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忍び寄るキマワリさんの「夏の終わりに」(作者:No.017さん)


 夏が来ると思い出す。

 終わりに咲いた太陽の花。



 日差しがこんがり石段を焼いて、蝉の合唱が蒸し暑さに溶けていく。そんな昼下がり、私達はアイスキャンディをかじっていた。境内から見た鳥居が切り取ったのは、空にむくむくと育った入道雲。

 売られたバトルは買うのが礼儀。この町に立ち寄った私に塾帰り少年は勝負を挑んだ。そして私の一匹にストレート負けした。

 学校は夏休み。子供達はそこらかしこでバトルを繰り返している。バトルに負けたら普通は賞金を支払わなくちゃいけないけれど、私は少年から巻き上げるほど困ってはいない。

 だから逆に提案した。アイスでも食べよっか、と。

「ねえ、他のポケモンも見せてよ」

 アイスを支える棒からほとんどのキャンディを剥ぎ取った頃、少年は言った。

 別にいいよ。そう答えると境内にボールを放つ。

 最初に出てきたのは少年のパーティを全滅させたメガニウム。その他にはオドシシにアーボック、ソルロック。ルンパッパにトロピウス。

「うおー、すげえ」

 眼鏡の少年はそう言って興味深そうにポケモン達を眺めると

「ねえ、おねえさんはどうしてこういうポケモンを選んだの?」

 と、尋ねてきた。草タイプに偏ってるよね、と。

「そうね。なりゆきとかはあるけれど……一番はお腹をすかせない為かな」

 私はそう答えた。

「お腹をすかせない為?」

 少年は意味が分からないらしく眉を曲げて聞き返す。その様子を見て私は少しほっとした。

「これを話すにはね、昔の話をしないといけない。それでも聞きたい?」

 私が訪ねると少年はうん、と頷いた。

 蝉の合唱が青い空に吸い込まれていく。私は境内のベンチに腰掛けて語り始めた。


 これからするのはね、ヨウスケの話。私の友達の話よ。

 あの頃の私達はちょうどキミくらいの歳だった。


 この話をするためにはまず、故郷の話をしないといけない。

 私の故郷、そこはジョウトにある小さな町だ。 四方のうち三方までが山に囲まれて、東西を分けるようにして川が流れていた。正直、何もないところだ。

 けれどポケモンはたくさんいた。いや、正確に言うと、夏になると彼らはどこからかたくさんやってきた。押し寄せるといったほうが適切かもしれない。町中そこらかしこに彼らは跋扈して、町に色を増やす。彼らが増やすのは黄色だった。

 それは学校の先生に言わせれば、この町の気温が高いからで、たまに会えるおばさんに言わせると、お盆の時期に死者が姿を変えて里帰りしにくるのだという事だった。彼らはいつも笑顔を浮かべていた。

 たいようポケモン、キマワリ。

 毎年夏になると故郷にはキマワリ達がやってきた。

 ひまわりがそのまま歩き出したような彼らは、満面の笑みを湛えて、この町に押し寄せる。そして日当たりの良い場所をキマワリ畑に変えるのだ。

 彼らはより強い光の当たる日向を目指して移動した。それは学校の校庭の時もあれば、神社の石段の時もあった。時には道路を塞いで、住人のひんしゅくを買う事もしばしばだった。

 夏になるとキマワリが現れるのは、今まで旅した町でも同じだった。ポケモンセンターのテラスで日光浴をしていたり、ひまわりの畑に混じって佇んでいたり。

 でも、故郷の町ほどキマワリが大挙してやってくる例は見たことがない。町を出て初めて、故郷のあれが特殊だったのだと理解した。

 キマワリ達がやってくるのは七月の終わりごろ。ちょうど学校の夏休みが始まる頃と一致していた。

 そして、私とヨウスケが朝から会うようになる頃とも。



 夏休みになると、私達は毎日同じ場所で落ち会った。

 場所は神社の石段と決まっていた。そこがちょうど日陰だったからだ。大抵先に着くのがヨウスケで、後に来るのが私。

「キョウコちゃん、おはよ」

 案の定、今日もヨウスケは先に来て座っていた。私はおはようと返すとヨウスケにいつもの質問をする。

「キマワリ、今日も出かけていった?」

「うん。キョウコちゃんが来るまでに二十五匹出ていったよ」

 そうやってヨウスケは朝の定期報告をした。

 この神社は日が落ちた後、キマワリ達の寝ぐらになっている場所の一つだった。だから朝になるとキマワリ達が神社の石段を降りて、出て行くのだ。ヨウスケが来た時点でかなりの数は出て行ってしまっているのだが、残った少数を見送って送り出すのが彼の日課だった。

 私達は挨拶を済ますと鳥居を潜って神社に入る。最初にやる事はお参りをする事だった。がらんがらんと鈴を鳴らす。鳴らし終わるとぱんぱんと二回手を鳴らす。そして心の中でお願い事を言うのだった。

 それが終わると、手水舎の貯水槽の下に手を伸ばして鍵を取り出す。そして神社の裏手へと入って行くのだ。

 裏手を塞ぐ柵の戸の錠を開けると、その奥には林がある。そになっている木の実が私達の目当てだった。

 裏の林で一番高いモモンの木。私達は競うように登って、木の実をもいでかぶりついた。かぶりついた時にモモンの汁が飛んで、シャツについても、おかまいなしだった。いくつか食べて落ち着くまで、私達は止まらなかった。

 ひとしきり食べて満足した私達はやがてするすると木を降りると、神社の社務所にたてかけてある竹箒を手に取る。

「ねえ、昨日は何か食べれた?」

 広い境内の一角を掃きながら私は尋ねた。

「おにぎりをいっこ」

 ヨウスケは答える。

「そっかー。いいなぁ」

「でも、朝になったらお腹がすいて」

「そうだよね、朝になると結局すいちゃうよね」

 決まってするのは昨日の夕食についての会話だった。私達はお互いの家に遊びに行った事はなかったけど、似たような家らしい。私の家も、ヨウスケの家もも夕食が食べれるかどうかはまちまちだった。おにぎりやパンあればラッキーで、お弁当やカップ麺はごちそうだった。私達は毎日何が食べられたかを報告し合い、良い報告なら羨ましがった。

 私は父を知らない。母はいるけれど、あまり家に帰ってこない。帰ってきても夜遅くで、運がよければ何か買ってきてくれる事もある。そうして一番奥の部屋に篭ると昼間まで眠り、夕方になるとまた出かけていく。

 ヨウスケの家も事情は似たようなものらしかった。あっちはお母さんじゃなくて、お父さんらしいけれど。

「ねえ、ミカちゃんのおうちってご飯が日に三度なんだって。信じられる?」

「それ今日で十回目だよ」

 おおよそ自分達の身長には合わない竹箒を動かしながら、私達は幾度も同じ会話をした。

 そんな事を十回言ったところで、ごはんの回数が増えるわけじゃないのは知っている。それでも日に何度も問いかけた。

 今考えれば、ヨウスケを通して母に訴えていたのだろう。だが、母はその質問を許さなかった。よそはよそ、うちはうち。それが口癖だった。しつこければ手があがったし、ひどい時は蹴飛ばされる事だってあった。だから私はいつしか聞くのをやめていた。

 そうしてただ祈るようになった。

 今日が母が何かもってきてくれますように。パンやおにぎりがありますように、と。

 だから私達は毎日神様へのお願いを欠かさないのだ。お互いに声には出さなかったけど、私もヨウスケも同じ事を願っていた。

 夏。それは私達にとって、飢えの季節だった。

 学校が休みになって、給食が食べられない。一ヶ月以上の間、食べられるかどうかも分からない夕食を待ち続けなければならない。

 そんな私達が縄張りにしたのが町の外れの神社だった。神社の裏の林には大きな木の実の木が幾つも生えて、たくさんの木の実がなっていたから。特に夏場は成長が早くて、よく実をつけてくれた。ここでそれを見つけた時、どんなに私が喜んだか。裏に入っていけないように柵があったけれど、お構いなしだった。太い丸太の間を細い身体は容易に通り抜けたのだ。

 私は神社に足繁く通うようになった。空からやってくるポッポ達に混じって木の実をとるようになった。

 けど、神社に通ううち、問題にぶつかる事になった。木の実を見つけたのはいいけれど、ここにある木は背が高く、枝も長い。なんとか登ってみても、手が届かない。次第に私は人の手がほしいと思うようになった。

 そんな時に見つけたのがヨウスケだった。


 夏休み、校庭ではサッカークラブの子達がボールを追いかけたり、上級生がポケモンバトルに興じたりしている。その様子を日陰に座ってぼうっと見ている子がいた。

 痩せた男の子だった。黄ばんだシャツを着て、細い足を細い腕で抱いていた。私はのこ子を一目見るなり、分かってしまった。

 この子は私と同じなのだ。

「ねえ、これあげる」

 私はモモンを差し出すと言った。すると手からばっとモモンの実を奪った男の子は一心不乱にかじりはじめた。

「ねえ」私は言葉を続けた。

「もっと欲しくない? 手伝ってくれたら分けてあげる」

 あの場所を誰かに知られるのは嫌だったけど、もっと木の実を食べる為なら仕方なかった。

「ねえキミ、名前は?」

 男の子は答えない。

「私キョウコ。今日から友達ね」

 そう言ってわたしは男の子の細い腕をつかむと、半ば強引に神社に連れて行った。

 男の子がやっとヨウスケと名乗ったのは、その日の夕暮れ時になってからだった。


 それから私とヨウスケは神社で木の実をとるようになった。ヨウスケは全然しゃべらない子だったけど、木のぼりはうまかった。一人では登れなかった木も、背負いあげれば足をかけられる所に登れ、とれるものがあった。あるいは二人で枝の上で手をつなぐ事で尺を稼いだ事もあった。ポッポにとられていた上のほうの木の実も、少しは私達のものになった。

 もちろん何度か落ちた事もあった。枝を折ってしまったり、足を滑らせてしまったりして。今思えば随分と危ない落ち方もしていたけど、木の葉が積もり積もっていたから、クッションになってくれた。

 けどある時、神主さんに捕まえられてしまった。

 鎮守の森の木の枝を折るとは何事だ、と神主さんは大層ご立腹で、学校の先生やお父さんお母さんに連絡をとると言った。

 どこに住んでいるの? よそのものを勝手に取っちゃいけないって分からないの?

 神主さんは色々言ってきたし、聞いてきた。私とヨウスケはずっとうつむいていた。

 大変な事になった、と思った。

 母はろくに食べ物をもってきてくれなくせに、プライドだけは一人前だった。給食の余ったパンをもらってきた時も、はしたないと私をぶった。それ以降、もらったパンは帰る前に食べるようにした。もし、今回の事がバレてしまったら。

 ふと横目にヨウスケを見ると、彼は震えていた。私は彼もまた同じ状況なのだと悟った。

 ヨウスケとわたしは会ってまだほんの数日だったけれど、黄ばんだシャツに隠れた無数のアザの事を、一緒に木の実をとった私は知っていた。

 もしこのまま親に連絡されてしまったら、ヨウスケはどうなるだろう? きっともっとひどいことをされるに違いない。

 そう思った時、私は奮い立った。

「お願い! お母さんにも先生にも言わないでください」

 気がつくと私はそう懇願していた。

 私は当時の私なりのつたない言葉で、必死に自分達の窮状を訴えた。ごはんを食べれていないこと。休みで給食を食べられないこと。親はなかなか帰って来ず、私達に手をあげる事。夜になっても何か食べれるとは限らない事。

「お願いします。木の実をとるのがだめならヨウスケに何か食べさせてあげてください。それがだめなら木の実をとらせて! 私、何でもしますから」

 お願いします、おねがいします……。

 私は何度も頭を下げた。頭を下げるのは慣れていた。給食がある時は、私はそうして飢えを凌いでいたのだから。

 私が馬鹿みたいにそう繰り返すものだから、神主さんはとうとう折れたらしい。いくつかの条件を出して、木の実をとる事を許してくれた。

 一つ、木の実をとるのは夏休みだけにする事。二つ、枝は折らない事。三つ、境内を掃除する事。四つ、賽銭箱から決してお金をとらない事。そのほかにも、いろいろ細かい約束があったけれど、木の実がとれるなら何でもよかった。神主さんは私達を積極的に助けてくれる事はなかったけれど、この時の私達には十分だった。

 次の日から私達は境内を箒で掃いた。この神社には神主さんしかいないらしく、広い境内を持て余していたのだろう。そういう意味で、私達はちょうどいい手だったらしい。

 待ち合わせをして、木の実をとって、境内を掃き、追いかけっこをする。お腹がすいたらまた木の実をとって、疲れたら石段に座って休む。私達はそんな毎日を繰り返した。

「キョウコちゃん、あのね」

 あまりしゃべれなかったヨウスケは少しずつ、自分の事を話してくれるようになった。年の事、クラスの事。勉強は苦手という事。そして家庭の事情。

 そうして空が夕焼けで赤くなるとそれぞれの家に帰っていった。一緒に石段を下ると、太陽をたっぷり浴びてねぐらに戻ってきたキマワリ達とすれ違う。

「ばいばい」とヨウスケは手を振った。

 ヨウスケはキマワリが好きなようだった。石段ごしにすれ違うと必ずそう言って手を振った。鳥居を潜って神社に入ってくるキマワリに「おかえりなさい」と言うこともあった。

 もしかしたらヨウスケは、鳥居の内側こそが自分の家だと思っているのかもしれなかった。

 意外にも私達は雨の日がお気に入りだった。神社の床下に潜り込んでずっと話をしているのが楽しかった。

 そうやって話していると、同じようにキマワリが床下に入ってくる事があった。キマワリは雨の日も笑顔を絶やさない。ただ黙って私達の話に耳を傾けてくれた。床下で何を言っても、キマワリ達は私達を怒鳴ったり、ぶったりしなかった。



 そんな私達に転機が訪れたのは、次の年の夏休みが半分過ぎた頃だった。

 ある時、神社に一人のトレーナーがやってきた。空からやってきた麦藁帽子のその人は、変わったポケモンに乗っていた。

 南国カラーのメガニウム。そんな感じのポケモンだった。首は長て、背中に翼みたいな葉っぱを生やしている。何より目を引いたのは首になっている黄色い木の実だった。

 その人は私達の視線に気がついたらしく、にっこりと微笑んだ。優しそうなおねえさんだった。

「このポケモンはトロピウスっていうの。ここからもっと南にあるホウエン地方に住んでいるんだよ」

「へええ!」

 草ポケモンなんてキマワリとチコリータ、マダツボミくらいしか見たことがなかった私達は、しきりに感心する声を上げた。

 そうして、お姉さんはトロピウスの首の木の実をもいで、渡してくれた。

 夢中になって食べた。甘くてねっとりした舌触りの、今まで食べたどんなものよりもおいしい木の実だった。

「そう……。それで神社の掃除をしてるんだ」

 おねえさんは私達の風貌を見るなり、だいたいを理解したようだった。ゆっくり話を聞いてそれだけ言った。

 そうしてしばらく何かを考えて、また明日来ると言うと、空を飛んで去っていった。

 そして次の日、レジ袋をもって降りてきた。その中には大量のお菓子とアイスキャンディが入っていた。

 私達は目を輝かせた。こんなたくさんのお菓子は見た事がなかったから。特にアイスが嬉しかった。青くて細長いアイスキャンディが、私には宝石のように見えた。ヨウスケは夢中になってしゃぶっていた。そして、ひとしきりアイスキャンディをなめ終わった頃、おねえさんは言った。

「ねえ、キョウコちゃんとヨウスケ君は、ポケモントレーナーになるつもりはない?」

 私達は目を合わせた。学校のクラスではぼちぼちそんな話題が出始めていたから。三年生の私は八歳、ヨウスケは七歳だ。月をまたげば誕生日がやってきて、九歳と八歳になる。そして十歳になればポケモンをもてる年齢になるのだ。

 おねえさんの弁はこうだった。トレーナーになれば、色々なサービスが受けられる。例えば、この町のセンターではやっていないが、大きい町のセンターに行けば食事を出してもらえると。

 そうすれば少なくとも三食に困る事はなくなるし、センターでアルバイトの斡旋だってしてもらえると。

 私は目を見開いた。一斉に照明がついたみたいに知らない世界が現れた。

 トレーナーになれば、お腹をすかせなくて済むんだ!

 十歳になってトレーナーになれば!

 胸が高鳴った。けれど同時に、ひどく絶望的な気持ちになった。

「でも……私には無理だよ」

 私は言った。母が許可するわけない、と。

 以前、母にトレーナーになりたいと言った事があったのだ。ちょうど学校でポケモンの授業があって。

 けれど、寝起きの母はひどく淡白に言った。

 あんた何言ってるの? そんな余裕あるわけないじゃない、と。

 それに先生からも言われていた。ポケモンを持つのなら、必ずお母さんに許可をとりなさい、と。

「だから無理。そうしたいけど、私には無理」

 いつしか私はぼろぼろ泣いていた。悔しかった。せっかくいい事を知ったのに私にはそのチャンスさえないんだ。私もヨウスケもずっとこのままなんだ。そう考えると悔しくて悔しくてしかたなかった。

 けれど、神様は私達を見捨てていなかった。

 おねえさんは泣いている私の背中を撫でてこう言ったのだ。

 いい? キョウコちゃん、ヨウスケくん、落ち着いて聞いてね。

「まずね、トレーナーになるのに親の許可はいらないの。あれはね、先生がそうしておかないと面倒だからそう言ってるだけなのよ。権利って言葉は習った? トレーナーになる事は子供の権利なの」

 法律の条文にもちゃんと書いてあるのよ、とおねえさんは続けた。

 ホウリツはルール。ジョウブンは……。その言葉の意味をまだ私は知らなかったけれど、それは深く胸に刻まれた。

「それとね、ポケモンを持つのはお金がかかるっていう話だけど。これは半分本当で、半分嘘」

「はんぶん?」

 私はもうすっかり泣くのをやめて、まじまじとおねえさんの顔を見た。

「どういう事かっていうとね、ポケモンの種類によるの。たとえばこの町にたくさんいるキマワリ。キマワリみたいな草タイプのポケモンならエサ代はほとんどかからないわ」

「本当?」

 私は声を上げる。

「ええ。光合成っていう言葉はきいた事がある?」

「こうごうせい……」

「簡単に言うと、太陽の光を浴びて栄養を作る事なの。木や草や花、草ポケモンにとっては太陽の光がごはんなの」

 おねえさんは言った。

「そうか! だからキマワリは校庭に立っていたんだね」

 突如、横にいたヨウスケが口を開き、私はびっくりした。

 珍しいと思った。ヨウスケは人としゃべるのが得意じゃなかったから。

 キマワリとこうごうせい。その言葉を聞いてから、ヨウスケは断然話に食いついた様子だった。おねえさんは話を続ける。

 最初に貰うポケモンはチコリータにするといい。チコリータは草ポケモンだから、日の光に当てて、お水をあげれば大丈夫。ポケモンフーズはたまにでいい。

 免許だってセンターに講習を受けに行くだけでいい。もし保護者について聞かれたら、このあたりの地域を担当しているポケモン博士の名前を書きなさい。センターで教えて貰えるから。もし親の事をしつこく言われても、保護者は博士だと言えばいい。

 私は暗闇で見えなかった道に明かりが灯っていく感覚を覚えた。

 十歳になったら、講習を受ける。チコリータを貰って、大きい町を目指す。そんなシナリオが頭の中で組み上げられていった。

 おねえさんは私とヨウスケをトロピウスに乗せると町のポケモンセンターまで飛んでくれた。そうして書類を手に取ると、丁寧に説明してくれた。もしもその時になって分からなくなっても、センターのおねえさんに聞くのよ。そしたらちゃんと説明してくれるからね。何度も何度も念を押した。

 おねえさんは他にも色々教えてくれた。年齢の証明は学校で発行してもらえる事、センターの利用履歴は閲覧不可に出来る事、なりたてのトレーナーでも出来る仕事……。

 私にはもう分かっていた。要するにおねえさんは逃げろと言いたいのだ。母から。この町から。

 センターの中庭にもキマワリ達がいた。一列に並んでニコニコと笑顔を浮かべていた。

「ごはんを食べているんだね」と、ヨウスケは言った。


「私ができるのはここまでよ。がんばってね」

 お別れの日、おねえさんは麦藁帽子に山ほどの紅茶飴を入れて私に渡すと、空に消えていった。

「私の好物なの。二人で分けてね」

 夕焼け空にトロピウスのシルエットが消えて行くのを見守りながら、私はあのおねえさんは神様なんじゃないかと思った。毎日お願いしていたからやってきた南の国の神様なんじゃないかって。

 次の日から、私の願いは食べ物の事じゃなくなった。

 私は賽銭箱の前でめちゃくちゃに縄を振ると、なるべく響くように鈴を鳴らして手を叩いた。

 早く十歳になれますように。十歳になってトレーナーになれますように、と。

 私は神様のくれた麦藁帽子をかぶって、境内を掃くようになった。帰る時は床下に隠しておいて、神社に来るとまた身に着けた。

 あれから変わった事が二つあった。図書館に通うようになった事と木の実の種を捨てずにとっておくようになった事だった。

 私はトレーナーの旅に役立つ本を借りて読むようになった。全部を理解する事はできなかったけど、ふりがなが多かったから、なんとか読むことが出来た。

 ヨウスケにも本を読んであげた。ヨウスケは読めない字が多かったけど、草ポケモンに関する本は喜んだ。そうしてぐんぐん文字を覚えていった。

 キミも旅に出るんだから読んだほうがいいよ、とトレーナーの本を薦めたけれど、ヨウスケは黙って草ポケモンの本を読んでいる事が多くなった。本を読んでいる間は何を言っても返事をしないほどだった。

 木の実の種は着々と溜まっていった。私とヨウスケは旅に出る時に半分ずつこれを分けようと約束した。旅先で木の実の種を植えていこうって。

 私達は一日一個と決めた紅茶飴を舐めながら図書館に通った。本を貸りて、神社に戻って読む。そんな毎日を繰り返した。

 そうして夏が終わり、私達は一歳上の年になった。木の実のお陰か背も少しだけ伸びた。

 今でも私は、あの林の木々が自分達を育てたのだと思っている。



「ポケモンの希望票、出してきたよ!」

 私が興奮気味にヨウスケに語ったのは、次の夏の後半に入った頃の事だった。

 夏がやってきた。私は九歳、ヨウスケは八歳になっていた。つまり私は月をまたげば念願の十歳になるのだった。

 私は一学期の間にトレーナー講習を受け、仮免許を取得していた。十歳になれば正式に免許が交付されて、初心者用ポケモンが貰える。貰うのはもちろんチコリータだ。

「九月になったら会えるって。ヨウスケにも見せてあげるね!」

 私が興奮して語る横で、ヨウスケはいつものように本を読んでいた。

 あれからヨウスケは学校の図書館でも本を読む事が多くなったそうだ。読む本の種類も増えたらしく、その興味は枝葉のように広がっていた。私に文字を教えられるだけでは飽き足らなかったらしく、辞書を引くようにもなった。本当は私の学年になってから習うのだけど、教えてあげたらそうするようになったのだ。今じゃ分からない言葉を調べるのも、漢字を調べるのも、ヨウスケのほうが早いくらいだった。

「あのね、昔ポケモンと人は同じだったんだって」

 今、ヨウスケが夢中になっているのは昔話や神話だ。国語の教科書に載っていたシンオウ神話に魅せられて以来、ヨースケは関係ある本を探しては読み漁っている。来年の旅立ちに向けて本当はトレーナーの勉強をしてもらいたいのだけど、これと決めたらがんとして動かないから仕方なかった。

 本と辞書のおかげでヨウスケは驚くほど話すようになった。以前は神主さんともろくに話せなかったのに、今は神社の云われについて話したりもする。

 そうなったのは、普段は私達を放任している神主さんが菓子折りを持ってやってきた事がきっかけだった。


「これ、貰ったんだが苦手でね、よかったら」

 神主さんが柄でも無い事を言うものだから驚いたけど、もちろん私達は喜んで頂いた。その時、ヨウスケの読んでいた本がふと神主さんの目に留まった。

「ほう、こんなの読んでるのかい。小学生には難しいだろうに」

 感心した様子で神主さんは言った。

 ヨウスケが読んでいる本の背には「城都の昔話」と書かれていたと記憶している。それは最近のヨウスケのお気に入りだった。渦巻島の化け物や円寿の塔の七色の鳥とか、日輪田のトキワタリ様とかそんな話が載っているらしい。私も少し読んでみたけど、難しい漢字が多くて挫折してしまった。

「ヨウスケ君だっけ。この町の話はもう読んだかい」

 神主さんが尋ねる。

「うん、読んだよ」

 ヨウスケは少しおっかなびっくり答えた。

 すると何を思ったのか、ついて来なさい、と神主さんが言った。入っていったのは賽銭箱と鈴の向こう側だった。

 神主さんは奥へ奥へと入っていった。向かった先は木の実の林に囲まれている、一番奥の部屋だった。たまに神主さんと神社に来た人が入っていくものの、私達にとっては謎の場所だった。

 入ってみればそこは簡素な部屋だった。数人が座れそうな長椅子があって、林の方向に祭壇がある。神主さんの身長よりちょっと高いくらいの祭壇には観音開きの戸があって、硬く閉ざされている。

 座りなさいと神主さんは言い、白い紙切れがついた棒を振ると祭壇に何事か唱え始めた。そして一、二分ほど唱えると、私達を呼び寄せて祭壇の戸を開いてみせた。

「隕石だ!」とヨウスケが叫んだのと、私がそれを目にしたのはほぼ同時だった。

 中にあったのは私達の身長と同じくらいはあろうかという大きな石だった。

 夕日の色に似た赤い石。らせん模様がいくつも重なって形を成したそれの表面には、まるで本体を守るかのようにいくつも棘が生えている。その形はサボテンのようにも、図工の教科書にある海の都のガラス工芸のようにも見えた。

「これがこの神社の神様のご神体だよ」

 神主さんが言った。

「太陽の石の結晶でね、昔空から落ちてきて、ここに奉ったと云われているんだ」

「知ってる!」

 ヨウスケが興奮気味に叫んだ。

「この石でキマワリはヒマナッツから進化するんだよね」

 と、ヨウスケは続けた。太陽の石で、種は大輪の花へと姿を変える。

 進化の石の結晶――私は神社にキマワリ達が集まってくる理由がなんとなく分かった気がした。

「昔々、何百年も昔、虫ポケモンが大量発生して作物や木の実がみんな食べられてしまったんだって」

 その後、神主さんから貰ったお菓子を食べながら、ヨウスケはこのあたりの昔話を教えてくれた。

「緑色のものはみんな食われてしまって、この山も禿山になったんだって。それはひどい有様だった」

 みんなお腹をすかせて、このままでは死んでしまう。

 どうか私達を助けてください。人々は天に祈った。この地に緑を返してください、と。

 幾日か祈りが続いた後の夜、村の子供が夢を見た。夢に神様が現れて言った。

 我をあの山に奉るのなら、お前達を助けてやろう。

 神様は次の日に空から石を落としてよこした。

「落ちて来たのは太陽の石だった」

 人々が石に触れると、キマワリになった。

 キマワリはものを食べない。水を吸って、日を浴びながらせっせと種を植えた。そうやって次の年には緑が蘇った。キマワリにならなかった一部の人々は神社を立てて、落ちてきた石を奉った。キマワリになった人々はどこかに去った。

「けれど夏の間だけは、日を浴びに戻ってくるんだって」

 ヨウスケは一生懸命に話した。あんなに途切れる事なく話し続けたヨウスケを見たのは初めてだった。私は菓子を口にしながら、その話を黙って聞いていた。

 知らなかった。町に押し寄せるキマワリにそんな昔話があったんだ。

 正月にだけ会いに来るおばさんが「お盆になって死んだ人達が姿を変えて帰ってきたのよ」なんて教えてくれた事があったけど、正確にはこうだったのか。

 ヨウスケは今日まさにその石を見れたのだと興奮しているようだった。私は正直、あの石がそれとは限らないし、昔話だってこじつけじゃないのなんて考えてしまったけど、黙っておいた。

 けれど、あのご神体にヨウスケの胸を高鳴らせるだけの迫力があったのも確かだった。

 夕日の色に似た太陽の石の螺旋は、いつか理科の授業で見た太陽の燃え方によく似ていた。


 トレーナーになるその日が、一日一日と近づいていた。

 私は神社に通いながら、夏が早く終わるよう祈った。でも一方で心配にもなってきた。夏が終わって私が旅立てば、ヨウスケは一人になってしまう。一年の辛抱とはいえ、それはヨウスケにとって酷な事に思えた。

 だからせめて、自分が手続きをした時の事を詳しく残す事にした。学校のいらないプリントにできるだけの情報を書いたし、センターから用紙を貰ってきて見本を書いたり、本で得た知識を話したりもした。

「捕まりたくないから、町の近くにはいれないの。でも夏休みになったら様子を見に来るから。それまで待ってて」

 私は何度もヨウスケに言い聞かせた。一年待つ選択もあったけど、私はもう外に出たくて出たくて仕方がなかったのだ。

 家での生活は相変わらずだったのだ。母はろくに食べさせてくれず、最近は男を連れ込む事があった。男は時々べ物をくれたけれど、その湿っぽい視線が私は嫌いだった。

「大丈夫。背も伸びたし、一人で木の実も取れるから。だから心配しないで」

 ヨウスケは気丈に言った。それより種を半分もって行くのを忘れないでよ、と。

 けれど大丈夫という言葉を聞く度、かえって私は心配になった。毎朝鈴を鳴らして、早く十歳になりたいと願う傍ら、もう一つお願いをした。

 一方のヨウスケも丁寧にお辞儀をした。特に今年の夏になってからは本当に丁寧にやっていたように思う。

 今思えば、あの夏のヨウスケは少し様子がおかしかった。去年までは日陰で待っていたのに、神社の石柱の前で待っている事が多くなり、こんがりと日に焼けた。暑くないのかと言うと、このほうがいいと答えた。

 木の実も去年ほど食べていなかったように思う。私達は夏の間、木の実を決して一度には食べ切らないようにしていた。けれどもっと食べて大丈夫という時も、もう満腹だからいらないと言うのだ。

「キョウコちゃんが食べなよ。種はちゃんととっといてね」

 ヨウスケはそう言うと、本を開いて読書を始めた。黒く焼けた腕は、出会った時そのままに細かった。じりじりと鳴く蝉の声が何かを私に訴えているように聞こえた。

 八月も下旬になると、ヨウスケが数えるキマワリの数が徐々に減ってきた。曰く、少しずつ山に帰っているのだろうとの事だった。

 キマワリが夏以外の季節でどうしているのかはあまり分かっていないそうだ。あんなにたくさんいた人面ひまわりは夏以外の季節になると、世界から消えてしまったように姿が見えなくなる。暖かい日に山で見かけたなどの断片的報告があるだけで、どこで何をしているかよく分かっていないらしい。

「ボールに入るみたいに小さくなって隠れているのかもね」

 と、ヨースケは言った。なるほど、それはありそうだと思った。

「あるいは種に戻っているとか」

「ヒマナッツに?」

「うん。それで夏以外は地面に潜ってるんだ。頭の上の葉っぱだけを出してね」

 すごい想像力だと私は感心した。ヨウスケは本を読むようになってから突拍子も無い事を言い出す事が多くなっていた。出会った頃の私達はそれこそ食べ物の事ばかり考えていたはずなのに、随分と色んな事に思いを馳せるようになったものだ。

 きっと言葉になって出てくるのはほんの一部だけで、お互いにたくさんの見えない部分があるに違いない。

 そしてヨウスケがその見えない部分の先っぽを見せたのは、八月最後の日の一日前、八月三十日の、太陽の石みたいに空が赤く染まった夕方だった。

「キョウコちゃん、話があるんだ」

 まるで図書館で借りた小説の台詞みたいにヨウスケは言った。

「今日の夜、神社に来てくれないかな。黙っていようと思ったけど、やっぱりキョウコちゃんには話さなきゃいけないと思うんだ」

 日焼けした顔でヨウスケは続けた。どういう事なのかまったく分からなかった。今話せばいいじゃないと私は言ったけれど、ヨウスケは首を振るばかりだった。

 日光をたっぷりと浴びたキマワリ達が一匹、また一匹と石段を登って戻ってきていた。


 約束をしたとはいえ、私はまだ十歳にならない子供だった。だから本来なら、朝までぐっすり寝てしまって、神社行くなんて事はなかったと思う。母に見つからない為には目覚ましをかけるわけにもいかず、かといってずっと起きている事などできなかった。

 だからばっちりと目を覚ませたのは、虫の報せとか、神様的何かの導きなのではないかと思う。

 深夜の三時過ぎ、私は一人歩いていた。車も走っていなければ、人っ子一人通らなかった。ただ秋の虫の声が聞こえていた。夏が終わり、これからは蝉に代わってこの虫達が音を支配するのだ。街灯は数えるほどしかなかったけど、月が明るくて道に迷ったりはしなかった。

 神社に続く道までくると、ヨウスケが立っていた。

「こんばんは、キョウコちゃん」

 少し大人っぽくヨウスケは言った。今までの私達は夕方には別れ、決して夜に会う事はなかったから、夜の挨拶は初めてだった。

「こんばんは」

 私がそう挨拶を返すと「行こう」とヨウスケが言った。私達は石段を上がり、鳥居を潜ると神社に入った。

 夜の境内はある意味で異常空間だった。そこはキマワリの林だった。たくさんのキマワリ達が所せましと立ったままうなだれるようにして花弁を閉じ眠っていた。その隙間を縫って、私達は奥へ入っていった。

 ヨウスケは靴を脱ぎ、賽銭箱の向こう側に上がると、戸を開く。すると鍵がかけてあるはずの戸がすうっと開いたので私は驚いた。

「神主さんに怒られるよ」

 私はそう言ったけれど、ヨウスケはそのまま中に入っていってしまった。仕方なくその後を追いかける。辿り着いたのは、前に神主さんが案内してくれたあの部屋だった。ヨウスケが戸を開く。やはり鍵はかかっていなかった。

 そうして部屋に足を踏み入れた時、私は目を見開いた。

 部屋の中の祭壇、その戸の隙間から夕日のような光が漏れていたからだった。

 一方のヨウスケは別段驚く様子も無く祭壇に近づいた。そして観音扉に手をかけると、そっと扉を開いたのだった。

 赤橙の光が淡く部屋を包み込む。それは冬の暖房のような温かさで、夏の蒸し暑さとは異なるものだった。

 ヨウスケが手を伸ばす。ご神体にその指先が触れた。

 すると指先から、熱を伝えるように淡い光が広がって、ヨウスケの身体を包み込んだ。そうしてヨウスケの全身を覆った時、ご神体の真ん中に吸い込まれるようにしてすうっと消えた。

「行こう」

 ヨウスケはご神体から手を離すと言った。私達は部屋を出て、賽銭箱前に戻ってきた。

 するとおかしな事が起こった。先ほどまでうなだれるように頭を下げて眠っていたキマワリ達が次々と顔を起こし始めたのだ。ヨウスケが靴を履きなおし、境内まで出てくると、その周りのキマワリ達も何かに反応するように顔を上げた。

 その様子をまじかに見たヨウスケは、何かを悟ったように押し黙った。

「……キョウコちゃん、ごめんね」

 しばしの沈黙の後、急にヨウスケはそう言った。

「どうしたの? 急に」

 私はわけが分からずに尋ねる。するとヨウスケは苦い木の実を食べてしまった時のような顔をした。

「僕ね、トロピウスのおねえさんが来てから、ずっとお願いしていた事があるんだ」

 我慢して噛みしめるように言った。

「そんなの、私だって同じだよ」と、私は返した。

 私はずっと早く十歳になれるよう願っていた。十歳になって、トレーナーになって、早くこの町から出られますように、と。

 そして最近はこうも願っていた。ヨウスケが無事に旅立てますように、と。

 するとヨウスケが続けた。

「あの後、夏休みが終わった後も僕はお願いを続けたんだ。神社に通って毎日お願いした。そうやってお願いし続けて冬になった時、とうとう神様が夢に出てきてくれたんだ」

「神様が?」私は驚いて聞き返す。

「……うん」とヨウスケは頷いた。

「神様はね、鳥の形をしていたよ。七色の光を持つ大きな鳥ポケモンだった。神様は言ったよ。次に来る夏の終わりにお前の願いを叶えようって」

 ヨウスケは嬉しそうに、けれど寂しく笑った。

「最初はただの夢だと思ってた。けど国語でシンオウ神話を知って、昔話を調べるようになって、だんだん信じていったんだ」

 ヨウスケが歩みを進める。一歩一歩を歩む度に、キマワリ達が顔を上げた。まるで夜中に太陽を見つけたみたいに。

「確信したのはご神体を見た時」

 そしてヨウスケはまっすぐ鳥居まで歩いて行くと、振り返ってこう告げたのだった。

「ごめん、キョウコちゃん。僕の願いは十歳になる事でも、ポケモントレーナーになる事でもないんだ」


「僕の願いは、キマワリになること。

 キマワリになって世界中に種を植えて歩くこと。

 もう誰も、お腹をすかせることがないように」


 ……、…………。


 にわかに虫の音が最大音量になって、私の鼓膜に襲いかかった。そうして次第に遠のいていった。

「冗談はよしてよ」

 私はやっとそう言ったけど、ヨウスケは首を振った。

「前に話したでしょ。空から落ちてきた石に触れた人達はキマワリになったって。僕はそれに触ってしまった。後戻りはできないんだよ」

 ヨウスケは言った。空から降ってきた隕石、ご神体に昔のような力は無い。けれど子供一人くらいなら変えられる力が残っている、と。

「嘘よ。そんなの嘘に決まってる」

 けれどヨウスケは淡々と続けた。朝になれば判るよ、と。

「もう僕が今の僕なのは夜の間だけなんだ。太陽が昇れば変化が始まる。だから夜のうちに会っておきたかった」

「そんな。だって。あと一年じゃないの! あと一年したらこの町から出られるのに!」

 私は叫んだ。それと同時に、激しい後悔と罪悪感に捕らわれた。

 私の所為なの?

 私が行ってしまうから、一人になってしまうからこんな馬鹿な事したの?

 だって、本当は私は知っていたのだ。一人でいる一年なんてどんなに長くてつらいだろうって分かっていた。分かっていたのに、出て行きたかった。たとえ、ヨウスケを置いて行く事になっても。

 私はもう一年待つ事なんてできなかった。

 だからなの? キマワリは食べなくても生きられる。日の光と水さえあれば。誰かの助けがなくても生きていけるって思ったから。だから?

 早く十歳になれますように。私がそう願っていた横で、ヨウスケはずっとキマワリになりたいって願っていたって言うの?

 私はぼろぼろと涙をこぼしていた。それは悲しみからなのか罪悪感からなのか、もう分からなかった。確かに分かったのは私がその言葉をなんとか信じまいとしている事だった。

 嘘だ。人間がポケモンになるなんて、そんな事あるはずない。あんなのただの昔話だ。ヨウスケは子供だから、影響されているだけ。太陽の石なんて見てしまったから。

 私は信じない、そうつぶやいた途端、言葉が怒涛のように溢れ出した。

 嘘だよ、ヨウスケ。

 そもそも神様なんて、いないんだよ。

「神様なんていない! 神様がいるなら、どうして私達はお腹をすかせてるの! どうして他の子達みたいにお腹いっぱい食べられないの!」

 私は叫んだ。めちゃくちゃな事を言ってるのは分かっていた。毎日毎日鈴を鳴らして願っていたのは私なのに。

 でも叫ばずにはいられなかった。

「神様がいるんなら、なんでヨウスケはキマワリにならなきゃいけないの!」

 人間のまま、幸せにしてよ。

 人間のまま、お腹いっぱい食べさせてよ。

 こんなの……こんなのあんまりじゃない。

 嗚咽が聞こえた。あんまりにも捻じ曲がったおかしな声だったから、それが私から出ている事が暫く分からなかった程だった。

 それは呪いだった。自分の生まれを呪う声、母を呪う声、何より待てなかった私自身を呪う声だった。私はその時、世界を呪っていたのだと思う。

 目を覚まして。神様なんて、いないのよ。

 キマワリの林の中で、私は慟哭した。ヨウスケはそれを困った顔で見つめていた。

 もし長く泣いている事で、運命を変えられるのなら、私は喜んでその時間を引き延ばしただろう。

 けれど、人間っていうのは長時間泣き喚くようにはできていないらしかった。次第に声は細くなって、嗚咽はだんだんと小さくなっていった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。私のすすり泣く声より、虫の音が勝った頃、ヨウスケは私のほうに歩いてくると言った。

「神様は、いるよ。でもあんまりに助けないといけない人が多いから、ちょっと手を貸してくれるだけ」

「助けないといけない人が多いから……」

「……うん」

 私は顔を上げた。そこに見えたヨウスケの顔は今までのどんな表情より穏やかだった。ああ、背が伸びただけじゃないんだな。私は柄にもなくそんな事を思った。

 気がつけば夜空が白み始めていた。ヨウスケは意を決したように伝えた。

「キョウコちゃん、種を分けよう」


 ひと夏の食糧の残骸。

 それは賽銭箱に続く階段の下に隠してあった。私達は木の実を食べる度、種を乾かして拾った缶に入れていた。

 改めて見たそれは結構な量にも、案外少ないようにも感じた。私は缶を引っ張り出すと、隣に置いてあった麦藁帽子を手にとった。

 私は帽子に種を入れて差し出した。細かい種は隙間からこぼれてしまうから、大きいものを掴み取って中に入れた。モモンの種が多かったように思う。

 帽子の中で山盛りになったモモンの種。それは去年の夏の紅茶飴と重なった。おねえさんの言葉が思い出される。

 ――私ができるのはここまでよ。

 神様は、ちょっと手を貸してくれるだけ。

「帽子、貰ってもいいの?」と、ヨウスケが尋ねて、「うん」と私は答えた。

 もう空はすっかり明るかった。東の空に黒い山の形がくっきりと浮かぶ。鳥ポケモンが空を行き、雲が逆光で灰色に浮かび上がる。

 空はますます明るくなった。眠り続けていたキマワリ達も顔を上げ、東の方角を向きだした。一匹、また一匹、キマワリが顔を上げる。丸顔にぴったりとくっついていた花弁が開く。

 私達は見た。東の山のてっぺんから、太陽が顔を出した。八月最後の太陽だった。

 ヨウスケの身体が、光に溶けた。輪郭が変化していく。

 足が縮む替わりに首が伸びる。帽子を持つ手が大きくなって、替わりに腕は短くなった。足の下ですっかりだぼだぼになったズボンを跨ぎ、ヨウスケは一歩を踏み出した。

 黄ばんだシャツは身体に残っていたけれど、光が散る頃には、もう彼は人の形ではなくなっていた。丸い大きな頭は花弁で顔を隠し、太陽の方向を向いている。暖かな光に誘われるようにして花弁が開いた。

 花が咲いた。大輪の花が。

 そこにいたのは種でいっぱいにした麦藁帽子を持った小さなキマワリだった。花弁に丸く囲まれた笑顔が私を見た。再び泣きたくなるような気持ちに襲われた。

 ああ、ヨウスケ。どうしてこんな。キマワリになればもうお腹をすかすことも無い。けれど……。

 けど、ヨウスケは大輪の笑顔を浮かべ、そんな悲しみを笑い飛ばした。

「キョウコちゃん、」

 笑顔が私の名を呼んだ。

「僕はここには戻らない。世界中を旅して歩くんだ」

 花弁を揺らして、麦藁帽子を大事そうに葉で包みながら、ヨウスケは言った。

「だからもう心配しないで。キミは好きなところに行って、好きなものを食べて、好きに生きるんだ。それが僕の願い」

 東の山から太陽が輪郭を見せた。

「約束だよ」

 キマワリ達が動き出す。ここにもう眠っている者はおらず、林は移動を始めていた。キマワリ達が鳥居を潜って石段を下る。私達が掃いて回った広い境内のあちこちからやってきて、まるで吸い込まれるようにして。


「ぼく、もういかなきゃ」

 それが最後の言葉だった。


 ヨウスケはすいっと隙間に入り込むようにしてその流れに加わると、背の高いキマワリ達に混じって見えなくなった。

「待って!」

 私はそう叫んだけれど、ヨウスケは答えなかった。ただ黄色い花の群が、朝日の鳥居に吸い込まれていった。

「どいて! 通して!」

 私はキマワリを掻き分けて叫んだけれど、行列は行く手を拒み、石段を降りることさえ出来なかった。黄の行列が石段を埋め尽くしていた。


 八月三十一日、ヨウスケは旅立った。

 町から黄色が無くなった朝、八月最後の蝉が鳴き始めた。




 風が潮の匂いを運んでくる。鳥居越しに切り取られた風景を私は見つめ続ける。旅立ってからもう十年近くが経っていた。

 町を出た私は歩き続けた。メリッサと名づけたチコリータは残暑の日差しを浴びながら元気に後をついてきた。

 教えに従って、私は手のかからないポケモンを選んだ。草食のオドシシに、月一の食事で満足するアーボ、ソルロックは日光以外求めず、草ポケモン達も似たようなものだ。

 初めて賞金を貰った時、紅茶飴を買えるだけ買った。トロピウスが欲しくてホウエンに渡った事もあった。私はあのおねえさんのようになりたかった。

 あれから町には戻っていない。母が連れ戻しにくる事はついになかった。あの人がどうしているかは杳として知れない。知るつもりも無い。私は母を捨て、故郷を捨てた。

 バッジは六つ。おかげで行く先々で割りのいい仕事にもつけて、旅には困らない。かつて三食に事欠いていたのが夢のように思われる。

 唯一の心残りは夢の向こうに消えていった、一輪の花。

「私はね、故郷や母と一緒に、ヨウスケも見捨ててしまったの。友達の幸せを願いながら、自分の欲を優先させた」

 だからヨウスケはキマワリになった。きっと一人で待つ事に耐えられなかったのだ。彼はそれを笑い飛ばしたけれど、その笑顔を思い出す度、私は泣きたくなってしまう。

 私は新しい町に行く度、種を植えた。木の実の種は意外とすぐなくなってしまった。それからは木の実を食べる度にその種を植えるようになった。

「種を植えてるとね、その時だけは楽になれるんだ」

 鳥居を潜る風が頬を撫でる。不意に強くなって私の帽子を剥ぎ取ろうとした。

 これでおしまい。

 麦藁帽子を押さえて私は言った。

 なぜ、私のポケモンに草が多いのか。それは長い懺悔の物語だ。ヨウスケを抜きに私はそれを語ることができない。

 塾帰り少年は黙っていた。

 当たり前か。キミは幸せな普通の子だもの。こんな話をしても、困ってしまうに違いない。

 けれど、彼はゆっくりと口を開いて、こう言った。

「あのね、算数の解き方って一つじゃないんだ」

 突然そんな事を言い出した。

「正解に辿り着くのに何通りも解き方があるんだ」

 少年は続けた。もちろん時間のかかるかからないはあるけど、と付け足して。

「だからね、おねえちゃんもヨウスケ君も、式が違っただけだと思うんだ」

「……そう、かな」

「お腹をいっぱいにするのって色々方法があるでしょ。ちゃんとご飯を食べる人もいるし、お菓子ばっかり食べる人もいる。きっとヨウスケ君は、太陽が食べたかったんだよ」

「でも私、ヨウスケに人間でいて欲しかった。私が式を間違わなければ、ヨウスケは人間でいられたんじゃないかな」

 私は知って欲しかった。旅先で手に入れた人間としての幸せを。例えば箱いっぱいの飴を買う事。バイキングで好きなだけ食べる事。汚れていない服を着て、好みの帽子を被る事。他にも。他にも。

「ヨウスケは人間でいたんじゃ幸せになれないって思ったのよ。だからキマワリになってしまったの」

 けれど、少年はこう反論した。

「違うよ。ヨウスケ君はただキマワリになりたかったんだよ。ただ単純にそうなりたかったんだと思う」

 だってさ、と彼は続ける。

「ダイチ君はよくリザードンになりたいって言ってるんだ。空を飛びたいからって。ミキト君はヤドンがいいんだって。一日中ぼーっとしていたいからって」

 ポケモンになるって夢なんだよ。少年は言った。「僕はもう、違うけどね」

「ただ、そうなりたかったから……」

 私は呟いた。今までそんな風に考えた事なんてなかった。

 けれど今、あの頃の私達くらいの男の子が言葉にすると、そうなのかもしれないと思った。だってヨウスケはそうと決めたら動かない子だったんだから。

 ヨウスケは憧れた。日を浴びて笑うキマワリに。

「そっか。そうなのかもしれないね」

 海からの風が吹いた。



 少年と別れ、私は歩いた。

 目的地は無かった。アスファルトに染みる蝉の音を聴きながら、どこまでも歩いた。道路に帽子のシルエットが映る。左手に海が見えて、波の音が聞こえた。

 どれだけ歩いただろうか。ふと進行方向に黄の色が見えて足を止める。隣町へ続くコンクリートの階段の途中に小さなひまわり畑があった。気が付くと階段を登り、その前に立っていた。

 ひまわりに対する思いは複雑だ。きれいだけれど、いやでも少女の頃に引き戻される。でも、あの少年の言葉を思い出すと、少しは今の気持ちで見られるような気がした。

 ぼんやりとそれを眺めていると、繁みが揺れた。畑から道路に飛び出してきたのは一匹のキマワリだった。

「…………」

 私達はしばし時間が止まったようにお互いを見つめていたけど、沈黙を破ったのは私だった。

「ねえ、」

 私はキマワリに話しかけた。言葉が通じるかなんて分からなかったけど。

「もしもキミが木の実の種を植えて回る仲間に出会ったら、伝えて欲しいの」

 キマワリが笑い顔のまま、きょとんと首を傾げる。

「ヨウスケに会ったら伝えて。私は元気だって。ちゃんと一人でもやっていけてるからって」

 言いたい事は山ほどあった。けれど多くを語る事は出来なかったから、帽子をとって差し出した。

「それから……たまには食べてって伝えて。いくら光合成が出来るからってキミには口があるんだから」

 そうして麦藁帽子を被せてやった。

 去り際、麦藁のキマワリは嬉しそうに手を振った。そして陽炎の向こうへ消えていった。

 私もまた別の道を歩き出した。蝉がいつまでも鳴いていた。



 夏が来ると思い出す。

 終わりに咲いた太陽の花。かつて少年だった、一輪の花。



 今もどこかで、種を植えながら歩いている。






 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。