1.影討ち
生ビールを一杯、ハイボールを二杯。あとは何か、目についたものを適当にオーダーし続けた気がする。
「んー……」
大学のサークルで飲み会があった。結局二次会まで付き合って、飲めるだけ飲んだように思う。
酔っていることを明確に自覚する。足元はふらついていて、帰る途中も道がぐにゃぐにゃ歪んで見えた。
けれどどこか意識がはっきりしていて、べろべろに酔った、という感じでもなく。
(もっと飲めばよかったのかな)
人はこうやってアル中になっていくのだなあ、と他人事のように思う。
自分のことを我がこととして捉えられなくなって、結構経つ気がする。
「たーだいまー……」
のそのそと玄関の鍵を開けて、ぐいっとドアを引いた瞬間、だった。
寒気がした。梅雨と夏の間の湿っぽくて重みのある空気の合間を縫うように、氷のように冷たい何かがあたしを射抜く。
影の中に目が浮かんでいる。目はまっすぐにあたしを射抜いていて、あたしは影を踏まれたかのように動けなくなる。目の下に口が現れて、ニヤリと笑む。
どこかで見たことのある目だと感じた。
(ゲンガー、だ)
ゲンガー、シャドーポケモン。不思議なくらいすっと、その名前が出てきた。
前に性質を教えてもらったことがある。ゲンガーは人の命を奪いに突然やってくると。
突然寒気に襲われたらゲンガーに狙われた証拠。逃げる術はないので諦めろ――そんなことも書いていた気がする。
(潮時ってやつなのかな)
読んだ文章を一言一句正確に思い出して成程と思えるくらいには、あたしの心は落ち着いていて。
それならそれでいいんじゃない、程度にしか考えられなかった。
「……貴女はユカリ。そうですよね?」
ゲンガーの割に、やけに流暢に人の言葉を話す。あたしは頷く。
「私はゲンガーのハク」
「――ハク」
無意識のうちに復唱する。藤の花のような色をした体に似つかわしくない名前、そんな風に考える。
「分かりますよね。此処に私がいる理由」
「分かんない。ちっとも」
「そうですか。貴女に会いに来たのですよ」
「あたしにゲンガーの知り合いはいない」
事もなげに言うあたしの気持ちを知ってか知らずか、ハクと名乗るゲンガーが少しずつにじり寄ってくる。相変わらず体は動かないけど、特に怖いという気持ちも無く。
ただ、胸の中で残響する微かな痛みだけがあって。
「では、貴女を――」
ハクが右腕を振り上げる。あたしを殺すつもりなんだろうな。できれば痛くしないでほしいんだけど。
振り上げた右腕をこちらへぶつけようとした直後、ハクの後ろから大きな物音がして。
「ふしゃーっ」
「ひゃっ!?」
きらり、と蒼が光ったかと思うと、ハクが思いきり吹き飛ばされて横を通り過ぎて行った。ありゃま、と思う間もなく、吹っ飛ばした張本人がやってくる。
「おークロ。ただいま。遅くなっちゃったね」
「にゃぁーん」
ハクをネコパンチでぶん殴ったのは、一緒に暮らしているペルシアンのクロだった。
二年前、捨てられていたタマゴをなんとなく持ち帰ってあっためてたら、中から色黒のニャースが生まれた。折角だし育てることにして、今はペルシアンになっている。普通のペルシアンとは違って、色が黒くて顔がまん丸。なんでも、アローラのペルシアンだそうだ。
「よしよし、ちょっと待ってね。カリカリ入れたげるから」
「ちょっと、どういうことですか」
吹っ飛んだハクをほっぽらかしにしてクロを撫でていたら、立ち上がってあたしに抗議してきた。
「だってほら、一人じゃ寂しいから一緒にいるだけだけど」
「なんですかもう、折角二人きりになれると思ったのに」
「ゲンガーと二人きりとか、冗談でしょ」
部屋に明かりを灯す。はっきりした光の下で見ると、ハクもわりと愛嬌のある見た目をしている。あたしの影を踏むこともできなくなったようだ。
ハクはむすっとした表情で、あたしとクロを見ている。どうやらハクはクロには手出しができないらしい。こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。
「なんか面白いから、居たいんだったらここに居ていいけど」
「えっ」
「あたしに会いに来たんでしょ? 二人きりになりたいとか言ってたし」
クロもハクに興味津々というか、新しいおもちゃが来たみたいなノリを見せて、ハクのお腹をうりうりと前足で突っついている。
「えっ、いや、その……」
「じゃ、あたしシャワー浴びてくるから」
自分でもよくわかんない経緯だけど、こうしてあたしとクロの家に、新しい同居人が増えたのだった。
2.朝の日差し
お酒を入れた後の眠りは浅いらしい。だからか、遅く寝てもいつもの時間とさほど変わらずに起きてしまう。
「ユカリさん」
「ん……」
眠い目を擦りながら横を向くと、ハクが大きな口を開けてぎょろぎょろした目であたしを見ていて。
「起き抜けを襲うのは常套手段ですよ」
と言いながら、多分だけど怖い顔をしている。多分だけど、というのは、大して怖くもないしどうだっていいから。
「あと五分」
「ち、ちょっと、ユカリさん」
全然ピンと来なかったので放置して二度寝を決め込む。あたしが笑えるほど動じなかったせいで、ハクの方は戸惑っているようだ。
「貴女の命を獲りに来たんですよ」
「命なら向こうの引き出しに入ってるから」
「は? 引き出し?」
「印鑑と預金通帳」
「そういうのじゃありません!」
寝床でぐだぐだやっていた最中、足元で温かいものが動く。
「ふにゃー」
「きゃっ! くっ、黒猫!?」
あたしと一緒に寝ていたクロが目を覚まして、布団からもぞもぞと顔を出してきた。起き抜けにすぐハクの姿を見つけて、昨日と同じくじゃれに行く。
「にゃっ」
「ちょっと、やめてください! ユカリさん、止めてくださいよ!」
あーもう、こんなに賑やかじゃ二度寝なんてできっこない。あたしももう起きよう。
とりあえず朝ごはん作るか、そう思って台所へ行く。目玉焼きとトーストでいいかな、そんなにお腹空いてないし。
「ほらクロ、朝ごはん」
「にゃー」
足元でうろうろしてふわふわの毛皮をちくちくさせることで存在感をアピールしていたクロに、ご飯皿にカリカリを入れて見せてあげる。
「えーっと冷凍庫冷凍庫」
目玉焼きを作って、食パンをトースターに焼かせている間に、新しい同居人の食事も用意することにした。
さて、準備が整ったところで、テーブルに持ってったわけだけど。
「はい、イチゴのかき氷」
「え、なんですかこれ」
「ほら、ゲンガーっていると温度が五度下がるって言うでしょ? だから冷たいもの好きなんじゃないの」
「なんか色々誤解がありますよそれ! 朝からかき氷は辛いです、辛すぎます」
「えー、贅沢だなぁ」
かき氷はダメらしい。気に入ると思ったのに。
「じゃ、代わりにこれ。コーンフレーク」
「うーん、まあ、これなら……」
渋々ながら、ハクはミルクを掛けたコーンフレークを食べている。随分可笑しな光景だ。
「コーンフレーク食べるゲンガーとか超レアじゃない?」
「貴女が食べさせてるんじゃないですか」
トーストを齧りながら、ハクのツッコミを適当に聞き流す。
「随分早起きじゃないですか。寝込みを襲おうとしたら起きるんですから、計画が狂ってしまいました」
「ん、まあね」
「どうして早起きなんです?」
「前はね、迎えに行ってたんだ。一緒に学校行くために」
「友達をですか?」
「友達、って訳じゃないんだけどね。その子が早起きだったから、あたしもそうなったんだろうね」
手に付いたパン屑をティッシュで拭って、あたしはハクを見つめる。
「もう迎えに行ってないけど、身体はまだ覚えてるんだね」
「一度身に付いた習慣ですからね」
「覚えてたって、仕方無いのにさ」
ご飯を食べて満足したクロを撫でながら、そう答えたのだった。
3.花弁の舞
ハクが家に来て一週間。なんだかんだで同居人の自覚が出てきたみたいで、家でのんびり暮らしている。
「あの、のんびりなんてしてないんですが」
「え、どう見てもクロと遊んでるじゃん」
「遊ばれてるんですよ!」
クロはハクの周囲を回りながら、時折得意のネコパンチで手を出している。ハクは「やめてください」とか言ってるけど、クロは聞いちゃいない。
やられっぱなしじゃいけない、とばかりにハクも恐る恐るクロに手を出す。けれどクロはそれを素早い身のこなしでかわしてしまう。
「ま、クロはふわふわの毛皮着てるもんねぇ。ちょっとやそっとじゃ手出しはできないよ」
怯んだハクにクロがうりうりとじゃれつく。いたっ、いたっ、とハクは食らう一方だ。クロが楽しそうで何より何より。
「私は楽しくないんですが」
「知らん」
「やめさせてください」
「あと百十六頁読んだら」
「日が暮れますよ!」
あたしは読書で忙しいので、ハクのことはクロにお任せだ。
クロが飽きたみたいで、陽の当たる窓際へ移る。ようやくクロから解放されたハクが、側へ寄ってきた。
「何読んでるんですか」
「吉谷信子の『花物語』。少女小説の短編集」
「読書するなんて、らしくないですね」
「あ、お酒飲んで遊んでる方がそれっぽいとか思ってる顔してる」
「あの日だって、酔っぱらって帰ってきましたし」
「まあね。飲酒と読書、どっちも好きだから。酒に酔えば現実を忘れられるし、本に耽れば現実から離れられる。そうでしょ?」
ま、現実には向かい合いたくないことがいっぱいあるから。
ひと段落したところで、ふと窓の外へ目を向ける。
「今年も綺麗に咲いたね。藤の花」
白と紫のグラデーション。学名Wisteria floribunda。藤の花だ。今の家の近くにあって驚いたっけ。
縁ってやつを感じずにはいられない。
「ねえハク。藤の花言葉、知ってる?」
「花言葉?」
「『ずっと一緒にいる・あなたの傍を離れない』。大体こういう意味なんだって」
聞きようによっちゃ、随分とヤンデレじみた文言だ。
あたしみたいな適当な人間には、到底似つかわしくない。
「……あーあ。また考えちゃった。昔のこと」
「何か思い出でもあるんですか」
「思い出ねぇ。そんなところかな。もう見ないようにした方がいいのかな、カーテンでも降ろしてさ」
口でそう言いつつ、目は藤を向いていて。
手にした本になかなか視線を戻すことができなかった。
4.手を繋ぐ
ハクが来てさらに一週間。もうすっかり居るのが当たり前になって、外にまでくっついてくるようになった。
「にゃぁー」
「ちょっとクロ、ぐりぐりし過ぎ」
夕暮れ時の道を散歩する。クロがひっきりなしに顔を押し付けてくる。ペルシアンは気性が荒くて気難しいって聞いたけど、嘘じゃないかって思うくらい。
一方ハクは、長く伸びたあたしの影の中に潜んでいて。
「にゃっ」
「また! やめてください!」
時折姿を見せては、すぐクロに見つかって触られそうになる。
「あれだね。ディグダ叩きみたい」
「笑ってないで、ちゃんと躾けてください」
「まあまあ。それよりハクってさ、日光浴びても大丈夫なわけ?」
「御伽噺の吸血鬼じゃないんですから、問題ありません」
「でも、影の中に居るのが落ち着くんだ」
「そういう生き物ですから」
夕方になって直射日光は大分和らいだとは言え、まだまだ外は熱気と暑気に満ちている。
「ま、八月だからね。暑いのも道理だ」
「にゃあ」
「クロは涼しいとこ見つけるの上手いからね。参考にしようっと」
日陰をうまく選んで、クロが悠々と歩いていく。暑さを避けたいならクロに付いていくのがいい。
「ハク。折角だからさ、涼しくしてよ」
「は?」
「舌で舐めると寒気がして震えが止まらなくなるんでしょ?」
「それ、死ぬってことですよ」
「だってこんなに暑いんだし、それくらい涼しくした方がいいって」
ぎらぎら光る橙の陽光を掌で遮りながら、後ろのハクに向けて呟く。
「死ぬなら死ぬで、それもいいかなって」
ハクがあたしの背中を見つめているのを感じる。クロは何か思う処があったのか、日陰を出てあたしの側に寄り添った。
道の途中にベンチがある。ちょっと休憩してこっか、クロとハクに呼び掛ける。
「これ、今まで飲み損ねてたから」
ジーパンのポケットから冷たい缶コーヒーを取り出す。プルタブを開けて口をつけると、苦味がいっぱいに広がるのを感じる。
「冴えないおっさんみたいなことしてるね、あたしって」
クロはベンチの下へ潜り込んで日陰を確保して、ハクはあたしのすぐ隣に立っている。ベンチに座っているのは、あたしだけ。
行き場を失った右手が自然に動いて、膝から滑り落ちる。指先がベンチに触れて、躰がぴくんと震える。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。顔を俯かせて、足元をじっと見つめる。
「――ハク」
無意識のうちに漏れた言葉。それは近くではなく、遠くに向けた声。
ハクは何も言わずに立っている。あたしの言葉に反応するでもなく、けれど聞き逃すわけでもなく。
「ごめんね、ハク」
掠れた声、消え入りそうな言葉。
それもまたハクが耳に入れていることを、あたしは実感していた。
5.毒の糸
ハクが来て三週間が経った、夜のこと。
ソファに座り込んで、スマホを見ている。正確には、スマホに保存した写真を見ている。
「何見てるんですか」
「人のスマホを勝手に覗き込まないの。ま、見たいなら見せたげる」
ハクにスマホをかざして写真を見せる。身を乗り出して、ハクが写真を見つめる。
「ユカリさん、この写真は」
「これ? 昔の気持ちを今も引きずってる、情けない女の証、ってとこ」
画面に映るは色白の少女の写真。見ているだけで心がズキズキ痛む。感傷っていうのはこういうものなんだ、そう思わずにはいられない。
あたしの隣には、同級生の女の子がいた。今から三年も前になる。
「高校通ってた時の写真。制服着てるでしょ。今もこんな写真持ってるなんてさ、気持ち悪いって思うだろうけど」
捨てられないんだ。どうしても。
「一緒にいたし、一緒にご飯食べたし、一緒に帰ったりもした。けど友達っていうか、そういうのじゃなかったと思う」
友達、ではなかった。友達じゃない、少し違う関係。
少しじゃない、かも知れない。
「藤の花が好きでさ、だから紫色が好きで。あたしの『ユカリ』って名前、綺麗だって言ってくれたんだ」
貴女の名前の方がずっと綺麗だって、言ってあげられれば良かったのに。
言えないまま、此処まで来てしまった。
「その子がさ、あたしに言ったんだ」
まるでどこかへ遊びに行くように、気楽な調子で。
「『駆け落ちしたい』って」
深く考えずにOKした。あの子はきっと、どこかへ遠くへ行きたかった。あたしも一緒に行きたいと思った。一緒に行ってもいいって、そう思っていた。
「鞄に服とか詰めて、駅で待ってたっけ。あの子が来るのを」
けれど、彼女が駅に姿を見せることはなくて。あたしはただ、ずっと待っていた。
「それっきり、会ってないんだ。写真の子とは」
糸が切れちゃったんだ、あたしはそう考えた。
あたしとあの子を結んでいた、真っ赤な毒の糸が。
6.悪夢
夢を見ている。意識がこれは夢だと自覚している。過去に時間が遡って、かつて見た風景が再現されている。
「ねえ、大丈夫?」
放課後の教室。忘れ物を取りに戻ったその場所で目にしたのは、苦しんでいた貴女の姿。
側に寄って介抱する。鞄の中に薬がある、掠れた声で貴女が言う。すぐに薬を取ってきて、渡す。
「……はっ、はぁっ。ありがとう、助かりました」
助かった、というのは大げさでも何でもなく、命が助かった、という意味で。
「ユカリさん、ですよね」
藤の花のように儚げで、けれど芯の強さを感じさせて。貴女の姿に胸が軽く疼いたのを、今でもはっきり覚えている。
貴女のことを好きになったとしたら、そのタイミングだ。
(貴女とあたしは、付き合うようになった)
一緒に学校へ行く。一緒にご飯を食べる。一緒に帰る。貴女と同じ時間を過ごしていると、心が安らいだ。
不二の絆を、貴女には感じていた。
「授業をさぼるのって、青春って感じですね」
「ま、ドラマとかでよくある光景だし」
二人で授業をさぼって、屋上で時間を潰している。あの子はフェンスを掴んで、遠くの風景を見つめている。
「遠くへ行きたいって思うこと、ユカリさんはないですか」
遠く。それは、距離的なものだけではない気がした。
「遠く、か」
ここにいても、何も始まらない気がする。あたしもそんな感情を抱いていて。
「ユカリさんとわたしで、うんと遠くへ行きましょう」
「どれくらい?」
「分かりません。けど此処にはもう戻ってこない、それ位遠くがいいです」
そして、貴女は言った。
「わたしと、駆け落ちしてください」
駆け落ちしてください、と。
「いいよ」
「行こっか、遠くへ」
気軽に、気楽に返す。
貴女となら、どこへでも行けると信じていたから。
――けれどその日、貴女が駅に現れることはなく。
「まだかな」
そう呟いた直後に、胸ポケットが揺れて。
「もしもし」
「あの、ユカリさんですか」
「えっと、あなたは?」
「すみません、母です。ユカリさんに連絡を取ってほしいと、あの子が」
電話口から聞こえてくるのは、切迫した声で。
「あの子は生まれつき、治る見込みのない病気を患っているんです」
不治の病。その言葉が脳裏を過る。
「そんな」
言葉を失う。
「――ハクが、不治の病なんて」
ハク。
それは、確かに貴女の名前だった。
7.影踏み
夢を見ていた。どんな夢を見ていたかまで、ハッキリ思い出せる。
それは夢であって夢ではなく、過去の忠実な再現でしかなく。いつまでも覚めることのない夢、決して消えることのない記憶。
(濡れてる)
目が覚めると涙を流していて、感情はどこにもないのに泣いている。感情は落ち着いているというよりも空虚で、熱はどこにもない。
けれど確かに、自分の目は涙を流している。
顔でも洗おうか、そう思って起きようとしたとき、異変に気が付いて。
(動かない)
体が動かない。金縛りにでも遭ったかのように、身体が少しも動かない。
背筋に冷たいものが走る。ありったけの全力を振り絞って、視線を横へ向ける。
「目覚めましたか」
ハクが居た。視界にハクの姿が飛び込んでくる。
「時間が来ました」
残響を伴う声でそう告げると、ハクが自らの姿を変貌させる。
蛹を破って舞う蝶々。或いは蕾を開かせた花。禍々しい光の向こうに、見たことのないハクが居た。
(『知っていますか? ユカリさん』)
(『トレーナーがポケモンと強く心を通わせると、そのポケモンが持つ真の力が発揮されるんです』)
(『”メガシンカ”。そう呼ばれています』)
そこに居たのはゲンガーのハクではなく、メガゲンガーのハクだった。藤色から真っ白な体へ変貌を遂げて、あたしの前に立っている。
美しい姿だと感じた。この世のものとは思えないくらいに、綺麗な姿だった。
まるで――ハクのように。
「捕まえました」
ハクの影があたしに繋がる。途切れた糸を結び直すかのように、強く、強く。
「もう何処へも行かせません」
今更どこへ行くつもりもない。あたしの心は冷めていて、そして覚めていて。
「あなたの命を奪いに来ました」
そうか。なら、一思いにやればいい。
「ずっとこの機会を待っていました」
あたしだって待ってた。あたしだって、ずっと待ってた。
「こうやって、あなたの命を奪える瞬間を」
なのに、貴女は。貴女は。
「今度こそ――共に逝きましょう」
貴女は――貴女は!
「黙って聞いてりゃ、勝手なこと言って――」
「なっ」
「待ってたのはあたしの方だってのに! ハクのこと、ずっと待ってたのに!」
布団を蹴っ飛ばして起き上がる。燃え上がるような憤怒と悲哀が、あたしを強烈に突き動かした。
「あんたはハクじゃない。あんたは……ハクじゃない!」
指が潰れそうなほど強く拳を握りしめて、壁を力任せにぶん殴った。
「何のつもり? ハクの名前なんか名乗って、あたしに何しに来た」
実体がないはずのハクの身体を、むんずと掴んで締め上げる。ハクが狼狽えて言葉を失っているのが分かる。
あたしはハクを揺さぶって、割れんばかりの声で叫んだ。
「本当にあんたがハクなら、こんなまどろっこしいことしない」
「とっくにあたしを連れてってくれてた! あたしはずっとハクを待ってたんだ!」
「ハクを名乗ってあたしを惑わすなんて許さない。絶対に許さない!」
「あんたは……ハクの何なのよ! 応えて!」
観念したのか、ハクが影踏みを解いた。それと同時に、あたしの手がハクをすり抜けていく。
「……駄目ですね。今のあなたはとても殺せません」
ハクは俯いたまま、静かに語り始める。
「貴女の言う通り、私はハクではありません」
「大方、ハクの相棒ってところでしょ」
「そうです。幼い頃から、ずっと側に」
元々トレーナーをしていたけれど、病状が悪化して引退、それから学業へ復帰。そういう話を聞いたことがあった。
「ハクの側に居て、目覚めるのを待っていました。けれどいくら待っても、ハクは目覚めませんでした」
「目覚める……?」
「けれど、もう待つのは疲れました。いずれ迎えるその時のために、親しくしてくれていた貴女を道連れにしようとして、それで」
「待って」
「えっ」
「今、なんて言った? 目覚めるのを待ってるって言った?」
「は、はい。病院で入院していて、ずっと死んだように眠ったままです。延命を続けていますが、それも――」
言い終える前に、あたしが口を開く。
「ハクはまだ、生きてるんだ」
「生きてはいます。けれど、目を……」
「そんなの関係ない! 生きてるって言ったら生きてるんだ!」
目を射抜くように見つめて、あたしが声を絞り出す。
「あたし、明日からハクのところへ通う。毎日通う。起きるまでずっと通う」
「ユカリさん」
「これは賭けだよ。ハクが目覚めると思ってるあたしが勝つか、ハクが目覚めないと思ってるあんたが勝つかの、賭けなんだ」
「賭け……ですか」
「ああ。ハクが目覚めないまま死んだら、その時はあたしを道連れにして殺せばいい。そうすればあんたの願いは成就するでしょ?」
怖々ながら、ハクと名乗っていたゲンガーが首を縦に振るのが見えた。話はこれで決まりだ。
これで――どう転んでも、あたしとハクは一緒にいられる。側に居られるんだ。
「約束だからね」
そう念押しすると、ゲンガーが頷いて、そっとその姿を消していく。
「……約束、だから」
気配の消えた寝室で、あたしが独り、言葉を紡いだ。
――屋上に佇む貴女。隣に立つあたし。
「ユカリさん」
「どうかした?」
「もし、ですけど」
「うん。ifの話」
貴女は、あたしの方を向いて。
「わたしが死ぬって言ったら、一緒に死んでくれますか」
道連れに死んでくれるか。道連れに死後の世界へ旅立ってくれるか。
あたしは、こう答えた。
「いいよ、死んだげる」
是。
「だけど、一個だけ条件がある」
「生きられるだけ生きて、思い出とか記憶とか、そういうのをいっぱい作ってから」
「約束だよ、ハク。死ぬときは一緒」
「だけど――生きるのも一緒」
それが、貴女に提示した条件。
貴女と交わした、唯一つの約束――。
8.道連れ
「残念だったね」
クロを隣に連れて、あたしはただ佇んでいる。
美しく咲いた藤の花を見て、あの子の姿が心に蘇る。
あたしの影には、あいつが潜んでいるのを感じていて。
「願い、叶わなかったね。現実ってのは、かくも残酷なもの」
あたしの言葉を、影の中のあいつが聞いている。目で見なくても、心で感じ取ることができる。
「ま、こうなることは分かってたけどね。待つことには慣れっこだったし」
勝者と敗者がいる。賭けに勝った者と負けた者が、不思議なほど穏やかな気持ちでひとつになっている。
「これであの話はおしまい。あたしとハクは一蓮托生、道連れだね」
すっと顔を上げたあたしの前で、ガラスの扉が開かれて。
「ええ」
「――貴女の勝ちです、ユカリさん」
「ハクを生ける道へ道連れにした……貴女の勝ちです」
飛び出してきた最愛の人を、全力で抱き締めた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。