アローラ地方のとある村に、一人の男が住んでいました。その男はとても気前がいいことで有名で、誰かが何かを必要としている時には、自分の持っているものの中から必要とされているものをくれるのです。たとえ必要なものを持っていなかったとしても、数日後にはどこからか取ってきて、あるいは買ってきて、依頼人に渡すのです。誰かが困っている時には、必ずと言っていいほど手助けを申し出るのでした。村人はこの男のことをアイカネ(アローラ語で「親切」という意味)と呼ぶようになりました。
アイカネに何かを貰った人は、お返しにと言ってアイカネに色々なものを持って来てくれました。それは花だったり薪だったり木の実だったり、大きなものだと釣りや狩りの道具だったり家具だったりしました。アイカネはお礼なんていらないというのですが、村人たちは何かをしてもらったら恩を返さねば気が済まない性格の者ばかりでした。
アイカネは一匹だけポケモンを従えていました。小さな小さなポケモンでした。キュワワーという、小さな丸い体から輪っかのように薄水色の蔓を伸ばし、その蔓にいくつもの花をつけたポケモンでした。その可愛らしい姿は、アローラ地方ではレイと呼ばれる首飾りを運ぶ妖精のようでした。このキュワワーはシェードジャングルの奥深くにある洞窟に迷い込んだ時、ズバットに襲われている所をアイカネが助けたもので、それ以降アイカネを慕ってついて来たポケモンでした。
誰かがそのアイカネの元を訪れるたびに、キュワワーは持っている花輪を訪問者の首にかけてあげました。アイカネの元を訪れたばかりの時はどんなに不機嫌な人も、どんなに心が沈んでいた人も、キュワワーがくれる花輪を首に掛けられると、そんな気持ちは何処かに吹き飛んで、何だか清々しい気分になるのでした。キュワワーの持つ蔓は栄養満点で、括り付けた花が活性化して心が落ち着く香りを生み出すからでした。
アイカネもキュワワーも、自分以外の誰かの笑顔を見るのが好きでした。自分の元を訪れる人が笑顔を見せてくれると、アイカネもキュワワーも一緒に嬉しくなるのでした。
ところが、ある時からアイカネは自分のやっていることに疑問を覚え始めました。誰かが喜ぶ顔が見たくて続けてきたことなのですが、そのうち困っているふりをしてアイカネから様々なものを巻き上げる者が現れ始めたのです。困っている人を見れば、アイカネはなにかしらの手助けをしてくれる。礼はいらないというのだから言う通りに礼などする必要はないだろう。そんな風に考えるようになった人々でした。事あるごとにアイカネに頼みごとをしたり何かが欲しいと言ったりして、アイカネが要望に応えると礼も言わずに去って行くのです。
アイカネ自身、誰かの手助けをすることは好きでやっていたことでした。なので、はじめのうちは自分がそう言っているからそれでいいのだと、アイカネは自分に言い聞かせました。しかし、何度も何度も同じことを続けられるうちに、さすがのアイカネも憤りを覚え始めました。
遂に我慢の限界を迎えた時、アイカネは思いました。感謝の気持ちを忘れた者の頼みごとを聞く必要はないと。しかし、アイカネは頼みごとを断ることが苦手でした。いつもいつも頼みを聴いてくれていたじゃないかと強く押されると、どうしても頼みを聞かずにはいられなかったのです。
そこでアイカネは考えました。感謝の気持ちを忘れた人が、自分のところに来ないようにすればいいと。手っ取り早い方法は、その誰かを殺してしまうことだと。そして、その方法は既に頭の片隅に思い付いていました。
アイカネはキュワワーが抱えたレイに、毒を塗っていきました。そして、それをアイカネの元を訪れた人の首にかけるように言うのです。キュワワーは困ってしまいました。それまで優しかったアイカネが、急にそんな恐ろしいことを頼み始めたのですから。それに、フェアリータイプのキュワワーにとって、毒は大敵です。しかし、命の恩人であるアイカネの頼みを断ることは、キュワワーにはできませんでした。
翌日、アイカネの元を訪れた依頼人は、それまでに何度もアイカネに大量の食べ物を要求してきたパイナという男でした。パイナはアイカネが持っているだけの食料を出すと、足りないと言いながらも食い散らかし、大した礼も言わずに帰っていった態度の悪い男でした。アイカネは内心を悟られないように笑顔で対応しながらも、キュワワーにレイを渡すように言いました。キュワワーは言われた通り、抱えていたレイを男の首に掛けました。
この男のことだから、今日も食べ物を要求するのだろうと思ったアイカネは、台所からたくさんの木の実を皿に盛ってやってきました。すると、パイナは
「今日はいいんだ」
と言って、木の実を断りました。そしてアイカネとキュワワーに礼を述べてから、改まった様子でこう言うのです。
「この前はすまなかったよ。あれだけの食べるものを貰っておいて、何の片付けもせずに帰ってしまうなんて、あまりに失礼だった。何か困っていることがあったら、いつでも言っておくれ」
アイカネは困ってしまいました。この男を殺そうと思っていたのに、パイナが謝ってしまったことで殺す理由がなくなってしまったのです。
「ありがとう。今は特に困っていないから、また何かあった時に頼むことにするよ」
そう言うと、パイナは満足げに頷いて帰っていきました。
パイナの首にかかったレイを途中で取り上げてしまおうかと考えましたが、それはあまりに不自然にとられるのではないかと思って、ついにできませんでした。
その翌日に彼の元を訪れたのは、アイカネにハラという植物の葉で編んだ敷物や籠を作ってほしいと頼んだラウという女でした。敷物や籠などの大きなものを編むのにはとても時間がかかるのですが、ラウは待つのが苦手なようで、何度も何度も催促をしに来ていました。そして出来上がった織物を取りに来た時には、「次はもっと早く作っておくれ」と言い捨てて行ったのです。
アイカネは前日と同じく、キュワワーに毒を塗ったレイを渡していました。キュワワーが大きな籠を抱えたラウの首にレイをかけると、ラウはレイをつまんで臭いを嗅ぎました。毒のことがばれたのではないかと、アイカネは不安になりました。しかし、ラウはいい香りを嗅いだ時のよう柔らかい笑顔を浮かべました。そして、こんなことを言うのです。
「急かしてしまってすまなかったね。もらった敷物や籠だけど、とても使い心地がいいんだ。やっぱり、良い物を作るのには時間がかかるんだね」
それから、アイカネが編んだものと思しき籠から、いくつかの木の実を取り出して言いました。
「あの時ちゃんとお礼もできていなかったし、もらってくれよ」
「いいんですよ。そんな……」
それまで自分はとんだ勘違いをしていたものだと、アイカネは自分がやろうとしていたことが恥ずかしくなりました。できるだけ顔に出さないように言うアイカネを、ラウは咎めました。
「そんなだから、あんたに頼み事するのが当たり前になってしまうのさ。みんなあんたに感謝してるんだから、ちゃんと受け止めてやらないと」
仕事を急かしに来た時の棘のある声ではなく、アイカネを激励するような頼もしい声でした。
ラウはアイカネの家を去るまで、パイナが死んだなんてことは一言も口に出しませんでした。アイカネの住む村では、誰かが死んだときにそのことを村全体に知らせる決まりがあったのでおかしいなと思いましたが、きっと明日には死んでしまったかもしれないと思うと、せいせいしたという気持ちよりも先に心の底から凍り付くようなぞっとした感覚に襲われるのでした。ラウの首から毒入りのレイを取ってしまおうなどという考えは、恐怖の底に埋まってしまいました。
それから何日か、それまで態度が悪かった訪問者がアイカネの元を訪れる日が続きました。そのたびにアイカネは毒を塗ったレイをキュワワーに渡すのですが、キュワワーがレイを首にかけた訪問者は決まってそれまでの非礼を詫び、それぞれの方法で感謝の気持ちを伝えたのです。ある者は口下手だからと言って手紙に想いを綴り、ある者は花や木の実の苗を持ってきました。ある者はアイカネの家の壊れている所を、嫌な顔一つせずに治していきました。彼の元を訪れる村人の誰からも、村人が毒殺されたなんて話を聞くことはありませんでした。
一度や二度ならば消えなかったであろう、アイカネの心に巣食う憎しみは、日に日に薄く、小さくなっていきました。それまで村人たちを殺そうと企んでいたことを後悔したアイカネはついに、レイに毒を盛るのをやめました。
その翌朝。アイカネが目を覚ますと、いつもなら枕元で穏やかな寝息を立てているはずのキュワワーが、顔を赤らめて苦しそうにしていました。何事かと思ったアイカネは、急いでキュワワーを村の医者の所に連れて行きました。
キュワワーの状態を診察した医者は、目を瞑って首を横に振りました。
「残念だが、手遅れだ。既に全身に毒が回って、手の施しようがない」
そこを何とか頼むと言って、アイカネは医者に頭を下げました。けれど、どれほど頼み込んでも医者の答えは変わりませんでした。
「いくらアイカネさんの頼みでも、こればかりはどうしようもないんだ。今から毒消しの木の実を食べさせても、苦しむ時間が長引くだけだ。本当に申し訳ない」
アイカネは医者を怒鳴りつけてやろうかと思ってしまいました。が、やめました。キュワワーがそうなってしまった原因に気付いたのです。アイカネが今までに訪問者に盛ろうとしてきた毒を、キュワワーが全て無毒化して、いい気分になる香りがする物質に変えてしまっていたことに。そして、アイカネが盛った毒によってキュワワーは少しずつ蝕まれていったことに。自分の過失でキュワワーが今の状態になったにもかかわらず、医者に頭を下げられて、アイカネ自身も申し訳ない気持ちになってしまいました。
アイカネは医者に礼を言って、相変わらず苦しそうなキュワワーを抱えて渋々家に帰りました。途中で何度も何度もキュワワーに呼びかけました。医者が匙を投げたとはいえ、まだキュワワーには生きていてほしかったのです。本当に感謝の気持ちを忘れていたのは自分だったのだと気付かせてくれたキュワワーに、これからも一緒にいて欲しかったのです。
そんな想いもむなしく、アイカネが家に着くころには、キュワワーの身体はもうすっかり冷たくなっていました。
アイカネは自分の行いを深く悔やみました。いくら悔やんだところで、もう二度とキュワワーは帰ってきません。自分がいいように利用されていたと思い込んでいたこと、感謝されないことへの憎しみを訪問者にぶつけようとして、それらが全て、アイカネ自身に跳ね返ってきたのです。
死んでしまったキュワワーを、アイカネは家の庭に埋葬しました。墓標は最初にアイカネが殺そうとしたパイナが作ってくれました。アイカネはパイナにお礼を言った後、自分がしようとしたことをことごとく打ち明けました。頭を地につけて謝るアイカネに、パイナは困ったように
「頭を上げてくれ、アイカネさん。ありゃあ、俺があんたに対して酷い態度を取ったからそうなったんだ。俺の方こそ申し訳ない」
と言って、パイナも同じように地に頭を着けてアイカネに謝りました。
パイナが帰った後も、アイカネは墓標に手を合わせて涙を流し続けました。それでキュワワーが自分のことを許してくれるとは思っていませんでした。それでも、アイカネは墓標に手を合わせ続けました。
長い長い黙祷の後、ふと目を落とした墓標の根元に、小さな芽が出ていることに気付きました。まだキュワワーが生きていた頃に村人からもらった苗の葉にそっくりな葉が二つ付いていました。頬から零れ落ちる涙が槌に吸い込まれるたびに、小さな芽はゆらり、ゆらりと揺れました。まるでアイカネの心を慰めるかのようでした。そして、アイカネに何かを伝えようとしているようでもありました。
アイカネはキュワワーの墓標の周りに村人からもらった苗を植えて、花を育て始めました。それは赤、白、黄色、かつてキュワワーが身に纏っていた色とりどりの花でした。綺麗に咲いた花を摘んでは、いい香りのする植物油を染み込ませた紐に通してレイを一つ一つ丁寧に作りました。そして、かつてキュワワーがそうしていたように、歓迎の気持ちを込めてアイカネの元を訪れた人々の首にかけていったのです。アイカネが作るレイに毒が使われることは、その後二度とありませんでした。
不思議なことに、アイカネの家の庭に咲く花は、アイカネが生きている間一度も枯れることはありませんでした。そして、アイカネが死んでキュワワーの隣に埋葬された後も、彼のことを知る村人とその子孫の手によって、アイカネの庭の花は守られ続けたのでした。
おしまい
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。