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「Axis」(作者:はやめさん)

 同時に目配せし、笛の穴に十本指を預ける。

 硬くも独りでに馴染むそれは、耳底で響かせていたメロディを奏で出す。仰げば美しい月光が満ち満ちて。躍る心と訪れる試練への緊張、両方の糸を編んだ。指先の芯へと血流が脈動し、一音一音を過ちなく紡ぎ出す。

 四方に囲まれた床が輝きを帯び、水源から漲るとでも錯覚させる光の流れは合一し、月の紋章を抉じ開けた。自分たちの行動が何をもたらしたのか見逃すまいと構える。射出されるエネルギーに反応し揺れるバッグ――正確には中で眠るポケモン――は、やがて強大な風圧によって攫われた。

 飛んで行くバッグに手を伸ばしながらも、為すすべなく一部始終を見守るのみ。リーリエは瞬きと共に、口を僅かに開いて、コスモウムに宿る月と太陽の力が限界まで増していくのを肌で感じる。堪え切れない光が祭壇から望める空を白一面に塗りつぶす。

 飛翔する輪郭に変わらない親しみと、大いなる威厳を見た。

 二枚の翼を暗夜に羽ばたかせ、祭壇の上に舞い降りた。ミヅキとリーリエは笛を取りこぼしそうになりながらも駆け寄り、率直な驚きの第一声をかける。

「ルナアーラさん……。ううん、ほしぐもちゃん。わたし母様に会いたい」

「待ってくれ」

 衣服に幾多の切り込みを入れ、孤高を中で育んできたような青年が、待ったをかけた。

 もうひとり、アローラの誰も拒まない自然を持ち合わせたような少年が駆け登って来る。

「グラジオ、それにハウまで!」

「いつも大事な時にいない兄じゃ示しがつかない。だから来た。エーテルはビッケが引き受けてくれている。オレとヌルは、何かあれば、おまえたちの力にもなれるはずだ」

「おれもね、気になっちゃって」

「ふたりとも……ありがとう」

 出会った頃ならば、腕を掴んで振り回すほど直情的だったミヅキも、今やはにかむのみ。

「みんながいてくれる……わたし、もう怖くありません」

 決意は揺るがない。島巡りで得た、一様には表せない縁によって結び付けられた者たち。想いを代表して月の使徒に告げる。

「ルナアーラさん、連れて行って。ウルトラスペースへ!」

 静寂を切り裂き、アローラの宙に亀裂を入れる金切り声は、この世ならざるものだ。しかし、コスモッグからコスモウムと一緒に旅した記憶は色褪せない。全員の願いに応え、未知なる世界の中継点・ウルトラホールを開き、飛び立つ。切り裂く風だけを遺して――。



 辿り着いた場所への疑問を器に注げば、滔々と溢れて行きそうだ。

 重力世界への叛逆が繰り広げられている。宙という名の波間を、河川に表面だけ浮かぶ岩のように途切れ途切れで統一感なく、小島がばらばらに漂う。

 薄暗く不安定で、行き先の見えない世界。ルザミーネらがいるとは、俄かに信じがたい。この世界をデザインしたものは未完成の美を完成としたに違いない。

 一歩進んだ。神経という神経が敏感に作用し、五感を素早く稼働させる。翼と似ても似つかぬ尾あるいは触手を、風も吹かぬ世界に靡かせる――影。通り過ぎるだけで、自身の影を掴まれ、突き刺す悪寒が走り抜ける。ルナアーラの威光とは異なるが、近しい息吹を感じさせる。ポケモンが畏怖の象徴であるならば、今の影は証明に成り得るだろう。

「単独行動は禁止だ。全員で進むぞ」

 グラジオがひとまずの指揮を執る様は、前回の潜入と変わらない。

 エーテルパラダイスでの出来事を思い返すたび、夢心地に囚われる。


 ――アローラは土着のコミュニティと直結している故に穏やかな地方だ。何故、別世界に籠る必要があるのか、カントーから来た少女の子ども心には理解し難かった。

 島巡りという試練に何ら疑問を抱かず、大人が舗装してくれる道に沿って歩いていれば、社会が認める資格の保持者として扱われる。血と等価値で通う島独特のメカニズムをごく当たり前に受け取り、満足していたからこそ、スカル団やルザミーネの存在は忘れようもない衝撃をもたらした。

 実際は悶々として、どこか割り切れない想いを抱えたまま、答えもなく、目的が呼ぶままに殿堂の間へと向かい続けているわけだが。

 チャンピオンになりたいと思ったらチャンピオンになる。元々ミヅキは感情で動くタイプで、論理的結論を導くことが大の苦手である。それでも心に引っ掛かった小骨がいつまでもつっかえてとれないのは、何故だろう。性に合わず、ずっと考え込んでいた。

「ミヅキちゃん?」

 ああ、と顔を上げる。リーリエはポニ島上陸以降、自分を「ちゃん」付けで呼ぶようになった。そうお願いしたのだ。いつまでも「さん」だとくすぐったいから。

「あはは。だいじょぶ、だいじょぶ」

 手の平をだらしなく振り、気の抜けた返事をする。

「しっかりしろ。おまえがそんなんじゃ、こっちも調子が狂う」

 常に生真面目な調子を崩さない男、グラジオだ。ミヅキはこの青年から果たしてどういう風に認識されているのか、時折甚だ疑問になる。

「……分からないの。ほしぐもちゃんが進化したり、別世界に来たりと、色々ありすぎて」

 ミヅキだけが抱える問題ではない。子どもの浅知恵で苦難を突破してきた。ひと夏の冒険というには、枠を出過ぎている。理解が及ばないことを責める者は誰もいない。しかし、世界の奥深くまで踏み込み過ぎてしまった以上は、より深く入り込まねばならない。

「それはそうと。グラジオ、もうちょっと優しく扱ってよね」

「冗談言ってられるのは今の内だぜ」

「冗談じゃないってば!」

「ミヅキ、ちょっと回復したね」

 ハウの突っ込みに気恥ずかしさを浮かべつつ、虚無に向かうだけの笑いが咲いた。

 

 

 妖精たちは逃げ惑う。

 この世ならざる場所で、神の産物には程遠い造形をした生命体に追われていた。

 切り立った崖の天辺に足を伸ばし、光源を見つめる四つのまなざしは人間のものだ。マフラーを首に巻き、ニット帽を被り、赤いコートを着込んだ少女は、同伴者であろう黒衣の女性に語りかける。

「シロナさん。あれって――」

「エムリット、アグノム、ユクシーね。それと……」

「ポケモン、でしょうか」

「それじゃ、確かめに行きましょうか。ヒカリちゃん」

「はい」

 シロナと呼ばれた女性は、颯爽と死に向かって飛び降りる。

 豪気な自殺ではない。生を見据えた進撃だ。

 一周の偵察に向かわせていたポケモンが、まもなく彼女を拾い上げ、背に乗せた。

 一秒でも間違えば大惨事につながるというのに。迷宮での灯に映る。

「トゲキッス、わたしたちも行こう」

 フェアリーの魔術に包まれた体が粒子によって運ばれる。超念力さながらの浮遊は、シロナが愛してやまない相棒・ガブリアスの芸当に劣らない。

 シンオウの神と謳われたポケモンが三原色の如く収束し、放射状の攻撃をやり過ごす。再度散り散りとなって、三箇所に隔たれた。

 代わりに別世界の住民が迎え撃つのは、新たに紛れ込んだ闖入者だ。

「今の攻撃、パワージェムかもしれません」

「さすがっ!」

 弧と鋭角の軌道を自在に使い分けるガブリアス越しに、シロナが称賛の声をあげる。

 ポケモンの構え・予備動作・間に注目することで、次に放つ攻撃を予測可能にする。最初は遊び半分だったが、幼馴染と練習している内に会得した特技だ。普段は自分を表現することが苦手で、服の虚飾に頼ってしまうほど引っ込み思案なヒカリ。しかし、バトルにおいては天性の才能を発揮する。シンオウ内で誉れを得るトレーナーと最前線での共闘が叶うのは、大事に巻き込まれるだけの実力を有した証。

 眼下の怪物を鑑賞と洒落こむ暇はない。幸い、敵への注目が反撃に繋がるのだったが。少女のような外見とは裏腹に、触手を震わせ威嚇してくる。

 硝子細工で出来た帽子を彷彿とさせる頭部がきらめき、星々を瞬かせる。

「シロナさん! 来ます」

「ダブルチョップ!」

「マジカルシャイン!」

 初動から発動までの隙がほとんどない。相当な反応速度だ。

 ガブリアスの皮膚に光弾が掠め、焼け付く。怒号と共に振り下ろされる鎌の一発目が手痛く刺さる。チョップの洗礼に怯んだところで、すかさずこの世界から最も縁遠いであろう聖なる光を浴びせる。とどめの二発目が裏拳のように触手ごと薙ぎ払った。

 陥落していく一匹を見届ける。そこで異変が生じた。

「シロナさん、まだ終わってない!」

「これは……」

 PCノイズのように空間が歪んだかと思いきや、硝子のポケモンが軍勢となって取り囲む。触手を逆立てており、体から迸るオーラが気性の荒さを物語る。

 エムリットたちを助けるには囮役を買って出るほかなかった。しかし、あくまでも怪物たちにとって、我々は招かれざる客なのだ。

 先程、シロナのガブリアスを超える程の反応速度を見せた。腰元のポケモン図鑑も反応しない相手に、常識が通じると考えた瞬間、負けだ。

 かつてスタジアムで見た記憶が正しければ、流星群が炸裂し群れに被弾するまで、およそ15秒以上を要する。直撃を待つことなく、無慈悲なパワージェムはまとめて銀の鱗を引き裂くだろう。と、なれば。

「ごめん……。このゆびとまれ」

「駄目、ヒカリちゃん――」

 パワージェムを全弾引き受けようというのか、無茶が過ぎる。首を振り乱し、シロナは叫んだ。トゲキッスは指示に何ら嫌悪を示さず、役目であるとばかり引き受ける。元より、覚悟を決めていたように、無垢なまなざしがより洗練されていく。

 早まるな。ガブリアスを引き返させようとするが、もう手遅れだ。獲物は一瞬で標的を刈り取る――故に、戦いというものは常に一瞬での決着を迎える。

 トレーナーとして旅立った頃からは考えられないほど据わった瞳。内に秘められた助けを求める声に、別次元からの同じ招かれざる客が応えた。

「シャドーボール!」

「サイコキネシス!」

「トライアタック!」

 光弾の軌道を念力で捻じ曲げ、元素の応酬で怯みを誘発し、重力波で押し潰す。

 目を開けた先には、少年少女たちと屈強そうなポケモンが揃いも揃って屹立していた。奇襲を仕掛けた群れは、彼らの剣幕など意にも介さず、むしろ逆上したようである。

 全員が手を繋ぎルナアーラに騎乗することで、なんとか事なきを得る。ガブリアスとトゲキッスもひとまず彼らに付き従った。しかし、執拗に追いかけてくる。

「やはり、あれは〈ウツロイド〉の群れか」

 グラジオは種族名ととれる文字列を口にする。すかさず、シロナが眉を潜めた。

「ウツロイド? 聞いたことのない名前ね」

「ウルトラビーストだ」

「ウルトラビースト?」

 シンオウ古典の辞書にはない単語だ。シロナは微かに歯を食いしばり、口元を険しくする。未知を既知に出来ていなかったことへの悔やみが垣間見えた。

「シロナさん、話はあとです。今はこの群れから逃げましょう」

「そうね」

 しかし、ウツロイドたちは減少どころか増殖している。

「たくさん出て来るよっ、これじゃキリがない!」

 ハウが悲鳴をあげる。尻尾をサーフボードに見立てたライチュウが電気袋の火花を散らし始めた。四方に放つ電流を掻い潜り、掴み所のない動きで翻弄してくる。触手が翼の尖端を掴もうと振り下ろされ、寸前のところで掠める。そんな駆け引きを何度か繰り返した。

「だめ、追いつかれる」

「ルナアーラさん……!」

 リーリエは手を組み、最後の頼みの綱であるルナアーラに縋る。

 空間を根幹から断つような奇声を轟かせ、抉じ開けた大穴へと突っ込んだ。



 ここは脱出不能の監獄だと悟る。ウルトラホールは、あくまでもウツロイドが集結していた地点と別の座標に転移するだけのはたらきしか果たさない。

 代わり映えしない景色が嘲笑うように沈澱する中で、番人の手から逃れた無事にほっと胸を撫で下ろす。

「ひとまず、撒いたようね」

「……助けてくれてありがとうございます」

「わたしからも、危ないところだった。ありがとうね。あたしはシンオウチャンピオンのシロナと申します」

「わたしはフタバタウンのヒカリです」

 会釈をする彼らに倣い、各々自己紹介をする。

 ミヅキはシロナのことが気になった。チャンピオン、と彼女は発言したのだ。

 ククイ博士はホクラニで夢を語った。アローラで最も高い山の頂上に、ポケモントレーナーの一番を決める場を建てたいと。島巡りに成功した者だけでなく、正真正銘すべてのトレーナーにとって可能性をもたらし、励まし、高め合う場でありたいと。

「チャンピオンってポケモンリーグ?」

「それ以外に何かあるの?」

 ハウとヒカリの会話は噛み合わない、それもそのはず。

「アローラとシンオウは全然文化が違うからね」

 シロナがざっくばらんにまとめた。

「ところで、みんなは友達なの?」

 ヒカリは次なる疑問を口にする。思ったことを聴かずにはいられないようだ。

「トモダチ」

 ハウはともかく、グラジオやリーリエを友達と称するには、片言になる程違う気がした。奇遇に奇遇を重ねた彼らを、一語で割り切って良いものではないと感じる。

「オレたちは仲良しじゃない。だが、悪くない関係だ」

 グラジオの代弁を聴き、正答にそっと微笑んだ。気障な奴だが、ばっちり決めてくれる。

「どういうこと?」

 それをいわゆる友達というのではないだろうか。

 混乱するヒカリをよそに、まだ人生半ばもいかない子どもたちが大事にしている価値観をチャンピオンは感じ取り、微笑む。

「それじゃあ、状況を整理しましょうか」

 何故異界と思しき場所に迷い込む羽目になったのか、経緯の説明に入る。

 シンオウでもギンガ団と名乗る団体が活動していた。宇宙エネルギー開発を目指す大企業だが、実態は時空伝説を暴き、神と呼ばれしポケモンを手中に収めることが目的だった。そのためなら、ポケモンの生態実験も躊躇しない。

 総帥の野望を打ち砕くため、シンオウで最も高い場に推参した。テンガン山には槍の柱と呼ばれる神との謁見を許された遺跡がある。

「あたしたちが迷い込んだこの世界は文献によると〈やぶれたせかい〉という呼称がある」

 シロナは考古学的観点から説明する。

「まさしく、ウルトラスペースもアローラとは別次元にある場所だ。繋がるな」

 世界から「破れた」場所、無に見えるものが実は有である。

 恐ろしい事実を突きつけられた。

「ウルトラスペースがやぶれたせかいで、やぶれたせかいはウルトラスペースってことー?」

「そう考えてもらって構わない。ウルトラスペース、ビーストについては何も知らなかったけれど、まさかギラティナの世界に生息するポケモンがいたなんて」

「ギラティナだと?」

 すかさずグラジオが切り込む。ミヅキとハウが顔を見合わせ、同じ認識に至った。

「空間研究所の!」

「シロナさん。その、ギラティナ……。わたしたち、見たかもしれない」

「本当に!?」

「うん。ボクたちがウルトラスペース……じゃなかった、やぶれたせかいに来たときに」

「ギラティナはシンオウ地方の神々と対等な力を持ちながら、歴史の影に埋もれたポケモンだと云われているわ。存在さえ定かでなかった」

「つまり、ウルトラスペースもといやぶれたせかいは、ギラティナの力によって構築されているのか」

「その可能性は高い」

「だとしたら、あんたたちの言うボスとやらは、ギラティナを狙うかもな」

「ギラティナが倒されたり、ゲットされたりしたら、どうなるのー?」

「……分からない。でも――」

 末尾を言わずとも、結末は想像出来た。

「とにかく、これで共通の目的が出来た。オレたちは手を組むべきだろう」

「こちらとしても心強い。ね、ヒカリちゃん」

「はい。是非とも、お願いします」

 ここにアローラ・シンオウ間の協定が結ばれた。少しでも生還の可能性が見出せ、顔色がよくなるのと反対に、リーリエは俯いている。

「リーリエ、大丈夫?」

「はい、すみません。せっかく希望が見えてきたのに」

「どうしたの」

「ポケモンで生態実験、と聞いて、母のことを思い出してしまって」

「そっか。そうだよね」

 今度は、ミヅキたちの境遇を語る。

 エーテル財団の闇、ポケモン保護の生々しい実態にも目を背けず、不快感を露わにせず、真剣な様子で聴いてくれた。出会ったばかりでも互いの深い部分を共有出来る、そんな人たちだと分かり、リーリエの緊張や警戒も解けた。

「そんなことが」

「わたしはなんとしても母に会って、文句のひとつやふたつ言ってやるつもりです」

「ねえ、わたしたちと同じように、ルザミーネがアカギと会っていたりして。……ああっ、ごめん今のなし。言わなければ良かった」

「いや、ミヅキちゃん、それは充分有り得るわ。さっきの話を聴いた限りでは、ふたりとも思想的には共通している」

 今度はミヅキが暗くなる。

「……戦えるのかな?」

「何を今更」

 前を向き、グラジオが刺々しい響きで叱責する。だが、ミヅキの深刻は気迫面で彼を上回った。声色は既に震えている。

「グズマだっているんだよ!?」

 スカル団、エーテル財団、ギンガ団――三大悪が一箇所に勢揃いしたら。目的のために手を組んでいたら。想像するだけで身の毛がよだつ。

 大人のチャンピオンが付いている? 人間は万能ではない。先程の襲撃を思い出せ。意思疎通がままならず、本能のままに襲ってくる。ポケモン本来の生き写しだ。

 ルザミーネとグズマは、地元トレーナーみたく礼節をもって由緒正しき戦いを申し込んでくるわけではない。障害物を徹底的に捻じ伏せる、文字通り戦いを知らしめてくる悪鬼だ。恐らくは、ヒカリとシロナもそんな死線を潜り抜けて来た。

 だからこそ、いつの間にか地方を代表する立場に擁立されたことが、どうしようもなく、

 怖い。

「みんな、ごめん。勝手だって分かってる。でも、わたしは、島巡りをしていたはずなのに」

 ――どうして、世界を懸けた戦いに巻き込まれているの?

 誰も、何も言えなかった。

 もはや少年少女の手に負える範疇をとうに超えている。自分が当たり前のように暮らして来た世界を否定する人々がいる。破壊を望んでいる。そんな相手にどう立ち向かえと。

 シロナが口を開きかける前に、進み出たのはひとりの少女だった。

「だいじょうぶ!」

 この期に及んで、人を勇気付けられる彼女が、強く見えた。

 ヒカリは黙って、ミヅキの両手を支える。

「ヒカリちゃんの大丈夫は、いつも根拠がないけど」

「えっ、ひどい。シロナさん、そんな風に思ってたんですか」

「冗談よ。特に、今はね」

「ミヅキちゃん。わたしも少し落ち込んじゃったけど、ゼンリョクで行きましょう!」

「リーリエ……」

「だからオレたちを頼れって。な、ハウ」

「そーだよ。みんなで行けば怖くないよっ」

「あたし、チャンピオンとして約束します。ミヅキちゃんの旅を壊させないって」

「世界を守ろう、とは言わない。でも、帰ろうよ。元の世界に」

 溜まった涙を拭い、鼻を啜りながら、ヒカリの冷え切った小さな手を握る。微かな震えを押し殺していることにミヅキだけが気付いて、二度と弱音は吐かないと誓った。


 世界は静かに、侵入者を案内する。

 束の間、旅の苦労を分かち合える同志との会話に花を咲かせた。やはり地方文化の違いが盛り上がる。意気を取り戻したミヅキが得意気に移住先の文化を語る様は、在住歴何年というベテランと同格気取りである。中でもヒカリはアローラの通過儀礼に食いつき、よく相槌を打っていた。

「シンオウには島巡りっていう儀式はないから……ジムバッジを集めて、ポケモンリーグに挑戦するの」

「ポケモンリーグ、これからアローラにも出来るんだよ」

「そうなの? あ、それでさっき……」

「そういうこと」

「じゃあ、そのポケモンもミヅキちゃんの?」

 ヒカリは、先程からモンスターボールに入らないポケモンに気を取られていた。

 ディアルガやパルキアが人知を超えた存在だとすれば、ルナアーラは月から人間とポケモンを見守る慈悲の女神とでも称すにふさわしい。

「ん? ほしぐもちゃんはリーリエのポケモンだよ。わたしじゃなくて」

 リーリエのポケモン、とおやを明確化するように言ってのけるので、指名された当の本人は弁解に大慌てである。手を振って丁寧に断りを入れる。

「そ、そんな。わたしはトレーナーではなく、ほしぐもちゃんのお世話をしていただけで」

「そもそも何故トレーナーにならない。守るためにはポケモンの力を借りることも必要だ。オレもヌルを守り、そして守られてきた。おまえは立派なルナアーラのおやだぞ」

「それはわたしもちょっと気になってた。聞いちゃ悪いかなと思って」

「実は、ポケモンさんに触れなかった時期があったのです」

「それは初耳だ」

「……兄様が出て行ってからです」

 半分瞼を下ろし、あどけなさの抜けない睨みを利かせて、不平をぶつける。妹のちょっとした意地悪な仕返しに、兄はすべてを察した。ビースト絡みの事情だろう。

「すまん」

「いえ、過ぎたことです。今は少しずつ良くなってきましたから」

 ルナアーラは進化してもなお、視線をリーリエに注ぐ。茶目っ気は抜けず、傍目からも好意が分かる。放っておけないのだろう、時折危なっかしい言動に出る少女でもあるから。ミヅキもリーリエには同じ感情を抱いていた。

「そう、なのでしょうか。だとしたら、とても嬉しいです」

「まあ、無理になれ、とは言わん。だが、もしおまえ自身がルナアーラといることを望むなら、少し考えてみるといい」

「わたしが、ポケモントレーナーに……」

 強制されることではなかったから、気乗りせず、ポケモンに触れなかったという過去でごまかしていた想いが、揺らぎ始めている。

 トレーナーの辛さ素晴らしさ、ずっと旅をしてきた憧れの人が見せてくれた。

「ほしぐもちゃん、わたしはどうすれば」

 ルナアーラはあえて沈黙する。

 


 やぶれたせかい式のエレベーターが、下層への到着を告げるために停止した。

 足元から出来損ないの植物が生えだす。普通、葉は空を目指してまっすぐ健全に伸びるものだが、しなだれ、ねじ曲がり、ありもしない方を向いている。縦横斜め、狭い一本道をひとりずつはぐれないように命綱と見立てて辿り、移動する大地に何より安堵する。

 ちょっとした崖ほどの段差をロッククライムの要領で滑り降りると、いよいよ景色に圧倒的な変化が注がれた。真っ先に知覚したのは、神々との対面に焦がれたシロナだ。

「ユクシー」

 シンオウ時空伝説の一角、知識を法典の如く授けたと云われるポケモンが待っていた。「神」という一単語が醸し出す力強さを具現化した姿というより、人間の頭蓋骨と変わらないぐらいのサイズで顕現していた。

 辺りは十字架の迷路。ポケモンの力を借りれば押せそうなキューブ、穴だらけの凸凹。

 植物の間を縫い、時の流れから切り離された日陰より出づる人間も、またひとり。ミヅキが真っ先に気付く。

「グズマだ」

「彼が?」

 シロナが念入りに確認した。

「本当にこんな所までやってきやがった。ブッ壊れてやがる」

 血走る眼孔を剥き出しに、歯を立てて笑う。ギャングの成れの果てを思わせる風貌からは既に理性が失われ、獣と相違ない戦意だけが亡霊のように憑依する。

「シンオウの守り神サマに御挨拶といこうか、グソクムシャ」

 輝きをたたえる妖精の方に牙を剥いた。モンスターボールの内より、甲殻の鎧を携えた、乱世を想起させるポケモンが一太刀を浴びせかかった。

「ガブリアス!」

 ユクシーの首を賭け、出会い頭とダブルチョップが一閃交わる。

 右鎌で脳天を叩こうとするが、同じく左腕で薙ぎ払われる。互いに戦果をあげられず、足跡だけが土を掻き分けた。

「今あんたの相手をしている暇はないの」

 ミヅキは苛立たしげに告げた。

「おれがブッ壊したいのは、おまえただひとりだ!」

 どこまでも純粋で狂った願い。二回敗れてからというものの、トレーナーとして二度と立ち上がれることのないように、心を完膚無きまでに壊す、その一点張りだった。

「みんな、ポケモンを出せ!」

 グラジオの号令と共に、トレーナーたちはユクシー死守包囲網を敷く。

「アクアブレイク!」

 波動を叩きつけると、水流が奔出し、地表を根こそぎ抉り取る。グズマがかねてから提唱する破壊行為を体現した技だ。

 不意打ちの一撃で連携が崩され、各々信頼するポケモンに助けを求める。

 ハウは念力でサーフテールにしがみつき、グラジオはヌルの背へと飛び乗り、シロナはガブリアスに跨り、リーリエはルナアーラに拾われた。

 うずくまる旅立ちの少女ふたり、そしてスカル団のボスを残したまま、距離は遠ざかる。

「こうなったらやってやる。どのみち、あいつとは決着をつけなきゃいけないんだ!」

「わたしも、残る」

 有無を言わさぬ口調だった。

 ミヅキは一瞬目を見開くが、すぐに口角を和らげて思い切りよく頷いた。

「ヒカリちゃんっ!」

「シロナさん、我儘言います。もしも、ミヅキちゃんに何かあったときのために」

「チャンピオン、ミヅキはああいう奴だ。こっちにいてくれるとありがたい」

「ミヅキちゃんなら、グズマさんを倒してくれます」

「分かった。ユクシー、お願い」

 神が人間の意志を汲み、神話世界の伝承を今再現するように、導き手となる。あるいは、人と同じ地平に降り立ち、助けを求めているような心許ない瞬きともとれる。


 スカル団のブラックリストにない顔。寒気に備えた服装は、アローラの住民ではないと一目で看破させた。

「誰だァおまえ。お呼びじゃねえぞ」

「シンオウ地方フタバタウンのヒカリ。未来のチャンピオン」

「チャン、ピオンだと……? 軽々しく使うんじゃねえ!」

 グズマの無念を以心伝心し、グソクムシャがずいと進み出る。威嚇がてら左脚で敵陣に踏み込んだ。ミヅキはいつもよりずっと強く、ボールを握り締めた。

「ヒカリ。わたしのバトルを観てて。絶対勝つから」

「分かった」

「これで最期だ……おまえを粉々に打ち砕く!」

 ミヅキは肩を引き、腕を薙いで、勢いよくボールを投擲する。

 粒子と共に溢れ出る光は、やがて舵輪と錨が混ざり合った輪郭をとる。しかし、本体は付着した藻屑の霊体。故に性質はゴーストタイプ、ポニの船団に浮上するダダリンだ。

「ダダリン、シャドークローッ!」

 出現と同時、腕を払い指示を出す。ヒカリは、ダダリンが錨を持ち上げるのに苦労している様子から、自分の体重が足を引っ張ってしまう鈍足のポケモンなのだと理解した。その分、一撃の致命傷は増す。影を忍ばせ相手を刺す、それがシャドークローだ。

「影を取らせなきゃいいんだよ」

 重量の分、落下速度が増す。直撃を受ければ、装甲にも傷が付く。だから、逆に影を突かれなければ良い。グソクムシャの影が――飛んだ。

 否、目にも止まらぬ瞬発力と推進をもって、眼前まで肉迫する。グソクムシャ自慢の六本腕が総動員して錨を首根っこのように掴み、頭突きを食らわせた。刃は不発に終わり、ダダリンは地に伏す。息の根を止めるようにグソクムシャが振りかかった。

「錨を伸ばして、アンカーショット!」

「不意打ちを叩き込め」

 操舵部が、がちんと音を立てて外れる。鎖の雁字搦めだ。裏拳を叩きつけられ、締め付けの勢いは緩んだ。接近戦が仇となる。焦っているのか、一刻も早く後を追わなければと。

「きゅうけつだ」

「こっちもギガドレイン!」

 グソクムシャを藻屑が伝い、光合成と同じ要領で精力を吸い取る。向こうもまた顔から生えた腕を鋭利に尖らせ、精力を奪い合った。その結果、勝者は。

「ダダリン……」

 ミヅキの足元に、枯れた藻屑と化したダダリンが伏す。向こうは二本指をくいとあげ、二番手を要求した。以前の何倍も強い。この世界で一から鍛え直したのか。強くなったのは何もミヅキだけではないということだ。しかし、今はそこまで頭が回らない。

「ごめん、ありがとう。戻って」

 労いも、つい早口に送ってしまう。今の采配は適切だったかと、自問する。

 グズマはいきり立つ割に冷静な指示を出すから、余計に焦燥感が募るばかりだ。

 格好つけるわけではないが、一度勝てた相手だ。トレーナーとしても、世界の命運を双肩に担う今としても、負けるわけにはいかない。

「お願いっ、メテノ!」

 アローラに伝わるZポーズのように腕を重ね、そのままボールを放つ。

 流星となって飛来した隕石ポケモンだ。核を閉ざし、罅割れた殻で準備を整えている。

「これで決めるよ、ストーンエッジ!」

 メテノが激しく回転し、地中から万遍なく石柱を突き立てる。やぶれたせかいが生成する天然森林を真似た迷路が、アクアジェットの勢いを削いだ。

「切り替えろ」

 相手は判断を間違わなかった。一度ストーンエッジの支配する通路であえて足を止め、アクアブレイクを発動する。石柱が同心円状に根本から崩れ、一気に瓦解する。大技を放った疲労で、メテノの挙動はおぼつかない。

「アクアジェット!」

 グソクムシャは再び小回りの利く技に切り替え、メテノを彼方へと吹き飛ばした。

 やぶれたせかいに飲み込まれかけたメテノを、そのままボールの中に吸い込む。ここはスタジアムではない。ポケモンがトレーナーの下に帰って来られる保証すらないのだ。

 せっかくの色違いも映えることなく、輝きを曇らせてしまった。

 偶然ホクラニの天文台で出会えたときの喜びを無下にするほど、愚かなバトルを演じた。目立ちたがりで、殻に籠るよりも外で活発に暴れ回るのが好きなメテノ。黒曜石のように鋭く光を帯びたコアを誇り、宙に鋭角を描き飛翔する様は、実に堂々としていた。申し訳なさが尾を引いても、謝ることしか出来ない。

「メテノ、ごめん……」

「腑抜けやがって、舐めてんのか。それとも、みんなをかっこよく救うヒーロー気取りで挑んで来たのか!?」

 そんなことはない、と否定しようとして、喉から出かかった言葉を無理矢理飲み下す。

「その思い上がりが許せねェんだ!!」

 初めて、グズマが壁として立ちはだかる。怒号が心臓を貫くかと錯覚した。

 仲間の想いを受けて、決意を新たにしたはず。だが、トレーナーとしてミヅキの中にある迷いは、依然晴れないままだ。

 スカル団のような脱落者を、島巡りで幾度となく目にしてきた。

 アローラの在り方は本当に正しいのか。でも、郷に入っては郷に従え、という。ミヅキは子ども心におかしいと思った意見を押し殺し、自分を守ってくれる大人たちや神々の加護に甘えていた。でも、それでいいのか。

 仮にこのままグズマを下し、彼の屍を踏み潰して進んだとする。いずれはチャンピオンになるだろう、アローラでミヅキに及ぶトレーナーは少ない。だが、称号の授与は自分が倒して来たものの叫びを、聴こえなかったことにする。

「おまえは、おまえらは、おれたちを屑として見下すだろうよ。でもな、世の中は必ずしもレールに沿って歩ける奴だけじゃねぇんだ。中にはレールを歩くことすらうまく出来ない奴もいる。乗れなかった奴は、脱落していくしかない。その成れの果てがここだ!」

 グズマの演説を、グソクムシャは妨害しない。

 破れた世界。現実の世界から破れ、敗れた者の集まり。無念の集合体だ。

「この世界が示してるだろ? おれたちは敗者だ。だが、まもなく勝者になる……!」

 引き攣るような笑いは、今までのどれとも違う。

 グズマの自信は、たったひとりでは成し遂げられない背後の力を感じさせた。ヒカリはそれが何者による仕業か分かる。ミヅキとグズマの因縁は全く分からないが、これがただのバトル以上の重大な意味に及ぶこともなんとなく察せた。

「気に入らねえもん、全部ブッ壊してやるんだ! 全部、全部、ゼンブなァァァッ!!」

 己の演説に酔い、だんだん昂ぶっていく。明らかに自制が利かなくなっていた。

 スカル団の頭領に上り詰め、アウトローの人間たちをまとめてきた。その彼が、やぶれたせかいで絶対的な力に感化され、単なる目先の破壊から、世界ごと復讐の標的に見据えている。

「だめだよ。だめだ、グズマ」

 ここで彼を止めなければ、ミヅキはトレーナーとして大切なものをなくす気がした。しかし、勝たなければ、勝たなければと暗示をかけるほど、手はボールを取りこぼしそうなほど震えていく。そのとき、背後から声が響く。

「ミヅキちゃん。あなたはどんなポケモントレーナーになりたいの? わたしは、ポケモンたちを輝かせたい」

 右胸に手をあて、心の内を確かめるような仕草を取る。

「わたしの母さんはトップコーディネーターだったの。でも幼馴染の父さんは、タワータイクーンっていう、凄く強いトレーナーだった。旅立つ頃、わたしはトップコーディネーターもチャンピオンも、両方目指したかった。でも、それは無理だった。欲張りだって気付かされた」

 一次予選で連続して敗退し、涙を呑んだ日々。おまえのパフォーマンスは、派手なだけでポケモンを魅せることに向いていない……そう言われた。コンテストとジム巡り、どっちも甘い汁を啜ろうとしていた。真剣にその道へと打ち込んでいる人には、まるで通用しなかった。ヒカリはドレスを脱ぎ、親の背中を追うことをやめた。

「だから少しでも、一匹一匹がスタジアムで喝采を浴びるようなバトルを演じたい。それが、わたしの夢」

 物腰こそ落ち着いているが、秘めた想いはチャンピオンに負けないほど鮮烈だ。ミヅキはヒカリほど理路整然としていない。だが、彼女の言葉は自然と勇気を起こさせる。

 まっすぐ腕を伸ばし、相棒を呼ぶ。最初に認めてくれた最高のポケモンで勝つ。

「……。ジュナイパー!」

 ミヅキが動なら、ジュナイパーは静。無音で降り立ち、両翼を誇示する。人間でいうところのフードにあたる紐を弓弦に見立て、抜き取った一本の矢を番える。

「かげぬい!」

「何度やろうが同じだ。アクアジェット!」

 ダダリンと酷似した戦法に、グズマは辟易する。案の定、水流に攪乱される。

 それでいて、フードの奥の瞳は、冷酷なほど好機をうかがっていた。

 同じタイプだから、違うことが出来る。グズマにも見落としはあった。ただの〈かげぬい〉ではない――気付いたときには、左手首のZリングがトレーナーとポケモンの想いをひとつに束ねる。ミヅキはまるでジュナイパーさながら、弓矢を射る。

「しまった!」

 かげぬいは誤判断を誘うための罠だ。本当の反撃はこれから始まる。

 ジュナイパーの全身に紫のオーラがふつふつと沸き立ち、まもなく飛翔した。

「これが、わたしたちの……全力だ!!」

 霊気を帯びた矢の数々が錐揉み落下に追従し、螺旋を描く。グソクムシャを捉え、抜き放つ。一本目が水流を裂き、二本目が左脚を射止め、三本目が蛇腹のような背中に食い込んだ。勢いを完璧に殺され、成す術もなく、矢の串刺しとなる。

 通り雨が止むと、グズマの相棒は立ち尽くしていた。最後まで顔に泥を擦り付けられることはなかったぞ、とばかりに。

 酔いしれていた己の油断を戒める壮絶な表情をもって、ボールに戻す。

「Zワザを使ったな。Zワザを!」

「あんたの、バトルに応えなきゃ、いけないと思った」

「なに……?」

 肩で息をし、両手を膝でなんとか支える。ジュナイパーも立つのがやっとだ。

 アローラに伝わる一撃必殺の奥義・Zワザがもたらす疲労は甚大なものだ。一度のバトルで、一度が限界。現実的に考えれば、後の戦いに備えて残しておくべきだった。それでも、Zワザを使ったのだ。

「今更こんなこと言っても、何言ってんだって思うかもしれないけど。わたしも、島巡りだけじゃ、みんなが幸せになれないと思ってた」

「同情か」

 心底憎々しげに、頬を強張らせる。

「スカル団は悪いことをしてきた。だから、同情は出来ない。でも、ククイ博士だってトレーナーを苦しめるためにポケモンリーグを作ろうとしているんじゃないと思う」

「ククイに踊らされているだけだ。あいつはこう言った。自らキャプテンにならなかったんだとな。あの野郎は高みからおれたちを見下してやがるんだ!」

「そうだとしても、わたしたちは同じトレーナーなんだよ!?」

 ミヅキの訴えは、グズマの胸を打った。

 スカル団はアローラ民から、劣った人種のようにあしらわれてきた。ところがいずれ島巡りを完遂するであろう少女の口から直接「トレーナー」という言葉が飛び出す。グズマをポケモントレーナーの一員として認めたのは、団員以外にこの少女が初めてだった。

 尊大な面を叩き壊したい想いと、一縷の可能性に懸けたい想いが交錯する。

「だったら変えられるのか!? 糞みたいな風習で人間とポケモンのすべてを決めつける――敗者に権利のない世界を!」

 答えは決まっている。

「わたしが変える」

「わたしが、アローラ地方で最初のチャンピオンになる」

「すべてのトレーナーを見捨てない。どんなときも、全力で戦う。それがわたしのバトル」

「余所者だけど……今は、アローラのトレーナーだからっ」

 子どもが夢を語るときの溌剌とした輝きが内に宿る。

 若者は不可能など考えない。打算、リスク、偏見一切を知らない。怖いもの知らずだから、どこまでも前を向いて行ける。

 ポケモンリーグが正しいのか、島巡りが正しいのか。最強を決定する段取りは各地に用意されている。それでも一定の仕組みは戦士を脱落させ、堕落させる。挫折を促さない強さであれ。みなが憧れ、自身も挑戦者に飽きない世界、それがポケモンリーグの理想。

 傲慢に夢を掲げ、挫折を知らず、向こう見ずな、グズマの言う通り……戯言だ。努力が必ず勝利すると、信じて疑わない。まるで「かつての」自分を見ているようだった。

「は、ははっ……。出来るわけねえだろ!! すべてだぁ? 餓鬼が戯言を。おまえ如きが全を語るのか」

「このバトルに勝って証明する。もう、さっきまでのわたしじゃない」

 ポケモンバトルをすれば綺麗さっぱり禍根も洗い流して、手を取り合い、ライバルになれると信じていた頃があった。

「……虫唾が走る」

 現実は、王は神の気分次第で選出され、敗者を掬い上げる措置はない。キャプテンを目指していたグズマに、神の恩寵は振り向かなかった。世界ごと自分を白眼視してきた。

 あれは、かつての虚栄だ。

 自分の影を、壊さなければ。打ち消さなければ。

 義務感は、グズマの唇を滑らかに動かす。

「オニシズクモ! 潰せ! ひたすらに! 喉元をへし折れ!」

 呼び出された次のポケモンは、常のおやらしからぬ指示に困惑しているようだ。

 冷静さを欠いては応え切れない。ポケモンはトレーナーを信じて、トレーナーはポケモンを信じて、戦うのだ。

「アクアブレイクで叩き割れェ!」

「ジュナイパー、ハードプラント」

 もはやミヅキの敵ではなかった。だが、あくまでも容赦なく迎え撃つ。

 戦いでの決着を望む相手に対する、最大限の礼節だ。

 地盤を割って、蔦が底から侵入する。オニシズクモは突き刺すように脚を絡めるも、怒涛の流れに逆らえず、体勢を崩して埋もれてしまった。

 ジュナイパーが数秒遅れてから倒れる。ミヅキは慌てて駆け寄った。

 グズマも首を横に振り、現実を噛み締めるようにオニシズクモへと寄り添う。何もしてやれなかった無力感に打ちひしがれ、抱きしめながら嗚咽をこらえた。

「グズマァ、なにやってんだ……」

 一体、自分は何をしてきたのだろう。

 スカル団として、トレーナーとして、やることなすこと中途半端に終わった。偶然、世界に復讐するための後ろ盾を得たから気が大きくなっていただけで、本来はポケモンに頼らなければ何も出来ない。文字通りすべてを懸けても、ミヅキには勝てなかった。

 今の自分から変えなければ、世界とて何も変わりはしないのだ。

「ごめん、無理させたね。戦ってくれて、……ありがとうね」

 ミヅキはグズマのおかげで、このバトルを契機にひとつ吹っ切れた。おやの恥ずかしくなるほど眩しい微笑みを受けて、ゆっくりと蔓を引っ張る。

「あっ、なんで顔隠すの!? ちょっと!」

 グズマはどこか遠目に、彼らを見つめる。もう一生届かない存在――かと思えば、グズマを見るなり遠くの人物はこちらに歩み寄って来るではないか。そして、手を差し伸べる。

「グズマ、強かったよ。またバトルしよう」

 なんと一方的な約束の取り付けだろうか。

 そして、思い出した。一度や二度、三度の勝ち負けが優劣を決めるわけではない。負ければまたリベンジを、勝てれば喜びを噛み締め、誰も知らない高みを目指すだけだ。

 最も基本的なことを、いつの間にか忘れていた。だが、今思い出せた。

「……へっ、調子狂うぜ」

 今までならば払い除けたであろう手を取り、起き上がる。

 ポケモントレーナー・グズマがスタートを切った。

 そして、ドラマの証言者となったヒカリもまた、思わず握り拳をつくっていた。


 

 アグノム、エムリットらと順に合流し、最深部へと進む道を開く。神々は無事を喜び合うようにはしゃぎ、飛び回る。

 意外にもグズマが案内役を買って出たため、一同は驚愕した。最初は信頼できないと突っかかられるも、シロナの仲裁という名の脅しをかけたのちは、全員が沈黙した。

 天地を逆さに歩く経験など、夢でもなければ二度と味わえないだろう。下流から上流に向かう巨大な瀑布はスペクタクルを奏でる。波濤に負けないよう、グズマは声を張り上げた。この先だ、と。大滝の麓は、朽ちた石柱がストーンエッジとは比べ物にならないほどのサイズで不規則に屹立している。血を塗したような真紅の景色が目に毒だ。

 ひとりはすらりと伸びた美麗な脚を組み、ひとりは後ろ手で指を組み虚ろに見上げる。

 目的はこの瞬間、果たされた。いざ対面してみると、感情を言葉に置換出来ない。だから、何の感慨も抱かない向こう側がまず口を開いた。

「あら、随分と無粋な行列ですこと」

「母様……」

 やっとの思いで、リーリエは反応を絞り出す。

「新顔がふたりいるのね。グズマ、説明してちょうだい」

 膝に頬杖を突くルザミーネが促した。

「代表、おれが連れて来たんだ」

「わたくしは頼んでませんよ」

「これはおれが決めたことだ。代表、もう帰ろうぜ。本当におかしくなっちまうぞ」

「ミヅキに優しく諭されたのかしら? 隅に置けない子ね。本当に憎たらしい」

 嫉妬の火が燃え上がり、ミヅキを釘付けにする。

「グズマ。あなた、本当に美しくないわね」

 大方、敗北で寝返ったのだろう――別段失望する様子も見せず、人形を弄ぶような口調でとどめを刺す。左手の指は遊んでいた。

「わたくしが欲しいのは、ビーストちゃんだけ。お分かりかしら? トレーナーのコレクションは性に合わないのよね」

 グズマは何を言われたか分からなかったようで、何秒も遅れてから真意の理解に至ったようだ。口を半開きに放心する。

「……残念だが、わたしが創る新世界には不必要な人間のようだ」

「アカギ!」

 グズマに好機と力を与える人物は、この人間をおいて他にはいない。ヒカリとシロナは、絶対ミヅキたちに向けない眼孔でアカギを突き刺す。これではっきりした。ルザミーネとアカギは利害の一致で手を組んだ。悪夢のタッグ結成だ。

「母様、何故このような人と」

「いい加減にしろよ、あんた。ポケモンと人間はおもちゃ扱いか」

「リーリエ、グラジオ……。昔はなんでもわたくしの言うことに頷く無垢な子どもだったというのに。こんな風になってしまったのはミヅキと関わるようになってからね」

 ルザミーネは起立し、ヒールを鳴らしながら一歩ずつ進む。

「たとえ自分の子どもだったとしても。どれだけわたくしを慕っていても。珍しいとされるポケモンだとしても。わたくしの愛を注げる美しいものでなければ、邪魔でしかないのです」

「……あなた、母親失格ね」

 ルザミーネのぞんざいな物言いが、シロナの声を震わせた。

「家族の事情に割り込まないでくださる?」

「いいえ、あたしも当事者です。今だけは、あたしがこの子たちを守る」

「あら、そう。なら、その子たちはあなたにあげてもいいわよ」

 何の愛着もない言葉にリーリエの瞳が凍り付き、ただでさえ色白の肌からますます血の気が引いた。ミヅキが咄嗟に抱え込み、必死に呼びかける。

「この子たちは、あなたに会いたい一心でここまで来たのよ!?」

「これは傑作ね! わたくしはそんなこと、一言も頼んでいませんよ。むしろ勝手にやったことでしょう? 親の願いを妨げるなんて、むしろ親不孝者と呼ぶべきだわ」

「あなた、アカギがどんな人間か本当に知っているの」

「アカギは、美しいものがより美しくなるための世界に変えようとしているだけよ」

「違う、わたしたちの世界を壊そうとしている。シンオウはおろか、アローラもただじゃ済まない。カントーもジョウトもホウエンもイッシュもカロスも、みんな消えてしまう」

「わたくしに何の関係があるの」

 勢いよく啖呵を切ったシロナまでもが、言葉を失う。

「そうやってウツロイドのことも、飽きたら捨てるんでしょう」

 最後に独善耽美主義の彼女と対話出来るのは、存在意義を否定された娘しかいなかった。

 結局、心の片隅では昔のように笑い合える関係の修復を望んでいたのだ。

「ウツロイドは! あなたよりずっと可愛い子よ!」

 お気に入りの玩具を馬鹿にされ、だだをこねる幼児の図だ。この親への愛想が尽きた。

「……もう、うんざりです」

「麗しい親子愛、実に醜い。改めて、この世界には感情など不要と分かった」

 アカギが、抑揚のない調子で無機質に喋り出す。

「きみが今感じているものは怒りだ。それは人とポケモンを狂わせる。だが、感情などなければ、こんな想いもしなくて済んだだろう」

 リーリエは膝から崩れ落ち、嗚咽する。気品を備えた声色とは別人のような怨嗟だ。アカギの言葉は行き届かないルザミーネを責めるようにも聞き取れ、引っかかりを覚える。

「とにかく、ウツロイドの力であなたたちを打ちのめしてさしあげますわ」

 痺れを切らしたルザミーネは、持参物の価値を知らしめるように逸る。

 両腕を広げた瞬間、忌まわしいノイズが走り、中空のひずみから無量のウツロイドが発生する。少年少女の恐怖心を喚起するのと対照的に、ふたりは魅了されたまなざしをもって迎え入れた。ルザミーネが悦楽へと浸るために手を伸ばす。

 一匹が頭部を吸い取るように溶け込むと、続けざまに我も我も、と押し寄せる。ひとりの人間をめぐってこれほどのポケモンが大挙する様はなんとも禍々しい。

 対峙する面々の空気が刺々しさを増す中、島の直下を影がよぎる。かと思えば、次には上空を遮った。アカギは三白眼を動かし、獲物を捕捉する。

「来たな」

 やぶれたせかいのポケモン・ウツロイドに干渉すれば、必ず姿を現すと踏んでいた。

 槍の柱の召喚儀式に現れたギラティナだ。アカギを自分の世界に閉じ込めるつもりだったようだが、まもなく失敗に終わる。

「これだけの力があれば、あの影のポケモンを倒すことなど容易い」

 ウツロイドの集合体が思わぬ形態変化を生じた。頭部が肥大化し、まるでオニシズクモのように憑依先の全身を包む。触手は黒ずみ、先端から目玉のような割れ目が覗く。

 ポケモンと人間によって果たされる超進化――マザービーストと称すべき誕生。嬌声からは辛うじて残っていた理性をも取り払ってしまったように思える。

「今からすべての心が消えていく。まずは、きみの母親から。どうだ。これが理想の姿というものだ。真の美しさだ」

「……最初からそのつもりだったのですか。母様を利用するつもりで」

 問いに答えず、アカギは不可視の鎖でウツロイドを縛り付ける。

「わたしが。これほど醜い女と手を組むとでも思ったのか。あらゆる生き物の感情を逆撫でし、弄び、苦しめる。わたしが忌み嫌う悪の姿そのものだ」

 両者には、最初から取り返しのつかない思想の断絶があったのだ。

「人でなし……。母様を、返してっ!」

 飛びつきそうなリーリエをなんとか抑え込むが、気持ちは一緒だった。

「目先の世界しか見えていないおまえたちに、このアカギの崇高な是正が分かるものか」

 ミヅキの琴線が弾けた。目先の世界、とは何だ。

 みな、今を、一瞬を、必死に生きている。高みから見下ろすような物言い、何様だ。

「あんたの言ってること、全然分かんない。あいにくちっぽけな世界しか見えなくてね!」

「そのくだらない世界を、守るというのか。何のために」

「約束を果たすために」

 生気を失っていたグズマがはっと我に帰り、ミヅキの背を見つめる。

 アカギの言う〈世界〉ではなく。わたしが見つけて来た世界のために。

「ならばアローラのトレーナー、おまえからだ。ゆけ、ウツロイド」

 取り込まれたルザミーネの名を上書きする。ひとりの尊厳を踏みにじる行為だ。

「ミヅキだけじゃないよ」

 ハウが名乗り出る。振り向けば、それぞれの相棒と意志を確かめ合っていた。

「オレの相棒ヌルは、ビーストキラーとして生まれた。ハウ、ミヅキ、ヒカリ、チャンピオン。アカギを止めてくれ」

 与えられた本分を為すときだ。例え、不本意だとしても。ヌルは黙って騎乗を促す。それを見て、アカギは自身のポケモンを六匹総動員で繰り出した。

 グラジオとヌルの進路を、ひとりの少女が阻む。泣き腫らした痕はかえって毅然としていた。結び目を解き、肩までかかる金糸のような髪を靡かせる。

「兄様、わたしも行きます。帰るべき場所のために戦います」

 たった一言を絞り出すために、長い時間を待った。何も言うまい、グラジオは目を瞑る。

「ほしぐもちゃん。こんなわたしだけど、あなたのトレーナーになれますか?」

 彼女の背を容赦なく光線が貫こうとする。両翼はそっと少女の肌に触れ、旋回と共に飛翔する。自力で答えを出した者に与える返事だった。



「ヌル、かいふくふうじだ」

 ブレイククローで貫いた触手が再生しないよう、刺突に呪いを込める。体の一部をあしらうのはまだ良い。問題は囚われの本体をどう攻撃するか。

「ウツロイド、ステルスロック」

 アカギは鎖越しに指示を送り込む。腐敗した槍の柱を宝石が潜り抜けていく。愚直に進むヌルが罠を踏むと、虹色の爆発が起きる。肢体から投げ出され、肩や背中を打った。

「クリアスモッグ」

 第二波が来る。無様にも尻餅をついて動けない。辺りに充満する毒素が器官を停止させ、経験したことのない苦しみに胸を掴む。ヌルはグラジオの方まで駆けようとするが、潰し損ねた触手が尻尾をはたき、柱を粉砕した。

「アシッドボム」

 土壌を根こそぎ腐らせ、柱にもたれるグラジオを無理矢理引っ張り出そうとする。

 偉そうに啖呵を切った自分を恥じる。ヌルの何を理解したつもりになっていたのか。相棒だ、孤独を分け合ってきた、言葉は実に簡単で、浅薄だった。もっと本当の、深いところで分かり合わなければ、表面だけの関係で終わってしまう。

「ヌル。オレに、おまえの心を教えてくれ……」

 倒れた相棒に声は届かない。


 アカギのポケモンは総じて優秀だ。

 主人に仇なす不届き者を始末すべく、最適な戦略を構築する。勢力分散のため、シロナがジバコイルとダイノーズを引き受けた。彼女が空を戦場とするなら、ヒカリは水中を選ぶ。背後の大滝に向かって、冠を携え、総身に皇帝の意匠を凝らしたポケモンを繰り出す。自慢の相棒が、きっと仲間たちを支えてくれるはずだ。向こうは力強い瞳で騎乗を促す。

 下流から上流に向けて流れる滝に乗りさえすれば、あとは豪速で敵を振り切れる。ヒカリがエンペルトに跨り、ハウとミヅキは肩を借りるようにバランスを取り合った。そして逆走を開始する。スタート早々、ギャラドスが水流を飲み込む勢いで接近してきた。

「ムウマージ、テレキネシス!」

「ライチュウ、10まんボルト!」

 ムウマージの数珠が浮かび上がるのと同時、滝にいたはずのギャラドスが宙を舞う。高圧電流の的となった。闘志をそのまま放出したような一撃に、快哉を叫ぶ。

「えっ、すごいパワー!」

「そりゃ、ハウ一番の相棒だもんね!」

「ありがとー。自慢のポケモンだよ」

 ヒカリとハウは、ハイタッチで戦果を二分割した。

 まだ序盤戦だ。X型の十字が波間を裂きながら、我真っ先にと上昇してくる。

 軸を縦にずらし、水平切りに突っ込んでくる。わざとエンペルトを掠め、越した。

「今の、クロスポイズンね。でも、当てることが目的じゃない」

 次は外さない、という襲撃予告だ。滝を90度に曲がり、再び斬撃の構えに入る。

「ブレイブバードが来る……!」

 クロバットの挙動から次なる技を言い当てた。滝の流れに沿って、降下してくる。

「ふたりとも、みずポケモンは」

 ミヅキとハウは心底申し訳なさそうに首を振る。エンペルトの鋭利な両翼と、クロバットの翼が交差し、金属質の音を響かせる。垂直の正面衝突がバランスを狂わせた。

「オラァ、アクアブレイクだ!」

 剛腕の力任せに敵を沈め、去る。グソクムシャが余韻に浸らず、無表情に推進し、減速を余儀なくされたエンペルトと並走する。呆気に取られる一同。グズマが高笑いした。

「みずポケモンが必要だろ?」

「グズマ……」

 大滝の半分まで登り詰めた。滝の走行という荒業の影響か、地肌が寒気に痺れる。だが、違った。ハウは指をさし、滝に生じる変化を観測する。

「なんか凍ってないー?」

 底から輪郭が大きくなるのはそう時間がかからなかった。

「あれはマニューラ!」

 冷気を纏い、キッサキの流氷地帯に変貌させる。大道芸人も真っ青の極致だ。永久凍土はこちらに向かって直進してくるではないか。

「あんなのアリなのー?」

「ははっ、爪の餌食にしてやるぜ!」

 憂さ晴らし相手、決定。だが、体躯の違いが災いした。礫を喉にぶつけ、振り返ったグソクムシャを怯ませる。足場に氷柱を叩き込み、流氷で泳ぎを妨害した。跳躍を図り、両爪を霊気で伸長させる。

「みんな、ちょっと我慢してね。エンペルト、ドリルくちばし!」

 嘘でしょ、という悲鳴にはお構いなく、豪快に正面から迎え撃つ。嘴による突撃は、同じく嘴によって掻き乱された。黒翼が宙に残像を描く。ドンカラスだ。

「クワガノンお願いっ!」

 紫電を既に帯びた戦闘意欲満々のポケモン、それがミヅキのクワガノンだ。

 充電万全、標的捕捉、角度補正、誤差修正、発射準備完了――超電磁砲を解き放て。

「でんじほう!」

 電流の束を易々と翻りつつ、これ見よがしにひらりと回避された。一陣の熱風にあてられたクワガノンはたちまち戦闘不能となり、力なく落下していく。

「そんな」

「エンペルト、ラスターカノン!」

 マニューラが氷柱を杭の要領で打ち込み、光線は防がれた。

 滝は終わる。現実は非情に迫る。敗北、という二文字を復唱しながら。

「どうすんだよ、あいつらかなりヤベェぞ!」

 司令塔のヒカリまでもが沈黙した。諦めたのか、ならば一肌脱ごうとグズマが叫ぶ。

「グソクムシャ。やるしか、ねえなッ!」

 元より倒し切る体力は残っていない。後さえ託せれば……願いも空しく、嘴が振り上げた腕を負傷させ、羽毛で視界を奪われた挙句、滝から脱落させられた。

「グズマァァァァァァーーッ!」

「そんな……」

 少年少女は残酷な戦いの一端を思い知らされた。規則に準じた競技ではないと了承の上で、覚悟を決めたはずだ。しかし、今までの旅路でこれほど無力を噛み締めたことは一度とてない。

 スカル団のボスを倒し、チャンピオンに近付いても、本物の巨悪には手も足も出ない。子どもの頑張りでは力不足だ。それが現実なのか。これが限界なのか。

 強くなりたい。何よりも、今は強さが欲しい――。

 向かう敵を一撃で薙ぎ払い、ものともせず、超然と君臨する絶対的な力が。

 飽くなき力への欲望に誘われたとき、突如横転する。マニューラにけたぐりを食らい、陸地に全員が放り出された。土が口に入り、咳込みながら吐き出す。

 ハウが意を決したように、Zリングを輝かせ、雷のマークを形作る。

「おれたちの……全力を!」

「ミミロップ、ハウとライチュウをてだすけしてっ!」

 繰り出されたヒカリのミミロップがZパワーを送り込んだ矢先、両翼に全身を引きずられたまま吹き飛ばされる。

 次々と味方の犠牲を経て、ライチュウの決意も一層高まる。引き結んだ口元は死線を越えた戦士のようだ。電流の波に乗り、自らもまた雷撃を纏う。ドンカラスが甲高い断末魔をあげ、遂に一矢を報いた。ミミロップの分まで、一撃に込めた。

 まだ一匹残っている。精根尽き果てたライチュウを辻斬りで捌く。

 抵抗の術は断たれたと見るや否や、マニューラは猛吹雪で辺りを凍らせた。やぶれたせかいが白銀に侵蝕されていく。一面の白は、まるで死期を報せるお告げのようだ。

 全員のポケモンの殆どが倒され、心身共に削がれきった。三人とも、大山脈の真ん中でひとり助けを待つように身を抱え縮こまる。

「寒いよぉ……」

「ヒカリ、ハウ、どこ……」

 感覚が薄れていく。記憶も声も、打ち消され、雪崩が覆い隠していく。

 そのとき。ジバコイルとダイノーズが滝ごと貫かれ、空中で機能停止する。氷原を踏みしめるドラゴンポケモンの幻が現れた。

――幻ではない。瞼を擦り、凝らし、その目にしかと焼き付ける。

 砂嵐を起こし、ガブリアスと共に飛翔するのは、他の誰でもないチャンピオンだ。

 嵐に揉まれたマニューラが冷気を拳に纏い、竜巻の軌道に沿って捻りを加え、勢いをつける。

「がんせきふうじ!」

 ガブリアスは巻き上げた砂塵や岩を利用する。思わずヒカリとハウが立ち上がった。

 回転に乗じた氷の拳が、襲い掛かる石の刃を砕く。飛び掛かってきたリーチの長い爪を鎌で翻し、地上に叩きつけた。礫を飛ばすも一刀両断。吹雪も鋼鉄の鱗には微々たるものだ。勝機を前に気炎を上げ、荒々しく粗暴に、大胆かつ高らかに命じた。

「ドラゴンダイブ!」

 大地を爆発させ、宇宙の一点と交わるような星に生まれ変わる。まさしく流星だった。青白い炎を引き、見る者を魅了する。マニューラが与えていた恐怖を上回る戦慄を伴い、地へと磔にする。隕石と変わらぬ直撃が、破れた世界に栄光の名を轟かせた。

「シロナさんっ」

 ポケモントレーナーの女神は、険しかった顔つきを嘘のように和らげ、ミヅキたちの呼びかけに応えた。子どもの頑張りに背中を押してやり、それでも駄目だったときには、そっと手を差し伸べるのが大人の役割だ。

「ミヅキちゃん。ハウくん、ヒカリちゃん。よく、がんばったわね」

 ぼんやりと霞みそうな視界もそのまま、抱擁に身を委ねる。温もりを直に感じた。


  

 先程からヌルの様子がおかしい。仮面に隠れた円らな瞳はいつも以上に真意を悟らせない。起き上がろうとしてもマスクの重さが足枷となり、義肢でうまくバランスを取れない。

 特殊な素材で作られた仮面に触れると、外側からでも分かるほど高熱を帯びていた。首元に拘束具の如く取り付けられた輪っかが、翠色に明滅する。

 人工ポケモンが緊急事態に際してSOSを告げている。未曾有の事態に、グラジオは血の気が引いた。制御マスクを外せば負担自体は取り除けるが、本来の姿になった瞬間、暴走状態に戻りかねない。実験棟で起きた爆発事故で何名もの職員が意識を閉ざした。

 頭を抱え込む。毒が脳まで蝕み、思考回路を勝手に繋ぎ変えていくようだ。

「どうすれば、どうすればいいんだ」

 もがき苦しむ間にも、魔の手は目と鼻の先まで迫る。

「わたしに楯突いたことも許そう。まもなくおまえたちも心なき世界に導かれる」

 赤い鎖を介して、ルザミーネの姿からアカギの声が直接聴こえてくる。

「パワージェム」

「ヌル!?」

 土壇場に追い込まれてなお、嘴のような角で光線を引き裂き、グラジオの盾となる。

「ヌル、もういい。充分だ、これ以上はおまえが持たない!」

 外の世界に連れ出してくれたことへの恩返し、それ以外に主を守る理由などない。

 グラジオもまた、ヌルと旅する中で様々な景色を見て来た。研究員の冷たい手が実験体に触れる内に、きっといつかその一員になってしまう未来を憂えた。しかし、ヌルは人工ポケモンであっても一個の尊い命だと旅の中で学んだ。

 パラダイスという、世界からすればゆりかごに過ぎない閉鎖空間を飛び出し、アローラの自然を渡り歩いた。Zリングを貰えたのも、すべてはヌルがいた賜物だ。

 そして思い付く。封印を打ち破る最良にして唯一の方法を。

「ヌル、その痛み……オレも引き受ける」

 旅路を共にしたならば、今度は苦しみも分かち合おう。

「このZリングに! よこせ、おまえの心を。ありったけ!」

 紋章の刻まれたクリスタルを二本指で示す。心の拠り所はここにあると。

「造られた存在に、心などあるものか」

 ルザミーネの姿で、ルザミーネの声を操り、アカギは自らの主張を述べる。

「いや、ある。ヌルは、ポケットモンスターだ」

「愚かな。愛などという一時の感情に流されなければ、真の合一に至れたものを」

「おまえの生み出したモノがそうだというのか? ならばオレは全身全霊をもっておまえを否定する!」

 Zリングを眼前に構え、トレーナーとポケモンの想いがひとつになる。

「恐れるな、オレたちはいつでも――!」

 Zリングを嵌めた左手首が、神経の制御下を離れるほど震え出す。右手で鎮めるように抑え付けてもなお、ヌルの苦しみをこれでもかと伝えながら暴れ回り、烈火が駆け抜けていく。筋肉が溶けそうだ。骨が軋み、視界が薄れ、歯が砕け散りかねない。実験中も、戦闘も、痛みに耐え忍んでいたというのか。グラジオは初めてタイプ:ヌルの悲鳴を聴いた。

 パワージェムの奔流と、ダメージフィードバックによる相乗効果が生命の限界まで追い詰める。白目を剥き、膝を突いた。全身を丸め込み、内臓が飛び出そうなほど咳をする。 

 ルザミーネもといアカギは勝利を確信し、大口を開けて嘲笑を露わにする。

「己のポ――の苦し――に悶えて、死――!」

 終わらぬ苦しみはない。

 地獄を経て、覚醒に至る道が開けた。

 束縛の証だったマスクが粉々に砕け散り、体毛も真白く洗練される。

 白い獣が堂々と君臨する。咆哮に空間が揺るぎ、初めて臆したように敵が後ずさる。

「今、この瞬間から――おまえを、白銀の相棒〈シルヴァディ〉と呼ぼう」

 実験棟から持ち出して以来、機会なく眠っていたディスクを指の間に挟み込む。

 特性〈ARシステム〉は、メモリを頭部のドライブに挿入することで17タイプを自在に使い分け、自身のタイプの攻撃を無効化する。未知なる存在UBは、観測史上初の生き物ゆえ、タイプも特徴も謎に包まれている。シルヴァディもといタイプ:フルはすべての属性を網羅し、いかなる技にも臨機応変に対処出来る。絶対的なる駆逐の実行力をもって〈ビーストキラー〉の異名を与えられた。善悪備えるエーテル科学の結晶だ。

 敵の攻撃に合わせ、Zクリスタルの紋章が刻まれたディスクをインストール。体細胞変異を確認する。透明な頭部の翼や、他のポケモンから貰い受けた尾が大地の褐色へと染まる。

 宝石も毒素も、歩を止めるだけの手段には成り得ない。今のシルヴァディは荒野を巡る野の獣そのものだ。

「馬鹿な、これではまるで」

 仕草から伝わるアカギの心理は、明らかに動揺していた。

「まるで」

 ギンガ団の科学力でも遭遇の可能性が0%以下を切った、千本の腕で宇宙を創成したと云われるポケモンが脳裏をよぎる。有り得ない。しかし、あまりにも酷似している。

「神を冒涜するな」

「冒涜しているのはおまえだ。そして覚えておけ。神ではない、シルヴァディだ」

「マルチアタック!」

 額にタイプエネルギーを収束させ、光の雨を降らせる。器用にも触手だけを撃ち抜いた。

 壊れかけの人形を修繕するように鎖を振り乱すも、ウツロイドの挙動はぎこちない。

「まだ、終わらん。終わってなるものか。ここまで来たんだぞ!?」

「今、わたしが感じているものは怒りだ。感情などなければ味わわずに済んだものだ」

「わたしは負けん。偽りの神にも、影のポケモンにも、くだらない世界にもッ!」

 最後の足掻きに出る。逃避する先は、神々の頂上決戦だ。リーリエたちが危ない。


 リーリエの説得もむなしく、安寧と秩序を脅かされたギラティナは、区別なく立ち塞がる者を制裁する。ルナアーラは翼を交差させ、息吹の洗礼から命懸けでおやを守った。

 シルヴァディは小島を電光石火の速度で飛び交い、半分意識を共有するグラジオの焦りに応えようと務める。行き場を失っていたエムリットたちが漂い、弱々しく救援の信号を送った。

「力を貸してくれるのか?」

 紅・蒼・黄、風前の灯ならぬ光を発し、問いに答える。別次元のギラティナと均衡を保てずとも辛うじて顕現していられるのは、シンオウを壊させまいとする意志の表れだろう。


「どうしても傷付け合わなければならないのですか!?」

 逃げ続けても埒が明かない。リーリエはトレーナーになる瞬間を間違えた。よもや神が最初の対戦相手とはなんたる皮肉か。憤怒は呪いとなり、滑空を阻止する。

「ほしぐもちゃん、どうしたの」

 朱色の空間が無限の眼として一挙手一投足を監視するような不快感に囚われる。

 世界の果てまで逃げようとも、ギラティナの鏡からは逃れられない。薄々気付いていたが、翼は影に絡め取られ、徐々に向こう側へと引きずられていく。

 振り返れば一巻の終わりだ。せっかくポケモンを克服したのに、またも恐怖が種を撒く。

 ギラティナの姿が刹那、暗黒の彼方に溶け込んだ。後悔するだけの猶予を与えるとばかり。

 傷付け合わなくても済むなど詭弁だった。戦う、という行為の本質をまだ理解していなかった。気配はすぐそこまで、死を携えながら迫る。

「ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさい……わたしなんかのために、あなたまで」

 宇宙模型を頭蓋にそのまま嵌めたような頭部に一点の星が表示され、ルナアーラは出現位置を観測する。影からの降下が、極限の絶望まで彼らを突き落さんとしたときだ。

「リーリエ、最後まで諦めるな!」

 思い切りルナアーラを踏み付け、シルヴァディが躍り出た。剣幕と共に裁きの礫を発射する。ギラティナは標的を外し、背中を撃たれた。反り返る長身にも構わず両眼を寄せ、代わりに盾となった存在を凝視する。騎乗するトレーナーは三匹の聖霊を従え、プリズムの防壁に囲まれていた。五面体は罅割れ、硝子のように舞い散る。

 グラジオは藁にもすがる想いで、華奢な腕を引っ張り上げた。唇の端から一滴の血が伝うのも構わず、妹を助ける。

「兄様!?」

「やっと。やっと……、兄らしいことが出来たな」

 ギラティナが奇声をあげた。「その姿」を見せるな、とばかり。

 裏世界に追放しておきながら、まだ居場所を奪うことに飽き足らないというのか。湖の抜け殻もろとも、引き裂いてやる。血眼がまっすぐシルヴァディを射止め、刺し貫いた。

 ARシステムが破壊され、頭部の翼は歪に変形する。ギラティナの触手から尖る爪は、一撃でエムリットたちを鷲掴みに粉砕し、ビーストキラーを貫いた。

「兄様。にいさまあああああああっ!」

「リーリエ。母を、みんなを……」

 彼らは世界の命運を託し、奈落に吸い込まれていく。

「よくやった、よくやったぞギラティナ……! わたしから、最高の褒美をくれてやる」

 途方に暮れる間もなく、今度はギラティナがのたうち回る。焼け付く熱線の応酬を四方八方から浴びせられていた。熾烈なまなざしが、リーリエたちと合う。助けなど求めていなくとも、目には見えない血の涙を流していた。

 やぶれたせかいの神よ、わたしは兄を傷付けたあなたが心底恨めしい。

 だけど。

 犠牲になっていった者たちの顔をひとつひとつ、浮かべていく。

 煮え滾る想いを抑え、刮目する。

「……もう迷わない。すべてを取り戻しましょう」

 ルナアーラが今までにないほど強力な蒼の光輝をたたえ、おやの決意に応える。

 ウツロイドの頭上に立つアカギが、両腕を広げた。誰よりも打ち震えている。

「邪魔者はすべて潰してやった。シルヴァディとそのトレーナーも消えた!」

「あなたは今、さぞかし喜びを感じているはず。なのに何故、心を消そうとするのですか」

 根源的な疑問に、アカギは愚問とばかり返す。

「喜びすらも、わたしには不要だ。喜びのあとには苦しみが待っている。永久に喜びだけを享受することは出来ない」

「だからすべての感情を消そうと?」

 リーリエが戦う理由も所詮ミヅキたちの受け売りだ。世界というスケールは想像もつかない。それでも、自分の周りにある世界の尊さは理解出来る。一個人がどれだけ世の中に失望を抱いたとしても、全体を粛清する理由には、断じて、成り得ない。

 この人間は、ただ殻だけを求める空っぽな存在だ。理論武装に身を固め、略奪と破壊を正当化しようとする。だからこそ許せなかった。

「……わたしたちは、生きている。モノではないのです!」

 これまでの人生で発したことのないであろう怒号を放つ。

「では、わたしたちは何者だ。何故この世に生を受けた。誰が生んでくれと願った?」

「わたしは、後悔していません。かけがえのない人たちに巡り合えたから」

 アカギにとって、最も耳を塞いで無根拠に否定したい言葉だった。

 友達と呼べる存在、かつてはいたのかもしれない。電子空間の中に、ただ一匹だけ。

 だが、もはや昔の話だ。時間は一線を描き、空間は移ろいゆく。失ったものは戻らない。

「ああ、憎い。憎いぞ。おまえのような人間、恵まれたすべてが。わたしの敵だッ!!」

「それならば、わたしもあなたを敵とみなします。わたしから大切なものを奪っていくというのなら、わたしはあなたを許しません」

「貴様らなど恐れるに足らん。ギラティナもろとも、影の底に消し去ってやる」

 対話は平行線で終了した。あとは力の大きさがすべてを決する。

 伝説の文献に記された大いなる光を照らし出すよう、命じる。

「ルナアーラ、シャドーレイ!」

「ウツロイド、パワージェム!」

 満月が昇る宵の空を超え、遥か光年を両翼に映し出す。星雲が瞬き、銀河の軌跡を描く。

 ルナアーラは宇宙そのものだった。

 万物の流転に影響を及ぼし、惑星と共に見守る月が、光と闇の内にすべてを抱合する。

 生涯を懸けて求めて来たものが、手を伸ばせば届きそうな距離にある。アカギは恍惚として見上げ、満足したように目を閉じた。


 何十匹ものウツロイドが、ばらばらに分離していく。

 ルナアーラの光は世界を傷付けるためのものではなく、清め、癒すためのものだった。ウツロイドたちに目立った外傷はなく、ルザミーネもやがては目を覚ますだろう。

 成し遂げたという実感は一切ない。歴史を左右する偉大な特異点の中心に立ったことなど、どうでもよい。みなを助けられた、その事実ひとつで心は満たされた。

 ルナアーラの首に手を回し、思い切り抱きつく。

「ほしぐもちゃんっ。本当に、あなたは最高のパートナーです!」

 ウツロイドたちが水滴の弾けるような声をあげながら、霞みがかって消え行く。再び、このやぶれたせかいで静かに暮らすのだろう。

 残ったギラティナは瞳だけでものを伝える。奥にはもう怒りも含まれていなかった。だからといって、騒がしい人間やポケモンを受け入れてやるだけの優しさは持ち合わせない。

 潮時だ――神の号令が轟き、景色を一変させる。



 しんしんと降り積もる雪が、指先を冷たく撫でる。

 シンオウ地方かと思えば、天にも届き得る豆の木が生えただけの孤島に移り変わり、実体が掴めない。いわゆる空間の狭間に位置するのだろうと解釈する。

 見渡せば、今回の出来事に関わった少年少女やポケモンたちが生還していた。最初に南国の似合う少年が寝惚けまなこを掻き、隣ですやすや寝息を立てるライチュウにもたれる。

「あれ、ここどこー……?」

「さて。どこでしょうね」

「あ、リーリエにほしぐもちゃんだ。無事でよかったー」

「はい。みなさんのおかげです」

 続々と意識を取り戻していく。まずは各自の警戒を解くところから始めねばならなかった。それぞれの戦い。収めた成果。守り抜いた矜持。ひとつひとつに胸を張る。

「それじゃあ、ほしぐもちゃんがアカギを倒したんだ」

 ミヅキは驚愕を隠せない。

「いえ……倒した、というわけでは」

 返された面々にアカギは含まれていなかった。彼はこれから罰されるのかもしれない。どちらにせよ、報われない末路だ。静まり返る一同にはそれぞれ思うところがある様子。

 重い空気を晴らすように、シロナは空を見上げ、呟く。

「わたしたちにはわたしたちの、ギラティナたちにはギラティナたちの、それぞれの世界がある。それを侵してはならないのかもね」

 大陸を隔てる者同士にも境界があるとばかり、南北にふたつのウルトラホールが開く。

「もう、お別れか」

「あっという間だったねー」

「うん。もっと、色々話したかったなぁ」

 グラジオとハウ、ヒカリが名残惜しそうにする。運命の気まぐれが引き寄せた邂逅は共闘で手一杯だった。お互いのことを深く知れたわけではない。だが、単に知ることだけに留まらない何かを培えた気がする。だから、別れ際も顔つきは精悍として爽やかだった。

 せっかく育んだ縁を、今回きりで終わらせたくない。ミヅキは拳を握る。

「今度は本当に会えばいいんだよ。わたしたちはいつも同じ世界に住んでいる、だから」

「うん! ここで出会えたこと、忘れない」

「みんな、とっても素敵なトレーナーよ。これからも出会いを大切にね」

「世話になった、チャンピオン」

 グラジオとシロナが握手を交わす。ミヅキは羨望のまなざしで彼女を見つめた。言おうかどうか悩み、後悔だけは残したくないと、一際大きい声で叫ぶ。

「シロナさんっ。わたし、シロナさんみたいなチャンピオンになりたいです」

「それは宣戦布告と受け取っていいのかしら?」

 シロナは既に挑戦者、いや同じ地平でミヅキを評価していた。

「……はい!」

「あれ、ずるいよーミヅキ。おれだってチャンピオンになるんだ」

「わたしだって!」

「オレとシルヴァディだって、挑ませてもらうぜ」

 鳴動が曖昧な空間を揺さぶる。ホールを潜らねば、取り残されてしまう。二枚重ねの風景は何度も移り変わり、維持が困難になっている様相を呈していた。

「みなさん、向かいましょう。それぞれの明日へ」

 リーリエの言葉が、別れの合図となる。

 ルザミーネをシルヴァディの背中に乗せ、グラジオたちがホールの向こうに消えて行く。最後はヒカリとミヅキの番となった。

「何してんだおまえら。さっさと行くぞ」

 どことなく輪に入るのが気まずいグズマはホールの番人をしていた。常のあっけらかんとした調子で、不器用に入口を指し示す。

 ヒカリは一拍置いて、意を決したように叫ぶ。

「わたし。ミヅキとバトルしたい」

 いつの間にか敬称は取れていた。

「ここで!?」

「ううん、次会うとき」

「そっか。……なら、チャンピオンになった後だねっ」

 野心旺盛な少女たちは、ライバルたちに内緒で密約を交わす。

 少女同士、ホール越しに待つ元の世界に足をかける前、振り向き合う。

「ミヅキは島巡りを」

「ヒカリはジム巡りを」

「次に会うときは、ポケモンリーグチャンピオンになってから!」

 思わず重なった台詞が、後腐れなくふたりを別々の道へと進ませた。


 ウルトラホールを越え、世界の大穴が跡形もなく閉じた。それでもわたしたちは、時に交叉し分かれ行く軸の中で生き続ける。

 だから、今は迎えてくれる人たちに満面の笑みを向けて、ただいま、と告げた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。