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Colors.indigo

唇を唇に強く押し付けられている。分かりやすく言うなら、キスをされている。

呼吸することもままならなくて、じりじりと意識が遠のき薄れていく。頭の中で渦巻いていた思考は陽光に当てられた氷菓のように融けだして、何もかもがフラットになってゆく。すべてが平らになった向こうに見えているのは、わたしに抱き着いているあの子の姿だけ。

「ねぇ、もっとちょうだい、もっと」

無邪気に囁く声が聞こえた。あの子の声、ヒッセンを持って走り回っていた、他でもないモエギの声。モエギの声が、わたしのすべてを掴んで離さない。言われるままにインクを分泌して、モエギのナカへ流し込む。ちゅ、と水気を帯びた音を立てて、モエギが舌を這わせてくるのを感じた。

モエギの触腕がインディゴブルーに、わたしの色に染まっていく。けれど対照的に、わたしのナカはライムグリーン――モエギの色に染まっていく。

カタチを喪いゆく記憶を集めて、此処に至るまでの道程を振り返ることを試みた。

 

あなたは生まれつき体のつくりが脆くて弱い、母からそんな話を聞いて育ったからだと思う。わたしは十四になってもブキを手に取るようなことはせずに、静かなところで絵を描いてばかりだった。絵を描くのが楽しい、と思った記憶はあまり無い。ただインクリングという種の性か、身体を動かしていないと何か落ち着かななくて、けれど激しい運動はできなくて、結局手先を細かく使う絵描きに落ち着いた。絵を描くのはわたしにとっての呼吸のようなもので、あるいは『チョコ』のようなもので。

バトルに加わる気持ちはない、という意志表示をしたくて、いつもブレザーを着込んでいた。バトルで使うパブロやホクサイのような大きなフデとは比べ物にならないくらい細くて華奢な筆を、指に少し跡が残るくらい強く握りしめて、視界が捉えている風景をカンバスへ落とし込んでいく。エンガワ河川敷は視界が大きく開けていて、モノが置かれたり退かされたりして風景も細かく変わるから、わたしがよく行くスポットだった。

エンガワの河原でスケッチをしている私のことを、知らない顔の子が見ている。それに気付いたのは一ヶ月くらい前だった。いや――それより先だったかもしれない、もう少し後だったかもしれない。今となってはどっちでもよくて、そんなことは関係なくて、ただ彼女と視線が交錯したという事実だけがあればよかった。

モエギ。ナワバリバトル中の他の子からそう呼ばれているのを聞いて、彼女の名前を知った。キングタンクマリンに白のヘッドバンド、クツはシーホースのパープル。運動してますって感じの装いだ。小柄な体でヒッセンを担いでフィールドを所狭しと駆け回り、すべてを自分の色に染めていくショートカットの女子。背丈が大きい割に身体を動かすのが苦手で、外で見学ばかりしていたわたしとは何もかもが対照的。エンガワに行くといつも彼女がいて、敵と激しくインクを掛け合っている姿を見ることになった。

(こっちのこと、気付いてるのかな)

明らかに目が合った、と感じることが何度かあった。それは大抵わたしがモエギを見ていて、モエギがそれに気付いてすっと視線を合わせてくる形だった。エメラルドグリーンの瞳は澄んでいるのに底が見えなくて、一瞬目にするだけで吸い込まれるかのような錯覚に見舞われる。自分の体が宙に浮くような感覚が少し癖になって、ついモエギを目で追ってしまって、そうしているとご褒美を与えるように視線をこちらに投げかけてくる。向こうもわたしのことを認識している、そう確信するまでにそう時間は要らなかった。

彼女同じ場所に居合わせることが幾度か続いた後、いつものように風景を描いていたわたしの横から、ぬっと顔が覗き込んできて。

「絵、描いてるんだ。見せてよ」

他でもないあの子が――モエギが、不意に声を掛けて来た。試合が終わったらしい。他の子たちはさっさと帰ってしまって、いるのはモエギとわたしだけ。突然の出来事に面食らって何も言えずにいると、モエギはさっとイーゼルからカンバスを外してしまう。おーっ、とか言いながらしげしげと眺めてから、少し乱雑に元の場所へ戻して見せる。

「結構うまいね。人の絵も描ける?」

「えっ? 描いたことは……ある、けど」

「そっか。それじゃあさあ、ウチの絵、描いてみてよ」

随分ずけずけとモノを言う、そんな感想を確かに抱いたのに、不快な気持ちは微塵も湧いてこなかった。驚きが先に来て、それから……理由はハッキリしないけど、描いてみよう、という気持ちになった。時間を掛けて首を縦に振ると、描きかけていた風景画のカンバスを側へ退けて、新しいそれに取り替えた。

軽く、一時間くらいかけてモエギを描いた。目の前で静かに座っている彼女と、遠巻きに見ていた活発な彼女。両方のイメージを足し合わせて、簡単にではあるけれど描き上げた。できた、と小さな声で呟くと、地べたに座り込んでいたモエギがパッと立ち上がって側に寄ってきた。

「見せて見せて……おおっ、やるぅ! ウチそっくりじゃん!」

「似てる?」

「うん似てる似てる。いいねぇ、いい絵だよ。ずっと見てたくなる」

絵を見たモエギは笑っていた。モエギが喜んでいるのを、わたしはどう見ていただろう。嬉しいと感じていたように思う。ただ遠巻きに見ていただけのモエギと、こうして直接顔と顔を突き合わせて話ができていること、それ自体を良いことだと受け止めていたように思う。

「最近、ここによく来てるでしょ?」

「絵を描くのに、ちょうどいい場所だったから」

エンガワ河川敷によく足を運んでいたのは、絵を描くのにいい場所だったから。それもあった、確かにあったけれど、わたしの本心は別のところにあるという感覚はずっと付き纏っていて。

モエギがここにいることが多かったから、エンガワに来ればモエギの姿を見られるから。何もかもを取り払ったところにあるのは、結局のところそんな想いだった。

「ウチのこと見てたでしょ。ウチも見てたから」

「わたしが、モエギのこと……」

「あっ、ウチの名前知ってたんだ。ちょっと残念だねぇ」

「その……残念、って?」

「自分の名前くらい自分で教えたいっしょ? シアンもそう思わない?」

「えっ!?」

「なんで知ってるの、って顔してるー。そりゃ知ってるよ、ダチ連中に聞いて回ったんだからサ」

「どうしてそんなこと……」

「気になる子の名前くらい知っときたいっしょ? シアンもそう思わない?」

グッと顔を寄せたモエギが囁く。彼女の吐息が掛かったのが引き金になって、頬がかあっと熱くなってくる。わたしがモエギの名前を知っていたのと同じように、モエギもわたしの名前を知っていた。言葉を交わす前から名前を知っていた間柄。そしてモエギ曰く――彼女は、わたしのことが気になるらしい。

気になる、らしい。

「ね、シアン。一個質問いい?」

「質問……?」

「他の誰かになりたい、そう思ったことってある? 自分じゃない他に誰かになりたいって」

自分ではない誰か。モエギの言葉を耳にして真っ先に脳裏に浮かんだのは、目の前にいるモエギに他ならなかった。快活で、活発で、溌剌としていて、自分には無いものをみんな持っているように見えて。モエギのようになりたいと思ったことは無いなんて言えば、嘘も嘘、真っ赤なウソになる。はっきりと口には出さなかった、具体的にイメージを思い浮かべるはしなかったけれど、わたしはモエギに憧憬を抱いていた。

何もかも見透かしたようなエメラルドグリーンの瞳が、わたしを真っ直ぐに射抜いている。短く切り揃えられた触腕を僅かに揺らして、モエギはわたしから目を離さない。

「ウチは思ったことあるよ。自分じゃない別人になりたいよ、って」

「モエギは……誰に?」

「んー。答えを教えたげるよ。ウチの口から直接、ダイレクトに」

言葉が紡がれるものだと思っていた、音として答えを聞くものだと考えていた。モエギの口から出てくるものだと、信じて疑わなかった。モエギが妖しく笑う姿をほんの一瞬垣間見た、直後だった。

唇の先に柔らかな感触が生じたかと感じる前に、わたしの口は完全に塞がれていた。

「んぅ……!?」

「んーっ……!」

塞いでいたのは、モエギの口で。塞がれていたのは、わたしの口で。

唇が重なり合う感覚を覚えたのは生まれて初めてだった。戸惑っている間もなく、モエギがわたしの中から体液を、インクを吸い上げていく。反射的に口内にインクが滲み出て、モエギはすかさずそれを吸引する。まるで自分自信がモエギに飲み込まれていくかのようで、身じろぎ一つできなかった。

モエギがわたしのインクを吸っている、モエギがわたしのインクを飲んでいる。それを事実として受け止められるようになるまで、とても長い時間を要したように感じる。喉を鳴らしながら夢中でわたしのインクを飲むモエギを、滲む視界で見つめるばかりで。

「……おいし。シアンの味がする」

ほんの少し口を離して感想を言うと、わたしに息継ぎする暇も与えずに再び口をつけてきた。頭に酸素が行き渡らなくなって、だんだん一つのことしか考えられなくなっていく。

ただ――キモチイイ、とだけ。

「シアンになりたかったんだ、ウチ」

「背が高いとか、色がいいとか、そういう分かりやすい理由でもいいけど」

「そういうのはタテマエってやつで、ただ、シアンに染まりたかった」

「わかる? シアン」

モエギがわたしの色に染まっていくのが見える。なのにわたしは、わたしの心は、モエギの色に染められていって。モエギに飲まれて、モエギに飲み込まれて。

 

わたしは、モエギの中に融けていった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。