彼女、伊藤佐奈の父親、伊藤幸也は天才的な研究家であった。父親は感情の研究をしており、そのためにサーナイトやキルリアの体を、雌雄の関わりなしにこれでもかというほど隅々まで調べ上げて、そのおかげか娘が生まれるころには相当なサーナイトマニア。彼女の名前もサーナイトにちなんだものである。
その伊藤幸也は、最近物凄いものを発明してしまったのだ。その名も、『感情貯金箱』。
感情貯金箱とは、感情の事を研究していた伊藤幸也が開発した夢の機械。これは、口紅ほどの小さな装置を額にくっつけることで、装置に対応した感情を吸引し、その感情を保管、放出、注入することが出来る画期的な装置である。
それを使えば、怒りを吸い取ることで自分や他人の怒りを鎮めることも出来るし、他人のやる気を吸い取って、自分に注入すれば熱い男になることも出来る。 『好き』という気持ちを集めて意中の人間にその感情を注入すれば、惚れ薬のように使用することも可能という非常に素晴らしい装置だ。
しかし、画期的な装置とはいえ、それを世間に発表する前に、安全性を確かめる実験はやれるだけやっておくべきである。実験用のマウスから、より高次の感情や思考を持つポケモンとして、ラッタ、ヨーテリー、エイパムと段階的に使用した限りでは問題なし。
ついにテストは最終段階の、人間によるテストを行うことになる。しかし、幸也は学会への出席やら、論文のまとめやら多忙である。人間でのテストは研究所レベルでは成功したが、やはり一般人に広く利用してもらって、どんな活用法があるか、そういった可能性をさがしてもらうのがいい。
なにせ、幸也は研究のことばかりで世間のことに関しては疎い。自分の国の首相の名すらわからないレベルだったのは、今は亡き妻に呆れられたものだ。
そんなわけで、テスターに選ばれたのは娘である伊藤佐奈、息子である伊藤理亜が選ばれる。二人の若い発想に期待しての、父親からのプレゼントである!
さて、その選ばれた二人なのだが……
「おい、ねーちゃん起きなよ。あと五分で登校する時間だよ?」
「うーん、あと五分……」
「ねーちゃんパジャマで学校に行く気かよ……」
弟の理亜は、優等生である。幼い頃から理数系への才能を発揮し、努力も才能も兼ね備えた彼は、今では名門高校に通う天才児。将来は父親の後を継いで偉大なポケモン博士になるんじゃないかと噂されている。
対する姉なのだが、姉はダメダメである。小さい頃から努力が嫌いで、勉強も嫌い。その上暴力的で弟はいつもいじめられていた。第一子故に小学校に上がるまでに甘やかしすぎたのが原因かもしれないが、きっと生まれ持っての差というのもあるのだろう。集中力も乏しく、興味があるのは同級生との恋バナやアイドルグループの追っかけ、好きな漫画の推しカップルを語り合うくらいだ。
こんな調子では成績が悪いのも当たり前で、無関心な父親は弟のことは褒めても、姉のことにはほとんど放置していた。
母親は早くに亡くしている為、佐奈は唯一の親である父親の愛を受けることも出来素、そして弟には呆れられて、最低限の会話しかしてもらえない。人生に嫌気がさしてきたものの、かといって自殺するような度胸もなく、日々をなんとなく生きている。それが彼女の日常である。
父親が開発した感情貯金箱を手にしても、何かが変わるだなんて期待はしていなかった。
「へぇ……喜怒哀楽に、嫉妬、性欲、やる気、食欲、好意、嫌悪感、自己愛、隣人愛……他にも色々。感情ってこんなにカテゴリーがたくさん分けてあるんだ……」
佐奈は、まず最初に父親から受け取った感情貯金箱の種類に驚く。父親は前々から話していてくれていたのだが、しかし、彼女は父親の記憶に興味はなく、そして幸也は自分の研究の事を話す時は早口すぎて聞き取りづらい。
その相乗効果により、佐奈は全くの無知の状態からのテスターを開始することになる。一応暫定的な説明書は渡されたものの、活字の多さに一行目すら読むのをあきらめたくなるほどだ。弟がかいつまんで説明もしてくれたが、いきなり前途多難だ。
「使い方は、この装置を脳に近い場所……つまり、額とかに当てるわけ。装置の先端部分の色と書いてある文字で、吸収できる感情の種類が分かるようになっているから、例えば怒りを吸い取ってみたい場合はこうやって……」
「ふむふむ……」
口紅ほどの大きさの感情貯金箱には、スイッチがついている。スイッチは吸収、待機、放出の三つの状態があり、ボタン電池があればどこで使うことが出来る。
この装置、前述の通り人間のみならずポケモン相手にも対応しているため、場合によってはポケモンの闘争心を高めたり、逆に暴れん坊を鎮めたりするにも使えるため、将来的にはポケモンレンジャーが気性の荒いポケモンの保護に利用したり、犯罪者から抵抗の意思を奪うなど、様々な利用法が期待されていた。
「それで、この装置は割れると中身が放出されて、吸収した感情が周囲の人に吸収されちゃうから気を付けてね」
「うんうん」
「あと、絶望を集めて注入すると、ポケモンが自殺をしたような例があるらしいから、そういう風な使い方は絶対にしない事」
「うんうん」
「あと、使いすぎると精神に不調をきたすからね。喜びの感情を連続で注入されたポケモンは、それなしじゃ生きられないくらいに無気力になっちゃったとか……あと、ストレスの感情を常に吸収してストレスフリーな生活をしていたポケモンは、吸収を打ち切った途端にストレスに対して極端に弱くなったとか。
何にせよ使いすぎると精神的に不安定になりやすくなるから、使い過ぎに注意……そんな感じかな」
「はーい、分かった」
正直、半分くらいは聞き流していた佐奈に理解できたのは、こういった基本的なことくらいであった。そして、言葉で理解で来ていてもそれを守ることが出来るとは限らないのである。
「でも、これってどうやって使えばいいのかしらね……父さんはレポートを書けばお小遣いくれるって言ってくれるけれど……」
佐奈は、弟から使い方を説明してもらい、活用方法を探そうと外に出たが……かといって、今まで何も考えずにのほほんと生きて来た佐奈には、いきなり自由研究のような真似をさせられても難しいのは当たり前だ。
「うわ、なにあれ……」
そんな時、佐奈は戦い続けて毛もボサボサ、返り血とも自身の血ともつかない血糊にまみれ、足すら震えていてもなお闘志を失わない真夜中の姿の赤いルガルガンを見る。
「おい、お前……オーバーワークは逆効果なんだって。今日は休まなきゃ、な?」
どうもそのルガルガン、空き地でトレーニング中のようだが、見ての通り体はボロボロだ。佐奈もスポーツマンガをよく読むのでなんとなく知ってはいるが、トレーニングはあまりに頑張りすぎても体が上手く修復されずに衰えてしまうという。
しかし、ルガルガンの特性はやる気だから、そんな状態でも戦い続けたいというみなぎる投資が抑えきれないようだ。ポケモン擬人化(イケメンだらけ)漫画で得た知識ではあるが、バトルの考察自体はしっかりした漫画だったので間違いではないだろう。
「あのー、すみません……そのルガルガンの子、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「え、いいけれど……その子、血がついているから汚れちゃうし、俺とジョーイさん以外に撫でられると吠えるよ? 牙も見せるし、あんまり触らないほうがいいかと思うけれど」
「えっと、その……ちょっとその子もうボロボロじゃないですか? 少し休ませてあげないと」
「それは山々なんだけれど、こいつ休もうとしないんだよ。やる気がありすぎて、暴れたくって仕方がないらしくってさ」
トレーナーが苦言を呈している間にも、ルガルガンは早く戦わせろとばかりにトレーナーの腕を掴んでせかしている。
「まぁまぁ、ちょっと休みなよ、君……」
そう言って佐奈は、ルガルガンの額にやる気の感情貯金箱を『吸収』にしてくっつける。すると、ルガルガンはトレーナーを掴んでいた手を放し、すっと大人しくなるではないか。落ち着くとともに、思いだしたように体の痛みを感じ始めたため、
「あれ、落ち付いちゃった……うわ、すごいね君! なにそれ、胃液でもかけたの? こいつやる気の特性で倒れるまで戦うのを止めようとしなくって困ってたんだよねー!」
「あはは、さすがにこんな公衆の面前で胃液をかけるような真似はしないですよー」
「おー、さすがに体痛いだろカーマ? よしよし、ポケモンセンター行って休もうな」
トレーナーはカーマという名前らしいルガルガンを撫でて、鼻にキスをしてからボールに収納する。すっかり尻尾が萎えていたルガルガンは逆らうことなくボールに入っていった。
「ふぅ……いや、君ありがとう。あいつ、やる気があるのはいいんだけれど、ちょっと言うことが聞かないところがあってさ。困っていたんだよ。どうやって落ち着かせたんだい? 魔法みたいに君が触ったら落ち着いたけれど……」
「いや、ちょっとその……やる気を失わせるおまじないのようなものをやったんだけれど、本当に効果があったんですね……」
佐奈はそう言ってトレーナーの事をまじまじと見る。正面に立って面と向かって話をしてみると、このトレーナー意外と格好いい。しかも、見れば彼が持っているかばんにはバッジが八つきらめいている。この地方のバッジすべてを集めている証拠であり、わりとエリートトレーナーなのだろう。
「へー……すごいね君。もしかしたらポケモンと心を通わせる能力があるとかそういう感じなのかな? あ、良ければ君、俺と連絡先を交換してくれないかな? 俺、この町に住んでいるんだけれどさ、何か君は不思議なことが出来るみたいだし、何かの役に立つかも」
「えー、いいんですか?」
イケメン大好きな佐奈にとっては、棚から牡丹餅のような提案であった。当のトレーナーは『育成の役に立つかも』くらいにしか考えていなかったのだけれど、佐奈の方としてはこれから素敵な恋が始まるかもしれないだなんて、二重の意味で甘い考えを抱いていたのだ。
トレーナーの名前は杉田雄二。シロデスナやカバルドンなど、地面、岩、鋼タイプのポケモンを得意とする、すなあらしのエキスパートなトレーナーだ。
佐奈はその日から、月に一度か二度くらいの頻度で彼と会うようになった。
二重の意味で甘いとは言ったが、彼と出会ってからというもの、佐奈の生活は一変した。まず、彼女は勉強するようになったのだ。ルガルガンのやる気を程よく吸い取って、それを自分に注入することで勉強のやる気を出したのだ。
勉強のやる気を出すのは火、木、土曜日で、月、水、金、日曜日はゆっくりのんびり悠々自適に過ごす。今まで何とか赤点だけは回避していただけの劣等生だった佐奈も、そんな生活を始めてからはめきめきと頭角を現して、半年経つころにはすべての教科で目に見えて順位も上がっている。とはいえ、それでも弟に比べれば褒められた成績ではないが……
美容についてもそれなりに向上している。トレーナーから子供が出来たからと言われてもらったイワンコ♀にも同様のことをして、散歩のことしか考えられないようなイワンコのやる気を程よく吸い取りジョギングにも精を出した。疲れて夜寝るのも二時間ほど早くなったおかげで頭も体も健康になって、素敵な人へとなって行ったのだ。
雄二と一緒に居るところを同級生に何度か目撃されたこともあり、恋をして美人になったともっぱらの噂だ。外に出ることが増えたため、白かった肌は少々黒くなったが、それでも健康的な色でシミもないため悪い印象は受けない。
こうして頭も体も少しずつ良くなった佐奈だけれど、しかし根本的なところではあまり変わっておらず、ダメ人間であることは変わらない。自前のやる気では何も出来ないし、ストレスがたまったりイライラした時は、それを吸収して他人に押し付けたりなど散々だ。
あまり変わっていないどころか悪化したと言うほうが正しいのかもしれない。傍目にはバリバリ勉強も運動もして、いつもニコニコ笑っている聖人のような彼女だけれど、その実態は他人やポケモンにストレスを押し付け、食欲なんかも他人に押し付けてダイエットをするような、クズの見本のような状態だ。
そんなことを繰り返しているせいか、突発的な感情の上下が激しくなり、ちょっとしたことで癇癪を起して机を叩いたり、椅子を蹴ったりという行動が多くなってしまった。暴力を振るう前にすぐにハッと思い直して、感情貯金箱でおまじないをするためにちょくちょく席を立つ。
具体的な被害を受けることはないものの、突然の感情の上下に耐えきれずに友達をやめる者も多く、彼女自身の能力が高くなって行くのとは逆に、友達は少なくなっていった。彼女はそれを、嫉妬しているのねと虚勢を張っていたが、なんでこう上手くいかないのかと内心では悩んでいた。
雄二との関係も進まない。雄二はあくまで彼女の特殊な能力に期待していたまでのことで、女として佐奈を見ることはなかった。
佐奈は、あからさまに感情貯金箱を出すと怪しまれるので、リストバンドの中に感情貯金箱を仕込みさりげなく感情貯金箱を操作することで、今のところはその存在こそバレていない。バレてはいないが、何かトリックがあるのではと勘ぐられている状態では、長くは隠し通せまい。
しかし、雄二は彼女のあからさまに恋人にならんとする態度にはむしろ警戒しているため、佐奈も感情貯金箱のことがばれたらこの関係が終わることは薄々感づいていた。
それゆえ、佐奈の行動はさらに過激になり、露出度の多い服を着たり、ボディタッチをしたり。しかしそれで心を動かすことはなく、雄二もなんだか嫌気がさして関係を終わらせたいという態度が目に見えてくる。
もしかしてと思って後をつけてみると、雄二には彼女がいた。なるほど、佐奈に対して女の魅力を感じないわけである。
「ルックスもバトルの実力も文句なし。そんなトレーナーを逃してたまるものか……」
佐奈は、早速その女の後をつけた。殺しはしない、傷つけもしない。ただ、彼女の中にある雄二への『好意』の感情を奪うだけだ。後ろから接近し、おもむろに額へと例の感情貯金箱をくっつけて……それで彼女は、やる気を失う。
何もする気が起きなくなり、歩くことすらおっくうになる。例えばそれは夜、ベッドの中で尿意を覚えてなかなか寝付けない時、トイレに行けばすぐに眠れるかもしれないのに、トイレに行くのも面倒だと思うような、あの心境のようだ。
「貴方、杉田雄二さんの恋人さん?」
そんな明らかな異常事態に加えて、目の前には怪しい女。助けを呼ぶべき状況だと思うのだけれど、それなのに声を出すことすら面倒に感じてしまい、雄二の恋人の女性は動けない。
「怖がらなくっていいの……ただ、あの日とのことを思い浮かべて。あの人が好きなんでしょう?」
「なんなの? 何するつもり?」
恋人である雄二に何かをするつもりじゃ!? そう思って、彼女はやっとのことでその声を絞り出した。彼への愛の力がなせる業だが……彼への想いを表に出してしまった事で、『好意』を奪う準備は完了だ。
「何もしないよ」
言いながら、佐奈は雄二の恋人から『好意』の感情を奪い取った。これで、この女はもう雄二のことなんてその辺の石と変わらないくらいに無関心な存在となる。
あとは、この『好意』を、佐奈が雄二に注入すれば、雄二は佐奈に『好意』を抱いていると錯覚するわけだ。ポケモンでも何度か実験したのだ。ポケモンが大好きな飼い主を見ているとき、想像している時に発生した好意を奪うことで、ポケモンは飼い主への行為を失う。
今度は別のポケモンを用意し、そのポケモンが佐奈を見ている状態でそのポケモンに再度好意を注入すれば、見知らぬポケモンは佐奈に好意を抱く。
人間にだって同じ方法で通じるはずだ。同じように、雄二君に好意を注入すれば……
結果的に、佐奈のたくらみは成功した。そのまま恋人から前触れもなく別れを告げられた雄二だが、佐奈に対しては結局人間的に好みではないのかまったくなびかなかった……が。しかし、『好意』を注入することで、雄二は佐奈に恋心を抱いてしまったと勘違いし、エンニュートのフェロモン入り香水に惑わされて一夜を共にしてしまった。
そうして、なし崩し的に始まった関係は、佐奈がそこら中から集めて来た『好意』を適度に注入することで保たれていた……しかし、そんな無茶な方法では本当の行為は得られないのだ。雄二は本来、わがままでいい加減で自分勝手な性格の佐奈を、『可愛い』だとか『守ってあげたい』などと思うようなお人好しではない。
かつての雄二の恋人は、ポケモンのことが大好きで、一緒に自分のポケモンの事を可愛がってくれたし、トレーナーである雄二の疲れをいやすような気づかいにあふれていた。だけれど、目の前にいる佐奈は、ワガママし放題で、遅刻しても大して悪びれる様子もないし、いつもいつも食事の際では奢ってくれとねだる。
本来ならば好きになるはずもないタイプの女だというのに、何故だか好きで好きでたまらない。結果的にストレスがたまり、いら立ちのせいかポケモン達への指示満足に出来なくなり、バトルの成績は目に見えて落ちていった。
そんな時、雄二は彼女の家に呼ばれ、その際に佐奈の弟、理亜と接触する。理亜は前々から佐奈の事を怪しんでいたため、佐奈が雄二を家に置いてスーパーマーケットまで出かけて行ったその隙に、雄二へ『佐奈が何かと額に触れようとしていないか?』と質問をする。
雄二には心当たりしかなかった。佐奈が行うおまじないはいつもそうだ、ポケモンに対しておまじないを行う時も、雄二に対して恋のおまじないを行う時も、額に触れていた。
そしてそれらを疑う心も、佐奈は奪っていたのだ。恋は盲目とは言うが、雄二は文字通りそういう状態にさせられていた、ということである。
「やっぱりね……姉が普通に恋人ができたって言うんなら、厄介払いのためにも応援したけれど、そういう風な方法で勝ち取った恋人とか……流石に酷すぎて何も言えないよ。どうします? この感情貯金箱で好意を抜き取ることが出来ますけれど……本当は、テスターである僕たち以外には教えちゃいけないものなんですけれど、被害者ですしね……」
「何回、佐奈を好きになったことを後悔したか分からない。アル中とかギャンブル中毒みたいに……あいつを好きでいる事や関係を持つことを後悔しているのに、嫌なのに引き寄せられる不思議な魅力がある女の子だと思っていたけれど……からくりが分かると怒りがわいてくるよ。その感情貯金箱、俺にも使えるのかな?」
「はい……ですが、誰かに貸したり、悪用するのは止められていまして……」
「俺が悪用されているんだよ」
静かに怒りを湛えて、雄二は理亜に凄む。
「……このまま、俺に訴訟を起こされるか、それとも一回だけ俺に貸すか、二つに一つだ。訴訟を起こせば、とんでもないを使ったんだ、君も、君の父親も迷惑を被ることは避けられないだろうね」
「分かりました……ですが、僕は関係ありませんし、親に聞いてきます。親はちょっと研究に没頭しているから、多分夜になると思いますが……」
雄二にこう言われてしまえば逆らうことも出来ないので、理亜は自分が出せる最適解を口に出す。
「わかった、必ず頼むぞ」
理亜は一応その場で父親に連絡したが、父親はすぐには出なかった。職場に電話し、すぐに取り次いでもらうように連絡すると、三〇分ほど経った頃に電話が帰ってくる。
理亜は佐奈がとあるトレーナーに感情貯金箱を悪用して人生を壊しているという事を伝え、場合によっては訴えられることを父親に伝えた。すると父親は、『あぁ、貸してもいいよ。一回でしょ?』
と、軽い調子。
「ちょっと待ってよ、本当にいいの? もしかしたらお姉さん殺されちゃうかもよ!?」
『んー……気にするなよ。それに、そんなに恨みを買っているなら、一回くらいお灸をすえたほうがいいだろ?』
確かにそうなのだが、恨みを買った相手に感情貯金箱を渡してしまえば、どんな風に悪用されるかもわからないのに、父親は気楽なものだ。けれど、背に腹は代えられない。理亜は雄二に連絡を取り、感情貯金箱の説明をしてから貸し与える。
「参考までに聞きますけれど、一体どういう風に使うつもりですか?」
「一生、後悔するように……ところでお前、姉は好きか?」
雄二は理亜にまじめな顔で尋ねる。
「軽蔑しています……幼い頃からずうっといじめられて、理不尽な目に遭っていましたので」
「じゃあ死んでも悲しまないか?」
「……どうでしょうね」
理亜は答えられなかった。
「ただ、きっと父はそんなに悲しまないでしょうね……母親が亡くなった時は流石に悲しんでいましたが、それからというもの姉に対する扱いはひどいですし」
そう言って、理亜は悩みながらもう一言付け加える。
「それと、姉さんは八つ当たりがひどいから。もしもあなたに酷い振られ方をしたら、その……何をしでかすことやら、分からなくて……悲しいかどうかはともかく、それが怖いです」
「わかった」
何が分かったのか、雄二はそれ以上は何も語らないあ。理亜は雄二が具体的に何をどうするのかはわからなかったが、言うべき台詞を言えなかった。『殺すような真似だけはダメですよ』と。正直、姉は嫌いだ。ここで雄二に生ぬるい制裁で我慢させたら、本当にどう動くのか予想が出来ないのだ。
数日後、雄二は佐奈を誘って森へとピクニックに赴くこの森には実はキテルグマが出没する。おりしも季節は春、そろそろ冬眠からも覚める時期で、この時期は腹も減っている為キテルグマは特に狂暴になる時期である。しかし八つのバッジをそろえたエリートトレーナーである雄二ならば普通は問題ない。
そんな雄二は、今日は甘い蜜の香りをまき散らし、トレーニングで血の匂いがこびりついたカーマを連れて、キテルグマの嗅覚を煽る。蜜の匂いも血の匂いもキテルグマには大好物だ。その強烈なにおいに誘われてキテルグマが雄二たちの元に現れる。
「佐奈ちゃん!」
雄二はおもむろに佐奈の手を掴み、カーマから吸い取った闘争心を彼女に注入する。
「え、え……?」
「佐奈ちゃん。あのキテルグマと戦いたくなったんじゃない?」
「うん……何だろう、絶対に勝てるわけがないってわかってるのに、だからこそ燃えてくる……いや、でもこれ……あなたもまさか……」
「君が持っているのと同じ装置を使ったけれど、何か問題あるの?」
佐奈は、今湧き上がる闘争心が自分のものではなく、誰かから吸収したものを無理やり注入されたのだと気づいた。だけれど、湧き上がる闘争心を抑えることが出来ない。感情貯金箱のせいで感情の制御ができない。自然とキテルグマの方へと足が向く。
彼女はまるで真夜中の姿のルガルガンの如く相手を挑発して攻撃を誘うが、武道の経験のない彼女が戦いを挑んでも結果は見えている。
バァン
その時の様子を雄二は語る。佐奈は、キテルグマを見て可愛いと言いながら歩み寄っていき、そして殺されたそうだ。きちんと感情貯金箱を返却してきた雄二はお悔やみの言葉を口にしたが、その口元には笑みを浮かべていた。
ポケモンに催眠術を掛けさせて自殺めいたことや犯罪行為をさせた場合は、催眠術を指示したトレーナーに自殺教唆や殺人教唆などの罪状がつく。恐らく、感情貯金箱を用いて人を操った場合にもそういった罪状はつくのだろうが。そうすれば、感情貯金箱の存在が明るみになってしまうため、父親は雄二を訴えることは出来ない。
だが、父親はその必要すらないほどにあっけらかんとしている。雄二を恨むとか、そんなの思考の隅にもないかのように。
「ねえ、父さん……その、悲しく、ないの?」
葬式中、父親は涙一つ流さず、それどころか研究のためにすぐにでも家に帰りたそうだった。その父親が、嬉々として研究室に理亜を誘ったのだ。そのあまりの態度に理亜は違和感を覚えて尋ねる。
「ん? 何が悲しいんだ? この感情貯金箱は最近、国の諜報機関からも資金の提供を受けているからな、なんでも諜報活動の際に拷問よりもよっぽど簡単に自白を促すことが出来る可能性があるって、注目されているんだ。
人を自殺させるくらいに強い衝動を引き起こすことが出来るならば、感情貯金箱の効果は証明されたようなものじゃないか?」
「そう……っていうか、そんなもの民間人に使わせて大丈夫なのかな……というか、確かに、姉ちゃんはダメ人間だけれど……もしや、悲しみの感情を貯金箱で吸い取ったわけじゃないよね?」
「あぁ……いや、吸い取る必要もなかったかな。貯金箱に頼らなければ勉強も出来ないような娘、必要ないし。そうそう、それに、実は改良型も作られていてな、今度は額にくっつける必要もないんだぞ? その気になれば大量の人間から少しずつ感情を吸い取って、一人の人間に注入なんてのも出来るんだ。感情貯金箱を完成させればお金がいっぱい入ってきて、欲しかった研究機材が買えるんだ。
まあ、感謝を込めて葬式くらいは行かないとなって行ってみたが、特に何も感じなかったよ」
「お父さん、まさか……」
佐奈の父親は、悲しんでいなかった。その父親の態度が、『悲しみ』を吸収された結果だからなのか、それとも元からなのかは神のみぞ知るところだ。
ともあれ、理亜はその日を境に研究室によく顔を出すようになった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。