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「船出」(作者:Ryoさん)

 それは 遠い 昔

 アローラを 治める 大きな 一つの 王家が 倒れ

 アローラの 四つの島を 治める 王たちが

 カプによって ではなく

 受け継いだ 血によって 選ばれていた 時代の 話


 ポニの島には 村があった

 天まで そびえ立つ 壁のような 大峡谷と

 果てしなく どこまでも 広がる 海のはざまで

 木を 切り倒して 家を建て

 海へ出て 魚を捕り

 森に分け入り 鳥を捕り

 大峡谷に住まう 勇ましき 竜の鱗を

 他の島の 人々と 取引して 暮らしていた


 だが そんな暮らしにも

 夜が来るように ひっそりと 終わりが 訪れる


 これは ポニの村の 終わりの 時代を 生きた

 人々の 物語である



 上等な鏡のように一分の隙もなく磨かれた青い空に、があがあと騒々しい鳴き声を立ててペリッパーの群れが舞い上がっていく。その忙しない羽音を追いかけるように、大峡谷の荒々しい山肌を、白い蒸気の筋がいくつも、生まれたてのミニリュウのように勢い良く這い上がっていく。見る間にそれは大峡谷の天辺で一塊の雨雲となり、ポニの村は突然の豪雨にすっぽりと包まれた。

 畑の手入れをしていた男は畑の縁に座り込み、雨に穿たれ流される苗を力なく見つめ、草葺き屋根の小屋で寝ていた老人は雨漏りの水に舌打ちをし、広場でサメハダーの牙を削り、釣り針を作っていた女達は悲鳴をあげてめいめいの家へ飛び込んだ。子供達だけが歓声を上げ、ほとんど裸の格好のまま、山肌を伝い落ちる滝のような雨の下へ駆け出していく。

 作業所でカヌーを造っていた男達は、土と泥で作られた四角な壁と屋根の内側にそのまま閉じ込められてしまい、仕方ない、といった風に、外に突き出た明り取りの窓から見える景色を見ながらの世間話が始まる。

「まーた、誰ぞペリッパーを驚かしたんかのう」

「大雨になって苗が流れるから近づくなと、俺ぁ何度もガキどもに言ったのになあ」

「仕方ねぇ、食いもんがねえんだから。腹が減るとみんな、馬鹿を平気でやる」

 そうした会話に、最も年かさのラタは、決して混じろうとしない。黙々と丸太に小刀を入れ、人ふたりが乗れるほどのカヌーの形に彫り上げていく。

 周りの人々も、ラタにだけは決して話しかけようとしない。彼が今造っているカヌーが誰を乗せ、どこへ行くためのものなのか、誰もが知っているからだ。

 雨が上がり、一心不乱に丸太を彫り続けるラタを一人置いて男達は帰っていく。作業場から充分離れた辺りで、一人が涙をこぼすように呟いた。

「見てられねえ。ありゃ自分と嫁さんの墓を、自分で彫るようなもんだろ」


 ラタが浜辺近くに建てられた自分の家に戻ったのは、雨も太陽も月神の翼の端へすっかり追いやられた頃だった。

 斜めに組んだ木の底部をバンバドロの泥で塗り固めて土台を造り、その上に草を葺いただけの簡素な家へ戻ると、妻のヒナはラウハラで編まれた床の上に座っていて、細く長い葉の上に慎ましく盛られた、まだ温かい夕食をそっと勧めてくる。

 蒸したタロ芋の団子と焼いたヨワシを口に運ぶ合間に、独り言のようにラタが言う。

「雨が降ったろう」

「えぇ、昼に」

 そこで少し間がある。ルガルガンの遠吠えが遠くの空をかすめる。

「お前、濡れなかったか」

「はい、すぐ帰りましたので」

 そしてまたヒナは穏やかな笑みだけをラタに向け、ラタは黙ってヨワシを齧る。このところの二人の会話は、いつもこのようなものだった。

「しかし、みだりにペリッパーに近づくなとは、もう島会議でだいぶ前から言われているだろうに……」

 最近の調子のまま、ヒナの顔を見ずにぽそぽそと言葉をこぼすラタは、その言葉がヒナの顔を曇らせてしまった事にしばらく気づかずにいた。

 顔を上げた時に妻が悲しげにしていたので、ラタはようやく先程の自分の言葉の中に、彼女の心を萎ませる小さな棘が潜んでいた事に気づき「すまない」と話を打ち切ったが、それはヒナの心に刺さった棘を抜く言葉ではなかったので、食卓に漂う沈黙は苦く重いものになった。その沈黙を振り払うすべを、ラタもヒナも知らない。

「ごちそうさま。もう遅いからそろそろ寝よう」

 食後の挨拶は、そのままその日最後の会話となった。


 新月の晩に開かれる島会議では、ポニの島にただ一つある村の各家の長が王の元に集まり、村の祭事や政について意見を交わす。そして王が民の言葉を取りまとめ、裁定を下す。

 ここしばらくの島会議では、食べ物の無い事が話題に登らない事はなかった。もう十年以上も前から、カプから頂いた二つの平原は痩せゆき、村の西の海岸では魚も鳥も取れなくなり、村の東で使う、獣避けの篝火を焚く木も貴重になっていた。他の島との取引に使うジャラコの鱗も、そうそう見つかるものではない。

 しかし、そうした良くない事の全てよりも悪い事は、誰もその原因が分からない事だった。

 古老たちは言う。これまでずっと、カプからの授かり物である二つの平原は豊かであり続け、人とポケモンが耕せば耕すだけ作物が取れた。漁の神であるダダリン様と海神カプ・レヒレ様がおわす西の海で魚に困った事などない。足りないものがあれば山へ入り、ジャラコ達の鱗を貰い、他の島の人々と取引をすれば何でも手に入った、と。

 それらの全てが、急速に失われようとしている。理由も分からないままに。

 進退窮まったポニ島が、アローラの南の海の恵みをウラウラ島と争ったのが三年前の事だ。ポニの民は海神カプ・レヒレの名において海の恵みを我が物とすべく戦い、辛くも勝利したが、何一つ状況は良くならない。

 平原はますます荒れ、雨が降れば畑の苗は一つ残らず流された。カヌーは水が漏るようになり、せっかく勝ち取った南の海の恵みなど臨むべくもない。野生のポケモン達は空腹から過剰に怒りっぽくなったり極端に人や同族を恐れたり、かと思えば半ば自殺のように無防備に人前に現れたりもした。

 他の島との交流も、月ごとに三度から二度、二度から一度と減っていったが、これはウラウラとの争いの余波というよりも、ポニから差し出せるものが最早尽き始めていたから、というのが実情だった。争いは島の外ではなく、島の中で再び起こり始めた。西の海岸の魚を狙って、あるいは東の川に流れる真水を狙って。お互いの持つポケモンを狙って。もしくは、こうした言葉を以て。

「お前のカプへの信心が足りないから、こういう事になったんだ」

「お前の戦いぶりが悪かったから、カプがお怒りなのだ」

 村の中央に居を構える老いたポニの王は、日に日に悪くなる村の状況を鑑みて、いよいよもっての決断を下し、村人たちにこのように言わざるを得なくなった。


「――この村の中で、自分はもう充分にカプからお恵みを頂いた、その身の清めを以てして、カプに御礼を尽くそう、と言う者はおらぬか」


 それからは、島会議の折に、身寄りのない老人、治る見込みのない病人や怪我人などがカプに捧げられる事となったが、彼らが自ら志願したのか、他の誰かによって任を負わされたのかは分からず、また、誰も立ち入って聞こうとはしなかった。

 捧げられる数はいつも大体同じ、数人ほどだったが、ある時期から増えた。長く生きる力がないと判断された子供の数だけ、増えた。

 そして、ラタとヒナの身と命が、カプに捧げられる事に決定されたのが、目下の新月の晩に開かれた島会議の場である。

 次の満月の日、二人はカヌーに乗り、西の浜より海へ出る。全ての島に背を向けて、蒼の果て、この世の果てにあるという「海神様の岸」へ船を漕ぎ出す。


 ラタとヒナの二人に子供はない。ずっと願っていたが、授からなかった。

 カプへの祈祷も何度も行った。多産をもたらすというブリーの実、万病に効くというラッキーのタマゴやボクレーの葉など、考えつく限りの薬をどうにかしてかき集め、試した。

 そしてその全ての努力が実らぬまま、二人の歳は四十を既に越えた。

(何が、カプへの御礼だ)

 日々の夕食ごとに繰り返される沈黙の中、怒りがラタの胸を静かに焦がす。身の内を蒸されているようだ、とラタは思った。口を開けば良くない言葉が、黒い煙のように吐き出されてしまいそうで、それを胸に留めるように蒸したパンノキの実を一気に頬張る。

 ラタにはカプへの怒りこそあれ、御礼を尽くすような覚えなどない。子を授けず、島を痩せさせ、人々を海の果てへ追いやるカプへの御礼など。

 このような島に何の未練があろう。言われずとも自分から出ていってやる――ラタが自ら「カプへの御礼を尽くす」決意を口にした時、彼の胸に去来したものは、島の民が海の恵みをその名に懸けて戦った時も、不作と飢えに苦しむ今も、姿すら見せたことのないカプなどではない。

 彼の胸にあったのは、海の果てへ流されゆく運命を負った人々の、老いた手、萎えた足、孤独な背中であり、そうしたものたちへ人々が向ける、哀れみを帯びた遠巻きな視線であった。

 あの底冷えのする視線のことならラタは嫌というほど知っている。子の無い自分達に長らく、それとなく向けられてきたあの視線と、カプへの御礼という名目のもと命を散らす人々に向けられてきた視線は、同じものだ。ならば自分達はもうカプに身を捧げることが決まっているも同じ事ではないか。それなら、いっそ――

 こうした思いは、感情の色こそ違えど、ヒナの中にもあるようだった。もうずっと前から、ラタの言葉に笑みを返す時も、その瞳の中に憂いの色が混じっていない事はない。ふとすると、深い海の底にでもいるように、ただうつむき、身動ぎ一つしないでいる時がある。或いは女達の調理場で何か良くない言葉を耳にする事もあったのかもしれないが、ラタには知る由もなかった。とにかくヒナは、ラタの決意を聞いた時にも、もう海の果てへ辿り着いてしまったかのような遠い目で、ただ頷いたのだった。

 しかし、ラタの胸の内は――ヒナも同じなのかは分からないが――怒りの色だけに染まっているのではなかった。

 その感情の呼び名をラタは知らない。呼び名があるのかも分からない。その感情は、例えば子供らが浜で遊ぶ歓声を聞いた時、或いは女達が調理場で談笑しながら魚を焼く香りを嗅いだ時、全く突然にラタの目を濡らし、喉を詰まらせる。その鮮烈な感情は例えるなら稲妻にも似ていた。よく磨いた一枚の青い板のような海へ出ていくカヌーを見れば、その印象はじわりとした潤みと共に目の奥にずっと残るのだ。ラタはこうした気持ちに襲われるたびに戸惑い、どうすべきか分からずにいた。

 ラタが唯一平易な気持ちでいられるのは、カヌーを造っている時だけだ。小刀を振るっている間は、目の前の丸太が全てなのだから。


 夜の海に垂らされた釣り針のような月がカヌーほどに太くなる頃、子供が二人、ラタ達の家を訪れた。

 幼い兄弟だった。腰蓑だけを纏った体は夕陽に照らされ、透き通りそうな程に細く、痛々しい。兄の方は両手に籠を抱えていた。

「うちの父さんが、これを」

 と、少年がおずおずと差し出した籠には、ポニの花園に咲き誇る藤の花びらや、そこに暮らすオドリドリの羽が敷き詰められており、中にはウタンやカシブ、ナモといった紫のきのみばかりが丁寧に置かれている。眠くなるような香りがして、ラタは自分の体がそのあやふやな紫のかたまりの中に溶け込んでしまいそうな錯覚を覚えた。視界の隅でヒナが、ほんのわずかにうつむくのが見える。

「おじちゃんたち、海神様のとこに行くんだよね」

 出し抜けに弟の方がはしゃいだ声をあげ、兄は慌てて「しっ」と弟を制するが、弟は両目に浮かんだきらきらとした光を隠さないまま、一層声を弾ませる。

「カプ様に清めてもらうんだよね? 僕の――」

「よせ、ミル!」

 強い口調で兄に咎められ、弟は平手で打たれたように驚き戸惑う。兄は幼いなりの丁寧な口調で何度も謝りながら、紫の籠をラタに渡す。その様子に大人達の「視線」の事を思いかけ、ラタはそれを振り払うように、

「気にするな」

 なるたけ優しい声色で言ってやると、兄は青白い頬をほっと緩め、怯えたように縮こまる弟を連れて家へ戻っていく。

 弟が何か切なげに訴える声が潮風の中、長く後を引いてラタの耳に届く。瞬きをすると視界が朧になり、その声の調子だけがいつまでもラタの耳の中で跳ね返った。

 仕方ないのだ、ラタは誰にともなく呟く。

――仕方ないのだ、俺もあの子程の歳の頃は「清める」という言葉に「怪我や病気が治る」の他に、もう一つの意味――「死ぬ」――という意味がある事など、知らなかったのだから。


 明くる日の昼、作業場の四角い空間はコツコツと木を叩く忙しない音で満たされていた。

 皮を剥がれ、形を整えられた丸太にケララッパがくちばしを入れ、穴を穿つ。ひとときの休みもなく小刻みに揺さぶられる土壁の空間を縫うように、しゅるしゅると滑らかな音を立てて、飾り紐のような木屑が舞い、床に降り積もる。

 ラタは自分のケララッパの横で細く長い木を削り、カヌーの横に取り付ける浮材を作っていた。アローラの海は荒い。ただの丸木舟ではまともに櫂を操ることも不可能だ。カヌーの上に二本の長い腕木を渡し、その先にカヌーの子供のような形の浮材を取り付けることで、カヌーは荒波の中でも重心を失うことなく、どこまでも行ける。

 この日、作業場には朝からラタとケララッパの姿しかなかった。壁には先日、ここで雑談していた男達の造りかけのカヌーが立てかけられてある。ラタには時間がない。しばらくの間作業場を借り受け、浮材とカヌーを一気に作り上げてしまいたかった。

 集中するラタの耳には、作業場の戸を開け、忍び込んできた密やかな足音も聞こえなかった。自然、ケララッパの方が先にその音に気づくことになる。

「ケェーーッ!!」

「わーっ!!」

 二つの絶叫に驚いたラタは浮材を取り落とし、彫りかけの木は強かにラタの脛を打つ。

「痛てぇ!!」

 自分でも驚くほどの大声で叫び、うずくまるラタの側に、侵入者――見れば、先日紫の籠を届けに来た少年である――は大慌てでかがみ込み、何度も何度も、ラタの方が引け目を感じるほどに謝ってくる。

「すみません、すみません! おじさんに怪我させるつもりなんかなかったんです! 僕は、その、おじさんがカヌーを造ってるって聞いて、その造ってる所を、どうしても見たくて……」

「いや、いい」

 ラタは頭を下げ続ける少年を手で制す。

「それよりお前、なんで俺の居場所が分かったんだ。なんで俺の仕事なんか見たがるんだ」

「弟と一緒にもう一度おじさん達の家へ行って、おばさんに聞いたんです。もうずっと、朝から晩まで、ここでカヌーを造ってるって。弟はおばさんと一緒にいます」

 ラタがいまひとつ要領を得ない顔で相槌を打つ間に、二人の耳に突然、笑い声に似たやかましい声が飛び込んでくる。見れば、ケララッパが壁にかかったカヌーの上に止まり、面白げに目を細めてジロジロと二人を見ているのだった。

「おじさんの?」

「あぁ、カヌー造りの相棒だ。声はうるさいし、最近は色々物騒だから、ここくらいでしか出してやれないけどな」

 ラタは言い、壁際のカヌーの陰に置かれた、小さな穴の開いた椰子の殻を指差す。中身をすっかり取り出してよく乾かし、蔓草の繊維で結んでぴったり閉じ合わせた椰子の殻が、ケララッパの住まいであった。

 ケララッパが再び、からかうような陽気な声をあげ、ラタは苦笑いでそれに答える。

「坊主、お前、椰子殻で虫なんか飼ったりしないのか」

 何時になく穏やかな口調で少年に聞くラタは、もう先程の脛の痛みの事など頭にない。

 が、

「いえ」

 答える少年の顔には影がさし、声は暗い。

「うちじゃ鳥も虫も飼えません。うちはもう、父さんと僕と弟が食べてくので精一杯で、それももう無理になって、父さんの親戚がいるメレメレに移る話だってあるんです」

 その声に、何かひりひりした物を感じて、ラタは少年の姿を見つめる。うつむく少年の体はかすかに震え、海に落ちる夕陽の最後のあがきのように光って見え、沈んだ口調の底には、確かな熱があるように聞こえた。そしてその光と熱は、今、まさに自分の中にあるものと同じように、ラタには思えてくるのだった。

 身の内を蒸すようなその炎熱を無意識に口の中に滲ませ、ラタは少年に再び問う。

「お前、俺の仕事を見たいと言ったな。何故だ」

 少年は顔を上げ、真正面からラタの顔を見た。先程までのびくついた様子はそこには無かった。

「わざわざ俺の家まで来て、俺を探しに来るたぁ、よっぽどな訳だろう。聞かせろ」

 少年は、ラタの内で燻る熱を見透かすような、晴れた夜空のような色の目を一つ瞬きし、

「ここを、離れたくないからです」

 水底に差す星の光のような、真っ直ぐな声で答えた。

 何か言おうとしてできないことを、ラタは瞬きのうちに理解した。うすく開いた口からは空気だけが漏れ、耳の奥まで、少年の声が一直線に突き通っている。

 ――稲妻だ。この感情は「稲妻」だ。

 突然襲ってきた、あの激しい心のふるえ。大峡谷から降る雨のように前触れ無くラタの目を濡らし、もう半分ほど自分の中から離れかけているポニの島の風景を強烈に目に焼き付け、耳に響かせるもの。

 嵐に翻弄されるカヌーのように為す術なく戸惑うラタに、少年はなおも話しかけてくる。

「僕が食べ物や水や、生活に必要な色んなものをもっと自分で用意できれば、僕の家族は外へ出る必要が無くなって、みんなずっとここで暮らせるからです」

「なら、」

 ラタは壁を指す。半端に尖った丸太の上で、ケララッパはいつしか眠り込んでいた。

「他のやつでもいいだろう。何で俺なんだ。分かるだろ、俺には……時間がないんだ。他のやつならもっとゆっくり教えてやれるじゃないか、カヌー作りでも魚取りでも……何でも……」

 喋るうちにみるみる枯れてゆく喉から、どうにか絞り出すように言い切ると、とうとうラタは黙り込んでしまう。これ以上の事は言いたくなかった。

 少年は、すぐには何も答えなかった。答える代わりに、しげしげとラタの造りかけのカヌーを見た。その口からため息が淡くこぼれ、土壁に溶ける。

「これ、すごくいい木」

 吐息の延長のような声がカヌーの表面を撫でる。少年はケララッパの方を見、そしてまたラタの方を見て、

「これ、他の木と違います、おじさん。他の木は何だかぼそぼそしてるのに、この木は石みたいにしっかりしてる」

 ラタは答えない。

 眠るケララッパも、彫像のように動かない。

 木屑の上に降り積もる沈黙の中、間違っていたらごめんなさい、と前置きして、少年が話し出す。

「やっぱり僕には分からない。カヌーにこんないい木を使って、ケララッパの事も大切にしてて、そんなおじさんが、海神様の所に行く訳が、分からないんです」

 ラタは静かなため息だけをつく。肺の奥から吹き上がった嘘八百の返答を、透明な空気の中に流してしまいたくて。

 ――そりゃ、海神様の所に行くんだから、カヌーだって立派なもんを作らなきゃあな――

 少年の、月神の翼の色をした目が、ラタの目をしっかと捉え、

「昨日、籠を届けに行った時から、僕は不思議だった。おじさんは、凄く強くてしっかりしてる人に見える。多分、このカヌーが木だった頃みたいに。この木は、カヌーになっても、水なんか漏らないで、ひっくり返りもしないで、どこだって行けそうなのに」

「何が言いたい」

「僕には、おじさんも、このカヌーも、次の満月で海神様の所へ行くような感じに見えない。おじさんは南の海へ出ていって、魚や貝をどっさり獲って帰ってくる。これはそのためのカヌーだ、って言われた方が、ずっとすっきりする」

 少年の口から溢れるものが、言葉ではなく光のように、ラタには思えた。それは先程まで自分が彼の中に見ていたものとは全く違う輝きだった。

「多分、おじさんは僕と同じに、この島から離れたくない、と思ってる。そうでしょう?」

 その声は、朝陽の煌めき、夜と死を追い散らす光の咆哮のようだった。ラタは、己が身の内の炎熱ごと吹き飛ばされてしまいそうな感覚に陥り、しかし、その場から一歩たりとも動けずにいるのだった。

(お前は、俺とは違う)

 そう言って少年を突き放してしまいたくなり、ラタはそうした方が良い気さえしていた。あまりにも違うのだ。ラタの身を焼き、心を焦がし、この島ごと炎に包んでしまいそうな、あの狂おしい衝動と、この少年の内にある、何度海に落とされても再び天に蘇る朝陽のような清冽さは。

 が、とうとうそれは言えないまま、ラタの口から、取り落とすように言葉が転がり出る。

「お前、名は何という」

「ホクレア」

「そうか。ホクレア、明日もここに来るのか」

「おじさんがいいのなら、ぜひ」

 ラタはまるで、自分ではない誰かの声でやり取りしているような感覚を覚えながら、

「おじさんはやめろ、ラタでいい」

「はい、ラタさん、よろしくお願いします」

 ただぼんやりと、少年の深々としたお辞儀を見下ろしていた。

 

 ホクレアはその後、目覚めたケララッパが再び丸太を削り出し、ラタが浮材を彫るのを真剣に見ていたが、ラタは「弟の迎えもあるだろう」と、暗くならないうちに早々に彼を帰らせた。

 が、自分とケララッパだけになってしまうと、何故か途端に小刀を振るう右手に力が入らなくなり、それは相棒も同じようで、丸太にくちばしを入れながら何度も首を傾げては、濁った声で鳴くのだった。

 ラタは手を止め、ふと思う。ホクレアというあの痩せた少年が、何故、カヌーの木の良し悪しなど分かったのだろう。年端もいかない子供が、それほどに物事を知っているものだろうか。

 顔を上げ、ラタは改めて、壁にかかった造りかけのカヌーを見た。そして全てを理解した。立てかけられた丸太の木目は歪み、色はまだらで、よく見れば一つはあちこちに薄い木片を継いで、どうにか船の形に整えてあるだけのものであった。

 ラタは天井を仰ぎ、顔を覆う。この島は痩せ衰え、死にかけている。それは人も木も同じ事なのだ。

(そうだ、こんな事はとうの昔から分かっていたんだ、誰もが)

 指の隙間に映る天井の向こうに、ラタはホクレアの、夜空の色と朝陽の光を湛えた瞳を思った。明日またここに来ると言ったあの少年に、自分は何を言えばいいのだろう?

 ラタは窓から遠慮がちに差す光の中、しばらく考えを巡らせていたが、やがて意を決して立ち上がるとケララッパに寝ぐらへ戻るよう促し、外に出て、ある場所に向けて歩いていった。



 ラタが一心不乱にカヌーを造っている頃、妻のヒナは家の外で、台座の上で樹皮を叩いて薄く伸ばし、カヌーの帆にする為のタパ布を作っていた。漁や航海をする時のカヌーに帆は張らないが、カプの元へ向かうカヌーは、その印として、紫に染まった帆や旗を掲げるのだ。近頃は小さな旗で済ます家がほとんどだが、夫がどこからか良い樹皮を持ち運んできた日から、ヒナは樹皮の表面を削り、内皮を新鮮な海水に晒し、更にまた余分な皮を削り……と、タパ布作りの準備を日々進めていたのだった。

 そして、ヒナの側で紫の染料を作る手伝いをしているのが、ホクレアの弟であるミルだった。幼い少年は手や腕どころか、体の前半分をほとんど紫に染めながら、先日兄が運んできたきのみを潰し、汁を石鉢に落とし込んでいた。

「おばちゃん、何かお手伝いある?」

 と、どことなく楽しげな声色で聞いてきたこのミルという子供にとって、今の行為は泥遊びか何かの延長でしかないのだろう、と、ヒナは薄らに思いながら、樹皮に木槌を打ち付ける音に意識を傾ける。

 子供。ヒナにとってそれは、あまり自らの中に留めておきたくない感情を想起させる存在だった。

 泣いてカプに縋るほど願った事もある。祈祷も薬も投げ出して、要らないと突っぱねた事もある。相反する感情は、寄せては返す波のようにヒナを翻弄し、今の彼女は最早疲れ果てていた。

 彼女の心が凪のような諦めの境地に至ってからは、波を荒立てるものからは、なるべく離れて暮らしてきた。調理場での哀れみの視線、陰口、言葉少なになった夫、村内を駆け回る子供の姿さえも目に入れないようにして生きてきた。

 そうしてようやく保っている、青く静かな心の縁に現れた子供達。夫に用があるらしく、一目散に作業場へ走っていった兄の方はともかく、一人にしておくわけにもいかず側に置いているこの小さな弟は、ちょっとした言動でヒナの凪いだ心を荒立てかねない。

――おじちゃん達、海神様のとこへ行くんだよね――

 少年がヒナの胸に投げ込んだ言葉は、思い起こすたびに心に不規則な波紋を起こし、ヒナはその揺らぎから逃れるように目を伏せ、規則正しく樹皮を打っていく。

 しかし、

「ねえ、おばちゃん」

 不意にミルに話しかけられ、ヒナは思わず木槌を取り落としそうになる。

「どうしたの」

 優しい作り声が不自然に聞こえないだろうか、などと思う自分を少し嫌に思いながら聞くと、幼子は紫色の両腕を高く伸ばしながら、

「僕、疲れちゃった。何かお話して」

 と、あどけない目で頼んでくる。

 ヒナは狼狽えた。子供が「お話」を欲しがるものだというのはヒナはよく知っていたし、その為にヒナの胸の内で何度も反芻されてきた物語、いつか自分達が子供を授かったなら話してやろうと思っていた「お話」が無いわけではないのだ。

 体の中でさざ波が立つのを感じた。目の前の子供は罪のない色の目を向け、待っている。

 戸惑いながらもヒナが語り始めたのは、子供のためというよりも、身の内の波を鎮めるためだった。


 遠い昔のことでした

 ポニの村の 腕のいい漁師の家に

 一人の 赤ん坊が生まれました

 赤ん坊は 手と足に 大きな水かきがあり

 まるで ゴルダックのようでした

 

 赤ん坊は 這うより先に 泳ぎを覚え

 赤ん坊は 歩くより先に 潜りを覚え

 アラエという名をもらう 五つの歳になると

 近くの島まで 泳いで 帰ってくるほどになりました


 大人達は アラエには 悪いものが ついていると 恐ろしがりました

 父親の 漁師も だんだん アラエの事が 怖くなりました

 なので 話し合って アラエを 海に 捨ててしまうことにしました

 

 漁師は アラエを 網で ぐるぐる巻きにして

 大人達は カヌーを漕いで アラエを 沖に連れていき

 海の底へ アラエを 投げ捨てて しまいました

 

 けれど 次の朝には アラエは 海から 上がってきて

 網には 大きな サメハダーを入れて

 「おおい 役に立つ獲物が取れたよ」と 漁師の家へ 帰ってきました


 大人達は 「海では だめだ」と アラエを 山に捨てることにしました

 オニドリルに アラエを 運ばせて

 大峡谷の 頂上に アラエを 置き去りにしました


 大峡谷の頂上で アラエは 困っていましたが

 突然 大雨が降って 大峡谷に 滝のような 流れが できたので

 アラエは 水かきの 足で どんどん 降りていきました


 次の朝には アラエは 大峡谷を 降りて

 背には 沢山の 枝を背負い

 「おおい 役に立つ木が採れたよ」と 漁師の家へ 帰ってきました

 

 アラエが 海で 捕まえた サメハダーの歯と

 アラエが 山で 採ってきた 枝で 釣り竿を作ると

 まるで 釣り針が 自分で 魚を 捕まえるように

 どんな魚も 簡単に 釣れました

 

 村の人達は アラエにした事を 謝り

 海神様の 使いだと言って 大層 崇めました

 

 語り終えるとヒナとミルは、今初めて出会ったかのように目を合わせ、瞬かせた。ヒナは無心に語る間に、自分の声でなく「遠い昔」の人々の後ろめたい囁き声、快活な異形の子供のはしゃぎ声、海のうねりや大峡谷に降る雨の音そのもので語っているような感覚を覚え、その感覚の一部はミルにも伝わっているようだった。

 ミルは不思議そうに自分の手を握り、広げた。乾いた染料が指の隙間からこぼれ落ちた。

「何で大人の人、捨てちゃったんだろうね? 最初から仲良くすれば、みんな魚いっぱい取れて、よかったのにね?」

 辿々しくも真っ直ぐな、それこそ幼子の歩みのような口調で、彼は何かを訴えたいようだった。下手な相槌を打つとその必死の歩みを止めてしまいそうで、ヒナはただ少年の声に耳を傾ける。

「僕がアラエだったら、魚いっぱい取って、母さんにあげたかった」

 ミルの拳は硬く握られ、紫の欠片が涙のように落ちる。ヒナはその語り口に違和感を覚え、次いで波が砕けるような衝撃とともに一つの推測に突き当たる。

 「あげたかった」と過去形で語られる母親は、もしや――

「海神様じゃなくて、僕が魚あげて元気にしてあげたかった……」

 少年の震える声も視線も、ただ水平線の先に向けられていた。

 聞くべきことや、言うべきことは、ヒナには最早無かった。できることがあるならば、それはただ、彼の心に限りなく打ち寄せる波に寄り添うことだけだった。

「お母さんがいなくて、寂しいね」

「……夜、怖いから帰ってきて欲しい……」

「海神様の所から、時々は帰ってきてくれるといいのにね」

「僕、ここにいたい。母さんがカプ様のとこにずっと一人になっちゃうの、やだ……」

 ミルはヒナの腕の中で、声を上げて泣き出した。ヒナは自分の服が紫色に染まるのも気にならず、やがて幼子が泣き疲れてぼんやりとなっても、ただその身を自分の腕に預けさせていた。


 空が橙に染まりだす頃には、充分に伸びて薄くなったタパ布が竿に干され、染料は石鉢の半分ほどを満たしていた。水で戻しながら使うので、この量でもかなりの部分を染められるだろう。

「おばちゃん、お手伝いが無くても来てもいい?」

 と、甘えたように頼むミルに笑顔で答えていると、家の方へ駆けてくる人影がある。

 痩せて背ばかりが高いその影を、ヒナはミルの兄だと思い、声をかけた。しかし、どうも様子が違う。

「マカリイと言います。すみません、息子たちがご迷惑を」

 低い声でそう言って頭を下げたのは、子供らの父親だったのだ。



「帆の方は順調か?」

 いつもより更に少し遅い夕餉の時に、ラタが聞く。その口調にあの独り言の調子はない。

「ええ、可愛い男の子が手伝ってくれましたから」

 ヒナの声も間を置かず返ってくる。

「うちに来たのは可愛いってか、なんというかだな……」

 脛の青あざを見せてラタが昼の事件を語ると、ヒナは声を上げて笑った。それはこの家で、いつから聞かれなくなったか分からない声だった。



 次の日、ラタとホクレアの姿は作業場にはなかった。

 二人が居るのは、大峡谷の底、月輪の祭壇へ続く隘路である。作業場へ来たホクレアに「教えておくべき事がある」と告げ、ラタが連れ出してきたのだった。

 少年はひっくり返りそうなほどに頭を反らし、偉大な大峡谷の天辺をどうにか見定めようとしている。ラタは凶暴な野生ポケモンがいないか、油断なく辺りを見回しながらホクレアの手を引き、歩を進めていた。

 二人は、二人だけでいるのではなかった。洞窟に差し掛かった辺りで、もう一人の付き添い人が指笛を吹くと、どこからかカイリキーが現れ、大岩をどけて道を作る。洞窟を抜けると後ろからまた、大岩を動かす重い音が聞こえた。

 静々と二人に付き従っているのは、この島の長、老いたポニの王である。


「見ろ」

 ラタが指差し、ホクレアに視線を促す先に、数本の木が生えていた。谷風が吹いても揺らがない真っ直ぐで太い幹と、先々まで豊かに葉を茂らせた枝。ホクレアはひと目見て、村の周辺に生えている木とは全く違うと分かったらしく、ラタのカヌーを見た時と同じ、淡いため息をついている。

 ラタは更に指を崖に向ける。一見ただの岩肌のようなそこには、崖の土と同じ色をした蔓草が縦横無尽に這い、暗い色の葉を密やかに揺らがせている。

 最後にラタは、谷底の一角を指差した。白く平らな断面を天に晒している切り株がそこにあった。初めからその状態でそこにあったかのように、その切り株は穏やかに太陽の光を円い切り口で受け止めていた。

「あれが、俺にカヌーと浮材、腕木、それから帆を与えてくれた木だ」

 ラタは言い、神妙に押し黙る。言葉を継いだのはポニの王だった。

「ここは、儂の許しが無いと入れぬ場所じゃ。この男は何としてもここに入らせてくれと、血の滲む手足をつき、儂を掴み殺さんばかりの形相で頼み込んできおった」

 老いた王は深くため息をつき、言う。

「この男の言う事が、長くこの島を見てきた儂には分かった。隣の島まで行ける程の良いカヌーを作れる木は、もうこの場所にしか無い、という事がな」

 だから許しを与えたのだと、谷底に吹く風を鎮めるような声で言う。


 少年は怯えたように数歩下がり、木々と大人達を交互に見た。

「何故、僕なんかにそんな、とても大切な事を教えるんですか」

「ホクレア、お前は聡い。それに強い。物事の良し悪しを見抜く目と考える頭、習い覚える意思がある」

 ラタは答えながら、切り株からホクレアへ視線を移す。そして少年の足元にかがみ、目線を合わせ、

「俺とお前は同じだと言ったな。それに応えたい」

 それは彼の、本心からの言葉だった。ホクレアは気圧されたように視線を狼狽えさせたが、やがては恐る恐るに頷いた。

 その様子を見ていたポニの王が、しわがれた声で話しだす。

「いつか、我が一族以外の誰かしらには、ここの事は教えてやらねばならなかった」

 王は続ける。アローラの四つの島を束ねた王朝が倒れて幾年月、今はもう祀る者のない月輪の祭壇を守るのはこの島の王家の役目だと。

「何故、王朝は倒れたのですか」

 少年が聞くと、王は一言

「狂うた、とだけ聞いておる」

 淡々と、返す。

「太陽と月、二本の笛を以て王子と王女が月神様を鎮めておった最中に、突如王女の姿が消え、王子に瓜二つの若者が現れた。それもすぐに消え、王女は戻ってきたが、それから王子は狂うた、と。大昔の事じゃて、嘘か誠かは知らぬ。だが、とにかく二本の笛は人の手の届かぬ場所に別々に祀られ、王朝は倒れた。確かなのはそれだけじゃ。ポニの王家と言っても、儂ら一族は、東と西に分かれていたポニの村を一つにまとめ上げた、というだけの事じゃからの」

 王は悲しげに笑い、谷の奥を向いた。いくらか茫漠とした声は、ラタやホクレアでなく、谷に吹く風や木々のざわめき、遠景に霞む祭壇に向けたもののようだった。

「我が妻は戦で斃れ、我が娘は未だ言葉もよう話さぬ歳じゃ。木は痩せ、地は削られ、水は通り過ぎるだけ。この島が人やポケモンを養っていく力はもうあまり残されておらぬ。儂はその力を少しでも永らえさせようとした。したのだが……」

 風が止んだ。王は言葉を切った。ラタは何か言いかけて、できなかった。

 再び風が三人の間を通り抜け、王はホクレアの方を向き、祈りに似た色を帯びた声で話しかける。

「儂も遠からず海神様に呼ばれる身じゃ。この男、いや、ラタの話から儂は、お前がこの島の萎えた力を取り戻せるだけの志を持つ若者だと見込んだのじゃ」

「できません」

 王の言に、少年はいよいよ怖気づいた様子を隠せなくなり、首を振る。

「今でも僕の家は父と弟と僕、それだけが食べていくのに精一杯なのに。僕はまだ子供だし、今すぐにこの島を良くするなんて、できません」

「いや、今すぐにではないが、できる。俺が教えよう」

 有無を言わさぬ声で割って入ったのは、ラタだった。

「お前は、この場所の木からカヌーを戴き、カヌーの浮材、カヌーと浮材を繋ぐ腕木、それら全てを結びつける縄もここの植物から戴くんだ。お前だけでは無理な事だから、家族には話していい。だが他言は絶対にするな」

 厳しく鋭い禁止の言葉に、ホクレアは身を空に貼り付けられたように硬直する。

 ラタは静かな声で続けた。

「そうして造ったお前のカヌーは、ウラウラから勝ち取った南の海まで走り、沢山の海の恵みを得るだろう。人々が不思議がったら、カヌーの良し悪しではなく、お前や家族の腕がいい、という事にして、なるべく皆に恵みを分けてやれ。その間に少しずつ、この谷の草木の種を大地に広めていくんだ。少しでもこの島が永らえるためには、この谷の草木が再びポニの大地に出ていかねばならんのだからな」

 努めて冷静に話しているはずのラタの口の中は熱く、舌は踊る火のようで、ラタ自身も驚くほどだった。ラタとて、このような細やかな計画が易易と成るとは思っていない。この島への恨みを糧にして身の内を蒸す、あの暗暗とした炎熱が無くなったわけでもない。

 しかし、ラタの身の内は、そうした炎熱の気持ちのみでできているのではなかった。この島から離れかけているラタの両目を「稲妻」がその奥底まで照らす瞬間があるように、熱した水底から生まれた泡が一直線に水上を目指すような、直向な希望への思いが立ち昇る瞬間が、無くなってしまったわけではなかったのだ。

 今、ホクレアに語られるラタの言葉は、空気に触れた途端に音を立てて気化せんばかりの純粋な熱気に満ち溢れ、それは謂わばラタの心の上澄みの部分ではあるのだが、それでも、心の内で滾っていた言葉を話す時は、こんなにも舌が熱くなるものなのか、と、ラタは吐息に言葉を乗せる度に思った。

「もう一つ大切なのは、近くの無人島からタマタマを捕まえてきて、この島で増やす事だ。昔はここにも多くいたらしいが、今ではほとんど無人島に移ってしまったらしい。タマタマはいつも六匹でいるから、一群を捕まえれば相当もつ」

 今ではホクレアも黒い瞳を星空のように輝かせ、ラタの語る計画に聞き入っていた。更に続けようとするラタを、しかし、王は手振りで制し、厳しい顔で視線を谷の奥へ促した。

 顔を上げたラタとホクレアの目に、陽光を浴びて金銀に光り輝く鱗を逆立て、鋭い目でこちらを睨みつける若い竜の姿が目に映る。

「ジャランゴだ!」

 叫ぶホクレアにラタが椰子殻を放り投げ、

「俺のケララッパを使え! 口笛を吹け!」

 胸でそれを受け取った少年が掠れた口笛を吹くと、椰子殻の小さな穴から白く細い光が放たれ、見る間にそれはケララッパの姿となって、角笛の鳴るような声を立てて宙に舞い上がった。

「どうすればいいですか?」

 戸惑ってはいたが、ホクレアの足は震えてはいなかった。ラタは指示を出す。

「見た目に惑わされるな、隙を見つけろ!」

 その一言で少年は理解したらしく、即座にケララッパに声をかけた。

「逆だってる鱗、あの隙間を突っつけ!」

 大啄木鳥は我が意を得たりといった風にバサリと竜の顔面に舞い降り、長い首とクチバシを以てその頭の後ろ、首筋、肩に光る鱗の裏側を容赦なく突いていく。

 首を振り、たまらない、と言うようにジャランゴが叫んだ。ケララッパが離れても、もう襲ってこようとはせず、その場にへたりと座り込んで、弱々しげに鳴いた。

 王がホクレアに、腰にぶら下げていた椰子殻の一つを差し出す。

「空だ。使うといい。お前に従うと言っている」

 勇気ある少年は椰子殻を手に、一歩一歩、輝く竜の方へ近づいていった。



「……『これはいい木だ、早速カヌーを作ろう』

斧を振り上げたヤクに向けて、オドリドリたちは声を揃えて言いました。

『その木はダメだよ、ヤク、その木がどんなにこの場所を離れたくないか、知らないのかい。どれだけの土と水をその根の中に掴んでいるか、知らないのかい』

『だって、漁に出るのにどうしたってカヌーが要るんだよ、どうすればいいんだい』

ヤクは苛立ち、オドリドリ達に向けて聞くと、オドリドリ達はまた言いました。

『ヤク、森の精にお供えをして、壊れないカヌー、外れない浮材、丈夫な腕木と縄を与えてくださいと言うんだ。そうしたら夢で教えよう、壊れないカヌー、外れない浮材、丈夫な腕木と縄をヤクにくれる木を』」

 低い木の作業台の上で、糊で貼り合わせた三角形のタパ布を染めながら、歌うようにヒナは物語る。ミルは家の入口にほど近い所で、焦がしたきのみで黒い染料を作りながら、それを聴いている。両手を叩き、煤を払う音さえ、ヒナの物語への合いの手のようだった。

「……次の日、ヤクは一本の木の前へ来て言いました。

『やあ、本当に君達は夢の中で教えてくれたね。

僕の夢に、鳥が止まっている木と、人が集っている木が出てきた。

鳥が止まっている木が森のものなら、人が集っている木は人のものだ。

今、夢に出てきた、人が集っていた木とそっくりな木が、目の前にある。

さあ、どうすればいいか教えてくれないか』」

 紫に染めた竹棒を、淡い茶色のタパ布にゆっくり、ゆっくり押し当てながら、ヒナはオドリドリの声で魂鎮めの呪文を歌い、染料を竹棒に塗りつける手つきは、オドリドリが魚のひれの翼で、海の果て、海神様の岸へ渡った魂を慰撫する時のそれになっている。

 物語の中でカヌーが出来上がり、沢山の果物や立派なケンタロスが森へ捧げられるくだりになると、ミルは黙りこくり、タパ布に波模様の跡が付けられていく様子を、石像のように畏まって見つめていた。

 やがてカヌーが出帆し、ヒナが全てを語り終えると、ミルは開口一番に

「今の話、お兄ちゃんに言っていい?」

 と聞いてくる。お兄ちゃんはカヌーが好きだから、と説明するミルに、ヒナは穏やかに笑いかけ、頷いた。

「カヌーって、作るの大変だったんだねえ」

 幼子は首を傾げ、

「だから、もうあんまり無いのかなあ」

 独りごちて、自分なりの解に達したのか、うんうんと頷く。ヒナはミルの言葉に相槌をうちながら、自ら語った物語をもう一度頭の中で反芻していたが、オドリドリの声で語った言葉を自らの言葉にし直していくうちに、やはり一つの解に辿り着く。

(きっと私達はもう、森のものも、人のものにしてしまった。それで全てが人のものになった? 違う。土も水も、もう森のものにも、人のものにもならずに流れていくだけ。人同士で奪い合っても、人の手では土も水も、木の根のようには掴めない)

 紫の波模様を見つめながらヒナは考える。いつから私達は、森のものを人のものにしてしまったのだろう? 私達はどうすればよかったのだろう? 森のものを掴み取る手を、減らしてしまうのは正しかったのだろうか? 

 思い悩むヒナの胸に、心が荒海のようだった頃には気に留める暇すらなかった様々な光景が、深海のあぶくのように湧き上がってきた。

 「すまない、今日はこれだけしか取れなかった」と、済まなそうに小さなケイコウオ二匹を差し出してきた夫。

 「お前の所には魚があるんだろう、出せ!」と夫の胸ぐらを掴み、目を血走らせて叫んだ若者。

 紫の帆を掲げて戦に向かう数十ものカヌー。傷ついて浜に帰り着く男や女、ポケモン達。

 海神様の元へ子をやってしまった母親の、空になった水桶のような虚ろな表情。

 誰も皆、苦しみもがいていたのだった。自分や家族が生きるために、この島が永らえるために、それぞれにできる事、するしかない事をしていたのだった。ヒナ一人では、誰がどうするのが正しかったのか、などという問いには答えられそうもなかった。

 では、自分はどうだろう? 改めてヒナは自身に思う。

 「石のドレディア」「旦那さんが可哀想」と哀れみめいた陰口を叩かれ、祈ったカプにも見放され、青く凪いだ心でただ海神様の岸へ辿り着く準備をする身の自分は、どうすれば良かったのだろう?

「おばちゃん」

 思考の迷路を彷徨っていたヒナを、無垢な声が呼び戻す。

「僕の母さんは、海神様に清めてもらって、病気も治ってお腹いっぱいで、幸せだって父さんが言ってたの、本当?」

 正直、ヒナは戸惑うしかなかった。何故唐突にそんな事を口走るのか、子供というものは分からない。けれどもこの子供の前では、ヒナは誠実でいたかった。

「本当かどうか、見た人はいないの。でも、お父さんがそう信じているなら、きっとお母さんは幸せにしているわ」

「そっか……海神様のとこに行くから、おばちゃんは知ってると思った」

 その言葉が、ヒナの胸に小さな波紋を作る。けれど、ヒナは今では、この子供の中では「海神様のとこに行く」と「死んで永遠に会えなくなる」の境目があやふやである事を知っているので、その境目をいたずらにかき乱さないよう、努めて平静を保った。

 すると、ミルは不意に、透明な雫を一滴ずつ垂らしたような瞳をヒナに向け、

「あのねおばちゃん、海神様のとこに行ったらね、海神様に、僕達の島の病気の人も治してくださいって言って。魚やカヌーもくださいって言って。そしたら海神様も、海神様のとこに来た人ばっかりじゃなくて、僕達の島の人も清めてくれると思うんだよ」

 それはとても懸命な頼み事だった。懸命故に、ヒナは答えに迷った。この島を守護する土地神は、人前に現れる事が滅多にない為に、普段は海のどこかに住まう、ひいては海の果ての「海神様の岸」に住まうとされているが、そのような言い伝えが真実である保証など、もちろんない。万一出会えた所で人の願いなど、聞き届けてくれるかも分からない。そして何よりも、死んだ者は生きた者に干渉することができない。

 こうした事を、ヒナはミルにどのように伝えるべきか分からないでいた。何しろ、ヒナはまだ、今ここに、生きているのだから。

 ――生きている。その事に思い至った時、ヒナの口から言葉がこぼれた。

「海神様はね、ご自身の所へ来られた魂を清めるのに精一杯で、生きている私達の所までは手が届かないんじゃないかしら」

 生きている。その言葉を口にすると、深海に沈んだ石のようだったヒナの心身に血が通ったように感じられた。

「だからね、生きている間の事は、生きている人が、どうにかしていくしかないの」

 自分は、生きている。それを実感した瞬間、ヒナの心は青い凪の海の底から一気に引き上げられた。オドリドリの翼を羽ばたかせ、歌いながら、太陽の光の中へ一直線に舞い上がっていく。島を見下ろし、大峡谷の天辺に舞い降りると、異形の子供になって、清らな流れの中をどこまでも駆け下りていく。

 カヌー造りを始めて子供達がやって来てから、見る間に夫の声に張りが出て、喋る事が付きなくなったのも、感じ方は違っても、似た景色を見ていたのだろう、とヒナは思った。

 私達は生きている。まだ、ここで!

 ヒナはその素晴らしい事をミルに伝えようとした。手も足もある。目も耳も、口も使える。踊ることも歌うことも物語ることも、樹皮から布を作り、カヌーの帆にすることだってできる。

「絵の具作ることも?」

 ミルは目を輝かす。思えばずっとこの子は、どこか遠く、海の果てを見ているような子供だったようにヒナは思う。兄と共に初めて家にやって来た日のきらきらした瞳も、あれは海の果てに魅入られた目だったのだと、今は思う。

 こんな幼い子が、そんな目をしたまま生きていってはいけないと、強く思いながらヒナは頷いた。そしてタパ布の向きを変え、釣り針を上下に二つ、背中合わせにしたような柄の、サメハダーの牙を表す文様の彫られた竹棒をミルに手渡す。

「黒の絵の具を付けて、私の模様のすぐ上に染めてみてごらん」

 ミルは染料を戻すための水で黒くなった手を清め、タパ布の端に、恐る恐る、初めての文様をつけた。柄がずれてしまわないように、慎重に次の場所に竹棒を押し当てる。ヒナはそれを見守りながら、もう一度、ヤクのカヌーの話を最初から物語り始めた。



 カヌー造りは順調に、そして賑やかに続いた。

 カヌーと浮材を彫り上げたラタは、作業所でパドルを造りながら、ホクレアとミルの父親、マカリイが切り出してきた丸太をカヌーにする為の手伝いをしていた。彼らなりの夢占いと祈りの儀式を経て選ばれた木は、素直でしなやかで、カヌーにすればとても良い速度の出そうなものだった。

「船体はもっと細く、本当に人の幅くらいにしてください。そうでないと浮材を付けても安定しません」

 壁越しにラタの指示が聞こえる外では、ジャランゴがその丈夫な手でラタの腕木や帆の添え木に樹脂を塗りつけ、ケララッパがくちばしで蔓草を細く割いている。

 家の方では、帆作りが進められていた。模様付けの作業は、根気よく、慎重に行われていた。日によってはミルが友達を連れてきて共にヒナの物語りに耳を傾け、また日によっては王が幼い娘を連れて顔を出し、感慨深げな表情で藤の花の文様を付けていく事さえあった。

 朝夕の食卓では、ラタとヒナの話が尽きることは最早無くなり、ヒナの方から話し始めることが多くなった。食べるものが無くても気にならない程に、二人は帆に入れる文様の案を熱心に話し合い、家に来たお客の話で盛り上がった。

 手漉きになったラタの手伝いもあり、二艘のカヌーはほぼ同時に、満月の日の前日に出来上がった。浜辺に二艘の船体が並べられ、王の立ち会いのもと、まずホクレアの家のカヌーから、本体と浮材、腕木を縄で結びつける作業が始まる。

 細く、長く、しっかりと綯った縄で、まず浮材と二本の腕木を結びつける。兄弟とヒナは腕木と浮材の端を支え持ち、ジャランゴとマカリイが腕木と浮材を抑えつけ、ケララッパは縄の端をくわえて張りを持たせ、ラタと王が幾重にも、幾重にも縄を結わえ付けていく。老いたポニの長は始終祈りの言葉を唱え続け、それ以外は誰一人、ポケモンでさえ声を上げなかった。

 浮材と腕木の接合が終わると、今度は腕木を船体に乗せ、船体に開けた穴と船底の梁に通した縄で固定して、これもまた厳重に結びつけていく。浮材と腕木を支え持つ事も、縄を結ぶ事も、老いた者、幼い者、人とポケモン、全員の力を結束しなければ不可能な事だった。

 次にラタのカヌーの各部分を同じように全員で結わえ付け、最後に、前方の腕木に、ギャラドスの尾びれのような三角に張った帆を結びつけ、ラタのカヌーは完成した。

 紫の波と白黒のサメハダーの牙で縁取られた三角形は、そのまま大峡谷を擁するポニ島を現している。紫の藤の花の文様が帆の添え木の根本側に散りばめられ、添え木のない斜辺には、黒地に白抜きのオドリドリの羽を交差させた文様、ジャラランガの鱗の文様が走っている。

 誰もがそのカヌーに見惚れ、ため息をついた。祈り終えた王が、ぽつりとこぼす。

「何と良いカヌーだろう。海神様に渡すのが惜しいくらいだ」

 王はそれ以上何も言わなかったが、そこにいる全員が――恐らく、ラタとヒナも――その続きの言葉を分かっていただろう。このカヌーを渡すのが惜しい、というのは、ラタとヒナを渡すのが惜しい、という事と同義なのだから。

 ラタは何か返答すべきかと思案したが、しかし、今この時に際して自分の言うべき事が、どうしても胸の内に見つからない。自分の心は、魂は、空気に触れれば溶けて消えてしまう言葉の中ではなく、確かな形を持って今目の前にあるカヌーに宿っているような気がしていた。

 ラタはヒナを見た。夕陽に染まる瞳と頬は、朝焼けのような色に見えた。その中に、ヒナと同じような顔をしている自分が映っていた。

 

 ジャランゴとケララッパをカヌーの見張りにつけ、ラタとヒナが家に帰ろうとすると、晴れやかな静寂に耐えかねたような声が二人を呼ぶ。立ち止まり振り返ると、そこにマカリイが立っていた。

「何か御用ですか」

 ヒナは聞く。痩せた父親は、子供達が浜辺で波と遊ぶのをちらと見てから、

「あなた方を見ていると、私は恥ずかしくなります。あなた方は、死に際しても、こんなにも堂々としている。カヌーにもあなた方の精神が現れている」

 死、という言葉を投げ入れられたヒナの心は、不規則に波立った。しかしその言葉には前のように、ヒナの体をも翻弄するような力は最早ない、という事に、彼女は気づいた。

「私のした事は正しかったのか、あの子らを見るたびに考えています。私は病気の妻を、あの子らの母親を海神様にやってしまいました。私が妻を死なせたのです」

 マカリイの細い体は、この島の平原に生える木のように頼りなく震えていた。

「妻が納得していたのか、子供らが納得していたのか、私には分からない。でも私にはそうするしかなかった……あなた方のように潔く運命を受け入れることが、私にはどうしてもできなかったのです」

「違いますよ」

 反射的にヒナはそう言っていた。この父親の言葉には、ヒナの心を波立たせるものが確かにある。けれど、その波はヒナの今立っている場所をより強固にする波だった。

「私達は、潔く諦めた気持ちで、このカヌーを作ったのではありません。最初はそうだったかもしれませんが、今は違います」

 マカリイは困惑した顔をした。ヒナ自身、自分の言う事はまるで支離滅裂に聞こえるだろう、と思いながら話していた。それでも、それが今のヒナの、心から思うところなのだ。

「潔く諦めていたなら、帆ではなく、旗にしたでしょう。夫はわざわざ王の守る地まで木や蔦を採りにいかなかったでしょう。カヌーを造るうちに私達は気づいたのです。私達も、死に抗いながら、生きる事の意味に苦しみながら、このカヌーを造っていたのだと。だから私達は、あなたや、あなたの子供達と同じなんです」

 それなら、とマカリイは言う。

「なぜ、カヌーを造ることを止めなかったのですか」

 ヒナは、ずっと黙って側にいた夫の方を見た。先程の王の言葉ぶりからすれば、今、ラタが一言「止める」と言えば、明日の航海にも出ずに済むだろう。だが、彼はそうするだろうか? 更に言えば、カヌー造りを止める、という選択肢が、彼やヒナ自身の中にあっただろうか?

 ラタはカヌーを見、マカリイを見た。そして言った。

「私は自分の生きる意味が分からずにいました。生きる事を半分投げ出していたようなものです。変な話ですが、カヌーを造り始めてから分かったのです。自分はまだ、この島や人と共に生きている、自分にはまだ、この島を永らえさせ、人に伝えるべき事があると。あのカヌーは、私達の生の象徴なのです」

 ラタはマカリイの手を取り、深く頭を下げ、

「そして、その事に気づかせてくれたのは、あなたの息子達なのです。あの子達に教えるうちに、私達は私達の生を取り戻したのです。友達よ、ありがとう」

 顔を上げた時にマカリイは、見知らぬきのみを食べたような、何とも言えない顔をしていた。後方で二艘のカヌーが出帆を静かに待ち、ジャランゴやケララッパは子供達と戯れている。

 ラタの目鼻から喉の奥まで、突き抜けるものがあった。久しく覚えない感覚だったが、こうも鮮烈ではなくとも、似たような感覚は、ホクレア達とカヌーを造り始めてからずっと心のどこかにあったような思いがあり、今ではその感覚に名前を付けることも、ラタはできた。

 郷愁。ラタは心身をこの島から半ば離しながらも、ずっとこの島に惹かれ続けていたのだ。


 その夜の会話は長く長く続いた。自分達が使い込んできたテーブルや小刀、タパ布作りの道具の話、マカリイの家の人々の話からこの村の、この島の未来の話まで。

 お互いの事について話したのは、話の終わる頃のほんの一時だった。

 ヒナはラタの頬を撫で、

「変な話だけど、今、あなたが怖くない」

 小さな声で、そう囁いた。

「あなたはずっと、目を向けた者を射殺してしまいそうな、真昼の太陽のような瞳をしていた。今はそうじゃない。今のあなたの目は、曇ったり雨が降ったり、時には虹がかかったりもする、空の色に見える」

「俺も、お前が遠くない」

 ラタはヒナを見つめ、返す。

「お前の目はずっと、海の底の水のように届かないところにあって、ずっとそこから動かない目だった。今のお前の目は、波だ。一時も静まっている時がないのに、不思議と安らぐ、ずっと見ていたくなる目だ」

 そしてラタは妻に口付けて、その身を強く抱き寄せた。夜風の音がラタの背を掠めていった。



 次の朝陽が登る頃、二人の目を覚まさせたのは、ケララッパのけたたましい鳴き声だった。

 気怠げに身を起こしたラタの頭を容赦なく小突き回し、大啄木鳥は主を外へ誘おうとする。

 身支度をし、ケララッパに先導されるままに浜へ出たラタの目に、紫の帆を掲げたカヌーが映る。しかし、その向こうにあったはずのもう一艘のカヌーが見当たらない。見張りに付けたはずのジャランゴの姿もどこにもなかった。

(盗まれたか?!)

 ラタは焦り、自分の浅はかさを呪った。カヌーの木材やジャランゴの鱗を狙う住民が、いないわけでは決してないのだ。

 が、海岸伝いに走ってくる親子の姿を見て、そうでない事はすぐに判明した。その家に二人いるはずの兄弟のうちの一人の姿が、ない。青い顔の父親よりも先に浜にたどり着いた幼い男の子は、息を絶やす暇もないほどの声でラタに訴えかける。

「お兄ちゃんがいなくなった! おしっこ行くって言って、そのままどっか行っちゃった!」


 後から身支度を整え、慌てて出てきたヒナと、息を切らして走ってきたマカリイが場に揃い、ラタはホクレアの行き先の見当をつけた、と、水平線に霞む島影を見ながら話しだす。

「恐らくは……あの子は、あの無人島に行ったんだと思います」

「そんな! あんな小さい子が一人でカヌーを漕げるわけがない。まして、船影も見当たらないほどの速さでなんて」

「ジャランゴも共犯なのではないかと、俺は考えています」

 ラタは肩に止まった相棒に顔を向け、

「ケララッパ、お前が俺を起こしに行く前に、マカリイさんの家に向かったか?」

 と聞くと、大啄木鳥はバサリと飛んでマカリイの肩に乗り、また戻ってきた。

「ケララッパ、まだ空が暗い時に来たよ」

 早口でミルが言い、ラタは、やはりか、と頷く。

「恐らくケララッパは、ホクレアとジャランゴがカヌーを海に運び、漕ぎ出したのを見て、まずマカリイさんの家へ行き、それから私達の家に来たのでしょう。浜に近い私達と、東に住むマカリイさん達が同じ頃に浜に着いたのも説明がつきます」

 ケララッパはホクレアのカヌーのあった辺りに立ち、羽をばたつかせて不満気なしゃがれ声をあげた。自分は止めたのだ、と言いたいらしかった。

「でも、ジャランゴにカヌーを漕ぐような器用な真似ができるんでしょうか。それに彼らは、絆を結んでまだ間もないのに」

「それはそうですが、でもそうとでも考えないと説明がつかない。ヒナ、王を呼んできてくれ」

 ヒナが王の屋敷に向けて走り出したのを目の端で追うラタに、マカリイは不安を隠せない声で聞く。

「だとしても一体何故、息子はそんな事をしでかしたのでしょう。こんな大切な日に……」

 声は、ラタに済まない、という色を含んで砂の上に落ちた。しかしラタの方でも、それは同じ思いだった。

「……私は、前に彼に言ったことがあるのです。この島と村が永らえるために、あの無人島に済むタマタマが必要だと。彼はそれをずっと覚えていたんだと思います。この日に出ていったのも、私達がまだここにいるうちに、という思いがあったのではないかと」

 自分の言のために友人の息子が命を落としたとあっては、何を以てしても償いようがない。ラタはヒナが王を連れてくるのを、一秒が一年に感じられる思いで待った。

 やがて、王の肩を支えるようにしてヒナが岸沿いの道を歩いてくると、ラタは待ちかねて王の元へ走り、

「子供が――マカリイの息子、ホクレアがいなくなりました。恐らくはあの無人島に向かったのだと思います。私達のカヌーで探しに行き、連れ戻す許しを頂きたい」

 海神様の元へ向かう紫の帆を張ったカヌーは、他の事に使ってはいけないと決められている。が、今はそんな決まり事に拘っている暇はなかった。

「祈りの儀式はどうする」

 重々しく、王が問うた。が、ラタは声を荒げ、

「あれは海神様の岸へ行く者へ向けた祈りです! 私達はまだ生きている! あの子達を助けに行く! 祈りの声があるならば、私があの子を呼ぶ声だ!」

 雷のようなその声に王は身をすくめ、あちこちの家からは騒ぎを聞きつけた人々が集まり始めていた。

 ラタはヒナを呼び、カヌーの元へ走る。渾身の力で浜から海へカヌーを押し、波に乗ると、帆の上に止まっていたケララッパが角笛の声で鳴いた。その声を合図に二人はパドルを波に差す。

「1、2、3、4、5、ハップ、ホー!」

 前に座るラタの掛け声でパドルを持ち替え、反対側の波をかいていく。波を一つ超える毎に自分達の体がひとの形を失い、ふたり、という単位すら失い、ただカヌーと一体となった流線型と化して前へ前へ進んでいくような感覚をラタは微かに覚える。浮材が波を切り裂く感覚が左手の先にあり、ばらばらの水滴が後方に散る音も、帆が風を孕んで吠える声も一瞬で遥か後方に置き去りになる。

 五つ数えずとも二本のパドルが完全に波を捉えだした時、ラタは波に烟る島影に向けて叫んだ。

「ホクレア、どこにいるんだ! 帰ってこい!!」

 返事があった。島影の方からではなく、真上から、角笛の声。

 ケララッパの目が何かを捉えたのだ。数えるテンポを落としながら、ラタは遥か前方を見据える。

 帆のない船影が揺れていた。前には人が、後ろには人でない何かがいる。何かはカヌーを漕げないでいるようだった。それどころか、船上にいる別の何かから身を守るのに必死のようだった。

 島の方で何か稲光のようなものが小さく走り、しばらくして波が不規則に揺れる。

(本当にタマタマを獲ってきたのか)

 カヌーはそのせいで、船上のタマタマと島に住むナッシーから攻撃を受けているようだった。この状態で荒波が来ればいとも簡単に乗組員は海に投げ出されるだろう。そうなれば――

「海神よ、カプ・レヒレよ! あの子供の命をやるとは、誰も約束していない! ならばあの子を、父親の元へ返しなさい!」

 後ろから、波を割り開くような声があった。それと同時にラタは何も見えなくなった。



 濃い霧の中でラタが始めに見たのは、カヌーの下を走る魚影のようなものだった。魚影にしては大きいそれは、ラタの目の前で波から飛び出し、紫の殻に収まった赤子のような姿を露わにする。それが何と呼ばれる存在なのか、ポニの島に住む者なら知らない者はいなかった。

「海神、様……」

「カプ・レヒレ……!」

 二人はほぼ同時に声にならない声をあげていた。

「海神様、あの子を、ホクレアを返してください」

 ラタはカヌーから立ち上がらんばかりに叫んだ。海神はどこか遠くを見るような表情を変えずに体の向きだけを変え、ひらひらとした水かきの手、異形のアラエのような手で霧の向こうに向けて手招きをする。

 波が起きた。向こうから、こちらへ。何かを引き寄せるような波がラタのカヌーの先端で、見えない線がそこにあるかのように、止まる。海の上のはずなのに波が一切起きていないことに、ラタはその時気づいた。

 海神は更に何度か手招きした。波というより、海そのものが意思を持って、何かを引っ張ってくる。向こうから、こちらへ。

 唐突に帆のないカヌーがラタの目の前に現れた。海神は霧の中に浮いたままカヌーを避け、二艘のカヌーは互い違いの方向を向いて隣り合い、止まった。

「ラタさん、ヒナさん!!」

 座席から飛び出しそうな勢いで子供の声が叫ぶ。ラタの目にはまず隣り合うジャランゴが、穏やかに眠るタマタマの一群を膝に、そしてどうやらもう一群を足元に、懸命に抱えこんでいるらしい姿が映った。

 ラタは振り向いた。日に焼けた体のあちこちに傷を作った、勇気ある少年の、輝く朝陽の笑顔がそこにあった。しかし岸に辿り着くまでは、それは蛮勇と言って差し支えないな、岸に戻ったらまず何を言ってやろうか、とラタが考えていると、急にカヌーの先端が、ぐい、と左に引っ張られる。ラタの目の端に海神、カプ・レヒレの姿が映った。


――ひとよ


 海を覆っている霧のように捉え所のない声が頭の中に響く。


――ひとは、ぎしきをして、わたしのきしに、たましいをよこす。もうよいものは、ひきうけるけれど、まだはやいものは、おしもどす。ひとたちのきしへ、なみにのせて


 声に気を取られているうち、海神の姿は消えていた。そして後ろから確かに、力強く押された感覚があり、二艘のカヌーは勢い良く前へ、前へ、運ばれていった。



 カヌーの底が砂を捉えた、と同時に、見慣れた景色、ポニの村と大峡谷が全く突然に目の前に現れた。耳が破裂したかのように四方八方から歓声が飛び込み、駆け寄る人々で周りが見えなくなる。ジャランゴの抱え込んでいたタマタマの群れは一斉にカヌーから飛び出し、人々の足の間を転がっていった。

「海神様に会ったんだね!」

「あの霧は海神様のものだろう。本当にいらしたんだ!」

 カヌーを降りた少年と竜、壮年の夫婦に向け、村の人々は口々にそんな事を言った。拝みだす者までいた。

 幼子を連れた父親が歩み出て、勇気ある友人夫婦に、息子の相棒である竜に、そして傷だらけの息子に長い長い抱擁をした。それが終わるとホクレアは、ラタの胸に飛び込むようにして思い切り抱きついた。

「ラタさん、僕、やったよ! 一人でもできたよ!」

「一人じゃない、ジャランゴとだろう。お前は、本当に……」

 山ほど考えていた叱責の言葉も、激励の言葉も、喉につまって出てこなかった。代わりにラタはホクレアの傷だらけの体を強く抱きしめ、これまでのありとあらゆる思いを伝えるように額を合わせ、そっと砂の上に降ろした。

「ねえ、おばちゃん、海神様に会ったの? 」

 父親の足元から、幼子が聞く。「おばちゃん」はにっこり笑って膝をかがめ、

「ええ、海神様は、私の思った通りのお方だったわ。お兄ちゃんを戻してくれたのが、何よりの証拠でしょう」

 だからあなたも、一生懸命に生きていきなさい、と、花びらのような耳に向けて囁いた。


 砂を踏み、砂を踏み、老いた王が、ポニの長がラタとヒナに近づいてくる。さく、さく、とした音に割られるように人々が後ずさり、そうしてできた道を王は歩み、しわがれた声で聞く。

「海神様に会ったのか。何ぞ言うておったのか」

 ラタはなるたけ淡々と、海神の声のあの捉え所のなさ、霧そのものの無形さを壊してしまわないように、カプの言葉を繰り返す。

「ひとは、ぎしきをして、わたしのきしに、たましいをよこす。もうよいものは、ひきうけるけれど、まだはやいものは、おしもどす。ひとたちのきしへ、なみにのせて」

 さざ波のようなざわめきが一瞬浜辺に巻き起こり、しんとなった。王は長いこと目を瞑っていた。波の音を聴いているのだとラタは思った。

 目を開き、王は問う。

「して、押し戻されたか」

「儀式をしていないからだと思いますが」

「そうか」

 王は苦しげに黙り込み、そしてまた沈黙があった。長い長い沈黙があった。

「儀式をせずとも、海神様の元へ行くと言い、そして押し戻されたなら」

 再びの王の声は、砂に沈むような響きで呻く。

「それは、まだはやい、という事ではないのか」

 漁の神、ダダリン様の錨のような重い声は、ラタとヒナをこの地に留めようとする。その重みに引きずられ、二人は一瞬、この村で子供らや老人の話相手をし、囁かれる陰口やら噂話やらを風のように受け流しながら、穏やかに老いていく未来を幻視した。二人の造り上げた紫の帆のカヌーは意味を取り上げられ、ただ朽ちるに任せられるであろう未来の景色だった。

 まだ帆の上に突っ立っていたらしい大啄木鳥が、波音の真似で鳴いた。砂を木の台の上に散らばらせたようにしか聞こえないその声は、ラタとヒナの目を海へ向かわせた。

 二人の目に、初めて見る波が映った。波は生まれたての赤ん坊の肌のようにやわやわと光り、触れたものを触れるに任せるような、あるかなきかの無垢な揺れが、水平線の彼方までどこまでも続いていた。

 二人は目を見合わせ、静かに頷いた。

「やはり、私達は行きます」

 ラタは穏やかで揺るぎない、決意の声を放つ。

「全てを終えた今、私は、初めて、カプに呼ばれている、という気がするのです。それが海神様の岸に行くことなのか、どこかの岸に流れ着くことなのかは分かりませんが、とにかく、あの舟を出せ、と言われているような気がするのです」

「私はもう、自分の中にある物語を、すっかり子供達に語り尽くしてしまいました」

 ヒナがしなやかな声で言葉を継ぐ。

「私の魂はあの帆に染み込み、もう引き離すことができません。あのカヌーを造り上げる事で私の魂は戻り、あのカヌーを取り上げられた時に、私は死ぬのだと思います」

 ヒナの、ハラの葉で編まれたスカートが翻り、「おばちゃん」は、十代の少女に戻ったような軽やかさでカヌーの元へ走っていく。ラタは王に向けて深く一礼したかと思うと、あっという間に妻を追い越し、カヌーの先端を海へ押し戻し始めた。

 やがて二人と大啄木鳥を乗せた、紫の帆をぴんと張ったカヌーは、

「1、2、3、4、5、ハップ、ホー!」

 意気揚々の掛け声とともに速度を増し、陸にいる者たちの目からは、どこかに引き寄せられているのか、何かに押されているのか、判断のつかないままに、水平線の彼方へ消えてしまった。



 火の消えたような海岸で、誰もが動けずにいた。王は振り返り、自らの率いる民を見た。大人とも子供ともつかぬ、痩せた人々の群れに向けて、ポニの主は崩れ落ちるように膝をつき、頭を下げた。

「すまない。儂はこの島を少しでも永らえさせようとしたが、やり方が間違っていた。カプに頂いた二つの平原やダダリン様のおわす浜を顧みず、南の海の恵みへ手を伸ばし、いたずらに島を荒らし、多くの命をカプに引き受けさせてしまった。カヌーに乗って出ていくべきはあの者たちでない、儂の方じゃ」

 頭を上げた王の目を一瞬、強烈な光が貫きかけ、王は太陽から目を逸らすように顔を背けた。次に頭を上げた時、その光はもうなかったが、光の源は目に入った。傷だらけの少年の両の手のひらに、ホクラニ岳の山頂付近で採れるという鋼を上等な絹で磨き上げたような、光輝く石が大切に乗せられていた。

「お前、そんなものどこで見つけたんだ」

「カヌーの間にあったみたい。いつからあったかは分かんないけど」

「お兄ちゃん、僕もそれ触りたい!」

 王は立ち上がり、震える声で、何も知らないらしき親子に告げる。それは伝承に残りし宝、カプに選ばれ、力を認められた証の石に違いないと。

「儂は多くの命をカプに引き受けさせたが、ついにその姿を見ることも叶わなんだ。お主がその石を授かったという事は、あの海へ出た者たちの意思が正しかった、という事に他ならぬ。やはり儂は、海神様に我が身を引き受けさせなければならぬ」

「いえ、それは違います、王」

 王の言を止めたのは、輝く石の持ち主の父親、海へ出た者たちからマカリイと呼ばれていた男だった。

「一番愚かなことは、間違っていると分かったことを、もう一度繰り返すことです。私も妻を海神様に引き受けさせた身です。背負った過ちは同じなのです。ならば二度とそのような過ちを繰り返さぬよう、生きている我々が苦しみ、もがきながら、新たな道を探るべきではないでしょうか。その為に、王よ、貴方には、生きて私達を導いてほしいのです」

「まだ、儂に生きよと申すか」

 マカリイの真摯な言に、しかし、王は首を振ったが、

「ねえねえ」

 無邪気な声が自然、王の視線をそちらへ向ける。

「トロミロちゃんは、お家にいるの?」

 トロミロ。その名を聞いた途端、老いた王の耳から潮騒が遠のいた。ミル、と呼ばれていた幼子が口にしたその名は、王の独り子、まだ言葉も話さぬ歳の娘の名であったのだ。

「帰ってあげないと、可哀想じゃない?」

 王の脳裏に、竹籠に収まった一人娘の朗らかな笑顔が浮かんだ。耳をくすぐるような笑い声を思い出すと、王を手招いていた潮騒の残響は幻のようにかき消えた。

 ああ、と王は嘆息する。生きねばならぬ。儂はまだこの島で生き、子供らに教えねばならぬ、と、震える拳を開いてマカリイの手を取ると、人々の間に再び、波打つような歓声が上がった。


「おじちゃんたち、海神様のとこに行っちゃったね」

 カヌーが波に運ばれた跡を見つめ、ミルが言う。

「そうじゃないよ」

 ホクレアは朝陽に鱗を煌めかせる竜と隣り合い、輝く石をその右手に握りしめ、きっぱりと言った。

「上手く言えないけど、本当にカプに選ばれたのは、きっとラタさん達なんだよ。だから、海神様は、海神様の岸じゃなくて、どこまでもどこまでも、波が続く限りに、ラタさん達のカヌーを押していってくれるんだと思う」

「何にしても」

 父親の、柔らかい声が二人と一匹を上から包み込み、

「今、カプに選ばれた証を手にしているのはホクレア、お前だ。ジャランゴはお前の伴、ミルと私は、お前の家族だ。私達はカプに、カプの元に行った母さんに、そして、この島に恥ずかしくない生き方をしなければね」

 二人の子供は、はい、と元気よく答えた。そして彼らは漁の準備をするために、家へ帰っていった。岸辺の通り道に、ジャランゴの鱗が賑やかに鳴り響いた。

 


 ポニの村は 助け合いながら 細やかに 続いていった

 紫の帆のカヌーは もう 出ていくことはなかった

 

 時が経つうち マカリイの家と王の家は やがて 一つになった

 時が経つうち 他の島へ 出ていく人々が現れたが

 王家は それを止めなかった。

 止めない代わりに 王家の人々は 出ていく人々に

 知りうる限りの物語や儀式 生きていくための智慧を教えた

 人が減るうち ポニの島は 木々や緑に覆われ

 人が減るうち ポニの村の家は 土壁は土に 草葺の屋根は草原に戻り

 ポニの王家は いつまでも ポニの大地に 留まり続けた

 

 時が経つうち 船を率いて ポニの島に 立ち寄る人々が現れ

 時が経つうち ポケモンを連れ ポニの島で 己を鍛える人々もやって来た

 長く時が経つうち かつてこの島にあり 半ば意味を失いかけた 伝説や 儀式や

 姿を消した人々の かつての暮らしについて 訪ねてくる人の姿もあり

 長く時が経つうち 訪れた人々によって

 新たな建物が建ち 新たな秩序が生まれ始めた


 ポニの村が 無くなっても ポニの島は 今も 生きている

 豊かな自然の中に 息づく伝統と いくつもの伝説 新たな始まりの予感を秘め

 訪れる人を 今も 待ち受けている

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。