『警告! 上空に敵機、ブレイク!!』
高度20,000フィート。漂う白い雲と、果てしなく広がる蒼穹だけの世界。
その片隅で、ひとつの小さな戦いが始まろうとしていた。
雲を突き抜け、2機の双発戦闘機が天に向かって駆け上がる。
追われる側は、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング。追う側は、オーデンス空軍のMe410ホルニッセだ。
ライトニングのパイロットは、急降下で加速して後ろについたホルニッセを振り切ろうとしていた。だが、急降下すると制御不能になり墜落しかねない欠陥を抱えたライトニングを駆るパイロットにとって、この判断は悪手だった。
機体の振動が抑えきれなくなる前に、パイロットは機首を上げ、蓄積された運動エネルギーを使って上昇、敵を振り切ろうとした。
しかし、時すでに遅し。
ライトニングに狙いを定めきっていたホルニッセは、2門ずつの機銃と機関砲でライトニングを撃ち抜く。
主翼を撃ち抜かれ、引き千切られたライトニングは、炎に包まれながらもんどり打って、雲の中へ消えていった。
ホルニッセが次の獲物を捉える。2時方向下方、離脱を図っている2機のライトニングだ。
『"死神"だ! こっちに来るぞ!』
先頭のライトニングのパイロットが叫ぶ。
散開し、初弾の回避を試みるライトニング。しかしホルニッセは1発も撃つことなく、散開するまで後方を飛んでいたライトニングの後ろに食らいついた。
「後ろに付かれた、助けてくれ!!」
操縦輪を振り回し、ラダーペダルを何度も蹴って、食らいつかれたライトニングのパイロットは必死に相手の射線から逃れようとする。
だが、ホルニッセは、より機敏なはずのライトニングの動きに、ぴったりと機首を合わせて追い続ける。まるで、ライトニングがこれからどう動くのかが、全て見えているかのように。
『待ってろ、俺が殺る!!』
先程まで先頭を飛んでいたライトニングが、ホルニッセの後方に喰いついた。
射撃。これで終わった、と、ホルニッセの後ろに付いたパイロットは思っただろう。
だが。
射撃はむなしく空を切った。ホルニッセは後方のライトニングから銃弾が飛び出したその瞬間、バレルロールで射撃をかわしていたのだ。
あっけに取られたライトニングは、そのまま加速しつつ突き進む。上昇し、速度の落ちたホルニッセは、加速したライトニングとの距離が離れすぎる前に、背面のままライトニングを照準に捉え、射撃した。
その間、わずか数秒。
あっという間の逆転劇の末に、2機目のライトニングが虚空に砕け散った。
自分の命もあと数秒だ。残った1機のライトニングのパイロットは、自機の後方で砕け散った僚機と、それを追い抜いて猛進してくるホルニッセを見て、そう思っていた。
だが、ホルニッセは撃ってこなかった。降下に移り加速したホルニッセは、右へ緩やかに旋回して離脱していく。
ならこっちが後ろを取ってやる。ライトニングのパイロットは、思い切り機体を旋回させ、後を追おうとする。
相手が視界に入った。3時方向、距離は近い。おおよそ15ヤードくらいだろうか。
真っ白に塗られたエンジンナセルと尾翼。機首に描かれた、ポンパドールのような白い鬣を持つ、赤い目をした紅い狼の横顔。そして、コックピットの中の、角の生えた操縦者の影。はっきり見えたのは一瞬だったが、それでも、そこにいるのが人ならざるものであるということは、はっきりと見て取ることができた。
ホルニッセは右にロールを切って降下していく。ライトニングは後を追おうとしたが、急旋回で速度が落ちてしまっている。速度を保ちながら緩やかに旋回したホルニッセは、ライトニングを悠々と引き離し、雲の中へ消えていった。
できるなら、このままホルニッセを追い続けて、何としても地べたに叩きつけてやりたいと思っていた。コイツの仲間のケダモノどもは皆殺しにできたのに、こいつひとりに仲間を皆殺しにされて、あまつさえ逃げられるだなんて。
だが、燃料はすでに基地に帰還できるぎりぎりの量しか残っていない。獲物を手に入れたところで、家に戻れず野垂れ死にでは意味がない。
奴はなぜ逃げた。弾切れか。燃料が足りなくなったか。はたまた、これ以上は深追いになると踏んだのか。
理由は分からない。だが、生き残ったライトニングのパイロットにとっては、どれでも同じことだった。
「……クソッ!!」
風防に拳をたたきつける。
屈辱だ。こんなことなら、自分もあいつに落とされて死んでしまえば良かったのだ、とさえ思えてくる。
人ならざるものに、人間の俺が、負けた。
人間の叡智をもってすれば、どんな自然の驚異にだって、人間は立ち向かえる。彼はそう思っていた。その思いを、あの"死神"はたやすく打ち砕いていった。
ふざけるな。野山で獣を食らって生きているような奴らが、一体全体どういうわけで人間ヅラして飛行機なんかに乗って、人間を殺してまわっていやがるんだ。
……この借りは、必ず返してもらうぞ。次こそは、俺が、お前を仕留めてやる。
首を洗って待っていやがれ。
「……"死神"め……!」
孤独な呪詛が、ライトニングを離れて蒼穹の中へ消えていった。
* * *
俺が陸軍航空隊に入ったのは、子供の頃、パイロットが上から2番目になりたい将来の夢だったのと、裕福とは言えない家に楽をさせたかったのと――
そして、軍隊に入れば、故郷のアローラを抜け出して、誰も俺のことなんて知らない、遠い遠いどこかへ行けると思ったからだった。
その目論見は、結果から言えばうまく行った。故郷のメレメレ島から地球半周分くらいは離れたグレートブリテン島では、アローラのことや、そこでどんなことが行われているかを知っている奴なんて誰もいなかった。アローラなんて海に浮かんだド田舎で育って、そのうえ海軍じゃなく陸軍に入る物好きなんてそういるはずもなく、同郷のやつとばったり会うような事も今のところ起きていない。
そんな訳で、俺――マット・ビアンチは、ヨーロッパで願ったり叶ったりの軍隊暮らしをしている、というわけだ。
起きて、戦って、眠って、また起きて、訓練して、眠って。そんな日々の繰り返し。特に個人的な目的もなく、やれと言われたことをやるだけの、漫然な暮らしではある。
もっとも、戦争という自分の命を掛け金にした最高のスリルがあるおかげで、そんな漫然な生活の中でも退屈することだけはないのだけれど。
格納庫につながるドアを開けると、塗装工のジャンが笑顔で出迎えてくれた。
「ビアンチさん、きっちり出来上がってますよ!」
「ありがとうジャン。まだ出来上がってなくて飛ばせない、って言われたらどうしようと思ってたよ」
「ははは、こっちもこれが仕事ですから。皆さんの仕事の邪魔はしませんよ」
「別に頼んじゃいなかっただろ……俺ぐらいの腕でパーソナルマークなんて、本当にいいのか?」
「今更そんな卑屈にならないでくださいよ。最初の撃墜記録が2機だなんて、誰にでもできることじゃないです。自信持ってくださいよ!」
歩きながら、ジャンととりとめのない会話を続ける。いつもの金属とエンジンオイルの臭いに、塗料のシンナーの臭いが微かに混じっているようだった。
「ほら、見てください!」
最初、この馬鹿でかくてマッシブな機体を見た時、俺は本当にこいつは戦闘機なのか、実は爆撃機なんじゃないのか――と思ったものだった。
いつもと変わらず、オリーブグリーンの巨体を横たえる愛機、P-47Dサンダーボルト。寸胴で、無骨で、素晴らしく不格好なそいつの機首に、鮮やかに輝くノーズアートが勲章のように輝いている。
「……そうだ、色、これで合ってますよね?」
「ああ……完璧だよ。よくできてるじゃないか」
俺の機体にノーズアートを描かせてくれ、とジャンが言いだしたときは、正直照れくさくて乗り気になれなかった。でも、こうして出来上がりを目にしてみると、こいつのわがままを聞いてやって良かった、と思えてくる。
黒と白の身体。黄色いほっぺに青い瞼。そして赤と黄色のグラデーションに彩られた大きな嘴。これまで何度も見てきた、見慣れた横顔。絵の下にはご丁寧に『JENNY』というポップな文字までもが入っている。
もっと近くで見てみたくて、思わず機体に歩み寄った。絵に描かれた鳥――ポケモンのドデカバシは、今にも飛び出してきそうなくらいに活き活きとしている。それは元気に空を飛びまわっていた、俺のドデカバシ――ジェニーの姿そのものだった。ごつくて不細工なサンダーボルトだが、この絵ひとつでかなり印象が変わって見える。馬子にも衣装ってのはこういうことか。
「すげえよ。写真1枚からこんな絵を描けるなんて。画家のタマゴは伊達じゃないな」
「そ、そうですか? その、図書館で図鑑見たりして、足りないところは補ったんです。満足していただけたならうれしいです!」
照れくさそうにジャンは返す。
「ああ。ジャンが早くカロスに帰って絵の勉強をまた始められるように、俺たちも頑張って戦争終わらせなきゃならんな」
世界は今、連合国と枢軸国の2つに別れた、人類史上2度目の世界大戦の真っ只中にある。
俺達が今いるグレートブリテン島の、海を挟んで反対側にある大陸の国カロスは、大戦が始まって間もなく枢軸国の親玉、オーデンスによって全土が占領されてしまった。カロス産まれのジャンは、戦火を逃れて海を渡った難民の1人だ。画家になるための勉強をしていたことを活かして、この基地で飛行機に絵を描く仕事で日銭を稼いでいる。
世界を包む戦火は、この世界の誰もの暮らしに、大なり小なり差し響いている。俺だって、戦争の流れに便乗してアローラを抜け出し、軍のパイロットになった身の上だ。
実に都合よくこの戦争を利用し、命を張るのと引き換えに少々の甘い蜜を吸わせてもらっているわけだが、悔やんでいることもないわけではない。だからこそ、せめてこういう形でも共にありたいと、ジェニーを描いて貰ったのかもしれない。
* * *
ジャンと別れ、小隊の面々と落ち合って夕食を摂る。本当は酒でも飲みたいところだが、明日は出撃だから我慢だ。
食事を終えて食堂を出た後、小隊長が用を足してくると席を外したので、副隊長のゴフ中尉と、同僚のビショップとの3人で外で待つことにした。この時間にはもう消灯まで特にすることもないので、世間話でもしていようという算段だ。
煙草に火をつけようとすると、クンクンと動物が鼻を鳴らす声がした。
「おおベス! 今日も遊びに来たかあ!」
動物好きのビショップが、その声を聞くや否やしゃがみこんで、足元に擦り寄ってきた茶色い毛玉を出迎える。やれやれ、今吸ったらまたビショップに「ベスは煙草の匂いが嫌いなんだ」って叱られるな。そう思って、俺はおとなしく煙草をケースに戻すことにした。
ベスは、この基地に住み着いているポケモンのイワンコだ。どこから流れ着いたのか知らないが、いつの間にかここに出入りするようになった野良ポケモンらしい。妙に人馴れしているから飼い主がいるんじゃないか、と基地の人間が飼い主探しの張り紙を出したりもしたそうだが、飼い主は名乗り出なかったという。このご時世だ。飼い主はいたが先立たれてしまったのかもしれない。
そんな訳で、俺がここにやってくる何ヶ月か前から、ベスはすっかりこの基地の一員にしてアイドルみたいな存在になっているらしい。うちの小隊じゃ、ビショップがすっかりベタ惚れしてしまっているようで、色々と面倒を見てやってもいるようだ。
「今日は随分とご機嫌だねえ、ベス! コックに美味いものでも貰ったのかい?」
首に付いた硬いイボをゴリゴリと擦り付けられても、全く動じることなくベスに話しかけるビショップ。目玉の中にねじ込んでやっても、文字通り目に入れても痛くない、なんて言い出しそうな勢いだ。
イワンコが首のイボを擦り付けるのは、イワンコの愛情表現なんだ、と教えてくれたのはビショップだった。ポケモンに限らず、ビショップは動物全般に博学で、釣った魚や飛びまわる鳥のことも色々と教えてくれた。そんなに詳しくなってどうするんだ、と訪ねたら、大学に行って生物学の勉強をするんだ、軍隊に入ったのもそのためだよ、と教えてくれたっけ。
「……そういえばゴフ中尉、今日は爆撃隊の奴ら、この世の終わりみたいな顔してましたね。明日の任務と、なんか関係あるんですかね?」
ベスにお熱なビショップはひとまず放っておいて、俺はゴフ中尉に食堂で見かけたどうにも気になる爆撃機乗り達の話を降ることにした。敵のプロパガンダの内容から基地の近くのうまい店まで、最近のことならなんでも把握している情報通のゴフ副隊長なら、きっと何か知っているだろうと思ってのことだ。
明日の俺たちの仕事は、その爆撃隊の爆撃機を護衛すること。事によっては、俺たちの任務にも差し響いてくるだろう。それを確かめておきたかったのだ。
「ん、ああ……そりゃ、明日の爆撃目標はスマラクトの工業地帯だからな。お前も聞いてたろ、マット? この世の終わりみたいな顔になるのも当然さ。俺もカミさんと娘の顔をもう見れなくなるかもしれない、って覚悟しているくらいさ」
神妙な顔でゴフ副隊長は答える。
「それは聞いてますけど……そのスマラクトって所は、そんなにヤバいところなんですか?」
「ああ、マットはスマラクト行きは初めてだもんな。知らねえのも無理はないか……」
腕組みをして、ゴフ副隊長は暗闇に染まりだした東の空を見ている。
「スマラクトは、オーデンスの軍需工場がたくさん集まってる工業の要だ。当然、守りは固い。最新式のレーダー。立派な高射砲陣地。そんなもんがウヨウヨしてる中に、爆撃隊はまっすぐ突っ込んでいかなきゃならんわけだからな。それだけでも、とても生きた心地はしないだろうよ」
それだけでも、という言葉が引っかかる。
「それ以外にも、なんかあるってことですか」
「察しがいいじゃねえか、マット。それだけ守りが固いところだ。当然、戦闘機もウヨウヨ上がってくる。それもオーデンスきっての腕利き防空部隊がな」
「腕利きの……なるほど、そいつは責任重大ですね」
身震いする。オーデンスきっての防空部隊、そいつらが明日の俺たちの相手。ってわけか。
「責任重大なんてもんじゃないぞマット。さっきも言ったが、俺たちも覚悟を決めておいたほうがいいくらいの連中が、手ぐすね引いて待ってるのさ。うちの隊長も、4か月前にスマラクトに行ったとき、迎撃機に反撃されて仲間を全員殺された、って話だ」
「……全員?」
息を呑む。ここに着任して2か月ほど経つなか、幸いにも小隊の仲間を失ったことがない自分にとって、生き残りが自分1人だけという状況は正直想像がつかない。
「ああ、敵のエース部隊の中でも最高にヤバい奴らに、イェーガー隊長は出会っちまった、って話だよ」
「精鋭の中でも、最高にヤバい奴らに……ってわけですか」
「そう。部隊の名前は第17駆逐航空団。"ウールヴヘジン駆逐航空団"なんて、狼の皮をかぶって戦う神話の英雄から貰った勇ましい通り名もあるらしいな」
淡々とゴフ中尉は続ける。正確な部隊名から通り名、その元ネタまで、すらすらと出てくるあたりが流石の情報通ぶりだ。
「最新鋭の双発戦闘機を配備した部隊でな。護衛戦闘機がついて行けなかったちょっと前までは、そいつらに襲われた爆撃機の3割以上が帰ってこれなかったこともザラだったらしい。
前に出っ張ってる白い鬣の付いた、赤い狼の部隊マークを機首に描いてるから、こっちの爆撃機乗りからは"ウルフパック"って呼ばれてるらしくて――」
「あー、ゴフ中尉、それって狼じゃなくてルガルガンの事じゃないっすかね?」
俺とゴフ中尉の会話に、いきなりビショップが割り込んできた。
「ビショップ、お前聞いてたのかよ?」
俺は思わずそう返していた。そして、ああ、こりゃまたビショップのアレが始まるな……と、ため息を1つつく。
「まあ、ちょっとずつね……で、中尉、狼みたいで、赤くて白い鬣があるってなれば、そいつは間違いなく真夜中の姿のルガルガンだと思いますよ。2本足で歩くから、狼の皮をかぶった人間の英雄、って通り名が付くのだってしっくりきますしね。
そうそう、ルガルガンはイワンコの進化形だから、ベスだって大きくなって進化したら、その姿になるかもしれないですよ! な、ベス!」
得意げな顔でビショップが言う。そしてそのビショップに抱きかかえられているベスも、ビショップに生き写しな得意顔をこちらに向けている。
やれやれ、ビショップの動物オタクぶりには参ったものだ。敵部隊のマークの正体なんて、別に狼だろうがルガルガンだろうがどうだっていいのに、知識自慢ができると見るやすぐに食らいついてくるんだから。
「あ、かもしれない、って言ったのは、ルガルガンは真夜中の姿以外にももうひとつ、真昼の――」
「ビショップ。今日はもうベスに構うのはやめたほうがいいと思うぞ。俺からの忠告だ」
なおも知識自慢を続けようとするビショップの顔が、一瞬で引きつった。無理もない。いきなり後ろから肩を叩かれれば、俺だって驚いてそうなるだろう。
「び、びっくりさせないでくださいよイェーガー隊長! ベスを落っことす所だったじゃないですか!」
「なら、そろそろ降ろしてやれ。ずっと抱えられたまんまじゃベスも辛いだろう」
オーバーに驚くビショップに、イェーガー大尉は仏頂面で返した。
イェーガー大尉は、俺たちの所属する飛行隊の隊長にして、俺の小隊の小隊長だ。俺たちの乗るサンダーボルトみたいにガタイが良くて、力比べじゃ誰も勝てない。おまけに肝も据わっているときたものだから、貫禄はなかなかのもの。俺達の国が連合国の仲間入りをした時からずっと飛び続けているから、空中戦の腕前もかなりのものだ。
……それはさておき。
「大尉。忠告って、どういうことなんですか」
またひとつ増えた気がかりな事を、ベスを地面に降ろしてやるビショップを尻目に、イェーガー大尉に訪ねてみる。
「ああマット……それはな、まだゴフが言ってない、"ウルフパック"どもの最大の特徴が理由さ」
「最大の特徴……?」
相槌を打ちながら、ゴフ中尉を横目で一瞥する。やはりと言うか、中尉はその正体を知っているように頷いている。それを見届けるかのように、イェーガー大尉はため息をついて、語りだす。
「"ウルフパック"の最大の特徴はな、パイロットが全員人間じゃない、ってことだ」
「人間じゃない……って!?」
俺は目を見開いた。人間じゃないパイロットって、そんなものがいるのか?
「文字通りの意味さ。"ウルフパック"のコックピットに座ってる奴に、人間はひとりもいない。人間に飛行機を操縦する芸を仕込まれた、ポケモンどもなんだよ」
「ポケモン……」
種明かしを聞いて、納得する一方別の驚きが湧き上がってくる。
ポケモンは頭のいい生き物だ。教えれば人間の道具くらい容易く使えてしまう、という話はよく耳にする。もっとも、競技としてのポケモンバトルでそれをやるのは反則だから、実際にやらせる人はまずいないらしいが。
俺達の敵であるオーデンスが、数合わせのためにポケモンをたくさん動員している事も知っていた。けれども、飛行機みたいな扱いの難しい機械まで使わせているというのは、純粋に驚いているところだ。
「奴らは……ポケモンは、人間とは全く違う生き物だ。だから奴らは、人間を殺すことに躊躇がない。俺たちが狐や兎を撃ったり、蟻や芋虫を踏みつぶしたりするみたいに、奴らは人間を殺せるんだ。
奴らの動きは、人間の乗ってる戦闘機とはまるで違った。奴らの動きは……人間を喰い殺そうとする、飢えたケダモノそのものだ」
イェーガー大尉は淡々と続ける。そんな中で俺は、さっきゴフ中尉が言っていた話を思い出していた。イェーガー隊長は、"ウルフパック"に仲間を皆殺しにされたことがある、と。
「だからだよビショップ。今日あんまりベスに構い過ぎてたら、明日奴らに会ったとき情が移って撃てなくなるぞ。お前みたいな性格じゃな。そうなれば、食い殺されるのはお前だ。そうなるのはお前だって嫌だろう」
「……」
立て続けにイェーガー大尉に言葉をぶつけられたビショップは、苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。
「……敵である以上、戦う以外の選択肢はないわけだが……」
ゴフ中尉が煙草を咥え、マッチに火をつけた。ベスは、と思ってベスの姿を探したけれど、剣呑な雰囲気に気圧されたのか、いつの間にかベスは姿を消していた。
「俺はなんだか、奴らが哀れに思えてくるよ。前の世界大戦で、発展した武器を持った人間の軍団相手には、ポケモンはもう優位に立てないってことは証明されているのに、人間が足りないからってまだオーデンスはポケモンを使う事をやめないんだもんな。こっちじゃポケモンなんて、ベスみたいなペットか、せいぜい荷物運びくらいしかすることも無くなってるって言うのに」
ゴフ中尉の煙草に火がついて、紫煙が夕暮れ空に漂い始める。
「……オーデンスの連中も、バカなことしますよね。そんなことしてたら、いずれこの世からポケモンがみんな消えてなくなっちまいますよ。リョコウバトみたいに……」
少しして、黙っていたビショップが、ようやく口を開いた。
「ベスのお仲間のイワンコだってそうっすよ。ヨーロッパじゃ、家畜を襲うからって狩られまくって、おまけに世界大戦が始まれば、今度は優秀なポケモンだからって、どんどん戦場に送り込まれては死んでいって……今じゃもう、野生の個体はほとんど生き残ってないらしいんです。また世界大戦が始まったから……もう、野生のイワンコやルガルガンは、ヨーロッパじゃ絶滅待ったなしだ、って話を聞くらいで。
馬鹿馬鹿しい話っすよね。せっかく機械文明が発達して、ポケモンに頼り切らなくてもいい世の中になったってのに、機械にまでポケモン乗っけて戦争させるなんておかしいじゃないですか」
ビショップの講釈がまた始まる。でも、さっきと違って、内容はややばかり重苦しいものに変わっていた。
イワンコは、故郷のメレメレ島の山、テンカラットヒルに行けばわりと簡単に出会えるから、滅亡寸前のポケモンと言われても正直ピンとこない。ただ、テンカラットヒルのイワンコは、元々ヨーロッパにいたものが人間の手で持ち込まれた上で野生化したもので、本来の生息地であるヨーロッパでは随分減ってしまった、という話は、子供の頃に俺も聞いていた。
きっとそういうことなのだろう。ヨーロッパで居場所をなくし、アローラに移民する道を選んだ両親を持つ身の上としては、身につまされる話だ。
「そうさ。貧乏でポケモンなんて飼えなかった俺ら貧乏百姓が、ポケモンから牛や鶏を守れてたのも、飯を食わせなくてもいい銃でポケモンと戦えたからさ。なのに奴らは……俺達人間の文明の叡智に平然とタダ乗りしていやがる!
本当に強いのはどっちなのか、奴らには分からせてやらなきゃな。ケダモノどもに、いつまでもでかい面させるわけにはいかねえ!」
日が沈み、冷たくなっていく風とは正反対に、イェーガー大尉の語気は熱を帯びていった。
イェーガー大尉が、まるでビショップみたいに饒舌になっているのを見るのは初めてのように思える。こんなに煮えたぎらせていた感情を、いったい今までどこに隠していたのだろうか。
「お前ら、明日は腹くくってもらうぞ。"ウルフパック"の奴らは必ず上がってくるだろうからな。奴らが来たら、遠慮なしに叩きのめせ。新型機だってこっちにはある。今まで散々人間をコケにしてきた、ツケを払わせてやるんだよ」
大尉の言葉が帯びる、ぎらつく真夏の太陽のような熱は収まる気配がない。彼の固く握りしめられた手は、まるで自分の言葉に手綱をつけようともがいているようにも見えた。
「……大尉の意思は、小隊全体の意思です。我々も全力を尽くしましょう。ですが、戦うためには休息も必要です。今日はもう休んだほうがよろしいかと」
見かねてか、ゴフ中尉がイェーガー大尉の肩を叩いてなだめにかかる。握りしめられていた大尉の拳が、ゆっくりとほどけていくのが見えた。
「……そうだな。ありがとう。お前たちも今日はしっかり休んでおけ。いいな」
ゴフ中尉の手をほどくように、イェーガー大尉は踵を返した。心の中では、まだ拳をほどき切れていないのかもしれない。そう思った。
「そうだ、ひとつ言い忘れていたよ。尾翼とナセルが白い奴が出てきたら……そいつは、全員で仕掛けて必ず潰すぞ。それだけ、覚えとけ」
背を向けたまま、ふと大尉がつぶやいた。
「白い奴?」
「"ウルフパック"のトップエース。そいつはたとえそいつ以外の敵機を全滅させても、そのたびにたったひとりで大勢の連合軍機を食い殺すのさ。いつしか誰かが"死神"なんて大層な二つ名で呼び出したようなヤツだ。だからこそ、俺達の力で叩き潰すんだ」
ビショップの問いかけにそれだけ答えて、大尉は足早に兵舎のほうへ歩き出していた。
あたりの空気が、急に冷たくなったような気がした。そこまで来て、俺はようやく空が暮れなずんでいることに気が付いたのだった。
* * *
「イェーガー大尉は、最後に言ってた"死神"に、小隊の仲間を皆殺しにされたんだ。1人だけ見逃されたのが情けをかけられたようで屈辱だった……と、俺には話していたな。
大尉はオーレの山奥の生まれなんだ。そこでは、人間は常に自然と戦いながら生きてる。文明の力で、自然と戦い続け、勝ち続けなきゃ生きていけない場所だって、大尉は言っていたよ。
だから、大尉はあんなに"ウルフパック"を嫌うんだと俺は思う。自分が打ち勝ってきた人外の存在が、文明の力を手に入れて殴り返してきたわけだからな。そりゃあ、気に入らないだろうさ」
別れ際にゴフ中尉が言っていた言葉。その言葉が、ベッドに入ってからも自分の中でこだまのように響いていた。
それだけじゃない。愛機に描かれたジェニーのこと。明日行く場所のこと。敵のエース部隊のこと。その部隊マークがルガルガンだということ。その部隊と、明日やりあうことになるかもしれないこと。
今日起きたことは、どういうわけかやたらと印象に残ることばかりだったように思う。おかげで、ベッドに入ったのになかなか寝付けない。
致し方ないので、目だけは閉じて、自分も自分なりの考え事をしてみることにする。
イェーガー大尉の昔話をゴフ中尉から聞いたせいか、俺は昔のことを思い出していた。
俺はアローラのメレメレ島で、ヨーロッパから移民してきたばかりの両親の間に生まれた。周りはもう何10年とアローラに住んでいる人たちばかりだったから、両親も俺も、同郷の移民たち以外からは他人行儀に扱われて生きてきた。
そんな俺が11歳になった日。肩身の狭い思いをしてきた俺にチャンスが訪れた。
島巡り。11歳になった少年少女が、ポケモンを連れてアローラの島々を渡り歩き、試練を乗り越えていく、アローラに古くから伝わる儀式だ。これを乗り越えて島巡りチャンピオンになれば、あるいは島の守り神に認められれば、アローラの誰もが一目置く存在になれる。
そんなチャンスを、俺は見逃すはずもなかった。ポケモントレーナーは一番の将来の夢だったし、なによりこれを達成できれば、今まで俺を邪険にしていた奴らを見返してやれる。そう思っていたのだ。
島巡りに挑むことになった俺が手にした最初のポケモンが、そのころはまだツツケラだったジェニーだった。ジェニーはそのころから俺を支えてくれるしっかり者で、彼女と一緒なら、どんな試練だって乗り越えられるような気がしていた。
あの頃の俺は自信に満ち溢れていた。見てみたい景色もあった。出逢いたい、仲間にしたいポケモンもいた。ラナキラマウンテンに登って、そこに住むと聞いた、人に濡れ衣を着せられ山へ追いやられたという銀色のポケモンを仲間にして、雲を見下ろす景色を一緒に見てみたかった。
だが。
結論から言えば、俺はその夢をひとつたりとも叶えることはできなかった。ラナキラに登ることも、銀色のポケモンに会うことも、だ。
家が貧しかったために、俺はジェニー以外のポケモンを養うことができなかった。ケララッパになっても、ドデカバシになっても、たった1匹のポケモンだけでは、苛烈を極めていく試練を乗り越えていくのは到底不可能だ。結局俺は、島巡りの儀式から脱落することとなってしまった。
俺を邪険に扱っていた周りの連中は、より一層俺を蔑むようになった。"島巡りから脱落した、落ちこぼれの能無し野郎"というレッテルは、アローラのどこへ行ってもついて回った。
島巡りの儀式は、誰もがスターになれるチャンスなどではなかった。子供をふるいにかけ、弱いものを淘汰し、排除するための邪悪な儀式に過ぎなかった。貧しい移民2世の少年に、栄光を手にする可能性など初めから与えられていなかった。そんな、不条理で残酷な現実に気づいてしまった。
俺はその現実に打ちひしがれた。そして、こんな故郷などさっさと捨てて、誰も俺のことなんて知らない、遠い遠いどこかへ行ってしまいたいと思うようになった。
だから俺は、軍に志願した。何年か勤め上げて、退役したら本土のどこかの民間航空会社にでも入って、ジェニーと一緒に慎ましく暮らす。それが俺の新しいささやかな夢になった。
そちらはうまくことが運び、入隊した俺は無事にアローラを離れることになった。でも、軍隊にジェニーを連れて行くことはできない。俺はジェニーを忌々しい故郷に置いていく他なかった。
軍役が終わったら、必ずお前を迎えに行くからな。待っててくれよ。アローラを旅立つ日にそう言葉をかけた時、ジェニーが見せた寂しげな顔。俺はその顔を今でも昨日のことのように思い出せる。きっとこれからも、死ぬまで忘れることはないだろう。
俺がアローラを離れて2週間ほどが経った、ある日曜日の夕方のことだった。
故郷のメレメレ島にある海軍の基地が、宣戦布告もないままに日本軍の空襲を受けた、というニュースが飛び込んできたのだ。ラジオも新聞もその話で持ちきりだったし、当然戦争になるわけだから、軍隊の中もてんやわんやの大騒ぎになっていた。
それを聞いて、俺が最初に感じたのは不毛な歓びだった。ざまあみろ。あんなクソみたいな田舎なんて、いっそ丸ごと吹き飛ばされて海に沈んでしまえばいいんだ……なんて、軽率なことを考えていた。
何日かして、両親から手紙が届いた。それを見て、俺はそんな馬鹿な考えをしてしまった自分を恨むことになった。故郷が戦火に巻き込まれれば、必然として身内の誰かが傷つくことになる。そんな単純なことを、俺は忘れてしまっていたのだ。
手紙の内容は、空襲でジェニーが死んだ、というものだった。爆撃に驚いて飛び上がったところに、流れ弾を受けてしまったのだという。
俺は、故郷を捨てたことをあまりにも早く後悔することになってしまった。
こんなの不条理だ。なぜ、軍隊に行った俺じゃなくて、故郷で帰りを待っていたジェニーのほうが死ななければならないんだ。こんなことになるなら、軍に志願なんてしなければよかった。毎晩のようにそんな怒りと悲しみが浮かんできて、枕を濡らしていった。
けれども、覆水が盆に帰ることはない。ささやかな夢さえも失った俺は、空っぽになったままパイロットになり、本土での訓練を終え、ヨーロッパへと派遣され、今、ここで漫然とした暮らしをしながら、考え事をしている。
ノーズアートの絵柄にジェニーを選んだのは、彼女が死んでからもうすぐ2年になる今でも、あの時の後悔をずっと引きずっているからに他ならない。
一緒にいることを捨てて、死に目に会うこともしなかったくせに、未練ばかりはタラタラで、飛行機に絵を描いてまた一緒になったつもりでいる。ろくでなしのトレーナーめ、とあの世でジェニーは怒っているかもしれない。でも、俺が今の彼女にしてあげられることは、これくらいしか思いつかないのも事実だった。
俺が配属された先が、ヨーロッパではなく太平洋だったら、死んだジェニーへの手向けに日本軍をぶっ倒す、と考えることもできたかもしれない。けれども、俺が戦うことになったのは、それまで縁も所縁もなかったオーデンス。日本と同じ枢軸国ではあるが、だからと言って復讐心を向けるにはあまりに国同士の距離が遠すぎる。
今の俺の心には、イェーガー大尉の"ウルフパック"に対する、強烈な執着のようなモノは何もない。
ジェニーの仇討ちの機会さえ与えられることはなく、ただ寝て、起きて、戦っている。それだけの存在。なんともつまらない人間だなと自分でも思う。こんなつまらない奴が、ずっとこんな所で生きていていいのだろうか?
考えても、結局答えは出なかった。考え続けていれば出たのかもしれないけれど、その前に眠気に耐え切れなくなり、いつの間にか、俺はまどろみの中へと落ちていったのだった。
* * *
深い海原を思わせるような、一面の青が頭上に広がる。
そこに伸びている、おびただしい数の白い航跡。無数の4発爆撃機が空に描く飛行機雲は、何度見ても壮観なものだ。
俺たちの乗るサンダーボルトも、上昇を続けて飛行機雲の群れの一部となる。目指すは精鋭の巣食うオーデンスの蟻地獄、スマラクト。
この飛行機雲のうち、いくつが帰る時までそのままでいられるだろうか。その中に俺は入っているのだろうか。出撃するたび、俺はいつもそう考えていた。ヤバい所へ向かっているだけあって、今日はそんな考えがなおさら強く心を支配している。
空を飛ぶものは、いずれは地上に戻ってこなければならない定めにある。鳥も、飛行ポケモンも、飛行機に乗る人間も、それは変わらない。ただ、生きて地面にたどり着くか、空の上で死体となって地面に落ちるか。その違いはある。
ジェニーは、死体になって落ちる側になってしまった。愛機にジェニーを描いた俺は、そのどちらになるのだろうか。
オーデンスまでの長い道のりの中で、しばしそんなことを考える。電熱服を着なければ凍死必至の高高度の低温は、頭を冷やして物事を考えるにはうってつけの環境だ。
『レッド1より小隊各機へ、そろそろ敵の縄張りに入るぞ。周囲への警戒を厳にしろ!』
イェーガー大尉の声が、レシーバーに飛び込んだ。
『レッド2諒解』
『レッド4諒解です』
続けて、ゴフ中尉とビショップの声。
「レッド3、諒解!」
物思いにふけっていたせいで、答えるのが遅れてしまった。頭上の青空から、眼下に広がる雲の群れへと視線を移す。
目下に広がるは、オーデンスによって制圧されたヨーロッパの大地。雲量は少し多いが、地面を覆い隠してしまうほどではない。爆撃隊が困ることはおそらくないだろう。だが、そのぶん敵機に塗られた迷彩は有効に機能してしまう。厄介な状況だ。
考え事を心のポケットにしまい込んで、目を皿のようにしてあたりを見回す。仲間のものにしては離れている、低すぎる影はないか。飛行機雲を引いてくれていれば、少しは見えやすくもなるのだが。
『グリーン1より各小隊へ! エネミータリホー! 10時方向、低高度に8機!』
何分かして、別の小隊から敵機発見の報告が入った。
『……こちらでも確認した。全機、増槽を落として俺に続け! 門番どもを叩きのめすぞ!』
イェーガー大尉が叫んだ。燃料供給のセレクターを切り替え、行きの燃料が詰まった落下式燃料タンクを指示通りに投下する。
左前方のイェーガー大尉の機体が、左にロールを打って降下していく。すぐさま俺も続いて降下する。
敵機が見えた。こちらにはまだ気づいていないらしい。加速しすぎないようにスロットルを緩めながら、最後尾の1機に狙いをつけた。
320ノット。330ノット。重力の助けを借りて、サンダーボルトはどんどん加速していく。
図体のでかいサンダーボルトは、見た目通りのヘビー級ファイターだ。その重さを活かして上空から飛び掛かれば、ファイアローの如き強烈なダイブ攻撃を浴びせることができる。
見越しをつけて、照準を敵機の前方へ移す。敵機が照準器いっぱいの大きさになるまで引き付けて。
トリガーを引く。8連装の50口径機銃が、弾丸のシャワーを敵機に浴びせる。
命中。しかし、致命打にはなっていないようだった。敵機の後ろをすり抜け、操縦桿を引きながら後ろを振り返る。
格子状のキャノピーフレーム越しに、後続の味方機からの波状攻撃を受け、散開する敵機の群れが見えた。
1条の飛行機雲。小柄な機体に丸っこい機首。相手はオーデンス空軍のごく一般的な単発制空戦闘機、Bf109のようだ。双発戦闘機を使う"ウルフパック"ではないことは間違いない。
とはいえ、殺し合いをしていることに変わりはないので、安心はできない。追ってくる相手がいないことを確認してから、スロットルを開いて操縦桿をさらに引き、上昇へ移る。
パワフルなエンジンを心臓に持つサンダーボルトは、降下だけでなく上昇も得意だ。より小柄で軽いオーデンスの戦闘機だって、振り切ってしまうこともできる。追われていない今なら、再び相手の上を取るのはたやすいことだ。
イェーガー大尉機を再び視界に捉えた。同じように上昇していた大尉機は、再び敵機に狙いを定めて降下していた。
教本通りに、大尉機の後ろを取ろうとする敵がいないか探す。いた。1機、大尉機の9時方向から、狙いを定めて飛んでいる敵機が見えた。
やらせるものか。そいつを狙って降下する。さっきと同じように、加速して、狙いをつけて、撃つ。
命中。エンジンに当たったようで、敵機が黒煙を吹き出し始めていた。
引き起こしつつ後方確認。俺が撃った敵は、しっかりした舵取りで降下して離脱していく。これ以上の戦闘は無理だと判断したのだろう。
追撃はしない。する必要もない。撃墜スコアが増えなかったのは少し残念だが、俺たちの仕事は爆撃機の護衛だ。敵にとどめを刺せなくても、逃げ帰らせることができればこちらの勝ちになる。
上昇して周囲確認。戦闘は味方優位に進んでいる。炎を吹いて落ちていく敵機も何機か見えた。まあ、こちらは相手の倍の数で襲い掛かっているのだから、有利を取れないほうがおかしな話ではあるけれど。
3度目の攻撃を外して、3度目の離脱からの上昇をしていた時、その声はレシーバーに飛び込んできた。
『爆撃隊編隊長機より護衛戦闘機へ、至急、爆撃隊の直援を増やしてくれ! 今の直援では対処しきれない! 奴らだ、"ウルフパック"が来やがったんだ! 助けてくれ、至急だ! 一刻も早く――』
声は突然、激しいノイズとともに途切れる。何故? そんなのは火を見るよりも明らかだ。
『応答しろ! 繰り返す、応答を――チクショウ、一杯食わされたか!!』
イェーガー大尉の声が、舌打ちとともに響いた。
一杯食わされた。その言葉の意味を、俺もすぐに理解した。俺たちが戦っていた戦闘機は、おそらくは護衛戦闘機を爆撃機から引き離すための囮だったのだ。
『レッド1より全機へ通達! 爆撃機隊からのお呼び出しだ! レッド、ブルー小隊はこの場を離脱し、爆撃機の援護へ向かう! グリーン、イエロー小隊はここに残って、ここの連中の足止めを頼む!!』
大尉の声からは、焦りにとどまらない高揚がにじみ出ているようだった。宿敵との再会を、内心喜んでいるのだろうか。
「レッド3、諒解」
唾を飲み込んで、操縦桿を握りなおす。とにかく冷静でいようと思ってはいたが、声が震えているのが自分でもわかった。
『くそっ、来ちまったってのかよ……』
ビショップの毒づく声が聞こえた。昨日あれだけ脅されれば、そんな言葉が出てくるのも無理はないだろう。俺だって、手の震えを止められないままでいるんだ。
『これは任務だ。割り切れビショップ。行くしかない』
ビショップをなだめる、ゴフ中尉の声。作戦中に話すようなことでは本来ないけれども、そこを咎める気にはなれなかった。
俺と同じようなことを考えていたのか、あるいは早く"ウルフパック"と戦いたいがためなのか。厳格なイェーガー大尉も、私語のやりとりをする2人を咎めることはなかった。
爆撃機隊を視界に捉えた。彼らの飛ぶ空は、すでに飛行機雲の入り乱れる、美しき地獄へと姿を変えていた。
舞い踊る白い航跡の中に、1つ、また1つと炎が点り、黒煙が立ち上っていく。どうにかまっすぐ飛んでいるものもいれば、火の玉になって落ちていくものもいた。
『ひでえ、もうあんなにやられてやがる!』
レシーバーの向こうのビショップは、すでに震え声になっている。
『ビビるな、機体性能はこっちのほうがずっと上なんだ。編隊全員で、1機ずつ仕留める。いいな!』
『諒解っ……!』
イェーガー大尉の叱咤を受けて、ビショップの声に覚悟が満ちていく。
大尉に続いて、俺たちレッド小隊の4機は爆撃隊の許へ向かっていく。まっすぐには向かわない。爆撃隊の上を目指して上昇していく。相手より高度を高く取るのは、空戦のセオリーだ。
23,000フィート。24,000フィート。この空にいる誰よりも、サンダーボルトは高く昇っていく。
やがて、爆撃隊の飛行機雲と、戦いの炎を真下に見下ろす位置につく。
『タリホー、敵機は計5機、うち3機は味方護衛機と交戦中だ。誰も手を付けてないやつが2機、1時方向下方で上昇中だ!』
ゴフ中尉が叫ぶ。言われた通りの場所に目を向ける。
いた。爆撃機の真正面に、今まさに狙いを定め突貫せんとする双発機が見える。短い機首に、1枚の垂直尾翼。あの機体は、確かMe410――ペットネームはホルニッセといったか。昨日ゴフ中尉が口にした、"ウルフパック"にも配備されている新型双発戦闘機だ。
『先頭を狙う! 援護を!』
叫ぶや否や、ゴフ中尉機が反転し、降下を始める。ビショップ機がすぐに続き、少し間を開けてイェーガー大尉機が降下する。
いつも通りに、イェーガー大尉に続く。ゴフ中尉とビショップが先頭を、イェーガー大尉と俺が後続をそれぞれ狙う形になった。
案ずるな。いつも通りにやればうまくいく。そう自分に言い聞かせ、狙いを定める。徐々に距離が詰まり、大きくなっていく敵影。
見越しを付け、トリガーに指をかける。あとは引くだけ――
「……ッ!?」
風を切る音。風防の紙一重、頭のすぐ脇をかすめる曳光弾。
敵機の後部銃塔からの銃撃。このままでは奴にコックピットを撃ち抜かれる。攻撃を断念し、すぐに左のラダーを蹴って回避する。
操縦桿を引き起こして、敵機をやり過ごす。こちらが相手追い越す刹那、敵機の機首を一瞥する。
そこに大きく描かれていたのは、白い鬣。紅色の毛皮、赤い瞳の犬のような生き物の横顔。ビショップが昨日言っていた、真夜中の姿のルガルガンだ。
舌打ちをした。こいつらは、正真正銘の"ウルフパック"だ。
高度を犠牲に得た速度を、上昇して再び高度に戻す。もちろん、周囲の警戒は怠らない。
『やったぞ! 1機やった!』
ビショップの声がレシーバーに飛び込んだ。
先頭をやったのか。見上げると、上昇していくビショップ機の30ヤードほど下に、主翼から火を噴きながら上昇するホルニッセの姿が見えた。
機体はほとんど失速しているが、速度を回復するために機首を下げるような様子は見えない。操縦系統がすでに死んでいるようだ。
燃える敵機のキャノピーが吹き飛ぶ。そしてそこから、影がひとつ這い出してきた。
具体的な形は、煙に阻まれてはっきりとは見えない。それでも、頭の形が人間のそれとは明確に違っているのは分かった。そこで機体を操っているのは、イェーガー大尉が昨日言っていた通りに、人ならざる存在だったのだ。
人ならざるパイロットが、機体から身を投げる。緊急脱出。そのまま落下傘を開き、地上へ降りていくのだろう――と思っていた。
『逃がすかあぁぁッ!!』
響く声。イェーガー大尉のものだ。そして、声とともに曳光弾の軌跡が視界を横切る。
曳光弾の光が消え、降下していくイェーガー大尉機が視界を横切った後。人ならざるパイロットの姿はどこにも見えなかった。ただ、曳光弾の軌跡とともに、そのパイロットの身体が肉片と化して飛び散った――ように、俺には見て取れた。
『大尉! 何をやってるんですか!? 降下中のパイロットを射殺するのは軍規違反です!!』
ゴフ中尉が珍しく語気を荒げている。どうやら、俺が見たのは事実だったようだ。機体から飛び降りた人ならざるパイロットに、イェーガー大尉は銃撃を浴びせ、射殺したのだ。
飛行機から飛び降りたパイロットに、飛行機へ反撃する手段はないに等しい。それゆえに、脱出して降下中のパイロットを撃つのは、白旗を掲げた相手を無慈悲に撃ち殺すのに等しい残虐行為であり、たとえ相手が敵であっても許されることではない。規律に厳しいゴフ中尉にしてみれば、放っておくことはできない行為だろう。だが。
『そんなもんは人間同士のルールだ! ケダモノはルールなんぞ守りゃしねえ。殺すか、殺されるか、2つに1つしかねえんだよ!』
さらに強い語気で、イェーガー大尉はゴフ中尉に言い返していた。聞く耳を持つ様子はない。当然、ゴフ中尉もさらに反論を続ける。
『ここは狩場じゃない。戦場です! 戦争にもルールはあります、大尉が"ウルフパック"に怨恨を持つ理由は分かりますが、それでもやって――』
突然、ゴフ中尉からの無線が途切れた。
「ゴフ中尉!?」
俺は思わず叫んでいた。そして、ゴフ中尉機が飛んでいた方向を見る。
そこにあったのは、黒煙を噴き出す火球と、そこから剥がれ落ちていく残骸たち。そして、その火球のすぐ脇を通り抜けていく、1機のホルニッセだった。
そのホルニッセは、頭上に広がる青い空の中に、ずいぶんくっきりと浮かんで見えた。
何故か? なぜならば、その機体の末端――垂直尾翼とエンジンナセルが、空のもっと低いところに浮かぶ雲のごとく、真っ白に塗装されていたからだ。
『中尉が……中尉がやられた! やったのはアイツだ、"死神"だ!!』
ビショップの声が、ハウリングするほど激しく響く。
"死神"。イェーガー大尉の以前の仲間を皆殺しにした、"ウルフパック"のトップエース。そいつがたった今、目の前に現れ、ゴフ中尉の機体を火球に作り替えた。
それが意味することは、ただ1つ。
俺たちは、"死神"と戦わねばならないということだ。
『……待ってたぜ、"死神"! レッド3にレッド4! 援護しろ! 俺たちで"死神"を撃墜する!!』
怨敵と再会したイェーガー大尉の叫びは、高揚と喜びで満ち溢れているように聞こえた。
"死神"を捉えるために、スロットルを上げて上昇する。
だが、相手も高高度から降りてきて速度が乗っている。距離が思ったように縮まない。
このまま漫然と後ろから付いて行っても、後部銃塔の機銃でハチの巣にされるだろう。しかし降下すれば、切り返してこちらに襲い掛かってくるかもしれない。
どうする。考えている時間はない。空戦は即断が鉄則だ。戸惑えば、それだけ敵に隙を晒すことになる。
『俺がまず牽制する! レッド3と4はその隙に高度を取れ!』
イェーガー大尉が叫ぶ。よかった。おかげで判断がついた。
"死神"のホルニッセから機首をそらす。けれども、視線は外さない。
左に旋回した俺に反発するように、"死神"はゆっくりと右へ旋回していく。向こうも仕切り直しをかけるつもりでいたらしい。
そこに、"死神"へ曳光弾の雨が横殴りに降りかかった。上を取っていたイェーガー大尉機の攻撃だ。
"死神"は機体を大きく右へ横滑りさせて、その攻撃をかわした。鈍重な双発機であれだけ的確な回避ができるなんて。噂に違わぬフライングエースであることは間違いないようだ。
だが、あれだけ激しい横滑りをさせれば、機体は急激に減速する。チャンスだ。逃すわけにはいかない。速度も十分。機体を右へ切り返して、"死神"を捉えに――
『メーデーメーデー! こちらレッド4! 後ろに付かれたッ!!』
……チクショウ、ビショップのドジめ!
「レッド4、援護するから待ってろ!」
右へのロールを、機体がひっくり返るまで続ける。見えた。2時方向で、ビショップ機が追ってくるホルニッセを降下で振り切ろうとしている。ケツについているのは、おそらく俺がさっき撃ち漏らした奴だろう。
すぐさま、そいつに狙いをつける。悠長にスロットルを絞ってはいられない。エンジン出力と重力の2つの力で、サンダーボルトを邁進させる。頑丈なコイツなら、手荒に扱ってもそうそう壊れたりはしない。
猛然と迫るホルニッセ。こちらに気づいたか、再び胴体側面の後部銃塔がこちらを向いた。だが、もう遅い。
トリガー。50口径の徹甲焼夷弾が、ホルニッセの主翼内側の燃料タンクを撃ち抜いた。
哀れな"ウルフパック"のホルニッセが炎に包まれる。これは間違いなく致命打となっただろう。引き起こして、後ろを見た。激しい炎は、容赦なく機体を、そしてその中にいるパイロットを焼き尽くしていく。火の手はすでにコックピットにまで回っていた。あれでは助かるまい。
『助かったよレッド3……今日は帰ったら1杯おごるぜ』
ビショップの声。最近懐の中身が少し寂しいし、おごってくれるのは大歓迎だ。だが。
「ああ。けれどもまずは帰れるように敵を片付けるのが先だ。早く大尉に合流して"死神"を――」
そこまで言って、俺は気づいた。気づいてしまった。
俺が撃ったホルニッセ。そいつの動きがおかしい。
コックピットが火の海だというのに、そいつは整然と飛ぶのをやめていない。普通は中身がやられて、制御を失い落ちていくはずなのに、奴は飛び続けている。安心して機首を上げ速度を高度へ変えようとしている、ビショップ機の無防備な背中を追っているかのように。
何故だ? 燃えるガソリンを浴びた人間なんて、ほんの数分だってまともには――
いや、違う!!
そう、今まで俺は、あのホルニッセを動かしているのは"人間"だと無意識に考えてしまっていた。
こいつらは、"ウルフパック"は、そうじゃない。"ウルフパック"は、パイロット全員がポケモンなのだ。ポケモンの中には、炎に強い耐性を持っているやつだっている。もしあのホルニッセのコックピットに座っているのが、そういうポケモンなのだとしたら。
きっとそいつは、機体の制御系が燃え尽きるまで、機体を動かせるはずだ!!
「ビショップ回避しろッ!! 後ろの奴はまだ死んでない!!」
コールサインで呼ぶのも忘れて、俺は叫んでいた。
『は!? なんだよそれ! それってどういう――』
ビショップの返答は、激しいノイズにかき消された。
俺が事実に気づいたときには、何もかも手遅れだった。燃え盛るホルニッセは、さながらフレアドライブを使うウインディのごとく、ビショップ機めがけて体当たりしたのだ。
すでにそこには、2機の飛行機の姿はない。燃えながらバラバラになって落ちていく、大量のジュラルミンと、その中に詰まっていた鉄やガソリンやゴムや肉なんかの破片があるだけだった。
――チクショウ、どいつもこいつも狂っていやがる。
俺は心の中で毒づいた。奴らを"ケダモノ"と、人間のルールなど守らないと、罵っていたイェーガー大尉の言っていたことを、俺は初めて理解できたような気がした。
『レッド3、上だッ!』
大尉の声が突然響いた。ビショップ機とホルニッセだったものに気を取られていた俺は、すぐさま言われたとおりに上を見る。
見えたのは、重力に身を任せ襲い来る双発機の姿。そして、そこから降り注ぐ曳光弾の雨。
回避。機首上げしつつ、右へロールする。
避けきれない。機体に衝撃が走る。被弾した。
だが、身体に異常はない。ややばかりバランスが崩れているが、操縦桿もラダーペダルもちゃんと効いている。幸運なことに、致命打を避けることはできたようだ。
真っ逆さまになった世界の中で、俺は俺を撃ってきた奴を探す。
いた。白い垂直尾翼。白いエンジンナセル。"ウルフパック"のトップエース、"死神"。
……くそったれ。くそったれくそったれくそったれ!!
ロールを続け、バレルロールを描きながら無我夢中で機首を"死神"に向ける。
"死神"は降下して、こちらの追撃から逃れようとしている。ふざけやがって。ここからだったら、サンダーボルトのパワーなら追いつける。逃げようったってそうはいかない。一撃で殺せなかったことを後悔させてやる。
"死神"を照準に収めた。後方、やや斜め上からの攻撃。まだ距離は遠いが、お構いなしにトリガーを引く。
後部銃塔が反撃してきた。それでもお構いなしに、俺は相手に向かってトリガーを引き続けた。銃弾が何発かコックピット正面の防弾ガラスに当たって、亀裂を作っていく。何発かは俺の身体をかすめていったようで、鋭い痛みが顔や肩に走る。
だが、撃ちあいはこちらの勝利だ。俺の放った銃弾は、"死神"の右主翼に、右エンジンに、そしてコックピットに命中する。
"死神"の右エルロンが吹き飛び、右エンジンが黒煙を噴き出し、コックピットが紅く染まるのが見えた。
銃塔は沈黙した。パイロットはやれたか? いや、機体はまだふらつきながらも整然と飛んでいる。当たったのは後部銃手だけだったらしい。燃料に引火もしなかったらしく、炎上もしていない。
なら、次でとどめを刺してやる。ほぼ真後ろから相手を照準に捉え、撃つ。撃ち続ける。
銃弾は尾翼を打ち砕き、さらに"死神"の動きを鈍らせる。所詮はこいつも生き物だ。殺すことはできる。絶対に。
消えろ。落ちろ。何が"死神"だ。死ぬのはお前だ。死ね。死んでしまえ。死んでくれ。
恐慌を右手に込めているうちに、俺は引き金を引いているのに、銃弾が飛び出していないことに気が付いた。弾切れか。それとも給弾不良か。チクショウ。あと少しなのに。あと少しで、この"死神"をあの世に送り返してやれるのに!
『よくやったレッド3! お前は退け、俺がとどめを刺す!!』
イェーガー大尉の声がする。そうだ。奴は大尉の因縁の相手。とどめは彼に譲ってやるのがいいだろう。
どのみち、弾が出ない機体では何もしようがない。弱らせたのは俺だから、共同撃墜でスコア0.5機分は俺ももらえるはずだ。
俺は右へ機体を傾け、イェーガー大尉に道を譲る。操縦桿を傾け、左のペダルを踏んだ瞬間、カメラのフラッシュのような薄紫の光が、満身創痍の"死神"のコックピットに見えたような気がした。
"死神"めがけ、イェーガー大尉機が上空からウォーグルのように襲い掛かる。
大尉の放った銃弾が、"死神"に鳥ポケモンを打ち砕く岩雪崩のごとく降り注いだ。
"死神"の右エンジンが火を噴く。火はすぐに止まったが、右エンジンのプロペラは完全に静止した。
それでもなお、"死神"は死ななかった。まだ、機体を必死に水平に保っている。だが、もう回避機動をするのは無理だろう。
下降して離脱したイェーガー大尉機は、今度は上昇に移って、再び"死神"を狙う。この一撃で、奴ももうおしまいだ。大尉もきっと満足だろう。仲間の仇を、ここで討つことができて。
『くたばれ! "死神"ィ!!』
狂気と狂喜を孕んだイェーガー大尉の声が、空に響き渡った。
イェーガー大尉がトリガーに指をかけたであろう、その瞬間。
大尉機を、突如薄紫の光が包んだ。
光の瞬きに、思わず瞬きをする。
瞼を開けたその時。
ドラム缶のように太ましい大尉のサンダーボルトは、まるでトラックに踏みつぶされた缶詰みたいに、ぺしゃんこに潰されたジュラルミンの塊になっていた。
「……"未来予知"」
落ちていくサンダーボルトだった塊を見ながら、俺は思わずつぶやいていた。
俺が離脱するときに見たカメラのフラッシュみたいな光の正体は、きっとこれだ。時間差で相手に念動力を送り込む、エスパータイプの大技。あの"死神"は、その技を使って、完全に勝ったつもりになっていた大尉を返り討ちにしたのだ。
真後ろを取った敵の位置を的確に予想して、そこに念動力を送り込んだ。俺はポケモンじゃないから詳しいことは分からないけれど、そう簡単にできることではないであろうことは理解できる。
やはり、奴はとんでもない、"死神"の通り名にふさわしい、文字通りの人外のエースだ。
こちらが撃てなくなっていなければ、奴が満身創痍でなければ、俺はまだ戦いを続けていただろう。だが。
俺は周りに"死神"以外の敵機がいないのを確かめてから、機体を横滑りさせて、"死神"の右横に持っていく。
何もできないなら、せめて確かめたかった。"死神"とやらが、どんな顔をしたどんな奴なのかを。
かつてのイェーガー大尉と同じように、俺は仲間を皆殺しにされた。けれども、戦いが終わって俺の中に浮かんできた感情は、大尉の抱いていたような憎悪ではなかった。
浮かんでいたのは、畏怖に裏付けられた敬意だ。なぜだか、仲間が死んだ悲しさ、悔しさより、そいつを見てみたい、知りたい、という感情のほうがより強く俺を突き動かしていた。
ふらふらと飛ぶ"死神"の機体に、俺は可能な限り機体を寄せる。
おおよそ15ヤードくらいだろうか。壊れたエンジンから飛び散った煤やオイルで黒ずんでいる、ルガルガンの部隊マークがはっきりと見える。ここまで来れば、コックピットの中も見えるだろう。
俺は目を凝らして、"死神"の姿を確かめた。
鉄格子みたいな風防のフレームがややばかり邪魔だったが、座って肩で息をしているパイロットの姿がどんなものかを見ることはできた。
最初に目に付いたのは、しなった弓のような、三日月のような形の角だ。一部は頭の影に隠れて見えない。左の側頭部から生えているようだ。
顔つきは人間に近いが、肌は深い海のような紺色に見える。そして、まるで髪の毛のように、顔を避けて生えている毛皮は、高山に降り積もる万年雪のような銀色をしていた。
嘘だろ。
そう思った瞬間、コックピットの"死神"が、こちらを向く。
目と目が合う。故郷に咲き誇るハイビスカスのような赤い瞳から、俺は目をそらすことができなかった。
「――アブ、ソル」
口から出たのは、俺が出会いたかった、仲間にしたかった、一緒に雲を見下ろす景色を見たかった、憧れのポケモンの名前だった。
刹那、"死神"が左へロールする。
待って、と俺は手を伸ばした。
だが、その手は透明な強化樹脂の風防に阻まれる。
ロールした"死神"は、そのまま眼下の雲の海へと、吸い込まれるように降下していく。
俺はその光景を、ただ1人、静かに見ていることしかできなかった。
* * *
あの日から5日が過ぎた。
わずかな損失で生還した他の小隊にくっついて、俺はどうにか基地まで戻ることができた。"死神"の後部銃塔に負わされた傷は俺が思っていたより深くて、1日を病院で過ごす羽目になったが、予後は良好ですぐに任務に戻れるだろう、とのことだった。そうして、今は基地に戻って部隊の再編を待っている。
俺を基地まで連れて帰ってくれたサンダーボルトは、大した傷もなかったようで、今はすっかり元通りになり、いつも通りの不細工な巨体を地面に横たえている。機体の前半分を銃弾がきれいに避けているさまを見て、塗装工のジャンは「この子が守ってくれたんですね」と、ジェニーの絵を指さして言っていたっけ。
確かに、あいつは天国から俺を導いてくれていたのかもしれない、と思う。あいつと一緒に考えた夢を、アブソルと一緒に、雲を見下ろす景色を見るという夢を、俺は叶えることができてしまったのだから。もっとも、場所はラナキラではなくオーデンスのスマラクトだし、そいつを仲間に加えることもできなかったのだけれど。
ビショップやゴフ中尉、イェーガー大尉には悪いかもしれないが、俺は今になっても、あの"死神"と呼ばれているアブソルを憎むことは自分でも不思議なくらいにできていない。イェーガー大尉はずっとポケモンを討伐し、征服して生きていた猟師だったが、俺は曲がりなりにもポケモンと共に冒険し、共に生きてきたトレーナーだったからなのだろうか。そう考えているが、まだ確証は持てていない。きっと、確証を持つにはもっと長い時間が必要なのだろう。
駐機場に出された愛機を眺めながら、煙草を吹かす。今日も俺はそうやって過ごしている。怪我はまだ完治していないし、部隊の補充と再編もまだ終わっていない。ゆえに出撃したくてもできない状況が続いているから、こうすることくらいしかすることがなくて暇でしかたない。
本の1冊でも買って、それを読んでみようか――そんなことを考えていた時、何者かの視線を感じた。
4時方向を振り返る。人の目線の高さには、ただ何もない空間が広がるばかりだった。だが、少し目線を下にずらすと、感じた視線を向けていた正体の茶色い毛玉が、そこにちょこんと座っていた。
「……ああ、ベスか」
ベスは煙草の匂いが嫌いなんだ。そう口うるさく言っていたビショップのことを思い出す。俺は煙草を捨て、足で踏んで火を消した。それを見届けると、ベスはすぐさま立ち上がって、とことことこちらへ寄ってくる。
寂しそうに鼻を鳴らすベス。そういえば、ベスに会うのは6日前の夕方以来だった、と思い出した。ビショップはどこだ、と言っているのかもしれない。
「……ビショップを探してるのかい? あいつは――」
さて、どう言ったものか。俺は悩んだ。本国でビショップの家族に報告へ向かった、後方勤務の連中はこんな気分なんだろうか。そんな考えが浮かんで消える。
「……あいつは、遠い所へ行っちまったんだ。もうここへは帰ってこない。寂しいけどな」
結局、そんなお茶を濁すような言い方しか俺にはできなかった。
ベスは寂しそうなまなざしを見せる。俺の言葉の本当の意味を理解しているのかは分からない。
けれども、ベスは言葉の意味を理解していない、と思うことは、俺にはできなかった。俺よりも先にこの基地に住んでいるベスのことだ。きっと、空に行ったまま帰ってこなかった奴を、これまでにだって何度も見ているはずだから。
ふと、5日前に見た"死神"のことを思い出した。
俺と目が合った時の"死神"も、こんな目をしてはいなかっただろうか。不条理に周りの奴らが死んでいって、自分だけが不条理に生き延びてしまう、孤独な寂しさをたたえたこんな目を。
あの日、寮機をすべて失ったのは、俺だけではなく"死神"も同じだった。イェーガー大尉だって言っていた。"死神"は寮機を全滅させても、そのたびにたったひとりで大勢の連合軍機を食い殺してきた、と。
良い奴、立派な奴ばかりが死んでいって、ろくでなしの自分ばかりがなぜか生き延びる。そんな不条理なことがあっていいものか。
根拠のない思い込みでしかないが、そんな俺と同じようなことを"死神"もまた考えているのかもしれない。そんなことを考えた。
不条理に取りつかれ、不条理に生かされている。そんな似た者同士だからこそ、俺はあの"死神"に、あんなにも心惹かれたのかもしれない。もしかすると、今の俺も、あの時の"死神"と同じような目をしているのかな。
軍隊に入ったトレーナーに、故郷に置いて行かれたジェニー。大学で生物学を学びたかったビショップ。妻子を残して戦地へ出たゴフ中尉。"死神"を殺すという、生きる目的があったイェーガー大尉。
そんな奴らがみんな死んで、ただ漫然と生きているだけの俺が生き延びている。まったく何という不条理だろうか。
でも、そんな不条理の中で、俺は今まで取りつかれていた漫然さを捨てることができたかもしれない。
あの日から、俺には新しい夢ができた。いつかまた、あの"死神"に会いたい。できるならば、戦いの空ではなく、平和になった大地の上で。
なにせ今は敵同士だから、貧乏だった子供の俺が島巡りを制覇するよりもずっと絵空事な夢かもしれない。次に出会える時まで、お互い生きているという保証さえないのだ。
でも、それでも、俺は心の片隅にこの夢を抱き続けたいと思っている。不条理さに翻弄されて夢をなくしていた俺が、久方ぶりにつかんだ夢なのだから。
これからもきっと、俺は何度も不条理にさらされるだろう。でも、不条理がもたらしてくれたこの夢は、不条理に立ち向かう力になってくれるだろう。俺はそう信じている。
ベスがふと空を見る。つられて俺も空を見た。曇り空の多いこの国だけど、今日は珍しく一点の雲もない快晴の空が広がっている。
この空と同じ空、吸い込まれてしまいそうなほど美しい、青い、青い空を、あの"死神"もどこかで見ているのだろうか。
「……綺麗な空だな。お前もそう思うだろ? なあ、ベス……それと"ジェニー"、あんたもさ」
そう言って、俺は翼を休めている新しい相棒――サンダーボルトの"ジェニー"を眺めた。
機首に描かれたドデカバシの目が、誇らしげにこちらを見つめ返しているような気がして、なんだか照れ臭かった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。