人はいつか死ぬ。
それは母の口癖であって、母が俺に教えてくれた数少ないことの1つであって、諦めの言葉であり、希望でもある。
病気がちだった母はろくな治療も受けずに死んだ。母の今際の際、俺が母の手を握っていると、父は1枚の紙きれを俺に投げてよこした。バイトの募集要項だった。終わったら、次、それな。父はそう言って、冷蔵庫から酒を取り出して飲み始めた。
俺はいつもぶかぶかのTシャツを着ていた。父から与えられた服だった。もともとは白かったのだと思うが、元の色を探すのが難しいほどだった。服についた汚れは、例えばレンガについた泥であったり、石炭を運んだ時の煤であったり、父に殴られた時についた自らの血であったりした。
12の時に家を出た。酒を飲んでいる父の後頭部をハンマーで殴り、机の上に乗っていたわずかな札束をポケットにつめた。新月の夜だった。
服についた血の量が増えた。服は、ますます元の色を忘れていくようだった。
あれから10年以上たった今、俺は白い服を着ている。
染み1つない、白い服だ。
元の繊維は、黒かったそうだ。それを脱色した後さらに染色して、白くしているらしい。
肩をゆすられて目が覚めた。時計を見る。昼休憩の時間はまだ終わっていなかった。
体を起こすと、白い手袋が俺の肩から離れた。代わりに茶色のふかふかとした腕が俺の顔をたたく。
彼女はヌイコグマを抱きかかえていた。俺に謝りながら、ヌイコグマが暴れないようあやしている。
彼女はヌイコグマを抱いたまま、PCの画面を顎で指した。
メールが来ていた。開くと地図が画面に現れる。保護対象となるポケモンを指し示す地図。近くの浜辺に赤いポイントが打ってあった。そこに行けということらしい。
2人で行く場合は、2人あてにメールが来る。
俺にしか来ない場合は、俺だけが行く。
小さくうなずいて立ち上がる。車のキーとスーパーボールをポケットに入れる。
キャンピングカーを改造した、エーテル“分室”のドアを開ける。
ヌイコグマをあやしながら、彼女はドアまでやってきて、頑張って、と俺に手を振る。
彼女の手は白い。彼女の手袋は、まだ汚れたことがない。
彼女は、この服の、本当の色を知らない。
世の中には2種類の人間がいる。
持つ者と、持たざる者。
あいつらは、持たざる者。要するに、クズだ。
YELDと書かれた看板を過ぎ去り、細い道を進む。支給されたセダンは幸いにも対向車に会うことなく、一本道を通り抜けた。
その砂浜には水ポケモンが多く生息し、そのことを知る一部の人間にも利用されている。トレーナーにとってはポケモンを鍛える場として、スカル団にとってはポケモンを奪う場として。
服もマスクも黒いのだが、靴は白い。バトルを好むが強くはない。ちぐはぐな色をまとった集団が砂浜を陣取っていた。
人数は7人。場に出ているのはヤトウモリ、コソクムシ、ヒドイデの3匹。レベルは30未満。セダンを降りて、ゆっくりとスカル団に近づく。
保護対象はハギギシリ4匹とサニーゴ3匹。すべて水タイプを含むポケモン。
近づくと、ヤトウモリとコソクムシのトレーナーが反応した。
俺はポケットから黒いカードを取り出す。印籠のようなものだ。俺は向こう側の人間だぞ、とクズ共に知らせるための。
ヤトウモリのトレーナーが意味に気づいたようで、ヒドイデのトレーナーに耳打ちする。おそらく、ヒドイデのトレーナーがリーダーなのだろう。俺は相談の結果を待つ。
エーテルの裏側は、スカル団と結託している。しかし、それを知る職員は多くない。
その事情はスカル団も同じだった。スカル団員の全員が俺たちと協力関係にあると知っているわけではない。知っている方がむしろ少数派だ。
そんな中、この印籠は、スカル団にとって以下のような意味を持つ。
印籠を持つエーテル財団職員は、恐ろしく強いから、手を出すなと。
これがスカル団の幹部連中らと取り決められたルール。
普通のスカル団員は、印籠を見れば逃げ出す。幹部からはそう指示をされているはずだ。
しかし、頭が悪い連中であれば、話は別。まれに印籠の存在を忘れているバカがいる上に、存在を知ってもなお立ち向かおうとするクズもいる。
今回のグループは後者だったようだ。
スカル団の男と女が1人ずつ、ラップを踊るように前に出てきた。トレーナーの指示に合わせて、ヤトウモリとコソクムシが声を上げる。
ヤトウモリが、体を伏せ、尾を上げて、攻撃の態勢に入った。しかし、その口から毒が発射されることはない。
エレブーが小さなトカゲの頭を鷲掴みにして、電撃を放った。哀れなトカゲの顔面は焼けただれ、すぐに叫ぶこともできなくなった。
ついで、と言わんばかりにコソクムシを足蹴にし、電流を流す。これで2体の処理が終わった。俺は、ゆっくりと歩いて戦場に近づく。
ポケモントレーナーとして必要な能力は多くない。強いポケモンを持っていること、そして、静かに遠くまでボールを投げられること。この2点を満たしていれば、大概のバトルには勝てる。
リーダー各の男は、片足になり奇妙なポーズをして全身にその驚きを表現しながら、ヒドイデに技の指示を出した。
ヒドイデが紫の液体を勢いよく発射した。ベノムショックだと判断した。エレブーは足蹴にしていたコソクムシを蹴り上げて、左手に持ち替える。コソクムシにベノムショックが直撃する。盾にされて溶けかかったコソクムシを放り投げ、代わりに両手で電気の塊を生み出し、そのまま放出。ヒドイデも処分した。ヒドイデのトレーナーがどんなポーズをするのか興味を持ったが、うなだれただけで、期待したようなポーズは取ってくれなかった。
ポケモンを持たない女の団員が、流木を両手に持ってエレブーに振り下ろした。エレブーは流木を軽く払う。損傷はない。
ここまでは良い。分岐は次の行動にある。すなわち、女を殺すか、殺さないかだ。殺したいのであれば、放っておけばいい。血に飢えたエレブーが勝手にゴミを掃除してくれる。
人はいつか死ぬ。
俺が殺さなくても、この女はいつか死ぬ。
放っておけばいい。川が流れるように、日が昇るように、鳥が歌うように、人はいつか死ぬ。そんなこと、わかっている。言われなくても、知っている。それでも俺の声は、まるで俺でない何者かに操られたかのように、エレブーに指示を出した。
「もういい、やめろ」
俺の指示に従い、エレブーの腕がゆっくりと降ろされる。流木で殴りかかってきた女は、力が抜けたのか、そのまま砂浜に倒れるように尻をついた。
それからもう一度、黒の印籠を取り出す。まだ戦い足りないものはいるかと。
スカル団が走り去っていくのを横目に、保護対象となるポケモンのダメージを調べる。乾燥しているのを除けば問題ないと判断し、濡れた脱脂綿を乗せてやった後にハイテクワイヤーを投げる。ただの針金だったそれは、箱の枠へと形を変える。ハギギシリとサニーゴを枠の中へ移動させ、枠の頂点についているボタンを押す。バリヤーのような光の壁が枠から放たれ、箱の枠だったものは、本物の箱になった。エレブーに箱を持たせ、セダンに乗り込む。
箱に入れられたポケモンたちは騒ごうとしない。
保護されて安堵しているのかもしれないし、安心しきって眠っているのかもしれない。
逃げ出す気力をなくしているのかもしれないし、このバリヤーを破ることができないことを知って、諦めているのかもしれない。
ハギギシリは個体数が少ないので、保護対象となっている。けれども、ハギギシリが捕食するシェルダーは保護対象になっていない。餌として入荷されることはある。殺してからハギギシリにくれてやる。
生きている者はいつか死ぬ。
ハギギシリに捕食されたシェルダーは死ぬ。捕食したハギギシリも、いつかは死ぬ。
ポケモンの生き死にを人間が左右するのは間違っていることなのかもしれないし、やっていることは保護と銘打ったポケモンの略奪なのだろう。
母は死んだ。人はいつか死ぬ。そう言い残して。
スカル団の下っ端の命を奪うのは容易いし、逆に幹部級の連中と当たった場合は、俺が命を乞う側になるだろう。
人はいつか死ぬ。
ポケモンもいつか死ぬ。
そんな中、ハイテクワイヤーに閉じこめられたポケモンたちの命に価値はあるのだろうか。死期をほんの少し伸ばしただけのこの行為に、意味はあるのだろうか。
「お前らも、いつかは、死ぬぜ」
閉じこめられた命たちに声をかける。
ハギギシリの1匹が、突然大きくはねた。箱の上部に激しくぶつかり、箱が揺れる。それでもなお、この魚は跳ねるのをやめようとしない。ほかのポケモンたちはピクリとも動かないのに、ただ1匹だけ、箱から出ようともがく。フレームにかみつき、前歯が2本折れた。
ハイテクワイヤーは傷つかない。
運転席に取り付けられたレシーバーがピピピピという音とともに赤く光った。受信ボタンを押すと、ヌイコグマの喚き声をBGMに、相方が大声を出していた。
「ゴメン、また仕事の依頼だって!」
彼女が続ける。
次の依頼は、支部長殿直々のご依頼であるらしい。
◇
私のお父さんは神様の存在を信じていた。
私のお母さんは家族の愛を最も大事にしていた。
食事の前には神様にお祈りをした。
神様のために善行を働きなさいと言われた。
悪いことをしたら、神様に謝りなさいと言われた。
コモルーの突進が、エンニュートの骨を砕く。ケララッパの嘴が、ゴルバットの目をくりぬく。
悪いことをしたら、神様に謝らないといけない。
でも、もらったお給料をお母さんとお父さんに渡すと、2人とも喜んでくれた。
好きな人たちが喜ぶのを見ると、私はうれしい。
私がしているのは、良いことなのだと思った。
強いことは、良いことなのだ。
私が読めもしない分厚い本を眺めていると、母は少し表情を曇らせる。
隣のアネラちゃんは彼氏ができたそうよ。ハリアちゃんはもうすぐ結婚するって。あなたはまだ彼氏もできないの。もう少し女の子らしくしたらどう?
私は図書館で借りてきた遺伝子の本を閉じて、母に向き合う。
いつの間にか、笑っていない時にもお母さんの顔にしわができるようになっていた。
お父さんの会社は、5年前につぶれた。カントーという地域からたくさん商品が輸入されてきたらしい。自分たちの商品は全然売れなくなって、最後は何もしない日が続いていた。お父さんは楽でいいよと言っていたけれど、会社がつぶれた後はずっと会社への恨みを言い続けている。
仕事がなくなったお父さんは、イッシュ地方から輸入されてきたスマホをいじって、毎日ゲームをしている。無料だから、と言い訳のように呟く。スマホの通信料は私が払っている。
お母さんをなだめるのは難しくない。お母さんがほしいものをあげればいい。
本を置いて、スーパーボールを手に取る。庭で遊んでいるコモルーとケララッパをボールに戻して、“ハウス”に行く。歩いて5分もかからない。
受付にいるヤレユータンに挨拶をする。更衣室に入り、服を着替える。紺色のシャツを脱ぎ、真っ白な服を身にまとう。白い帽子に白い手袋、洗ってもとれないわずかな汚れ。ハウスで私は仕事をもらう。
ハウスには小さな孤児たちが住んでいる。正規の職員たちがその子たちの世話をしている。着替えて更衣室を出たところで、猫のような口元をした女の子が寄ってきた。まだ10歳を過ぎたばかりだと思うけれども、たぶん、私より強い。私よりもこの国の歴史に詳しくて、私よりも優しい。頭をくしゃくしゃと撫でてあげると、両手を振って喜んでくれる。好きな人が喜ぶと、私はうれしい。
ハウスの人たちは、私の仕事について、何も知らないはずだ。少女を残し、職員専用の通路を進み、“楽園”へとつながった狭い個室に入る。
大きなパソコンが乗った無骨な机とちゃちな回転いす。それ以外は何もない白い部屋。パソコンの電源を入れて、デスクトップからペラップの形をしたアイコンをダブルクリックすると、楽園につながる。
人手はいつも足りていないらしく、通信がつながると、すぐに仕事が与えられる。
昨日はガバイトの住む砂漠へ。その前は、白いロコンの住む山の上へ。
今日は、オドリドリたちの住む、お花畑へ。
15番水道を渡らなければならないため、支給された鳥ポケモンに乗っていくことにした。ライドギアを使ってペリッパーを呼び出す。ふわふわの羽毛にまたがり、エーテルハウスの前から飛び立つ。先ほどの女の子がエーテルハウスの玄関まで来て、手を振ってくれた。
とてもかわいいと思う。
無垢な少女に手を振りかえす権利が私にあるか、少し悩んだ。さっき頭を撫でてやったんだから、手を振り返すくらい別にいいだろうと思った。けれども、悩んでいる間にペリッパーは飛び立ち、地面が遠くになる。少女の影も見えなくなった。
私の仕事は、悪い人を倒すこと。悪い人をやっつけて、自分たちの世界を守る。
同じ学校に通っていたアラメアちゃんは娼館で働いている。1つ年上のレイさんは、害虫駆除の仕事中に熱中症で倒れて死んだ。助けられた時には、内臓のあちこちに虫が入り込んでいたらしい。
みんな一生懸命働いて、家族を養っている。生きるために生きて、生きるために死ぬ。
死ぬのは嫌だ。売春も嫌だ。でも、お金はほしい。だから、働く。
ウラウラの花園は赤い。
私が倒したおじさんの頬はこけている。つぎはぎだらけの濁った緑色の服を着ていて、その上に彼のニューラの血が付いた。
ニューラはコモルーの突進をうけて、岩壁にめり込んでいる。でっぱりがある壁だったのが悪かった。だからたくさん血が出たし、体にちょっとした穴があきもする。
このおじさんはポケモンの密猟者だ。オドリドリたちを捕まえて、カントーに売り払おうとしていたらしい。とテレビ電話で聞いた。だからこのおじさんは悪い人であって、私が倒す人であって、倒すとお給料がもらえて、ついでにサイフをもらえる。
サイフはたくさんもらえた方がうれしい。だから私はおじさんのそばにいた少年も逃さなかった。黄色い服を着た、太った少年だった。
彼は密猟者ではない、ただのポケモントレーナーだ。
お母さんからお弁当をもらって、お父さんからお金をもらって、小さいときから勉強を続けて、別の地方にも旅行に行って、10歳になってポケモンを手に入れて、島巡りを始めて、試練を受けて、何も成し遂げないままここで死ぬ。
少年は持っているモンスターボールをすべて投げ、ポケモンをすべて出し、自分のポケモンをすべて見殺しにし、逃げようとしたところをケララッパに押さえつけられた。命乞いのセリフは、大人も子供もさして変わらない。お金なら払うから、お父さんからもっともらえるから、ポケモンもみんな渡すから、だからだから。
ケララッパに突き刺された右足からは血が流れ、目からは涙が、鼻からは鼻汁がとめどなく溢れ出る。ほら、ここに電話をすればお父さんがお金を持ってきてくれるから。お父さんは商社に勤めていて、海外からでもほしいものはいくらでも買ってこれる……。
「ぶっつぶせ!」
コモルーは私の指示通りに動いた。
人間とは、人の形をした肉の塊のことを言うので、押せばつぶれるし、引っ張れば千切れる。
傷ついたオドリドリはまとめてハイテクワイヤーの中に入れて、ペリッパーに括り付けた。ポケモン入りの箱をぶら下げながら空を飛ぶのがなんだかおかしい。ペリッパーの背中に乗りながら、少年のリュックに入っていたチョコレートを食べる。袋の中に、個包装された丸いチョコがたくさん入っている。1つ開けては口の中に入れて、ゴミを空に投げる。ペリッパーが何か言いたそうに見てきたので、彼の口の中にもチョコを1つ突っ込んだ。
ハウスに戻ると、オドリドリの救護のために、職員がわらわらと出てきた。それに合わせて孤児たちも。表向きは、ただの傷ついたポケモンの保護ということになっている。
彼や彼女たちのほとんどは、まだポケモンを持つ年齢じゃない。でも、いつかポケモンを手に入れて、旅に出るのだろうか。それとも、ポケモンと一緒にここに残るのだろうか。
女性の職員が、お疲れ様と言いながらお菓子の袋を持ってきてくれた。中にはチョコレートがたくさん入っていた。おなかはいっぱいだったけれども、食べないともったいないような気がして、出されたものを黙々と口に入れた。
猫の口をした少女がこちらをじっと見てきたので、彼女の口にもチョコを1つ突っ込んだ。
彼女は口をむにゃむにゃと動かして、とろけるような顔をした。
おいしいと少女はいう。好きな人が喜ぶのを見ると、私はうれしい。もう1個、彼女の口にチョコを突っ込んだ。
私は、チョコの食べ過ぎで、味がよくわからなくなってきていた。おなかが張ってきたけれども、それでも包装をバリバリと破って茶色い塊を口に放り込む。
1つ、また1つ。飽きるまで、飽きてもなお、食べ続ける。明日食べる分まで、今日食べた。
おなかは満たされたけれども、何か足りていない気がして、他に食べるものを探した。もちろんこの部屋にはこれ以上おやつは置いていなくて、私は空になったチョコレートの袋をじっと見つめて、ポケットに入っている血の付いた札束のことを思い出していた。
買い物に行くためハウスを出ようとしたとき、別の職員に呼び止められた。
楽園から連絡が来たらしい。
仕事よりも、次のチョコレートがほしかったのだけれども。
◆
父を殴って家を出た後、俺はアローラを転々とした。12歳のガキを雇ってくれるまともな職があるはずもなく、盗み、売人、何でもやった。
廃棄された弁当を食べて飢えをしのいだ。ゴミ捨て場から本を拾って文字を学んだ。
死ねば楽になると思った。人はいつか死ぬのだと理解しているつもりだった。俺は死ななかった。
ある時、俺が家を出たときと同じくらいの年齢の少年を見かけた。彼はボロボロの服を着ていて、教養のなさそうな顔をしていた。
彼の前を、30前後の若い夫婦が歩いていた。お金には困っていなさそうな身なりをしていた。少年のすぐ目の前で、夫のほうが財布を落とした。少年はそれを拾い、夫婦に渡そうとした。
彼は窃盗で捕まった。怒り狂った夫婦が少年を足蹴にしているとき、だれも少年を助けようとはしなかった。俺も、彼を助けなかった。
俺は、彼の人生に触れるのが、怖かった。
「こんな時に考え事ですか? ちゃんとしてくださいよ! 失敗したら代表になんて言われるか」
顔を覆うような大きな緑のサングラス。金色の髪に、金色の髭。神経質そうに、自分の髭を指先でいじっている。
彼が財団の支部長。俺の上司。
「俺が戦わなくても、あなただけで勝てるでしょう」
「何を言っているのです! 私こそがエーテル財団最後の砦! 何かあれば大変でしょう!」
支部長は口だけ達者で、自分では何もしないことで有名だ。実は弱いんじゃないかという噂もある。しかし、俺は、支部長が本気になった時のことを知っている。圧倒的な強さを、力を、知っている。
「今回はあなたを見込んで、私の代わりに密猟者を退ける名誉を与えたりしますよ!」
俺は支部長に聞こえるようにため息をつく。いつになっても変わらない。まるで漫才だ。
ここはアーカラ島シェードジャングル。昼間でもうっそうと茂った木々により薄暗く感じるが、今は夜。満月が出ていても光はほとんど差し込まない。
聞こえるのは風に揺れる葉の音とズバットの羽音、そしてジープの排気音。
「3キロくらい先ですかね」
俺が言うと、支部長は黙ってうなずいた。ここからはおしゃべり無しだ。
草を踏むサクサクという音も、いつしか消えた。代わりに、男たちの話声が聞こえる。それに交じって、カリキリの鳴き声。
ダズ。密猟者のボスの名前はダズという。右と左の眉毛がくっつき、眉と上下対称となった形のひげをしている。腹が出ていて、赤っ鼻。およそ褒められるところが何もない外見をしていたので、すぐにそれと分かった。
もともとはカロス地方をねぐらにしていた密猟者だが、近頃はアローラで見かけるようになった。カリキリやラランテスを捕獲し、地域ごとの色の違いなどをもとに種類分けをして売りさばいているらしい。ダズ以外にも、子分が2人、カリキリを入れた檻の周りを取り囲んでいる。
支部長に目をやるが、戦う気は全くなさそうだ。勝手にやれと、追い払うように手を振られた。増援が来るとも聞いていたが、ダズたちがジープにカリキリたちを乗せ終えてしまったので、俺だけで動くことにした。
トレーナーの最初の仕事は、ポケモンに指示を出すことではない。ボールを投げることだ。それも、音を立てずに、まっすぐに。
俺のスーパーボールがジープへ向かっていく。
ダズたちのジープは、屋根のない簡素なものだ。ダズを含めて3人が乗る車の上に、搭乗者が1人増えた。エレブーが着地するよりも前に2人の子分が車からはじき出される。
子分のポケモン、ヤングースがエレブーにとびかかるが、片腕で頭を鷲掴みにされ、そのまま電撃で黒焦げになった。口から内臓が飛び出ている。
次はダズ。
しかし、ダズの動きは速かった。子分がはじき出されると同時に自らジープを降り、エレブーから距離をとる。そしてダズ自身の目の前にホルードを繰り出した。エレブーの電撃がホルードの巨体に防がれる。
一目でわかる。よく鍛えられたホルードだ。軽々と岩石を持ち上げるその耳の筋肉は、美しくすらある。
ダズは一度カロスで警察に捕まっている。刑務所を出た後、ポケモンを鍛え、子分も作ったのだろう。カロスでの失敗を繰り返さないために。
「ダハハハハ! わしのホルードは地面タイプ。相性バッチリだすな!」
ダズが耳障りな声で笑う。
「どこのどいつなんかは知らへんけど、いってもうたれ! マッドショットや!」
力士のように肥えたウサギから、無数の泥玉が放たれる。エレブーに直撃し、そのまま車から吹き飛ばされた。間髪を入れずにホルードが突進し、エレブーを再度突き飛ばす。
人はいつか死ぬ。
ダズという男も、俺も、エレブーも、いつかは死ぬ。
俺の指示を待つエレブーが、ホルードの耳で放り投げられた。
氷のような時間が、俺を包む。何万回と繰り返してきた言葉が、実体をもってまとわりつく。
今殺さなくても、この男はいつか死ぬ。
今立ち向かっても、俺はいつか死ぬ。
「こんな時に考え事ですか?」
支部長が言う。
「あなたは強い。エーテル財団の中でも十指に数えられる実力だと思っていますよ。何を迷っているのです?」
エレブーに指示を出す動機が見つからない。少年を助ける動機が見つからないのと同様に。
「何を恐れているのです?」
ダズは怖くない。電気技が封じられたとしても、戦う方法はいくらでもある。レベルもこちらの方が圧倒的に上。
「ダズという男は、確かに努力しているでしょうな。自らの失敗を反省し分析し、改善する能力もある。それなりの苦労もしているでしょう」
そう、あのダズという男は、ただのクズではない。
「ええ、あの男は控えめに言って十分に優秀です。才能もある、努力もしている。しかし、あなたほどではない。もちろん、私ほどでも」
ダズは、俺たちの姿に気が付いたようだ。ホルードの攻撃対象をエレブーから俺たちに切り替えようとしている。
「もう一度聞きましょう。何を迷っているのです?」
俺が答える前に、ダズが叫ぶ。
「ダハハハハ! そんなところにおったんかいな。とっとと邪魔な奴らを始末したれや! アームハンマー!!」
ホルードの巨体が弾丸のように突っ込んでくる。
一瞬後に、巨大なウサギは盛大に転倒し、ボールのように転がっていった。
「なんなんや!」
俺のエレブーが、鉄パイプを磁力で浮かせて足に引っ掛けたのだ。電気を流すと磁力が起こる。磁力を使えば、金属を操ることは容易い。電気は、相手を焼き切る以外にも使い道はある。
ダズもエレブーの動作に気づいたらしく、攻撃対象をまたエレブーに戻したようだった。
「けったいな技使うやないか。でも相手が悪かっただすな。わしはダズ。カロスで一番儲けとったポケモンバイヤーやがな。わしにかかればおまいらくらい……」
ホルードが攻撃に転じようとした刹那、巨体が消えた。走ったのではなく、ほかのポケモンに吹っ飛ばされたことに気づく。
俺たちとダズの間に、白い服を着た女性職員が立っていた。白い服に白い手袋。でも、俺が見ればわかる。彼女の色は、白じゃない。エーテルの色をした、職員だ。
「また邪魔もんかいな。このわしを誰やと思ってんねや!」
「あんたが誰なのか、知らないし、興味ない」
ダズが顔をゆがませ、叫ぶようにホルードに指示を出す。
「仕事なの」
俺と同じ色を持った女性は、突き刺すような声で答えた。
「あんたが誰だろうが、ぶっつぶす!」
彼女の言動とは裏腹に、懐かしいような感じがした。
凍った時間が動き出すような、そんな懐かしい感覚。
「ほら、戦ってもいいんですよ、あなただって」
支部長が言った。
◇
「わたくし、代表のルザミーネ。お会いできてうれしいの」
美しいヒト。
気品のあるヒト。
私よりずっと高みにいるヒト。
でも、どこか足りていないヒト。
2年前、私は初めてエーテルパラダイスに足を踏み入れた。
生まれて初めての定職。
まだ16歳になったばかりだった。仕事がなくなった父の代わりに、観光客を殴ったり、不良たちを殺したりして日銭を稼いでいたころ、エーテルに声をかけられた。最初は警察に突き出されるのかと思った。次は、娼館に売りに出されるのかと思った。アラメアちゃんは娼館と知らぬ間に無理やり契約させられたからだ。でも、いざとなれば、娼館にいるヒトたちを全員殺して逃げだせばいいかと思った。だから私は首を縦にふった。
連絡船に揺られて着いたのは、エーテルが作ったの人工島だった。船着き場からエントランスに上がる。建物とは思えないほどの開放感のある場所だった。私と同じ新規の職員として雇われたメンバーが4、5人、ぞろぞろと列を作って歩いていく。
入団式で、そのヒトに会った。ほんの10分ほどのことだったけれども、私にはずっと長く感じられたし、式が終わってそのヒトがいなくなった後も、美しい顔が頭に残っていた。
最初の1か月はOJTと呼ばれる教育の期間であるらしかった。そこで私はエーテルという組織の表の顔、裏の顔を知る。
保護区でのポケモンの世話から仕事は始まった。
エントランスからさらにエレベーターで上がると、保護区につく。
保護区について最初に驚くのはその明るさだ。壁が全面ガラス張りになっていて、太陽の光がそのまま差し込んでくる。屋外かと間違うほどだった。
湿原を踏み荒らさないようにするための足場のように、保護区には柵の付いた足場があって、人間はそこを歩く。ポケモンたちは、人間の立ち入らない人工の大地で悠々と過ごす。
生い茂る草木と真っ白な足場が対照的で、異世界に連れてこられたような感覚を覚える。ポケモンの住む場所を人間が作り、人間とポケモンを足場で分ける。私が今、どちらに属しているのか、だんだんわからなくなってくる。
屋外にいるのか部屋の中にいるのか。人工の島にいるのか、自然の中にいるのか。私がポケモンの保護をしているか、私がエーテルに保護されているのか。
この場所でコモルーを出すのはためらわれたので、相方はほぼずっとケララッパだった。彼女は、私が最初に捕まえたポケモン。彼女とは、まだ野生のツツケラだったときもあわせると、10年以上を共に過ごしている。私が指示をしなくても、勝手にポケモンの餌や掃除道具を私のところまで運んできてくれた。私の思うこと、感じることを共有しているような、そんな気がした。保護区のベトベトンに木の実をあげると、体を震わせて喜んでくれる。その様子が面白くて、私はケララッパと顔を合わせて笑いあう。好きなポケモンが喜んでくれると、私はうれしい。
1日の仕事が終わると、エントランスまで下りて、建物の外に出る。
屋外のほうがむしろ人工物とした雰囲気が出ていて、部屋の中にいるような気分にさせられる。島の端に行って海を眺めて、ようやくここが外だとわかる。1日中留守番だったコモルーも外に出して、ひとしきりポケモンバトルの調整をする。いつ、だれに襲われても大丈夫なように。いつ、だれを殺せと言われても頷けるように。
私は少しずつ、エーテルで求められている私の役割を理解しつつあった。
次の仕事場は、地下の船着き場だった。
エーテルの研究員とともに船着き場で今日の“収穫”を待つ。ポケモンバイヤー、密猟者、スカル団。そいつらが持ってきたポケモンを、研究員が受け取る。私は横で交渉を見守る。
基本的に、私は見ているだけで作業はない。私が動くのは、相手がゴネたとき。金額に不満がある、エーテルをゆすろうとしている、相手がそんな動きを見せた時、私は無言でコモルーをボールから繰り出す。
ここで相手がおとなしくなれば、仕事は終わり。
相手が戦うつもりなら、私も戦う。
コモルーをわざわざ見えるようにボールから出すのはブラフだ。バイヤーがコモルーに気をとられている間に、ケララッパを相手の背後に回らせる。戦闘開始と同時に研究員は走って逃げだし、コモルーと相手のアタッカーが激突し、ケララッパの弾丸がバイヤーめがけて発射される。
シンプルな作戦だったけれど、長年使っていただけあって息がぴったり合っている。ほぼ百発百中の成功率だった。力に自信のある不良たちは、大概それで死んでいった。力は、思いのほか、自分を守るのに役立たない。必要なのは戦うセンスだと、身をもって理解していた。
エーテルはポケモンを大量に集めていた。それは保護の対象であったり、研究の対象であったりした。密猟者の管理までしていて、エーテルの管理内にいる密猟者は、法に触れることをしていてもおとがめなしだった。逆にエーテルの縄張りに入り込んできた新参者には、容赦がない。各地に配置されたエーテルの“分室”から送られてきた目撃情報を基に、ポリゴン2を使った逆探知を駆使して場所を特定、そこに戦闘員と呼ばれる職員を送りこむ。
私が向かったのはホクラニ岳だった。冬でもないのに制服だと寒く感じる。どれだけ寒くても、どれだけ過酷な環境でもそこにポケモンは住んでいて、彼らにとってはこの場所こそが自分の故郷なのだ。
月も出ていない午前2時、未登録の密猟者が現れた。ホクラニ岳はラッキーやピィ、ピッピが生息している。そいつらを捕まえに、密猟者も集まってくる。
対象は、釣り人が着るような、ポケットのたくさんついた緑色のベストを羽織っている。中にはボールがたくさん入っている。捕獲用が主で、対戦用ポケモンは1匹だけだと判断した。
男はポケモンをまだ繰り出していない。ピィに感づかれるのが嫌だったのかもしれない。
私はケララッパを繰り出し、男のベストをはぎ取った。男が罵る言葉を吐いた瞬間には、コモルーが彼の目の前に立ちふさがっており、勝敗が決したことを知る。
強そうなトレーナーであれば、エーテルと契約させることもあるし、不要だと判断された、あるいはエーテルから処分するようにと指示があった場合はその通りにする。その日は後者だったので、彼には足を滑らせて崖から落ちたことにしてもらった。
楽園を訪れてから3週間がたった。
その日、2つのイベントがあった。
1つは、初めての給与明細をもらったこと。眼鏡をかけた若い女性の事務職員に満面の笑みで渡された。ミシン目を破って中を開けると、桁を間違えているんじゃないかと思ったほどの大きな金額が書かれていた。
「初めてのお給料ですよね。私も最初はドキドキしちゃいました。お給料の使い道、今から考えておかなくちゃですよ」
からかうように、彼女が言った。
私は反射的に返した。
「これって、振込先を、変えられますか?」
事務の女性は、意図を理解できなかったようで、笑いながら困った表情をするという器用な真似をしていた。
私は両親の口座に全額を振り込むようにしてもらった。
楽園にいる限り、衣食住は提供してもらえる。コモルーの食事も、ケララッパの羽の手入れも、ここなら不自由ない。だから、お金はお父さんとお母さんに送ってほしい。お金さえあれば、また昔みたいに、2人で笑って一緒にご飯を食べに行くことだってできるはずだ。2人で映画にでも行けるはずだ。
お父さんとお母さんの仲が悪くなったのは、お金がなくなったからだ。カントーの会社がお父さんの仕事を奪ったからだ。お金さえあれば、すべて解決する。だから、お金は2人に全額渡した。
2つ目のイベントは、次の仕事が決まったこと。
次の仕事は、代表の交渉に立ち会うことだった。
交渉は明日の午後4時から始まる。私は代表の護衛を務めるリーダーに呼ばれて、当日の打ち合わせをした。
少し髭の濃いリーダーは、OJTの締めくくりだと言った。当日は、私以外の職員も代表を守る。とはいえ、だれでもできる仕事ではない。私の働きが評価されていると言ってくれた。ほめてもらえたのは、まだ父が仕事をしていた時以来だった。確か、母に絵がうまいとほめてもらった。その絵は、父が会社を辞めた後、夫婦げんかの際にやぶれてしまったので、私が捨てた。
形を失っても、思い出は消えない。ある晴れた日の昼下がり、父と母が手をつなぎ、2人で街を歩いている。私はその後ろで2人を見つめる。好きな人が幸せでいてくれると、私はうれしい。私は忘れない。間違っていたのは一時期だけで、また、すぐに元通りになるから。歯車がかみ合うように、複雑に見えた知恵の輪が簡単に解けてしまうように。暖かなリビング、おいしい食事、弾む会話、神への祈り。
私は自室に戻り、浅い眠りについた。
夢は見なかった。
今この瞬間こそが、夢なのだと思った。
「カントーポケモン協会理事代理のミヤシタと申します。今回はお忙しい中お時間をとっていただき誠にありがとうございます」
「わたくし、エーテル財団代表のルザミーネ。お互い時間もありませんので、用件を先に伺ってもよいかしら?」
ミヤシタと名乗った男性は、六十歳は過ぎているだろうか、顔の刻まれた皺は深く髪は白く染まり、スーツから見える腕はあまりにも細い。トレーナーとして戦えるようには思えなかった。両隣に座った30前後の男女がポケモンを使うのだろう。ポケモンを繰り出すにしても、先に自分たちのボスを守るように配置させるはずだ。私はミヤシタと代表に挟まれている豪奢な机の上にボールを投げるイメージを作り上げる。心よりも先に体が動けるように。
ミヤシタとの交渉は平行線をたどった。
ミヤシタは、エーテル財団が密猟者狩りをしていることに気づいている。しかし、それはカントーポケモン協会が知っているというよりかは、ミヤシタ自身が知っているだけでとどまっているらしい。そして、ミヤシタはそれに戸惑っている。エーテルの慈善行為をよく知っているから。エーテルが本当に黒かどうか、判断が付きかねている。だからここまで確認をしに来た。
ただの誤報なのか、それともエーテルが組織的に何か動いているのか。言葉を選びながら慎重に代表を問いただしていく。
一方の代表は、ミヤシタの言葉にほとんど答えていない。
「ですから、わたくしが、かわいそうなポケモンたちの母となり、愛情を注ぎこむのです。アローラから遠く離れた世界にいるポケモンさえも、わたくしが愛してあげるの」
ミヤシタは呆れるように首を振った。
これ以上の議論は無駄だと悟ったのだろう。ミヤシタが恭しく礼を言い、両隣のトレーナーに指示を出して立ち上がる。この交渉は終わった。
「わたくし、がっかりです。もう少し話の分かる方だと思っていましたわ」
ミヤシタたちが帰った後に、代表がそういった。
交渉の2日後、ミヤシタ達は事故にあい、車ごと崖に落ちた。みんな死んだ。
OJT期間は、終わろうとしていた。
「ルザミーネさんに会いたいです」
その日は保護区でポケモンの世話をしていた。いつものようにケララッパが木の実の入った袋を持ってきて、私がそれをニャースの口に放り込む。黒いニャースは、一回転して喜んで、次の餌をねだる。
その間中ずっと、私は代表のことを考えていた。私がするべきことが何なのか、考えていた。
副支部長の赤紫色の服を見つけたとき、反射的に私はそう頼み込んでいた。
副支部長は少し悩むそぶりを見せてから、私に待つように指示した。代表に確認するからと。
数分の後、私は面会を許可される。
代表はどこにいるのかと聞くと、副支部長は複雑な表情をした。そして、代表がいる場所への手順を説明する。
まるで隠し部屋のようだった。
エントランスから中庭を突っ切った先に代表の家がある。先日ミヤシタと交渉が行われたのはそこの一室だ。そして、今から向かうのは代表の寝室。
ノックもせずに部屋に入る。副支部長の言った通り、鍵はかかっていない。右手にはイッシュから取り寄せられた天蓋付きの大きなベッドがあり、そこを横切って姿見に近づく。鏡の横についているボタンを押すと、暗証番号を聞かれる。私専用の番号を与えられたのでそれを入力する。姿見が消えて、隠されていたワープ装置が現れる。私は装置の出す光の中に足を踏み入れる。
そこが、代表の部屋。
防音室のような巨大な空間。内部の音が漏れないだけでなく、外界の音も一切入ってこない。波の音も、風の声も。
ヤドンにピカチュウ、ナマコブシ。氷漬けにされたポケモンたちが、私を出迎えた。
「どう? 自慢のコレクションルーム」
美しきヒトが言った。
「わたくしの愛する子供たち……ポケモンを永遠に飾るの」
氷漬けになったピカチュウの寝顔は穏やかだった。心を込めて世話をされたことがわかる。今日はたくさんおやつを食べた。明日もおやつを食べる。今日はたくさん遊んだ。明日も友達と遊ぼう。
変わらないと信じた幸せな日常が、氷漬けにされた永遠を約束されている。
顎に手を当てている代表の姿を見て、我に返った。私は、代表に言わなければならないことがある。
「先日のポケモン協会のメンバーが崖から落ちた件ですが……」
「座って」
いつの間にか私の背後に真四角の椅子が置かれていて、私はそこに腰を下ろした。代表はコンピュータのそばに置いてある回転椅子を引き、優雅に足を組んで座った。
気高きヒトは、私の言葉を待っている。まるで、子供の話を待つ母親のように、静かに、そして穏やかに。
私は、つばを飲み込み、代表の目を見る。コモルーとケララッパのボールを保護区に置いてきたことがとても心細かった。
私は、代表に伝えたい言葉を紡ぐ。
「ポケモン協会の男たちは、私が、私が手を下すべきだったのではないでしょうか」
私は、私の知っている少ない単語を振り絞るようにして言葉を探す。
「だって、ほら、私が面会に立ち会ったわけですから、あいつらとウチの関係を知っている人は少ない方がいいですよね。それだったら、私が処理したほうが、バレにくくもなるし、スカル団なんか使わなくても、私で十分……」
私の目の前にいるそのヒトは、口に手を当てて静かに笑い、私の言葉を制止した。そのまま指を鳴らすと、PCモニターの下にある引き出しが音もなく開き、ピンク色の小さなチューブがでてくる。おそらくポケモンの技、サイコキネシスを使ったのだろうけれど、私には、彼女が自分自身でそれを浮かび上がらせたように思えた。
細く整った人差し指を曲げると、それに合わせてピンク色のチューブがこちらに飛んでくる。よく見ると、表面には蔦のような細かな装飾がなされている。
私の目の前にいるそのヒトは、私の手を取り、手袋を外して、チューブから出されたクリームをそっとつけた。
「いい香りがするでしょう?」
いわれるままに、私はクリームの香りを嗅ぐ。少し甘いような華やかな香りがした。
「ローズの香りですわ。カロス地方から取り寄せたの」
そう言いながら、私の手を包むように握り、クリームをなじませていく。
「あなたが手を汚す必要はありません。だって、こんなに華奢で、可愛らしい手なのですもの」
私の手肌がローズの香りに包まれた。
「あなたを初めて見たとき、ピンときました。この子は真面目でいい子だって。どんな仕事も一生懸命にこなしてくれる頑張り屋さんだって。でも、頑張りすぎてはいけませんよ」
代表は、ボールからミロカロスを繰り出した。
そして、ムウマージが音もなく現れ、私の顔の目の前で静止した。私は息が詰まるような感覚を覚えながら、同じようにピクリとも動かない。隣で水の流れる音が聞こえた。目だけ動かすと、ミロカロスがゆっくりと青い水を口から出している。その水をムウマージのサイコキネシスが支え、空中に水のボールが浮かんだ。
ボールはゆっくりと私の顔に近づき、そのまま顔全体を包む。手は私の意思を聞くのをやめたかのように動かなかった。
息ができない。けれども、不思議とつらくない。
息を吐き出すと、コポコポという音とともに、小さな泡が口から出た。天井から照らされた白の光が水中できらめく。無数の光は一か所にとどまることがなく、手を伸ばそうとしても届かない場所まで逃げていく。
10秒しかたっていないのか、1分以上たったのか、私は時間の感覚を失った。そして突然に元の世界が現れる。
代表はもう一度指を鳴らす。私の目の前に姿見が現れた。いつの間に移動したのか、隣に代表が立っている。私も促されるままに立ち上がる。座っていた椅子はひとりでに壁へと移動していく。
鏡に映った自分の顔を見ると、息をのんだ。
私の顔についていたそばかすがすべてなくなっている。カサカサだった肌が、指にくっつくほどの弾力を得ている。
代表は私の頬を両手の人差し指で軽く押さえて持ち上げた。鏡に映った私は、笑っているように見えた。
「ほら、笑ったあなたはこんなにも可愛らしい」
代表がほほ笑む。
「このクリーム、差し上げますわ」
そういって私の手のひらに、ローズの香りのするハンドクリームを乗せる。
「それから、これも」
机の引き出しから、今度はノートのようなものが浮き上がってきて、私の手に収まる。
「日記帳ですわ。今までつらいことがあったとしても、それはもうおしまい。これからは、あなたはきっと幸せな人生を送ることができます。だから、うれしかったこと、つらかったこと、楽しかったこと、そこにたくさん書きなさい。きっと宝物になりますわ」
代表が言った。子供に言い聞かすような口調だった。私は無言でうなずいた。代表は満足げにほほ笑んだ。
エーテルパラダイスでの仕事は、こちらに来てからちょうど1か月で終わった。それからはまた家に戻り、依頼があった時に仕事をこなす日々が始まった。
お金が増えた両親は、最初は喜んでいたけれども、やはり父は働こうとせず、母はそれに文句を言い続けた。聞くと、母の家事が忙しいのだという。もっとお金を稼いでお手伝いを雇えばいいのだと思った。だから、私は今まで以上に仕事に精を出した。
日記も毎日つけた。
代表の言った通り、幸せな記録もつらい記憶も、すべて日記につけた。
真っ白だったページが少しずつ埋まっていき、それを見ると、私の人生が少しずつ意味あるものになっていくような気がした。代表からもらった日記帳はすぐにいっぱいになり、今はもう3冊目に入っている。
その日は珍しく2件の仕事があった。
1つ目は簡単に終わった。2つ目は少し手間取った。相手がいつもより相当強かったからだ。コモルーだけでは勝ち切ることが難しいほどだった。けれども、もう1人来てくれていた男性の職員が手伝ってくれた。私と同じ色をした職員だった。白でも黒でもない、エーテルの色をした。
彼のエレブーが強烈な磁力を使ってホルードを抑え込み、私のコモルーがとどめを刺した。
ジープが爆発して燃えたとき、私は右手をやけどした。
そこに居合わせた支部長は、燃えたジープをどうやって隠せばいいかで悩んでいたようだったけれど、もう1人の職員は私のやけどをとても心配してくれた。
大丈夫だからと振り切ろうとしてもダメだった。治療をするようきつく言われた。
彼は私の手袋を外して冷たい水をかける。そして、ガラスの置物を扱っているかのように慎重に、やけどの薬を私に塗ってくれた。ひどく丁寧なその治療に吹き出しそうになったけれど、真剣な彼の表情を見ていると笑ってはいけないような気がして、言われるままに治療をしてもらった。悪い気はしなかった。
その日のことも日記に書いた。お昼に殺したトレーナーのこと、夜に倒した密猟者のこと、私のことを真剣に治療してくれた男の人のこと。書ききった時、3冊目の日記がすべて埋まったことに気が付いた。
日記を閉じる。パタンという音がする。そして、日記の表紙に、私の名前を書いてみた。だって、この本は、私の本だから。
これは、私の人生の物語。
私の生きた証。
私が苦しんだ証。
私が喜んだ証。
幸せだった記憶、憎んだ相手、愛した人。
これは、私の人生の物語。
◆
「お待ちしておりました。いやいやいや、これは失礼。挨拶が遅れました。私、ザオボーといいます」
ヤレユータンが受付をしている真っ白な建物で俺を待ち受けていたのは、とても威厳があるとは思えない、緑のサングラスをかけてもみ手をしている男だった。
「なあに、警察に突き出そうってわけではありませんから、ご安心ください」
「金も持ってないぞ」
俺が答えると、男はヒヒヒと笑う。
「私はあなたに興味があります。時にあなた、仕事を探しているのでしたよね。心優しいこの私があなたのエーテル財団への就職を許可しましょう。私が心優しい大人だと証明するために、エーテルパラダイスに来ますよね!?」
芝居でもうっているかのようなその言葉に、俺は無言でうなずいている。
支部長と初めて出会ったのは、ホテリ山付近の地熱発電所の前だった。父から逃げて幾年がたっていた。あてもなくウラウラ島をさまよっていた時、白い服を着た2人組がバクガメスを相手にしていたので、間に入ったのだ。人助けのつもりはなかった。信号が赤だから止まるように、バクガメスがいたから足を止め、そして白装束の女に頼まれたので、仕方なく手を貸した。
野生のポケモンたちは、恐怖や怖れに敏感だ。バクガメスの巨体に驚いた白装束の女の気持ちをキャッチして、逆に警戒心を高めたのだろう。
いつ死んでも構わない。そう思うようになってから、ポケモンに恐怖を抱くことはなくなった。鼻から火を噴きだす巨大なドラゴンポケモンを目の前にしても、ニャビーに餌をやるように対応できてしまう。餌をやっている間に燃やされて死んだとしても、構わないだろう。心配はいらない。人はいつか死ぬ。
女の方は通り一遍の感謝の言葉をかけてくれたが、男の方は顎に手を置いて考え事をした後、俺に言った。
「あなた、今はどんなお仕事をされていますか?」
何もしていないと答えると、男は右ほおだけを上にあげるようにして器用に笑った。
「それは素晴らしい! では、ホテリ山を下り、ラナキラマウンテンの麓にあるエーテルハウスにお越しください。あなたがほしいものを差し上げましょう!」
俺は即座に断った。
「なぜですか!? これほど素晴らしい提案ですのに!」
「支部長、せっかく助けてもらったのに、失礼ですよ」
俺が帰ろうとしたとき、また男に呼び止められた。
「時に青年、ポケモンはお好きですかな?」
俺が振り返って、あいまいに返事をすると、支部長と呼ばれた男は満足げにうなずいた。
「よろしい、では面白いものを見せて差し上げましょう。もちろんこの近くで、です。すぐ終わりますよ」
俺が断ろうとすると、女が手を合わせて拝むようにした。
「ゴメン、こうなると支部長面倒くさくって」
「面倒くさいとは何ですか! 私は今重要な任務の真っ最中なのです。あなたは少し端っこに居なさい」
「端っこって、どこですか?」
「ええい! 地熱発電所の中に引っ込んでいなさい!」
漫才でもしているかのようなやり取りだったが、女の方は俺に向けてペロリとベロを出した後、言いつけ通りに地熱発電所へ小走りに向かっていった。
「やれやれ、これで邪魔ものはいなくなりました。いや、なにね、彼女には見せられないものがあるんですよ、はい」
それでは参りましょうかとスタスタ歩いていく。仕方なく俺は後ろについていった。
「ホテリ山の隣は12番道路ですが、そこにたくさん出てきましてな」
ポケモンかと思って聞いていたが、支部長の口から出たのは想像していない言葉だった。
「密猟者共が」
支部長は続ける。
「もともとあの職員とは別行動をとる予定だったのです。彼女は戦闘員ではありませんからね。でも、バクガメスが出てきてしまい、話が変わってしまいました。彼女は助けなければなりませんが、私があそこで戦うわけにもいきません。そこであなたに会ったとそういうことですね、はい。時に青年、何か満たされていないように見えますが、事情がおありですかな。なんでしたら、この支部長自らが相談に乗って差し上げますよ」
俺は無言でやり過ごす。
「そうですか、そうですか。出会った直後ですから仕方ありませんね。では、先に私たちの仕事を見ていただきましょうか」
そういって、12番道路の細道を進んでいく。かなり歩いにくい地形だったが、スピードを落とす様子はない。俺の方が置いて行かれそうになって慌てて走った。
息を切らせながら追いつくと、支部長は「あいつらですよ」とやはり右ほおだけを器用に上ずらせて笑った。
支部長の指す先には、2人の男がいる。1人はエレキッドが入った網を背中にぶら下げ、もう1人は10歳を過ぎたばかりかと思うような少女の髪の毛を鷲掴みにしている。近くには、エレキッドを助けようとしたのだろう、エレブーが血まみれになって倒れている。
父に殴られた記憶が呼び起され、俺は即座に臨戦態勢に入った。
突然現れた俺たちを見て、密猟者2人も敵意をむき出しにしている。
しかし支部長は、市場で雑談を交わしているかのように俺に話しかける。
「いやいやいや、あなたは戦わなくて結構ですよ。今はね。こういった連中は私が処理しています。ですが、私はエーテル財団最後の砦。何かあってはエーテル財団の存続にかかわります。そこで、今後はこういった連中の始末をあなたにお願いしたいというわけですね、はい」
そういって、支部長はスーパーボールからスリーパーを繰り出す。
密猟者はハッサムを繰り出した。おそらくエレブーを倒したポケモンだろう。しかし、ハッサムは動かない。
メタルクロー。鋼の翼。みねうち。どの技を指示しても、ハッサムは動こうとしない。
よく見ると、ハッサムの目の瞳孔は開ききっていた。
「スリーパー……」
俺がつぶやくと、支部長はまた右ほおだけで笑った。
もはや戦闘とは言えなかった。圧倒的な力の差による蹂躙。ハッサムは倒れ、密猟者は意識を失う。
「さてと、ついでにこの少女も助けておきましょうかね」
そういって、支部長は少女を抱え上げ、スリーパーの前に置いた。
「何を?」
「助けておいて何ですが、私たちの仕事がばれては困るでしょう。表向きはただのポケモン保護に打ち込んでおる財団ということになっているのです。何、少し記憶を弄るだけですよ。あなたも、私の誘いを断ればこうなります。その必要はなさそうですが」
少女の瞳孔が開ききる。催眠にかかったのだろう。少しすると意識を失って眠りについた。
「さて、次はこのポケモンたちの保護です」
そういって無駄な動作なく、流れるようにエレキッドたちを開放していく。
俺は、倒れたエレブーのそばによる。
「そいつはちょっとでかすぎますね。薬を付けた後は、おいていきましょうか」
「このエレブーは、俺が育てる」
支部長は虚を突かれたように一瞬黙り込む。そして、エレキッドとエレブー、俺を交互に見てから、何も言わずにスーパーボールを投げてよこした。
人はいつか死ぬ。
なぜ俺がエレブーを育てようとしたのだろうか。いや、その答えはもうわかっている。エレキッドを守ろうとして果たせなかったその姿に自分を重ねたのだ。
でも、ここでエレブーを救って何になる。
俺はいつか死ぬ。エレブーもいつか死ぬ。今ここで助ける意味などどこにもないはずだ。じきにみんな死ぬ。
それでも俺は、エレブーを連れてポケモンセンターへ行き、彼を回復させてやった。
そして、その足でエーテルハウスへ向かい、支部長の前にいる。
楽園で、俺は白い服を渡された。エーテルの表の顔と裏の顔を知った。
楽園で、俺はエレブーの訓練をした。専門の戦闘力向上カリキュラムがあり、1か月間黙々とそれをこなした。見違えるように強くなった。才能があるとコーチに言われた。古株の戦闘員たちよりも強くなった。それでも俺は練習をやめなかった。
ほとんど人と話さず、ただ練習に明け暮れた。
人はいつか死ぬ。
だから、他の人と付き合う意味を見いだせなかった。
外勤になることが決まった日、ビッケという女性に呼び止められた。たしかここの副支部長を務めていたはずだ。
彼女は俺の名前を呼び、餞別だと言って、特別な磁石をくれた。電気タイプの技の威力が上がる持ち物だ。
磁石をくれたことにも驚いたが、直接話をしたこともない俺の顔と名前を憶えていることの方にむしろ驚いた。
俺がそういうと、ビッケと名乗る女性は、当然ですよと笑いながら答えた。
「この場所では、あなたがいないことに気がつかない人なんて、1人もいませんよ。あなたがいればみんな喜び、あなたがいなくなれば、みんな悲しむ。なぜならば、ここはエーテルパラダイスで、あなたは、エーテル財団の、職員だからです」
そう言って俺の手を握りしめた。
俺は今、少女といってもよいくらいの女性の手をつかんでいる。
彼女の手はひどいやけどを負っており、手当てが必要だというのに、彼女はまったく頓着しない。
彼女がけがを負ったのは、俺の責任によるところが大きい。だから、手当てをしなければと思った。
人はいつか死ぬ。
今ここで手当てをしても、彼女はいつか死ぬだろう。
それでもなお、彼女の手を治したいと思うのはなぜなのか、その答えは見つからない。
治療の際、彼女の手から、この場にそぐわない、甘く華やかな香りがした。
何の香りかと聞くと、ローズの香りだと彼女は答えた。
◇
シェードジャングルの一件のあと、私はまたエーテルパラダイスに戻ることになった。
お父さんとお母さんに話をすると、珍しく2人で協力して私のための晩御飯を作ってくれた。大きなハンバーグと目玉焼きの乗ったロコモコに、エビをニンニクで炒めたシンプルなガーリックシュリンプ、デザートは大きなマラサダ。
3人そろって晩御飯を食べるのはすごく久しぶりだと思ったし、少しの間お預けにもなる。うれしいような寂しいような気がした。お金が増えてから、我が家は少しずつ昔のような温もりを取り戻そうとしていたのだ。
家を出る前、母が私を抱きしめてくれた。神の加護がありますようにと、父が言った。ありがとうと、私は答えた。
シェードジャングルで一緒に戦った男性も一緒だった。思えば、戦闘員同士で話をする機会は今までほとんどなかったような気がする。それは秘密保持のためかもしれないし、単に私のような仕事をしている職員が少なかったからかもしれなかった。彼と一緒に過ごす時間はいつしかとても大事なものになった。
仕事において、OJTの時と一番違うのは、保護区でのポケモンの世話がないことだった。
もともと戦闘員は仕事の拘束時間がとても短い。命の危険を伴う仕事だから、代わりに高い融通性と給料がもらえるわけだ。もっとも、ポケモンを鍛えていたら、時間なんてあっという間に過ぎていくのだけれども。
今日船着き場に来たバイヤーは3組。私の噂は知られているようで、1件の戦闘も行われなかった。新しい戦い方のパターンを研究していた時だったので物足りないような気もしたし、楽でよかったような気もした。エレブーの彼にその話をすると、私にけががないことが1番大事だと答えた。戦わなければけがもしない。だからこれでいいんだと。回りくどい言い方をするなと思ったけれど、私のことを気遣ってくれているのがなんだかうれしかった。
最上階の保護区に行く代わりに、地下2階のラボエリアに行くことが増えた。今までは立ち入り禁止だったのだけれど、役職が上がったらしく自由に出入りできるようになったのだ。もっとも、研究のことは何もわからなかったから、文字通り遊びに行くだけだったけれど。
「あんた、また来たの」
「怒らないでくださいよ、ハカセ」
私より一回り年上のハカセはため息をつく。
「だから、私は博士後期課程出てないから、修士どまり。私は博士じゃないの」
「……どう、違うんですか?」
ハカセは腕組みをして、少し考えた後、腕組みをしたままうなだれて、「わかった、博士でいいよ、もう」と言った。
やっぱり、ハカセはハカセだ。
彼女といると、なんだか失った時間を取り戻せるような、そんな不思議な感覚がして、だから彼女のもとによく遊びに行った。そもそも、失われた時間が一体何者なのかも知らなかったけれど。
私がエネココアを2人分入れている間も、ハカセは真剣な表情でガラスケースに入ったポケモン、コスモッグのデータをとっている。たまに電気ショックが流れてコスモッグの叫ぶ声が聞こえる。コスモッグをいじめると、特殊なガスがでて、それを研究に使うのだそうだ。最初は小さなポケモンが可哀想にも思えたけれど、ハカセと過ごしているうちにだんだんと慣れて、何も感じないようになっていった。
ハカセがコスモッグのことを好きなのか嫌いなのかは、いまだに聞けないでいるし、たぶんずっと聞かない。
エネココアが入ったので、コップをハカセのもとへもっていく。ハカセはちょっと待ってといって、何やらボタンをいろいろ押している。コスモッグに与えている刺激をすべてなくしているらしい。代わりに回復のための薬を入れる。
「別に、コスモッグが疲れるのを防ぐためだから」
ハカセはこともなげに答える。その真意を聞こうとは思わない。
「そういえばハカセ、あの本貸してください」
分厚い進化論の本を指さすと、彼女は一瞬驚いたそぶりを見せて、ゆっくりと首を横に振った。それから本棚へ歩いていき、薄くて小さな本を取り出す。
もっと分厚い本がいいと文句を言っても、彼女は譲らなかった。
何もわからないよりかは、少しでもわかるほうがいい。先に進めないよりかは、少しでも自分を変えたほうがいい。
だから入門書から読みなさいと、彼女は言った。私は頷いた。
「あんた、勉強がしたいのね」
私はハカセからもらった本を大事に抱えながら、首を縦に振り、たぶん、と答える。小学生の時からろくに学校に通えなかったので、正直なところは、よくわらかなかった。
ハカセが私の胸の中にある本を指して言った。
「ボスのくれた本なの、それ」
「ボスって、ルザミーネ代表?」
「ごめんごめん、古巣のボス。要するに、大学生時代の研究室の教授ね」
物をくれるなんて、いい人だったのだろう。
「今は、研究してないけど」
「してないんですか?」
「そ。お金がもらえなくなっちゃったのよ。ほら、私の研究って、ポケモンを刺激するじゃない。刺激っていう言い方はずるいか。苦痛を与える、攻撃する、平たく言うと、虐待だよね。それが許されなくなって、その実験手法の権威だったボスはやることがなくなっちゃった。ククイっていうポケモン協会にも顔が利く研究者が出てきて、その人の鶴の一声で研究一括禁止、みたいな。スポンサーがいなくなったら終わりだよね、この業界」
「今、そのハカセの元ボスは何してるんですか?」
「さあねえ。私が出ていく前は、ただぼんやりと窓の外をみてたかな」
「エーテルには来なかった?」
「うん。あの人は、なんというか、信念がある人だったからね。自分の信念と合わない仕事は引き受けたくなかったんじゃないかな。私がこっちに来たのは、ただ研究を続けたかっただけ。自分が今までやってきたことが無駄だったと思いたくなかっただけ」
なんて返せばいいのかわからなくて、私はエネココアをちびちび飲んだ。コスモッグが動く風音だけが聞こえる。
ハカセが少し慌てたように話題を変えた。
「そういえば、あんた、カレとはうまくいってるの」
「彼って?」
「ほら、エレブーを連れたカレ。うちの戦闘員のホープ」
彼とは毎日のように会って話している。でも、ホープだとは知らなかった。確かに強いけど、今の生活に満足しているようには見えなかった。私と違って、何かにずっと悩み続けているように見える。でも、ハカセには言わない。
「毎日会ってますよ。たまに勉強を教えてもらいます」
「へえ、彼はちゃんと学校行ってたんだ」
「いや、家出してからゴミ箱に捨てられてた教科書を拾って読んでたそうです」
「……そう」
ハカセは私の目をじっと見つめる。
「あんたたちは、奇跡ね」
「キセキ?」
「いいコンビってこと。告白しちゃいなさいよ、好きなんでしょ、カレのこと」
「もう付き合ってますよ。キスまでならしてます」
「……ああ、そう。ごめん」
ハカセはなぜか頭を抱えた。そういえば、ハカセは研究が恋人だと言っていた。これでハカセと一緒になれたのかもしれない。
エネココアを飲み干して、ハカセはまたコスモッグの前に立つ。
「ハカセは、仕事、好きですか?」
ハカセは作業の手を止めることなく答える。
「わかんない。でも、やってると安心する」
「この研究って、成功したら、どうなるんですか?」
「教えてあげない。私は、ずるい大人だから」
自分の研究対象であり、迫害の対象であるポケモンを見つめる彼女の顔は、30半ばにしては老けて見えた。
私はハカセを元気づけたいと思った。
「それでも、私は、あなたのこと、すごいと思う」
私がそういうと、ハカセはうつむいて、それでも小さく「ありがとう」と返してくれた。震えるような声だった。
時間になったので、私は地下1階の船着き場に行った。そこで戦闘員と入れ替わりに私がポケモンの受け入れを監視する。相手が素直にポケモンを渡せば私の仕事は終わり。相手が戦う意思を見せれば、私が彼らを殺す。
みんな知っている、自分たちのやっていることを。
みんなわかっている、代表の本性を。
そして、そんな代表に頼らなければいけない自分の弱さを。
それでも、私たちは戦う。
身を守るのには武器が必要だ。
私たちには神の加護がある。
私には、好きな男性がいる。
私は、この楽園を、守りたい。
◆
母が笑っている。
彼女の顔は激しい電流によって焼けただれ、長いブロンズの髪が面影も残さずに黒く焦げている。顔には、何か大きな手に鷲掴みにされたような跡がついており、彼女の身に何が起こったのかを理解する。心配はいらない。人はいつか死ぬ。
それでも母は笑っている。
強くなってくれてありがとう。
私を殺してくれてありがとう。
私を解放してくれてありがとう。
それは紛れもないほほえみで、けれども黒焦げになった顔で表情が判別できるはずがないだろうと思った瞬間に、これが夢だと気づく。俺は目を覚まそうと思う。さよなら、母さん。俺がそういうと、母は答えてくれる。さよなら。
昼でも夜でも時間を問わずに母は何度も現れた。怖いわけではない。眠ったら母に会える。ただそれだけのことだ。この夢が俺に何かを強いることはなかったし、俺もこの夢に抗おうとは思わず、奇妙な共生関係が続いていた。
陽はまだ高い。俺は顔を洗ってからエレベーターでエントランスに上がる。
10歳ほどの少女とぶつかった。モンスターボールの絵柄のボストンバッグを肩に背負い、大きな白い帽子をかぶっている。明らかに職員ではないし、ハウスにいる孤児にも見えなかった。
少女はおびえていた。ぶつかった俺を見て、確かに震えていた。
俺は敵意がないことを示そうと両手を上げる。しかし、絶海の孤島であるこの楽園で、偶然に子供がやってくるとは考えにくい。この子は誰だ。
呼び止める間もなく、少女はエレベーターに乗って、さらに上へと向かう。
今日は楽園への見学者はいないはずだ。船着き場の警備は異常に厳重で、うっかり子供が入ってくるなどというミスは犯しようがない。少女がこの楽園に入り込むことはできない。
それであれば答えは1つ。少女はこの楽園にもともといた、すなわちここの住人だ。
少女の肌は白かった。アローラの生まれではない。少女の美しい金髪を思い出す。そして、同じ髪色をした女性のことも。
俺は非常階段へ走った。階段を2段飛ばしで駆け上がり、叩くように保護区への扉を開ける。
楽園の陽が差し込む。
ガラスの天井からは青い空がのぞいており、ベトベターが木の実を食べ、サニーゴが日光浴をしている。いつもと変わらぬ楽園の日常。侵されることのない氷漬けの平和。
少女を見つけた。周囲を警戒しながらゆっくりと歩いている。
すると、職員2人組が少女へ向かって走り出した。追いかけてきたのは俺だけではないようだ。気づいた少女も走り出す。
俺は追いつめられる先を予測して、そこへ先回りした。
曲がり角から少女が現れる。俺に気が付いて、足を止める。
追いかけっこは終わり。
少女がなぜ逃げているのか俺は知らない。あとは追ってきた職員に任せればいいだろう。俺とは関係がないことだ。
それはわかっている。
それなのに、胸騒ぎが収まらない。俺の戦闘員としての勘が、少女への警戒を怠るなと言っている。
彼女は何かをボストンバッグに隠している。
彼女は何かを知っている。
でも、それよりも重要な、何かがある。
俺たちに囲まれた少女はしかし、逃げるでもなく命乞いをするでもなく、俺をにらみつけた。
俺は気づく。
少女は、生きようとしているのだ。誰かを、助けようとしているのだ。
知恵もパワーもスピードもない1人の少女。けれども、その意志の力だけで、俺の足を止めるには十分だった。
少女の持つボストンバッグから青い光があふれだした。
光は楽園を包み、そして1か所に固まり球のようになる。
光の球が消える。
少女の姿がないことに気が付く。
あとには、呆然と立ち尽くす間抜けな俺と、怒りに顔をゆがめた2人の職員が残った。
少女を追ってきた職員に尋問された時には少し笑いそうになった。俺の知らない職員で、向こうも俺を知らないらしい。戦闘員であることを告げると、他言無用とだけ言って彼らは引き下がった。もしも表の顔しか知らない職員がこの様子を見ていたとしたら、どうなっていたのかは知らない。
そんなことよりも、俺は副支部長のついた嘘に笑っていた。
ああそうだ。この楽園には俺の知らない奴もいるし、俺のことを知らない者もいる。
不思議でもなんでもない。
ただ、出会わなかった。それだけのことだ。
俺1人だけが残された後、少女の消えた場所が紫色に染まっていることに気が付いた。ガスが漂っているようであり、けれども近寄ると確かな熱を帯びた物体であるように感じた。
俺はハイテクワイヤーをポケットから取り出して、ガスを捕らえる。
もちろん俺にはこれの正体がわからない。でも、知っている奴なら、心当たりがある。アイツがいつも通っている地下のラボに。
「会いに行くか」
紫のガスに向かって俺はつぶやく。
まだ出会ったことのない人たちに、会いに行くかと聞いている。
「じゃあ行ってくるよ」
顔のつぶれた母に向かって、俺は言う。
「行ってらっしゃい」
母が言った。俺が聞く、彼女の最後の言葉だった。
◇
これは、私の人生であるのと同じように、彼との人生でもある。
コスモッグを失ったハカセは、けれども彼が渡したコスモッグのガスを使って、今まで以上に研究にのめりこんだ。怯えとか謙遜とか卑屈とか、そんなものを突き抜けて、ハカセは紫のガスに命を吹き込んだ。
私はポケモンのトレーニングをして、淡々と侵入者を殺していった。
彼とは毎晩会って話をした。
化学を教えてもらうこともあった、今日殺した人のことを話すこともあった、ポケモンの鍛え方について議論した日もあった。どんな時でも彼は真剣で、私のやけどを治してくれたときからそれは変わっていない。
その日、私たちは、私たちの人生について話をした。
エレブーの頭を撫でながら、私は言った。
人生には良いことと悪いことがある、楽しいこととつらいことがある。プラスとマイナスがあって、打ち消しあうんだけれども、まだプラスに偏っているから生きている。マイナスになった人が、死ぬ。
そうしたら、彼は答えるのだ。
俺は、すでにマイナスになっていると。
けれども、死なないと。
「人はいつか死ぬ」
彼は言う。
私は同意する。
でも、まだ私は生きている。
そんな私のそばにいたいから、彼は生きている。
私が生きている限り、彼は死なない。
いつものように真剣で、だれよりもまっすぐで、月の出ない夜のような穏やかさで彼は言う。
私は無言でうなずいた。
その日はたまたま戦闘員が4人もいた。
スカル団の動きが慌ただしくなり、私たちも新しい配置を検討していたのだ。今までは1人でポケモンの受け取りに臨んでいたけれど、これからも同じでよいかはわからない。新しいチームが決まるまで、とりあえず個人プレイは避けて、みんな船着き場に集まっていた。
最初に聞こえたのはヌメイルの叫び声だった。
侵入者のポケモンではないことは、その声でわかった。背中を預けたことのあるメンバーの声は決して忘れない。私が向かった時には勝負がついていた。
侵入者は子供3人。
最初、それをただの事故かと思った。
しかし、少年の繰り出すジュナイパーを見た瞬間に、彼らが戦闘員を倒したのだと確信する。2人目の戦闘員がハーデリアで対抗する。ポケモンたちが激突すると、文字通り島が震えた。
私たちは4人。侵入者は3人。数では勝っている。ジュナイパーは草・ゴーストタイプ。私のケララッパは飛行・ノーマルタイプ。相性も悪くない。
けれども、気を抜けば負けると思った。
今までのチンピラとは明らかに格が違う。ポケモンのパワーもスピードも、そしてトレーナーの指示の的確さも。
それでも、私は負けない。
私を待ってくれる人がいるから。
少年の前に立ちふさがる。私が彼らの壁なのだ。
コモルーを繰り出す。
相手がどれだけ強かったとしても、私のやることは変わらない。
「あんたが誰だろうが、ぶっつぶす!」
◆
侵入者は地下2階のラボにいる。研究員が対応しているが、おそらく彼らでは無理だろう。
支部長の元、楽園にいるすべての戦闘員が集められた。
単独行動は禁じられた。1人で勝てるとは思うなということらしい。相方はブーバーをパートナーにした戦闘員。実力は俺とほぼ変わらない。チームプレイの経験もある。ベストな選択だろう。支部長のペアとともに4人で行動することになった。
船着き場の様子が知りたいと願い出ると、相方に止められた。
「今は目の前の状況に集中したほうがいい。大丈夫、ここさえ食い止めれば、いつでも助けに行ける」
彼の言うことはもっともだった。
俺たちはスーパーボールをきつく握りしめて、中庭への扉の前に陣取る。
ここが、俺たちの最終防衛ライン。俺たちが立ちふさがる、最後の扉。
この場所は、楽園じゃない。
ここは、偽りの平和を享受する島。
ここは、エーテルパラダイス。
この場所には、人が住んでいる。
この場所で生き、この場所で暮らす人生たちがある。
ここでしか、生きられない人生たちがある。
ここは、エーテルパラダイス。
エレベーターの前で待ち構えていたグループが戦闘に入る。爆音の後に、職員のペリッパーが地に落ちる。吹き飛んだバンバドロが俺たちの足元に転がった。圧倒的な力の差だった。
相方が唾を飲み込む音が聞こえる。俺たちの胸くらいしかないはずの小さな少年の足音が、少しずつ大きくなっていく。
相方が一歩後ろに引いた。
俺もできることなら逃げ出したかった。
戦闘で負けることはいつも考えている。けれども、これほどまでの力の差を想定したことはない。
それでも、俺には、引き下がれない理由があった。戦うべき、理由があった。
ポケモンがボールから出てくる音がした。ボンというその音は、今の状況にまったく似合わないくらい間が抜けていて、けれどもそのボールを投げたトレーナーの戦う意思を伝えてくれた。
支部長のスリーパーだった。
支部長は知っている。彼の率いるエーテルを。彼の率いる職員を。彼の率いる人生たちを。
だから支部長は、引かない。
ザオボーが、叫んだ。
「人呼んで、エーテルパラダイス、最後の、最後の砦、支部長ザオボー! 今度こそ本気を見せましょう!」
俺たちも、ポケモンを繰り出した。エレブーが全身に電気を帯びたままスーパーボールから現れた。毛は逆立ち、近寄りがたいほどの戦意が体中からほとばしっている。
ジュナイパーが羽ばたく。俺のエレブーの毛がわずかになびく。
すると、ほんのりと、でも、確かに、甘く、華やかな香りがした。
ローズの香りだった。
アイツの香りだと思った。
人はいつか死ぬ。
俺もいつか死ぬ。
でも、それは、今日ではない。
俺は、この場所を、エーテルを、守りたい。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。