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One night standは独りきりさんの「夏の終わりに」(作者:浅夜とまとさん)

「……怠い」

 茹だるような暑さだ。熱中症寸前もいいところくらいには茹だっている。

 空調機なんてご大層な代物が狭い六畳間にあるはずもなく。

 私はただ部屋にくぐもる焦熱に半裸を晒し、その暑さに喘ぐことしかできない。

 そんな傍目に見て決して気分の良くないであろう私の傍らに、じっとりと胡乱そうな瞳をした小さな影が一つ。

「おいクルマユ。そんな暑苦しい葉っぱなんて脱ぎ捨ててお前もありのままを晒してみたらどうだ」

 私の雄弁な勧告を受けたクルマユはフンスと鼻を鳴らして黙殺した。ドブの詰まりを見るような気怠い目をしている。とはいえ、こいつの場合それがデフォルトだから、実質涼しい顔をしているということになる。事実さほどの暑さは感じていないのだろう。

 およそ人間の把捉し得る科学の範疇を超越しているポケモンとかいう生き物には猛暑ごときなんのその、なのだろう。

 真夏、その昼下がり。

 世間の学生は夏季休暇で浮かれていることと存じるが、社会人となればそんなものは有り得ない。一応私もその一員に属する人間ではあるのだが、諸々の一身上の都合により、漏れなく夏季休暇真っ最中である。

 てんですることもなく自室で惜しげもなくその下着姿を露わにし横たわっていた。

 憎き猛暑に気力体力を根こそぎ奪われ、私は人間としての尊厳を擲って、考えられる限り最も涼しい格好の一歩手前でいる。

「しかし本当に風通し悪いな」

 立ち上がり窓の外をねめつけると、すぐ近くに川と遠方に森が見える。一つ小さな綿雲が浮かんだ空はうんざりするほど蒼い。

「……たまには出掛けるか」。

 ちょっと小規模過ぎる避暑である。

 窓を開け放っても風通しの悪い自室に籠っているよりかは、外に出て日陰の中を歩いているほうが幾分かはマシなような気がした。幸いにも私は田舎めいた町に住んでいるので、都市に比べれば緑は断然多いし、心持ち清冽な川も流れている。

 私は部屋に脱ぎ捨てられていた衣服の中から、適当に一式を選んで着ると、クルマユを連れて部屋を出た。

 アパートの階段を下りると、女の子に出くわした。真夏にもかかわらず、足をすっぽり覆う長ジーンズに白い長袖のパーカーをフードまで被った、季節感のちぐはぐな出で立ちをした少女だ。年不相応な憂いを帯びた表情をして、箒で地面を掃いている。そのすぐ側ではウインディが寝そべっていた。

 彼女はこのアパートの大家の娘だ。

 アパートの向かいにある一軒家に父と二人で住んでいる。

 初めて会った際に名前を尋ねたら、「私は大家です。どうせあのロクデナシはじきにロクでもない死に方をするので、私が大家になるのは時間の問題なんです。だから私のことは大家と呼んでください」と言われた。父親が付けた自分の名前が嫌いらしい。以来、私は彼女を大家ちゃんと呼んでいる。

大家ちゃんは私に気付くと、少し嬉しそうに笑みを浮かべて「おはようございます、お姉ちゃん」と頭を下げた。「おはよう、大家ちゃん」と私も挨拶を返した。

「クルマユもおはようございます」

 大家ちゃんが頭を撫でるとクルマユは機嫌よくフンスと鼻を鳴らした。こいつは何の反応示すときでも鼻を鳴らす。

「お姉ちゃんがお出かけなんて珍しいですね」

「そうかもね」

「やっと働く気になりました?」

「ほっとけ」

 大家ちゃんは実に楽しそうに皮肉を飛ばす。そこに嫌味ったらしい感じはしない。それは彼女なりのコミュニケーションなんだろう。なんだかんだで私はこの子に懐かれているようだった。たまに私の部屋に遊びに来たりする。アパート住民の中で一番年が近いからかもしれない。それでも十歳前後は離れていたような気がするが。私も私で、彼女以外に親しい友人がいないものだから、何かと構ってしまうのだ。

「大家ちゃんは毎朝お仕事ご苦労さん」

 私が労うと、大家ちゃんは得意げに胸を張った。

「うちの父は仕事をしませんからね。今は窓を閉め切ったクーラーも点いてない部屋で寝ていますよ」

「それ死ぬんじゃないか?」

「死ねばいいんですよ」

 事も無げに大家ちゃんは言った。彼女は父親に対しての態度が極度に辛辣だ。

 なぜかというと、例えば、過当に布で覆い隠された身体の数少ない露出部分である右手の甲。そこにある真新しい火傷痕なんかに、その態度の理由の一端を垣間見ることができる。タバコを押し付けたような、円い火傷痕だ。

 ただ私は彼女の家庭事情について尋ねたことはないし、彼女の方からそのような話が出たこともない。だから詳しいことは何も知らない。他人が深く立ち入って良い領域ではないだろう。それについて詮索することは憚られる。

 私の視線に気が付いたのだろう。右手を後ろに隠して、そういえば、と大家ちゃんは話題を変えてきた。

「首相が変わってから半年くらい経ちますけど」

「へえ、いつの間にか変わってたんだ」

「知らなかったんですか?」

「テレビも新聞もないしね」

 そんな金はない。

 だから世間の情勢にはかなり疎い。

 しかし、そういった情報が私にとって有益かというと、そんな風には思えなかった。首相が誰に変わろうが、私の知ったことではない。間接的な影響こそあるかもしれないが、今のところ困ったことはなかった。

 そんな私を見て、大家ちゃんは勘ぐるように目を細くした。

「関係ないって思ってるようですけど」

 そして少し困ったように、悲しむように、クルマユとウインディを一瞥した。

「近い将来ポケモンの所持が違法になる、かもしれないそうです」

「は?」

 言われた言葉の真意を上手く咀嚼できず、私は聞き返した。

 ポケモンの所持が違法? 冗談にしたってたちの悪い話だ。

「なんでもポケモンを使ったテロが増えてきたとかで、その対策で所持を全面禁止しようという声が上がっているそうです。私もニュースとかはあまり観ないので最近知りました」

「……へえ、テロが増えたって話も初耳だな。一年前くらいまではそんなものはなかったと思うけど。でも、所持が違法になったとして、人の手にあるポケモンたちはどうなるんだ? 一斉に野生に返すの?」

「政府が預かるそうですが詳らかにはわからないです」

「ふーん、なんにせよ、嫌な話だね」

「そうですね、私も嫌です」

 大家ちゃんは切なそうにウインディの背中を撫でた。

「この子と離ればなれになるのは辛いです。父と家で二人きりになってしまうので」

 そう漏らす彼女の姿はひどく哀愁を誘った。

「まあまだ可能性の話ですけど」

「ふーん」

「あ、すみません、引き留めてしまって。これから出かけるのに」

「大丈夫だよ。急ぎの用ってわけじゃない」

「どこに行くんですか?」

「ただの散歩だよ。部屋が暑いから川沿いでも歩こうかなって」

「そうですか。ぜひご一緒したかったです」

「じゃあ掃除終わるの待ってるから、一緒に――」

「なにサボってるんだ?」

 大家ちゃんを散歩に誘おうとしたら、怒気を孕んだ声がした。

 見ると、いつの間にか大家ちゃんの父親、つまり大家が、家から出てきて大家ちゃんを睨んでいた。

「誰の許可で、何もしないで突っ立ってんだ?」

「あ、えっと、ごめん、なさい……」

 消え入りそうなか細いで大家ちゃんは謝罪した。顔は俯き、肩は弱弱しく震えていた。

 大家は右手の拳を握り、粗雑な足取りで大家ちゃんに向かってきた。その顔がうっすらにやついて見えた。暴力の口実を見つけた、といったふうな顔だった。

 しかしそこでやっと彼は私の存在に気付いたようだった。

 大家は慌てて拳を解くと、取り繕うように苦笑いをして頭を掻いた。

「これはお見苦しいところ見せてしまった。ごめんね、不出来な娘で」

 まるで大家ちゃんに非があるような言い方だ。

 そういえば大家父子が一緒にいるところは初めてみるが、大家ちゃんは父親の隣で完全に委縮して、しきりに「ごめんなさい」と呟いている。やはり健全な親子関係は築けていないようだった。あまりにも痛々しかった。

「うちの娘がなにか迷惑をかけたりしなかったかい?」

「いえ、むしろ私が話しかけたせいでお仕事の邪魔をしてしまったみたいで。すみません。あんまり怒ってあげないでください」

 私が軽くフォローを入れるつもりで諫めると、大家はあからさまに不機嫌そうな顔をした。しまった、逆効果だっただろうか。

「あ、そういえば」

 思い立って私はカバンから財布を取りだした。その中からお札を数枚抜き取り、大家に手渡した。

「早いですけど、今月の家賃です」

 途端に大家の顔が明るくなった。こういう暴力的で傲慢な人間は金に弱いと相場が決まっているものだ。

 大家はそそくさと金をポケットにしまうと「真面目に仕事しろよ」と大家ちゃんに言い残して家に戻っていった。何しに出てきたのだろうと思ったが、もしかしたら難癖をつけて大家ちゃんをいたぶるためだけに出て来たのかもしれない。

 私は俯いたままの大家ちゃんの頭を撫でた。

「大丈夫?」

 私が尋ねると、大家ちゃんは涙を浮かべながら抱き着いてきた。

「ありがとうございます……」

 私はされるがままに、彼女の後ろに手を回し、背中を擦ってあげた。彼女はしばらくの間ぎゅっと顔を私の服に押し付けて嗚咽を漏らした後、「臭い」と渋面を作って突き放した。

「お姉ちゃん、もしかしてこの服、洗濯してないのでは」

 訝しげな薄目で大家ちゃんは邪推した。

「……ごめん」

 謝りながら、部屋に洗濯していない衣服が散らかっているのを思い出す。

「お姉ちゃんは本当にダメな人ですね」

 大家ちゃんは嫌味ったらしくない笑顔で嫌味を宣った。どうやらいつもの調子を取り戻したようだ。しかしまた、ふうっとため息をつく。

「できればお散歩にご一緒したいのですが、あんな父なので……」

「散歩はまた今度機会があったら一緒に行こうか。あー、それと何かあったら、うちにおいでよ。それでどうにかなるかはわからないけど……」

「気にしないでください。でもまた遊びに行きたいです。お部屋のお掃除も兼ねて」

 助かるよ、と私は言った。なんだか一人暮らしの彼氏の家に行く彼女みたいだと思ったので、その旨を伝えると、大家ちゃんは真っ赤になって「もう、もう」とぺしぺし私を叩いて、それから、ふふ、と笑った。可愛い。

「それでは、また。いってらっしゃい」

「うん、じゃあね」

 大家ちゃんに手を振って、私はアパートを後にした。


 私は川沿いを上流に向かった。隣ではちょっこらちょっこらとクルマユが随伴している。

 重量を伴って身体に圧し掛かっていた熱気が、ほんのりと清涼な川風で引き剥がされていくような体感があった。とはいえ結局暑いことに変わりはなく、浅瀬を流れる落葉よりとろい歩行速度で私は進んでいた。

 このまま進むと、森が繁ったちょっとした山がある。

 森に入ると沿杜撰な作りの遊歩道が川から逸れて伸びている。この辺はあまり人が立ち入らないらしい。そもそも私の町に人が少ない。もっと町の中心部、駅の方まで行けば、人家や商店が並んでいたりするのだが、それは私の家から自転車をだいぶ漕がなければならない。

 いかばかりか進むと、遊歩道から外れた方向に草木を掻き分けたような痕跡があった。獣道だろうか。

「へえ。どうよ、クルマユ。少し冒険してみないか」

 数瞬の逡巡の後、私はその獣道へと足を踏み入れていた。どういうわけか無性に冒険心をくすぐられたのだ。クルマユは相変わらずフンスと鼻を鳴らしたが、何も言わず着いてきた。

 伸び繁った雑草を踏み倒しながら、辛うじて見えるくらいの地肌を辿って、奥へ奥へと進んでいった。

 どれくらい進んだだろうか。

 森の中は確かに涼しかったが、張り切って歩き続けたせいで、総合的には部屋にいる時よりも暑かった。

 それほど歩いたのだから、大分奥まで来たはずだった。側では川が流れており、滝が落ちる音も聞こえた。いつの間にか川沿いに戻ってきたようで、それもかなり上流のようだった。

 そんな普通なら人っ子一人来ないような森奥で、私は妙な建物を見つけた。

「会館?」

 場に相応しくない、コンクリート造りで白塗りの巨大な建物だ。数百人は優に収容できそうだった。

 近づいて耳を澄ますと、大勢の人の気配がした。

 何かの集会だろうか。一体何をしているのだろう? 

 好奇心と同時に僅かな恐怖心も私を襲った。こんな場所で集会をしている連中が正常な連中だとは到底思えなかったのだ。それでも、その好奇心と恐怖心を秤にかけて、結局好奇心が勝った。せっかく冒険してここまで来たのだ。何も得られないで帰るのも割に合わないだろう。

 私は音を立てないようにそっとガラス戸を開けた。

 殺風景なエントランスが広がっていて、その向こうに広大なホールがあった。私はその入口から、そっとホール内を覗いた。中は人で溢れ返っており、皆一様に前方の講壇の方を向いて何かを待っている。どうやらこれから講演が始まるようだった。

やがて司会のような偉そうな人が講壇に立って開会の辞を述べた。それから聴衆が一斉に歌いだした。それはどこか聖歌のようで宗教染みていた。なるほど、新興宗教の集会か。それならわざわざこんな森奥で人目を憚るように催されるのも頷けた。

 歌は一しきり森の深閑を震わせ、そして止んだ。

「それでは教祖様のお話です」

 司会が言うと、場内からは拍手喝采が巻き起こった。

 司会が壇上から立ち退くと、入れ替わるようにして、如何にも聖職者のような紫のローブを纏った人物が前に立った。冴えない顔をした、ともすれば一分後には忘れてしまいそうなくらい薄い顔立ちの、四、五十代くらいの男だ。

 教祖が口を開いた。

「皆さん、本日は私めの話を聞くためにお越し頂き――」

 長い話だった。

 聴衆は半数くらいが感涙しており、もう半数くらいも聞き入っている様子であった。控えめに言ってその光景は気持ちが悪かった。

 クルマユが六度目の欠伸をする頃、終わりの見えない説法と妄信的な信者の姿に辟易した私は、最後まで聞くことなく、誰にも気付かれないように退出した。森の奥の集会所で宗教の密会。自己満足するには十分すぎるネタだった。

 会館を出ようとすると、「あれ、君は」と不意に声を掛けられた。

 その声は私が知っている声だった。振り返ると大家が驚いた表情でこちらを凝視していた。そしてそれは私も同じだった。どうしてこの人がここにいるんだ?

 勿論、彼が気まぐれで森を探検するようなアクティブな趣味でも持っていない限り、こんなところにいる理由なんて知れていた。

「まったく、娘のせいで大分遅れてしまったよ」

 要するに彼はあの気味が悪い信者たちの一人なのだろう。その一人に集会を覗き見していることが知られたかもしれない。そこまで考えが至ったら自然と足は動き出していた。

 逃走。もと来た獣道に飛び込み一心不乱に走った。川沿いの遊歩道まで走って、私はようやく止まった。息が切れて、汗水は滝のごとく流れていた。引きこもりにこの運動量は鬼だ。やっぱり部屋から出ない方が良かったな、と思った。

「帰るか、クルマユ」

 フンスという返事を受け取って、私は帰路についた。息一つ乱さないこいつが少々恨めしい。

 アパートに戻ると郵便受けに回覧板が入っていた。ざっと目を通しても重要なことは書かれていなかった。宗教勧誘のようなチラシが挟まっていたような気がしたが、私は目もくれず、隣の郵便受けに突っ込んだ。


 ところで件の集会での教祖の講演だが、つい最近その内容と似たような話を私はどこかで聞いていた。その既視感は疾走の最中にどこかに振り落としてしまったようだったが。


   *


 主君が寝静まったのを見計らって、吾輩はそそくさと寝床を抜け出した。静寂が空を支配する宵闇の刻、朧の外套を纏った月がぼうっと窓の外に霞んでいた。

 音を立てないように忍び足で窓に近づき、吾輩はそっと夜の世界に飛び出した。

 夜逃げではない。吾輩は夜になるとしばしば主君には黙って散歩に行く習慣がある。いわばライフワークであった。それに今日は友と会う約束があった。

 二階の窓から飛び下りて臀部を強かに打った後、吾輩は歩き出した。

 夜の町は昼のそれとは様相を異にする。吾輩は夜の町の方が見慣れていた。昼と同じ川沿いの小道を歩いていてもやはり夜の方が吾輩に馴染んでいる気がした。

 しばらく歩くと友は畔に生えた一本の大きな木の下で佇んでいた。

「こんばんは、待たせてしまったか」

「こんばんは、待ってはいないよ。良い夜だね」

 穏やかに微笑みながら、気取った台詞を吐くこいつこそが、吾輩の友だった。

「どうだ、そっちの調子は」

「変わりないよ。この辺りは環境もいいし住みやすい。皆元気さ。そっちこそどうだい?」

「それがなんと今日は珍しく主君が冒険をしていたよ」

「へえ!」

 友は目を丸くして笑った。

「驚いた風に言うがお前、吾輩たちが出かけるのを見ていただろう」

「ははは、バレていたか」

 そう言って、また笑った。友はよく笑う奴だ。四六時中仏頂面を構えている吾輩とは対照的である。

「でも全部は見ていないよ。森に入っていくところまでは見たけどね。てっきり自殺でもするんじゃないかと思ったよ」

「笑えないな」

「本当に。でもそうか、冒険か」

 思うところがあるのだろう。友は寸毫耽ってから、懐かしいな、としみじみ言った。同じく、と吾輩は返した。

「で、どうだった、その冒険とやらは」

「それが奇妙な連中がいたんだ」

 そして吾輩は先刻に主君と体験したことを友に話した。

「へえ、なんだか不穏な話だね」

「不穏と言えば、もう一つ思い出した。人間がポケモンを所持することが禁じられるそうだ」

「なんだって」

 友は今日初めてその笑顔を崩した。

「そんなことをしたら――」

「主君が本当に自殺しかねないな」

「笑えないよ」

「笑い話ではないから当然だろう」

 主君は脆いお人だ。主君が吾輩を唯一の心の支えにしているということはよく判っている。自惚れなどではない。吾輩がいなくなれば、壊れてしまうことは火を見るよりも明らかであった。今でこそ、主君はその法案を実感として受け取ってはいないようで平気そうな顔をしているが、そしてそれは吾輩も同じだが、法案の言い分は主君にとっては死刑宣告のようなものなのだ。

「それで、君はどうするんだい?」

 と友が問うた。

「付いていけるところまで付いていくさ。主君が逃げるというなら逃げるし、死ぬというなら吾輩も死ぬし、お偉いさんを殺せというならそれも厭わない」

「ずいぶん物騒だ」

「気が立っているからだろうか」

 不愉快な話題だ。致し方ない。

「それに別に可能性の話だ。絶対じゃない」

それから幾らか他愛もない話をすると、我々は別れた。

 友が翼をはためかせ空に飛び去るのを見送ってから、吾輩も主君のもとに帰った。


   *


 夢を見た。


 あの頃の夢だ。夢の夢だ。

 私はかつて、ポケモントレーナーを志していた。現在はしがない引きこもりの私にも、夢を持っていた少女時代があったのだ。

 ポケモントレーナーとして家を飛び出した数年前のあの頃、私は自分に卓越した才能があると信じて疑わなかった。同期の友人たちが挫折や諦念を噛み締めていく中、私は各地のジムを順調に勝ち進んでいった。

 友人たちはそんな私を口々に褒め称えた。当時の私はそれは浮かれたものだ。

 しかし純粋な賞賛や羨望は時に暗示となり呪いとなる。私はこの時、自身の赫々を過信し、自分に比倫を絶する才能があることを妄信してしまったのだ。

 無論、私に特別な才能があったかと言ったら、決してそんなことはなかった。所詮御山の大将にすぎなかったのだ。

 七年。私が七つ目のジムを勝つために鍛錬を続けた時間だ。そしてそれだけの時間をかけてついぞ果たすことはできなかった。

 自らの限界悟ったあの夏。聳える程に高く積み上げられた自尊心は、一度ひびが入れば後は容易に瓦解する。

 トレーナーとしての道を放棄したのが約一年前だ。

 身を潜めるようにこの町に住みついて、適当な仕事を探して、死んだように日々を見送りながら、それでもそれまで共に旅してきたパートナーたちの存在に救われながら、生きていた。

 その唯一の拠り所だった彼らもある日唐突に、ただ一匹を残して忽然と姿を消した。

 くたびれて帰宅したらやけにだだっ広くなっていた部屋の光景を、今でもたまに夢に見る。

 ああ、そうか。と思った。

 まあ、そうだよな。とも思った。

 こんな私に付いてきても仕方がないよな。

 たった一匹、眠たげな目をして私の帰りを待っていたクルマユを抱きしめて夜通し泣き明かした。

 翌日の仕事はすっぽかした。それ以降も家に引きこもり続けた。もう何もやる気が起きなかった。生きていくための活力を大半失った。


 信じていた者たちに見限られたあの夏の日から、私の倦怠に濡れた夏は続いている。


   *


 インターホンの音で私は目を覚ました。億劫がって取り合わないでいると、それは二回、三回と繰り替えされた。

「お姉ちゃん、いるのは判ってます」

 聞き慣れた声がして、私はやっと重い体を上げた。

 眠い目を擦りながら扉を開けると、大家ちゃんが、おはようございます、と挨拶した。

「おはよう、どうしたの?」

「先日一緒に出掛ける約束とお部屋の掃除をする約束をしたので」

「それが今日だって約束をした覚えはないな」

「どうせ暇じゃないですか」

 その通りだった。

 大家ちゃんは私が、どうぞ、と言う前に靴を脱いで部屋に上がっていた。

「あれ、そこまで散らかってないですね」

「部屋を汚すような物を持っていないからね」

「でも埃っぽいです」

「そうかな」

 ずっとそこで生活していると多少埃っぽいのは気にならない。とはいえ客観的な意見を無視はできない。試しに窓枠を指でなぞってみると、確かに指先が黒くなっていた。

「最後に掃除したのはいつですか?」

「さあ。掃除をした記憶自体がないな。前に大家ちゃんが遊びに来たとき以来じゃないかな」

 私が言うと大家ちゃんは絶句した。

「しばらく訪ねた記憶がありませんよ。よく今まで生きてこれましたね」

「別に部屋が汚れてても死にはしないよ」

「はあ、掃除機はどこですか? ってどうせ持ってませんよね」

 ちょっと待っていてください、と言い残して彼女は一旦私の部屋を出た。色々な場所の埃を指で擦って待っていると、大家ちゃんは掃除機を携えて戻ってきた。私は待ったをかける。

「なんですか」

「掃除機は電気代が嵩むから止めてほしいな」

「掃除機一回使ったくらいで劇的に変わるわけないじゃないですか」

「でも……」

「……わかりました」

 大家ちゃんは再び部屋を出ると今度は箒を持ってきた。普段、彼女がアパートの掃除をする時に使っている物だ。なるほど、それなら何も問題はない。

 私たちは部屋の掃除をした。といっても、箒は一本しかなかったので、掃除をしていたのは実質大家ちゃんだけで、私はずっと塵取りを持って座っていただけだった。

 部屋が狭いのと大家ちゃんの手際が鮮やかなのが相まって、掃除は一時間も経たないうちに終わった。溜まっていた洗濯物は大家ちゃんの家の洗濯機を借用した。

「ところで今日はお父さんは?」

 朝食の食パンを齧りながら、私は尋ねた。言ってから、少々不躾な質問だっただろうかと後悔したが、大家ちゃんは別段気にしている様子はなかった

「朝早くからウインディを連れてどこかに出かけて行きました。夜ご飯はいらないと言っていたので、遅くまで帰ってこないと思います」

 洗濯の終わった衣類を干しながら大家ちゃんが答えた。

 出かけて行った――私は先日、会館で大家と鉢合わせたことを思い出した。あれ以降大家には会っていない。わざわざ向こうからコンタクトを取ってこない辺り、あの逃走劇は徒労だったのかもしれない。

 それから、大家ちゃんはご飯も作れるのかと感心した。どうやら家事全般ができるようだ。きっといいお嫁さんになるだろうな、ということをそこはかとなく伝えてみたら、彼女は少し照れたように頬を掻いた。

「そういうことですので、今日は散歩に行けますね」

 大家ちゃんは心底嬉しそうに言った。

 私がどこに行きたいか尋ねると、大家ちゃんは駅の方まで行きたいと言った。駅の周辺には申し訳程度の商店街や娯楽施設が点在しているが、歩いていくには些か遠すぎる。もっと近場にしないかと私は提言したが、大家ちゃんは駅前に行きたいと言い張った。

「なんでそんなに拘るんだ?」

「今日は駅前でお祭りがあるんですよ。この前の回覧板に告知があったはずですけど」

「どうだったかな」

 あまり子細は確かめずに次に回したから定かではなかった。もしかしたらそんなものもあったかもしれない。

「お祭りに行きたいです。行ったことがないので一度行ってみたかったんです」

 そういうことなら仕方がなかった。私は久しく使っていなかった自転車を引っ張り出してきた。ここに越してきたばかりの頃、仕事先への通勤のために買ったものだった。バイトを辞めてからは、駐輪場の片隅で土埃を被って眠り続けていたが。

 私はそれを雑巾で軽く拭って、タイヤに空気を入れた。

 大家ちゃんには後ろに乗ってもらい、クルマユを前籠に乗せて、私は駅まで自転車を漕いだ。ろくに運動をしていない身体に二時間近い、それも一人と一匹を乗せての自転車走行はかなり響いた。

「お尻が痛いです」

 大家ちゃんが文句を垂れた。私は足が痛い。

「ごめんね。ちなみに帰りもあるから」

 自分で言って激しくうんざりした。

 駅前までくると既に幾多の屋台が堵列して、通りにはそれなりの人だかりができていた。

 適当なスペースに自転車を止めて、私たちもその中に飛び込んでいく。

 祭り騒ぎの渦中に入るのは、久しぶりな気がした。立ち並ぶ屋台を見ていると、無性に金を使いたくなる衝動が襲う。しかしそれを許すだけの金銭的余裕は無かった。

「大家ちゃん、何か買いたい物とかある? どこかに並ぼうか?」

 私が聞くと、大家ちゃんは首を横に振った。

「いえ、見ているだけで十分です。お小遣いなんてありませんし」

 あの吝嗇家がそんなものくれるわけないじゃないですか、と自嘲気味に大家ちゃんは呟いた。

「しかし、本当に人が多いな。大家ちゃん、手繋ごうか」

「え、どうしてですか」

「迷子になったりしたら大変だし」

「なりませんよ」

 大家ちゃんは拗ねたようにそっぽを向いた。子ども扱いされるのは気に食わないようだ。その仕草が年相応の稚さを漂わせていていじらしかった。それから少し頬を紅潮させて彼女は言った。

「でもそんなに心配なら、繋いであげてもいいです」

「それは良かった」

 そして私が手を差し出すと、大家ちゃんが控えめにきゅっと握った。

「私、お姉ちゃんみたいな姉が欲しかったです。ダメだけど優しいところがすごく姉っぽいです」

「褒められてるのか、貶されてるのかわからないな」

「褒めてるんですよ」

 そう言うと、大家ちゃんは悪戯っぽく舌を出した。そうか、私は優しいのか。

「私も大家ちゃんみたいな妹が欲しかったな。掃除してくれるし、料理もしてくれそうだし」

「それじゃあ家政婦みたいじゃないですか」

 それもいいかもしれないな、と思った。

 それから私たちはあちこち屋台を回り歩いた。

 一回だけ贅沢をして綿飴を一つ買って、二人と一匹で分けて食べた。他人の射的を見学したり、同じものを売っている屋台の数を数えたりした。

 賑やかな街道を笑い合いながら歩いた。

 楽しい、と思った。そうだ、祭りは楽しいものだ。

 強くノスタルジーをつつかれて私は思い出す。まだ私がポケモントレーナーとして各地を旅していた頃、毎年違った場所で、違った祭りを見た。あの時はクルマユだけじゃなく、他にも五匹の仲間を私は従えていた。

 私は想起する。私と大家ちゃんとクルマユともういなくなった皆でこの祭りで笑いあっている姿を想起する。それは決して叶うことのない幻想だった。

「お姉ちゃん、なんだか感傷的な顔をしています」

「うん、ちょっとね」

 指摘されて、私は現実へと回帰する。現実は寂しいものだと、今更ながら痛感してしまう。祭囃子の音が妙にリアリティを伴って、私の耳を通り抜けた。

「私、昔は色んなところで色んな祭りを見たんだ。聞きたい?」

 無意識のうちに私の口からそんな言葉が飛び出した。

「ぜひ聞きたいです」

 大家ちゃんは目を燦々と輝かせて、身を乗り出した。その鼻に綿飴が付いていて私は思わず笑ってしまう。

 それから、私は話し始めた。

 思えば、誰かにこんな風にして旅の思い出を聞かせることは初めてのことだった。語る機会がなかったし、語る相手もいなかったし、語ろうと考えたことすらなかった。けれど、思い出は話せば話すほど確かな彩色を持って、秋が葉を赤く染めるように私の心にすっと染み込んでいった。

「いいな、あんな家はとっとと出て行って、私も旅がしたいです。ウインディと一緒に色んな所を巡りたいなあ」

 私が話し終えると、大家ちゃんはうっとりするような表情で言った。

 私ももう一度旅に出たいな、と柄にもないことを私は思った。

 そろそろ帰りましょう、と大家ちゃんが言ったので、私たちは自転車に跨った。

 しばらく走ると後ろで大気を震わす爆発音がした。花火を上げているのだろう。

「もうすぐ夏も終わりますね」

 大家ちゃんが呟いた。

 帰り道、家の近くにある図書館の脇を通りかかると、大家ちゃんがストップをかけた。

「少しだけ、見て行ってもいいですか」

「いいよ」

 大家ちゃんは本が好きらしい。月に数度、図書館に行って本を借りてくるという。

「すぐに選んでくるので、少し待っていてください」

 大家ちゃんが本を吟味している間、私は新聞でも読んで待つことにした。先日大家ちゃんから聞いたポケモンの所持についての件を思い出してのことだった。

 一部取って開くと、それに関する記事はすぐに見つかった。

「あれ」

 私はあることに気付いた。新聞の一面には首相の写真が掲載されていた。その顔を最近どこかで見たような気がしたのだ。

 それはこの間森の奥で見た宗教団体の教祖に酷似していた。

 そういえば。あの教祖の演説にも聞き覚えがあったのだ。

『人間はポケモンという過ぎた力を持ったからこそ、その力をテロや犯罪などの誤ったことに行使してしまう。ポケモンと人間を分離させ、人間は人間として生きていくべきだ』

 話半分で聞いていた演説を要約したら、たしかこのようなことを言っていた。

 ポケモン所持の禁止を謳う国家とその首相。人間がポケモンの力を使うことに異を唱え、二種族間の分離を謳う教祖。その二人の容姿は瓜二つという事実。

「貸し出しが終わりました。行きましょう」

 大家ちゃんに呼ばれて私は新聞を戻す。

 まさかな、と思い込むことにした。


 それから幾日か経った日の夜。私は主食の食パンを切らしていることに気が付いた。時計を見ると近所のスーパーはまだ開店している時間だった。買いに行くかどうか一考して、今行かなかったら面倒になった当分行かなくなるだろうなと思い、意欲のあるうちに出発することにした。

 服を着て、財布をポケットに突っ込み、部屋を出て鍵を閉める。

 人がいないこの町の夜はいつも海の底のように深くゆったりとして静粛だ。

 しかし、今晩は違った。

 アパートから出た私は、何やら揉めているような騒音を耳にした。それは向かいの大家の家から聞こえてきているようだった。

 私は今にも父親に暴力を振るわれそうな大家ちゃんを想像して首を横に振った。そこに乱入しに行くだけの勇気は私にはない。大家ちゃんに謝罪の念を送りながら、私は家の前を通り過ぎようとした。

 ところがどこか違和感があるような気がしてならなかった。

 揉めているということは、大家と大家ちゃんが互いに言い合っているということだ。耳をすませば大家ちゃんのものらしき声が憤っているのが聞こえた。あの子があんなに声を荒げることは珍しい。それもあれほど畏怖しきっていた父親に向かってだ。

 やがて、悲鳴が聞こえ、それを境に、夜は静寂を取り戻した。悲鳴は男の物だった。

 不審に思った私は恐る恐る大家の家に近づく。当然扉は鍵がかかっていた。庭に回ると、窓が開いていた。物音を立てないように、そっと中の様子を窺った。

 吐き気を催すような悪臭がした。鉄のような不快な臭いだ。

 私は思わず息を飲んだ。

 そこには血に濡れた大家ちゃんが、床に倒れた父親を無機質な眼で見降ろしていた。その手には包丁が握られていて、その先から滴る赤い雫が、小さな水たまりを作っていた。


 事故現場に遭遇した私がまず最初に取った措置は、通報でもなく、悲鳴を上げることでもなく、血塗れの大家ちゃんをお風呂に入れることだった。服を脱いだ大家ちゃんの身体には至る所に痣や傷、火傷痕があった。

「ウインディが」

 やっと大家ちゃんが口を開く。その眼は依然空虚を見つめていて、焦点が合っていない。

「ウインディがいなくなっちゃった」

「いなくなった?」

 訥々と大家ちゃんは語り始める。

 帰ってきた父がウインディを連れてなかったこと。

 そのことについて父に問い詰めたこと。

 父がよくわからない宗教にはまっていたこと。

 そこで父がウインディを移譲してきたこと。

 それを聞いて逆上し、思わず父に反駁してしまったこと。

 そこから先はあまり覚えていないということ。

 気が付いたら、父は倒れていて、その腹部から血が湧き出ていたこと。

 その側で自分が包丁を持って立っていたこと。

「ウインディを、ウインディを取り返しに行かないと」

 うわ言のようにぼそぼそ呟きながら、強く拳を握った。

「でもどうしましょう。ウインディがどこにいるのかわからないんです」

 彼女は縋るように私の顔を上目遣いに見上げた。

「心当たりはある」

 私は言った。

「どこ、どこですか」

 大家ちゃんは私の肩を強く掴んで揺さぶった。私はその手を振り払い、逆に彼女の肩を掴み、落ち着いて、と制止した。

「森の奥にその宗教の集会所がある。もしかしたらそこにいるかもしれない」

「じゃあ、今すぐに」

「だから落ち着いて。こんな夜に森へ入っても遭難するだけだよ。明日の朝早くに行こう。今日はもう寝るんだ」

 そうすれば、大家ちゃんの錯乱状態も幾分かはマシになるかもしれない。

 風呂を出て、体を拭き、髪を乾かして、私たちは今一度死体に向き合う。どう処理するか検討し合った私たちは、結局何もせず家を完全に閉め切ってから、私の部屋に向かった。布団を敷いて二人と一匹で並んで横になった。

 隣で健やかな寝息を立てる少女を見やる。この子はこれからどうするのだろう。よしやウインディを取り戻したとして、その後彼女に幸せな未来はあるのだろうか。彼女は今や殺人者なのだ。その事実はいずれ露呈することになるだろう。

 私は首を振る。考えても詮無いことだ。

 気が付けば私も眠りに落ちて、次に目を覚ましたのは大家ちゃんに揺り起こされた時だった。

 大家ちゃんは服を着替え、カバンを掛けていた。すぐにでも出発できそうな状態だった。私も顔を洗い、服を着替え、出発する。

 大家ちゃんに促されるまま家を出たため時計を確認し忘れたが、まだ早朝のようだった。太陽がやや低い位置に顔を見せていた。道理でやけに眠いはずだ。

「お姉ちゃんは、会うといつも眠そうな顔をしていますけどね」

「あれは眠いんじゃなくて、怠いんだ」

「似たようなものです。結局ずぼらが原因なんですから」

 嫌味を宣う大家ちゃんの口調には、いつものような楽しげな雰囲気は読み取れなかった。

 川沿いを歩き、森の遊歩道に入ってしばらく歩くと、前と変わらず気付くか気付かないかシビアな境界線の獣道が見つかった。

 私がその獣道に踏み込むと大家ちゃんは少し驚いたような顔をしたが、何も言わずに付いてきた。

 獣道は前に来たときと変わらず繁っていて、人が大勢通ったような形跡はなかった。集会での聴衆の人数を考えると、どこかにちゃんとした正規のルートが存在する可能性は濃厚だったが、この道しか知らない以上、ここを進むしかない。

「着いたよ」

 やがて辿りついた開けた空間には、相変わらず異才な存在感を放つ物体が不気味に聳えていた。

「この森にこんな巨大な建物があったなんて、初めて知りました」

 大家ちゃんも不審そうにその白い物体をねめ回した。

 ほぼ日の出と同時に出発したからだろう、人の気配はしなかった。

「この中にウインディがいるんですね」

 私は答えなかった。可能性がないわけではないが、すでにどこか別の場所に持ち去られていたとしてもおかしくはないし、ここで引き渡しが行われたという確証自体がないのだ。

 私の懸念を知ってか知らずか、あるいはそんなことに構っている余裕はないのか、大家ちゃんは敢然と会館へ躍り込んだ。どうか、見つかりますように。そう胸三寸で願ってと私も続いた。

 以前訪れたときはホールのみに気を取られ確認はしなかったが、この建物は二階建てでホール以外にいくつか部屋があった。私たちは一つずつ丁寧に中を調べて回る。書類が積まれた部屋や会議室のような部屋、簡素な書屋などを調べた私たちは、最後に倉庫のような部屋に立ち入った。

 薄暗く埃っぽい室内には大きい陳列棚が幾つか置いてあり、そこに無数の球体が並べられていた。

「モンスターボール?」

 手に取って見てみると、ボールには西暦と日付、そしてポケモンの名前が記されたラベルが貼付されていた。

「ウインディ以外にも回収したポケモンたちがいるということでしょうか」

「そうかもしれない」

「じゃあウインディもここに」

「探してみよう」

 しかし、一つ一つ端から端まで確認しても、ウインディと書かれたラベルは見つからなかった。

「どこにも、ない、なんで」

 大家ちゃんの顔に強く影が差したその時だった。

「お前たち、そこで何をしている?」

 その声は私のものでもなければ大家ちゃんのものでもない。

 部屋の入口に男が立っていた。

 見つかったか。

「クルマユ」

 私が叫ぶのとほぼ同時にクルマユが男に向かって体当たりをかました。男は短く呻き声を上げながら、吹っ飛んで床に倒れる。

「逃げるよ」

「でもウインディが」

「ここにはいないんだ」

 あくまで言い聞かせるように、努めて冷静に宥めながら、私はごねる大家ちゃんの腕を掴んで、無理矢理に引っ張って走った。階段を駆け下りて、ロビーを抜け、野外へ転がり出た。

 だが遅かった。

 おそらくこれからまた集会か何かがあるのだろう。そこは、数十人はいるであろう集団が一挙となって押し寄せてくる最中だった。ただ走り去るだけならば、彼らの興味をそれほど引くことはなかったかもしれない。しかし、私が連れていたクルマユを見た瞬間、奴らの目の色が変わるのが判った。奇異を見る目だ。

「その女たちを捕まえろ! 異端者だ!」

 さらには先ほど吹っ飛ばした男が叫びながら追いかけてきていた。

 この人数をクルマユ一匹で相手にするのは可能だろうか。いや、大家ちゃんを守りながらとなれば難しいだろう。人質に取られてしまえば何もできなくなる。

 後ろに会館、つまりは行き止まり、前方に集団、左方も集団。右方には川があるが、飛び込んで逃げることはできなさそうだ。すぐ先に巨大な滝が落ちている。

 万事休す。

 せめてどうにか大家ちゃんだけでも逃がせないか。

 辺りをねめ回す。どこかに突破口が存在しないか、その壁に些細な綻びを求めてただ凝視する。

 ふと一ヶ所、人の波が裂けるような兆しのある地点があることに私は気付いた。

 開けた人混みの間を何者かが通ってくるようだ。

 やがてその人物が姿を現すと、隣で大家ちゃんが息を飲む音が聞こえた。

「うそ……、なんであんな人がこんなところに」

 そりゃあ、驚きもするだろう。

「いやに騒々しいですね。一体何事でしょうか」

 国一番の重鎮が聖職者然とした格好で、こんな辺鄙な森奥に顔を出しでもしたら。

 そして、そんな人間が周囲から教祖様教祖様と囃し立てられているのを見たら。

 教祖は相変わらずのローブを纏い、右手に黒光りするアタッシェケースを提げていた。

 彼はすぐに私たちの姿を認め、それから足元のクルマユを見ると片目を僅かに眇めた。嫌悪と憐憫を一緒くたにしたような、そんな表情だった。

「なるほど、騒動の因由はこれですか」

 教祖は煩累そうにケースを下ろし、諭すような目をこちらに向けた。

「ここはあなたがたが訪れるような場所ではありません。危ないから早く帰りなさい」

 と言いたいところですが。と教祖は思わせぶりに一度言葉の間を開けた。

「部外者に見られるというのはあまり穏やかではないのですよね」

 嫌な予感を起こさせる含みのある言い方だった。

 まるで排斥を前提としているような、権力者特有の、都合の悪いことは揉み消して無かった事にしてやろうという魂胆が白々と見えるようだった。

「――首相がこんなところで一体何をしているのですか。教祖ってどういうことですか」

 束の間唖然として呆けていた大家ちゃんが、やっと口を開いた。

「私は私の思想を説いているだけですよ」

「思想?」

 と大家ちゃんは聞き返す。

「はい。人間とポケモンを完全に分離させるのです。人間はポケモンという過ぎた力を持ってしまうと、その力を行使せずにはいられないのですよ。その証拠がポケモンを使ってのテロリズムです」

 そして教祖は語り始める。人間がポケモンを支配することの危うさを、微に入り細を穿って、修辞をふんだんに散りばめ、それはまるで自らの言に酔いしれるかのように、流暢に語った。弁術だけで言えば彼は一級だった。その能弁で多くの人間を魅了し、信者を獲得してきたのかもしれない。

 だが、私や大家ちゃんみたいな、愚直にポケモンとの繋がりを妄信し、それに縋っているような人間に、その話はおそらく無意味だ。根本的に内容を解することができない、そもそも相いれない。

 その語りは長らく続いた。

「それで貴方はこんなところでおかしな宗教を立ち上げて、ポケモンを徴収ているのですか」

 大家ちゃんが横槍を入れる。

「徴収とは言い方が悪いですが、そんなところでしょうか」

 教祖は苦笑しながら答えた。

 それを聞いた大家ちゃんが一歩彼に近づいた。

「ウインディを返してください」

「ウインディ?」

 一瞬首を傾げた教祖は、思い出したように言った。

「ああ、そういえば昨日別所で演説した時に一人の男性から預かりましたね」

 そしてアタッシュケースの中からボールを取り出し、

「これのことでしょうか」

 と掲げて見せた。

「それです。返してください。それは私のウインディです」

 懇願するような大家ちゃんの姿を見て、優しく微笑んだ教祖は、しかし、

「いけません」

「なんで――」

「おいそれと返すわけがないでしょう。人間とポケモンを分離させるのが私の理想なのですから」

「……なら」

 大家ちゃんの手がカバンに伸びた。何かを取り出し、教祖に向けられたその手には、昨晩の包丁が握られていた。

「脅しのつもりですか」

「私は本気です。返してください」

 獣の如く低く唸るような声で殺意を剥き出しにする彼女に、呆れたように教祖は肩を竦めた。

「貴方のような危険な子供には一層返せませんね」

 そう言って教祖は掲げていた手を振るように動かした。

 大家ちゃんの瞳が大きく見開かれる。

 彼の手からボールが宙に放られたのだ。


 その先にあったのは滝だった。


 無意識のうちに、ほとんど反射的な速度で、私は宙に弧を描いて流れる球体を追いかけ、手を伸ばしていた。

 数センチ、あと数センチで届く。私は下半身に力を込めて。

 飛ぼうとした瞬間、視界から大地が消失していることを初めて認識した。

 だがもう遅い。いや、あるいはまだ、ここで留まることもできたはずだった。

 それでも私はそうはしなかった。

 だって私は失うことの辛さを知っている。あの日の部屋の広さを、私は忘れない。それでも私にはクルマユがいた。だから今日まで生きてきたのだ。

 でも大家ちゃんはどうだ。ウインディを失ったら、大家ちゃんは独りぼっちになってしまう。それはダメだ。絶対にダメだ。

 跳躍して、球体が私の右手に収まって。

 その時、私の足元には奈落が、あった。

 そして始まる重力の支配下で、抗う術を人類は持たない。

 あー、この高さから落ちたら、水だろうがただで済むはずがないよな。

 上を向きながら、体は下へ下へ落ちていく。重力加速度に促されるまま急降下していくのに反比例して私の感覚はどんどんゆっくりと、緩慢になっていく。

 世界がゆったりと過ぎていく。

 大家ちゃんが驚愕の表情でこっちを覗いて叫んでいる。大丈夫、このボールは死んでも離さない。川に沈んだボール単体を見つけ出すのは困難だろうが、私の水死体と一緒なら見つけるのはそう難しくはないはずだ。

 遥か向こうに見える青天井が遠くなっていく。そこに一つ綿雲が浮かんでいた。その綿雲も徐々に遠く、


 遠く――


 ――ならなかった。


 近づいてきている?

 綿雲は私の落下速度を遥かに超えて、見る見る高度を落としていた。

 違う、綿雲じゃない。それは、それはなんだ。

「あ、あ、お前は……」

 それは懐かしきあの日々の――


   *


 主君がポケモントレーナーを志半ばで挫折して、この町に越してきた当初、主君の精神は極めて不安定なものであった。

 食い扶持を稼ぐため主君は仕事を始めたが、毎晩今にも死んでしまいそうな顔で帰宅して、吾輩たちの顔を見ると、しきりに「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。私が弱いから、私に才能がないからこんなことになっちゃってごめんね、と震えながら泣き腫らした。その姿は、例えば、最近見た父の隣で委縮し震えるどこかの娘なんかに似ていた。

 主君はどこまでも優しい人だった。たとえ勝負に負けて悔やんでも、それを我々の所為にすることは決してないような人だった。そんな人柄だからこそ、我々は主君のことを信頼していたのだ。しかし人一倍矜持の強い人でもあった。そんな優しさと矜持の持ち主だからこそ、その状況に耐えられなかったのだろう。

 やがて主君の左手首に無数の切り傷ができ始めた。それが自傷行為に走った故の傷だということに吾輩たちはすぐに勘付いた。

 いよいよ吾輩たちは話し合った。

「このままでは主君が死んでしまうやもしれない」

「主君は我々を見ると罪悪感に打ちひしがれるようだ」

「我々がいなくなれば、主君が罪悪感に怯えることもなくなるのではなかろうか」

「そんなことをしたらそれこそ主君が何をしでかすか判ったものではない」

 我々は夜を徹して計らった。

 そして議論の末に我々が至った結論は『最も主君の支えになる一匹を残して、それ以外の者たちは去る』というものだった。その一匹には、主君と一番付き合いの長い吾輩が選ばれた。

 実際、広くなった部屋を見た主君は良くも悪くも吹っ切れたようだった。自傷行為は止めたが仕事も辞めてしまった。

 友と会ったついこの間のあの晩、最後に友はこう切り出した。

「なあ、僕たちがしたことは正しかったのだろうか」

「何を今更。ああしていなければ、主君は死んでいてもおかしくはなかった」

「だが、ご主人は生きることに消極的になった」

「積極的に命を絶つよりかはずっと良い」

 死んで花実が咲くものか。永らえれば、もしかしたら何かのきっかけで主君はご自身を取り戻すかもしれない。

 その時のために、彼らはこの町のどこかで、ひっそりと主君を絶えず見守っているのだ。例えば、空の上から、地面の下から、木陰から、川の中から、花々の間から。

 だから吾輩は叫んだ。

「チルタリス!」

「わかってるさ。まかせたまえよ」

 きざに気取った我が友はウインクまでして見せながら、流星の如き速度で降下した。それはまるで当然とでもいうように難なく主君の許まで追いつくと、その嫋やかな羽でもって主君を受け止めた。

 

なあ、主君。誰があなたを見捨てたりすることがあろう。


   *


「忘れ物はない?」

「大丈夫だと思います」

「よし、じゃあ行こう」

 アパートを出て、私と大家ちゃんは適当な方角に向かって歩き始めた。

 色々あったため、この土地に留まるのは問題だろうということで、考えなしに家を飛び出したはいいが、行先はさっぱりだ。


 あの後。

 チルタリスのうなじにしがみつきながら、眼下を鳥瞰した私は言葉を呑んだ。

 そこにあったのは残らず打ち伏せられた人々。

 そして、サンドパンが、カクレオンが、シャワーズが、フラエッテが、かつての私の相棒たちが、得意顔でこちらを見上げていた。

 チルタリスがゆっくりと旋回しながら着陸する。その背中から降りた私に抱き着こうと飛び込んできたそいつらを受け止めきれず、私は強かに尻餅をついた。

 ここに至っても私は事態を上手く呑み込めなかった。

「この子たちが助けてくれました。どうやらお姉ちゃんのお友達みたいですね」

 と大家ちゃんは言った。

 助けてくれた。彼らが私たちを?

「でも、私のことは見限ったんじゃ……」

「見限っていたら、こんなすぐに助けになんか来ませんよ」

「そうかな――そうか、そうかもな」

 どうやら私は見限られてなかったようだ。本当に?

 それはわからない。彼らは私と同じ言語体系を持たない。あの日なんで姿を消したのかも、なんで助けにきてくれたのかも、彼らの口から聴くことはできない。

 でも彼らは私の危機に駆けつけてくれた。今はそれで十分な気がした。

「ところで、こいつら生きてるの?」

 今一度惨状を見まわして、私は尋ねた。

「さあ」

 ちなみに大家ちゃんの包丁が赤く濡れていたことに関しては、私はあえて気付かないふりをした。


 そしてその場からさっさと逃げて今に至る。

「人がいないような所がいいのかな」

「それがどこかって話なんですけどね」

「どうするかな」

 逃亡者にしては随分呑気な会話だ。

「でもせっかく皆で旅に出れるんだから楽しみたいです。あちこちのお祭りとか回りたいですね」

「身分判ってるの、殺人者ちゃん」

 でもまあそういうのも悪くないかもしれない。

 結局何も決まらないまま私たちはどこかへ向かっていく。

 不意に涼風が吹いた。清爽で気持ちのいい風だ。いつの間にこんなに涼しくなったのか。


 懐かしい重みを感じながら。


 ああ、私たちの明日はどっちだ。

 それはきっと、この風のままに。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。