謝らなきゃいけないって思った。そうしなきゃ、僕はここにいちゃいけないって思ったんだ。

「雪音は――僕たちの家族だ。今更だけど、僕がこう言わなきゃダメだったんだ」

「ここは雪音の家だ、僕が保証する! ここが、君の家なんだ!」

僕が泣きながら叫ぶ。ほんの少しでもいい、僕の気持ちが、雪音に少しでも届いてくれさえすればいい――僕はただその一心で、雪音に謝り続けた。

雪音が閉じていた目を開いて、真っ赤になっていただろう僕の瞳を見つめたのは、その時だった。

「――光輝、サン」

「……オ顔ヲ、上ゲテ下サイ」

「私ノ為ニ……光輝サンヲ泣カセテシマウノハ、トテモ悲シイデス」

「ドウカ、泣キ止ンデ下サイマセ」

僕と同じように、雪音もまたはらはらと涙を流して――僕に「泣き止んでほしい」と言った。その目からは、僕を責めようだとか怒っているだとか、そういう色が少しも感じられない。今度は僕が拒絶されたっておかしくないはずなのに、雪音は泣いている僕の姿を見て「泣き止んでほしい」と言ってくれた。

それは……ただ、僕の悲しむ顔を見るのが辛いから。

(雪音は、こんなにも僕のことを思ってくれている……)

(だったら僕も、少しでも雪音に返さなきゃ……!)

雪音の熱は収まる気配がない。苦しそうにしているのも何も変わっていない。このまま放っておいたら命に関わる、僕は僕にできることをしなきゃいけない。

「ごめんよ、雪音。少しだけ待ってて」

「熱を冷やして、ちょっとでも楽になるようにしてあげるからね」

僕は雪音にそう断ると、急いでキッチンまで走っていった。

転がり込むようにしてキッチンへ駆け込むと、僕は冷凍庫の扉を力一杯開いた。確かここに、いつも凍らせてある氷枕と、飲み物を冷やす為に使う氷を入れているケースがあったはずだ。目を皿のようにして中を探ると、すぐさま氷枕とケースを見つけることができた。

迷わず二つとも引っ張り出すと、氷枕には洗濯したばかりのハンドタオルをぐるぐる巻きつけて、ケースからはありったけの氷を洗面器へ入れて、さらに冷たい水でいっぱいに満たした。準備をすっかり整えると、僕は再び雪音の部屋へ舞い戻った。

「お待たせ、雪音。さあ、すぐに熱を冷ましてあげるからね」

僕はまず氷枕を持って、雪音が普段使っている枕と彼女の頭の間にそっと差し入れた。それが済むと、今度は氷水で満たされた洗面器に小さめのハンドタオルを押し込む。僕の両手に突き刺すような冷たさが走ったけれど、それだけ雪音の熱を冷ましてくれるに違いないと思うとまるで気にならない。しっかり水気を切って丁寧に伸ばしてから、雪音の額へ載せた。

「ゆっくり休んでね、雪音。僕がずっとそばにいるから、安心して」

それからも、僕はこまめに雪音に当てている手拭いを冷やし直した。何度も冷たい水に手を突っ込んでいるせいか、僕の手は真っ赤になっていて、すっかり感覚が鈍くなってしまっている。それに気付いたのは、洗面器に入っていた氷がほとんど解けてしまってからだった。

荒かった雪音の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。ゆるやかだけれど、熱も下がってきたようだ。

(このまま、ゆっくりでもいい。雪音が元通り元気になってくれさえすれば)

僕はただ、それだけを願いつづけた。

学校から帰ってきてからすぐに雪音の看病を始めて、気付かない内にすっかり時間が経っていた。僕は変わらず雪音の部屋で彼女の側に居つづけていて、ずっと気を張り詰めさせていた。雪音の容態は落ち着いてきたみたいだけど、もし何かあったらすぐに僕がなんとかしなきゃいけないって思っていたからだ。

そうやって雪音の側にいた僕が動いたのは、玄関から物音が聞こえてきたときだった。

「ただいまー」

「光輝ー、雪音ちゃーん、ただいまー。遅くなっちゃってごめんねー」

父さん……それに母さんの声だ。どうやら一緒に帰ってきたらしい。職場を出るタイミングによっては途中で鉢合わせになって、こうやって揃って帰宅することがあるのだ。

僕はハッとして顔を上げる。二人に雪音のことを伝えなきゃ、そう思って立ち上がろうとした直後。

「嗚呼、御主人様ト奥方様ガ、オ戻リニ……」

「……待って! 今は寝てなきゃダメだよ雪音!」

「然シ、其レデハ……折角、私ヲ此処ニ置イテ下サッテ居ル、其ノゴ厚意ヲ無碍ニ……」

雪音が体を起こしてベッドから起きようとしたのが見えた。僕はすぐさま制止して、雪音に寝ているように告げる。ここで無理なんかしたら、せっかく戻り始めた雪音の具合がまた悪くなってしまう。それだけは絶対に嫌だった。

僕にも雪音の気持ちは分かる。雪音はここに――僕たちの家に奉公している身だから、言いつけられた仕事はきちんとしなきゃいけないと思っている。それなのに体調を崩したりしたら追い出されてしまうんじゃないかと、不安になっているんだ。きっと僕たちの家へ来る前に、そう教えられたに違いない。

ここは僕がきちんと説明をして、父さんと母さんに事情を分かってもらわなきゃいけないところだ。

「安心して、僕が父さんと母さんに話をしてくるからね」

僕の言葉を受けて、雪音は少しだけ表情を和らげて「宜シクオ願イシマス」と弱々しい声で呟いた。僕はしっかり頷いて、父さんと母さんが居るだろうリビングに向かって歩き出した。

思った通り、二人はリビングにいた。

「父さん、母さん」

僕が声を掛けてきたことは、父さんにとっても母さんにとっても少しばかり意外なことだったみたいだ。揃って目をまん丸くして見せている。僕は二人の目をそれぞれしっかり視界へ収めて、視線を外さずにじっと見つめつづけた。

「あら、光輝じゃない。ちょうど良かったわ、雪音ちゃんの姿が見当たらないの」

「なあ光輝、雪音ちゃんはどこへ行ったんだ? いつもなら出迎えてくれるはずなんだが……」

姿を見せない雪音を探している父さんと母さんに向かって、僕は意を決して口火を切った。

「雪音は……風邪をひいて、部屋で寝込んでるんだ。今は部屋で休んでるよ」

「えっ? 雪音ちゃんが風邪を……?」

「おいおい、一体どうしたんだ? 雪音ちゃんが風邪を拗らせるなんて……」

「それは……雪音が具合を悪くしたのは、僕のせいなんだ」

二人が顔を見合わせる。僕は今までのことを、今までしてきたことを、今まで取ってきた態度を思い返しながら、喉の奥から絞り出すような声で、懸命に言葉を紡ぐ。

「少し前に家へ来たときから、雪音のことをずっと『ポケモンだ』『ユキメノコだ』って思ってて」

「なのに人の言葉を話して、料理とか洗濯とか、そういう家事を全部こなしちゃう」

「そんなの今まで見たことなかったから、雪音をどう見たらいいのか分からなくて」

「せっかく雪音が仲良くしようとしてくれてたのに、僕は素っ気ない態度ばっかり取ってたんだ」

「僕のせいで雪音は辛い思いをして、それで、体の具合を悪くしちゃったんだ」

ガラガラに涸れた声。二人にちゃんと伝わっているだろうか、本当ならそんな心配をしなきゃいけないのに、今の僕にはそれさえもできそうにない。ただ思いを口にするだけで、本当に精一杯だった。

「今になって……やっと分かった! 今更だけど、やっと気付けた!」

「雪音は家族だ! 僕の家族なんだ!」

「ポケモンで、ユキメノコで……僕とは少し違うかもしれない、でも、そんなことの前に、家族なんだ!」

「だから、この家に居させてほしい、父さんの友達のところへ帰らせたりしないでほしいんだ!」

「雪音は……雪音は、体を壊して働けなくなったら、ここから追い出されたりするんじゃないかって怖がってた……父さんも母さんもそんなことはしないって、僕にはちゃんと分かってる。だけど、雪音はまだ不安なんだ」

「この家で安心して暮らせるように……僕に、雪音を守らせてほしい!」

「雪音が元気になるまで、僕が看病する! 寝ずにつきっきりで面倒を見たっていい! だから、一緒に居させて欲しいんだ!」

僕はいつの間にか土下座をしていたらしい。フローリングの床の冷たい感触が、膝や肘に伝わってくる。そんな僕に向かって、父さんと母さんが近付いてくる気配を感じた。

恐る恐る顔を上げると、そこには穏やかな、とても穏やかな表情をした二人の顔があって。

「おいおい、光輝。ちょっとばかり恰好付けすぎだぞ。だいたい――」

続けて、父さんは。

「――雪音の家族は、お前一人だけか?」

「そうそう、お父さんの言う通りだわ。私たちも、一緒に入れてちょうだい」

僕に、こう告げたのだった。

あれから、二週間が経った。

「ホント、一時はどうなるかと思ったけど、すっかり治って良かったよ」

「ハイ。光輝サン……ソレニ、オ父様トオ母様ノオ陰デス」

ポケットに手を突っ込んだ僕と、手を前で合わせた雪音が連れ立って、ゆっくり外を歩く。今日はよく晴れていて、太陽が燦々と照っている。まだまだ空気は冷たかったけれど、日差しの温かさがあるおかげで、ここ数日の中では一番の過ごしやすさだった。

雪音は完全に快復して、前と同じように活動できるようになった。今も母さんが忙しいとき、代わりに家事全般を引き受けてくれている。それは前と変わらない。

だけど、一つ変わったこともある。

「光輝サン。今日モ手伝ッテ頂イテ、有難ウ御座イマス」

「いいよ、そんなかしこまらなくたって。全部雪音に押し付けちゃったら、また寝込ませちゃうからね。僕にも手伝えることは手伝うよ」

僕も家事を手伝うようになった、ということだ。雪音は何でもできて心強いけれど、彼女一人に押し付けるのは良くない、できることは分担しようと思ったからに他ならない。

もちろん、雪音に比べればまだまだだけど、僕が手伝うと雪音はとても喜んでくれて、おかげで僕も快い気持ちになれた。彼女が朗らかな笑みを浮かべて見せてくれるたびに、僕の心に温かなものが満ちていく気がした。

こうして穏やかな気持ちのまま散歩を続けていた最中、ふと、雪音が静かに口を開く。

「私ハ、本当ニ幸セ者デス」

「光輝サント、オ父様トオ母様ニ囲マレテ、心安ラカニ暮ラセテイマス」

彼女が語り始めたのは、自分の生い立ちについてだった。

「私ガ物心付イタ頃ニハ、既ニ『育テ屋』ニ預ケラレテイマシタ」

「聞ク所ニヨルト……『育テ屋』ヘ預ケラレル者ハ、皆孤児(みなしご)ダト……」

「私ニハ家モ親モ無イ、孤独ナ者ダト思ッテ生キテイマシタ」

「其ノ様ナ考エ方ヲシテイタセイデショウカ、私ハドウシテモ人ヤぽけもんヲ遠ザケテ、独リニナッテシマウ処ガアリマシタ」

「育テ屋ノ主モ、コノママデハ良クナイトオ考エニナッタノデショウ、私ニ家事ヲ仕込ンデ下サッテ、何処カデ奉公シナサイト仰ッタノデス」

「ソウシテ来サセテ頂イタノガ……光輝サンノ処、デシタ」

雪音には、今まで家族らしい家族がいなかった。自分は天涯孤独の身だと思って、無意識のうちに皆を遠ざけていたらしい。そうした時に、彼女は僕の家へ来ることになったのだった。

「ゆきめのこハ伝承デ、遭難シタ女性ノ生マレ変ワリダト言ワレテイマス」

「私ニハ、『育テ屋』ニ来ルマデノ記憶ハ有リマセン」

「ケレド……モシ、私ガ何方カノ生マレ変ワリデ、其ノ方カラ命ヲ継イダノナラ、私ハ其ノ方ノ分マデ幸セニナリタイト……ソウ考エテオリマス」

私ハ今、トテモ幸セデス――そう言って微笑む雪音を見ていると、僕もつられて一緒に頬を緩めてしまう。

本当に、心からの言葉なのだと、実感せずにはいられない。

「処デ――光輝サン」

「ん? どうしたのかな、雪音」

「今日モ又、随分ト厚着ヲサレルノデスネ」

雪音が目を細めて、全身もこもこ重装備の僕に語りかける。対する雪音はお気に入りの薄手の和服を着ているだけだ。まったくもって好対照と言わざるを得ないだろう。

「そりゃあそうだよ。だってこんなに寒いんだもん」

「じゃんぱー、帽子、まふらー、ソレニ耳当テ……トテモ暖カソウデスネ」

「これだけ着込んでても寒いって、分かってるくせに」

僕がちょっと口をへの字に曲げて見せると、雪音はくすくすと楽しそうに笑って見せた。

「ソレト、光輝サン。少シバカリ、オ行儀ガヨロシクアリマセンネ」

「えっ、僕のどこが行儀悪いのさ」

「ぽけっとヘ手ヲオ入レニナッテイルト、危ナイデスヨ」

雪音にそう言われたんじゃ仕方ない。僕は渋々、本当に渋々、ポケットに突っ込んでいた手を外へ晒した。

「アラ……今日ハ、何時モノ手袋ハサレテイナイノデスネ」

彼女が口にした通り、今日に限っては、外に出るときはいつも僕の手にはまっている手袋が、なぜだか影も形も見当たらないのだった。

「これはわざとじゃないんだよ、雪音。僕はあくまで、手袋をしてくるのを忘れてきただけだからね」

「マア、ソウダッタノデスネ」

口ではそう言うけれど、本心はそうじゃないって感じの声。ちょっとばかり悔しいけど、でもとても可愛らしい。

「あーあ、手袋が無いと手が寂しいなー」

少しでも自然に言おうとすると、びっくりするくらいわざとらしくなるんだなあと、僕は実感せずにはいられない。

すると。

「デシタラ、光輝サン」

雪音が、穏やかな声で僕の名を呼んで。

 

「私ト――手ヲ、繋イデクダサイマセンカ?」

 

僕の前に、そっと小さな手のひらを差し出す。

「ホントにわざとじゃないよ。今日たまたま、たまたま忘れただけだからね」

気恥ずかしくて、ちょっとだけ彼女から目をそらしつつ。

「ふふふっ。ハイ、承知シテオリマス」

僕は、彼女の手を取った。

ユキメノコである雪音の手は、僕の手よりも冷たい。それこそ、氷の様に冷たい手のひらだ。

(……でも、それでいい。この手のひらは、雪音の手のひらだから)

だけど、今の僕には分かる。

 

雪音の冷たい手のひらが――僕の心を、何よりも暖かくしてくれるんだ、と。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。