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「それでもぼくはぼくなんだ」(作者:禍月アオさん)


 主人の元を飛び出してから早数日が経つ。野生だった経験から食う事と眠る事には困らない暮らしを送れているが、既に主人手製の料理の味が恋しくなっている。ポケマメをふんだんに使った焼き菓子やスープが好きで、毎回兄と揃って一気に平らげてはお代りをせがんでいたのがまだ数日しか離れていないのにやけに懐かしく思えた。


 今自分の周囲には誰も居ない。アローラの夜空にぽっかり浮かぶ蒼い月や視界いっぱいに広がる星々などには目もくれず、彼は黙々と険しい山道を登っている。

「夜道は危険だ」と主人はむっつり顔でいつもそう言っていた事をふと思い出したが、彼自身は夜目が利くから心配無いと思っていた。


 元々、彼は山の出身である。人間が勝手に命名した地名を使うなら、テンカラットヒル最奥空洞と呼ばれる開けただだっ広い草原が広がる人工物も何も無い土地の生まれ。彼はそこで兄と二匹で暮らしていた。

 母親と父親は居ない。母親は彼が幼くして病によって衰弱して命果て、父親は彼が生まれる前に育児を母親に全て投げてふらりと何処かへ行ったきり。野生では稀に見られる事だ。本来彼らは単独で生活する者が多い種族故か、群れる事は殆ど無いので彼らの中では特に珍しくも無い家庭事情である。

 母親が死んだ時、幸いにも彼は離乳していたので量は少ないが年上の兄と同じ物を食べて生きるだけの力は残っていた。そこからは母親代わりとなった兄に狩りや護身などの生きる術を仕込まれ、今では兄と競うように食べて動く育ち盛りの仔犬へと無事に成長出来た。


 賢い兄とは対照的に、彼は直情的な性格。よく言えば明るく元気、悪く言えば一ヶ所に留まるのが苦手なやんちゃ坊主だ。

 母親が死に、二人ぼっちになっても彼は寂しくなかった。何故なら独りではないから。クールフェイスを崩さないが優しい兄がいたから。それに今はトレーナーと呼ばれる今の主人や主人の力を認めてついてきた多くの仲間に囲まれ毎日が賑やかで楽しい冒険の日々を送っている。母の眠る故郷の地を離れても、彼は寂しいと感じる事は一度も無かった。



 しかし、今は独りで山道を歩いている。孤独だ。独りぼっちだ。その実感がピンとそばだてた耳や目を通じてはっきりと感じ取れる。

 せせらぎの丘周辺の雨林を抜け、人の手が入らない獣道を通り、三日程かけてシェードジャングル付近の岩山へと辿り着く。緑豊かなジャングルとは対照的な険しい山道を黙々と歩き、少し登った場所から見下ろしたジャングルではパームの幹に留まって目を閉じているケララッパやドデカバシ、天敵に襲われぬよう地面に生い茂るシダの葉の隙間に身を寄せ合って眠るアマカジの姿が見かけられる。時折湿った土の上で寝惚けているヌメラもいた。


 彼はそれらをさっと一瞥しながらも歩みを止めない。何処まで行くのか分からない。だが、今はじっとしているよりは動いていた方がいいと考えていた。


 彼の天敵はここには居ない。むしろ主人や兄に鍛えられているから自分にとっての敵はこの辺りのポケモンでは居ないんじゃないだろうか、と彼は思う。彼はやたらめったらに目の合った相手に喧嘩を吹っ掛けるような自信家ではない、むしろ喧嘩はあまり得意ではない。誰だってそうだが痛いのは嫌いだ。

 兄は賢いので力の強い相手にも怯まず、相手を出し抜いて勝つ狡猾な手段を考えつく事が出来るが、彼の場合は力比べは兄より勝る代わりに兄程賢くないので最後はいつも力頼りの脳筋思考寄り。考えながら戦うのは苦手である。

 そんな彼にも兄には負けない才能はある。今はそれを伸ばす為にも主人のトレーナーと二人三脚で踏ん張らなければいけない時期なのだが、最近は自分の変化に悩んでそれどころではなかった。


 それが、今回彼が主人の元を飛び出した理由である。




 煌々と真円を描き輝く月輪を中心に、数多の星がいくつもの色と光を散らしながらアローラの夜空を彩る。とうの前に暗い山々の向こうへと没した太陽は今、ここより海を隔てた遠い彼方の地方へ朝を知らせに行っている事だろう。

 朝と夜のサイクルを全く知らない"こいぬポケモン"は、しきりに鼻を地面に擦り付けるように匂いを嗅いで大きく円らなセルリアンブルーの瞳を不安げに揺らしては凸凹の山道を手探りで進む。生けるもの全ての生命を育み、時として生けるもの全ての生命をその熱で容赦無く奪い去る陽の光を受ける月は、蒼白い妖しくも慈愛に満ちた輝きで岩山を含みシェードジャングルやせせらぎの丘といった地上全てをその光で柔らかく照らすと、彼の影もゴツゴツした岩肌に浮かび上がる。

 星屑をたっぷりと抱えた満天の星空は時折一筋の雫となり、虫ポケモンが鳴いているせせらぎの丘の向こうへと落ちていくのを視界の端だが彼の瞳にも映っていた。



―――――今夜は月が丸い。真ん丸だ。


 ふと見上げた蒼白い月輪に彼の歩みが止まる。どのくらい歩いたのかは分からない。何せ人間が持っている時計も地図といった道具を所持していない以前に、彼はそれらを読むような知識を身に付けていない。それは主人の仕事だからだ。ただ漠然と『長い時間たくさん歩いた』程度の肉体的疲労という曖昧な感覚のみである。


 不安で堪らなくなって思わず零した「クゥン…」という小さな鳴き声を聞く者は当然誰もいない。それが分かっていても誰も来なかった事に腹立たしい気持ちが湧いてきたのか、または誰にも頼らない事を再確認して気持ちを整理したかったのか、彼はぎゅっと一度強く目を瞑って少し乱暴に頭を振ってから荒々しく歩みを再開した。

 それから沢山歩いても、彼の体力はまだあり余っていた。それどころかむしろ興奮して軽やかなステップで岩山を登ったり下ったりと無駄な動きをしてはハッハッハッと舌を出して息を弾ませる。

 とにかく動きたい。じっとしていられない。何かに強く噛み付きたい。地面を思い切り踏み鳴らして走った後に崖から飛んでみたいとすら思う程、彼は酷く興奮していた。

 しかしそこには楽しい感情は無く、怒りでもなければ悲しみでもない。衝動、とでも言うべきか。正体不明の激情が今の彼を突き動かす。



 その兆候が現れたのは、丁度主人の元を飛び出す二週間程前だろうか。トレーニング代わりの模擬バトルを終え、普段なら思い切り体を動かした爽やかな疲労感を感じながら仲間のポケモンと楽しみにしていた賑やかな間食の時間を迎える筈なのだが、この時ばかりは違った。


 バトルを終えても、もやもやとした不快感が残るようになったのだ。始めは食べ過ぎだろうか…とか彼自身でも思い、好物である主人手製の料理を腹八分目で我慢する事にしてみた。結果は違った。むしろ我慢した事で逆に腹が減って機嫌が悪くなった。

 次に限界まで全力疾走して心地よい疲労感を得ようとした。これも違った。酸欠限界まで走った後に倒れても、あのもやもやとした不快感は取れなかった。


 その後も何度か、主人に隠れて慣れない事に挑戦してみた。仲間のアシマリに手伝ってもらって苦手なタイプである水のバルーンに入って汚れた体を洗ってみたり、気は進まないが岩や木に向かって何度も体当たりをして体を痛め付けてみたり、無性に何かを噛みたくなった時には固い木の枝やまれに掘り出してしまう土に還ったポケモンの骨を咥えては日長ずっとガリガリ噛んでみたり、夜にそっと宿泊部屋を抜け出しては目の合ったポケモン相手に苦手だった喧嘩を自分から吹っ掛けてみたり、日に日にやる事が過激になっていってもやはり不快感が無くなる事は無かった。

 それどころか、ストレスが溜まっている気がする。気づけば心優しく仲間想いだった彼は反抗的な性格に変わっており、その気性も酷く荒んでしまった。


「あしゃまぁっ!」


 島巡りの途中で訪れたポケモンセンターの一室から悲鳴が上がった。「止めなよぉ!」とあわあわと両手の鰭をばたつかせているアシマリの制止も聞かず、彼はガリガリと自分の腕を噛む。原因不明の不快感からくるストレスで周りの物を手当りしだいに噛むようになってしまった為だ。

 他にも主人達と宿泊する先々のポケモンセンターの備品に力一杯《たいあたり》して破損させたり、他のトレーナーのポケモンに敵意を向けては無理矢理主人をバトルフィールドに引きずって行ったり、挙げ句の果てには彼と似たような状態に陥った仲の良かった兄と毎日威嚇し合っては取っ組み合いの喧嘩で毎日傷を負ったりと、日々問題を起こすようになっていった。


「――――おい、何をしている…っ」


 既に何度も噛んで血で真っ赤に染まった腕を見つけてしまった主人がギョッとして止めさせようと手を伸ばす。


が、


「…ガァッ!」


 その手を鬱陶しげに振り払うように牙を剥き、彼は鋭い唸り声を上げた。


「……」


 主人は一瞬手を伸ばすのを躊躇ったが、すぐに彼の前足から注意を逸らせるように口に手を当てると、苛立ちが最高潮まで達した彼はすかさずその手に思い切り鋭い犬歯を突き立てた。

 細い指や健康的に日焼けした手の甲からは赤い液体が流れ落ちるが、彼女は動じない。今まで見てきた人間、取り分けトレーナーでない者の多くはポケモンがちょっと飛び掛かった程度で襲われていると勘違いして悲鳴を上げるのだが、この主人はそれが全く無い。飛び掛かろうが噛み付こうが少し表情を歪めるだけで、次の瞬間には痛みを感じている筈なのに平然としている。いつもそうだ。彼女は感情が稀薄で口調も堅苦しい。良く言えばクール、悪く言えば陰気臭い根暗な人間。

 今の彼にはそのパッとしない性格すらも気に食わないようで、グルグル唸っては主人を睨み付けている。


「…怖いのか?」


「……」


「……」


 話す事が得意ではないので主人は言葉少なに黄昏時の夕日を切り取ったような色をした切れ長の目を向け、興奮気味に睨む彼の瞳を真っ直ぐ見つめる。一般的に犬の目を見るのは愛情の他に威嚇や敵意の意味も含められているが、彼の目に今の自分はどう映っているのだろうか。信頼関係が出来ていても今の彼の気持ちは主人には殆ど分からないのが現状だった。


《お、落ち着くロトよ…ケンカはダメロ…!》


 しばらく睨み合いが続いていると、主人の大きなボストンバッグの中から彼の唸り声を聞きつけた赤い箱形のボディを浮かせた機械が慌ててすっ飛んできた。液晶画面に映ったアメコミ調の顔を困ったように目尻を下げてオロオロと主人と彼の間を行き来する。


「…問題無い、ロトム」


 シルリアンブルーの大きな目から目を逸らさずに答える主人。部屋の隅では彼女のポケモンであるアシマリやアゴジムシがベッドのシーツに掴まりながら不安げに一人と一匹の様子を見つめていた。

 いつまで経っても彼は力を緩めずに主人の手に牙を突き立てたままで、その間にも血は止めどなく溢れてはいつしか床に小さな血溜りをいくつか作っている。



「……不満なら、出て行っても構わん」


 数分経って、彼女はポツリとそう告げた。


「プロキオンは早朝に出て行った。お前も、多分そうするのだろう?」


 プロキオンとは、兄の事だ。彼女が兄弟をモンスターボールに収めた時に付けた名前だ。冷静で大人しかった彼も同じように数日前から苛立ちを見せては仲間から少し距離を置いて近づかなかったのだが、今朝方そっと部屋を出て行ったのを眠りの浅かった彼女は薄目を開けて見送った事を話した。

 賢く聡明で聞き分けの良かったプロキオンがそのような状態になったのであれば、当然弟もそうなるのだろうも彼女は考えていたからだ。


「シリウス、お前は私達から離れてもう一度野生に戻るべきだと思っている。馴染みのあるメレメレ島から離れ、島巡りの為に慣れない環境へ連れ回されている事を苦痛と感じているなら、数日間私達の事を忘れて思い切り好きな事をしてくればいい」


 シリウス、と彼の名前を呼んだ主人は腰に携えたモンスターボールを見せて言った。ボールはまだ新品だが、彼が玩具代わりに遊んでいたので引っ掻き傷や噛み跡が所々付いていた。


「島巡りの間、ずっとボールに閉じ込めておくのも忍びないと思っていたが、だからといって甘やかしてはお前の為にもならんと思っていた。アーカラ島にもテンカラットヒル程ではないがいつくかの岩山がある。そこで少し過ご…」


「ガゥッ!」


「ぅぐっ…」


 突然、シリウスは主人の鳩尾目掛けて渾身の《たいあたり》を仕掛けてきた。咄嗟に噛まれていた手で彼のマズルを掴んで勢いを殺そうとするも相手はポケモン。小さい身体でも爆発的な瞬発力と突進力に圧倒され、主人の体は部屋の壁まで吹っ飛ばされてしまう。

 シリウス自身、何故そうしたのかは分からないが気づけば身体は前に出ていた。息を荒げ、高まる激情を必死で抑え込もうとするも、既に自身の苛立ちは限界を振り切っていた。


「オオォォォンッ!!」


 何に対しての怒りか。何に対しての悲しみか。何に対しての苛立ちか。何に対しての叫びか。何に対して、理解を求めていたのか。

 シリウスはありったけの力を腹に込めて声高に吠えた。それは人に飼われている一匹の仔犬ではなく、荒々しくも雄々しい野獣そのものであった。





 それからどうやってここまでやって来たのか、彼自身は殆ど覚えていなかった。一つだけ覚えているのは、蹲る主人を飛び越えて部屋を飛び出した事。それだけだ。後はがむしゃらに走って、飛んで、転んで、立ち上がって、また走って、脚が動かなくなるまで衝動に突き動かされるままに地を駆け続けた。

 脚が動かなくなるまで走った後は適当な岩陰や木陰に隠れて泥のように眠る。砂色の体が丁度良く土や岩と同化して見えるので天敵に見つかりにくい事から文字通りの意味とも言える。

野生の頃と同じように屋根も壁も無い場所で陽の光を浴びてはゆっくりと起き、月や星をぼうっと眺めては疲労感に包まれながら眠るという日々を独りで過ごした。


 そしてあくる日の晩。シリウスはいつものように宛の無いまま登った岩山の頂上付近で疲労した脚を引きずりながら体を休める場所を探していた。

 毎日ヘトヘトになるまで走っていたせいで体力的な余裕が無いのか前足を噛む事は無くなっていたが、その四肢は細かい傷で埋め尽くされて歩くだけでも熱を持って疼くような痛みを感じる。毎晩眠る前に気休め程度に傷を舐めてはいるものの、ここまで体を酷使しているとなると体力が十分に戻らず、いくらポケモンと言えど回復力は幾分か落ちているので治り具合は正直微妙な所だった。


 ふらふらのまま辿り着いた岩山の頂上はこざっぱりとしていて何も無い。何処にでも根付く雑草がいくつか生えている程度で甘い果汁を出すココヤシもグァバも生えていない、乾いた風が静かに吹く荒れた土地だった。

 辺りを見渡せば互いの磁力でくっつき合って砂鉄まみれのまま眠るイシツブテの群れが見えた。他にも岩に空いた無数の空洞の中に収まって眠るヤングースやデカグース、別の空洞には身を寄せ合って眠るカラカラを守る為に親のガラガラが不気味に揺らめく緑色の炎を灯した骨棍棒を手に交代で見張りをしている。どのポケモンも夜は警戒して単独で過ごしている者は居ないようだ。

 シリウスはそれを見ている内に、ふと自分と同じように独りで過ごしている兄の事が気掛かりになった。


 プロキオンは賢いので無駄な戦いを好まない。場合によっては戦略的撤退という名目で逃げる事も多いが、一度戦闘態勢に入ると相手の裏をかいては強烈な一撃を見舞ったり、執拗に攻撃しては二度と歯向かって来られないように完膚無きまで叩きのめす事が出来る力と非情さを持っている。

 シリウスにはそれが出来ない。力が全く無い訳でも愚鈍な訳でも無いのだが、彼は情に流されやすい性格のせいで相手が苦しんでいれば思わず攻撃の手を緩めてしまう。それが命取りとなって、主人とやっているポケモンバトルでは常に逆転負けをする場面が多かった。

 主人はそれを『優しさ』だと称するが、賢い故に自分や他人に厳しくもあった兄のプロキオンはそれを『甘さ』だの『覚悟が足りない』だの戦闘に関しては常に厳しく指摘していた。


 分かっている。全力で戦わなければいけない時がある事を。特に野生の世界は自分の大切な住み処や食料、時に繁殖相手を奪いに来る敵は徹底的に追い払わなければならない事だって知っている。

 そして、彼自身もその覚悟がまだ足りない事も分かっていた。いや、きっと何も分かっていないのだ。まだ、命懸けで戦った事の無い彼には。


 眠れる場所を探して歩き回るも、やがては体力の限界がやって来る。疲労と空腹は既にピークを迎え、ついにシリウスは力尽きてその場に倒れ込んだ。地面から僅かに砂煙が上がる。目を閉じてしまえばすぐにでも眠れそうなのだが、今自分が寝そべっている固い地面は安心して眠れるような高い岩の上でも柔らかい草の上でもない。おまけに寝心地は最悪だ。

 自分もあの洞穴の中に入れてもらおうかと考えたが、主人に牙を向いた時の事が脳裏を過る。こんな状態でそこへ行っても中に入れてもらえるのだろうか、ただでさえ何かの気配が近くに居るだけで過敏に反応して牙を剥いてしまう自分を受け入れてくれるだろうか。


 きっと無理だ。ここは彼故郷があるメレメレ島ではなく見知らぬ土地が広がるアーカラ島。ここにいるのは彼の知らないポケモンだけ。ここでは彼が余所者扱いなのだ。『群れ』という一つの社会で暮らす彼らが容易に見ず知らずのポケモンを受け入れる可能性は低い。むしろ、仲間に危害を加えかねないと敵意を持たれて無駄な争いに巻き込まれるのがオチだ。

 とにかく、せめて何か口に入れなければ体が持たない以前に余計に気が滅入ってしまう。枯れかけの雑草が生える場所まで何とか這って行き、匂いを嗅いで少しだけ食んでみる。次の瞬間強烈な苦味に吐き気を覚え、シリウスは草を吐き出した。不味い。とても食えたものではない。


 寝所も食料も、この岩山には少な過ぎる。シリウスの頭の中は深い水底に沈むような諦めの色に染まりつつあったが、ふとここへ登ってくる時に見えたシェードジャングルの豊かな緑を思い出した。あの場所ならば果実が沢山実っていそうだし、シダの葉に潜り込んで眠ればとりあえずは安全だろうと期待が湧く。異常な興奮に身を任せてこんな場所まで登ってきた自分を、少しだけ悔やんだ。下りよう。ここは自分が居ていい場所ではない。


 もう一度、四肢に力を込めて立ち上がるシリウス。ガクガクと情けなく膝が笑っていた。月明かりが自身の影を地面に映した時、急に影が大きくなった事に首を傾げた。気づけば顔に当たっていた月光も遮られている。

 次に感じたのは、殺気。ヒヤリと氷のように冷たい何かに突き刺される気配をすぐ背後に感じて反射的に振り返るよりも早く横に飛び退いた。

 その瞬間、ズンと地を突いて伝わってきた衝撃に身を縮こまらせた。見ればたった今までシリウスのいた地面が深々と抉り取られている。疲労も空腹も瞬時に吹き飛び、彼の背筋に戦慄が走った。


「―――――グェェッ!」


 そこにいたのは、空五倍子色うすずみいろの翼を広げた怪鳥だった。自分より遥かに大きい体に一房しか生えていない頭頂部の毛を風に靡かせ、どぎつい目つきに赤い目玉をぎらぎらと光らせてはシリウスを品定めするようにギョロリと動いている。体に纏ったいくつもの骨の装飾がカラカラと音を立て、よりその不気味さを際立たせていた。


―――勝てない。


 シリウスは一目見た瞬間に悟った。考えるよりも先に体は危機を察知して走り出す。怪鳥がゆっくりと旋回して追い掛けてきた。

 シリウスは走った。急いで逃げなければ。岩山を下りなければ。傷を負った脚をもつらせながらも転ぶまいと体勢を立て直しては恐怖に青ざめた表情を浮かべて走る。チラリと目だけを空に向けると、怪鳥は意地の悪い笑みを浮かべてシリウスの後ろにピタリと張り付くように飛んでいる。


―――楽しんでいる。


自分が疲れて走れなくなるのを待っている。その笑みだけで吐き気が込み上げてきた。カラカラに乾いた口の中に苦味とも酸味ともとれる不快な味がじわりと広がる。


 捕まれば、喰われる。あの大きさなら彼の体など軽々と巣まで運べるだろう。そして、生きたまま大きな嘴で柔らかな腹を無残に裂かれ、血を啜られ、臓物を啄まれ、捕食される苦痛と恐怖に狂い悶えながら死ぬ。そして、きっと自分の骨は奴を着飾る新たな一部になるのだろう。走るシリウスの脳内にそんなある種のぞっとする走馬灯のようなものが過った。

 怪鳥は変わらず彼を追い掛ける。時折、わざと速度を上げて回り込んでみたり、鋭く尖った黒い鉤爪で脇腹すれすれの地面を狙ってみたり、さながらハンティングゲームのように狩りを楽しんでは愉快そうに嗄れ声で笑っていた。


 シリウスは走りながら止まりそうになる思考を無理矢理働かせて考える。何処か奴が入って来れない場所へ隠れなければ。

 都合のいい事にポケモン達が塒(ねぐら)にしている洞穴がある。そこに潜り込もうと鋭くターンをして穴だらけの岩山へと全速力で戻る。手近な穴の近くまで走り、転がるように中へ滑り込んだ。


 が、それは叶わなかった。穴の中に飛び込んだ矢先、先に入っていたガラガラ達の骨棍棒に遮られたのだ。不気味に揺らめく緑青の炎をちらつかせ、シリウスを拒むように睨み付けている。言葉は発しなかったが、その目は冷たく「出ていけ」と告げている。


――――どうして…!?


 敵が迫る焦りと理不尽な扱いに腹を立てたシリウスはたまらず叫びそうになった。しかし、その言葉を寸前の所で呑み込む。ガラガラ達の後ろでカタカタと頭蓋の骨を鳴らして怯えるカラカラの姿が目に入ったからだ。

 怪鳥の恐ろしさはたった今この山へ来たばかりのシリウスよりも、元々この山に居を構えていた彼らの方がよく分かっている。余所者が連れてきた天敵によって仲間に危険が及ぶ事は彼らにとっては厄介事でしなかない。


「………」


 じり、と炎を向けて近づいてくるガラガラ。いつまでもまごついていたら腕ずくで追い出されかねない。


「……っ」


 シリウスには選択する暇も無かった。自分の命も勿論大事だが、自分のせいで彼らをあの怪鳥に狙わせる事も駄目だ。どうやら自分にはとことん運も非情さも無い臆病者らしい。諦めにも似た感情を抱きつつ、半ば自棄糞になってガラガラ達の住み処である洞穴から飛び出した。

 自ら身を晒したシリウスに好機と見なしたのか、上空で旋回していた怪鳥は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて空五倍子色の翼を小さく畳み彼目掛けて急降下する。空気抵抗を減らした翼は風を受け流し、赤くぎらつく目は片時もシリウスの小さな姿から逸らさない。


 対するシリウスもそうだった。シルリアンブルーの目を怪鳥に向け、噛み千切らんばかりに犬歯を剥いて奴が来るのを待ち構えている。勝てないと判断したばかりの恐ろしい相手に何故迎え打とうと立ち止まっているのだと、冷静なもう一匹の自分が冷ややかな視線を送っているような気がした。抑え込んでも抑え込んでも心臓に重たい石を乗せられたような恐怖の感情は膨れ上がり、手足は麻痺したように感覚が薄く冷えきっている。しかし頭ははっきりしているようで、怪鳥の動きをしっかりと開いた両の眼で見据えている。

 怪鳥が再び翼を広げ、掠れたような甲高い鳴き声を上げた。さながら冥府へ送ろうとする死を招く怪物のような不気味な鳴き声だ。逞しい脚から覗いた鋭利な黒光りする鉤爪を振り翳す。この大きさだけでシリウスの頭を軽々と鷲掴みに出来るだろう。無策に突き出された脚をシリウスは紙一重で避けた。彼の居た地面はまたもや深々と抉り取られている。少しでも掠れば彼の顔は半分無くなっていたであろう。


「…グヴゥゥッ!」


 シリウスの反撃。横に飛んで地面に着地した脚をバネにして、怪鳥の長い首元に飛び付き喉笛を噛み切ろうと牙を突き立て《かみつく》。

「ギャッ!」と短い悲鳴を上げた怪鳥がパニックに陥って暴れ回る。自分より体の大きなケンタロスや肉付きはいいが無駄に怪力なミルタンクならまだしも、まさかいいようになぶられるだけの小さくて無力だと思っていた餌に手痛い反撃を貰うとは思っていなかったからだ。

 ギャアギャアと喚き、羽根を撒き散らしながら頭を激しく振って転げ回る怪鳥に振り落とされまいと必死に食らいつくシリウス。首を噛まれていては怪鳥の嘴も脚の鉤爪も彼には届かない。時間が経つにつれ、脳に必要な酸素の供給が間に合わなくなってきた怪鳥の抵抗力は次第に弱くなっていく。


――――勝てる…ッ。


 シリウスの目が大きな達成感を目の前に輝いた時、彼の体は風に舞う紙切れのように呆気なく無様に吹っ飛ばされた。


「グェ……ゲェッ」


 強く地面に叩きつけられたシリウスが一瞬だけ白目を剥く。ビクンと痙攣を起こして何が起こったのかすら理解出来ていない横で、怪鳥が引きつけを起こしたように咳き込んでいる姿が目に入った。だがそれもすぐに止むと、いよいよ自分の身に絶体絶命の危機が迫っている事を嫌でも悟ってしまう。

 もう一度噛みつこうと弱々しく立ち上がろうとした途端、怪鳥の発する邪悪な闇の気が二度もシリウスの体を吹き飛ばす。先程彼が怪鳥を倒すすんでの所で受けた攻撃もこれだ。

《あくのはどう》が二度も直撃したシリウスの体は使い古しの雑巾よりも酷い姿だった。皮膚は裂けて血が流れ出し、前肢の一本は骨が砂色の皮膚を突き破りそうなくらい不自然に盛り上がっている。気力、体力もとうに底を尽きているので立ち上がる力も残っておらず、呼吸をするので何とか意識を繋げている状態だが折れた肋骨が呼吸をするごとに強い痛みを伴っている。


―――――もう、ダメだ。ぼくは死ぬんだ……。


 深い泥沼に沈み込むような暗い絶望がシリウスを呑み込んだ。怪鳥の怒り狂った赤い目と合っても、彼の心は波一つ立たない重い泥と化していた。

 今更だが彼は兄であるプロキオンの言っていた事を理解したような気がした。戦いでの「甘さ」や「覚悟の足りなさ」、もしそれがあったらもっと上手く戦えていたのだろうか。もしガラガラの制止を振り切って彼らを囮に出来たら、もっと反撃の隙が掴めたのではないのか。それとも力の弱いカラカラを奴の目の前に置いてガラガラ達に戦わせている間に逃げれば良かったのではないのか。第一彼らが……自分を拒んだ奴らが安全な場所に居て、何故自分がこんな理不尽な目に遭わなければならないのだ。

 考えれば考える程シリウスの胸の中にどろどろとした感情が渦巻き、怪鳥や自分を拒んだガラガラや怯える非力なカラカラ、果てには勝算も無く無策に負け戦を仕掛けて見事に返り討ちに遭った自分にも腹が立った。


―――――兄ちゃん、ぼくはダメな子だね…。


 ふと、腹立たしい感情の中から後悔の念が浮かび上がる。

 今まで、何でも誰かに頼って生きてきた。兄の策、主人の指示、仲間達の懸命なアシスト。いつだって自分一匹で成し遂げられた事など何も無い。野生での暮らしでも狩りの時は殆ど兄のサポートに徹し、木の実も兄にくってついて行けばすぐに見つかり、縄張り争いで他のポケモンと戦う時は全て兄に任せて遠巻きにそれを眺めていた。

 主人と一緒に島巡りを始めた時も何も変わらなかった。主人が居れば大抵のバトルは自分より弱い相手を選んでくれて、手強い相手は主人の指示に従えばとりあえずは上手くいっていた。自分で考える事は殆ど無く、直感で相手の攻撃を避けたりして主人の指示のタイミングで攻撃すれば勝てていた。仲間と一緒に戦うダブルバトルの時もそう、不利な相手は相方に任せて倒せそうな相手としか戦っていない。戦略と言えば戦略なのだが、自分のやっている事はただの非力な臆病者のそれと同じ。安全圏に隠れ、ちょいちょいと突いては強い味方に丸投げして逃げる。

 シリウスは自嘲した。思い返せば自分はとても臆病な弱虫だったと、無知で経験も無い浅はかな生き物だったと。いくら後悔しても、もう学びの機会は訪れない。何故なら今ここで強者の餌となって臭い胃液が詰まった胃袋の中に消えてしまうのだから。


 全く動く気配を見せなくなったシリウスに、怪鳥が訝しむ様子を見せながらもじりじりと近づいてくる。シリウスはそれを全く見ていない。喰われる運命しか残されていない事を悟って呑気に夜空を見上げていた。

 濃紺の柔らかな布に色とりどりのビーズを撒いたような夜空に一際目立って輝く恒星が見える。いつだったか主人が話していた。自分たちが住むこの惑星ほしとの距離が近いのもあって全天で最も明るい恒星として五十以上の呼び名を持ち、「光輝くもの」「焼き焦がすもの」の意味を併せ持つ星、シリウス。専門的な知識は無いが星が好きな主人は自分の仲間のポケモンに必ず星の名前をつける。兄に与えられたプロキオンという名前もその一つ。シリウスに先立って昇る「犬の先駆け」という意味で主人の好きな星から取ってつけられた。

「きっとその名の通りに育つと思っている」と満足げに微笑んだ主人の表情が次々と浮かんでは消える走馬灯の中で陽炎のように揺らめいた。シリウスの頭の中で過ぎる時間は肉体で感じるよりもずっと早く、ぼんやり夜空を眺めている視界の端に映る怪鳥の動きが酷くゆったりとしている。例えるなら、アーカラ島で見た桃色の体色を持つオドリドリがのんびりとしたリズムで踊るフラに似ていた。あんなに優雅ではないが。


 怪鳥が何をしようとも、シリウスにはもうどうでもいいように思えていた。そんな瑣末な事よりも星が綺麗だと全く場違いな感想を抱いている彼の頭は目の前の死を受け入れてからのある種の悟りなのか、それとも死を否定した事による現実逃避なのか、それすら分からなかった。ただ一つ分かるのは、彼の視線の先に彼を魅了する"何か"がいた事だ。

 それは空を飛ぶ者だった。何処にでもいるような鳥ポケモンではない、ひらひらと気儘きままに濃淡の星海を舞いおよぐ生き物だった。いや、あれは生き物と呼んでいいのかすら分からない。翼手目を彷彿とさせる白く細長い骨張った前肢から伸びた皮膜のような翼の中にはもう一つの夜空が浮かんでおり、その胸の中央部には月輪のような蒼白い光が仄かに輝いている。金の装飾と見間違えそうな絢爛けんらんで硬質そうな三日月が両翼と尾の先端に付いており、頭部もそれに似た物が本物の月輪に照らし出されている。闇夜に妖しく光るワインレッドの瞳がある顔の下には星空が瞬き、その姿が、振舞いが、存在感が、この世の住人ではない事を十分に物語っていた。

 シリウスもそれを一目で理解した。思考が鈍った「頭」ではなく無意識でも身体がそれに従ってしまう「本能」と呼ぶべきもので。彼は一瞬でその存在に心を奪われた。恋も雄としての本能も経験していない彼が、激しく胸を焦がすような衝動に襲われた瞬間だった。同時に、心の底から泥に沈みきっていた闘争心が再び燃え上がるのを感じる。


―――――生きなきゃ。


 彼の中で感じた長い時は肉体が感じる現実的な時間で言えば一瞬であったが、その中で彼は見失いかけた希望を取り戻し、再び生への渇望を露にし、目の前の怪鳥じゃまものを倒す炎のように激しく燃える闘争心を蘇らせた。だが、彼の体は戦えるだけの余力を残してはいない。このまま気持ちばかりが先走っていても絶対この敵には勝てない。

 そこで彼は思い出した。主人と島巡りで仲間と挑んだ試練、その中で最後の壁となって立ちはだかる強力な「主」と呼ばれるポケモン。茂みの洞窟で待ち構えていたリージョンフォームのラッタ、せせらぎの丘にて魚群で襲い掛かってきたヨワシ、ヴェラ火山公園で多くの雄を手足のように使っていた艶めかしいエンニュート、どのポケモンも主と呼ばれるに相応しい圧倒的で特異なオーラを纏っていた。あのオーラを自分も使う事が出来たのなら、圧倒的な力を持つ事が出来たのなら。


「……」


 彼の強い願いに反応したのかは分からないが、星海を游いでいた月輪の生き物がゆっくりとこちらを向いた。涼しげなワインレッドの瞳とシリウスのシルリアンブルーの瞳が地上と空とで遠く離れていても確かに合っていた。シリウスはたまらず掠れた声で吠えた。折れた肋骨が肺に刺さり、喀血しても構わず吠えた。痛みはとうに感じなかった。彼の頭の中は彼女への願いで一杯だったからだ。



――――ぼくに、力を。強い力を、下さい。


 月輪の生き物にシリウスの声が届いただろうか。本人は吠えているつもりでも、実際は弱々しく「キューン…キューン…」と鳴いているだけで、目の前に立っている怪鳥は助けを求めて泣き叫ぶ哀れな獲物という認識しかしていない。そろそろトドメを刺して耳障りな声を止めてやろうかと黒い鉤爪を振り翳した時、辺りに聞いた事の無いような声が響き渡った。まるで水晶で出来た笛を吹き唄を奏でるような澄明で美しい鳴き声は岩山からシェードジャングル一帯に響き渡り、微睡みの中にいた者もそうでない者も誰もが聞き惚れていた。その声に思わず攻撃の手を止めて空を見上げる怪鳥。ようやくその存在を認識した時、恐ろしいものでも見るかのごとく畏怖を抱いたような顔つきで、その月輪の生き物を見つめていた。

 シリウスは縋るように彼女を見つめる。月輪の生き物は額に刻まれたもう一つの眼を輝かせて大きく夜空の翼を広げると、その体は目映い程の蒼白い輝きを放ち始めた。翼や尾を広げ、頭のそれを合わせると見事なまでのもう一つの月輪が出来上がり、星空は勿論本物の月までもが霞んでしまうような神々しさを放っている。


 その光に呼ばれるように、彼女の周囲の空間はぐにゃりと形を変える。光る蜘蛛の糸で巣を張ったような空間の裂け目が空に現れ、月輪の生き物はシリウスを一瞥した後静かにその中へと消える。裂け目が何処に繋がっているのは分からないが、数秒経ってそれはピタリと閉じてしまった。亀裂の入っていた箇所は寸分の歪み無く合わさり、何事も無かったかのように元通りとなった夜空には無数の星と月だけが静かに輝いている。

 裂け目が閉じ、月輪の生き物もその中へと消えてしまったが、シリウスは絶望していなかった。むしろとても凄いものを見れたと内心興奮していた。彼の目には確かに映っていた。空が裂けた時、何かがそこから流れ出た所を。流れたそれが光の滝のように地上へ降り注ぎ、その力を肌で感じた事。不思議と全身の血が煮え滾って沸き立つような高揚感に包まれ、砂色の体毛がざわざわと逆立つ。息苦しさも体の痛みも徐々に和らいでいくのも感じ、後脚と折れていない前脚に力を込めて腰を浮かすと難無く立ち上がれた。


―――立てた…っ!


 息を弾ませて喜ぶのも束の間、シリウスが再び立ち上がった事に気づいた怪鳥が鋭い叫び声を上げて翼を広げると圧倒的な体格差をアピールするように体を大きく見せつける。胸に下げた乾いた赤黒い染みがこびりつく黄ばんだ骨が威嚇するように動きに合わせてカランカランと鳴る。

 しかしシリウスは怯まなかった。それどころか自分を怯えさせようとする怪鳥を、質の悪い悪戯をしてくる子供を見るかのような冷めた目つきで冷笑している。彼の中で既に恐怖心は消え失せ、代わりに体が上に引き上げられるような快感にも似た興奮が全身を駆け巡っていた。


 怪鳥がけたたましい声と共に嘴をシリウスに突き出す。刹那、彼の中から蒼白く強い光が爆発のごとく弾け飛び、その目を焼き尽くす勢いの星を見せた。ゴキリ、ゴキリと光るシリウスの体から骨が変形する不気味な音が聴こえる。可愛いげのあったシルリアンブルーの目が光の中で徐々に鋭くなっていき、次には荒々しいワインレッドに変わった二つの目玉がギロリとこちらを覗いていた。





 アローラは午前0時を過ぎた。


 人気ひとけがすっかり無くなったカフェスペースで一人、静かに座っている少女が居た。少女というよりは幾分か大人びている顔つきで、健康的な肌に引き締まった二の腕やふくはぎは、いかにもスポーツが得意という見た目で女性らしい肉は殆ど筋肉に変わってはいるが、出る所と括れる所ははっきりしていた。彼女の傍らには床の上で寝息を立てる"オオカミポケモン"が時折白いふさふさした尻尾でパタリと床を掃いている。

 ラジオからノイズ混じりの洋楽が流れるカウンターに腰掛けて、淹れ立てのグランブルーマウンテンから立ち上る薄い湯気をぼんやりと眺めながら少女は小さく溜め息をついた。


「最近、君はよくこの時間帯にいるね」


 憂いを帯びた表情を浮かべる少女を心配したのか、カフェスペースのマスターがサービスのミアレガレットを皿に二つ程乗せて出しながら話し掛ける。その匂いに目を覚ましたポケモンは少女の膝の上に頭を乗せてガレットをねだる。それを見たマスターは代わりに軽く煎ったポケマメをあげるようそれを皿に乗せて少女に勧めた。


「仲間を待っているだけだ」


「仲間? お友達かい?」


「…みたいなものだ」


 対話が苦手なのか少女が固い表情とアルト調の声で素っ気ない返事を返しても、マスターは人当たりの良い笑みを向けて話を続ける。


「ここへはシェードジャングルの試練に挑戦しに?」


「あぁ」


「あの場所のポケモンも主も手強いからねぇ。君のルガルガン、賢くて強そうだが相性で苦労してしまうかもね…。あの辺りは草タイプが沢山住んでいるし、格闘ポケモンのナゲツケサルや頭の良いヤレユータンもいるから準備はしっかりしないとだねぇ」


「問題無い。悪と飛行タイプの仲間がいる。それに

コイツは私の義弟おとうとのポケモンだ。試練へは参加しない」


「そうか。ポケモンは沢山いれば頼りになるし楽しいし賑やかだが、一度捕まえた子は最期までちゃんと面倒を見てあげるんだよ」


「言われるまでもない」


 少女はそう答えてから香ばしい匂いを放つポケマメの入った皿を床に置くと、ルガルガンは匂いを嗅いでから嬉しそうにポリポリとそれらを頬張った。鋭利な岩で出来た突起が生えたたてがみは案外ふさふさと柔らかく、人に慣れている為に触っても吠えたり噛み付いたりはしない。

 数日前に出ていき、進化の兆しでもあった反抗期を終えて昨日帰ってきたイワンコだったポケモンのプロキオン。太陽の使者と呼ばれるソルガレオの影響を強く受けて進化すると言われている「まひるのすがた」はスラリとした細身に高い瞬発力の四肢でスピード重視の戦闘能力を身に付け、イワンコの面影が残った砂色の体毛が特徴的。力業ちからわざに頼らない戦い方を好む彼に相応しい姿だ。



「旨かったか? プロキオン」


 あっという間に完食してポケマメの欠片も綺麗に舐め取られた皿を拾い上げてマスターに返しながら少女が尋ねると、プロキオンと呼ばれたルガルガンは満足げに口元を舐めた後、鬣から生える岩の突起を揺らして頷いて見せた。



「シリウスはまだ戻らん。お前より遅く出ていったが、明日か明後日には帰ってくると良いな…」


《同じ種族でも進化の時期は個々でバラつきがあるロト。気長に待った方がいいと思うロ》


 自分の所へふわりと飛んできたロトム図鑑に少女は「そうだな」とプロキオン共々頷くが、その胸の中にはしこりにも似た一抹の不安が残っていた。

 彼女は挫折の絶望を知っている。どんなに努力しても追い付けない人間などいくらでもいる。バトルにしろ何にしろ、結果が残らなければそれでおしまい。自分の中に苦い思い出が残っていくのみだ。

 イワンコに噛まれ、ズタズタに裂けた皮膚を縫われて痛々しく包帯で覆った右手を見つめながら彼女は小さな恐れを抱く。


(もし、帰って来なかったら…。もし、受け入れてくれなかったら…)


 自分なりに愛した。自分なりに優しく接しようと努めた。だがそれはやった"つもり"であり、自己満足するだけのエゴと言うしかない。彼が居ない時間、帰って来るまでこうしてカフェで待っていると決めた時間がこんなにも長く不安に駆られるものだとは思わなかった。


「プロキオン。シリウスは……帰って来るだろうか」


 思わず呟いた言葉に砂色の狼は何も言わず、イワンコの時から変わらないシルリアンブルーの瞳でじっと少女を見つめる。少女も同じく黄昏時の夕日のような瞳で弟を想う兄の目を見つめた。


 その時、聞いた事の無いような鳴き声が聞こえてくる。ポケモンセンターの建物内に居てもはっきりと聞き取れた。水晶で出来た笛を吹き鳴らすような、唄にも似た美しい鳴き声は一瞬だけ少女やカフェのマスターやルガルガンだけでなくロトム図鑑の心も奪う。そしてすぐに少女がハッとしてカウンター席から立ち上がると、すぐ脇の窓にへばりつくようにして外を見た。


「何だ、あれは…っ」


 少女が見たものは、星空が歪に縦に裂けていく様子だった。しかもやたら眩しい満月とその光に圧倒されるぼんやりとした満月、二つの月が夜空に浮かんでいる異常な光景。これにはマスターもカップを拭く手を止めて窓の外を凝視する。


「空が……それに、あの鳥ポケモンは何だ…!?」


「鳥、じゃない。どちらかと言うと、ポケモンなのかも怪しい…」


「ロトム!」と少女が鋭い声で呼ぶと、ロトム図鑑は慌てて彼女の隣へ飛んできた。後ろではルガルガンが鼻に皺を寄せて窓の外を睨むようにグルグルと唸っている。


「あれは何だ?」


《分からないロ……遠過ぎて調べられないロト…》


「そうか…」


 このやり取りの直後、満月のように眩しく輝きながらその生き物は空の裂け目の向こうへと消えていった。裂け目が塞がった空にはいつもと変わらない満天の星々が静かに煌めき、何事も無く本物の満月が柔らかな光を放っている。


「……空、と言うより空間自体を歪ませたのか、奴は…」


「あんなポケモン、アローラでは見た事が無い…。今夜は不思議なものが見れたよ」


 些か興奮したように話すマスターとは真逆に、少女はすぐに冷静さを取り戻すとロトム図鑑に話し掛ける。


「どうする? お前の興味の引くものなら、試練の下見ついでに見に行けるが…」


《あの場所は、シェードジャングルの近くロトね。ボクよりプロキオンがスゴく気にしてるロト。でも、ボクも気になるから行ってみたいロ》


「分かった。ではもう今日は休もう」


「私も今日はそろそろ店を閉めよう。あんなものを見てしまったら落ち着いて仕事が出来ないからね…」


 少女が店じまいを始めたマスターに珈琲代を置いてから、冷めて湯気が無くなったグランブルマウンテンを一気に飲み干す。カフェインで目が冴えそうだが、今の光景に理解出来ずに疲労した脳が睡眠を欲しているのですぐに眠れそうな気がする。ミアレガレットとポケマメはサービスなので代金は請求されなかった。

 少女がロトム図鑑を連れて「行くぞ」とプロキオンに声を掛けるが、彼はしばらく外を睨むように見つめてから何か言いたそうに小さく唸ると少女の後をついて行く。



 少女達が宿泊部屋へ向かった後、空が歪んだあの場所からは感極まったような不気味な遠吠えが微かに響いたが、ポケモンセンターまで届く事はなかった。





 翌朝。少女は「まひるのすがた」のルガルガン・プロキオンとロトム図鑑を連れてシェードジャングルの入口を訪れた。朝方なのもあってか辺りはツツケラが数羽鳴いている程度で静かな緑だけがキャプテンゲートの向こうに広がっている。時折ガサガサと遠くのシダの葉が揺れ、アマカジが何匹かのんびりと移動している姿を見かけた。


「…ここがシェードジャングルか」


 少女は凛と澄んだ空気と湿気った腐葉土の匂いを吸い込みながら小さく呟く。


《いかにも強いポケモンが出てきそうロトね…》


 ポケモンセンターのコンセントでちゃっかり充電してきたロトム図鑑が興味津々とシダやココヤシの木を眺めながら虫ポケモンのように飛び回っている。その近くでジャングルの向こうには一切目も向けていないプロキオンがしきりに鼻をひつくかせ、眉間に皺を寄せた険しい表情で唸っている。


「…何か、いるのか?」


 ポケモンセンターを出た時からそんなプロキオンの様子を気にしていた少女は訝しげに尋ねた。すると、プロキオンは何かを見つけたように駆け足でジャングルとは別方向の横道へ向かい始めた。慌てて少女もロトム図鑑を乱暴に掴んで走って追い掛ける。

 彼女らが走っている場所はシェードジャングルに沿って出来た山道で、付近にせせらぎの丘へと繋がる5番道路に出る岩山がある。ロトム図鑑のナビを確認しながら、少女はプロキオンを見失わぬよう固く絞った脹ら脛の逞しい脚を動かす。


 少し進んだ岩山のふもとでプロキオンが止まったので、少女も軽く息を弾ませて止まった。島巡りである程度鍛えられたからこの程度で息切れなどは起こさない。多くの酸素を肺に取り入れながら入ってきたその臭いに僅かばかり表情を曇らせた。

 微妙に血生臭い。朝方で気温は低いが確かに鼻を突くような臭いが漂っている。プロキオンもその臭いを気にして進んでいたが、匂いが強まった事で警戒して止まったのだ。思わず背筋に緊張が走る。警戒して歩き出すプロキオンについて足音を忍ばせ、岩影から少し顔を出した所で少女はその臭いの正体に「ああ…」と低く納得したような落ち着いた声を上げた。

 胸から肛門にかけて大きく縦に裂かれ、白い肋と生臭い臓物が剥き出しになった肉の塊がそこにいた。岩肌に夥しい量の血が流れて空五倍子色の翼や纏った骨が赤黒い粘着性のあるそれにたっぷりと塗れ、白く濁った目を見開いたまま苦悶の表情を浮かべ絶命している。


《バ、バルジーナ…ロト! 何でこんな場所にいるロ…!?》


 死骸でもポケモン識別能力を持つロトム図鑑が少女に抱えられながら脇腹辺りで機械の腕で口元が映った画面を覆う。


「この傷……この辺りのポケモンで可能な奴は居ないのか?」


 普通ならば悲鳴を上げるか臭いに負けてその場で嘔吐する者が多いが少女の場合は全く動じる様子も狼狽える様子も無く、骸の傍に膝を着いて傷を眺めている。それに対して小脇に抱えられたロトム図鑑が小さく《ヒャア》と悲鳴を上げた。


《何でそんなに落ち着いているロ!?》


「…慣れだ」


《慣れ……!?》


「慣れだ」


 スーパーで陳列された肉やホルモンのパックの値段や鮮度でお得さを見極めようとする主婦のように傷口や剥き出しの肋骨や内臓の一つ一つを眺める少女は、普段と変わらない冷え冷えとしたむっつり顔でそう答えた。


「…無防備な懐への一撃が死因か。皮膚の状態からして三本の大きな爪……そう大きくはないな。傷が背後からではなく正面からならバルジーナと交戦していた可能性が高い…となると、奴はコイツの攻撃をかわすか受け流してからの反撃で無ければ懐への隙を突くのは厳しい……相手はトレーナー連れか…? だが流石にキャプテンの見張る試練の場付近でのこれはやり過…」


《とにかく! ここは危ないロト! こんな事する奴が近くにいるのはボク達も危険ロ!》


 死骸の状態からの推測に集中していた少女の脇腹で暴れながらロトム図鑑が叫ぶと、彼女ははたと我に返って「そうだな」と呟いた。


「トレーナーによるポケモンの力試しか、あるいはコイツが襲ってきてやむ無く殺したのかを考えるのは後回しだ。一旦戻ろう、散歩気分だったから手持ちを全て置いて来てしまった…」


 「プロキオン」と近くにいるルガルガンに呼び掛けながら少女は立ち上がる。血を避けて着いていた膝から砂を払い落としながら、シェードジャングルのキャプテン・マオか警察のどちら…あるいは両方に連絡を取ろうかと頭の隅で考える少女に近づいたプロキオンは、彼女のパーカーの裾を軽く噛んで引っ張る。何かを訴えているようだ。


「どうし、た……っ!?」


 振り返る間もなく、プロキオンがぐいぐいとパーカーごと少女を引っ張ってシダが群生するシェードジャングルの中に入ろうとする。

 どうしても気になって仕方が無いという様子らしく、「待て」と踏ん張って留まろうとする少女の制止を全く聞かない。むしろ低い唸り声を上げて「来い」と言いたげに、後ろに回り込んで頭を少女の尻を押しつけて無理矢理進ませようとする。

 普段なら絶対に自分や親であるトレーナーの義弟の脇にピタリとくっついて石のように黙して動かないのだが、この時ばかりは何処か焦ったようにせかせかしていた。


 少女は初めて見せたプロキオンの強引な態度に根負けして「少しだけだからな」と数分ごとに念を押してジャングルの中を進む。ウルヘやハプ・ウの広い葉を掻き分け、時折咲いているブーゲンビレアの鮮やかな花弁やグァバの実を横目に、先頭立ってズンズン歩くプロキオンについて獣道を歩く。

 勿論、ロトム図鑑も連れてきた。お茶目で何処か抜けてる性格でも一応は貴重な機械なので、中に入っているロトムの事もあって置いていく訳にはいかないからだ。それに先程のバルジーナの事もある。先走るプロキオンをなるべく押さえながら慎重に進んだ。


 しばらく歩くとプロキオンが少し開けた場所で足を止めた。地面に鼻を擦り付けるように匂いを嗅いである場所を一点に見つめている。少女もそれに倣って地面を見ると、点々と赤黒い粘着性のある液体がハプ・ウの葉を濡らしているのに気づいた。それは木の実の果汁ではなく、生き物の血だった。

 少女は耳をすませながら辺りを見回した。やけに静かだ。これまでの旅路で何度か森や林に行った事があるが、どの場所でも同じくして聞こえていたツツケラやケララッパの喧しい鳴き声が全く聞こえない。夜行性のカリキリやネマシュはともかく、湿った土地を好むヌメラやパラスも辺りを彷徨いておらず、ジャングルの入口で見かけたアマカジもこの辺りには一匹も居なかった。

 耳が痛い程の静寂と、風の入らぬどんよりした空気が少女の肌に緊張からくるじっとりとした嫌な汗をもたらす。


「……おかしい、ポケモンが居ない。何かに怯えて隠れているのか…?」


 少女の予想は適中していた。肩に乗っていたロトム図鑑が音声ボリュームを下げて彼女に忠告する。


《ムム…何かいるロ。プロキオンが警戒しているロト、気を付けるロ》


 少女は反射的に腰に手を伸ばす。自分のポケモンを出そうとボールに触るトレーナーの染み付いた癖であったが、彼女はそこで「あっ」と小さく声を上げる。手持ちは全て置いてきた事を迂闊にもこの一瞬の緊張で忘れていたからだ。

 ここには義弟のポケモンであるルガルガンと、ナビ専門の非戦闘員であるヘタレのロトム図鑑しか居ない。凪のような少女の心が静かにざわついた。


「…プロキオン、戻るぞ」


 キャプテンゲートを見て分かるように、シェードジャングルにも主と呼ばれる強力なポケモンがいる。もし、探索していただけの自分達を試練を受けに来たポケモントレーナーだと勘違いをされたら、自分のポケモンを持っていない今の状況は非常に不味い。


「プロキ……」


 もう一度ルガルガンの名前を呼ぼうとした時、プロキオンが上を向いて短く高い声で吠えた。数秒後、向こうの木々からけたたましく鳴くケララッパの群れが飛び立ったと思った瞬間、プロキオンが少女を突き飛ばすように《たいあたり》を仕掛けて彼女に覆い被った。

 ズン! と間髪入れずに大岩が落ちてくる。プロキオンが突き飛ばさなければ全員バルジーナよりも酷い肉塊と化していただろう。


《《いわおとし》ロト……シェードジャングルにはナゲツケサルがいるけロ、こんな大きさの岩は投げられないロ…!》


 プロキオンの砂色の体毛の隙間から様子を見ていたロトム図鑑が自身のデータベースと照合した意見を述べる。プロキオンは少女とロトム図鑑の無事を確認するや否やすぐさま上から退くと、戦闘体勢として前屈みでシダに覆われた茂みの向こうを睨んだ。


 ガサリと音がして、それと目が合った。プロキオンのシルリアンブルーの目が向こうからやって来るワインレッドの大きな目玉を見て小さく息を呑んで見開く。

 その目の持ち主からは血の独特の生臭い匂いと甘ったるい果実の匂いがした。食事中だったのか、木の実の汁が三本の黒い爪から滴っている。赤茶色の体に白い毛皮を纏っているが、先端に付いた鋭利な槍のような岩から周辺にかけて所々赤黒い液体が付着している。血生臭さと果実の匂いはそれらからしていた。よく見ると身体中傷だらけだ、あちこちから血を流してかなり気が立ってているように見える。

 プロキオンは「オン!」と短い声を何度かを上げてそれに向かって何かを訴えているが、向こうは既に戦闘態勢に入っていた。人間のように二足で歩いていた脚を止め、前傾姿勢で両腕を脱力させて人差指らしき爪を立ててニヤリと大きく裂けた口を歪ませて笑っている。そこから鋭く尖った牙が覗いていた。完全にプロキオンを《ちょうはつ》している。


「ロトム、アイツは何だ?」


 突然現れたその生き物にプロキオン同様に身構えていた少女がロトム図鑑に尋ねる。視線はプロキオン達に向けたままだ。


《ルガルガン…ロト》


「ルガルガンだと? プロキオンと大分違う姿だが…」


《プロキオンはソルガレオや太陽の影響で進化した「まひるのすがた」ロト。あっちのルガルガンはルナアーラや月の影響で進化した「まよなかのすがた」ロト》


「ルナアーラ…? 確かソルガレオと対をなす伝説の……」


 少女はそこまで呟いた時、ふと昨夜の出来事を思い出した。歪んだ夜空に消えていったもう一つの月輪、見た事の無いポケモンのような姿の生き物。

 あれがもしロトム図鑑の言うルナアーラだすれば、今目の前にいるのはその影響で進化したイワンコだという事になる。そして、ロトム図鑑の分布図によればこのアーカラ島にはイワンコは生息していない。更に言えば、こんなタイミングのいい時期で進化するイワンコは自分の知るところでは一匹しか思い当たらなかった。


 だとすれば、考えられる答えは一つ。



「……………シリウス、なのか?」


 少女は数日前に出て行ったイワンコの顔と、向こうのルガルガンの顔が重なって見えた気がした。プロキオンは気づいていたのだ、イワンコの面影が全く無くとも弟の顔を見間違えるような事はしない。《ちょうはつ》されても躊躇って短く吠えて呼び掛けているのは、「俺だ、俺だよ」と言っているからだと少女はそう解釈した。


「シリウス、進化したのだな…よく頑張っ」


「オォォォン――――ッ!」


 少女の言葉もプロキオンの言葉も遮るようにルガルガンが高く吠える。拳を地面に叩きつけると、少女とプロキオンを囲うように岩が迫り上がった。


《《がんせきふうじ》ロト!》


「プロキオンのスピードを封じる気か…」


 即席のバトルフィールドが出来た場に閉じ込められたプロキオンは一瞬酷く傷ついたような切なげな表情を浮かべたが、次にはもう顔を上げる。覚悟を決めたような表情だ。それを見た少女も強く頷いてから、一つだけ持ってきた傷だらけのモンスターボールに手を触れた。


「プロキオン、戦るぞ。シリウスは手傷を負って酷く興奮している、あのバルジーナもアイツが殺ったとなれば野放しにするのも危険だ」


「オン…ッ」


 ルガルガンが岩のフィールドに入ってきた。先程のように脱力した前傾姿勢のままプロキオンの攻撃を誘っている。


「カウンター狙いの構えだな……バルジーナの時もそうやって深手を与えて殺したのか…。だが安心しろ、お前を殺しはしないぞ……シリウス」


 動かないルガルガンの考えを読んだのか、あえてプロキオンが先手を取る。彼の得意なスピード戦法で短期決着をつけようという魂胆だろう、ルガルガンの傷の事も考えれば長期戦は互いに避けるべきだと少女はプロキオンの考えに賛同した。

 少女は余計な指示を出さずに見守る。賢い彼なら上手く立ち回れる筈だと思い、ルガルガンをボールに戻せる機会を窺うようにロトム図鑑と共に後ろに下がった。


 プロキオンがルガルガンの懐に飛び込んだ瞬間、《カウンター》としてラリアットが細い腕から繰り出される。当たればプロキオンの首は簡単にへし折れるだろう。だが彼の首にはナイフのような岩がいくつも付いた鬣があるので致命傷には至らない。ルガルガンの腕が当たる瞬間、鬣の岩を上手く腕に当てるよう防御に使うと同時にその細腕に牙を突き立てて《かみつく》。カウンター返しが決まった。

 しかしルガルガンは痛がる素振りを見せず、嘲笑をプロキオンに向けると彼の腹部に強烈な蹴りを見舞った。プロキオンは「カフッ…」と小さく息を漏らして吹っ飛ばされる。


「プロキオン、大丈夫か…!?」


 少女の声にプロキオンはかぶりを振って立ち上がる。ルガルガンは彼に噛まれた腕の傷から流れる血を味わうように長い舌でゆっくりと舐め取っていた。攻撃はして来ない。相手の攻撃を逆手に取るのが得意なプロキオンにとって、あのルガルガンは非常に戦りづらい相手だ。

 それでもプロキオンは弟を想って飛び出した。両腕を広げてハグを待つように笑顔で迎えるルガルガンを眼下に地を蹴って跳躍すると、ルガルガンは地面に片手を突っ込むんでそれを上に巻き上げる。大量の土がプロキオンの視界を遮るように舞う《すなかけ》が見事に決まった。


《プロキオン!》


「大丈夫だ、『するどいめ』がある。 そう簡単にプロキオンはやられない…!」


 心配するロトム図鑑を宥める少女の言う通り、プロキオンは一切動じる様子も無くフィールドの岩の上からパームの幹に跳び移る。


「《アクセルロック》だッ!」


 気迫の込もった少女の鋭い声が飛ぶ。プロキオンは後ろ脚に力を込めてパームの幹を抉る程強く蹴って加速すると、ルガルガンの正面に飛び込んだ。それを待ち構えたように《カウンター》の構えを見せるが、プロキオンはその耳元で喝を入れるかのように大きく吠える。

 一瞬驚いたルガルガンの動きが牽制された。その隙を突いて素早く後ろに回り込むと、プロキオンは容赦なくその脚を鬣の岩で切りつけた。ガクリとバランスを崩して膝を着くルガルガンに追い打ちを掛けるように覆い被さって押さえつけると、プロキオンは少女を横目で見て吠えた。


「戻れ、シリウス!」


 プロキオンがルガルガンを押さえた時、既にこちらへと駆け出していた少女は傷だらけのモンスターボールを向けて動けないルガルガンを呼び戻そうとする。


 しかしその間に我を取り戻したルガルガンによって阻まれた。


「ギャンッ!」

「うっ…!」


 進化によって強化された怪力は単純な力比べでプロキオンの力を超えていた。毛皮から突出した岩で頭突きをするようにプロキオンを弾き飛ばすと、後ろにいた少女を巻き込んで派手に転倒する。


「…シリウス……」


 プロキオンの下敷きになり岩の体でいくつか擦り傷を作っても、少女は構わず起き上がった。疲弊したプロキオンも少女に抱き起こされる形で再びルガルガンと対峙する。

 対する向こうも立てなくなった体を引きずりながら威嚇を始めていた。あとはボールに彼を戻せばいいだけなのだが、その簡単な事が難しい。


「もう一度だ、行け…っ」


 少女の指示でプロキオンは飛び出す。ルガルガンは《カウンター》狙いで構えたままだ。


「シリウス、馬鹿の一つ覚えみたいな事は……プロキオンにも私にも通じないぞ…ッ」


 少女の投げつけた木の実がプロキオンを追い抜いてルガルガンの目に当たる。辛味成分の強いマトマの汁がもろに目に入ったルガルガンが絶叫して目を押さえる。両手が顔に行ってしまった懐は完全にノーガードだった。

 プロキオンが最初に《アクセルロック》を使わなかったのは、少女の最も得意とする『投擲』でルガルガンの気を逸らして確実に自分の技を《カウンター》が決まらないようにぶつける為だった。それを自分の主人でもない少女とぶつかった数秒の間に打ち合わせて決めた作戦をこの土壇場で成功させたのだ。


「《アクセルロック》ッ!」


 プロキオンの至近距離から放たれた加速による突進力でルガルガンが前傾姿勢から更に曲がった「く」の字に折れて吹っ飛び、自らが作り出した岩のバリケードに背中を強打する。岩の毛皮が防具になっても妙な音がルガルガンから聞こえたが、プロキオンは「自分は手加減したぞ」と渋い顔で少女を振り返った。

 ずるりと岩壁にもたれ掛かるようにして落ちてきたルガルガンはまだ戦る気らしく、立ち上がろうと歯を食い縛りながら体を震わせている。


「プロキオン、ありがとう。後は私が行く」


 これ以上戦えば互いが危険と判断した少女は、プロキオンを手で制して自らルガルガンの前へと進み出る。その手にはシリウスの入っていた傷だらけのボールが握られていた。



「…プロキオンは自分で選んでスピードに磨きを掛けようとあの姿になったが、お前はきっと先の事を考える余裕が無かったのだろうな」


 牙を向いて威嚇するルガルガンと向かい合い、少女は幼い子供に語り掛けるような穏やかな口調になる。


「あのバルジーナを殺ったのはお前だろう? 恐らく、昨日の夜に襲われてイワンコの力ではどうにもならなくて追い詰められた。だから、お前は"力が欲しい"と願ってその姿になった……違うか?」


 ルガルガンの目に正気の光は戻らない。戦闘で興奮している時に光を増すワインレッドの目からは少女に対する敵意が消えていない。

 少女はそっと手を伸ばした。気が立っていたイワンコの時と同じように、傷ついた右手をルガルガンに向ける。


「ガァッ!」


 ルガルガンが頬まで裂けた口を大きく開けて唸った。鼻をつくような肉独特の臭みが混じった口臭がする。

 少女は恐れず、イワンコに餌をやる感覚でその口に小さな焼き菓子を放り込んだ。口の中に残っていた鉄っぽい味の中で懐かしい香ばしさとカリカリした小気味良い食感がルガルガンの動きを止める。


「旨いか? お前がいつ帰ってきてもいいように毎日焼いていたんだ」


 少女の手がルガルガンの顎を掻くように撫でる。もう噛まれる事は無かった。

 ルガルガンが焼き菓子を味わうように何度も咀嚼していると、次第に彼の目に大粒の涙が溜まっていた。命の危機に瀕した恐怖で何もかも見失っていたのだろう、噛むごとに彼の脳裏に浮かぶのは無邪気に兄を追い掛けていた自分。その兄は今はフンと呆れたようにこちらを一瞥してから地面に寝そべっていた。

 少女がそっと大きな岩を抱えた毛皮ごとその体を自分の方に抱き寄せると、ルガルガンは自分とは違った彼女の温かく柔らかいその感触を思い出す。イワンコの時によくこうして甘えていた事を。

 ようやく自分の主人を思い出したルガルガンが、仔犬のようにめそめそと鳴き声を漏らしながら少女の胸に顔を埋めた。


「進化しても、お前はまだまだガキだな…」


 少女は背中に爪を立てる勢いで抱き締め返してきたルガルガンに、痛みに顔をしかめながらもポンポンと毛皮に覆われた背中を叩いた。


「お帰り、シリウス」




 これからどうしようか。ジャングルを騒がせた事をマオに謝罪をしなければならないし、バルジーナがトレーナーのポケモンでも野生でもきちんと弔ってやらなければならない。結果的に気の立ったルガルガンを放置してしまったトレーナーの監督不行届きとして警察や他の人間から何と言われるのだろうか……島巡りの途中でもあるし、残されたポケモンの事もあるからブタ箱行きだけは勘弁願いたい。厳重注意で済むように願うか…。

 先が思いやられる不安に加え、ルガルガンが再び我を忘れて暴走する危険性だって完全に無くなった訳ではない。


 トレーナーとして、親として、やる事は山積みではあるが少女は悲観していなかった。これもまた試練である。ポケモンと関わる人生を選んだからこその試練だから、島巡りのように一つ一つ戦って乗り越えなければならない。


「……今日も、アローラは良い天気だな…」


 陽が高く昇ってきた蒼穹をぼんやり眺めながら、少女はめそめそが止まらないルガルガンをしばらくあやし続ける。その周囲を何事かとアマカジやナゲツケサルがちらほらと眺めていたのは、満身創痍で疲労しきっていた彼女らは気づいていなかった。ジャングルに再び、ケララッパとツツケラの鳴き声が戻ってきた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。