トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

鈴空さんの「夏の終わりに」(作者:GPSさん)

火の爆ぜる音が、蒸し暑い夏空に消えていく。


新聞紙や木枝と一緒になって燃えているのは、きあいのタスキやこだわりスカーフ、とつげきチョッキなど、ポケモンに持たせる道具たち。ラムのみやオボンのみの食べカスもあるから、焦げ臭さに混じって時々、甘かったり酸っぱかったりする匂いも漂ってくる。どくどくだまとか、かえんだまも一緒になっているから、煙のところどころに色がついて綺麗だった。


「うっ……ぐ、…………」

「ごめんなさい、俺が……! 俺が、あそこでうまく指示を出せなかったからっ……」

「違います、先輩のせいじゃないですっ!! 私たちが、……うっ、…………ひぐっ……」

「美晴、泣かないで、……私もあのとき、ふぶきじゃなくてもっと命中しやすい技に、……すればっ……!!」

「僕も、相手がねむりだからって、……ッ、ぐ、……」


暑い。

同じ制服、白いシャツに紺のスラックスやプリーツスカートの彼らの啜り泣きを聞きながら、私はそんなことを今更みたいに感じた。8月の川原なんて猛暑以外の何でもない。川辺には数匹、はねて川から飛び出したまま陸でのたうち回っているうちに干からびたコイキングの姿があったが、今ここにそれらを気にとめる者はいなかった。

ぎらぎらと輝く太陽と夏の蒸し暑さ、さらに燃え上がる火の熱に包まれても尚、それを感じていないように泣いている。男子も、女子も。制服が汗まみれになるのも、汗だくの腕が涙と鼻水に汚れるのも気にしないで、ただ泣いているのだ。悔しさと、悲しさと、未練とその他諸々の感情に、彼らは火を囲んで涙を流し続けている。


「私の、」


その中で私は、未だ泣けずにいた。

悔しさも悲しみも未練もその他諸々も、まだわからないままだった。


汗で濡れた手で、スカートの裾を握り締める。



「私の、せいだよ。一番は」



昨日、8月10日、水曜日。

私たちの夏は、終わった。






『夏の終わりに』






よっぽど特別な学校じゃなければ、どこの小学校、中学校、高校にだってポケモンバトル部は存在する。

私の通う花田第二高校も例外じゃない。3年生が4人、2年生が3人、1年生が3人。高校生にもなってバトルをわざわざ部活でやる人なんて多くないから、他の部活と比べて部員は少ない方だけれども、カントー地方でも名のあるそれなりの強豪だ。

毎年、ハナダ地区大会優勝は当たり前。カントー西ブロック大会、カントー地方大会にも進出している。しかし全国大会にはあと一歩届かなくて、いつだって地方大会止まりだった。


だけど今年は、行けそうだったのだ。

全国に。憧れの、全国大会に。


「私がビビって、最後までだいばくはつを出せなかったから。あと、反動の計算間違えて、ワイルドボルト出したのもバカなミスだった」


でも、負けた。

地方大会の決勝で、私たちのチームは負けた。


「ごめん。私のせい」


部員総出の勝ち抜き戦、相手高校との力量差はそこまでなかったはずだった。でも、ポケモンバトルは技の一つ一つが勝敗を左右する。最後の選手だった2年生のポケモン2匹が戦闘不能になったとき、相手はまだ後続に3人を残していた。



「結海。そこまでだよ」


私の肩に手を回し、部長の詩織がきっぱりと言い切った。耐久力に優れた、堅実な戦法を得意とする彼女は本人も芯の通った強いリーダーだ。それでも今は、その顔を涙に濡らして声にも震えを混ぜている。

「そんなこと言ったら、私だっていくらでも謝らなきゃいけない」詩織が焚き火に視線を落とす。夏の大会に敗退した翌日、部員みんなで集まって、バトルに使った、ポケモンとモンスターボール以外の一切をこうして燃やすのは我が部活の伝統だ。メラメラと燃えていくどうぐを睨み、彼女は凛とした横顔を火に照らす。


「確かに、結海のダストダスがあそこでだいばくはつを出せば状況は変わったかもしれない。ワイルドボルトも出すべきじゃなかった。1年トリオも、アガりまくってたのはデカいよね。雄大だってあと1秒決断が早くしなきゃいけなかったし、蓮の油断は正直言って基本的なミス。美桜のギャロップはもっとすばやさのトレーニングをしとくべきだったし、快斗はこだわる技をしっかり固めとくべきだった」


でも、と、部員それぞれの顔を見ながら指摘をしていった詩織が言う。「でもね」


「チームバトルは個人の責任じゃない。誰かがミスっても、別の誰かがカバーすれば良かった。負けたのは、私たち全員の責任だし、逆にカントー決勝まで進めたのもみんなで頑張ったから」


パチ、という音と共に、炎の中のきょうせいギプスが黒く焦げていく。


「だから、今回のことをいつまでも引きずらないで!! 次に向けて頑張らないと!! 1年生と2年生は秋の高校リーグ、3年生は受験勉強! 今まで以上に励むことっ!!」

「はいっ!!」


涙に震えた、みんなの声が唱和する。

「じゃあ、最後にいつものいくよ」堂々とした、頼り甲斐のある詩織の声。部長としてのこれを聞けるのも、今日が最後になる。


「お疲れ様でしたッ!!」

「お疲れ様でしたッ!!!!」


張り上げた声と入れ替わりで、河原の湿った空気と煙が喉に入っていく。

体中の水分が無くなりそうなほどに汗をかいて、涙を流したみんなの顔は真っ赤だった。最後の体力を振り絞り、これから焚き火の片付けをする。まだぐずぐずという泣き声が響く中、私は「水汲んでくるね」とバケツを持って川の方に向かった。


制服が首筋に張り付いている。肩につかないくらいに伸ばした髪も同じ。

スカートの腰に手を当てると、熱っぽくなった2つのボールが掌に触れた。太陽はますます高く、立ち昇る陽炎は焚き火によるものか太陽によるものか判別がつかない。


「暑いなぁ…………」


思わずそう声に出した私の頬に伝うのは、やはり涙ではなく汗だった。





翌日、私は高校の体育館に併設されたバトルコートを訪れていた。

もちろん、来る必要なんて無い。昨日で私たち3年生は部活を引退して、もうここでトレーニングすることもなくなったのだ。そもそも今日は大会直後の休みの日だから、3年生どころか後輩の姿もなかった。

ドアを開け放した体育館の中からは、バスケ部かバレー部か、それかダンス部の声がうっすらと聞こえてくる。そういえば、男子バスケ部がブロック大会に進んだらしい。確か試合は明後日だったはずだ、今頃練習に励んでいるのだろう。


本当は今頃、塾で自習をしているつもりだったのに。着なくてもいい制服を着て、来なくてもいい学校に来てしまった。


バトルコートの、鉄で出来た扉を押し開ける。ぎぃぃ、という音と共に開いたそれを完全に開けてしまうと、見慣れた、使い慣れたコートが視界に広がった。むわっと押し寄せてくる湿気た空気の向こうにあるのは汚れまくったリノリウム、所々が剥がれた白線、何度も撃ち込まれた技のせいでへこんだ壁。天井に空いた穴の数も場所も、私は目を瞑ってだって思い出せる。

あそこは詩織のギルガルドが、シャドーボールを繰り出した時についたキズ。あそこは蓮のエレブーが、10万ボルトでつけた焦げ跡。あそこは1年生の集団トレーニングで割れかけたガラス、あれは2年トリオがトリプルマッチの練習をしようとして焦がしたカーテン。そこも、あれも、あそこにも。私たちの記憶が、コートのあちこちに残っている。


私のシビルドンがかえんほうしゃで焼いてしまった柱の足元が目に入る。

汗だらけになった背中に風があたって、不安になるような涼しさがあった。



「…………波尾?」



その背中にかけられた声に、私はハッと振り向いた。先生だったら何と言い訳しよう、と咄嗟にした心配は杞憂に終わる。

コートの扉の一歩外に立っているのは、私と同じくここの制服、白いシャツに紺のスラックスという男子生徒だった。そして私と同じく、本来はもうそれを着る必要も無いし、ここに来る必要も無い、3年生の生徒だった。



「星野…………何してんの、こんなとこで」



そりゃ、俺が聞こうとしてたんだけど。

我が高校の誇るポケモンコンテスト部の主将――そして、昨日行われた地方大会の決勝戦で惜しくも敗退したという彼――2年生から同じクラスだった星野大地は、私を睨むようにしてそう言った。





「波尾は進学希望か……えー、第一志望がここね、ふんふん……」


夏休みを目前にした、担任との二者面談。机を2つ突き合わせて、私と向き合う担任の須田先生は私の出した進路希望調査票を見ながら呟いている。


「まぁ、全く無理ってわけじゃないけど……結構勉強しないと厳しいと思うぞ、今のお前の成績だと。それはわかってる?」

「はい、承知の上ですよ」


私が苦笑すると、先生も笑って「ならいっか」と再度調査票へと視線を落とした。「数学は頑張らないとな」などと言いながら彼はしばらく考え込んでいたが、やがて「なぁ」と私の方を見た。


「波尾。進学で、いいんだよな?」

「………………」

「確認しときたいんだけど。卒業後に旅に出たり、養成校に行ったりではなく、普通の、四年制の大学で……」


須田先生はジグザグマに似ている。みんなに言われているその特徴を、じっとこちらを見てくる先生に思い出した。


「はい」


むしろジグザグマ本物よりもクリクリしているかもしれない、中年になっても尚丸っこい瞳に映った私が言う。


「私は、進学希望です」


先生は丸顔を数秒固まらせていたが、「そっか」と一度頷いた。こめかみに伝う汗が、水色のシャツに落ちていくのが見えた。

開放した窓から風が入ってくる。揺れたカーテンの隙間から、晴れ渡った空を飛んでいるオニスズメの姿が見える。

スカートの上に合わせた両手が、じっとりと湿っていた。





星野大地のことは、それなりに知っている。


2年生後期、彼がコンテスト部の1番の実力者として主将に選ばれたのと時を同じくして、恥ずかしながら私もまた、バトル部のエースと呼ばれるようになった。

その2人が同じクラスということで、級友や先生から何かとセットで扱われることが多い。そのせいか彼とは言葉を交わすことも自然と増え、何度か一緒に帰ったこともあった。フレンドリィショップに立ち寄り、お互いにオススメの品を教え合ったりもしたと思う。とはいえバトルとコンテスト、目指すものもそのための下積みも違うため、ものすごく意気投合することもなかったけれど。


「私は、…………なんとなく」

「じゃあ、俺も。なんとなく来た」


コートの扉に手をかけて、星野が私の言葉を繰り返す。「何それ」と言ってみると、彼は吊りがちの瞳をきゅっとさせた。


「だから、なんとなく。昨日まで毎日来てたから、つい、って感じ? なんとなくだよ」


ポケモンの技に耐え得るこのコートは、バトル部のみならずコンテスト部の練習場所でもある。そういえば、彼と一緒に帰るのは決まって、部活後の自主練をしていたら我々2人が最後に残っていたという時だった。

星野も同じことを思い出したらしい。「この時間にここでお前といんの、初めてだな」と彼は笑う。


「部活休みの日に来るなんて、さすが、毎日最後まで残ってただけあるじゃん? しゅしょーさん」

「それはお前もだろ。バトル部エースめ」

「もう違うよ。昨日で、それは終わったから。もうエースじゃないし、今日は休みじゃなくて、そもそも部活無いし」

「俺もだよ、もう主将じゃない」


星野がそう言って、雑草を踏みながらこちらへ歩いてきた。私の隣、コートと外を隔てる敷居の上に立って、星野はコートの奥を見つめた。


「終わっちゃったな」

「うん。終わっちゃった」

「お疲れ、エース」

「そっちこそお疲れ様。主将」


私たちは一度、そこで黙り込む。

コートに面した裏庭に生息している、ニドランの鳴き声が聞こえてきたような気がした。この前生まれたばかりだろうか、幼く、あどけない、高い声。


「……あのさー、星野。私、負けたんだよね、決勝で」


なんでそんな自供をしたのか、自分でもわからない。

星野は数秒の間をおいて、「知ってる」と言った。「俺も決勝で負けたよ、波尾」と彼が続けたので、私も「知ってる」と返した。





「先輩! よろしくお願いします!」

「お願いします!」

「よろしくお願いします!!」


コートに散った1年生トリオと彼らのポケモンたちが、揃って両眼を私に向ける。「んー……っと、そうだね」少し考えてから私は背中を壁から離し、彼らのいるコート中央へと歩いていく。


「梁間のバッフロン、この前よりスタミナ上がってるね。動きにキレも出てきたし無駄な回りこみも減ってきた……でも、まだまだ隙が多すぎ! そんなんじゃすぐやられちゃうよ、梁間はよく見て指示のタイミング考えて!」

「ハイッ!」

「武藤、カビゴンは動きが鈍い分一撃一撃が大切ってわかるよね。もっと相手の動き見極めて、少しでも重い一撃にして。耐久性はすごいいいから、これからもトレーニング欠かさずに」

「はい!!」

「喜緑はキノガッサ、もしかしたら足痛めてる? わかりにくいけど時々、引きずってるように見えたから今日はケア多めにしてあげて、もしアレだったらセンター行って。この時期だから疲労骨折もあり得るし」

「わかりました!」


それぞれにアドバイスを終えた私に、隣に立つ詩織が「よく気づくね、あの速さで」と呟いた。「うちの自慢のエースだよ、ホント」と笑う彼女のポニーテールに私は苦笑で返す。

部活では自分のトレーニングだけすれば良いのではなく、こうして互いにバトルを見せ合いアドバイスを言い合うのも練習の一環だった。とりわけ私には、ありがたくもあり荷が重くもあることであるがこうして指導を求められることも多く、その日――中間式の午後も1年生たちのバトルを見ていた。


「やっぱり、波尾先輩はすごいですよね!!」


勝手に休憩モードに入ったカビゴンを撫でながら、1年生の1人、武藤が目をキラキラさせながら言った。


「強いだけじゃなくって、バトルにすごい詳しいし!」

「わかる! なんでそこまでわかんの!? ってくらいわかるよな」

「ねー! 先輩みたいになれれはいいのに」


瑞々しい彼らの褒め言葉は素直に嬉しく、また照れ臭い。蒸し暑いコートで元々汗をかいていた顔がさらに熱くなった私の脇腹を、にやにや笑いの詩織が突っついてきた。

「そんなすごくないって」謙遜を述べた私に、水を飲んでいた2年生から「いやいや、結海先輩は俺たちの憧れですよ」とさらなる言葉が飛んでくる。ヌメルゴンの使い手である彼は、ペットボトル片手にこう尋ねた。



「先輩はやっぱ、卒業したら、旅とか出たりするんですか?」


「…………どーだろ、まだ、考え中」



曖昧に笑って曖昧な返事をする私に、彼は「ソーナンスか!」と明るく返した。

「絶対そうすると思ってた!」「だよな、だってもうプロ並だもん先輩!」「りゅうせいのたきとか、テンガン山とか行っちゃいそうだよね」無邪気に言い合う1年生たちに、私は何も言わなかった。


「さ、私も自主トレしなきゃ」


トレーニングウェアの腰につけたボールに手をかけ、壁際から歩き出す私を、詩織の両眼がじっと見ていた。





「あっけなかったよー、ホントに。……もうちょっといけるつもりだったんだけど」


ローファーの底で、敷居の金属をきゅっとなぞる

「でも、お前だけで3人倒したんだろ」星野がそんなことを言った。私はちょっとだけ笑って、「まぁ、それはそうなんだけど」決まりが悪くなってしまう。「ちゃんと勝てたわけじゃないから」


「1人目のチャーレムはとびひざげりを外して、それで自滅しただけ。メガニウムも、私の前に戦った後輩の残したもうどくで倒れたんだし……。2人目はマタドガスにだいばくはつさせて、それで終わり。私も使えばよかったよ、それでシビルドンに、かなりダメージもらっちゃったし」

「ふーん。俺はバトルのことよくわからないけど、厳しいんだな」

「厳しいよぉ……ま、私だってそっちのことはわからないよ」


せいぜいテレビかネットか雑誌の世界である、コンテストのことを思い浮かべながら私は星野の方を見る。後ろ髪が汗で濡れ、血管の浮き上がる首筋に張り付いていた。


「うん、…………あのな、被ったんだよ」

「被った?」

「ポケモンが。俺の前のパフォーマーと、俺のポケモン。メインにピクシー持ってきてつきのひかり使わせて最後にムーンフォース、ってコンボまで、全部」


うわ、という呻きが私の口から自然に漏れる。


「しかもそれ、タマムシ志学園のエースでさ。全部持ってかれたよな、俺がその後に同じことやってもマネにしか見えねーの」


うんざりとした口調で言ってから、「なんて、な」と星野は視線を靴に落として呟いた。「そんなん、言い訳なんだけどな」


「被ったなら、それを逆に利用してやればいいんだ。そいつ以上のパフォーマンスを同じポケモンと同じ技で出来たら、確実にこっちが勝てるんだからさ、普通に違うことするよりウケもいい……でも、俺はそれ、出来なかっただけ」

「……なるほどね」

「全部持ってかれてそのままだった。そのまま、負けたんだ。俺は」


元の位置に上がってきた星野の視線は、さっきと同じ風だった。コートにやって来たと同じ、いつもの彼のそれだった。

「私もさー」私もまた、いつもの私と同じ風に話し出す。


「あたった、4人目……相性悪かったんだよね。こっちはどくとでんき、向こうじめんとドラゴン。交代してもどっちもいまいちで、長引いて結局負けちゃってさぁ……決勝戦は全体的に相性悪かったんだけど、私以外のみんなにとって。順番違ったら、勝ててたかも」

「すげぇよな。ホント、運だもんな、そのへん」

「それね…………でも、私も、言い訳なんだよね。何も単タイプ技構成じゃあるまいし、相性なんて強けりゃ乗り越えられるっつーの」


ははは、という笑いが私の口から零れた。隣の星野もまた、同じように笑っていた。


「あと一歩だったんだよな」

「そうなんだよね、全然、無理ってわけじゃなかったのに」

「残念だよなー」

「残念だよねー」


残念、残念。

残念。

星野とその言葉を繰り返しながら、私はシャツの襟元を掴んで風を送り込む。しかしコートの蒸した空気が入ってきたところで、何の涼しさも得られなかった。





「あのさ、詩織は、旅行ったこと、あるんだよね」


地区予選の前日、私と詩織は薄暗い帰路を歩いていた。

日の高い夏とはいえ、8時を回るとさすがに暗くなる。さっきまでは部員のみんなもいたのだけれど電車組と別れ、バス組と別れ、最終的には自転車を押す彼女と2人きりになるのが常だった。


「どしたの、急に」

「んー、気になって。ね」

「旅に出ようと、思った?」


そんなんじゃ、ないけど。きちっとしたポニーテールを揺らしてこちらを覗き込む詩織に、私は思わず黙ってしまった。

詩織と会ったのは高校に入った時だったけれど、中学に編入するまでジョウトを旅していたのだと聞いたことがある。「そう、まぁ、いいけど」詩織はそんなことを呟いて、星のロクに見えないうすら明るい空を見た。


「楽しかったよ。いろんな人に会えたし、いろんなポケモンに会えた。強くなったのも、旅してたからだと思う。バトルを好きになったのも、ポケモンを育てるのにハマったのも」

「うん」

「でもね、……悪いことは無かった代わりに取り立てて成功したわけでもなかったんだよね」


道脇の街灯に、大きなモルフォンがバサバサと張り付くようにして飛んでいた。

もがくような動きは見ていて痛々しい。白い、人工的な光に照らされ、ひたすらに鱗粉を撒き散らしている。


「リザードが進化したのも、結局、旅が終わって、中学に通い出してからだった。この子が進化したらもう少し続けよう、って思ってたんだけど。だから旅をやめたんだけど。それで、…………つまり、私はそういうものだったんだな、って」


その後、間もなく詩織とはそれぞれの家へと向かうY字路で別れた。

彼女は私に何も聞かなかったし、私もそれ以上、彼女に何かを聞くことはしなかった。汗で滑る手で自転車のハンドルを握り直しつつ、頭の中に、詩織のパートナーであるリザードンの姿を思い描く。コートを悠々と飛び回るその翼は、いつかの詩織が望んで、しかし手に入らなかったものだった。





「そういや、さー」

「なに」

「お前の動画、昨日見たよ。ネットニュース? だかで」


思い出したように言った星野に、私は「ハァ?」とガラの悪い声を出してしまう。そりゃあ全国大会出場を賭けた試合だったし、カントー地方のニュースになるのはわかってたし、私がバトルしているところの動画がネットに上がるのだってこれが初めてではないけれど。


「何見てんだよ、なんかヤなんですけど」

「ひどくね? その反応。……ふつーにすごいって思ったけど」

「なにそれ……恥ずいからやめろ」

「褒めてんだよ」


かっこいいって思ったから。星野はきっぱりと言い切る。「ユニフォーム着てさー、ボール高く投げてさ。強いんだな、ってこと俺でもわかった」彼の両眼が私をとらえた。

「あんたもすごいと思うけど」反撃のつもりで言ったけど、言ってることは本心だ。「パフォーマンスしてる写真とか、ステージの動画とか見たことあるけどさ」学校の手紙やネットにアップされた星野の勇姿を思い出しつつ私は言う。いつもの、こう言っちゃなんだけどごく普通の男子高校生である星野が、衣装であるところの鮮やかなブレザーに身を包み、ピクシーやキルリア、エルフーンと華麗なパフォーマンスを決めていく様子は普段の彼と見違えるようだった。


「なんかさー、キラキラしてて、綺麗で、ステキだったよ。ステージの星野」


ポケモンの魅力を引き出して、夢のような世界を作り上げていく彼は、まさしく輝きの頂点に立っているのだと思った。

このために、きらめく世界に観客を誘うために彼は、生まれてきたのではないかと思うほどだった。


「どうやったらこんな、すごいステージに出来るんだろって思ったし」

「やめろよ。照れんだろ、そういうの」

「本当のことだからね」


頭を掻く星野に私は笑った。「なんか、ね」少し言葉を探して、私は星野の少しばかり赤くなった横顔に言う。



「なんかね……パフォーマンス中の星野、なんつーか…………ホントの星野、って感じがする」



自分でも意味のわからないことを言ったと思った。でも、それ以外にどう言うべきか計りかねたし、一番適した表現だとも思った。

「ホントの俺、ね」星野が、ちょっと笑いながら反芻する。「繰り返すの恥ずかしいからやめて」それを指摘した私に、彼は目を細くして「でも、それ言うなら」と言葉を続けた。


「バトルやってる波尾は、ホントの波尾って感じする、と思う。俺も」

「ん…………」

「コート駆け回ってさー、自分よりでっかいポケモンとか危ない技とか怖がりもしないで間走って、大声で指示飛ばしまくってさー。一瞬たりとも見逃さねぇ、って感じの怖い目して、全身使って戦ってるの。ポケモンよりもある意味、一番戦ってる。コートで生きてるって感じ、バトルしてんの、ホントの波尾なんだと思う」


こっぱずかしいことをのたまう星野の脛を私は軽く蹴飛ばした。「照れるっつってんじゃん」「お前もさっき同じよーなこと言ったからね」膝下までの靴下越しに、今度は私の脛が蹴られる。鈍い痛みがふくらはぎから広がって、片足全体に行き渡っていくみたいだ。

今頃、部員のみんなは何をしてるだろうか。唐突にそんなことが気になった。詩織や快斗、蓮は夏期講習に行っているだろうし、1、2年の何人かも同じスケジュール。梁間は今日から家族でカロス旅行と言っていた。お土産にミアレのスイーツ買ってきます、と宣言してくれた彼女は今頃飛行機の中だろう。


「あのさ、星野」


それぞれの夏休みを過ごしているであろう彼らの想像図が、暑さに浮かされた頭に描かれては消えていった。



「ホントの私たちがそれなら、……バトルとかコンテストやめた場合の私たちって、何なんだろうね」


「……………………」

「……何でもないか。うん、何でもない」



言っておいて話を打ち切った私に、星野はそれ以上突っ込んではこなかった。代わりに彼は、「波尾はさぁ」と前を見たまま尋ねる。


「旅、したことある?」

「無いよ。星野は」

「俺も無い」


答えはすぐに返したし、すぐに返ってきた。「今まで一回も無い」彼の答えは、私のそれと全く同じだった。





「波尾さんは、大学進学に決定でいいのかな」


そう尋ねてきたのは、予備校の先生だ。

ブロック大会を3日後に控えた私は、練習が終わった後に3年の部員仲間と一緒に予備校へと向かった。授業を受ける彼らと別れ、私は教室長との個人面談をしていた。


「はい」

「よく、考えたかい?」


丸眼鏡の奥の瞳が私を見る。「大学のサークルは、今までとは違うんだよ」温かくも重い声色が、クーラーの効いた部屋に響く。


「今までみたいに、プロを見据えて頑張るって感じじゃないとこがほとんどだ。そりゃあ中には真剣に、プロを視野に入れてのところもあるけど、少なくとも君の志望校は違う。強くても、あくまで趣味の範疇。それはわかってる?」

「……はい」

「君なら、高跳びもアリだとは思うけれど」


教室長はそこで言葉を切った。「まぁ、まだ本決まりしなくてもいいよ」と微笑み、壁にかかったカレンダーに視線を向ける。アンノーン文字が大きく書かれたシンプルなそれを見て、彼はゆっくり、ゆっくり言った。


「まずは大会で悔いの無いように頑張って、それで、また考えなさい。悔いの無いようにね」


教室長のその言葉は、何に対してのものなのか計りかねた。

しかし、先ほど私が答えようとして一瞬空けてしまった間のことをこの、幾多の受験生が分かれ道を進んでいくのを見てきた人が気づいているのだということは、はっきりとわかった。





「……星野は、旅、したくなかったの?」


私の問いに、星野は「どうだろな」と首を捻る。


「行きたいって思ったことは、無いかもな」


別に行く必要なんて無いと思ってたから。彼はそう続けた。旅なんて行かなくてもコンテストは出れるし、パフォーマンスの練習だって出来るしな。彼はそんなことも言った。


「うん、……私も」

「そっか」

「同じこと思ってた。別に、ハナダにいたって十分、バトルは出来るしポケモンと強くなれるから、って思ってた。ジムもあるし、ジム目当てのトレーナーがたくさん来るからそういう人たちにバトルふっかけたりして、トレーニングは十分出来た」


うん、と星野が頷いた。


「あと、部活があったもんね」


うん、とまた、星野が頷いたのがわかった。


「小学校からバトル部に入って、いっぱい戦えたから。練習試合だつって遠征行ったり強いコーチに教えてもらったり、場所もあったし。ケアの仕方とかも全部、部活で習った」

「だな。俺も、パフォーマンスのやり方とかポロックの作り方とか部活だ、全部」

「部活やってれば、強くなれたんだよね」

「そう、部活やってれば、プロ目指してられた」


「でも、もう、終わりじゃん」


今度は、星野は頷かなかった。

頷きたくないのか、頷けなかったのか、わからない。


ただ、私が星野だったらやっぱり、頷かなかったとは思う。



「もう、部活終わっちゃったじゃん」





「結海、本当にいいの?」


いつものように部活の練習が長引いて、くたくたになって家に帰った日のことだった。

カントー大会まで、1週間を切ったその日だった。食卓を挟んで、私とお母さんは向かい合っている。時計の針は11時半を指していた。

私の分の食器だけが積み重なったシンクが、お母さんの後ろに見えた。


「うん、だからさ、この前も言ったけど、私は……」

「結海がいいなら、お母さんもお父さんも、何も言うことはないけれど……」


テーブルに並んでいるのは数冊のパンフレットや冊子だった。父親が買ってきてくれたらしい。『18からの旅トレーナー』『はじめてのトレーナー修行ガイド』『上級者向け! オススメトレーニングスポット』そんな文字が躍るものと、あとはエリートトレーナー養成校のパンフレットがいくつか。そのどれも、私は中身を知っている。

家で読んだんじゃない。自分で、本屋で探して読んだ。ここにあるものだけじゃなくて、似たようなものをいくつも読んだことがある。

だから、この本たちに書かれていることをしたくないといえば、それは全くの嘘になる。


「あのね、結海」

「うん」

「お父さんも私も、結海には、結海のやりたいことをやってほしいの」

「うん」

「大学に行きたいのなら、それを応援する。もちろん、ちゃんと勉強しないとダメだけど……でも、結海がそうしたいのなら、いいの」

「うん」

「でも、本当に、大学に行きたいと思ってるの?」


お母さんの両眼が、私をまっすぐ見つめていた。

ああ、この人は全部気がついているし知っているのだな、ということを強く感じた。私が何をしていたのかも、どう思っているのかも、どのくらい揺れているのかも、全部わかっているのだろう。


「ねえ、結海」


「旅に行きたいのなら、行って、いいのよ」


「そんな重く考えないで」



「夏休みの延長線とでも考えればいいの」



この人の言葉は、いつだって私の背中を押してくれる。

どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、この人の言葉があったから私は今の私まで進んでこれたのだ。


だけど、今回は。



「ごめん、今日、もう疲れちゃったから寝るね」



押されたままに歩いていいのか、わからなかった。





「ねぇ、星野」

「なんだよ」

「星野はさ、…………これから、どうしたい?」


暑さでゆらゆら揺れて見えるコートに、私の声が溶けていくみたいだった。


「負けたけど、でもまぁ、勝負って運もあるから……そりゃ運も実力のうちっていうけど、でも1回の負けではっきり決まるわけじゃないでしょ」

「……………………」

「星野。どうすんの、これから」


汗で湿った太腿を風が撫でていく。気持ちいいような、気持ち悪いような奇妙な感覚だった。

星野は私の質問に答えないで、ただ、コートの方を見ていた。茶色っぽい短髪が、風に揺れてさわさわした。気の強そうな横顔。思えば、こんなにも近くで見るのは初めてだった。


「確かめに、来たんだ」


口を開いた星野に、私は尋ね返す。「え?」確かめるって。何を。多分表情でそう言った私に、星野は前を向いたまま続ける。


「自分のこと。俺のことだよ、俺を確かめに来たの。今日は、ここに。俺が全部を懸けたこの場所なら、わかると思ったから」

「……………………」

「俺ね、本番終わって、負けだってわかってから、何も感じなかったんだ。ただ、なんかぼんやりしてた。部員の奴らとかみんな泣いてんのに、顧問の大橋すら泣いてんのに、俺、全然泣けなかった。泣くどころじゃなかった。何もわかんなかったんだ、今、自分が、どんな気持ちかって」


解散して家に帰って、今日起きてもわかんなかった。星野は言う。「だから、ここに来たんだ」


「…………で、わかった?」


私はそう尋ねた。

誰への質問だったのかは、自分でもわからなかった。


「うん」


星野は答えた。

2つの目に、コートを映して彼は頷いた。「わかったよ」2年と5ヶ月、涙も汗も技の数々も、いっぱい受け止めてくれたコート。バトル部にとっての家であり、コンテスト部にとっての基地だったコート。嬉しいことも辛いことも、全部が起こったコート。

それを見据え、星野はまっすぐに立っている。


「ちゃんと、わかった」


その声には、少しの震えも混じっていない。


「…………俺はさ、」


そう言って、星野はいったん言葉を切る。

そして口を大きく開けて、深く息を吸って、足を開いて腰を落として両手を強く握り締めて目を瞑ってすごくすごくすごくたくさんの息を吸って、




「勝ちたかったよぉぉぉぉぉぉッッッッ!!!!!!!!!!」




星野が、叫んだ。



「もっと上まで、行きたかったぁぁぁぁッッッ!!!!」



コート中に響く大声で、星野は叫んだ。



「負けたくなかったぁぁぁぁ!!!!」


「悔しいよぉぉぉぉぉッッッ!!!!」


「悔しかったよぉぉぉぉぉッッッッ!!!!」


「こんなんで終わるのは嫌だああああああ!!!!」


「ここで、終わりたくなかったぁぁぁぁッッッッ!!!!」


「勝ちたかったんだよおおおおおお!!!!!!!」


何度も、何度も、何度も叫んだ星野は肩で息をする。彼の頬は濡れていた。それが汗だけじゃないことは、鼻をすすってコートの奥を睨みつけている彼を見ればすぐわかった。

息を荒げて、むせるようにつっかえて、痛そうなくらいに拳を握りしめて、それでも星野は叫び続ける。


「頑張ったんだよ!!」

「ずっと頑張ってたんだけど!!」

「男のクセにコンテストパフォーマーとか、フェアリータイプがどーとか、そういうの言われるの嫌だったけど見返してやろうと思ってさぁ!!」

「もっとポケモンのことステキにしたいとかいいステージ作りたいとか考えて頑張ってたんだよ!!」

「でも、終わっちゃったんだよおおおぉぉぉッ!!!!」


「悔しかったああぁぁぁッッッッ!!!!!」


私の存在など無いことになってるみたいに、星野は叫ぶ。

顔中、汗と涙でびしょ濡れにして、星野は叫んだ。

悔しい、悲しい、終わりたくない、って、叫んでいた。



「頑張ったのにいいいいぃぃッッッッッ!!!!!!」




「………………私だって、」



「私だって、頑張ったんだあああぁぁぁぁッッッッッッッ!!!!!!!!」



いっぱい、いっぱい、息を吸って、私も叫んでいた。


「頑張って頑張って頑張って頑張って、頑張って頑張ってたんだあああぁぁぁぁッッッッ!!!!!!」


頭に血が昇って、沸騰しちゃいそうなくらいに顔が熱くなった。


「強くなりたかったんだよおおおおッッッ!!!!」


喉から声だけじゃなくて、血とか食べたものとか心臓とか、全部出てきちゃいそうだった。


「勝ちたかったんだよおおおぉぉッッッッ!!!!」


蒸し暑さなんて吹き飛ばしちゃえそうなほど、身体が熱でいっぱいになっていた。


「全国大会、行きたかったあああぁぁぁッッッッ!!!!」


鼻の奥がつんとする。

目の奥もぎゅうと痛い。

喉の奥に火の塊でも入ってんじゃないかと思った。

おでこから汗が噴き出てきた。

首筋もシャツの中の脇腹もスカートに隠れた太腿も全部、暑苦しい汗でびしょびしょだった。

心臓がドキドキした。


「みんなと一緒に勝ちたかったぁぁぁ!!」

「死ぬほど頑張ってきたのに!!」

「花二のエースって呼ばれて責任重すぎて無理だ出来ない他にいるでしょどうにかしてよって思ってもでも頑張ってきたんだよおお!!」

「勝ちたかった勝ちたかった勝ちたかった!!」

「終わりたくなかった!!」


「終わりたくなんか、なかったぁぁぁっっ!!!!」



叫ぶうちに気がついた。

泣いてること。涙が出てること。


悔しくて、悲しくて、未練がどんどん湧いてること。



自分が、終わりを辛いと思ってること。


それをやっと、私は感じていた。



「うん」


滝みたいな涙を流して、コートに響く私の声を黙って聞いていた星野が頷いた。「終わりたく、ない」コンテスト部の主将は、濡れた瞳で私を見た。「まだ、やりたい」


「そう、私も……私も、終わるの、嫌だっ!」


叫ぶのと一緒に涙と鼻水と汗が出てくる。リノリウム張りの床に落ちたそれは薄いシミになって、でもすぐ消えた。

呼吸を整える私の耳に、隣の体育館から聞こえる運動部の掛け声が届く。3年生か、それとも1、2年生か。どちらにしても、まだ、終わってない。彼らの夏は、まだ終わってないんだ。

なんて羨ましいんだろう。



「……でもさ、波尾」



「ホントはまだ、選べる、よな?」



星野の言葉に、私はすぐに答えられなかった。

なんでわかるのだろうか、と考えかけて、そうではないと思い至る。彼は私と同じ所に立っているのだ。彼はコンテストで、私はバトルで。同じ分かれ道に立っている。

両手でスカートの裾を握ると、べたついた布の感触がした。皺になるな、と思ったけれども今更だった。「俺たち、まだ終わらなくても許されるんだよな?」星野の声が、叫んだのと暑いのと汗のかきすぎでガンガンする頭の中に反響した。


「俺さ、勧められたんだ、進路指導の神谷先生に。普通の大学じゃなくて、みんなと同じ文系志望じゃなくて、もっと別に……考え直さないか、って」

「うん。私も、そう」

「やっぱり? お前、どこ志望なの」

「クチバ港大学……星野は」

「クチ港ね。バドサー本格的だもんな、俺はタマムシ外語大だよ、理由はわかるだろ」


星野が言ったのは、コンテストのサークルが有名な大学名だった。「やめる気はさらさらないんだよ、俺だって」そう、その通りだ。バトルから離れる気なんて、これっぽっちもあるわけない。「私もだよ」鼻水の詰まった声で、そう返す。


「でも、違うんだよな」


そう、違う。神谷先生の言ってることは、そういうことじゃないって、私にもわかる。


「旅には出ないのか、って言われた。進学しないで、もっとコンテストの、……プロを目指すつもりは無いのか、って」

「お前なら今からでも修行すればプロになれるんじゃないか、先生コンテストのことよくわからないけど主将のお前なら出来るんじゃないか、いやもちろんお前の行きたい大学ならそうするのが一番だけど…………って、さ」

「そんなことはないと思うけど、流れで大学進学にしてたり潰しがきくからみたいな理由だったりするなら、もしそうなら、考えてみるのもアリなんじゃないか、って」

「親御さんもお前の意向を尊重する、って言ってくれてるんだし、って」


「だから俺は、『大会が終わるまで待ってください』つったんだ。……『全国大会に行けたら、プロをちゃんと目指したいって思ってます』とも、言った。」


まぁ、その結果がこれだけど。自嘲するように星野は笑ったが、その頬には涙がひっきりなしに流れている。

「別に、全国行けなかったらハイやめます! みたいな意味じゃなかったけど」そう言って、星野一度目を伏せる。充血したそれが上に戻ってきたとき、彼は視線を私に向けていた。



「波尾もなんだろ」



そうだよ。

私も、星野とおんなじだ。



「続けないの、って、波尾も言われてんだろ」

「うん」



言われた。いっぱい言われた。

お父さん。お母さん。じいちゃんやばあちゃん。詩織とか、同級生。後輩たち。中学時代の友達。学校の先生にも。塾の先生さえ。

バトルでプロは目指さないのか、って。

ポケモンバトルを選ばなくていいのか、って。


「そりゃあ、続けたいに決まってんだよな」

「うん」


今からでも遅くないって、みんな言う。

もちろん、遅くないわけじゃない。何かを極めるのに年齢なんて関係なくて、本人の才能と努力とやる気の問題だ。今から旅に出るのだって、全然アリだし実際、2つ上の先輩は高校卒業してから初めての旅を始めた。


だけど、私にはわかるんだ。



「でも、わかっちゃうんだよな」



自分のことは、自分が一番よくわかってるから。



「自分の限界くらい、わかるんだって」



これ以上続けても、プロのエリートトレーナーにはなれない。

可能性はゼロじゃないし、どん底に低いわけじゃない。でも、けっして高くはない。高校の部活のチーム戦で、エースなのに全国大会まで引っ張っていけない程度の実力。私は結局、その程度のトレーナーでしかなかったのだ。

そのくらいの、答えだった。



「ここからどれくらい伸びれるのかなんて、タカが知れてんだよな……!!」

「うんっ…………!」



俯いた星野が、絞り出すみたいに言う。

ああ、ダメだ。そう思った。ちょっと収まりそうになってきた涙が、また両方の目からぼろぼろこぼれ出す。胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛かった。首の中ががーっと熱くなって、喉の奥が燃え上がったみたいだ。


気を失う最後まで戦ってくれた、2匹のことを思い出す。

ダストダス。せっかく相手をもうどくにしてくれたのに、私がビビったせいで無駄死にさせちゃった。

シビルドン。私がちゃんとあんたの体力把握出来なかったから、ワイルドボルトの反動でひんしになっちゃった。

あんなに頑張ってくれたのに、私はあんたたちの力を発揮しきれなかった。


2匹を全国に連れて行きたかった。

本当は、ポケモンリーグにだって連れて行きたい。

バトルタワーのてっぺんにも、バトルサブウェイの終点にも、バトルハウスの大広間にも、連れてってあげたい。


そのために今からもっと、もっと、バトルを頑張りたい。



「でも、私は、………………!!」



目だけじゃなくて顔中から涙が溢れたみたいだ。声がうまく出せない。言葉も考えられない。



「私じゃ、もう…………っ!!」




ポケモンとの旅は、夏休みの延長線だってお母さんが言っていた。いわゆるモラトリアム。夢を追いかけるための時間。ポケモンと共に過ごして、自分の理想に近づくための道のりだ。

だけどその先、夏が終わった先に待つのは成功とは限らない。むしろ、そうじゃない人の方が圧倒的多数なのだ。

今、旅に出ることを決めて、夏休みを続けることを選んで――――つまりは、勉強とか大学進学とか就職とかそういうのを全部蹴とばして、夢が叶う可能性は果たしてどれくらいあるというのだろう。


ポケモンバトルにかかる費用は馬鹿にならない。ポケモンのケア、回復薬や栄養剤、どうぐやきのみも買わなきゃいけない。旅に出ればポケモンセンターだけは無料で使えるけどそれ以外は自前でやらなくちゃならない。今までは部活だから学校の補助をもらえたけれど、もしも旅トレーナーとしてやってくとしたら賞金を稼ぐか、短期バイトを繰り返してお金を得なければいけないのだ。

賞金だけに頼るのは流石に無謀だから、大抵の旅トレーナーはバイトを重ねているという。そうすれば確かに、バトルにかかるお金は手に入る。でもバトルのためにバイトして、お金を稼いだら、バトルのトレーニングなんて出来る時間が減ってしまうのではないだろうか?

何のための旅なのか、わからなくなりはしないのだろうか?


夢を叶えるのにはお金がかかる。時間もかかる。たくさんの犠牲を払うことになる。

その犠牲と天秤にかけて、それでも叶えたいと、叶えられると、言い切れる夢なのか?



それ以前にそもそも、他ならぬ私自身が、



「もう、強くなれるって、あんま思えない…………!!」



自分の限界に、気がついているんだ。


「俺、昨日のパフォーマンス終わった時、思ったんだ。あー落ちたな、って。でも、失敗したとも思えなかった。全部出し切って、上手くいったのに、落ちたな、って思ったの。これ以上上には行けねぇな、……って」


星野が言う。鼻をすすり、つっかえながら。「はっきり、わかっちゃったんだよね」泣いたまま、笑いながら。


「俺の夏、終わった。って」


わかる。わかるよ、私にも。

声にならない、泣きじゃくりだけでそう返す。


「別にさ、部活生活が終わっただけなんだよな。パフォーマンスはこれからもやめないし、一生続けてくつもりだし、大学入ったらサークルやるし。またいつか、チャンスが巡ってこねーかなって思うし」

「うん」

「だけど、やっぱ、部活って、ここで終わるんだよね」

「うん、うん」

「本気でプロ目指せる、最後のところ。それ、終わったんだな、って」

「うんっ…………」


所詮は部活動と言っても、私にとっては人生のはんぶんだった。

自分を賭けた、懸けることの出来た、最後の夏だった。


それが、終わった。


「終わっちゃったんだなぁ、って……!!」



目から溢れ出す涙が、頬を伝ってシャツの中に落ちた。

生温かい雫は熱を持った肌に染み込んで、不快感を残して消えていく。苦々しい記憶みたいだ。嫌なだけで何も残らない、気分の悪い思い出。


でも。

私の終わりは、そうじゃない。


そうじゃないと、信じていたい。



「だけどさ」



からからになった喉で言った私を、星野の腫れた両眼が見た。ずず、と鼻水を飲み込んで両手を握る。汗だくの拳は水でも掴んだみたいにぬるぬるだった。湿気に負けたスカートは、汗を吸ったみたいにべたべたしていた。

でも、汗はともかくそれ以外は、もう終わらせる。終わりにするために。



「だけどさ、無駄じゃなかったよ」



両目をこすって、私は宣言する。

「無かったことには、ならない」汗に濡れた手では涙を拭うことなどとても出来なかったけど、それでも良かった。「頑張ったのは、本当だった」


「うん」


私と同じように、無意味に目をこする星野が頷いた。


「無駄なんかじゃない」


きっぱりと言い切った星野が私の方を見た。汗だくで、涙と鼻水でぐちゃぐちゃでべとべとの、ひっどい顔。私もきっと同じ顔をしているのだろうけれど、これ以上無いくらいに無惨な顔だ。

でも、こんな顔をしたことは、私たちの中に残り続けるのだと思う。


「俺、今、思ったんだけど」

「うん」

「こうやって、頑張ってきたこととか、プロになりたいって思ってたこととか、全国大会行きたかったってこととか。いつか、そうしてて良かったって、思えるようになりたい」

「うん」

「あと、今こうやって、……諦めたことだって、後悔したくない」

「…………うん!」


まぶたの奥から、また熱いものがやってきた。

でも、それはもうしまっておく。勢いよく鼻をすすって、私は星野の真っ赤な両目を見た。



「なれる、なれるって…………なろう!」

「うん!!」



頷いた拍子に、汗が飛ぶ。最後にもう一度それを拭って、私たちは誰もいないコートに向き直る。

練習の後、いつもやっていたこと。

1日だって欠かさず、やっていたこと。


そして、これからはもう、やらないこと。



「ありがとうございましたああぁッ!!」



声を張り上げ、深く深く頭を下げて一礼し、私と星野はコートの扉を閉めた。







「波尾、これから予備校?」

「そうだけど、星野もでしょ。夏期講習じゃん。当たり前だって」

「まーな。お前どこ行ってんの? タマゼミ?」

「違う違う、私そんな頭良くないし。ユクシーハイスクール、駅前の」

「マジで? あそこかよ、俺その上のとこだよ、カントー個別。7階にあるじゃん」


じゃービルまで一緒じゃんね、と私は笑う。そーだな、と星野も笑った。その前に俺ら、どっかで顔洗わねーと超恥ずいよな、とも。

隣を歩く星野のシャツが、真上で輝く太陽の光を反射して眩しかった。プリーツスカートの裾が膝の裏にまとわりついて鬱陶しい。学校に住み着いているバタフリーの甲高い声と、グランドで練習している野球部の声が重なっている。全身汗まみれだし、直射日光は容赦なく肌を焼く。

門を出るところで、私は汗に濡れた右手でスカートの腰に触れた。すっかり生温くなった、金属の感触が丸く、2つ。隣を見ると星野も同じことをしていて、ベルトにつけた3つのモンスターボールに利き手の左手をかけていた。


「次に出来んのはいつになるかねー」

「少なくとも、1月以降だろうなぁ……」


それに気がつき、お互い少し笑って、私たちは学校の外へと歩き出す。


「頑張んなきゃね」

「そうだな、こいつらにいいとこ見せないと」

「ホント、その通りその通り」



私たちの夏は終わった。

夏休みの延長線を選ばないで、夏を終わらせることを選んだんだ。


でも、またどこかで――――



「さぁー、塾行きますかー!」

「ファイトいっぱぁーっつ!!」





――――この夏のことを、思い出したい。





焼けたアスファルトにローファーを踏み出す私たちのずっとずっと上、青い空に膨らんだ入道雲を大きなピジョットが1羽、横切っていった。

落とされた影の下を、私たちは歩いていく。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。