0.
濃紺の星空を、一筋の光が流れていった。
青白く輝くその光は、七色の光の衣を纏って、緩やかな弧を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりと、空を翔けていった。
途中で二つ、三つ、四つと数えきれないほどの欠片を溢して、更に輝きを増しながら落ちていく。
いつだったか、まだ大きな匣の様だったテレビの画面に映し出されたその光景を見て、まだ小さかったぼくは思わず息を呑んだ。
夢でも見ているのかと思った。でも、違う。それは本当にあった事なんだと、子供心に信じ込んでいた。
そして、いつか自分もこんな光景を実際に見てみたいと思うようになった。
その星がやってきたのは今から14年前、ぼくが生まれる4年も前のことだった。
1.
乗船所の入り口をくぐった瞬間、ぼくは天使を見た。
何故そう思ったのか、正直なところよく分からなかった。ただ、それまで経験したこともないくらいの衝撃が、ぼくの心を貫いていったことには間違いがなかった。
乗船所の待合室に入ってすぐのところに、彼女は立っていた。絶世の美女というわけではないけれど、落ち着いた感じの素敵な人だと思った。深みのある茶髪は短く切りそろえられ、化粧っ気のない肌は白い。白のキャミソールの上からグレーの半袖パーカーを羽織って、丈の短い紺のデニムパンツを穿いていた。背丈はぼくと同じくらいで、目の前に立ったらちょうど目線が合いそうだった。
ふと、彼女がぼくの方へ顔を向けた。そして、何もできないまま立ちすくんでいた初対面のぼくに、目を細めて微笑んで見せた。
瞬間、ぼくの体を電流が駆け抜けた。体が、顔が、心臓に近い方から順に熱くなっていった。彼女がぼくから目を離した後も、ぼくは彼女に釘付けで動けないでいた。
「ここは乗船所だよー。受付のお姉さんも教えてくれるけど、今は他の地方へ渡る為の船を造っているんだー……って、サン?どしたの?」
アローラ地方に引っ越してきたばかりのぼくに街を案内してくれていた少年の言葉が、耳から入ってそのまま逆の耳から出ていく感覚。まともに考えることができないほどに頭は熱を発していた。それは病気ではないけれど、病気に近いものなのかもしれない。足の先から頭の先まで真っ赤に染まる頃には、ぼくは踵を返して走り出していた。
「ちょっと、サン!?どこいくのさー!?」
彼には申し訳ないけれど、今そこにいたら、ぼくはもうどうしようもなくなってしまっただろう。ぼくの本能がぼくの体を、心を守る為に、全速力で乗船所からぼくを遠ざけた。
走っているうちに潮の香りを運ぶ朝の風を受けて、火照った体が少しずつ冷めていくのを感じた。同時に熱暴走で飽和していた思考も、徐々に本来の機能を取り戻しつつあった。
あの人は運命の人だ。そう確信した。単なる激しい思い込みに過ぎないかもしれないけれど、そう思ってしまったのだから仕方がなかった。
「ねー、サン?聞いてる?」
掛けられた声にハッとして、声のした方に目を向けた。いつの間にか、ぼくはマラサダ(アローラ地方でよく見かける揚げパンのこと)を齧りながら物思いにふけっていたらしかった。薄く粉砂糖の化粧をして、口の中でしつこすぎない油がじゅわりと弾ける。本来ならば甘いはずのマラサダが、この時は随分と味気なく感じていた。
声を掛けてきたのは向かいの席に座った、深緑色の長い髪を後ろで束ねた色黒の少年、ハウ。ぼくがアローラ地方にやってきて、初めて出会った同年代の子だった。午前中に街を案内してくれたのも彼だった。
ぼくと彼は今、乗船所から歩いて数分のところにあるマラサダショップの窓際の席に向かい合って座っていた。ぼくが乗船所から逃げるように出ていった後、追い付いたハウに手を引かれてやってきたのがこの場所だった。
「サン、何か変だよー」
「そう、かな……」
「そうだよー。何でもない時にぼーっとしちゃってさー」
心当たりは、一つしかなかった。いつの間に顔に出ていたのかと思いつつ、ハウのまっすぐな瞳を見ていると、隠し事なんてできないような気がしてならなかった。
「実はさ……」
ぼくは、ぼくの身に起こった出来事を、包み隠さず打ち明けた。……そう、造船所に入ってすぐのところにいた女の子が笑いかけてくれたこと。多分、それからおかしくなったこと。ハウは初めて出会った時から変わらない柔らかい笑顔で、ぼくの話を最後まで聞いてくれた。
「そっか。サンはきっと、その人のことが好きなんだね」
全てを話し終わった時。ハウは羨むでもなくはやし立てるでもなく、静かに言った。目の前に彼女がいるわけでもないのに、ぼくは恥ずかしくて俯いてしまった。
「うん」
小さな声で肯定すると、
「じゃあ、伝えなよー」
間髪入れずにハウが言った。ぼんっ、と頭のどこかで音がしてしまうかと思うくらい、顔が熱くなった。何も言えずに、しかし何か反論しようとしたところで、
「思ってることは口に出さないと。黙ってても伝わらないよー」
というハウの追い打ちに口を噤んでしまう。ハウが言っていることは紛れもなく事実なのだから。
自分では灯せなかった勇気の火が、火照った胸の奥で小さく生まれた。
2.
マラサダショップを出た後、ぼくはハウに連れられて再び乗船所を訪れた。出入り口の前まで来ると、
「じゃあ、頑張ってねー!外で待ってるからー!」
そう言って、ハウはどこかへ行ってしまった。一人残されたぼくは、逃げ出してしまいたいという気持ちを抑え込んで、出入り口の自動扉をくぐった。
心臓の鼓動が嫌にうるさく聞こえた。周りの人に聞こえていないだろうか。歩き方がぎこちなくなっていないだろうか。どんな不安も、知らぬ間に飽和する感情の渦の中へ呑まれて消えていった。一歩一歩近づくたびに、顔が熱くなっていくのがよく分かった。
何と声を掛けていいのかは分からなかった。ただ、こちらに気付いてもらえなければならないという思いが、最初の一言を絞り出した。
「あのっ……!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。小さな肩がびくっと跳ね上がった。自分かな、という風に恐る恐るこちらを向いた彼女に、ぼくは次に浮かんできた言葉を告げた。
「急に来てこんな事言うとびっくりするかもしれないんですけど」
断られるかもしれない。断られても仕方がない。心の中ではそう思いながらも、しかしハウにもらった勇気は確かに、後ろめたい気持ちを押しのけてぼくが前へ進む後押しをしてくれた。スタートを切ってしまえば、後はもう勢いに任せるだけだった。ぎゅっと閉じてしまいそうな目をぱっちり開いて、彼女の顔をしっかり見つめて、はっきりとした声で伝えた。
「一目惚れ、しました」
彼女の目が驚きに見開かれた。しばらくまじまじとぼくの目を見つめて、やがてその目に涙が浮かび始めた。最初はじわりと滲み出る程度だったのが、徐々に大粒のそれに変わっていった。
「あ、あの、大丈夫……?」
せっかくハウからもらった勇気が、彼女の涙で湿っていくようだった。そこにいくばくかの申し訳なさも加わって、あれほど大きかったぼくの声はすごすごと萎んでしまっていた。
「ごめんなさい。ちょっと、心の整理がついてなくて……」
彼女は涙を止めようと必死で涙を拭っていた。それでも、涙は次から次へと溢れてきた。
「こっちこそ、ごめんなさい。いきなり押しかけてこんなこと言ったら困るよね」
お詫びの意味も込めて、ぼくはポケットからまだ使っていないハンカチを取り出して、彼女に渡した。すると、彼女はハンカチを受け取りながらも、首を横に振った。
「そうじゃないの……私……」
彼女の喉はひくついて、言葉を紡ぎ出せないようだった。それでも何か言いたげだったから、ぼくは何も言わずに彼女の言葉を待った。少ししてやっと落ち着いた彼女は、おもむろに口を開いた。
「私、24日後の夕方に、船に乗らなきゃいけないの。だから、せっかく声かけてもらったのに、お別れしなきゃいけないの」
それは、その時のぼくにとってはあまりにも残酷な宣告だった。別れる当日に告げられるのはショックだっただろうけど、離ればなれになるのが分かっているというのは、それはそれで辛い気がした。
「でも、船は怖いからちょっと不安なの。だから……」
沈みかけたぼくを見て、彼女は言った。
「もしよければ、あなたにお見送りしてほしいな」
断られるかもしれない。断られても仕方がない。そんな雰囲気が、嫌でも伝わってきた。それくらい、彼女は長い間思いつめていたのだろう。見る限り、ずっと一人で出発の日を待ち続けていたんじゃないんだろうか。そうでなくとも、彼女のお願いを断る理由なんて、見当たらなかった。
「もちろん!」
最初の勢いを一気に取り戻して、ぼくは叫んだ。彼女の肩が、またびくりと跳ねた。それまで泣いていたのが嘘のように、彼女の顔がパッと輝いた。
「嬉しい……!約束ね。24日後の夕方だから!」
「うん……!分かった、約束……!」
ぼくに詰め寄って、手を取ろうとした――と思ったら、祈るように両手を組んで笑った彼女に、ぼくは右手の小指を差しだした。でも、彼女は何のことか分からないという顔で首を傾げた。地方が違えば約束の方法だって違うのだと思い立って、ぼくは差し出した手をすぐに引っ込めた。じゃあ、と軽く手を振って乗船所の出入り口へ向かって歩き始めたぼくは、相変わらず動きはがちがちで、周りから見てもぎこちなかったのだろうと思った。あと一歩で自動扉が開くというところで、
「それと……!」
びっくりするくらい大きな声が背中にぶつかってきた、ぼくの心臓が跳ね上がった。それは、彼女がぼくを引き留めた声だった。ぼくが声を掛けた時もこんな感じだったんじゃないかって思うと、少し申し訳ない気持ちになった。
「もしよかったら、これから毎日、この島で体験したことを聞かせてほしいな」
その時のぼくは、きっと心底驚いたような顔をしていたんだと思う。彼女の方から誘ってくれるなんて思っていなかったぼくは、どぎまぎしながらも必死に笑顔を作って言った。
「喜んで」
笑顔が引きつっていないかどうかなんて考えは、頭の中から完全に抜け落ちていた。
「おーい、サンー!」
乗船所から出ると、辺りはもう暗くなり始めていた。乗船所からちょっと離れたところにある電灯の下でハウが待っていた。大きく手を振るハウのところまで駆けて行って、一緒に歩いて家路についた。
「どうだったー?」
歩きながら、ハウが訪ねてきた。ぼくは、彼女が24日後に旅立ってしまうこと、その見送りをすること、出発の日まで毎日、彼女と会う約束をしたことを伝えた。肝心な時に限って、ぼくの思考は普段の何倍も遅くなってしまう。上手く言葉が浮かんでこなくて、片言になったり何度か言い直したりしながら話すぼくに、ハウは笑って
「えへへ、よかったじゃん」
と言ってくれた。
こうしてここまでこれたのは、みんなハウのおかげだった。だからこそ、ちゃんと伝えなければならないと思った。
「ハウ」
「なにー?」
名前を呼んだはいいのだけれど、次の言葉が喉に突っかかって出てこない。
「その……何というか……」
喉のつかえを取るように、ゆっくり、大きく深呼吸をして、ぼくはその言葉を告げた。
「ありがと」
照れくささに顔を背けてポケットに手を突っ込んだぼくに、ハウは白い歯を見せてにかっと笑ってみせた。
「あ」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。ポケットに入れた手が違和感を覚えたのだ。今の今まで完全に忘れていた。
「ハンカチ、返してもらうの忘れてた……」
どうしよう、と振り向くとハウはまた笑って、頭の後ろで両手を組んで言った。
「また会いに行くんでしょ?次に会う時でも大丈夫だよー」
そうやって何事も楽観的に考えるのは、ハウのいいところだと思った。過ぎてしまったことを悔いても始まらない。ぼくも見習わないと、と心の中で繰り返した。
ふと見上げた星空を、一筋の光が流れていった。それはほんの一瞬のことで、まばたきをした次の瞬間には、星空のどこかに消えてなくなっていた。
3.
そこから、毎日のようにぼくは彼女に会いに乗船所へ足を運んだ。彼女はいつも同じ場所に立っていて、ぼくが来るたびに約束の日を確認した。ぼくが何度わかっていると言っても、彼女は変わらず日付の確認をし続けた。
ぼくは彼女に頼まれた通り、その日その日に起こった出来事や、それまでに体験した出来事を彼女に話した。他愛のない話から、アローラでの初めての経験まで、どんな話をしても彼女は興味ありげに聞いてくれた。
次に会った時には、テンカラットヒルで試練に挑戦して、ぬしポケモンのジャランゴと戦った時のことを話した。試練で終始活躍してくれた相棒のゲッコウガをボールから出して見せると、彼女は随分と驚いた顔を見せた。
「わあ、これがゲッコウガか~!本では読んだことがあったけど、本物は初めて見たよ!」
「元々カロス地方のポケモンなんだけど、ぼくがこっちに来る前に誰かがぼくに送ってきたんだ」
「じゃあ、まだ一緒に旅を始めて間もないんだ。それにしてはよく懐いてるね!」
彼女は物珍しそうに何度も何度も、アローラ地方には生息していないというゲッコウガの周りをまわってじっくりと観察していた。触ってみてもいいと伝えたのに、彼女はなぜか触れることだけはしなかった。
ある時は、ハウオリシティに来たばかりの時に、スカル団と名乗るチンピラに絡まれたこと。試練が終わったタイミングでスカル団の幹部が仕返しに来て、返り討ちにしたことなんかを話した。
「ああ、あの人たちね……」
「知ってるの?」
ぼくが訪ねると、彼女は困ったような顔で言った。
「うん……時々町中でバイクを乗り回して、道行く人たちを困らせてるのを見かけたわ」
「ああいう不良グループって、どこにでもいるんだ」
「あなたが元いたところにもいたの?ああいう人たち」
ぼくのいたカントー地方では、ロケット団っていう悪の組織が幅を利かせていた。ポケモンを乱獲したり、変な薬や機械でポケモンを操ろうとしたり。人工的にポケモンを造ろうとしたこともあったとか。とあるポケモントレーナーの少年によって壊滅に追い込まれたけれど、ボスは姿をくらましてまだ捕まってない。そのことを話すと、彼女はあからさまに眉をひそめた。
「こっちと比べると、随分と大きい集団なのね……ひとのポケモンを奪うのは一緒だけど、スカル団が可愛く思えてきちゃう」
少し怯えた様子から一転、口に手を当ててクスクスと笑う様に、ついつい頬が緩んでしまう。
あまり物騒な話を続けるのも気が引けたので話題を変えて、幹部とのバトルでククイ博士のピカチュウと一緒に初めてZ技を使ったことを話した。
「Z技まで使えたんだ!」
「一回だけだけど……」
「初めてでちゃんとZ技が使えたんだからすごいよ!」
……この話は持ち出さない方がよかったかもしれないと思った。嬉しいけれど照れくさくて、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
ある時には、初めてライドポケモンのケンタロスに乗って、岩を砕きながら丘を登ったことを話した。
「ポケモンに乗るのは初めて?」
「カントーでも何度かあったけど、あんな風に岩を砕きながら走ったことはなかったなぁ」
ぼくはカントーでとある牧場に行った時のことを思い出していた。その時乗せてもらったのは、確かポニータだった。それも、走り回るわけではなくて、広い牧場の柵の中を歩き回っただけだった。そのことを話すと、
「最初は乗って歩くだけでも難しいからねぇ」
彼女は苦笑して頭を掻いた。過去に何かあったのかと思ったけれど、深くは訊かなかった。
それから、岩を壊して進んだ先で謎のおじさんに出会って、星の砂を貰ったこと。何度かそのおじさんのもとを訪れているうちに、おじさんにとってぼくが特別な存在になっていたらしいこと。
「きっと、山奥に一人で籠っていたから、寂しかったんじゃないかな?」
「なら、人がたくさんいるこの街に来ればいいのに」
「多分、そのおじさんには、一人でそこにいなければならない理由があるんじゃないかな?でも、時々人に会いたくなる。だから、あなたみたいなもの好きな人がやってくるのが楽しみで楽しみでならないんだとおもうわ」
「そうなのかなぁ……」
今度あの丘を訪れた時は、いつも通りそこにいるであろう謎のおじさんに、いつもそこにいる理由を訊いてみようと思った。今考えてみれば、あのおじさんはぼくにとってもある意味で特別な存在になっていたのかもしれない。
ある時は、不思議な鞄を持った金髪の女の子に出会ったことを話した。身に着けていたワンピースや鍔広の帽子は全て清潔感のある白で、どこかのお金持ちのお嬢様のように見えた。その子が肩からかけていた鞄が、風が吹いたわけでもその子が動かしたわけでもないのに動いたのだ。
「その子、もしかして……」
何かを言いかけた彼女は、ぼくが顔を向けると
「あ、いや、何でもないの。もしかしたら知ってる子かなって」
と言ってごまかした。ぼくが気になるという目で彼女を見ていると、彼女は観念したように話し始めた。
「この島から南へ行ったところにね、アローラ地方のお金持ちがポケモンを保護するために造った人工島があるの。その島の代表の娘さんかなって」
エーテルパラダイスという名前の場所があることは、アローラ地方のガイドブックで知っていた。そこが人口島だってことも、傷ついたポケモンたちを保護する場所だってことも。その場所を造った人の姿も、うすぼんやりとだけれど覚えていた。腰まである長い金髪の、スタイルのいい女性だった気がした。その人の服装が真っ白だったこともあって、彼女が言っていた「代表の娘さん」と言う言葉があながち間違いではないような気がした。
「去り際にククイ博士に用があるって言ってたからすぐにククイ博士のところに行ったんだけど、その子はどこにもいなかったんだよね」
ククイ博士というのは、アローラ地方のポケモン博士の一人だった。ポケモンの技の研究をしていて、実際に自分で技を受けたりもしているそうだ。テンカラットヒルでの試練の時も、博士の助言がぼくを何度も助けてくれた。そんな博士が嘘を吐くはずはないと思いながら、しかしその時ばかりは博士を疑わざるを得なかった。
「博士はなんて言ってたの?」
「訊いたけど、はぐらかされた」
不思議なこともあるものだと思いながらも、顔を見合わせて、二人して笑った。
ある時は、ポケモンセンターでククイ博士におかしなことを訊かれたことを話した。
「ぼくが集めた道具や相棒のゲッコウガを、“せいひんばん”に送るかどうかって訊いてきたんだ。でも、“せいひんばん”って何のことか分かんなくて。ククイ博士も詳しく教えてくれないから……」
この話をした時、彼女の顔が一瞬で曇った。何かを知っていて、でもなんて返そうか迷っているみたいだった。
「もしかして、変なことを言ってぼくをからかってるだけなのかも」
もちろん、ククイ博士がそんな人ではないことは分かっていた。何とか話を繋げようとしたけれど、彼女の表情は晴れなかった。何か面白いことはなかったかと考えて、思い出した。乗船所の前で恐ろしい取引が行われると言っていた警官と一緒に見張りをしていた時のことだった。
「怪しげな取引っていうから、いつでもゲッコウガを出せるように準備してたんだ。そうしたら、男の人が二人、ヤドンを連れてきて……」
「連れてきて……?」
思いつめたような顔をしていた彼女がゴクリと唾をのむ。
「唐突に、互いのヤドンを褒め合い始めたんだ」
ここで盛大にずっこけてくれると期待していたのだけれど、彼女はああ、そういうことかという風に大して驚いた様子はなかった。
「この島ではヤドンは結構人気だからね。ヤドンを飼っている人たちは、時々そうやってヤドンの自慢大会みたいな集まりを開いたりするの。そういうことをしない人から見たら、確かに恐ろしい取引なのかもね」
「世の中には知らなくていい世界がたくさんあるんだなぁって、警官の人も苦笑いしてた。この前も言ったけど、女の人が彼氏って言ってカイリキーを紹介してくれたりしたし……」
既に彼女には話したことだったけれど、ヤドンの取引よりも随分と前に、麦わら帽子の女の人が彼氏を紹介してくれると言ってぼくを引き留めた。どんな人だろうと思っていたら、なんと人間ではなくカイリキーだったのだ。がっちりとした体形のカイリキーは女性に特に人気なのだと、その話をした時に彼女は言っていた。
「そうね……この島一つとっても、私たちの知らないことがたくさん眠っているのかもね」
そう言って彼女は笑った。ぼくもつられて笑顔になった。
市役所でおじいさんが連れたピカチュウの誕生日をお祝いしたり、見たことのないふさふさの髪を携えたダグドリオを見かけたり。捕獲チャレンジで野生のポケモンをたくさん捕まえたり、テンカラットヒルへの道のりでトレーナーとバトルしたり。試練を受けた洞窟の入り口で、カイリキー同士のアローラ相撲を見たこともあった。とにかく毎日いろんなことがあったから、話題には困らなくて済んだ。彼女と話す時間がもっと続いてほしいと、心の底からそう思っていた。
ずっと彼女と一緒にいたいというぼくの願いが叶わないことは、彼女に会いに行くたびに彼女が最初に告げるカウントダウンが物語っていた。残りの日付が少なくなるたびに、彼女の表情に少しずつ寂しさが混じっていくような気がしてならなかった。だから、残された日をできる限り大切に過ごそうと心に決めて、彼女のところへ行くのだった。
4.
24日なんてあっという間で、約束の日はすぐにやってきた。もっと長い時間彼女といたかったけれど、彼女の都合を曲げることはできそうもなかったし、何より無理に曲げようと思えなかった。
約束の時間よりも少し早く乗船所に行くと、彼女はいつもの場所に立って、ぼんやりと改札ゲートの方を眺めていた。自動ドアが開く音に反応した彼女の、不安を滲ませた顔に光が灯った気がした。
「来てくれたんだ」
静かに、けれどはっきりと。そして、心の底からそう思っているように、彼女は言った。
「嬉しい……ありがとう!……怖いけど、あなたがいてくれるから、私、頑張る!」
ぼくは何も言わずに――何も言えずに、笑顔で一つ頷いた。
「お礼を受け取って」
彼女はどこからともなく何かを取り出してぼくに差し出した。ぼくの手に乗せられたそれは、ぼくが最初に彼女に会った時に渡したハンカチだった。風呂敷みたいに畳んで結んであって、何か丸い物を中に包んであるみたいだった。
「これ……」
毎日彼女と話すのが楽しみで、楽しくて、そのことばかり考えていて、ハンカチのことなんかいつの間にか忘れていた。
「ごめんね。私もすっかり忘れてて。……開けてみて」
言われるままにハンカチの結び目を解くと、何だかよく分からないごつごつした小さな石ころが包まれていた。
「これは……?」
「内緒。きっとそのうち分かるわ」
彼女は左手の人差し指を立てて自身の唇に当てた。ぼくはその石が傷つかないように、もう一度ハンカチで包み直してから鞄の中に入れた。
ぼくが隕石をちゃんと受け取ったのを確認すると、彼女は少し顔を上げて目を閉じて、感慨深げに呟いた。
「ああ、やっと会えるよ……パパ、ママ……!」
その時は単純に、離れた土地にいる両親のことを想って言ったのだと思った。少女は瞼を開けてぼくの方へ向き直ると、
「……さよなら」
と、ひとこと残してゲートへ向かった。少しだけ、ほんの少しだけ寂しさを浮かべた、しかし覚悟を決めた笑顔だった。その顔を見た瞬間、ああ、もう二度と彼女には会えないんだ、と思った。何故だか分からないけれど、ぼくの直感がそう囁いていた。
行ってしまう。引き留めたい気持ちはやまやまだった。でも、できない。手を伸ばせばまだ届くかもしれない。一歩踏み出せれば、まだもう少し一緒にいられるかもしれない。それなのに、ぼくの足は動かなかった。今は動いてはいけないというように、何かが地面に足を縫い付けているような感触がした。そうしている間にも、彼女の背中はどんどん遠ざかっていった。
そして――
「ワッハ!」
二人の間を隔てるように――
二人の住む世界は違うんだとでもいうように――
二人の間をカイリキーが通り過ぎていった。
灰色の岩のような肌に遮られた視界に次に映ったのは、乗船口へと続く改札ゲートだけだった。改札ゲートから乗船口まではそれなりに距離があるはずだったのに、彼女の姿は、もうどこにもなかった。
5.
それは、言葉では表しきれないくらい、とてもとても美しい光景だった。
真っ白な光を放つ何かが、六色に輝く光の衣を纏って空を翔けていく光景だった。
光り輝く何かは、緩やかな弧を描きながら山の端へと消えていく――はずだった。
美しい光は突如として、二つ、三つ、四つと、数えきれないくらいの欠片に分かれて散っていった。
いくつ欠片を落としても、核の部分は軌道を変えることなく流れ落ちていった。
それは段々と大きくなって、眩しくて目を瞑ってしまうくらいに大きくなって。
少女の胸にぶつかって、消えた。
6.
乗船所から出ると、水平線を赤みの強い橙に染めながら太陽が沈んでいくところだった。その様子を、ぼくは乗船所の外の岸壁に腰を下ろして眺めた。太陽が水平線の向こうへ沈んでいくように、ぼくにとっての太陽が、二度と戻ってくることのない遠い遠いところへ旅立ってしまう。
「もう、たそがれどきだねー」
いつの間にやってきたのか、ハウがぼくの隣に腰掛けて言った。
「たそがれどき?」
「うん。昼でもない、夜でもない時間のことだよー」
夕方のことをそんな風に呼ぶということは、カントーにいた頃にも聞いたことがあった。ただ、そんな仰々しい呼び方よりも単に「夕方」と呼んだ方がしっくりくると思っていたから忘れてしまっていた。
「でねー。この時間には、あの世とこの世の境目が曖昧になるんだってじいちゃんが言ってたんだー」
なるほどそんな意味もあったのかと頷いたところで、ぼくは動きを止めた。何かが引っかかった。
「今、何て言った?」
頭の中で何かがぐるぐる回っている。何が引っかかったのか、頭の中で必死に探している。ハウの言葉を聞き逃すまいと澄ました耳に、その言葉は鮮明に焼き付いた。
「えーと、あの世とこの世の境目が曖昧に……」
はっとした。そういうことだったのかと、今更気が付いた。
「行かなきゃ」
ハウの言葉を途中で遮って、ぼくは立ち上がった。確証はないけれど、彼女と別れた時に感じた違和感が正しいならば、今ならまだ彼女に会えるかもしれない。
「ありがとう、ハウ!ぼく、行かなきゃ!」
ぼくは乗船所へ向かって走り出していた。入り口の自動扉が開くのを待つことさえもどかしく感じた。急いで受付カウンターの前まで行って、いつもそこにいるお姉さんに尋ねた。
「ねえ、お姉さん。他の地方へ行く連絡船、もうできた?」
「今!まさに!ポケモンと共に、連絡船を作っています!首を長くして待っていてください!」
その言葉を聞いて確信した。
「ごめんなさい。ナッシーみたいになるまで待てないや」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、ぼくは言った。それから入り口のところまで戻って、短い距離ながらも助走をつけて、改札ゲートを跳び越えた。そして、受付のお姉さんの制止の声も聞かず、造りかけだという船の一部が見える出入り口の向こうへ飛び込んだ。
どこかでカチリ、と音がして――
ぼくの目の前が真っ暗になった。
7.
今から10年前――ぼくが生まれた年に、シンオウ地方でポケモンリーグに挑んだトレーナーが何人も行方不明になる事件が起こった。そのうち何人かは無事に帰ってきたのだけれど、それぞれが普段は人がなかなか寄り付かない場所へ出てきたという。
シンオウ本土、トバリシティから南へ下る途中、東に隠れた道を進んだ先にある第四の湖、黒い翼の竜の目撃情報があったとかなかったとか言われる、通称送りの泉。
本土の北西、悪夢を払うとされる三日月のポケモンが棲んでいるといわれる満月島。その満月島と並び立つ孤島、悪夢を見せるポケモンが棲んでいると噂される新月島。
シンオウ地方の北西、海を割って現れた道の先に存在する、感謝を伝えるポケモンがいるとされる花の楽園。どれも、伝説や幻といったポケモンがいると噂されている場所である。
恐ろしいことに、それらの場所から帰ってきた人以外の者は皆、崖の途中であったり川の底であったり、とにかく奇妙な場所で変死体として発見されたというのだ。
ポケモンリーグの一人目の四天王、リョウが待ち構える部屋の中から閉じてしまった入り口の扉に向かってポケモンに波乗りを命じると、水もないのにポケモンが壁の向こうに浮かんでしまう。そのポケモンに乗ってさらに先へ行こうとすると、トレーナーだけが何もない真っ暗な空間にはじき出される。波乗りを命じたポケモンをボールに戻すことはできても、リョウのいる部屋に戻ることはできない。普通に歩き回ることも自転車に乗ることもできる上に、何もない場所にもかかわらず釣り糸を垂らすとルアーが水の中に沈んでいくように地面に沈む。しかし、野生のポケモンに出会うことはなく、釣り竿を垂らしてもポケモンを釣り上げることはできない。ポケモンリーグのユニオンルーム内で突然意識を失った人々が、気が付くとこの場所(以下、謎の場所)にいたという事例も報告されている。
謎の場所でGPS機能付きの地図を開くと、自分が立っている場所がシンオウ地方のどこか――街であったり森であったり花畑であったりするという。しかし、それはあくまで地図上での表示であり、実際にそこにいる者には街はおろかそこに住んでいるはずの人々もポケモンも、建物も地面すらも見えない。そしてそのまま当てもなく何もない場所を歩き続けると、いつのまにか送りの泉に出ていたという人が、戻ってきた人々の中では大半だったという。
それ以外の満月島、新月島、花の楽園、天の祭壇から戻ってきた人々は皆、謎の場所に入ってから決められた歩数だけ歩いて、そこで探検セットを用いて地下通路に潜ったという。そして地下通路から出た時、彼ら彼女らはそれぞれの場所に出たというのだ。変死体で発見された者は皆、決められた歩数を間違えたり守らなかったりした者たちだという噂もある。
これらの事例が明らかになって以降、謎の場所はあの世とこの世の境目ではないかという噂が囁かれるようになった。事例が報告され始めてから10年が経った今もこの場所を訪れる命知らずはいたようで、この場所からテンガン山の頂上、槍の柱を見下ろす位置にぽかりと浮かんだ、創造神が棲むとされる天の祭壇と呼ばれる場所にも行けるということがつい最近になって発覚したらしい。
そんな記事を、どこかの雑誌で読んだことがあった。本当につい最近のことだったから、鮮明に頭に残っていた。
何故こんなことを思い出したかというと、ぼくが今いる場所が、記事で読んだ「謎の場所」そっくりの、 何も見えない真っ暗な場所だったからだった。
その場所にいると分かった瞬間、ぼくは歩数なんて関係なしに走り出した。伝説を、幻を、神と呼ばれる存在を探すのと同じくらい必死に、どこにいるのか分からない彼女を探して、どこまでもどこまでも走り続けた。
風は全くなかった。寒くも暑くもなかった。ただ、息だけは普段走っているのと変わらずに、少しずつ少しずつ苦しくなっていった。それでも、足だけは止めなかった。今立ち止まったら、決して追い付けないような気がしたからだった。
そして、遂に――
何も見えない真っ暗闇の中で、グレーのパーカーに紺のデニムを着けた後ろ姿を見つけて、ぼくは叫んだ。
8.
「待って!」
ぼくの声に、彼女の肩はもう跳ね上がることはなかった。静かに振り向いて、静かにぼくに尋ねた。
「どうしてここにいるの?ここはあなたが来るべき場所じゃないわ」
一言で説明できるほど、ぼくは物事を簡潔にまとめるのが上手ではなかった。順を追って、一つ一つ告げていく。
「船はまだできてないって受付のお姉さんが言ってた」
最初にピースを一つ置いて、別のピースと繋ぐ。
「なのに、君は船に乗るって言ってたから、おかしいなって思って」
手順が決まったパズルのように、一つ一つ隣り合うピースを嵌めていく。
「で、君と別れた時に、カイリキーがぼくの目の前を横切って、すぐ後には君はもうどこにもいなくて……」
もうすぐ結論だというところで、言葉に詰まる。よくよく考えて、思い出して、次に告げるべき言葉を紡ぎ出す。
「乗船所の外に出たら、ちょうど黄昏時だったから――あの世とこの世が繋がる時間だったから。今引き返せば、まだ間に合うかなって」
「気づいちゃったか」
彼女は観念したようにほっと溜息をついた。落胆のそれではなく、どこか安心したような、落ち着いた溜息だった。
「分かった。全部話すわ」
彼女は目を伏せて言った。それから、昔話を始める語り部のようにゆっくりと話し始めた。
「14年前、大きな彗星がやってきたのを知っている?」
「うん。テレビで観たことがある。すごく綺麗だったのを覚えてる」
「あなたが生まれる前の話になってしまうけれどね。彗星が割れて、その欠片が世界中にいくつも降り注いだの。カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ、イッシュ、カロス、そして、このアローラ地方にも」
今度は、ぼくが目を見開く番だった。あの映像を見た当時は流れ星の美しさに見惚れるばかりで、そのあとにどんなことを言っていたかなんて聞いていなかったからだった。
「幸いにも、彗星の欠片はそれほど大きな被害を及ぼすことはなくて、ほっとしたのを覚えてる。それとは別に、アローラ地方で同じようなことが起こった。彗星みたいに輝く星が空で割れて、いくつもの欠片が落ちてきた。こっちも地面が抉れたり、建物が一部破損したりするくらいで、私が知る限り、これが原因で死んだ人は一人しかいない」
そこまで聞けば、何となく答えの想像はついた。それが、ぼくがここにいる理由に他ならないのだから。
「私が、その一人」
「君、やっぱり幽霊だったんだね」
「うん……黙っててごめんね」
申し訳なさそうに言う彼女を咎める気にはならなかった。よくよく考えてみれば、おかしいと思えるところは何度もあった。彼女はぼくやぼくの周りのものに触れることを拒んでいたように思えた。彼女は幽霊だったから、形あるものに触れることができなかった。ただそれだけのことだった。にもかかわらず、ぼくがそのことに気付かなかったという事実は変わらない。
「でも、どうしてこの石と僕のハンカチには触れたの?」
ぼくはカバンから、ハンカチに包んだままの彼女にもらった石を取り出した。ハンカチを解くと、彼女と自分の持ち物以外何も見えない暗闇の中で、その石はうすぼんやりと輝いているように見えた。彼女はその石を一度だけ持ち上げて離し、次に石を握っているぼくの腕に触れようとして、出来なかった。彼女の手は、ぼくの腕をすり抜けた。
「私にはね、役割があったの。その役割を果たすために、必要なものしか触れられないことになっていた、はずだったの。あなたからハンカチを受け取った時には忘れてて、なぜかはわからないけれど、そのハンカチには触ることができた。それでも、いつ触れなくなって、私が人間じゃないってことがばれるかって思うと怖くて」
言って、彼女は苦笑した。
「で、君の役割っていうのは?」
ぼくが尋ねると、彼女は答えではなく質問を返した。
「千年彗星って知ってる?」
ぼくはちょっと考えてから頷いた。さっき彼女に言われて答えた、テレビで観た彗星がそんな名前で呼ばれていた気がした。
「千年に一度この星の近くまでやってきて、七日間だけ姿を見せる彗星なんだけどね。その彗星が近付く夜に目覚めて、願いを叶えるポケモンがいるの」
「ジラーチだね」
ぼくが言うと、彼女は静かに頷いた。
「あの日、星が割れた日、私、怖くなってあの星にお願いしたの。どうか私たちをお守りくださいって。そうしたら、ジラーチに願いが届くんじゃないかって」
ジラーチに願いを掛けたことは、ぼくにもあった。ただ、千年彗星が流れた年にはまだ生まれていなかったから、年に一度の伝統行事の日にお願いするくらいでしかなかった。それも叶うか叶わないか分からないような、不確かなものでしかなかったのは覚えている。それでも、願わずにはいられないことは何度もあった。
きっと、その時の彼女も同じだったのだろう。
「でも、あれは違った。私の勘違いだったの。千年彗星じゃなくて、もっと別の存在――メテノっていうポケモンだったの」
聞いたことのないポケモンだった。名前を聞く限り、隕石みたいなポケモンなんだろう、という想像がついた。
「そのポケモンはね。普段は堅い殻に包まれているの。でも、殻が剥がれてしまうと、そのままでは長く生きられないの。……あの時もそう。そのポケモンは、安全な場所を探して落ちてきた。それで、落ちてきた先でたまたま見つけたのが私だったってわけ。モンスターボールに入れば生き永らえることができるみたいだけど、私はたまたまモンスターボールを持ってなくて。で、その時そこには私以外に誰もいなくって」
その先は、何となく想像がついた。その時にもし、その場に自分がいたならば。彼女の代わりが、果たしてできただろうか。
「結果的に、流れ星の真ん中の光が私の胸に飛び込んで、そのポケモンの命は救われた。代わりに、人間としての私の命は失われた。でも、こうして私はこの姿でこの世界に残った。この世界で、ある役割を果たすっていう条件付きでね」
お待たせしました、とでもいうように彼女は最後の部分を強調して言った。
ぼくも待ってました、とは言わなかった。随分と回りくどい気はしたけれど、自分が話下手であることを考えると、そんなことを言える雰囲気ではなかった。
「あなたがここに引っ越してきてから決まった日数が過ぎた日に船に乗ると言って、あなたが見送りに来てくれたらお礼にその“すいせいのかけら”を渡す。来てくれなかったら、人知れずいなくなる。ただ、それだけ。そして、私はもうこの世界での役割を終えた」
本当は、メテノは“すいせいのかけら”を持っていないんだけれどね。彼女はそう付け加えた。
あまりにも残酷だと思った。もしもぼくが乗船所に足を運ばなかったら、彼女は何の意味もなく消えてしまうだけだったというのか。そうでなくとも、“すいせいのかけら”をぼくに渡したら消えてしまうというのか。それが、意図せず命を投げ出して別の命を救った者に与えられた運命だというのか。
「最初にあなたが私に告白した時、私泣いちゃったでしょ?あんなことを言ってくれるなんて思ってなかったから、嬉しくてね」
唖然とするぼくに、彼女はそれに、と続ける。
「あなたはちゃんと来てくれた。だから、もう一つお礼に教えてあげる」
人差し指をぴんと立てて、彼女は言った。
「あなたにはもう一つ、大切な役割がある」
「ぼくの……役割……?」
そんなことがあっただろうかと考えてみる。役割らしき役割を頼まれた覚えはない。自分で足を運べるはずの場所には、全て足を運んだはずだ。じゃあ、何気ない会話の中で、それを仄めかすようなことはあっただろうか。
あった。たった一つだけ、まだこなしていない役割と思しきことがあった。ポケモンセンターに立ち寄った時に、ククイ博士が言っていた“変なこと”。
「分かった?」
「うん」
「じゃあ……」
彼女はそこで言葉を止めて、大きく息を吸い込んだ。そして、これまでに聞いた彼女のどんな声よりも大きな声で叫んだ。
「いきなさい!」
全身がびりりと震えた。実際にそうされたわけではないのに、頬をぶたれたような感覚だった。そして次の瞬間には、ぼくは踵を返して走り出していた。彼女と初めて出会った時のように、この真っ暗な世界に迷い込んだばかりの時と同じように、道順も歩数も関係なしに全速力で走った。
全身が火照っていたあの時とは違って、熱いのは胸の奥だけだった。
「行け」という彼女の𠮟咤と、「生きろ」という彼女の激励を受け止めた、小さな胸の奥だけだった。
どれくらい走っただろうか。いつまで立っても闇だらけだった視界の向こうに、ぽつりと小さな光が見えた。一歩前へ進むたびに、その光は徐々に大きくなっていく。それは縦長の長方形で、出入り口のように見えた。
真っ白に輝く光の扉に、ぼくは躊躇うことなく飛び込んだ。
どこかでカチリ、と音がして――
ぼくの目の前が真っ白に染まった。
「私の中で生きていた子が、“せいひんばん”で旅立つ子と一緒に待ってるから」
意識を失う直前に、彼女のそんな声が聞こえた気がした。
9.
流星群が来る。その予報を聞いて、少女の心は躍らずにはいられなかった。いつもよりも遅くまで起きて、宿泊施設を借りているポケモンセンターの外へ出て空を眺めていた。翌日に控えた大試練が上手くいくように、流れ星に願いを掛けるためだった。
やがて、一つ、二つと小さな線が、夜空を彩る星々の間を縫うように流れていった。
その中に、一際大きな星が、うっすらと七色の光のヴェールを纏って、一直線に落ちていった。
すぐに夜空に消えてしまうはずのそれは、一つ、二つと小さな欠片をいくつも溢しながら駆け下りてくる。
それは段々と大きくなって、眩しくて目を瞑ってしまうくらいに大きくなって。
少女の鞄の中に飛び込んで、赤い光の中に消えた。
鞄の中を覗き込むと、まだ使っていなかったはずのモンスターボールが赤い光を発していた。何度かぶるぶると揺れた後、カチリと音がした。それは、ポケモンを捕まえた時の反応だった。
恐る恐る透明な殻の中を覗いてみると――
小さな流れ星の子が、渦巻き型の目で少女を見つめていた。
10.
目を開けた時、真っ先に視界に飛び込んできたのは、心配そうにぼくの顔をのぞき込むハウの顔だった。ゆっくりと体を起こすと、そこは乗船所の待合室だった。ぼくは3つ横に並んだ椅子の一組を占領して寝かされていた。
「よかったー!いきなり待合室に入って、ゲートの向こうで転んで気絶しちゃうんだもん。びっくりしたよー」
ハウに言われて、ようやく思い出した。ぼくは何を思ったのか、まだ船ができていないはずの乗船口へ飛び込もうとしたのだった。そこから先はただ、長い長い夢を見ていた。そんな感覚だった。それが本当に夢だったのか、それとも現実から逃れようとして、夢だと思い込んでいるのかは分からない。ただ、言葉では表しきれないくらい美しい夢を見ていたという感覚、そして目を覚ますと夢を忘れ去ってしまうように、何かが体の中からぽっかりと抜け落ちてしまったような感覚が、いつまでも体に残り続けていた。
「サン、それ、なにー?」
ハウが指差したぼくの手には、ハウが街を案内してくれた日に失くしたと思っていたハンカチが握られていた。そしてその中に包む形で、手のひらに収まるサイズの小さなごつごつした石があった。それがどういう経緯でぼくが握っているのか。ぼくはそれを知っていたような気がした。だが、思い出せない。ただ、それが“すいせいのかけら”と呼ばれる珍しい石で、マニアに高値で買い取ってもらえる代物だということは、はじめから知っていたことのように覚えていた。
つーっと、頬を一筋の暖かいものが流れ落ちた。はじめは一つ二つと数えるほどだったのが、いつの間にかダムが決壊した川のように、温かい雫は波になって流れ落ちた。
「サン、どうしたのー?」
顔に手を当てて、やっと自分が泣いているんだということに気付いた。とめどなく流れ落ちる涙を止める方法を、ぼくは知らなかった。
ぼくに残されたのは、この世界で集めたぼくの役には立たない道具たちと、アローラ地方に旅立つきっかけとなった手紙の主から届いたゲッコウガと、この“すいせいのかけら”だけだった。
ふと、それでいいのだ、という考えが浮かんだ。今のぼくには、大切に握りしめていた“すいせいのかけら”さえも必要のないものなのかもしれないと思った。
乗船所から外へ出ると、既に日は沈んで、山の端から月が顔を出し始めていた。気が変わらないうちに、ぼくはポケモンセンターにいるククイ博士の元へ向かった。
「それらの道具全部とゲッコウガを、“せいひんばん”に送ってもいいんだね?」
“せいひんばん”という言葉の意味は未だによく分からなかったけれど、もう何も必要のなくなったぼくに断る理由は見当たらなかった。それほど大きくはない、しかししっかりと力のこもった声ではい、と返事をすると、ククイ博士は満足げに頷いた。
「ククイ博士。お願いがあります」
最後にぼくは一つだけ、断られるかもしれないことを覚悟で要望を告げた。
「どうしてまた、そんなことを思ったんだい?」
別段迷うこともなく、嫌な顔一つせずに尋ねてきたククイ博士に、ぼくは告げる。ほんの一言で。散々迷いに迷った挙句導き出した想いを全部、その一言に詰め込んで。
11.
月明かりが照らす夜道を、少女は歩いていた。てっぺんが花びらのように広がった赤いニット帽を被り、花柄の半袖シャツの裾を結んで留め、緑のショートパンツを着けていた。左肩から下げた肩掛け鞄には、彼女の手持ちのポケモンと、傷薬やモンスターボールなどの道具がたくさん詰まっていた。メレメレ島の大試練を無事に終えた彼女は、手持ちのポケモンたちを回復させるためにポケモンセンターへ向かっていた。
入り口の扉をくぐった時、いつもと違う光景に彼女は一瞬目を疑った。受付に向かって左側。いつもなら配達員の男の人が立っている場所に、この日は別の人間――彼女と同じくらいの年齢の少年が立っていた。肩まで伸びる黒髪。カントー人の彼女と同じ黒い瞳。青と白のボーダーシャツに、膝のあたりに赤い絞りのあるグレーの短パンを着けていた。髪と同じ黒地に白いモンスターボール柄の入った帽子を被り、背中には肩掛け紐が水色の黒いリュックサックを背負っていた。
ポケモンセンターに入ってきた彼女を見るなり、その少年は彼女めがけてまっしぐらに歩いてきた。彼女の目の前まで来た彼は、おもむろにリュックサックの中から小さな紙袋を取り出した。
「君に、これを」
彼女が受け取ろうかどうしようか迷っているうちに、少年は紙袋を無理矢理彼女の腕に押し付けた。恐る恐る紙袋を開けると、中には何に使うのかよく分からないものばかりが入っていた。見た目が綺麗な羽が十枚。かぐわしい香りのキノコが一つ。キラキラした赤い砂が詰まった、小さな布袋が三つ。砂と同じく赤く輝く宝石の欠片。見るからに高く売れそうな金の玉。
そしてもう二つ。ごつごつした灰色の石ころと、ゲッコウガと呼ばれるポケモンが入ったモンスターボール。
「……どうしてこれを?」
突然のことに困惑するして彼女が訪ねると、彼は真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「これが、ぼくの役割だから」
それほど大きな声ではなかったが、そのほんの一言に、随分と力がこもっているように少女は感じた。少年は憑き物が取れたようなすっきりとした笑顔で軽く手を振って、彼女の隣を通り過ぎていった。置いてきぼりを食らった少女はふと思い返したように、
「あ……待って!」
と叫んで少年を追った。少年は既に、ポケモンセンターの出入り口をくぐった後だった。
彼女がポケモンセンターの外に出た時には、少年の姿はもうどこにもなかった。辺りを見回してみても、近くに身を潜められるような場所はない。近くのを訪ねても、少女以外には誰も入ってきていないという。少年の姿は、文字通り幻のように消えてなくなっていた。
あの少年が何を思ってこの紙袋を渡したのか、正直なところよく分からなかった。それが“役割”なのだとは言っていたけれど、その心の内まで読み取ることはできなかった。
「また、どこかで会えるといいな」
ぽつりと溢した言葉は誰の耳にも届くことなく消えていった。思い返した彼女の頬が、少しだけ顔が赤くなった。彼女の髪を、頬を撫でて通り過ぎていく風が、熱を奪っていく。
「あれ……誰だっけ……」
頬の熱がすっかり冷めた頃、彼女は首を傾げた。ほんの数分前に誰かに出会ったはずなのだが、それがどんな人だったのかが彼女の記憶の引き出しからぽっかりと抜け落ちていた。だが、不思議と不安はなかった。
「君の名前は知らない。顔もはっきりと覚えてない。でも、きっとまたどこかで会える気がする。会えば、きっとわかる……ね、メテノ」
期待のこもった笑顔で、真新しいモンスターボールに呼び掛ける。つい最近仲間になったばかりのそのポケモンは、本来メレメレ島には生息しないはずの、宇宙から降ってきたポケモンだった。
ふと見上げた空に、一筋の白い光が流れていった。
青白く輝くその光は、七色の光の衣を纏って、緩やかな弧を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりと、空を翔けていった。
まるで夢を見ているかのようなその眺めの中で、その白い光は淡い残像だけを残して、月明かりの照らす濃紺の星空のどこかに、消えた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。