進路が決まったと報告を受けて、年をとった男性教授は穏やかに微笑んだ。
また、この大学からさらにレベルの高い獣医を目指す学生が出た。何人目かなど意味はなく、ただ教え子が目標を定め、合格したことが嬉しい。この大学からは夏の終わりには去ってしまうけれど、今はまだ自分の教え子だ。己のことのように喜び、祝いの言葉をかけると、教授の目はすっと変わった。
そしてはっきりと語った。イッシュ地方へ留学する学生に、手向けの言葉を贈った。いろんな人間がいて、いろんなポケモンがいる。そして現代の恩恵にも。
「モンスターボールを投げた。捕獲できた。瞬時にトレーナーの名前とIDが記録される。
ポケモンが生まれた。瞬時にトレーナーの名前とIDが記録される。
そんなことが当たり前の現代では、トレーナーカードに書かれているIDと名前など身分証明書くらいにしか思ってないでしょう。
大切にしなさい。自分と自分のポケモンたちを大切にしてください。そしてそんなポケモントレーナーたちを全力で助けてください」
彼らを手助けして、少しでも彼らの結びつきを消さないようにと。そして、教授は昔の話だよ、と口を開いた。
もう何十年も前の戦争で、僕は獣医として従軍していたんだ。戦争も激化していて、人手が足りなくて、素人に毛が生えた程度でも獣医として重宝されたよ。その代わり、今では考えられないほどの激務だけどね。なにせ従軍しているポケモン、ああその頃は軍用犬と言ってたね。ポケモンたちが常に傷ついては死んでいくのが日常だったから。
今と同じようにね、ポケモンたちはポケモントレーナーと一緒にいたんだ。だけどその頃はこちら側の統一されたIDが首輪に付けられてたんだよ。デジタルとは便利なものだね。
僕も相棒としてガーディを連れていったんだ。向こうのポケモンも強かったからね、自分を守るためにも。若いからって理由で激戦区の島に配置されたから、本当に何度も助けられたよ。熱帯のじわっとした空気と鬱蒼としてるジャングルで、水がつきても疲労していても、ガーディの元気な様子を見ていたら頑張れたかな。
空腹も乾きもあったし、他のポケモンたちが死んでいくのを看取って記録して。埋葬する時のトレーナーの顔は今でも覚えている。遺された首輪を持ってじっと見ていたよ。毎日がそんな感じで、戦争なんて終わればいいのになあと思って過ごしていたね。今思えば、よくそんな状況にいることができたなあと思う。劣悪な環境で、自分もいつ死ぬかわからない状況だったけど、トラキチのおかげだったのかもね。トラキチはその時に連れていたガーディの名前だよ。
前線部隊からの連絡で、前線に向かうことになった時は死を覚悟したんだ。視界も悪いし、いつ敵のポケモンとか銃弾が飛んでくるかわからない。でも怖いとかよりも頭が冷静だったかな。だから見つけられたんだと思う。普通なら必ずいるはずのトレーナーがいなくて、見覚えのある首輪をつけたまま死んでいたガーディがいたんだ。
本来ならトリアージで手をかけるべき存在ではないとわかるけれど、その時は違った。トレーナーの元に返してあげたいって上官に掛け合ったんだよね。でも若造の言葉だから跳ね返された。それより負傷したポケモンに手をかけるべきだと。
うん、上官は正論だったよ。でもどうしてもトラキチと同じガーディでなぜか他人事に思えなかった。だからどうしても、と言った時に一発殴られたよ。衛生材料も足りてないのに、死んだものに構えるか、と。ならばせめて首輪だけでも持っていきたいと土下座したら、やっと許可してもらえた。
今では試合でもそんなにひどい怪我をするポケモンはいないけれど、戦争となると全身を包帯で巻かなければならない火傷をしたポケモンとか、食いちぎられたポケモンとか多かった。だいたい助からなくて、軽い怪我のポケモンしか助けてあげられなかった。ずっと自分のポケモンの名前を呼んでるトレーナーもひどい怪我とか、逆にトレーナーがひどい怪我でずっとポケモンの名前を呼んでいる人もいた。前線は思ったより地獄だったよ。それに次々に運ばれてくるんだから、休む暇があったか記憶にないよ。あるのは、そんな中で、ガーディを連れていたトレーナーを探して知らないと言われたくらいかな。トレーナーの名前もなくて、所属のIDだけで、わかるはずもなかったよ。誰かのガーディだってことはわかるんだけど、誰も名乗らなかった。もしかしたらトレーナーが先に死んでしまったのかもしれないけれどね。
昼夜かまわずに動いていたら、トラキチが突然遠吠えをしたんだ。敵のポケモンがよく位置を確認するために遠吠えをさせることがあるから、それかと思ってやめさせようとした。でもそれも意味がなかったんだ。前線に引き上げ命令を持ってきたトレーナーだったから。
これで帰れる、という思いと前線が撤退するということの意味が複雑だった。もう助からないほど重傷を負ったトレーナーが、僕の服を掴んでおいていかないでくれと言われた時は、目をそらして手を振り払った。自力で歩ける者か、もしくは軽い介助で歩ける者のみ帰れたんだ。僕も足を怪我したトレーナーに肩をかして、退路を歩んだ。
よく映画で素早く上陸する軍隊いるでしょ。撤退も同じく、身を隠せるジャングルから船に乗り上げるんだ。でも負傷者がいる分、上陸より時間がかかるし、時間は決められていたよ。それでも頑張れば帰れると励まして、怪我したトレーナーを走らせてなんとか引き上げの船に乗れたんだ。他に手こずっていた者を手伝って、その時に一緒にいた人たちを全員乗せることができたよ。
これであの地獄をみなくて済むんだ。僕はその時それだけ思ってた。助かった確証ではなかったんだけれどね。交代で休むこともできたし、あの光景を見なくていいならと思っていたんだ。
でもどこもかしこも、戦争状態ならば死んでもおかしくなかった。出征するときにもう命はないと思えと言われた通り、今度は敵のサメハダーが近づいているという連絡がきた。今でも時々被害があるくらい、サメハダーの攻撃は強いんだ。従軍しているサメハダーの鍛えられた歯なら、船底に穴をあけるくらいは普通だったからね。
なんとなく、死ぬんだなと思って自然とトラキチを呼んだ。トラキチも不穏な空気を察したのか、僕のそばを離れなかった。死ぬ前に母の作った炊き込みご飯をお腹いっぱい食べたかったなとぼーっとしてた。疲れてもう動けなかったしね。
いきなり視界にトラキチじゃないガーディが入ってきて、鼻で鳴いたかと思うと、船室の外に飛び出していって、海に飛び込んだんだ。何人か目で追っていたから、あれは幻じゃないと思いたい。けれどあんな元気なガーディはそこにいなかったし、そもそも海に飛び込んだ時点でどうしようもできなかった。
向かってたサメハダーの群れが何かに誘導されるようにどこかへと消えた。信じられなかったよ、肉眼で見えるほど近づいたサメハダーに突撃されると思ったら、全部どっか行っちゃったんだから。サメハダーが遠のく海の向こうをみて、何と無くポケットを探ったらあの首輪が出てきてね。なんとなくあのガーディが帰りたかったのかなって思ったんだ。
空からの敵襲も、海からの敵襲も拍子抜けするほどなくて、僕たちは祖国の土を踏んだ。それからしばらくして、敗戦の知らせを聞いた。
お礼だと思って、あのガーディのトレーナーを探したけれど、トレーナーの名前も、ガーディの名前もわからない状態だと何もわからなかったよ。戦後の混乱もあって、あの時、前線にいた人も連絡が取れない状態だった。
僕は帰してもらったのに、ガーディは帰すことができなかったのが悔しかった。若い情熱というか、命知らずというか、僕は獣医の仕事をしながら全てのポケモンにIDの他にトレーナーの名前、ポケモンの名前を記するべきだと掛け合った。最初はIDを記載されるだけでもありがたいことなのだと言われて門前払いだったけれど、何度もかけってるうちに賛同者が現れたり、シルフカンパニーの前身の社長と話す機会があったり。
最初は手書きのIDと名札が配布されて、こんなの必要ないと トレーナーに鼻で笑われることも多かった。でもポケモンセンターで受け取れるようにしたり、コンピューターが発展してきたら、全自動でIDの発行ができたりと工夫したよ。今のコンピューターとは処理速度が話にならないけれど、あれでかなり配布が進んで、ついに国会に取り上げられて、義務化された。
忘れもしないあの日、僕はやっとガーディを帰してあげられたと思った。トラキチの墓に、あの首輪を一緒に入れて、二匹に報告したよ。生憎の雨の日だったけれど、僕たちはようやく終戦を迎えることができたんだ。もう夏も終わる、あの時のような暑い日だった。
イッシュ地方では夏を終えて、秋から新学期が始まる。 今では世界標準となった名前とIDの義務付けの草の根の祖を知る人は少ない。それだけあの時のことは遠い昔となり、生活に溶け込んでいる。詳細な現代史で少し名前が出てくる程度だ。
IDと名前が分かればトレーナーの元に帰ることができる。不幸な事故を少しでも減らしたいという獣医の情熱と、二匹のガーディの話は語られなくとも世界の土台としてしっかりと支えていた。
希望にあふれた新入生たちはそれぞれポケモンを連れている。二度と離れないように、世界にたった一つのIDと名前で刻まれた絆で。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。