蓮池から寄せて来た涼風が、渡り廊下を吹き抜けていく。蝉の声降る庇の下で一心に鑿を使っていたギンジは、暫し作業の手を休め、大きな目蓋を心地良さ気に細めつつ、頭上に広がる空を仰ぐ。果ても無く続く蒼穹は、下界から幾分離れたこの地に身を置いたとて、とても近付いたとは思えぬ程に広大だった。
此処に来て早二十日だった。「天空の城」とも謳われる西国無双の要害・月山城での生活は、当初の懸念とは裏腹に、概ね平穏に推移している。見慣れぬ獣である彼に向けられた好奇の視線もやや薄らぎ、ギンジは目下城主の珍物好みを背景に、何不自由なく日を送っている。
再び肌を撫でた微風に、手元の竹筒がころりと動く。慌てて押さえるギンジの手――大きな水掻きの広がる三本指のその下で、作り掛けの篠笛はきらきらと日を弾き、柔らかく輝いていた。
笛吹きギンジは蛙人――遠く南蛮から海を渡って送り込まれた、奇怪な容姿の獣である。この国では本来見られぬ種である彼は、舶来好みの領主達の歓心を買う為、まだ卵の状態で、異国の教えを広める宣教師によって運ばれて来た。
だが幸か不幸か、共に海を渡って引く手数多だった他の獣達とは異なり、彼には全く引き取り手がいなかった。白く気品に満ちた異国の犬や、炎を纏える俊敏な鳥、人慣れしやすい草山羊と言った獣達とは裏腹に、小さく見栄えもしない、まだ小蛙に過ぎなかったギンジを欲しがる物好きは、誰一人としていなかったのだ。
行き場を失い、仮の親である異人達からも持て余されていた彼の身柄を引き取ったのは、偶々寄港した港で興行していた、旅芸人の一座であった。「ギンジ」と言う名前も、此処で授かったものである。元より人目を集める事が生業の彼らにとって、異国の獣であるギンジの存在は、それだけで大いに価値のあるものであった。
更に彼らは、自分達のみならず獣にも、様々な業を教えていた。ギンジはまだまだ幼かった為、芸を仕込むにも都合が良い。ギンジ本人も人一倍好奇心が強かったので、修行は全く苦にならず、褒められるのが嬉しかった事もあり、何をするにもめきめきと上達していった。首に纏った泡を投げ、飛び来る短刀を撃ち落とす業。木の葉を口に当てて音を出し、他の奏者と合わせる業など、彼の芸は何処でも高い評価を受け、自身でも心中密かな誇りとする様になっていく。
互いに得る物が多かった芸人一座との関係は、それから暫く、彼の姿が二度目の変化を遂げるまで続く。最初に姿が変わった時、ギンジは周囲の人間達が自分の事をどう受け止めるか不安だったが、一座の者はこう言った事に慣れていたらしく、彼の成長を素直に祝福してくれた。二足の姿勢が常態化した事により、更に複雑な業もこなせるようになったギンジは一座の花形として、それなりに充実した生活を送っていた。
だが、次に姿が変わった時、転機が訪れた。首元の泡の塊が取れ、代わりに長い舌を巻き付けるようになった彼を、一座の者達は前と同じく寿ぎながらも、何処となく落ち着かぬ様子で言葉を交わす。やがてそれから間も無く、すっかり余所余所しくなってしまった彼らに連れて来られたのが、今の主の許だった。此処でギンジは、彼ら一座の者が『鉢屋』と呼ばれる集団の末端で、その生業の裏で諸国の情報収集をする傍ら、実働戦力となる獣達の育成を担っていた事実を知る。身体の成長が終わった彼は、既に一座の者達にとって、仕上げ終わった納入物に過ぎなかった。
新たに仕える事となった主、弥一(よいち)こと鉢屋弥一朗は、流浪の民として知られる鉢屋衆の中核を為す者達――傭兵として諸国に雇われる、忍びの衆の頭領であった。彼の配下に属したギンジは、それから更に何年か、厳しい修行に明け暮れる。首に巻き付けた長い舌は常に引き込んで置くべく強要され、今まで決して手を染めた事の無い様な事柄を、繰り返し練習させられる。他人を欺き、殺め、陥れる修練は、芸技に明け暮れ、ずっと自らの事のみにかかずらわっていれば良かったギンジにとって非常に重く、苦悩に満ちた内容だった。
全ての修練を終えた時、弥一は自らの下に彼を呼び寄せ、能者ではあれど一介の獣に過ぎないギンジを、一躍一隊の指揮を司る、小頭に任命する。非常な抜擢を告げた頭領は、次いで驚く彼に向け、これから始める大掛かりな謀略と、それに於いてギンジが担うべき役割を、熱っぽい目で語り始めた――。
鑿を置いたギンジはその後何をするでもなく、縁側に腰を下ろしたまま、のんびりと空を眺めていた。彼方に聳える柱雲、白亜の塔を積み重ねた巨大な浮城の遥か向こうに、彼の産み落とされた故郷がある。話にのみ聞く「かろす」の地には、どの様な雲が浮かぶのだろうか。
(自分がこんな所で身元を偽り伏しているのも、あの雲から見ればホンの些細な事なのだろう。我らは狭い天地にしがみ付き、死ぬまで揉み合いいがみ合っている小虫に過ぎぬ)
万象は空にして留まる所は無し、とは新たに師となった鉢屋老忍の教えであったが、元々恐れを抑制する為刷り込まれたその諦念は、当人達の意図した以上にギンジの心に腰を据え、深々と根を下ろしていた。誰に引き留められる事も無く、自分の意思も介在しない浮雲の如き生涯は、万物は唯流転するのみと言うその空虚な見方を極自然に受け入れて、己がものとして刻み込む。
親とも家族とも頼んでいた一座の者に手放され、一袋の銀と引き換えにされた記憶は、彼の人生観に暗い影を落としている。二度に渡って居場所を追われ、生きる世界を変える内、ギンジは何時しか細事に執着する事を止め、本来自分が身を置く筈の、故国ばかりを偲ぶ様になっていた。
(帰ろうにも術は無し。所詮この世は虚ろだわ)
胸に兆した無常の思いに抗えぬまま、独り首を振った蛙人は、そのまま衝動的に仕上げたばかりの篠笛を取ると、慣れた手付きで口元に当る。頬撫でる風に己が慕情を預ける様に漂々と一節吹き上げる内、海と空が一つに交じる水平線のその果てに、ゆらゆらと陽炎が浮かび始めた。
天地が橙色に染まり、夜の帳が降り始めた。実際には部下の一人である下忍、傀儡師の勘蔵と名乗る男の手持ちとして夕餉の供応を終えたギンジは、寝間に集まる仲間達と一人別れ、昼間腰を落ち着けていた、離れの縁側に戻って来る。昼間も静かなこの場所は、夜半は全く人気が絶える為、客人である彼が笛の修練に使う事を、特別に認められていた。夜更けに風に乗って響く調べは何とも言えぬ風情があり、城中上下の覚えも良く、今では邪魔しに来る者もいなくなっていた。
縁から庭面に降りたギンジは、池の傍に配置してある庭石に腰を落ちつけると、肩に掛けた馬革の袋から短めの笛を取り出して、静かに曲を奏で始める。高く張った澄んだ音色が漣の様に広がるに連れ、慕い寄っていた藪蚊の群れは音域に押され闇に退き、空に浮かんだ下弦の月が、忘我の境地に立ち至った蛙人の痩身を、星屑と共に優しく照らす。今の姿に変わる前、初めて二足の姿勢になった時から精進して来たこの業は、孤独なギンジを慰めてくれる、唯一無二の支えだった。
嘗て舌を引っ込めて置けと命じられた時、無意識の内に出ようとする長大なそれを何とか意のままに出来る様になったのも、身に付けたこの技芸を続けたかった為である。波立つ心を容易く鎮め、鬱懐を吹き払ってくれる音曲は、確たる拠りも無いギンジにとって、生涯を賭して磨くに足る道筋であった。
やがて一曲終え、更にもう一節を吹き終えた後。ギンジはふと顔を上げると、植え込みを縫って此方に向けて駆けて来る、小柄な影を目に留める。まるで小動物の様にすばしっこく、身軽に敷石を跨いで現れたのは、まだ年の頃七つ程の、寝間着姿の小年であった。
「ギンジ!」
『若、参られましたか』
仄かに照らす月明かりに瞳の内を輝かせ、子犬の様に寄り付いて来た幼子に対し、ギンジは丁寧に頭を下げると、神通力を思念の形で送り込んで、言葉の通じぬ城主の息子に色代を述べた。此処に到着したその翌日には、もう好機の視線を隠そうともせず近付いて来た彼に対し、ギンジは種々に働きかけて、今のこの関係を築き上げている。舌を伸ばして驚かせ、笛を奏でて巧みに関心を引き付けると、両人だけになった時を見計らい、こっそりと告げる様な体を装って、意思の疎通が出来る事を打ち明ける。二人だけの秘密を共有すると言う提案は、変化の乏しい日常にうんざりしていた若君を、いとも簡単に彼の思惑に嵌め込んでしまった。次郎と言う名のこの少年を通じて、ギンジは城の内実――通常最も知る事が難しい、城主近辺の個人的な動向を、逐次入手出来る様になったのである。
『今宵は御渡ししたき物が御座います』
無垢な少年を利用している事に罪悪感を覚えつつ、それでもギンジは抜かり無く、用意していた贈り物を捧げ持つ。昼間彫り上げた竹の香も真新しい篠笛に、次朗は目を輝かせて歓声を上げた。
「くれるのか!?」と念押す相手に頷いて見せると、少年は躊躇う事無く彼の手から笛を取り、早速横咥えにして息を吹き込んでみる。「フィー!」と掠れた音を漏らしたその試みに、ギンジは柔らかく苦笑しながら、『教えて差し上げます故慌てなさるな』と言い添える。
雲一つ無い深夜の空の一角に、巧拙混じり合った素朴な調べが響き始めた。
ギンジの役目は密偵だった。諸国を流浪する芸人一座、その先触れとして滞在している彼らは、表向きは夏の終わりに予定されている祭りの余興の下準備に当たっている事となっていたが、その実は一座の本隊と偽って攻め込んで来る、敵対勢力の細胞であった。雇い主である尼戸経興は、この城の主である野田掃部介と国内勢力を二分する有力大名であり、昨今の劣勢を一挙に覆すべく、此度の計略を企てたと聞かされている。
鉢屋の頭領・弥一朗から受けた指令は、予め確保している内通者から伝えられた情報を送りつつ、合わせて予定されている壮挙に向けて、可能な限りの工作を行う事。鉢屋党は尼戸家と関係が深く、拠って立つ土地や権力を持たぬ浮民として蔑視される彼らを代々優遇してくれた同家に対し、強い信頼感を抱いている。特に今回、「もし成功すれば一党の地位を士分に引き上げ、武士として遇したい」と伝えられてからは、鉢屋衆は文字通り総力を上げて、尼戸の戦略を支援していた。自分にこの企てを打ち明けた頭領の憑かれた様な眼差しを思い返して見ても、己が役割の重要性は明らかである。
だがその一方で、ギンジにはこの一味の将来を左右する大仕事が、とても心躍るものとは思えないのだった。身に付けた技芸はとても役に立ち、彼らの身の上を怪しむ者は誰一人としていなかったが、それでほくそ笑むよりも、後ろめたさの方が先に立つ。所詮は無常と割り切ろうとも、良心の呵責は禁じ得なかった。
けれどもだからと言って、情に流されて済む話ではない。自分の失策は即全員の命に関わったし、彼らの成果如何に、鉢屋党全体の悲願が掛かっているのである。部下を持つと言う小頭の立場は、忍びの鉄の掟以上にギンジの意識をガッチリ掴み、雁字搦めに縛り上げていた。痩せた背中には勝ち過ぎる程の重い荷物に急き立てられつつ、彼は内通者として接触して来た若い婢の密書を受け取り、我が手で知り得た情報と共に、城外の仲間に送り続ける。旅芸人という触れ込みの彼らを、城主は単なる物珍しい客人としてのみならず、諸国の情勢を知る為の情報源としても重視しており、城内での扱いは丁重であった。また、遊芸人は所謂「身分の外」に位置している為、末端の足軽にも軽視される傍ら、重臣や城主とすら直に会話する事を許されている。内心の苦脳とは裏腹に、ギンジ達一味の密偵としての働きは、現状非の打ち所がないものであった。
そんなある日、何時もの様に離れで手持無沙汰を演じていたギンジは、突然何の前触れも無く姿を見せた客人に、自分の腕前を見せて欲しいと頼まれる。先触れの声も無く、侍女一人を連れた軽身で静々と渡り廊下を踏んで現れたのは、城主の後妻で奥の一切を取り仕切っている、櫨(はぜ)の方と言う女人であった。いきなりの御台所の訪問に慌てて膝を突く彼に対し、次朗達の継母でもある妙齢の女性はその落ち着いた美貌を綻ばせ、硬くならずとも良いと言葉を掛けて来る。
「今日はその方の笛の音に、耳を傾けてみたいと思うての。次朗がその方の手前を、殊更良う褒めておる故、な」
玉を転がす様にと言う表現が、そのまま当て嵌まる様な彼女の笑みに頷くと、ギンジは深々と一礼してから立ち上がり、笛入れから手頃な一本を取り出して奏で始める。穏やかな曲、心躍る様な明るい曲と笛を変えつつ奏した後、一転して哀調を帯びた節に切り替えた所で、女主(おんなあるじ)の様子に変化が生じた。
明るい夏の日差しに似合わぬ物悲しげな曲調に、それまでずっと穏やかに微笑んでいた櫨の方は微かに俯き、やがて漂う悲哀の色に感化されたかの様に、ひっそりとすすり泣き始める。唐突な悲嘆の情に戸惑いながらも、無言の侍女に促されて演奏を続けるギンジの頭上で、気まぐれな雲が日差しを遮り、光り輝く青葉の茂みに、仄暗い影を投げ掛けていく。
やがて曲が終わり、ギンジが笛を置いた時。目元を濡らした女主は、突然の愁嘆について詫びた後、感謝の言葉と共に彼の手並みを褒めそやす。意思疎通の術を持たぬ一介の獣として振る舞うギンジは、彼女の言葉を畏まって受けながら、話に聞いたその生い立ちをなぞり返していた。城主の寵愛を一身に受ける彼女は、元々先代によって滅ぼされた、巫一族の出の筈である。神氏(かみうじ)から武家に転じた一門は九尾の狐を信奉しており、その影響力が余りに根強いものだった為、当主の忘れ形見であった彼女が輿入れする運びとなったらしい。
未だに一族の供養を忘れず、両親の命日には必ず仏事を営むと言うそんな彼女にとり、ギンジの奏でた一節は、心にしまっていた哀惜の念を呼び覚ますのに、十分なものだったのだろう。一言も漏らさぬままの侍女を伴い、寂しげな影と共に去っていくその背中を、ギンジは胸の塞がる思いで、ただ静かに見送っていた。
他人に教えると言うのは、殊の外遣り甲斐のある行為であった。次朗に笛の手解きを始めて以来、ギンジは胸の鬱屈を忘れた様に明るくなって、仲間達を驚かせる。たどたどしい手つきで彼の手元を真似る少年が、習いあぐねていた節をこなせた時に見せる笑顔は、ギンジの心を何と言えぬ思いで満たした。次朗は驚く程に筋が良く、今まで打ち込んで来たものが何も無いと言うその生い立ちも相まって、彼の教えを白砂が水を受けるが如く、余す所無く吸収する。少年の上達を見るにつけ、笛と言う物は元々人間が使う様に形作られた道具であると、ギンジは今更の如く感心するのであった。
次朗の側も、新たに習い覚えた音曲の業を、心の底から愛していた。世継ぎではなく、実の母とも死に別れていた彼は守役以外に親しむべき相手もおらず、周りの愛も薄かった。武芸学問も人並みには習ったものの、気が優し過ぎて武事には向かず、書見手習いはこなした所で、誰も関心を持ってはくれない。楽しみと言えば、馬や獣と言った生き物を眺め、触れられるものには手を差し伸べて気を散じ、孤独を紛らわせる事ぐらい。歳の離れた兄の太郎も、そんな弟を乱世に似合わぬ姫若子腹(ひめわこばら)と見放すばかりで、次朗に対し手を差し伸べてはくれなかった。
求めていたものに巡り合えた、その感触を共有する内。何時しか両者の間には、今まで一度も感じた事の無い様な、強い情愛の念が結ばれていた。
『今宵は此処までと致しましょう』
何時もより若干早い切り上げに、次郎が無念気な声を上げる。「そうか……」と肩を落とす少年に対し、ギンジは明日はもう少し遅くまで続けましょうと慰めの言葉を掛けて送り出す。――本音を言えば彼自身もっと続けていたいのだが、その夜は他にやるべき事があった。
次郎が寝所に戻って行った後、彼の姿が消えるのを見届ける様に、別の人影が顔を覗かせる。周囲を伺いつつ敏捷に近寄って来るのは、粗末な麻衣に身を包んだ、婢風の娘であった。
『待たせて済まぬ』
謝罪の意思と共に頭を下げるギンジに対し、娘は「気にする事は無いよ」と軽い調子で応じると、懐から折り畳んだ短冊を取り出して彼に手渡す。素早く笛入れに忍び込ませる蛙人を見守りつつ、彼女はふと表情を緩めると、素早く周囲を確認し直すギンジに向けて笑い掛ける。
「心配しなくとも、誰も居ないさ。仲間が見張ってくれてる筈だしね」
『そうか』
仲間とは誰かと問う事も無く、ギンジは娘に頷いて見せる。平素は台所の下働きを務めていると言う彼女は、彼らに情報を伝えるつなぎに過ぎない。背後にはまだ人数がいる筈で、与えられる情報もただの婢が得られる範囲を遥かに越えた、詳細なものであった。
「もう少しだね。……後半月でこんな危ない橋渡りともおさらばだと思うと、正直ホッとするよ」
珍しく私情を挟んだ娘のそんな告白に、ギンジは苦笑で応じて見せる。何時も勝ち気な態度に終始し、果たしてこれで大丈夫かと危ぶんだ事もあったものの、今ではすっかり信頼している目の前の内通者に対し、彼は同意を示すべく頷きつつも、釘を刺す事は忘れない。
『確かに後少しだが、最後まで気は抜くな。無事し遂げてこその役目だぞ』
「分かってるさ」
何時もの調子に戻った娘が、言われるまでも無いと言う、不敵な笑みを覗かせる。小頭である彼に対しても強気の姿勢を崩さぬ彼女は、その一方で万事に細心の注意を払える、天性の勘を持ち合わせていた。
「これが終わったら、あたいは故郷に帰るんだ。旦那も貰って、起きた事は全部忘れる。御城勤めはもう真っ平さ」
去り際に伝えられた胸の内が、ギンジの心に妙に染みた。帰るべき場所があると言うその事実が、自分の置かれた今の状況と相まって、彼の胸中に久方ぶりの孤独の念を湧き上がらせる。
タキと言う名のその娘に、ギンジは二度と出会えなかった。翌朝目を覚ましたギンジを待っていたのは、彼女が昨夜の内に宿直に斬られ、敢え無く落命したと言う報告だった。
その日の夜、何時も通りに姿を見せた次郎は、嘗て見た事が無い程憔悴し、怯えていた。ギンジ自身も様子を見る為日を置きたかったものの、約束は約束である。強いて平静を装い待っていたのであるが、迎えた少年は「今日は気が進まぬ」と力無く伝えて来ると、笛を取り出す事も無く、ギンジの隣に擦り寄る様に座り込んだ。
ややもして、次郎がポツリと言葉を吐く。「また出た」と言うその呟きに、ギンジは釣り込まれる様に、幼い少年に向けて問い掛けた。
『また出た、とは?』
「今日見つかった死人の事じゃ。あれは、あいつがやったに違いない」
少年の語尾は震えており、言葉の内には紛れもない恐怖と共に、しっかりとした確信が籠っていた。次郎の近侍の内に、父親が城内警備の責任者を務めている者がおり、その若者が彼に伝えた所によると、タキと言う名の婢は宿直が斬った訳ではなく、既に何者かに殺害された状態で、見回りの者に発見されたと言う事であった。城の上層部にはそれを隠そうと意図した者がいたらしく、死因は伏せられたまま、夜回りの者が出歩いていた彼女を見つけ、不審を咎めて切り捨てたと言う形に落ち着いたとの事である。
次郎の語りを聞いている内、ギンジは何やら背筋が薄ら寒くなり、思わず周囲に視線を走らす。彼の話によると、この城では今までも何度か、不可解な事が起きているのだと言う。
次郎は嘗て、尾長鼬を飼っていた。動物が好きな彼の為、近侍の者が掴まえて来た小柄な獣を、少年は心を込めて世話をして、大切に扱っていた。当初は怯えていた鼬の方も、次郎の優しい人柄に触れて心を許す様になり、やがて片時も傍を離れぬ程彼に懐いた。
だがある時、大切なその友達は、跡形も無く姿を消した。ちょろちょろと夜の散歩に出ていった次の日、呼べども何処を探しても、小さな鼬は姿を現す事は無かった。周囲の者は野生に帰ったのだと結論付けたが、次郎は友達がもうこの世にはいないのだと、はっきりと悟っていた。後に次郎は子鳩を飼った事もあったが、これもやはり忽然と消え失せて、二度と戻って来なかった。前触れもなく夜に呑まれた彼らの思い出が辛く、それから次郎は寂しかろうとも、生き物を飼えずにいたのである。
「わしの母上もそうだった。……母上は城の外じゃったが、他の御局と出掛けられた時、纏めて何かに襲われたのじゃ。獣に喰い殺されたと聞くが、父上がどれだけ探し回っても、それらしき獣を見つける事は出来なんだ」
「この城には魔物が棲んでおる」と結んだ少年は、不安げな表情でギンジの方に手を伸ばすと、縋る様な目で彼を見上げる。
『御心配召されますな。もし何かありましたとて、このギンジ、早々後れは取りませぬ。若の身に何かこりし時は、微力なれども心命を賭して御力添え致します故、どうか御安心下さりませ』
一介の芸人に過ぎぬ筈の彼にとり、自らの実力を仄めかす事は、厳に慎むべきである。けれども今のギンジには、そんな細事に気を配るより、目の前の幼い弟子を安心させてやる方が、何層倍も大事であった。無言の内に気迫を込め、包み隠していた戦う者としての態度で次郎の傍に寄り添う内、少年は徐々に生気を取り戻し、掴んでいた彼の腕から手を離す。気持ちの解れたらしい少年は再び何か考えていたが、やがてそっと顔を上げると、自分の方を覗き込んでいる、蛙人に語り掛ける。
「ギンジよ、わしを連れて行ってはくれぬか……?」
『え……?』
予想も出来なかった言葉に、ギンジは思わず思念ではなく、自身の口から声を上げる。「ゲコ?」としか聞こえなかったであろうその反応にも頓着せず、次郎は尚も言葉を続ける。
「わしはこの城を出たい。……小間使いでも良い。乞食でも良い。ギンジ達と一緒に旅をして、天下の広さを自分自身で感じてみたい」
『若……』
「父上には兄者がおる。母上にはコギクがおる。わしが此処におらずとも、困る者は多くはおらぬ」
叶わぬ夢だと分かっている。ギンジも口にする少年自身も、それが夢物語に過ぎぬ事は、厭と言う程理解している。しかしそれでも言葉にせずにはいられぬ次郎の心境に、彼は返す言葉も思いつかず、ただ黙然と立ち尽くしていた。父には兄が、母には気に入りの侍女がいるからと語るその目には、己の居場所を持てぬ者の、孤独な悲哀が滲んでいる。思いの丈を淡々と吐露する少年は、込み上げて来た感傷に一切抗わぬままに締め括った。
「無論、わしとて領主の息子。城から出ればどんな目に遭うかは想像が付く。……じゃがな、ギンジ? わしは例え死ぬかも知れんでも、そなたと一緒に居たいのじゃ。わしは世界が見てみたい」
『……分かり申した』
ポツリと答えた相手の言葉が信じられぬまま、少年の瞳が大きく見開く。頷いて見せた蛙人の脳裏には、遠い地を共に旅する彼ら二人の遠い背中が、はっきりと浮かび上がっていた。
碧瑠璃の色を深めた空に、鬼嘴鳥が舞っている。何時の間にか衰え始めた日向の光に濃紺の背中を洗うギンジは、石垣の先に広がる眼下の小川で、配下の一人が礫打ちに興じているのを眺めていた。背中に一面刺を生やした砂鼠が、集めた木の実を次から次へと投げ打つと、川縁に並べた小石の列が、片っ端から弾け飛ぶ。目にも止まらぬその妙技に、脇に並んで見物している一団から、潮騒の様な歓声が湧いた。足軽から馬乗り侍、侍女に下男と様々な顔触れが並ぶ中、ギンジはふと、十日程前に言葉を交わした、あの婢の事を思い起こす。望みも虚しく夜陰に消えた彼女のその魂魄は、無事に故郷に帰り着く事が出来たのだろうか。
暫くして、務めを終えた砂鼠が彼の許へとやって来る。『御苦労さん』と声を掛けるギンジに対し、仲間内でも一番付き合いの長いアクロと言う名の針鼠は、常と変らぬぶっきら棒な態度で頷くと、彼の隣に座を占めた。先程投げた礫の中には、中身を抜かれて内に密書を仕込まれた、仕掛け木の実が混じっている。流れに運ばれ城外に出た音信は、待ち構えている一味の者に拾われて、頭領である弥一郎の許へと届けられるのである。外からの連絡は、日暮れ時に上空を横切る暗闇烏が投下する、竹筒の中に忍ばされていた。
『そろそろだな』
ややもして、隣の相手がぼそりと呟く。実数も定かではない鉢屋忍びの一群の内、唯一遊芸人時代からの同輩である彼は、多くを語らずとも胸の内を共有出来る、唯一人の友人だった。『ああ』と頷き応じたギンジは、次いでまだ子鼠の頃から行を共にし、切磋琢磨し合って来た相手に向けて、静かな口調で命を下す。
『明後日、手筈通りに事を運ぶ。我々はただ手引きして、案内すれば良いだけの話だ』
『城主の息子はどうする心算だ?』
不意に投げ掛けられた質問に、ギンジは思わずびくりとする。知っていたのかと口をついて出掛かったが、相手との長い関係を思えば、寧ろ覚られぬ方が不思議であろう。案の定、アクロは『それぐらい読めなくてどうするよ』と苦笑して、束の間嘗て見せていた、陽気な笑みを覗かせる。
『お前さんの事だ。情が移って、どうするべきか悩んでたんだろ?』
半ば呆れた様に首振る彼は、次いで言い返せないギンジに対し、仕方が無いさと諭し掛けて来る。
『所詮は他人事だ。諦めろ。……納得しろとは口が裂けても言えねぇが、結局これが人間共の世の中なのさ』
『……』
無言のままで俯くギンジの背中に、アクロが慰める様に腕を置いた。
『獣の俺達にはどうも出来ん。詰まらん理由で憎み合い、自ら安穏を踏み躙る様な人の世に、一々気が咎めてる様じゃ身が持たねぇよ。何処かで割り切らん限り、何時かは身を滅ぼすぞ』
アクロの言わんとしている事を、ギンジもとうに分かっている。川に投げ入れられた木の実の様に、身を任せるしかない事も。押し流されるその先がどんな場所であろうとも、逆らって砕け散るよりは、遥かにマシな筈である。
弥一郎からの指令は簡潔だった。ギンジと次郎の関係について報告された頭領が出した結論は、城主の息子を鉢屋自身の手で確保して、戦後の恩賞に対する保険に充てると言うものである。少年を保護し、ゆくゆくは配下の一員として迎え入れたいと言うギンジの希望は、尼戸との関係悪化を恐れる鉢屋一党に取り、一考の余地すら存在しない戯言に過ぎなかった。
夜明けには未だ遠い暁時の空の下、不意に賑やかな祭り拍子が湧き起こり、熟睡の夢を追っていた、月山城を押し包んだ。突如鳴り響く笛や太鼓の奏楽に、門番達は驚き騒ぎ、夜回りの者はすわ何事かと駆け走って、騒ぎの中心である大手門へと急行する。俄かに騒然となった城内で泰然と構えていたのは、予め事の説明を受けていた、城主である野田掃部介ぐらいだったであろう。
やがてその城主からの指示により、大手門が開かれる。闇の中から続々と繰り込んで来たのは、近日到着が告げられていた、芸人一座の本隊であった。鳴り物響かせ、陽気に踊りながら練り歩くそんな彼らを見物しようと、起きだして来たばかりの住人達が、大手門に向け続々と集まって来る。宿直や上司も持ち場を離れ、上下揃って浮かれ騒ぐその裏で、人気の絶えた搦め手の門が音も無く開かれた事に気が付く者は、誰一人としていなかった。
僅かな篝火が朧げに照らすその近辺では、片手で数えられる程しか残っていなかった宿直の者が、何処からともなく現れた黒装束の一団に、声を上げる間もなく刺し殺される。既に警戒用に放たれていた数匹の犬は茂みの陰で事切れており、続々と侵入してくる甲冑武者の隊列は、誰にも邪魔される事無く郭(くるわ)の内に充満する。やがて空に上がった流星花火の合図と共に、月山城内の至る所で、獣の咆哮の様な鬨の声が木霊した。
俄かに騒然となった城内では、一方的な殺戮が始まっていた。眠りから覚めて間も無い上、武装もろくにしていない城方に対し、攻め入った側の尼戸の兵は、鎧兜に身を固めている。相言葉も定められ、予め見取り図も配られていた彼らの進退は、勝手知ったる本拠で戦う守備側の優位を、全く問題にしなかった。乱れ足に駆け付けて来た城方の兵は槍衾に貫かれ、襤褸切れの様な姿となって首を取られる。高所から矢を射る者は火縄銃で薙ぎ倒され、放たれた獣共は諸所で分断されたまま死に物狂いに戦う内、寄せ手の繰り出す獣の群れに囲まれて、満身創痍となって力尽きた。陽気に歌い踊っていた鉢屋の芸人一座の者も、何時の間にか甲冑姿に身をやつし、手に手に持ったぼんぐりから獣達を繰り出して、慌てふためき駆け走る、城方の兵を掃討する。登り口を一散に攻め上がって来る軍兵の群れに抗し切れず、二の丸三の丸は相次いで落ちて、残す所は城主一族が立て籠もる本丸のみとなっていた。
尼戸の兵が喚き叫んで暴れ始める少し前、ギンジは配下の者を率いて、搦め手口の見張り番として配置されている、犬共の掃討を行っていた。既に客人として長い彼らの訪問に、犬達は訝りながらも騒ぐ事は無く、己の過ちを悟る前に、一瞬で息の根を止められる。
配下二人を間も無く合流する一味の者への連絡役に残すと、次いでギンジはアクロだけを引き連れて、闇に聳える本丸への道を急いだ。合戦はもう始まっており、摺れ違う城方の兵に見咎められれば、戦いは避けられない。物陰に身を隠しつつ先を急ぐ彼らを追い掛ける様に、怒涛の勢いで攻め登っていく尼戸軍の喚声が、どんどん間隔を詰めて来た。
漸く目的地に着こうかと言う頃、遂に背後の軍勢が、彼ら二匹に追い付いた。急いで門脇の斜面に身を伏せる両者の目の前で、三本牛尾の旌旗をはためかす尼戸軍の先鋒が、本丸に通じる最後の城門に向けて押し寄せる。防ぎ矢が雨の様に射られる中、鉄砲の一斉射撃を合図に城門が押し開かれ、生き残っていた城方の一隊が、槍を揃えて寄せ手の群れに突き掛かる。鎧鳥の大幟を押し立て荒れ狂う野田馬廻り衆の精鋭に、尼戸の先手は見る間に突き負け打ち崩されて、坂下に向け潰走した。
両軍の主力が門から離れ、場の意識が血みどろの主戦場へと向かっているその隙に、ギンジとアクロは見張りの兵の隙を突き、素早く門の内へと忍び込む。彼らの後を追い慕う様に、寄せ手の内から無数の火矢が放たれて、闇に浮かんだ本丸とその周辺に、光り輝く五月雨の様に降り注いだ。
辺り一面がみるみる火炎に包まれる中、ギンジは火明かりに照らし出される我が身の危険を顧みず、本丸に続く坂下に在る、城主の居館へと走り込む。火災の煙が充満し、焼け崩れかけた本館の中を突っ切ると、これも炎を吹き上げている離れの方へ、必死の形相で呼び掛ける。
『若! 若……!』
夜空に響く鳴き声に、応じる者がいるのかどうか。客人だった芸人一座が敵の回し者であったのは、もう城方の隅々にまで広がっている筈である。本丸の陥落が目前に迫ったこの時分、城主の息子である次郎が身を置くべき場所は、父母が籠った天守の内以外には無い。よしんば外に居るのだとしても、とうに落ち延びるべく坂を下って、眼下の何処かに身を潜めている筈だった。
しかし――心中密かに自分を見限り、脱出していて欲しいと願った彼の思いとは裏腹に、火影の揺れる池の畔に近付いたギンジは、そこですすり泣いている、小さな人影を目に留めていた。
落城を間近に控えた本丸では、野田家当主の座にある男が、切腹を前に最後の杯を交わしていた。既に配下も殆ど残っておらず、無造作に置かれた先祖伝来の大鎧には、無数の征矢が突き立っている。まんまと己を陥れた鉢屋一味と尼戸経興に対する怒りは言語に絶する程強く、先に間道より脱出させた嫡男・太郎の存在だけが、無念の思い致し方無い掃部の胸中を慰める、唯一つの希望であった。
譜代の老臣と注しつ注されつしている内。ふと彼は思い至ったかの様に、目の前の腹心に向け話し掛ける。
「女子共は如何しただろう。無事に逃げ遂せたであろうか?」
「その儀には及びませぬぞえ」
老人の見立てを聞く間もなく、不意に横から割って入った呼び掛けに、掃部は視線を廻らせる。白の装束に身を包んだ櫨の方が、侍女も連れずにたった一人で、本丸に足を踏み入れた所であった。
「女共は最早残ってはおりませぬ。皆自害させました故」
「何……?」
日頃の彼女の振る舞いとは似ても似つかぬ発言に、掃部は束の間呆気に取られ、自らの思い人を凝視する。「御家が滅ぶと言うのに、婢ごときが生き残って何としましょう」と続ける彼女に、彼は半ば信じられぬ思いで言葉を返した。
「そなた、狂うたか……?」
「狂うてなぞおりませぬ。それにその様な御言葉が、我が殿から出るとは心外に御座います。……お忘れになられましたか? わらわが族(うから)の滅びし時も、斯様なる様に御座いました」
冷やかに言い放った相手の言葉に滲む底意に、彼は目を見張ったまま息を呑む。彼女の血族――親や兄弟に助命を偽って投降させ、尽く自害に追い込んだのは、今は亡き父と掃部自身の所業であった。既に忘却の彼方にあった記憶の澱を、当時ホンの子供に過ぎなかった目の前の相手に呼び戻されたその男は、うわ言の様に呟いた。
「お主……まさか」
掃部は漸く気が付いた。賄い方の娘が斬られた経緯を。誰が敵方に内通し、此度の戦を企てたのかを。遊芸人を呼びたいと希望し、長屋住まいとすべき彼らを態々郭内に逗留させたのも、元はと言えば彼女自身の提案である。言葉を失った彼に対し、視線の先の己が妻は、袂をゆっくり口元に当て、快さげにふふふと笑う。
「お気付きになられましたな。そう、全てわらわの目論んだ事です。……尼戸の家は父の盟友。焚き付けるのは容易き事に御座いました」
「貴様……! よくも……」
白刃を抜いた城の主に、女は満ち足りた笑みで応える。後じさる事も無く、どうぞ御斬りなされませと言わぬばかりに胸乳を張った瞳の奥に、掃部は絡め取った獲物を嬲る蜘蛛の如き、嗜虐の悦びを感じ取る。
「この日をどれだけ待ち望んだ事でしょう。この城が落ち、一族の仇……野田の族が業火に焼かれ滅びゆく日を。その有様を見届ける為、わらわは今日まで生きて来た――」
閨そのままの﨟長けた姿と艶めかしい微笑みが、目の前の女を一匹の魔性に変貌させた。己が心を存分に蕩かし、その裏で淡々と毒牙を磨いたその相手は、最後にふっと笑みを消し、腐臭漂う悪意と共に言い放つ。
「今頃は太郎と次朗も首になっておりましょう。我が望みは此処に結願せり!」
横殴りに振るわれた太刀が紅い飛沫を壁に吹き、返す刀が獣の様な咆え声と共に城主の腸を掻き抉った後。天井板に描き込まれた場の顛末を掻き消す様に、紅蓮の炎が柱を伝い、本丸の内を包み込んだ。
「天守が落ちたのじゃな……」
力無く呟く少年の声にも、ギンジは無言のままである。寄せ手の兵は未だ主戦場だった山頂付近に集結しており、火災も下火になった二の丸以降は、特に目につく人影もない。
「父上も継母上も亡くなられた。……与ノ介も喜兵衛も宗知も、最早生きてはおるまい。わしだけが……」
再び嗚咽し始めた幼子が、彼のうなじに頬を寄せる。立ち昇る煙と煙硝の臭いから顔を背け、闇中に転がる首の無い屍を避けて歩く内。消え入る様なか細い泣き声を耳元で聞くギンジの胸に、不意に燃える上がる様な憤怒の情が込み上げて来た。――何故次郎が死なねばならぬ。城が落ちたのも野田の一門が滅ぶのも、決してこの子のせいではあるまい。
自分と次朗を苛む全て、ありとあらゆるものを弄び、呑み尽そうとする理不尽に対し、ギンジは沸騰した激情のままに、闇を睨んで足を止めた。次いで素早く後ろを振り返る彼に向け、背後に続いていたアクロが血相変えて呼び掛ける。
『ギンジ、駄目だ!!』
事情を察し、必死に思い止まらせようとする親友の言葉に構う事無く、ギンジは飛ぶ様な足取りで、搦め手口の反対側に位置している、水の手口へと馳せ向かう。――定めも掟も関係無い。ただ何もせぬまま、自分を信頼してくれているその相手を死出の旅路に送り込むなど、己が生きている限り決して許されるべきではなかった。
背後に続くアクロの方も、最早何も言わなかった。可能な限りの全力で追う砂鼠の息遣いが、弦を離れた矢の様に往くギンジの耳に、力強い支えとなって伝わって来る。
水の手口の近辺までやって来た時。ギンジは暗中に蟠る重苦しい雰囲気に、思わずピタリと足を止めた。後方のアクロも彼に並んで立ち止まると、行く手に黒々と広がっている、凄惨な光景に顔を顰める。
『こいつはまた酷ぇもんだな……』
砂鼠の呟きに、彼は無言で同意を示す。恐らく落ち延びようとしたのだろう。粗末な着物に身を包んだ十人足らずの男達が、ある者は首を捩じ切られ、ある者は真っ黒に焼け焦げて、門の手前に転がっている。
意を決し、再び進み始めたギンジ達が目指すのは、頑丈な門の直ぐ脇にある、所用の為の潜り戸である。戦の最中は内側に物を積み上げて、一切の使用を禁ずるその手前に辿り着いた時。ギンジはふと、其処に先客がいる事に気が付いた。返り血を浴び、茫然とした表情で佇んでいるのは、嘗てこの城の女主と共に居た、あのコギクと呼ばれていた娘に間違いない。
『そなた……!』
慌てて駆け寄りつつ、思念を飛ばす彼に向け、件の侍女はゆっくりと目の焦点を合わせると、自らもギンジに向けて近寄って来る。傍らについたギンジが手を差し伸べようとしたその時、ずっと様子を見守っていたアクロが、切羽詰まった声を上げた。
『危ない、逃げろギンジ!!』
意識はついて行かなかったが、身体は咄嗟に反応する。反射的に飛び下がった彼の脇腹を追い掛ける様に銀色の影が伸びて来て、薙ぎ打ちにされた傷口から黒い飛沫が吹き出した。
『ぐあッ……!?』
何とか踏み止まり、片手で脇腹を抑えるギンジの背中で、次郎が悲痛な叫びを上げる。三者の視線が集まる中、手にした短刀を無造作に投げた娘は、次いで不気味な笑みを浮かべると、ゆらりと姿勢を変化させる。両腕を地面に着ける彼女の動きに合わせる様に、小柄な身体は膨れ上がり、歪めた口元が耳まで裂けて、小振りな鼻先は内側から突き出す様に、手前に向けて変形する。衣は破れ、覗いた素肌は見る間に白銀の毛皮に覆われて、尾てい骨の辺りからは巨大な尻尾が次から次へと生え出した。黒い瞳は紅に染まり、燃える様な憎悪を込めたその輝きは、思わず後ずさる様な威圧感を伴って、対峙するギンジの背筋を凍らせる。
「まさか継母上が……」
震える声で口走った少年に向け、白銀の獣は快さげに視線を向ける。次いでその目に明確な殺気が迸った時、ギンジは素早く次郎の身体を引き下げると、自分の身を盾にして、背中の幼子を庇い立てた。神通力を無力化され、怒りに燃えた九尾狐が灼熱の炎を吐き出すと、彼は脇腹の傷に構う事無く、大きく横に飛び身をかわす。圧倒的に不利であったが、相手の目当てが背中の少年である限り、迂闊に身を離す訳にはいかなかった。
苦戦するギンジを助けるべく、落ち着いて間を見計らっていたアクロが、手にした礫を九尾狐に向け投げ付ける。風を切って飛ぶ兜割は神通力に阻まれたものの、鋼鉄の礫が地面に落ちたその時には、身軽な砂鼠は既に両者の間を取りきっていた。代わって矢面に立ったアクロに対し、白銀の狐は鋭い赤眼を光らせて、彼の繰り出す毒針を弾き飛ばすと、そのまま目の前の相手を捻り潰すべく、見えない力に己が精神を集中する。砂鼠の体躯が捻れ、骨の軋む鈍い音が血の香漂う周囲の空気を震わせる中、苦痛の唸り声を上げるアクロはそれでも何とか歯を食い縛り、相手に向けて砂地獄で反撃する。纏わりついた砂塵の渦に、狐の側も平気な顔では居られぬらしく、憤怒に満ちた形相で、彼に止めを刺そうと牙を剥き出した。
だがその時、不意に飛来した十字の刃が白銀の毛皮を切り裂いて、九尾狐の胸の辺りに突き刺さる。突然の痛手に悲鳴を上げ、堪らず神通力を解除した彼女の左の肩口に、続いて飛来した水手裏剣が、深々と突き刺さった。ぐらりとよろける相手からの圧力が完全に消えた事を受け、勢いを盛り返したアクロの側が、逆に死命を制すべく、技への意識を更に強める。踊り狂う砂塵の密度が増し、蛇の様な姿となった砂礫の帯が獣の首に絡み付くと、小石混じりのそれがすさまじい圧力と共に、九尾狐の身体を擦り始める。揉みくちゃにされた毛皮が毟り取られ、擦り切れた皮膚の裂け目から赤い血潮が吹き出すと、この世のものとは思えぬ断末魔が、白み始めた夜の空気を引き裂き響く。女主と共に暗躍し、数多の命を喰らい続けた、妖狐・狐鬼狗の最期であった。
送り狼として配されていた九尾狐を倒した後。ギンジ達は傷付いた身を引き摺りながら、どうにか潜り戸まで辿り着いた。背中から降り、先に立って扉を開ける次郎の姿を見守りつつ、ギンジは傍らの砂鼠に声を掛けると、簡潔に自分の意思を伝える。苦い顔で舌打ちし、歯を食い縛る友に頼むと念を押すと、彼はアクロを先に行かせて、自分は其処に踏み止まった。――走る事すらままならぬ今の自分に、追手を振り切る事は不可能である。
何時まで経っても動こうとしない彼の様子に不安の色を隠そうとせず、扉の前に立った次朗が此方を振り返る。
「ギンジも早う」
『拙者は此処で追手を喰い止めます。後事はアクロに託します故、早く落ち延び下さりませ』
「……! 嫌じゃ! お主が行かぬなら、わしも此処で死ぬ!!」
悲鳴と共にしがみ付いて来た少年が、ギンジの胸に顔を埋める。衣が汚れる事も構わず、深手を負った蛙人にぴったり身を寄せるその頬を、大粒の涙が滑って落ちた。
「何故ギンジが死なねばならぬ!? 追われておるのはわしじゃ! わしは野田掃部介の一子。城と滅ぶのはわしの定めじゃ」
掻き口説く少年の悲痛な声に、ギンジは暫し無言のままで立ち尽くす。震えながらも淀む事無く思いを告げるその背には、幼くも重い身の上を背負う、気丈な覚悟が滲んでいる。――けれどもそれ以上に強く彼の胸を打ったのは、腰に回されたその細腕に込められる、はち切れんばかりの孤独であった。
「頼むギンジ、わしを置いて逃げてくれ。わしはもう独りにはなりとう無い……」
力を失い、しゃくり上げつつ途切れたその言葉に応える様に、ギンジの腕が手前に伸びた。そっと背中を撫でさすられ、思わず顔を見上げた次朗に対し、彼は静かな調子で意思を伝える。
『拙者に戦は分かり申さぬ。人の世の仕組みも、あるべき姿と理も。……なれども、例えどのような仔細が御座れ、弟子の危難を見捨てる訳にはいきますまい』
真っ直ぐ向けた視線の先で、少年の瞳が揺らめいた。僅かに口を開いた幼子に対し、そっと頬を緩めて見せたギンジは、込み上げる思いを精一杯の思念に込めて、相手に向けて送り続ける。
『何処の誰かなぞ知り申さぬ。拙者が丹精込めし教え子は、紛う事無く此処な童(わらわべ)。その行く末を決めるのは、師としての我が務めに御座る』
「ギンジ……」
新たに零れた潮の匂いが、身に纏い付く死神の呼気を洗い落とす。湧き上がって来た新たな力を感じつつ、ギンジは最後に力強く微笑むと、習い覚えた疎通の術に頼る事無く、自らの口で別れを告げた。
『芸事の道は厳しゅう御座るぞ。心を決めて歩みなされ』
力の抜けた次朗の身体を抱え上げ、無言で見守っていた砂鼠に託した彼は、ふと気が付いた様に自分の笛入れを手に取ると、少年の首に掛けてやる。素早く潜り戸を抜けた友の背中を見送る事無く、ぴしゃりと締めて錠を落とすと、簡単には開けられぬ様、鉄の錠前を殴り付けてへし曲げる。くるりと振り返った蛙人の両手には、生み出したばかりの水の刃が、白み始めた空の息吹に感応し、鈍い輝きを放っていた。
待つ程も無く、追手の一団が姿を見せる。既に彼の離反を知っているらしい一味の者は、抜き連ねた白刃を下ろす事無く、手に手に取り出した暗器を閃かせ、ギンジ目掛けて打ち込んで来た。飛び来る手裏剣を打ち払い、身を捻ってかわす彼の隙に乗ずべく、夜明けの光に浮き彫りにされた漆黒の影が、無言の気合いと共に殺到して来る。
肩口に迫る忍び刀を右の刃で受け止めると、ほぼ間を置かずに逆の刃を閃かせ、左脇から腿を狙う、摺り上げの太刀を打ち落とす。間髪入れず後ろに下がり、頭上に向けて振り下ろされた梨割の一撃に空切らせると、慌てて立て直そうとする、相手の腕を斬り離す。息もつかさず左の腕から投じられた水の刃は、手にした短槍を銛の様にして振り被る、忍び装束の男の胸を貫いた。
空を切り裂いて伸びて来た鎖付きの分銅が、空手となったギンジの左腕に絡み付いて来る。引き付け体勢を崩そうとする蓬髪の男の利き腕を神通力で圧し折ったのも束の間、死角から投擲された別の分銅が、腕を取られて無防備となった彼の脇下に直撃し、肋の骨を粉々に砕く。
『っがァ……!?』
思わず漏れた苦痛の声に誘われる様に、周囲の輪から一匹の黒猫が踏み込んで来た。爪を閃かせ地面を蹴った狩人は、堪らず身を折るギンジのその傷口に、情け容赦なく己が鉤爪を突き入れる。相手の傷口を更に広げるダメ押しの一撃に、先に九尾狐によって引き裂かれていた彼の脇腹は更に深々と抉られて、鮮血が糸を引く様に迸り出た。
焼け火箸を捻じ込まれる様な激痛に頭の中を焼かれながらも、ギンジは地に着いた膝を支点に顔を上げ、相手に向けハイドロポンプを打ち放つ。激流によって勢いを増した強烈な水の砲弾に、勝利を確信していた筈の黒猫は木端の様に吹き飛ばされ、岩壁に叩き付けられて崩れ落ちる。我に返った周りの敵が再び構え直した時には、満身創痍の蛙人はもう立ち上がっていた。
挫けぬ心とは裏腹に、最早息も絶え絶えとなったギンジの突破口となったのは、突然の破壊音に驚き騒ぐ、寄せ手の兵の混乱だった。ハイドロポンプの直撃を受け、打ち砕かれて大穴の空いた漆喰塀の向こうから、落ち武者狩りに余念のない、尼戸の手勢が顔を覗かせる。突如目に入った黒ずくめの一団に、ろくに事情も知らぬ殺気立った雑兵達は、そのままいきり立って突っ込んで来て、味方である筈の鉢屋忍と、同士討ちを演じ始めた。
予想も出来なかった事態に、鉄桶の包囲網が一時に綻ぶ。「止めよ、味方じゃ!」と口々に叫ぶ追手の動揺を見逃さず、ギンジは弾き出された礫の如く、統制を乱した刺客の一団に突き入った。身知った顔の小頭の腿に一太刀浴びせ、返す刀で追跡役として名を馳せる、デルビルの鼻に峰打ちをくれる。追跡行の要となるべき隊の指揮者と猟犬が、共に苦悶の声を上げて戦闘不能に陥る中、彼は最後の力を振り絞り、傷口から溢れて落ちる黒血の跡を引き摺りながら、間近に聳える大櫓に向け突進する。
風を切り裂き追い縋って来た手裏剣の群れが背中を縫い、唸りを上げて飛来した征矢が右の肺を貫いた直後、ギンジは櫓の脇を走り抜けると、高く切り立った石垣の縁を踏み切って、虚空に向けて身を躍らせる。
雲一つ無く晴れ渡った朝居の空の向こう側に、遥か彼方の故郷の地へと繋がっている、蒼い海原が広がっていた。
湖岸に置かれた床几の上に、一人の男が座っていた。暮れなずむ茜の空を背景に、黙然と前を見つめるその男の背後には、家臣と思しき男達が、威儀を正して居流れている。
床几の主は異相であった。湯帷子の袖をまくり上げ、日に焼けた逞しい腕を剥き出しにした上半身に対し、脛につけた行縢は豹皮を用いた派手な拵えで、人目を引かずにはおられない。傍らの家来に預けられているのは、目の覚める様な深紅のマント。ほんの数年前、都の近辺で大掛かりな焼き討ちを行った事で知られる彼は、その峻厳な統制ぶりで天下に名を轟かせている。
そんな彼が見やる先に、一人の若者が進み出て来た。粗末な単衣に半袴と言う涼しげな出で立ちの男の肩には、使い古された馬革の袋が吊るされている。己に向かう鋭い視線にも臆する事無く、流れる様な動作で袋の中から一本の笛を取り出した若者は、そのまま何も気負う事無く、口元に当てて吹き始める。
高く張った美しい音色が夕暮れの風に運ばれる中、聴き惚れている男達の間に、得も言われぬ様なざわめきが広がり始める。拳で目元を押し拭い、或いはひっそりとすすり泣き始める家臣達の前方で、静かに瞑目した異相の主の痩せた頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
暑気さめやらぬかわたれ時の空気が歪み、湖の彼方に陽炎が浮かぶ。音曲と一体となった若者――嘗て次郎と呼ばれていた銀次朗のその目には、揺らぐ彼岸で同じく笛をかたぶける、痩身の影が映っていた。
古今独歩の名手と言われた笛吹き銀次郎の半生は、よく分かっていない。生涯を遊芸人として過ごしたと言われ、魔王と呼ばれた男の前で披露したとも、都の祭礼で帝の叡覧に供したとも伝わっている。
時の関白からは一千石で招かれたと言われるが、謝絶したと言う。晩年は雲州月山に庵を結び、慕い尋ねて来る者に楽技の手解きをしながら、ひっそりと余生を終えた。
彼が終生手放さなかったとされる幾本かの篠笛は、今でも地元の宝として、月山麓の古刹の蔵にひっそりと眠っている。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。