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ヘイさとる遊ぼうぜさんの「夏の終わりに」(作者:きとかげさん)

 蝉の声が空気を煮詰めていくようでした。背中の汗が、シャツを肌にくっつけていました。少年は木陰に佇んで、公園で遊ぶ子供たちを遠くから眺めているだけでした。子供たちのはしゃぐ声が、陽炎に揺れてたわんで、少年の耳に届きました。

 子供たちは噂をしていました。さとるくんの噂をしていました。


 ――さとるくんは悪い子を見つけて連れて行く。行き先は誰も知らない。


 地獄だよ、と誰かが叫びました。すると、木霊が返るように、地獄、地獄と声が上がりました。

 またたきもしない間に、それは合唱になりました。誰がとるまでもなく揃いの手拍子で囃して、さらに不定期の嬌声が混じります。輪になって、飛び跳ねて、向こうでは皆が笑顔でした。

 少年も地獄、と口にしてみました。しかし、ちっとも楽しくなりません。湿したくちびるは、味のない飴玉のようでした。舌を鼻の下まで伸ばすと、微かな塩分を感じました。少年は袖をまくり、腕にはりついた汗を舌先でつつきました。汗の滴は舌につつかれると、すぐさま消えてしまいます。彼はそれがおかしくて、しばらく無心で繰り返していました。

「おい、君」

 急なしゃがれ声に、少年はおっかなびっくり、後ろを振り向きました。小綺麗な服を着たおじさんが、声音通りのしかめ面で少年を見ていました。

「花壇に入るんじゃない」

 少年がいる木陰は、公園の花壇の木陰でした。柔らかい腐葉土と涼しい木陰のある花壇は、そういえば、立ち入り禁止なのでした。少年が渋々上げた靴底を、キノコを背負ったポケモンが急かすようにつつきました。少年はそのまま追い立てられて、昼日中の、お日様がカンカン照らす公園の中へ追い出されてしまいました。

「子供は子供と遊びなさいよ、ほら」

 おじさんがシッシッと手を振る先へ、少年は義理で目をやりました。子供たちはもうさっきの遊びをやめて、花いちもんめをやっていました。少年が花壇へ目をやると、さっきのおじさんが、キノコを背負ったポケモンと共に、土の中のゴミを掘り出しているところでした。おじさんの片手に握りこまれた透明の袋が、ひどく勇ましいものに思われました。


「じゃあね」「またね」

 家路につく子供たちから身を隠すように、少年は花壇の木の後ろにつっ立っていました。

 公園のゴミ掃除のおじさんは、とっくに帰っています。その次に子供たちが、その後に太陽も帰ったようでした。

 公園の大時計は六時をいくらか過ぎていました。暑さも冷めないのに、夏の終わりに向けて、日没だけは一丁前に早くなっているようでした。それを少年だけが知っているような、不思議な気持ちでした。

 水飲み場の水は、少年がペダルを踏むのに従って、滔々と水を吹き上げています。少年がカポリと開けた口に、水は抵抗もなく入ってきます。ずっと外にいて溜め込んだ熱が、引いていきました。少年は胃がチャポチャポいうくらい、水を飲みました。そして、水がお腹に入らなくなったら、今度は水飲み場が吹き上げる細い水で、顔を洗い始めました。


 ――さとるくんは男の子。でも黒いワンピースに、白いリボン。


 少年はドアの前で、父親を待っていました。

 薄い色で塗られたドアには鍵がかかっていて、びくとも動きません。色の淡さとは裏腹に、魔物でも封じているような、鍵のかかったドアはそんな堅牢ささえ感じさせます。

 少年は、ずいぶん長いこと座りこんでいました。マンションの固い廊下は、昼の残り香を帯びて、ジンとズボン越しに熱を伝えてきます。

 その熱が少年の体温と交換されて、またしばらく経った時でした。

 マンションの階段を上がる音が聞こえて、少年は飛び跳ねるように立ち上がりました。

 少年の父親は、ハンカチでしきりに首元を拭いていました。襟付きのシャツと、襟元を三角に占めているネクタイが、夏の熱を一箇所にとどめているようです。父親は黙ったまま、ドアの鍵を開けました。父親がドアを開けて、閉める前に、少年はその隙間に身を滑らせました。

 父親はズンズンと奥に進んでいきます。少年は遅れないように、父親の背中に続きました。父親は突き当りの部屋の扉の前に、持っていたビニール袋の内、小さい方を投げるように置きました。そして、ドアノブとチェーンと、両方の鍵を掛けて家を出て行きました。少年はその間中ずっと、父親のスーツの背中を見上げるばかりで、何も話すことができませんでした。

 でもそれは、仕方のないことなのでした。少年はちっとも面白い話ができません。今日のことを話そうにも、彼は花壇でじっとしていただけです。そんな話では、父親は怒るだろうと少年は思いました。

 少年はビニール袋を拾い上げました。その中にはカップ麺が一個、入っていました。少年の顔に笑みが浮かびました。しかし、今食べることはできません。明日まで待たねばなりません。

 少年はポケットに手を入れると、十円玉を出しました。その十円玉で部屋の鍵を開けると、中に身を滑りこませました。風が起こって、少年の鼻にこもったような、湿気で固めたような匂いが纏わりつきました。少年は、音を立てないように鍵をそっと掛けます。

 埃やカップ麺の容器が集められて、部屋の隅に寄せられています。その対角線の隅に、少年は座りました。ささやかな布団には、少年の匂いが染み付いています。

 少年は枕元に新しいカップ麺を置きました。枕元には他に、教科書やノート、短くなった鉛筆などが置かれています。この狭い隅のスペースが、公園より、学校より、少年の気が落ち着く場所でした。それに、なんてったってここは、鍵を掛けられますから。

 明日のカップ麺の味を楽しみに、少年は目を閉じました。


 夜、少年の目の前にはドアがありました。外の世界へと続くドアが、今は鍵で固く閉められずに、ゆらゆらと、おいでおいでをしているようです。

 少年はドアノブに手を掛けました。ドアノブは何の抵抗もなく、くるりくるりと回りました。少年はドアをそっと押しました。そっと、ノートの切れ端が一枚通るくらい……

 外の世界は涼しい風を少年に寄越しました。僅かな隙間から、子供たちの歌声が聞こえてきます。花いちもんめの歌を歌っています。あの子がほしいと歌っています。

 少年は急に、喉が渇いたような、それでいて水が欲しくないような、そんな気持ちになりました。あの歌で自分の名前を呼んでほしいと、少年はたまらなく思いました。少年はドアを押しました。

 低く鈍い手応えがして、ドアが動かなくなりました。上の方で、チェーンがピンと張っているのです。チェーンには鍵が掛けられていて、少年の十円玉では開きません。

 少年はドアノブから手を離しました。一炊にも満たない夢の終わりを告げるように、ドアはゆっくりと閉まっていきました。

 ふと、何故ここに立っているのだろうと、少年は訝しく思いました。

 寝ぼけたのかなと夢現に思うよりも先に、大きな物音がして、少年の頭ははっきり冴えました。先程まで夢を見せていたドアの向こうに、今度は彼の父親が顔を覗かせています。その形相ときたら、酷く歪んで、人か鬼かもすぐには分からない程でした。

 父親が鍵を全部開けるより先に、少年は十円玉の鍵の奥、自分の布団の上に戻りました。

 激しく扉が蹴られました。

「出てこい」と声がしました。

「親が言ってるのに、何故出てこないんだ」と聞き取れました。

「何故、鍵なんか掛けるんだ。親を何故部屋に入れないんだ」扉一つ隔てても、内容ははっきり聞こえました。ずいぶん激しい調子でした。

 少年は頭から布団を被ると、じっと息を殺しました。夜はひどく長く、扉を蹴る音も、父親の怒鳴り声も、いつまで経ってもやまない物のように思われました。

 やがて、その音が静まりました。最後に一つ、バアンとドアを開け閉てする音がしたのは、家から出ていったのでしょう。少年は少しだけ気を緩めて、かけ布団を頭からのけました。そして、ポケットの中の十円玉を、お守りのように握りしめます。

 父親の言う通りに鍵を開けていたら、扉の代わりに、少年が蹴られていたでしょう。それが嫌で、いつからか、少年は部屋に鍵を掛けるようになりました。

 すっかり目が覚めてしまったので、少年はさとるくんのことを考えました。

 男の子なのに女の子の格好をしたさとるくん。悪い子を連れて行くさとるくん。

 だったら少年も、さとるくんに連れて行かれるに違いありません。少年が悪い子でなければ、父親があんなに怒って手を上げることもないでしょうから。しかし、さとるくんは一体、いつになったら少年を連れて行くのでしょうか?

 少年のお腹が音を立てました。

 夏休みが明けるまで、まだ丸一日あります。早く学校に行って給食を食べたいなあと、少年はそんなことばかり考えていました。


 ――さとるくんは小さい。歩き始めの子供ぐらいの背丈。でも、大きな目。


 次の朝、少年は父親に連れ出されて、公園にいました。家にいても干上がってしまうので、父親が来るのと一緒に、外へ出ざるを得ませんでした。

 少年は公園の入り口に立って、父親の背中を見送ります。やっぱり、話すことはありません。だって、少年は眠っていただけです。

 さとるくんの話でも、しようかな。

 ちょっとだけ考えて、少年は首を振りました。さとるくんの話なんかしたって、父親はつまらないかもしれません。父親に呆れた目でじっと見下されるのは、あまり好ましいことではありませんでした。

 公園で、まず少年は水飲み場に行きました。ペダルを踏んで、小さな噴水のように噴き上がったのを、昨日買ってきてもらったカップ麺で受け止めます。

 細い水が溜まるのは、小さなカップ麺の容器でも少し時間が掛かるものでした。

 少年はカップ麺の線のところまで水を溜めると、花壇の所へ行ってしゃがみこみました。待ちきれなくなって、少年は麺を突つきます。しかし、麺はカチコチに固まった手応えを返すばかりで、水では中々ほぐれないのです。

 指がやっと麺の間を潜る頃、子供たちがやってきました。子供たちは少年のことなど知らんぷりで、夏休みの宿題のことについて話しています。やりたくないなあ、今日の夜で終わるかなあ、などと、つまらない話をしています。少年は耳を澄ませながら、麺を指で掬って口に運んでいました。まだ少し固い麺。濃い塩味と炭水化物が、少年の腹に染み入ります。

 少年はすぐに飲み込まないよう、我慢して顎を動かしました。その少年とは反対側で、子供たちは、今日する遊びを話していました。時間をかけてカップ麺を食べた少年は、ゴミ箱ははてどこだったかなと、周囲を見回しました。

 すると、大きな目と目が合いました。

「わっ!?」

 少年は驚いて、花壇の柔らかい土の上に尻餅をつきました。カップ麺の容器に茶色の土が付きました。少年が瞬きする間に、大きな目の持ち主は黒い影を翻して消えてしまいました。

 公園の向こう側で、子供たちがひそひそ話をしています。やがて決まったのでしょう。子供たちの一人が緊張した面持ちで少年に近付きます。

 それは同じ学年の少女でした。少女は地面に落ちたカップ麺を拾おうとして、途中で手を止めました。

 少女は今来た方を振り返りました。他の子供たちは遠巻きに、結果だけ待っているようでした。……やがて少女は、花いちもんめの逆みたいな表情で、少年に問いかけました。

「どうしたの?」

 少年は簡潔に答えることにしました。さっきの今で心臓は早駆けしていましたが、少年には簡潔な言葉を選ぶ余裕ぐらいはありましたし、それを表す言葉も知っていました。

「さとるくんがいた」

 少女と、向こうの子供たちが、ざわりとどよめきました。

「見間違いじゃないの?」

 少女は言いました。

「黒いワンピースに白いリボンで、小さかった。大きな目で、僕をじっと見ていた」

 少年は答えました。

 少女はもういいかい? と言いたげに後ろを見ました。蒸し暑い沈黙の間に、了解があったのでしょう。少女は明るい太陽の照らす下に走り出ました。

「さとるくんに見られた人は、連れ去られるんだって」

 子供たちの誰かが叫びました。太陽に目が眩んで、その台詞を誰が言ったのか、分かりませんでした。



 少年はいつものように、マンションに来た父親の後ろについて、ドアの隙間に潜り込みました。

 今日の父親はお弁当の入った大きな袋を一つ持っているきりでしたが、家の中まで入ってきました。しかし、お弁当の袋を置こうとはせず、それどころか、部屋の扉を開けようとするのです。

 当然、扉は開きませんでした。少年が朝の内に、十円玉で鍵を掛けていたからです。

 父親は怒った様子で少年を見下ろしました。父親は何故怒っているのでしょう? きっと自分が悪い子だからだと、少年は思いました。

「何故鍵を掛けるんだ」と父親は言いました。

「俺は親なのに、お前の部屋に入れないじゃないか」とも言いました。

「何故そんな他人行儀にするんだ」父親は激しい調子で言いました。

「俺に恥をかかす気か」父親が何か言う度に、父親の顔が赤くなっていきました。まるで、自分の言葉で火を焚べているかのようです。

 怒りで我慢が切れたのか、突如父親は腕を振り上げました。少年はなす術もなく床に転がりました。

 床に転がったのは少年だけではありませんでした。鈍い音を立てて、少年のポケットから、十円玉も廊下に転がりました。

 硬貨の音に、父親は一瞬、それはそれは度し難い、暗い笑みを浮かべました。そして、少年の十円玉を拾い上げて、こう言ったのです。

「一体、このお金をどこで手に入れた。どうせお前のことだから、人様のを盗ったのだろう。なんて悪い子だ。これは父さんが没収する。それから罰として、数日間、お前をここに閉じ込める。俺はお前の為を思ってやっているんだ」

 そうして父親は、自分の言葉通りに行動しました。少年は浴室に入れられました。しかも、外からほうきの柄を差し込んだので、折りたたみ式の扉は壊れたように動きません。

 少年は一縷の望みを賭けて、水道の蛇口を捻りました。しかし、いつ頃からか忘れる程昔から止まっていた水道は、やっぱりうんともすんとも言いません。

 狭い浴室に、じんわりと湿気が上って蒸し蒸しとしてきました。流れた汗が背中にもお腹にもシャツを引っ付けます。少年は、しばらくの間は汗を舐めていましたが、じきにその気力も無くなりました。

 ずっと遠く、部屋の外側で蝉が鳴いています。その声が止んでもまだ、浴室の中は煮詰めたように暑いままでした。まるで時が止まったかのように、空気は止まっておりました。

 少年の頭の中も、煮詰めたようにはっきりしなくなりました。早く学校に行って給食を食べたいな、早く夏休みが明けないかなと、そんなことばかり、グルグルと考えていました。


 冷たい風に頬を撫でられて、少年は目を覚ましました。

 いつもの布団ではありません。狭い浴室で変な姿勢になっていたのか、肩が酷く痛みます。

 そして、ああ、ここは浴室なのだと思いました。その少年の頬を、再び風が撫でました。不思議に思った少年は顔を上げました。浴室の折りたたみ式の扉は開いていました。その入り口の所に、見覚えのある姿が立っておりました。

 黒いワンピースに白いリボン。背は歩き始めの子供ぐらいの大きさしかありません。そして何より、頭の半分程もある大きな目をしていました。

「さとるくん」

 少年が呼びかけると、さとるくんが手を差し出しました。まるで、一緒に遊ぼうと言っているみたいです。

 少年は小さなさとるくんの手を取って、ドアへと向かいました。ドアはすんなりと開いて、少年たちを涼風の吹く外へと送り出しました。

 少年はさとるくんに引かれるまま、走りました。さとるくんと少年の目の高さが合いました。いつの間にか、少年も黒いワンピースに白いリボンをしていました。少年とさとるくんは並んで夜の町を走りました。それはとてもくすぐったくて、楽しいことでした。行き先が地獄でも悪くないと、少年は思いました。

 向こうから、花いちもんめの歌が聞こえてきます。



 お盆はとうに過ぎたのに、暑い日が続いています。子供たちは蝉の声が煮詰める空気の中、色とりどりのランドセルを並べて、久しぶりの学校へ登校します。

 その中に、あの少年の姿はありません。

 ゴミ袋を片手に持ったおじさんが、子供たちに挨拶をしています。その足元で、キノコを背負ったポケモンが、何かを熱心に掘り出しています。

 少年がいないと知れるのは、まだ先のことになりそうです。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。