頭上にまで昇った太陽がだいぶ西の方面に傾き始めた。
色褪せた縁側に座り、見渡す風景は一面の緑。
山、川、畑、あぜ道、生い茂る夏草。
そこからポツリ、ポツリと見える茶色い民家たち。
灰色の電柱とアスファルト、数メートルしかない橋、今はもう開いていないお店。
そういえば、あの頃よく遊んでいた広場があそこらへんにあったなぁ。
前にここへ戻った時、見知らない建物にすり替わっていてびっくりしたんだっけ。
うーんと大きく腕を伸ばし、欠伸をする。
後ろの畳の上で回る扇風機の風が心地よく体を吹き抜けていく。
ちりんと鳴り響く母の手作りの風鈴。
最近は涼風も吹くようになり、この季節の終わりをひしひしと伝えてくる。
まだこんなにも暑いのになぁ。
あと一ヶ月ぐらいすれば、長袖を着ているなんて相変わらず信じがたい。
少年とは違い、それほど時の流れを早く感じるまでの大人になったということなのだろうか。
その割には今こうしている時間の一秒一秒が長く感じる。
久しぶりの実家に帰るまでは、高いビルに囲まれた街であんなに切羽詰まってたというのに。
「明日の夜になれば、いつもと同じ景色が待っているのか」
手に持ったサイコソーダの瓶に口をつけて喉を潤す。
その後に呟いた、惜しむような愚痴のような言葉を息をつくとともに吐き出す。
まるでそれに応えるみたいに「ちりーん」と縁側に音がひとつ響き渡る。
だけどさっきの風鈴の音とは似ているようでまた違う、もっと透き通った声。
「ちりーん?」
そのポケモンはふわりふわりと浮きながらやってきた。
夏の風物詩のあれとよく似ている姿、分類も『ふうりんポケモン』という。
「おいで、チリーン」
「ちりちりーっ」
チリーンは呼びかけられると、すぐにあぐらをかいた足の上へ体をちょこんと乗せた。
そして静かに同じ風景を眺める、時々こちらの顔をちらちらと伺いながら。
こんな季節にあぐらへ乗せるとなると普通のポケモンでは、暑苦しくなって余計に汗をかいてしまう。
でもチリーンの場合は『みずポケモン』ほどではないが、ちょっとひんやりした体温のため、こうして少年の頃からあぐらや膝の上に乗せたりなんかしている。
「今日も三十度越えの気温だってさ」
「ちりー?」
「毎年毎年、暑いよなぁ。特にこの季節の末あたりとか」
「ちりーん」
「あまりにも暑すぎて、電車とかクーラーがんがん入れたりしてるからね。ここに来る途中でめっちゃ冷えたもん」
「ちりちりー」
「この前なんかも台風が続けて来て、向こうじゃ大変な目に合ったりしたし」
「ちりり」
「全く何から何まで騒がしい季節だよね、ほんと」
「ちりんちりん!」
「まぁ、でも。そんな夏が自分にとって一番好きな季節なんだけどな」
「ちり?」
チリーンの頭を優しく撫でる。
普段は気持ちよさそうな表情を浮かべるチリーンだが、今回はどこか首を傾げるような顔をしていた。
いつもと同じ感じでいるつもりだったのになぁ、やっぱりダメか。
どうやらその表情はまるっきり顔に出ていたようだ。
「父さんや母さんに比べれば、まだまだ若いのにさ。もう自分の少年だった頃が懐かしくて、羨ましくて、帰りたいって思っちゃうんだよなぁ」
「ちりり」
「あの夏の日には戻ることなんてできないのにね」
「ちりぃ?」
理解しているのかな、それともわからないのかな。
そんなチリーンを乗せたまま、寝転がるように仰向けに上体を倒す。
景色は一変、古びた木造建築の天井と丸型の蛍光灯が視界に入ってくる。
そしてもう一度だけ転がった体勢で背を伸ばす。
「うーん、あの頃の夏はよかったよなぁ。明日を見なくても前だけを向いてずっと過ごしてきたし」
「ちりんー」
「今じゃ明日へどっちに転がるかもわからない。道も全然見えなくていつも不安に押しつぶされそうだよ。だから、こんな思い出にしがみつこうとしているのかな」
「ちりりぃ」
やるせない感情を口から吐き出したところで、気だるい体をそのまま縁側と畳に預ける。
このまま時が止まって、何も進まなければいいのに、動かなければいいのに。
叶うはずもない願いをひとつ思い巡らせながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
広がるのは真っ暗な世界。
チリーンが腹の上まで移動してぼそぼそと鳴いていたような気もするけど、まぁいいかな。
今はちょっとだけ、別の場所へいってみたいんだ。
────────────
やがて暗闇はまっさらな空間へと変わる。
色づいていく景色に、鮮やかに映るひとつひとつの懐かしい思い出たち。
その中でひと際、まばゆい光をまとって輝く夏の色彩。
触れればまた懐かしさにしがみついて、胸を痛めてしまうのだろうか。
でも少しだけ、ほんの少しだけでもいいからあの頃に帰ってみたいな。
夏の色彩に触れると、次々にその景色を変えて形となっていく。
あれは初めて川へ泳ぎにいった幼い夏の日。
まだこの時は水が怖くて怖くて、ずっと父さんの足に引っついていたっけ。
冷たすぎて一回は泣いちゃったこと、今でも鮮明に覚えているなぁ。
これは一人でトレーナーズスクールまで歩いてラジオ体操から始まった一日。
朝には弱かったから、母さんに無理やり起こされて嫌々言いながら通ったよなぁ。
結局一日も休まずに、皆勤賞カードもらっちゃったし。
でも、ラジオ体操でぴょんぴょん跳ねるやつはちょっと楽しかったかな。
そっちは友達と一緒に虫取りあみを持って、よく森へ『むしポケモン』を捕まえにいった夏真っ盛り。
夏休みの自由研究だーって言いわけして、あの頃は楽しむことしか考えてなかったよね。
しかも虫取りあみを振ったのは最初の二、三回だけで、あとは川で遊んだり、木登りして木の実を取ってきたりって感じだった。
そこでたまたま仲良くなった野生のポケモンたち、今でも元気にしてるかな。
ここはちょっと遠い場所でやっていた夏祭りへ、親戚のおじちゃんが連れていってくれた賑やかな夜。
思ったより友達もたくさん来ていて、一緒にかき氷を買って食べたり、屋台で当たりもしないゲームとかやったなぁ。
花火はやたらと音がでかくて、耳を塞いぎながら見てたっけ。
一度でいいから浴衣を着てみたいなんて思ったりもしたような、そんな特別な空間。
向こうは小さい頃から仲良くしていた、あの人とポケモンとの別れ際に交わした約束。
確か一足先に大きな街へ行くというのに、寂しさに浸る間もなく、前日までひまわり畑で遊んでいたんだった。
最近あまり連絡が取れていないけれど、それでもあの約束のこと覚えているのかな。
それ以前に守り切れなかったこれを知ったら怒るのだろうか、悲しむのだろうか、わかるわけもないか。
あっちは一人、夜の海で線香花火に火をつけていたときに仲良くなった小さな友達。
一緒に静かな花火を楽しんだのはいいけど、親に心配をかけてこっぴどく叱られちゃったっけなぁ。
だけどまさか、君が家族の一員になるなんて誰も予想できなかったよ。
毎年夏になると、その風鈴のような音がみんなに特別な癒しを与えてくれたんだ。
そしてこっちは、うん?
あぁ、なるほど、そっか。
こっちの景色は、あの夏の終わりにやっと抱くことができたたったひとつの憧れ。
それをもう届かない存在と知って、手放してしまう寸前の自分自身。
頬を伝った雫には、どういった思いが乗せられていたのだろうか、今でもそれは胸の中に生きているのかな。
体から通り抜けていったあの涼風の冷たさを、まだ忘れることができないようだ。
ここで夏の色彩からそっと離れてみる。
一気に色々と思い返しすぎちゃったな、様々な感情が久しぶりに疼いてきている。
でもそれはこれ以上になく心地よいものでもあった。
喜びや悲しさ、ときに後悔や怒り、淡い期待と希望、愛しさ。
ずっとこの場所に、この気持ちで浸っていたいけれど、そういうわけにはいかなくて。
後ろから元の世界がだんだん近づいてきているのを感じる。
そろそろ帰らなくちゃいけない。
だけどそう思う度に、目の前の鮮やかな夏の思い出は色を濃くしていく。
あぁ、また変わり映えのない、何の変哲もない日々が始まってしまうのか。
なぁ、これから迎える夏にもさ、自分にとっての大切な居場所はあるのかな。
「ちりん」
まっさらになった空間、そこに聞き覚えのある鳴き声が耳に入る。
不安を安心に変えてくれるような、そんな魔法の音。
聞こえた途端に、再び何もない景色に思い出の色がつけ足され始める。
そこに映し出されたのは、夏めく地元を離れて都会へ旅立つ自分の姿。
もうすぐ家族と別れ、初めてのひとり暮らしの生活が始まるというのに、その表情は笑顔で満ち溢れていた。
あぁ、きっとまだ憧れが強く胸にあるからこそ、そんな顔でいられるんだな。
数年後にはこんな惨めな姿で生きているだなんて当時は想像すらしてなかったんだろうな。
だけど、それでも、自分でも羨ましいと思ってしまうほど、その笑顔は眩しすぎた。
もうすぐ電車がやってくる。
その前に、自分はもう家族になった小さな君と見つめ合っていた。
そして口を開いて出てきた言葉は、たったの一言。
とても心強い眼差しで、大きく頷く君。
「ちりーん!」
あ、あれ?
なんでだ?
どうしてなんだ?
どうして、こんなにも一番大事なことをこれまで忘れかけていたんだろう?
そうだった。
君はずっと、自分のそのたった一言を今でも信じ続けているんだ。
それは夏めく季節から始まって、『夏の終わりに』まで何一つも進んじゃいない。
あの頃の夏にはもう戻れない、振り返ることしかできない、だけど。
君が待っている、帰るべき場所が自分にはまだ残されているんじゃないのか?
じゃあ、その足が向かうべき先は──きっと──。
────────────
真っ暗な世界。
「…ら、おき……い」
そこから誰かの声が聞こえてくる。
「こーらっ、おーきーなーさーいっ」
母の声だった。
まるで遅刻した少年のように体を揺さぶられ、叩き起こされた。
何事かと慌てて起き上がり、寝ぼけているであろう自分のだらしない顔を見て、母はため息をつく。
「いつまで寝ているの。ほらほら、晩ご飯の用意できているから、早く食べないと電車乗り遅れるわよ」
伝えるべきことだけ告げると、母は食卓のある部屋へと向かう。
ようやく意識がはっきりとし始め、はっと外の景色を見てみる。
傾いていた太陽は月と星にすり替わり、空も茜色を覆うように藍色がほとんどを占めていた。
別世界のごとく暗くなった景色。
そこからポツリ、ポツリと見える小さな民家の灯火。
耳を澄ませば、聞こえてくる『むしポケモン』たちの鳴き声。
このときだけは少し冷たく感じる涼風。
夏という季節は昼と夜とでここまで違う顔を見せるんだなぁと改めて感慨深くなる。
まだちょっと重たい体を動かして、くるくると羽を回す扇風機の電源を切る。
そのときに隣でチリーンが寝息を立ててぐっすりと眠っている姿が目に入った。
今日、こんなに疲れていたっけなぁ。
昼まではすごく元気そうだったけど。
「うん?」
そういえば、結構長い長い夢を見ていたような気がする。
どんな内容だったかは、目が覚めた瞬間にもうほとんど忘れてしまった。
だけど気分が晴れ晴れするような、それでいてちょっとだけ切ないような懐かしい夢だったことは今でも鮮明に覚えている。
あともうひとつ、覚えていること、思い出したことがある。
「なぁ、チリーン」
普段はこのぐらいの声量でも起き上がるはずなのに、今回は全く動こうとする気配すらない。
それでも続ける。
「いつもありがとな。もうちょっとだけさ、頑張ってみることにするよ」
どうしてこんな言葉が出てきたのかは、正直自分でもよくわからない。
ただ、あの夏の始まりに君と交わした一言が心を突き動かすように。
ほんの少しでも前を向けたらと願うような気持ちにさせてくれたのは確かだ。
明日になればこの感情も元通りになっているのかもしれない。
でも、いいんじゃないかなって思っているところもある。
何よりも大切な君がずっと待っている、帰るべき場所があるのなら。
最後にはあの憧れを拾って、迎えにいかなくちゃいけない。
「自分にとっての夏の終わりは、もしかしたらまだまだなのかな」
こんな恥ずかしいことを言えるのは今だけだ。
だけど、君は目を閉じながら満足そうに「ちりん」と頷いてくれた。
夏の終わり。
それは大人になった少年のもう一つの夏の始まり。
そうだといいな。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。