「ノコッチ狩りをしよう」
そう提案された時、僕は面食らってしまったのだが、先輩は本気のようだった。
人気のないトレーナーズスクールの教室には、僕と先輩しかいない。ジョバンニ先生も帰った放課後にスクールにたむろする物好きは僕らみたいな暇を持て余した人間くらいだ。
「ノコッチ、ですか」
対面に座った先輩は茶色がかった髪をかき上げる。耳には貝殻のピアスがあった。
「そう、ノコッチ。ほら、カッちゃんが捕まえられなかったポケモンだよ」
そう口にすると僕らの中の共通認識が思い出された。
二年前にスクールを卒業して晴れて図鑑保有者になったカッちゃんこと、カツヤという少年は二年経って、このキキョウシティの故郷へと帰ってきた。
カッちゃんは勝ち取ったジムバッチと、埋めた図鑑の数を報告し、ジョバンニ先生との面接でこれからはキキョウジムのジムトレーナーとしてやっていくという話だ。
そのカッちゃんの実績は、というとジョウトジム四つ制覇、図鑑に至っては熱心でほぼ空白のない状態であったという。
しかし、そんなカッちゃんがジョウトで唯一捕まえられなかったポケモンがいる。
それがノコッチなのだ。
「灯台下暗しってヤツでね。あたし、ノコッチのいる場所、先生から聞いちゃったんだ」
僕は身を乗り出していた。ノコッチの出現ポイントはトレーナー間でもまことしやかに囁かれている。
一説には暗いウバメの森の深くでその鳴き声を聞いただの、山村地帯で突然転がってきた岩があると思ったらノコッチだっただの。様々な憶測の飛び交う中、先輩は確信めいて口にした。
「暗闇の洞穴だよ。あそこに出るんだって」
「確かなんですか?」
夕映えの差し込む教室で先輩はニシシッと微笑んだ。この人は秘密の事を話す時、こんな笑い方をする。
「カッちゃんでも捕まえられなかったポケモンを、あたし達が捕まえたら、面白くない?」
あてつけになるだけではないだろうか、と思ったが口にはしないでおく。
「じゃあ、捕まえに行きますか?」
「暗闇の洞穴は真っ暗がりだからね。フラッシュを覚えるポケモンを持っていこう。その装備はきみに任せた」
「別にいいですけれど……、じゃあ先輩は何を持ってくるんです?」
「秘密、だよ」
唇の前で指を立てて、ニシシッと先輩は笑った。
汗ばむ夕刻を越えた辺りには虫ポケモンと鳥ポケモンが追っかけあいをしているのか、さえずりと共に、ピッと鋭い鳴き声が響く。
僕は育てておいたレディアンに周囲を見晴らせていた。レディアンのレベルじゃ、旅に出る事はまだ許されない。
トレーナーズスクールを介して旅に出るかどうかを判断する家庭は旅がらすのトレーナーよりも遥かにシビアな進路を要求される。
ジムを制覇するのに足りる実力かどうか。そもそも、卒業出来るほどの学力を備えているのか。成績、レベル、実戦、何に特化しているのかの判断に常識――。
たまにふらりと旅に出ました、というタイプのトレーナーが羨ましい時さえもあった。
「おーい」
先輩が手を振ってこちらへと駆け寄ってくる。
片方だけ結んだ三つ編みが肩と同じように揺れていた。
僕は眉をひそめる。先輩の荷物はこれからジョウト一周の旅にでも出かねないほどの大荷物であった。
「五分遅れですよ」
僕が文句を漏らすと先輩はさばさばと手を振って胸元に風を送り込む。
「いやぁー、思ったより準備に手間取っちゃって」
「そんな大装備でどこに行くんですか。暗闇の洞穴なんて歩いたら十分くらいですよ」
その言葉に、チッチッチッと先輩は指を振る。
「分かってないなぁ。あたし達はこれからあのカッちゃんの捕まえられなかったノコッチを狩りに行くんだよ? それなりに準備はしておくべきだ」
「ノコッチに関するデータは、先輩頼みでいいんですよね?」
歩き出すと、先輩はプリントアウトした情報を話し出した。
「あ、うーんとねぇ、まずノコッチはあれだ、ノーマルタイプ」
「そんなの、言われなくっても分かっていますけれど」
「で、図鑑説明は分からないんだけれど、ノコッチは相当用意周到に捕まえないとすぐ逃げちゃうらしい。逃げ足が速くって、んでもって転がったり、いびきを掻いたりする」
いびきを掻くポケモンはお目にかかった事がないな、と僕は思う。
「毒とかあるんですかね?」
「分かんないな、それは。都市伝説サイトには有毒説と無毒説、どっちもあって」
先輩は髪を掻く。僕は先輩の持っている紙切れを引っ手繰った。
明らかに怪しい、オカルト掲示板の書き込みである。
「先輩……、こんなの当てにしてるんですか?」
「だってさぁ、しょうがないじゃん。情報ないんだもん」
簡単に捕まるようなポケモンならばカッちゃんが捕まえているはず、か。
僕はレディアンしか連れていない迂闊さを少しばかり案じたが、この人に比べれば随分とマシだろう。
暗闇の洞窟は大口を開けており、一歩進んだその先から光を吸い込むかのように漆黒であった。
「フラッシュで……」
レディアンにフラッシュを命じようとした僕は、その前に光が発生してうろたえた。
先輩がヘルメット型のヘッドライトを点けているのである。
「フラッシュは諸刃の剣だ。明るくなる代わりに相手だってそんな場所には出ないだろう。あたしはこの装備で行くよ」
「……勝手にしてください。僕はレディアンのフラッシュで。レディアン、足元だけを照らすように出来るか?」
応じたレディアンが触覚から円形の光を照らし出す。
洞窟内に分け入ると早速気配を感じた。ズバットが頭上を行き過ぎていく。
手ごろな腰かけ石が見つかったので先輩はそこに座り込んだ。馬鹿みたいな大荷物のせいかもう疲れているようだ。
「先輩、ノコッチはそんな簡単に現れてくれるんですか?」
「まぁ、待ちなって。ここであたしの手に入れた最新情報が火を噴くんだよな」
フッフッフッと先輩はまたしても紙切れを取り出す。僕が覗き込むと先輩はうろたえた。
「見ちゃ駄目だよ。企業秘密なんだから」
「これからノコッチを狩ろうって言うんでしょうに、企業秘密も何も……」
先輩は咳払いし、書面を読み上げる。
「ノコッチを捕まえる心得、その一。首根っこを押さえ込みましょう。その二、転がって逃げられると面倒なので、坂道ではない、平坦な道が望ましいです。その三、ノコッチ狩りは大変危険な行動なので、二人一組でやりましょう。で、このその四が注目だ」
妙に鼻息を荒くする先輩に僕は呆れ返っていた。
「何がです?」
「その四、ノコッチは高額で売買されます。キキョウシティやジョウトでは珍しいとはいえ、図鑑にも載っているので、さほどですが、カントーに行けばウン百万円は下りません。まずは地方自治体に相談し、ノコッチをどこで売買するのが一番利益を得るのか、確かめましょう。さぁ、あなたもノコッチ狩りに、レッツトライ! との事」
つまり賞金に目の眩んだ先輩と一緒に僕はいるかどうかも分からないノコッチを捕まえさせられに来たというわけか。今さらに若干後悔していた。
「本当に、暗闇の洞窟にいるんですか?」
「あっ、疑ったね? ジョバンニ先生が言っていたんだから本当だって」
「まぁ、いいですけれど」
洞窟の中は蒸した。僕はいいが、先輩は厚着である。汗を額に掻いているのか、その汗の粒が頬を伝い落ちていくのが映った。
「脱いだらどうですか?」
「乙女に対して、洞窟で脱いだらどうですか、ってのはいただけないねぇ」
「だって暑いんでしょう?」
「あたしはへこたれないよ。ノコッチを捕まえて賞金ゲットだ」
その意気が続いたのは三十分ほどで、先輩は上着を脱いでシャツだけの軽装になっていた。
静かなのも落ち着かないらしく、ラジオを持ち寄って流している。
『オーキド博士の、ポケモン講座~』
能天気な音楽の響く中、僕らはじっと座してノコッチの出現を待った。しかし、簡単に現れてはくれないらしい。
「秘密兵器を使おう」
先輩はそう言って鞄の中から取り出したのはポケモンフードを使った仕掛けであった。
檻の構造の奥にポケモンフードが盛られている。その餌を食べようとすれば、自分の身体よりも小さい穴に入らなければならない。入り口はすり鉢状になっており、入るのは出来ても出る事は出来ない。
初歩の初歩である道具であった。
仕掛けをその辺りの岩場の陰に置いてから、僕は疑問を発する。
「ノコッチって、そもそも骨があるんですか?」
「分かんない。でも、この仕掛け、大体のポケモンに使えるから」
カントリーミュージックの流れる中、僕は先輩に尋ねていた。
「何で、カッちゃんと一緒に、旅に出なかったんですか」
「何でって、何で?」
「付き合っていたんでしょう」
スクールに流れる噂はほとんど公然の秘密だ。僕はどこか恨めしい気持ちで先輩に問い詰めていた。
先輩は大きく伸びをしてから答える。
「気分じゃなかったんだろうねぇ」
「でも、カッちゃんについて行けば、先輩なら、今頃……」
そこから先の言葉はうまく口をついて出ない。今頃、何だと言うのだ。ジムトレーナーの彼女、だと言いたいのか。自分と一緒に、こんな馬鹿げた事なんてしていないだろうと、問い詰めたいのだろうか。
カントリーミュージックが切れて、今度は別の曲になった。アップテンポな曲で最近出始めたガールズバンドの音楽だ。
「これ、めざせポケモンマスターを歌っていた人達だよね」
話を逸らさないでくれ、と僕は言おうとしたが、沈黙が辛くってその反応に乗った。
「こっちのほうがヒットした曲でしょう」
「お祭り、ねぇ……。あたしにゃ、どうだっていいや」
どうだっていいわけがないだろう。
あなたは、この曲に出てくるみたいなヒロインなんだ。
金魚すくいがまともに出来なくっても、浴衣を着ればお祭りの中心になれる人なのに。
何であなたは、僕とこんな場所で、湿っぽい洞窟の中で、一緒にいるんだ。
言いたい事の一切合財を飲み込んで、僕は先輩に聞いていた。
「カッちゃんの、どこが駄目だったんですか。だってカッちゃんは、スクールでも首席で、図鑑ももらって、それにとてもカッコよくって、僕みたいにレディアンなんて使わない。あの人のバクフーンはとても強かった」
だから、あなたは彼と付き合っていたんじゃないのか。
魅力的なトレーナーと付き合うのに相応しい人間なのに。
「ねぇ、花火しよっか」
先輩は答えの代わりに線香花火を持ち出した。大荷物にはまだまだ暇潰しの道具がたくさん入っているらしい。
ライターで火を点けて、僕らはぽつぽつと火花を散らす線香花火を眺めていた。
うだるような熱帯夜。洞穴の中はもやっとして、空気が熱を持つ。
ズバットが逆さに吊り下がって、キィ、と鳴いた。
「カッちゃんと付き合っていたとかさ、そういうの、きみは気にするの?」
初めて、先輩の口からカッちゃんと付き合っていたという事実が話された。僕は心臓を鷲掴みにされた気分に陥る。
何て答えればいいのだろう。
カッちゃんみたいな人と付き合っていたあなたは、僕みたいな半端トレーナーといる必要はない、とでも突き放せばいいのか。
それとも、何で僕みたいな何一つ出来ない人間に優しくしてくれるのか、とでも聞けば?
「……カッちゃんは、どう思っているんですか。聞いた事はないんですか」
情けない事に、口から出たのはそんな責任逃れの言葉。
「カッちゃんは、あたしなんて見ていなかったから。箔がつく、とでも思っていたんじゃないかな。彼女持ちで、トレーナーとしても強くって、図鑑ももらって……。順風満帆だよ。そんな彼を、あたし、本当に好きなのかどうか分かんなくなっちゃってさ。強いから好きなのか、人生うまく行っているから好きなのか、それともカッちゃん本人が好きなのか。あたしの頭じゃ、よく分かんないから。だから別れちゃったんだろうねぇ。一緒にいる事が一種の苦痛になっちゃって」
「じゃあ……」
口にしようとした言葉をぐっと堪える。
――じゃあ、僕みたいな人間とも、一緒にいてくれるのは。
馬鹿だ。
これじゃ、本当に、どつぼじゃないか。
僕は先輩に何を期待しているのだろう。
貝殻のピアスは誰にもらったんですか? カッちゃんからのプレゼントなら、何でまだ付けているんですか? まだ……カッちゃんの事が好きなんですか?
聞きたい事は山ほどあるのに、この先輩は一つだって聞かせてはくれない。
質問すれば答えてくれるのだろうが、僕の、風船みたいに膨れ上がった自尊心が、要らないプライドが、そんな簡単な質問さえも喉を震わせてくれない。
「じゃあ、何?」
聞くのならば、今なのかもしれなかった。
僕なんかと一緒にいるのは、あなたの中に、一粒でも、僕に対する好意があるからですか?
なら、僕と――。
「……線香花火が終わりましたよ」
決定的な言葉を吐き出せないまま、線香花火が落ちていた。先輩は少し寂しげに微笑む。
「散っちゃったねぇ」
ああ、僕はこうして、いつまでも機会を逃すのだろうな。
傷つくのが怖いから。傷つけられるのが嫌だから。
先輩と一対一なのに、何も言い出せない。
白いシャツに、浮かんだ汗のシミ。透けた水色の下着。僕の気持ちを試すみたいに、ゆらゆらと揺れる片方だけの三つ編み。
でも、僕にはあなたが髪をかき上げるたびに視界に入る貝殻のピアスばかりに気が散ってしまって。
そこにまだカッちゃんを想う気持ちがあるような気がして、何も言い出せなくなってしまう。
『さて、次の曲はキキョウシティにお住みのラジオネーム恋するポンコツさんからいただきました』
「あっ、これあたしのラジオネームだ」
流れてきたのは恋人と対面した時に何も言い出せなくなってしまう、今の僕みたいな歌だった。
あるいはカッちゃんと別れた時の先輩の?
カッコなんて気にすんな、って歌は言うけれど、僕は格好ばかりを気にしてしまって。あなたが目の前にいるのに、結局言えず仕舞いで。
曲が終わってから、先輩はぽつりと口にした。
「あたし、引っ越すんだ。カッちゃんがさ、一緒に住まないかって言うから、コガネのほうに。都会は苦手だって、あたしは反対したんだけれどね」
永遠に機会は失われてしまったような気がした。
その言葉を聞いた時、僕は絶望より先に、嘘くさい笑みを浮かべて虚飾を口にした。
「おめでとうございます」
「やだなぁ。大した事をするわけじゃないって。ただ、こうしてきみと馬鹿やれるのも、この夏で終わりかもしれなくってね」
ノコッチが現れてくれれば、この沈黙も少しばかり意義があったのかもしれない。
ただ僕は、「応援します」だとか、「よかったですね」みたいなありふれた言葉しか言えなかった。
この人の心に、僕は住んでいないのだな、と突きつけられて、曖昧な笑みしか浮かべられない。
その時、もぞもぞと地面を掘り進める影を視界の隅に見つけた。
「ノコッチだ!」
先輩の声に僕も弾かれたように動き出す。
仕掛けは、と目線を配るが、仕掛けにかかったのではなく、ただ単純に現れただけのようだ。
「虫取り網! 虫取り網!」
「先輩! ポケモンなんですからモンスターボールを投げれば……」
慌てて大荷物へと取って返す先輩が暗がりにモンスターボールを放り投げた時には、ノコッチは影も形もなかった。
一瞬だけ現れた、真ん丸とした白っぽいポケモン。
あれが本当にノコッチなのか、考えれば少しばかり疑わしい。
「捕まえ損ねちゃったねぇ」
「ですね」
「また次があるよ。今日はありがとね」
荷物を抱えて洞窟から出ようとする先輩の背中に、僕は声を投げていた。
「その、先輩」
「ん? 何?」
振り返った彼女に、僕は何を言うべきだったのだろう。
何でも許されるような気がした。ノコッチを捕まえられなくって残念でしたね。でも次は、だとか。
しかし、僕は何よりも気づいている。
もう次なんてないんだって事くらい、僕にだって。
「……馬鹿やっちゃいましたね」
「だねぇ」
ニシシッと朗らかに笑い返す先輩はもう、僕の手には届かなかった。
「ノコッチ狩り、ですか?」
尋ね返す後輩に僕は言いやる。
「うん。ノコッチを狩るんだ」
「変な話ですね。ノコッチなんてここにこだわらなければいつだって、世界中から輸入されますよ?」
もうノコッチを捕まえる意義なんてなくなってしまった。それでも僕は夏が来る度に思う。
ノコッチを捕まえに行こう。
そうすればどれだけ時間が経ったって、あの日の自分に帰れる。
「でも、僕はいつも、この季節になると、ノコッチを捕まえに行くんだ」
五分後に彼女が来なくとも、僕は暗闇の洞穴の前でレディアンと一緒に待っている。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。