白、白、白。どこを見渡しても真っ白な世界。
もちろん、白以外の色がない訳ではない。ただ、圧倒的に白の割合が多いからそう思えてしまうだけだった。俺はこの場所が嫌いだった。
とある大きな病院の、三階の小さな一人部屋。そこで、俺は何をするでもなくベッドに寝転がっていた。体を動かそうとするたびに激痛が走るものだから、満足に動くこともできない。もう夏も終わりだというのに、こんな場所で過ごさなければならないと思うと、自然とため息がこぼれた。
何故あの場で飛び出したのだろう。
何故目を背けることができなかったのだろう。
後に立たない後悔ばかりが、頭の中をぐるぐる巡っていた。
*夏の終わりに
通常、ポケモンは人間よりも体の造りが丈夫にできている。そうでなくとも、いざとなればそれぞれが持つ未知なる力でその場を収めることもできる。そのことを信じ切ることができなかったからこそ、大型の自動車が迫る車道へ向かって駆けだした。
そいつはただ茫然と、道路の真ん中で立ち尽くしていた。
俺がその場にたどり着いた時にも、そいつは状況を理解しているのかどうか判断しかねるくらい無表情だった。小さな口は一文字に引き結ばれ、灰色の毛に薄紫のくりくりした瞳がよく映える、小さなポケモンだった。
俺がそいつを抱き上げようと手を伸ばした時、そいつと目が合った。まるで感情の読めない目だった。
次の瞬間、全てが眩んだ。
何が起こったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ一つ、自分が何か強大な“力”によってぶっ飛ばされたこと以外は。
で、気付いたらここにいた。目が覚めたのもついさっき。
それまで何が起こっていたのかさっぱり分からないまま、カレンダーを覗けばもう8月31日。明日から新学期だ。
「困った……」
何かにつけて独り言を溢す悪癖は抜けきらない。応える者がいないと分かっていても、口に出さずにはいられない性分だった。
『困ったねぇ』
「よりによって、こんな時期にこんな目に遭うとは……」
『そもそも、君はあの場で飛び出す必要はなかったんだよ』
「いや、いくらポケモンだって、車に轢かれて死ぬことだってあるだろ」
『いやいや、全く問題なかったんだけど。あんたが飛び込んでこなければ』
「いやいやいや、あんなちっこいのがそんなパワー持ってるなんてふつう思うか?」
『失礼ね……あんたを吹っ飛ばしたの、あたしなんだけど』
「何だと?俺は車に轢かれて……」
言いかけて、おや、と思った。一人しかいないはずの病室で、俺は誰と喋っているのだろう。
『あたしよ、あたし。お~い、見えてる?』
知らず知らずのうちに、頭の中に流れ込んでくる声。
首だけ動かして見てみれば、いつの間にか俺の胸元でひょこひょこと手を振る小さな影。
俺が助けようとしたポケモンが、何故かそこにいた。
「お前、何でここに」
飛び起きた拍子に、俺の胸の辺りに立っていたそいつを跳ね飛ばしてしまった。同時に、全身に痛みが走る。あっと声を出す暇もなくそいつはくるりと華麗に宙返りをして、俺の足元に降り立った。
『危ないなぁ……それに、レディに向かってお前だなんて』
「……その台詞、どこかで聞いたぞ」
『アハハハッ!冗談よ』
自制ポケモンに分類される、本来無表情を貫いているはずの顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。どこが自制しているのだと突っ込みたくなる。が、そいつはお構いなしにとことことベッドの上を歩いて、俺の顔の前までやって来た。
「んで、何度ここにいるんだよ」
『そりゃあ、正当防衛とはいえあんたが死んだらこっちも寝覚めが悪いし、生きてたとしても吹っ飛ばしたことに関して謝らなきゃなんないし。お見舞いよ、お見舞い』
つまり、こいつは自分の力だけであの状況――――大型トラックに轢かれそうになった状況を、文字通りひっくり返すことができたということらしい。俺よりも小さいニャオニクスが、サイコパワーで10トントラックを捻り潰すという話は聞いたことがあったから、その進化前のニャスパーがそれに匹敵するポテンシャルを秘めていてもおかしくはない。実際に、ニャスパーが力を開放すれば、100メートル以内のものを吹き飛ばすと言われている。が、小さくて可愛らしい見た目からはどうもそんな風に思えないのが現実であった。
「……じゃあ、俺が飛び出したのは」
『完全に無駄足ね。死んでたら、それこそ犬死によ』
「うわぁ……」
自分で自分が情けなく思えてきた。ただただ無事だった奴に心配をかけただけの、小さな親切にもならない大きなお世話だった。
『まあ、そう落ち込むことでもないでしょう。あんたがやろうとしたこと自体はいいことなんでしょうし、それに……』
「それになんだよ」
『あたし可愛いし?』
そいつはドヤ顔で平然と言ってのけた。否定はしない。子供から大人まで、ニャスパーが人気なのは周知の事実である。だが、あざとさを感じてしまうあたり、俺はひねくれているのだろうか。
『あ、今あざといって思ったでしょ!あたし分かるんだからね!』
「心読むなよ……」
『いいじゃん。あんた、今は話し相手いないんでしょ』
「うっ、何故それを……」
事実、俺が事故に遭った話は、俺からは誰にも伝えていない。ついさっき起きたばかりだから伝えようがないと言えばそれまでなのかもしれない。無意識のうちに携帯をいじることができるのなら話は別だが、生憎俺にそんな特殊能力は備わっていない。というわけで、俺は陸の孤島にひとりぼっちだ。いや、目の前に一匹いるから今はぼっちではないか。
『いいじゃん、少し話そうよ。……5分くらい?』
「短いな。んで、何話すんだよ」
『なんか面白いことないの?』
「んなこと言われてもな……」
いきなり何か話せ、しかも面白いことを、と言われても、話題はとっさには出てこない。俺は喋るのが苦手だった。
「……何であんなところにいたんだ?」
『全然面白くない』
「仕方ないだろ!それに何だよ、面白いことって」
『んー、夏休みだったんでしょ?なんか思いでとか無いの?』
「……」
言われて考えてみる。思い出と言える思い出は特にない。強いてあげるならばあの事故のことくらいだが、自分が当事者であるだけに面白いとは言えなかった。
『つまんない人生ね』
「うるさいなぁ……お前には関係ないだろ」
『せめて友達とどこかに行くとかさ』
「……」
『あ、もしかして、あんた友達いないの?』
「いるよ!一緒に遊びに行く気にならないだけだって!」
『やっぱりつまんないや。この話おしまい!』
自分で振っておいて、そいつは自分で話を切り上げてしまった。話題が見つからない俺としては都合がよかったわけなのだが、どうも煮え切らない感じが残って心がもやもやしていた。今までにこんなことを感じたことがあっただろうか、なんて考えているうちに、そいつはまた別の話を振ってきた。
『で、あんたは何であの時あそこにいたの?』
「それ俺が聞こうとした」
『いいから答える!』
「……ただ何となく、外に出てみようかなって思っただけだけど」
『あたしに会いに来たんじゃないの?』
「お前があんなところにいるなんて知ってたわけがないだろう!」
『で、あたしがトラックを跳ね飛ばそうとしている所に出くわしたと』
「完全に逆だと思っていたんだけどな」
『勘違いも甚だしいわ。小さいからって馬鹿にしないでよ』
「いや、べつにからかうわけじゃないんだが、その、なんというか……」
『あたしが可愛いから?』
「そうそう……ってあくまで主張するのな」
『いいじゃない、事実だし』
「……」
『ねぇ、あたし可愛い?』
「……」
『ねえ、ねぇってば』
「……」
何と返すべきなのか、言葉が出てこない。そいつに合わせて「可愛い」と言ってやるべきなのか、それとも何とも思っていないと言うべきか。正直、自分がどう考えているのかもよく分からなくなってきた。そうこうしているうちに、そいつが再び口を開いた。
『そんなだから友達できないんだって』
ぐさっ。というオノマトペは大袈裟ではない。友達がいないわけではないが、そいつの言葉は妙に心に突き刺さった。
「だから、友達はいるっての!」
咄嗟に言い返してみても、説得力はまるでなかった。一瞬、ほんの一瞬だけ、そいつは同情の眼差しで俺を見た。それから、
『やっと喋ってくれた』
と言って、そいつはにやりと笑った。誘導されたような気がして腹が立ったけど、何か言葉を返す気にもなれなかった。
『そろそろ時間ね』
ちょうど話が途切れたところで、そいつは部屋の掛け時計を手で示した。話し始めた時間を見ていなかったから、どれくらい時間が経ったのかは分からなかった。ただ、時計の針が示す7時30分という時間は、学校がある平日に俺が起きていた時間だった。
「時間?」
『いつまでも寝てるわけにはいかないでしょ。ほら、起きろ~!』
そいつは突然俺の肩に飛び乗って、小さな手でべしべしと俺の頬を叩く。
元々力が弱いのか、それとも加減しているのか、大した痛みは感じられなかった。
「何言ってるんだよ、俺はずっと起きて……」
いただろう、と言い終える前に、ずっと塞がれていたそいつの耳が開いた。
瞬間、強烈な光が視界を染めた。
その後のことは、よく覚えていない。
白、白、白。どこを見渡しても真っ白な世界。
相変わらずと言っていいのか、それとも今見た光景がたまたまそうだったのか、ずっと眠っていた俺が知る術はなかった。
目を覚まして最初に聞いたのは、耳元で何かがにゃーにゃーと鳴く声だった。顔を声のする方に向けて、事故現場で俺を吹っ飛ばした(らしい)灰色の子猫が鳴いているのだと分かった。人間の言葉を喋れるのではなかったかと思い、すぐにそれが夢だったと気付いた。人間の言葉を話せるポケモンは限られている。目の前の小さな子猫がその限られたポケモンの中にいるのかどうかは分からなかった。ただ、その鳴き声を聞いてどこかほっとしている自分が、そしてそこはかとない寂しさを感じている自分がいた。
「よかった、目が覚めたんですね」
別の声がして、桃色の髪の女性が部屋に入ってきた。被っていた白地に赤十字の帽子から、看護師であることは一目で分かった。
「事故に遭ってからずっと寝込んでいたので、心配していたんです」
なぜ赤の他人に心配されなければならないのか、そんな言葉が喉元まで出かかって、必死で抑え込んだ。助けてくれた人に対して、そんな言い方が無礼千万であることくらい、注意されずとも分かる。が、それ以外に言葉が出てこなかった。
何と返せばいいのか分からないまま黙りこくっていると、灰色の子猫が小さな手で俺の頬をぺちぺちと叩いた。相変わらずにゃーにゃーという鳴き声にしか聞こえなかった。それでも、何か言え、と俺に言っているような気がした。
「よければその子を引き取りませんか?あなたがここに運び込まれてからずっと、昼も夜もあなたの傍にいたんですよ」
看護師に言われて、そのつもりはなかったのに考え直した。根拠は全くなかったけれど、そいつがいたから、俺は今こうして生きていられるような気がした。
「喜んで」
「では、手続きがありますので少々お待ちください」
ぱたぱたと足音を残して看護師は部屋を出ていった。手続きのための書類を取りに行ったのだろう。
俺と子猫だけになった部屋が、やけに静かに感じられた。目に入るのは白、白、白。そこに灰色の毛皮と紫色の瞳がよく映えていた。
「ありがとうな」
「にゃぱ?」
そいつの頭を撫でてやる。そいつは「何のこと?」と言いたげな瞳で俺を見る。
「退院したら、一緒に帰ろうか」
にぱぁっ、と、そいつの鳴き声に似た擬音語が聞こえてくるのではないかと思った。
自制ポケモンなんて分類名が似合わないくらい、そいつは顔を綻ばせて見せた。
夏の終わりの、小さな病室。
大嫌いだった、真っ白な世界。
案外、悪くないかもしれない。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。