夏の終わりに
彼女に出会ったのは、テッカニンの声の響く夏の真っ盛り。
森も草原も小川も、夏休みに入った子供達の声で賑やかになる季節だった。
木陰をするすると通って秘密基地、ひろいひろい向日葵畑の中で気持よく日向ぼっこをしていた僕は、そのまま眠り込んでしまったらしい。
赤い光が目に差し込んで起きた時にはすっかりお日様は沈みかけていた。
折角のいい天気だったから日向ぼっこの後、修行をしようと思っていたのに……
そんな風に頬を膨らませながら数時間前の自分をちょっとだけ恨んでいた時、ふと聞き慣れない声が聞こえて、そちらを見やって、息が止まった。
高く咲く向日葵の下、麦わら帽子を被った女の子が、嗚咽を噛み殺しながら涙を流している。
全く見覚えがない子なので、もしかしたら迷子になってしまったのかもしれない。ここは少しだけ迷いやすいから。
深呼吸をひとつ、ふたつして、そっと茎をかき分けてその子に近づいた。
「ねえ、だいじょうぶ?まよったの?」
「あ、え……」
いきなり声をかけた僕にびっくりしたのか、真っ白な肌をしたその子は凍ったように固まってしまった。
「見ない顔だよね、夏休みで来たの?これ以上遅くなると危ないから、森の外まで送っていくよ。行こう」
しばらくの沈黙を肯定と受け取って、何も言わない彼女の柔らかい手をそっと握っては足元に気をつけながら歩いて行く。
なるべく歩きにくくないような道を選びながら、お互いに何も言わずに歩いていた。
花畑を抜けて森のなか、傾きかけた陽の光が黒々とした影を作って涼しい風の通る獣道に差し掛かった頃に彼女はようやく口を開いた。
「私、その、探検してみようと思ったら、迷ってしまって。
ずっとずっとどこまでいっても向日葵が咲いてて、帰れなく、なるかもって」
すっかり足を止めてまたぽろぽろと泣き出してしまったのに、今度は僕が固まる番だった。
僕は慌ててポケットを探る。もちろんハンカチなんて持っているはずもなくて、拭えるほどの袖も長くなくて、仕方がないからそうっと右の手で雫を掬う。
気づけばテッカニンの声も止んで、空は藍色に変わり始めて、ニョロモの鳴き声が聞こえてきていた。夜が来てしまう。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。僕と一緒に帰ろう、帰れるから」
「ありがとう……はい、ここからなら、道、わかります!」
あっ、と声をかける暇もなく、するりと僕の手をすり抜けて、ワンピースを翻した女の子はぱたぱたと村の方まで走っていった。
しばらく呆然としていると、するする黒い影が木の上から垂れ下がってきて、きゃらきゃらと笑って僕に言う。
「あーあ、振られてやんの!それにしても、全く人間にしか見えないよ。凄いな、モモ」
「見てたの?マル!というか、別にそういうのじゃないよ、迷ってたみたいだから、遅くなったら危ないし」
一部始終を見ていたらしい僕の友だち、イトマルのマルに言い返して全身に込めていた力を抜く。
身体がどろっとなる感覚と一緒に見える景色が見慣れた低さに変わっていく。ふう、と大きく息を吐く。
「でも、メタモン族でも見てないモノにへんしんするのって難しいんだろ?
さっきの人間の男子とか、森に来てる奴らとも似てないし…いったい何処で見たんだよ」
「それならこの間人間が落としていった写真を拾ったんだ、ほら」
桃色の身体の末端でひらひらと小さな光沢のある紙を振って見せてやる。
それを粒みたいな目を細めて眺めたマルはゆらゆらと揺れ動きながらまた笑った。
「なるほどな、写真と比べるとそんなに似てない」
「ひどいよマル!でもあの子、ちゃんと帰れたかな?」
「大丈夫じゃねーの?知らねーけどさ」
真っ白な肌とスバメの羽みたいな髪、あめ玉みたいに溶けてしまいそうだった大きな瞳。
なんだかとっても凄く気になるんだ。人間と喋るなんて初めてだったから、だからこんなに頭から離れないんだろうなあ。
それにしても、また会えないかな?
そう言ったら、マルにまた笑われてしまった。どうしてだろう。
再会は思っていたより早くに訪れた。
数日後の朝、ピカピカのにほんばれの日。今日こそ一日修行をしようと意気込んで秘密基地へ行くと、見たような麦わら帽子が揺れていた。
慌てて全身の細胞を変形させて、小声で人間語の発声。うん、多分完璧!
「あの、こんにちは……!」
「うわぁっ!?コンニチハ!」
「驚かせるつもりはなかったんです、ごめんなさい!この間のお礼がしたくて、その、ありがとうございました」
身体の出来を確認していたらいつの間にか目の前に来ていた女の子に声をかけられて、ひっくり返った声を出してしまった。
差し出された木製のバスケットの中には、いい匂いのマフィンやビスケットが可愛く飾られて詰められている。
僕に?と聞くと、小さな頭を小さく数回縦にふるので、ありがたく受け取った。
本や人間が食べていたのは見たことがあるけれど、実際に食べたことはないので、凄く嬉しい。
「お礼とかよかったのに、でも、ありがとう。
それであの、僕と友だちになってくれ、くれませんか!?」
「!いいの?ありがとう!」
「僕の名前は…えっと……モモ、っていうんだ、キミは?」
「私はアイラ、よろしくね、モモくん!」
名前を言うのに一瞬戸惑ったけど、多分人間の名前としてもおかしくない、はず。
人間達もポケモンの名前をニックネーム?みたいに付けあって居るのを見たことがあるし、いざとなったらそういう方面でごまかそう、なんて。
間近で見ると少しだけ茶色に光るアイラの瞳を見つめて、しばらく2人で笑いあっていた。
僕たちの出会いは、そんなふうなありきたりなものだった。僕たちは毎日のように一緒に遊んだ。
時偶に僕が人間の常識とは外れたような突飛なことを言っては笑われたり、マトマにかぶれたのと日焼けでアイラの肌が真っ赤になったのを見ては大慌てでマルを始めとする友だちみんなに声をかけて治し方を調べたり、秘密基地を案内したり、小川で遊んで2人してびしょぬれになったり、ただただ日向ぼっこして何でもない話をしてみたり。
人間の夏ってこんなに楽しいのか、と思った。
この時間がずっと続いたら良いのに、と夏休みの終わりを惜しむ子ども達の言葉に初めて共感できた。
ボロが出てしまうと怖いから、あんまり自分のことは話せなかった。でも、彼女もそういった話題は苦手みたいだった。
お互いの事はなんにも知らないまま、小さな花の名前だとか、おいしいきのみの見分け方だとか、涼しい場所の探し方だとか、天然の日焼け止めの作り方だとか、そんなどうでもいいようなことをずっと話していた。そうして、日々はどんどん過ぎていく。
「で?色男さん、もうすぐ人間の言う夏休みとやらは終わるみたいだぜ?」
「おとーさんといっぱいニンゲンのお洋服考えてたけど、それもおしまい?おしまい?」
「マル、クルミ、僕もそれで悩んでるんだよ……」
「いっそゲットされちゃえばいいんじゃない?」
「モモが居なくなるのは寂しいけど、いい人に出会えたなら私達精一杯お見送りするよ!」
「まって、今僕、アイラの前では人間のフリしてるんだよ!?今更メタモンでした、なんて言えるわけないじゃないか!」
「それじゃあこのままサヨナラしていいの?もう二度と会えないかもしれないんだよ?」
集まった森の皆がやいのやいのと騒ぐなか、僕は悩んでいた。
人間の暦で8月の後半、そう、アイラが元のすみかに帰ってしまう日がもうすぐそこなのだ。
彼女はここに元から住んでいたわけでも、引っ越してきたわけでも無い。
わかっていたけれど目をそらし続けていた現実が、ヌケニンのように音もなく近寄ってくる。
――自分はポケモンだと明かしてゲットしてもらう? そんなの彼女にトラウマを植え付けてしまうかもしれない。出来ないよ。
――では自分の正体を隠したままついていく? そんなの無理がありすぎる。
――それならその子をこっちの世界に引きずり込めばずっと一緒さ! そんなの冗談でも怒るよ、ボクレー!
――モモは結局どうしたいんだよ! それがわかったら苦労はしてないさ!こんな感情初めてなんだ、何もかも!
「そうだ、手紙を書くのはどう?」
ぽつりと言ったのは、山の向こうの森に住むホルビーと文通をしているミミロルだった。
「モモくんは、自分でもどう思っているかがわからないんでしょう?気持ちを文章にするって、それだけで自分の考えが纏まることもあるし」
「手紙……」
皆は沢山の意見を出してくれたけれど、僕はどうしたいのだろう。
出来ることならずっと彼女と一緒にいたい。でも、その為に今の森での生活を全て捨てられるかというと、即答できない。
だからといってこのまま二度と会えなくなるかもしれないのは、嫌だ。
自分の正体を隠し続けるのも、なんだか時々胸がギュッと苦しくなる。
僕は、どうしたら良いのだろう。
「多分さ、お前のことだから、どうするにしたってさ、絶対後悔はすると思うんだ。
でもよ、何もしないで後悔するより、何かして後悔するほうが、オレは良いと思うぜ」
一番の親友、マルの真剣な言葉。悩んでいるだけでは、始まらない。
「…ありがとう、マル。ねえ、ミミロルさん、手紙の書き方、教えてくれませんか?」
「ええ、もちろん!そうなったら、紙と書くものを用意しなきゃね!」
ミミロルの言葉を皮切りに、また言葉が飛び交う。
人里から紙を拾ってこようか、枝を燃やして炭にすれば文字がかけるんじゃないか?一緒に物を渡すのはどうだろう?
ああ、いい場所に、いい仲間に恵まれたなあ。ここに来て良かったと、思った。
「皆、本当にありがとう。ありがとう……」
「おいおい、泣くのはフられてからにしろよ色男ー?」
「おとーさん、ニンゲンのお洋服考えるの、楽しいって言ってたよ!」
「私達、そのアイラさんって人にちょっと感謝してるくらいなんだよ?
だってモモ、今までは全然私達のこと頼ってくれなかった!」
「そうそう。よその生まれだからーとか、なんか遠慮してたでしょ?
それがアイラちゃんの事になるともうなりふり構ってないんだから、アタシたちも嬉しいさ」
その日、森にはちょっとだけ雨が降った。
たくさんの紙を破り捨てて、たくさんの枝を折った。
伝えたいことはテンガン山ほどあるのに、うまくまとまってくれない。
それでもなんとか1枚の紙に思いの丈を認めて、いよいよ、最後の日を迎える。
「私、明日、イッシュに帰るの」
「……そっか」
「帰りたくない、なあ」
「僕もだよ。ねえ、次の年もまた、来るの?」
「おばあちゃんが、来年まで生きていたら、ね。多分、無理なんだろうなあ、って、思うけど」
大量のヤンヤンマが飛ぶ、少し萎れた向日葵畑の秘密基地で。アイラははじめて、自分のことを話してくれた。
実の両親はもう居ないとか、血の繋がった祖母の遺産目当てに引き取られたとか、僕には少し難しい話だった。
よくわかんない、と言ったら、私もわかんないや、なんて困った顔で言うのだ。人間って、難しいんだと思った。
僕は、最後まで、自分のことは話せなかった。喉が凍ったみたいに、声が出なかった。アイラは、何も聞いてこなかった。
少しずつ傾いていく太陽は、いくら睨みつけても止まってなんてくれない。
「私ね、このまま時間が止まってしまえばいいのにって思う」
「僕もずっとキミと一緒にいたい。……アイラ、ねえ、ありがとう。僕ね、こんなに楽しいの、生まれて初めてだったんだ」
「モモ、」
「だから僕は、絶対に忘れない。この夏のことも、アイラのことも」
「うん、モモ、また、会えるよね」
「僕はずっとここにいるし、キミが呼ぶなら、どこへだって飛んで行くよ」
まるで出会ったあの日のように、静かにほろほろと雨を降らせるアイラをそっと抱きしめる。
声を上げて、彼女は泣いた。
僕はずっと、だいじょうぶ、だいじょうぶと彼女の背中をさすっていた。
「……ごめん、ね、モモ、ありがとう」
「ううん、気にしないで。森の外まで、手を繋いでいこうよ」
コロボーシが鳴き出した。赤色の光が世界を照らす。
ぎゅっと唇を噛みしめて、変わらず柔らかいアイラの手を優しく握る。
庭のように駆けまわった黄金の海が揺れる。風は少しの湿気となまぬるさを含んでいた。一雨来るかもしれない。
ゆっくり、ゆっくり並んで歩く。麦わら帽子が風に吹かれて落ちそうになる。ああ、アレは何という花だったっけ。
いつかの獣道、森の出口近くに差し掛かったところで、僕は足を止める。手をほどいて、そっと紙切れを差し出す。
「これ、良かったら、帰ってからでも読んでくれたらうれしいな」
「ありがとう、モモ。あなたに会えて、私も凄く楽しかった。……じゃあ、またね!」
「うん、またね!」
手紙を受け取ったアイラは、最後にとびっきりの笑顔をみせてくれた。
今の僕には、それだけで充分過ぎるくらいだった。
姿が見えなくなってもずっと手を振って、手が疲れてくる頃。ぽつり、と手のひらに雫が落ちた。
やっぱり雨が来たか、どうか濡れる前に彼女が帰りつけますように。
見上げた空には、雲ひとつ無かった。
大きな荷物を車に積み込んで、後部座席に乗り込んで、シートベルトを付けて。
そうして、彼から貰った歪な四つ折りの紙をゆっくりと開く。
幼児の書いたような、フシデの這ったあとのような、到底読めそうにはない線が紙いっぱいに伸びていた。
「アイラ、その汚い紙、どうしたの」
「私の、たからもの。絶対に、捨てたりしないでね」
「そう。それならちゃんとしまっておくのよ」
母親は一瞬顔をしかめたけれど、すぐに興味もなさそうにハンドルを握った。
私はぐちゃぐちゃの線をゆっくり指でなぞって、そしてその中にかろうじて自分の名前らしき文字を見つけて溢れそうになる涙をぐっと堪えた。
キラキラ光る向日葵畑も、流れる綺麗な川も、君の化け損ねた桃色の左ひざも。全部、忘れない。忘れられるわけがない。
いつかきっと、ううん、絶対に。また会いに来る。強く強く決意して、車の心地良い振動に身を任せて目を閉じた。
アイラへ
キミに出会って、まいにちがすごくたのしかった。
ありがとう、だいすきです。
キミのおかげで、みんなと、もっとなかよくなれたんだ。
それで、ぼくは。本当は人間じゃなくて、メタモンです。
ずっとだまっていて、ごめんなさい。
でも、アイラがすきっていうきもちは、ほんものです。
ぼくは、アイラにまた、会いたいです。
モモより
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。