月。月が夜空で光ってる。
「明日じゃん、明日」
「明日だね」
「もう明日になっちゃいそうだし」
「さすがにそんなに時間経ってないよ」
「感覚的には」
「周り暗くなっちゃったしね」
屋上、誰もいない屋上。錆びついた手すりに体を預けて、髪を揺らす冷たい風を浴びてる。体、冷えちゃってるな。頭の中とは大違いだ。上は洪水下は大火事、これなーんだ? って謎々みたいな。あれ正解お風呂だったっけ。お風呂入りたいな、ちょっとぬるめのお風呂。緊張してるときって余計なこと考えちゃうんだよね、なんでだろ。
緊張してる、そう。ウチは今緊張してる。
「あっという間だったね、凛花」
「だね。っていうかさ」
「ん?」
「さっき結衣が言った『あっという間』ってさ、なんで『あっ』なんだろうね」
「あれだよ、『ふえっ』とかだと締まらないからとか」
「ふえっという間に」
「ほら、なんか締まらない」
「あーうん、口に出してみて分かった」
「でしょでしょ」
「まあ『あっ』でもあんま締まらない気がするけど」
よその人が聞いたらどう思うかな、ウチと結衣の会話。どう思われたっていいか、これは結衣とウチの話だから。ウチらがこれでいいんだって思ってれば、後はもうどうでもいい。プラスマイナスゼロ、足す必要も引く必要もないんだ。
でも――それはそれとして、ここから引かなきゃいけないものもあった。
「あのさ」
「うん」
遠くでさ、月が輝いてるんだ、さっきも言ったみたいに。今日は雲もないしよく見える。キラキラしてるのが分かる。でもそれよりもっと、もっと強く輝いてるの。
結衣が。ウチの目の前で、ほんとにすぐ目の前で。
ぽうっと柔らかい光を纏ってる。少なくともウチには光が見えてる。そんなことないはずなのにな、でもそういう風にしか見えない。なんかこう、住んでる世界が違うみたいだ、地上の人間と天上の民みたいな。
「いろいろ考えてさ、その」
これから先、冗談じゃなくてマジで別の世界で暮らすことになるんだけど。
「ひとつ、伝えとかなきゃって思って」
完っ全に別の世界、簡単に行ったり来たりできないくらい、遠く離れたところへ行っちゃうから、だから。だから、言わなきゃ。
「えっとさ、その。あんまり、いいことじゃないかも知れないけどさ」
自分なりに覚悟を決める。ちっぽけなウチにだって、覚悟ってやつがあるんだ。
「でも、聞いてほしい。結衣に聞いてほしい」
これがきっと、最後になるから。
*
「月、行くことになったんだ」
ざわつく教室の音が、ほんの一瞬すべて消えて。
喉の奥から「えっ」って声が出た。たぶん顔も「えっ」って感じのやつになってる。「えっ」って感じの顔ってどんな顔だよ、自分で思って自分で突っ込む、セルフボケセルフツッコミ。独りで全部自己完結するひとりコメディアン。コメダ行きたいな、シロノワール食べたい。
そういうんじゃないんだよ、今の話は。そういうのじゃないの。
「月? マジで?」
「マジだよ、マジ」
「結衣がマジとか言うの合わない」
「えー」
「合わない」
「わたしだって言うよー、それくらい」
言うのか、今まで聞いたことない気がするけど言うんだ、結衣も「マジ」とかって。
椅子の背もたれに身を預けてぐーっと伸びをしてみる。なんだろ、現実味がないな。結衣から言われた言葉に。結衣はウソなんて付かないからホントのことなのに、冗談か何かじゃないかってしか思えない。けど、冗談で言ってる感じじゃない。マジだって言ってたし。似合わない「マジ」って言葉まで使ってたし。
だから……アレだ。結衣の言ったことは、どうやら事実ってヤツみたいだ。
「月、かぁ」
「うん、月」
「アレだよね?」
「あれって?」
「ほらほらアレアレ、最近テレビとかで言ってるやつ」
「あ、分かった。イミグレ?」
「それそれ。イミグレなんだ、結衣」
「そういうこと。最初のグループに当たったってお父さんが言ってたから」
「あのさあのさ、イミグレってさ」
「うん」
「イメトレっぽくない?」
「最初と最後しか合ってないよ」
「それ同じだったら実質一緒じゃん」
「ちょっと雑過ぎない?」
「これくらいでいいっていいって」
お喋りのノリ、いつも通り。見てくれもきっと普段と変わらない。
けど、中身まで昨日までと、或いは一時間前までと同じかって言われたら、違う、って返すしか無くて。
「そっかぁ、結衣がなぁ。月行っちゃうんだ」
「ちゃんと言わなきゃって思って」
「結衣はキッチリしてるね、うちだったら言うのズルズル伸ばしちゃいそう」
「言うなら早い方がいいしね。昨日お父さんから『友達に言ってもいい』って言われたし」
「なるほどねー。いつ行くの?」
「うーんと、来月の終わり頃。向こうの学校に通うから」
「一ヶ月くらいかぁ。できれば一緒に卒業したかったなー。あと一年だったんだけど」
あと一ヶ月で結衣は月へ行く。旅行とかじゃなくてイミグレ、移民として月へ行く。地球を離れて月で暮らすってこと。
「マジでさ」
「マジで?」
「マジでかぐや姫になっちゃったね、結衣」
「マジでかぐや姫だね」
「マジでさ、やっぱり結衣が『マジで』って言うの似合わない」
「マジで、くらいわたしも言うってば」
「マジで似合わない、全然噛み合ってないって」
「マジでマジで言い過ぎだよ」
「マジでお互いさまじゃん、どっこいどっこい」
言い換えれば、この地球から結衣が居なくなる。
ウチが結衣に言われたことを別の言葉で言い表すなら、そういうことでもあるんだ。
一つのケージにネコは一匹しかいられない、虫かごに百匹の虫を入れることはできない、水槽で千匹の魚は飼えない。どんな住処にだって、そこにいられる生き物の数には限度がある。
それは地球だって変わらない、同じこと。
総人口が八十億人を突破したのはいつだったっけ、なんかもう割と前のことだった気がする。八十億人ってやばくない? やばいと思う。一人からたった一円ずつ集めただけでも八十億円になるし。八十億だよ? 何でも買えるじゃん。ヤマダ電機行ってさ、お店の隅から隅までぜーんぶください、って言っても余裕で余るっしょ。想像できなくない? ウチは想像できない。
まあそんだけ居たらさ、地球だっていっぱいいっぱいになるよね。天気とかも訳分かんないことになってきてる。今年はまだマシだけど去年の冬はめちゃくちゃあったかかったし、かと思うと真夏にいきなり雪が降ったりして。夏の雪、やばいよね。まだ陸上やってたらくっそ寒い中練習する羽目になっちゃってただろうし。見てる分にはさ、結構お洒落じゃんとか余裕かましてられるんだけど。
定員オーバーしたエレベータは上にも下にも行けない、荷物を積み過ぎの車は前にも後ろにも走れない。細かいことは分かんないよ、環境がどうなってるだとか、資源がどうなってるかとか、そういうことまでは知らない。でも、一つ言えることはあるんだ。
我らが地球、もう限界っぽいっていうか、オワコンっぽいみたい。
去年に比べればマシだけど、コートいらないよなー、ってくらいの寒いとは言えない外気に包まれながら歩く。空は灰色、白っぽい灰色。雲が出てるからだろうけど、完全に空を覆ってる。セカイの終わりっぽい、滅ぶときってこうやってゆっくり緩やかに滅んでいくんだろうな。世界終末紀行、続き読みたいな。今度買いに行こうかな。
「で、月へ行くってワケ」
不幸中の幸いっていうかなんていうか、対策は打ってる。地球がヤバいなら他の場所に住めばいいじゃないって感じの。地球の他に行けるところは結構あった。偉い人、頭のいい人、でっかい企業、すごい研究所、その辺がわらわら集まって、こんな日のためにいろいろ準備してたらしい。
そのひとつが、月、だった。
さっき結衣と話してたイミグレってあるでしょ。辞書引いてみたら「移民」って書いてあった。結衣は月への移民第一グループに入って、宇宙船で月へ行くことになった。呼んでる人、追い付いた? これが今のウチと結衣の有様ってやつ。
ああごめん、まだ一個話してないことがあった。結衣のことはコレで全部だけど、ウチのことがまだ足りてない。
「ウチは出られないんだよね、宇宙に」
空を見上げて吐いた息は、今の空模様みたいな色をしていた。
人間を宇宙へ出しましょうって話は前々から出てて、去年くらいから本格的に仕込みが始まったって感じ。そのひとつに、簡単に言うと「宇宙に出ても大丈夫か」を確かめる身体検査みたいなのを全国で一斉にやることになった。こういうの一斉にやるんじゃなくてちょっとずつずらせばいいのに、なんでか分かんないけどみーんな一緒にやろうとするんだよね。どーいう理屈なんだろ。
もちろんウチもそれを受けた。学校の体育館に仕切り作って、なんかこう聴診器みたいなのを当ててチェックする感じ。一人二分くらいだったかな、自分の番が回ってくるまで思ったよりも待った気がする。どーせみんなと変わらない、あの時はたぶんそう思ってた。
けど違った。ちょっとだけ……いや、かなり違ったんだ、ウチの結果は。
「坂上さんは、宇宙線に弱い体質ですね」
検査が終わったその場でおばちゃんのセンセーから言われた時は、ふーん、あっそう、って感じで終わった。宇宙になんて行くつもりちっともなかったし、地球の方が居心地いいじゃんってナチュラルに思ってたから。
読んで字のごとく、うちのカラダは宇宙線にちょっと弱くて、少なくとも今の技術じゃ宇宙に出るのは良くない、っていうかヤバい、らしい。なんかこう、千人に一人くらいはそういう人がいるそうだ。千人に一人かぁ、割とレアかもしれない。こういうのじゃなくてもっとこう、コンビニのくじでお菓子の無料券当てるとか、そういう方向でレア引きを発揮したかったんだけど。
地球で暮らす分には全然問題ない。病気とかじゃないし、運動とかもご自由にって感じ。センセーからは、ウチと同じ体質でプロのアスリートやってる人もいるって聞いた、なんかこう慰めっぽい感じのトーンで。別の理由で運動はしないんだけどな、ウチは。そう思いながら聞いてたっけ。
宇宙には出られません、ってことで、ウチは地球で生きてくってことになる。地球はオワコンって言ったけど、それは今のままぼーっとしてればの話。人の数を減らしてあれこれ手を入れれば、まあなんとかなるっしょとは言われてる。人を減らすには外に出しましょうってわけで、月とかに移動するのが始まったって流れ。ホントにどーにかなんのかな、あんまりそんな気しないんだけど。
なんでだろうな、未来が曇り空に見えてるのは。
「月かぁ、遠いなぁ。新宿より遠い」
わざわざ言うまでもなく地球から月までは遠い。家からぼんやり見えるスカイツリーまでもすっごい遠いのに、月ってもっと小さいじゃん、ここから見たら。それはイコール滅茶苦茶遠いって事。ちょっとお出かけ、って感じのノリじゃ到底行けない場所にある。新宿とかに出るのも結構大変なのに、そんなんとは比べ物にならないんだもん、ちょっと想像つかない。
半端なく遠いってことは、だ。半端なく遠い場所に行くための乗り物に乗ってかなきゃいけないわけで、そういうのは動かすのが大変って相場が決まってる。スパッと言うと、いっぺん月へ行ったらそう簡単には戻ってこられないってわけ。ウチもウチで、もっと宇宙船が宇宙線に強くなるまで待たなきゃいけないから、たぶん向こう二十年くらいは宇宙になんか行けない。そんだけ遠いってことは通信とかも大変で、まだ簡単にはできないとかテレビで言ってた。気が遠くなるくらい遠くで、連絡もろくすっぽ付かなくて、ウチには足も踏み出せない場所。
そこへ行っちゃうんだ、結衣は。
ちくりと足が痛んだ。寒いからかな、古傷が疼くってきっとこういう感覚なんだ、って自覚する鈍い痛み。なんだろな、寒いからかな、今冬だし。でもコート要らないくらいだし、刺すような冷たさって言うには頼りないレベルに過ぎない。うん、ホントは分かってる、分かってるんだ。
痛みの大元は、ココロにあるんだ、って。
*
今まですぐ近くにあったものは、目の前から無くなってみて初めてその重みとか大事さとかに気付く。なんかさ、ドラマとかマンガとかでこういう台詞ポンポン出てきてるからさ、ほんとなの? って思ってた。ただの決まり文句みたいなもんでしょ、拝啓何々様みたいな定型文みたいもんでしょ、そんな風に思ってた。
違うんだな。ホントのことだったんだ、無くなってからやっとその大切さに気付かされて、ココロがズキズキ痛むっていうのは。
「歩けるようにはなった、けどさ」
この間までガッチリ着けていたギプスは取れた。脚が風を感じてるのも分かる。でも、前までのそれとは何かが違う気がする。ずっと一緒だった脚が取り外されて、見た目だけ同じ別のものをくっつけられたような気分。気持ちとか気分とかでしかないって頭じゃ分かってるけど、人間って気持ちで生きてるじゃん。気持ち次第で元気になるし鬱にもなる。だから、思い込みだって切り捨てることはできなくて。
なんだろうな、青信号になったの見てから歩いたんだけど、それで車に轢かれるって意味分かんないな。脚がよくない方向に折れて、この世の終わりかと思うくらい痛かった。なんとか繋いでもらって、歩いたり小走りしたりでフツーに生活する分には支障なくなった、けど。けど、もう全力は出せなくなった。前みたいに限界目指して突っ走るなんてことはもう二度とできなくなっちゃったわけだ。
すっごい辞めたいって思ってた時もあったんだけどね、陸上部。こうやっていざホントに辞めてみたら、ビックリするくらい無気力になった。ココロにぽっかり穴が開いたようって言い方あるけどさ、あれも大げさとかじゃなくてマジだったんだね、マジ。胸に大きな穴開いてるんじゃないかって鏡見ちゃったもん、もう五回か六回は。物理的に穴空いてたらこんなところに居るはずないって、これまた頭では分かってる。分かってるんだけど、ココロが付いて来ないんだ。
「走ること考えなくなったら、何考えたらいいのか分かんないや」
走って走って、また走って。ちっこい頃から駆けっこ好きだったし、中学入ったら即陸上部入ったし。二年になってエースっぽい感じになって、三年からは最後の一年全力で突っ走るぞ、って思ってたらコレだもん。春の大会前に再起不能になっちゃうとかさ、神様って何考えてんのか分かんないや。結構、いや、割と本気でやる気になってたから、その気持ちがみるみるうちに萎んでいくのを感じてただツラかった。
歩けるくらいには回復したし学校にも普通に通えるようになったけどさ、こんなんであと一年どう過ごせって言うんだろう。もたれかかった手すりは冷たくて、風雨に晒されてあちこち錆びついてる。今のウチの心の持ちようみたい。怪我をして脚が思うように動かなくなって、なんだか、こう。ウチはもう何処へも行けなくなったんじゃないか、そんな気持ちでいっぱいになってて。
「屋上は、立ち入り禁止ですよ」
「えっ」
おセンチになってたところにいきなり横から声を掛けられたから、思わず「えっ」って声が出た。「えっ」ってなっただけじゃなくて「えっ」って声が出た、声が。目の前の状況を飲み込むのに数秒、飲み込んでから落ち着くまでにまた数秒。次の言葉が出て来たのは、呼び掛けられてから五秒か六秒は経ってからで。
「いや、何してるの」
「屋上にいるのが見えたから、つい」
「や、ついって」
「帰らないんですか? もう下校時刻ですよ」
「そりゃそのうち帰るけど……でも、そっちは」
「わたしはクラス委員ですから」
「クラス委員だっけ」
「知りませんでした?」
「あんまり意識したことないかな」
「じゃあ、覚えてくださいね。クラス委員の竹原です」
竹原、苗字を言われて名前も思い出した。竹原結衣、確かにクラス委員だ。なんで憶えてたんだろう、クラスメートの顔と名前なんてちっとも憶えてなかったのに。この竹原結衣って子だけはスッと出て来た。
「っていうか、竹原さんどうしてここにいるの」
「みんなが帰るのを見届けるのが、クラス委員のお仕事ですから」
「そんな仕事あったっけ」
「わたしなりに考えた仕事です」
ヘンなの。すっごいヘンだこの子。ウチが知ってる子の中にここまでヘンな子はちょっといない。全然絡みの無かったウチにしれっと話しかけてくるのもそうだし、話し掛けて来た理由が「クラス委員はみんなが帰るのを見届けるのが仕事だから」だもん。絶対ヘンだよ、変わり者の空気がビシビシ伝わってくる。変わり者、かわりもの。今にもウチの姿に変身でもしそうだ。いやしないけど。
だけど、だけどさ。なんかこう、学校来て久々に口を開いて他人と話したら、ずーんと底に沈み切ってた気持ちが、ほんの少し――ほんの少しだけだけど、ふわっと浮いたかなって、そんな感触を覚えた。
竹原さん。なんでウチに話し掛けてきたんだろう。いやクラス委員で帰りを見届けるって言ってたからそれが理由だって頭じゃ分かってるんだけど、なーんかそれだけじゃないような気もしてる。頭の中で考えてること、心の中で思ってること、ピタッと一致してるようで実は案外一致してない。ウチはそれがしょっちゅうある。今だってそうだ。竹原さんが話しかけてきたワケを、直截聞いた理由以外のものからアレコレ探してる。
「うん、思った通りだった」
「何が?」
ああでもないこうでもないってぐだぐだしてたから、隣の竹原さんがいきなり「思った通りだった」とか言ったことに上手く反応できなかった。かろうじて出て来たのが「何が?」っていう味気ないコトバ。でも素直な気持ちではある、何がどう「思った通り」なのか分かんなかったし、知りたかったから。
「坂上さんってさ」
「ウチ?」
「うん。坂上さん」
「ウチがどうかしたの」
「話し掛けるチャンスがあったら、きっと話しやすい人に違いないって思ってたんです」
「えー、何それ」
「わたしが思ってただけだからね」
「今まで絡みなかったじゃん」
「それは」
「それは?」
「なんて言えばいいのかな、坂上さんが空の上の人だったから」
「空の上の人、って」
「とても高い所に居て、わたしなんかじゃ話しかけられないって」
思い当たる節、無いわけじゃない。割とある。陸上部じゃ二年生でエースだって言われてたし、全国大会に出たりもした。よくさ、学校の前に「何とか部全国大会出場」みたいな垂れ幕出すじゃん、あそこに一人だけ名前書かれてたこともあった。「陸上部 坂上凛花 全国大会出場」みたいな感じで。だから、竹原さんの言いたいことはなんとなく分かる。なんか違う世界に住んでる人だなって、そんな風に思うのもまあ自然っちゃ自然。
他人からすればそうだけど、ウチ自身はどう思ってたか。別にそんな特別なことなんかじゃない、これが当たり前なんだって思ってた。これが普通、これが当たり前だって意識があったから、足を怪我して走れなくなった今、支えを失って倒れそうになってる。ウチをウチたらしめていた「走るのが速い」ってアイデンティティを喪失して、ウチってなんなんだろう、ここにいる理由は何なんだろうって答えのない問いを自分に投げかけ続けて、ひとつも答えられずに屋上でぼんやりしてた。自分が「走れない」自分のことを受け入れられずにいる、たぶんそれが一番正確な現状認識。
それで、竹原さんは「空の上の人『だった』」って言った。「だった」は過去形、今はそうじゃないってニュアンスを暗に含んでる。
「でも、今こうやって話してる」
「それは」
「それは?」
「坂上さんが天上の人から、普通の人になったからです」
だからわたしでも話せるんじゃないか、そう思って。竹原さんはそう続けた。
普通の人、普通の人、普通の人。竹原さんが何気なく、本当に何気なく口にした言葉が、すーっと胸の奥へ、ウチの一番深いところまで、なんの抵抗も受けずに入っていく。本当に、ビックリするくらいするっと入って、それから中で少しずつふくらんでいって。
「普通の人、か」
これ、文脈から言ったら「すごい人」が「普通の人」になったって言ってるんだから、怒ったりするのが自然なはずなんだけどさ。逆だったんだ、心の中の様子は。刺さってたトゲがぽろっと取れて、絡みついてた鎖がバサッと落ちるみたいな。取り除く方法が見つからなかった痛みとか苦しみとかが、フワーっと飛んでいっちゃって。えっ何これって、結構マジで驚いてて。
なんだろう、なんだかちょっと気が楽になったぞ。普通の人、普通の人になったんだ、ウチは。今までが普通だ、がむしゃらに走っていい結果を出すのが普通だってずっと思ってたけど、別にそういうことじゃないのかも。誰にも負けない何かがあるわけじゃないけど、でもここで生きてる。それが普通。別に走る事だけじゃウチの価値じゃない、竹原さんはそう言いたいのかも。割とそんな気がしてるんだ、ウチは。
普通の人になったのか、うちは。そうだ、そういう風にだって考えられるんだ。
「えっとさ」
「はい」
「ちょっと気に入った」
「ホントですか?」
「マジで」
「マジですか」
「マジで、って言うの似合わない」
「よく分からないけど、嬉しいです」
「分かんないけど嬉しいんかい」
「坂上さんが喜んでると、つられて」
「喜んでるってほどでもないけどなぁ」
「最近、ずっと無表情でしたから」
「まぁそれはね、それは」
「だから、わたしも嬉しくなって」
「ふぅん」
「言ってみれば、磁石のS極とN極みたいなものです」
「例えがよく分かんない」
「ノリですよ、ノリ」
「テキトーだなー」
「一緒に帰りませんか。ほら、もう陽が沈みますし」
「ん。時間だし、帰ろっか」
放り出してたカバンを拾い上げる。竹原さんの隣に付く。
「竹原さんさ、下の名前『結衣』だったよね」
うちと、竹原さん――もとい、結衣との馴れ初めは。
「覚えてたんですか?」
「なんでか分かんないけど、たまたま」
「あってますよ、『結衣』で。またちょっと嬉しくなりました」
「同じクラスだし、覚えてても別にヘンじゃないと思うけどね」
まあこんな風に、なんだかちょっとゆるい感じだったんだ。
*
買い物ってさ、学校通うよりは珍しいけど、どっか旅行行くよりはいつものことっぽいじゃん。ほどほどに珍しくて、でもそんなに肩肘張らない。だから好き。何事も普通っていうか、ほどほどが一番いいよねって思うから。陸上辞めてからは特に。
そういうさ、ウチにとっていい塩梅のコトだったんだけどな、結衣との買い物ってのは。今までは、今までは。
「こうやって買い物行ってさ」
「うん」
「なんかまともに買い物したことあるっけ」
「うーんと、クッピーラムネとか」
「クッピーラムネって」
「でも買ったよ、わたし覚えてるもん」
「それだいぶ前じゃない?」
「会ったばっかりの時だったかな」
「たぶんそれ」
もうちょっとしたらさ、結衣との買い物はちょっと珍しいことになって、だんだん普通に珍しくなって、気が付いたらウルトラ珍しくなるんだ。ガチャでスーパーレア引くのはいいけど、普段やってたことがスーパーレアになるのは、なんかこう、ちょっとつらい。
あっ、つらいんだ。今のウチの気持ち、「つらい」んだ。ふと浮かんだ言葉に自分独りで納得する。うまく言葉にできなかったガサガサした気持ちが、「つらい」ってすっごいシンプルだけどどっこも間違ってない言葉になって、やっとウチの心に腰を落ち着けた。そんな気がしたんだ。
「なんでクッピーラムネ?」
「好きなんだ、クッピーラムネ」
「クッピーラムネがねえ」
「うん。クッピーラムネが」
「もうアレ、クッピーラムネって言ってるだけで面白い」
「面白いとか、クッピーラムネに失礼だよ」
「クッピーラムネに失礼って概念がもう面白いからダメ」
こういう会話っていつでもできて、何回でも交わせて、それこそ道路に突き刺さってる電柱みたいに、どこにでもいくつでもあるものだって考えてた。当然で、当たり前で、日常茶飯事で。それこそ空気みたいなものだって。だけど結衣はこれから空気の無い宇宙へ行くから、無くなるのも道理なのかなって。
結衣がぶら下げてるカバンからチラチラ見える割り箸みたいなやつ。割り箸って言ったけどよく見たら割り箸っぽくない、でも割り箸以外に例えられそうなものがない。これも別に珍しいものじゃない、結衣がいつも持ってるものだから。
「編んでるの?」
「マフラーをちょっと」
編み針ってさ、全然針っぽくないよね。細くもないし、針みたいにシュピンって尖ってないし。編み箸って言った方がまだ納得できそう、編み箸。
「終わりそう?」
「いつかは終わるけど、ってところかなぁ」
「ああ、そっかぁ」
そうだよね、そこまで言って続く言葉が出てこなかった。編み続けてればいつかは出来上がる、手袋にしろ帽子にしろマフラーにしろ。だけど、終わった時ウチがそれを見届けられるとは限らない。この分だと、多分無理なんだろうなって感じがした。マフラー、手間掛かるって前に聞いたしね。長いからしょうがないっちゃしょうがないけど。
「本当はちゃんと仕上げたかったんだけど」
「中途半端に終わっちゃうのはウチも好きじゃない」
「だよね」
「だよ」
「なんだかさぁ」
「うん」
「うまく行かないね」
「ホントにね」
うまく行かないね、ホントにね。言葉通りの気持ちになった。うまく行かないなあって思う、噛み合わないなあって思いで胸がいっぱいになる。これからだったんだけどな、結衣とあれこれするのって。まだまだ先がある、ずっとそう思ってたのに。
住む世界って、こうも簡単に変わっちゃうものなんだなって。
あっ。声を上げて結衣が立ち止まる。吸い込まれるようにコンビニへ入ってった、ウチもすぐ後に続く。迷わずお店の最奥二列目まで歩いていって、真ん中の棚へスッと手を伸ばした。迷いってのが全然ない、ここに何があるか、それから自分が何を欲しがってるかを全部知ってるって感じだ。
「これこれ。たけのこの里買お」
「えー、きのこの山は?」
「時代はたけのこを求めてるからね」
「ヤな時代だなあ」
「でも食べるでしょ?」
「まあ食べる」
「だよね」
「だって勿体ないし」
「じゃ、買うよ」
「ん」
箱を持った結衣がレジへ向かう。
「なんかさ」
「うん」
「もうちょっとでっかい箱でほしくない?」
「それ分かる」
「ふたりで食べてるとすぐ無くなっちゃうし」
「結衣めっちゃ食べるしね」
「人を大食いみたいに言わないの」
「事実なのになあ」
持って帰って一緒に食べるよ、結衣が言う。うん、ごく自然に返事をする。ウチの家はここから歩いて三分くらい。結衣にしてみたら、もう一つの家みたいなもの、らしい。 なんか、懐かしいな。お菓子買って持って帰って食べるって。あれはいつだったっけ、一時期毎日こんなことしてた時期があったんだ。
図書館で勉強したあととかだったかな、確か。
*
「意外なんだけど」
「何が?」
「凛花ってさ」
「ん」
「勉強もしっかりできるんだ、って」
「それさ、ビミョーに失礼じゃね?」
「ほら、部活で忙しくて勉強まで手が回んないって子多いし」
「だってさ」
「うん」
「部活を言い訳にしたくなかったし」
図書館、の待合室っていうかエントランスホールみたいなところ。テスト勉強を終わらせてこれから帰るって段取りなんだけど、なんかまだ外明るいし、このまま帰るのちょっともったいないかなって気がして、ソファに腰掛けてぐだぐだ駄弁ってる。結衣とウチがぐだぐだ駄弁ってるのは、別にいまこの瞬間に限ったことじゃないんだけど。
何かを言い訳してみんながフツーにやってることをやらない・できないっていうのはヤだったんだ、なんとなく。だからちゃんと勉強してた。結衣から「しっかりできるんだ」って言われるくらいには。しっかり、って程なのかはウチには分かんない。だってどう見ても結衣の方が勉強はよくできるから。
「凛花強い」
「えー」
「えー、って、何が?」
「別に強くないし」
「あれ? 強いって言われるのがイヤとか?」
「なんかさ」
「うん」
「こうさ、無理してる感出る気がするから」
「ちょっと分かる」
「ホントに?」
「カッコよく見られたいんだ」
「そうじゃないし」
「分かってるって」
「分かられてるのかなぁ」
強いね、そう言われるのは苦手っていうか、こそばゆかった。無理してるってのが伝わってそうな気がしたから。ウチの理想は、涼しい顔してなんでもパーフェクトにこなすって感じのやつ。で、自分がそんなキャラから程遠いってことも自覚してる。自覚はしてるよ、でもしててもさ、自分が「これがいいんだ」って思う自分でありたい気持ちには逆らえないじゃん。だから強がって強がらないようにしてる。強がって強がらないって言ってて意味分かんないや、でもホントそんな風だし。
別にさ、結衣の前で背伸びしなくたっていいのにね。クセになっちゃってるんだ、きっと。
「そうは言うけどさあ」
「うん?」
「結衣だって問題スラスラじゃん」
「すらすら?」
「スラスラ」
「スラスラってなんでスラスラって言うんだろう」
「え、何それ」
「なんでだろう? って思ったから」
「普通そんなこと気にする?」
「身近なことに疑問を持つのは大事だよ」
「そーいうもんかなぁ」
「なんでスラスラなんだろ」
「あー、あれかも。スラスラーって滑る感じの」
「そんな音出して滑らないよ」
「じゃああっち、スライディングって滑るじゃん」
「スライドの進行形だもんね」
「で、頭二文字とってスラスラ」
「あ、それありそう」
「ありそう?」
「こら、自分で言っててハシゴ外すのナシだよ」
「テキトー言っただけだもん。でも結衣頭の回転早いね、ウチの言いたいことスッと伝わったし」
「そんな、言うほどでもないと思うけどね」
結衣は頭いいよ、本当に。ウチだって認めるよ、それくらいは。
「あれあれ」
「あれって?」
「まだ先だけどさ」
「うん」
「なんか行きたい大学あるとか?」
「うーんと」
「うん」
「海洋生物の学科があるとこ」
「海?」
「海だよ」
「海かぁ」
「うん、海」
「海って行ったことないな、一回もない」
「昔に比べてちょっと減っちゃったしね」
少し前まで、海はもっとたくさんあったって聞いたっけ。全然想像つかないな、ウチが電車とかに乗って行ける距離に海とかこれっぽっちも見当たらないし。ずっと遠くにあるのは知ってるよ、分かってはいる。でも、実物を見たり実物に触れたりしたことはないから。これから先できる気もしないし、それこそ空に浮かんでる雲みたいに遠い遠い存在だって印象が強くて。
海。結衣は海で生きる生き物のことを知りたいって言ってる。なんでだろう、なんで海なんだろう。聞いてみたい、訊いてみよう。
「えっとさ」
「なんで海かって?」
「えっ、なんでわかったの」
「絶対訊かれるって予想してたから」
「何この子怖い、超能力? エスパー?」
「それくらい分かるって」
「なんかウチの言うこと分かりやすいみたいに聞こえる」
「分かりやすいよ」
「えー」
「別に悪い意味じゃないよ、本当にそう思ってるから」
「なんかなー、なんだかなー、まあいいや。で、どうして?」
「ハッキリした理由は無いよ。でも、海が好きだから」
「好きだから」
「あと、宇宙は好きじゃないから」
「わかりみー」
「わかりみ?」
「ほら、こないだ身体検査あったじゃん」
「あったねー」
「それでさ、ウチ宇宙ダメ判定出たから」
「なるほどー、わかりみって言ったのがわかりみ」
「わかりみがわかりみ?」
「わかりみがわかりみ」
「意味分かんない」
「分かったのに」
「どっちだよって感じだね」
「ホントにね。でも、宇宙はダメでも海には行けるよ」
「海かぁ。行ってみたいな」
「行きたいよ、わたしも。凛花と一緒に」
「じゃ、ウチも勉強しなきゃね」
こうやって肩を並べて、結衣の隣で一緒にいられるように。
*
学校帰りのドトール、結露したグラス、向かい合って座る、揺れるスマホのキーチェーン。見てる先はディスプレイ、視線の先に並ぶバルーン。口を使わない会話、指先が紡ぐ言葉のやり取り。
「『あのさ』」
「『?』」
「『彼氏作る気とかない?』」
「『えっ凛花人体錬成するの』」
「『は?』」
「『しないんだけど』」
「『え、だって彼氏作るって』」
「『その作るじゃないから 普通の意味だから』」
「『概念的なやつだから』」
「『makeとかcreateじゃない?』」
「『ちがう』」
「『絶対人体錬成すると思ったのに』」
「『フツーはそんなこと思わない』」
カフェオレ入りのグラス、融けて氷がカランと揺れる。スマホをポチポチ、行き交うメッセージ。ドトールに寄るといつもそう、目を合わさずに無言で会話する。なんでだろうなあ、なんでいつもこうしてるんだろ。やってて自分で笑いそうになる。
お店入ってカウンターで注文してからお互い一言も喋らなくて、でもいつも以上にすごい勢いで言葉を交わしてる。ウチがなんか言う、結衣からすぐ返ってくる、間を置かずにウチも返す。この繰り返しが止まらない。
「『あのさ』」
「『凛花って「あのさ」から入ること多いよね』」
「『口癖みたいなもんだし』」
「『うちらなんで向かい合って座ってるのにLINQやってんだろうね』」
「『そう言えばなんでだろうね』」
「『これ始めたのゆいの方だよ』」
「『ゆいがLINQで話そうって言ってから』」
「『そうだっけ』」
「『そうだよ間違いない』」
「『記憶にございません』」
「『しょーもないこと言ってる』」
「『凛花が記憶を捏造してるんだよ』」
「『うち古いことは忘れるタイプだから』」
「『じゃあしょうがない』」
「『生姜ない』」
「『しょうがない』」
「『生麦生米生姜』」
「『早口言葉になってないし』」
「『こう書かれたら思わず「なましょうが」って読みそうにならない?』」
「『ゆいの発想力おかしい』」
「『こうやって凛花の記憶に残っていくんだよ、忘れないように』」
「『マジレスやめい』」
「『たまにマジレス返したくなる』」
「『うちがマジレスに弱いの知っててやってるでしょ』」
しょーもない、くだらない、他愛ないやり取りばっかりの中で、時々マジレスが飛んでくる。大抵結衣からウチに向けて。ウチの記憶に残って、忘れられないように。結衣の言葉がドンと心の床に置かれる。刺さるとかじゃなくて、ただ置かれる。解釈するのに時間が掛かる、飲み込むまでいっぱい噛まなきゃいけない食べ物、なんだろ、例えばビーフジャーキーみたいな。
忘れるはずなんてない、そう言い切りたいのに、一歩前へ踏み出せずにいる。足がすくんでるってやつなのかな、歩けるようにはなったのに。
「『面白いよね』」
「『何が?』」
「『ドトール来るとこうやってスマホで話すの』」
「『おもしろいよね』」
「『ね』」
「『すぐ近くにいるのにわざわざネット経由して話してるの』」
「『やっぱりなんだかおもしろい』」
地球はネットが発達してる、すっごい発達してる。ウチや結衣が持ってるスマホだけじゃなくて、腕時計とかレンジとか冷蔵庫とか、なんでも全部ネットに繋がってる。レンジに食べ物入れてネットでレシピ検索すればその通り温めてくれるし、冷蔵庫は普段入れてるものが足りなくなるとネットで通販しませんか? って教えてくれる。ネットを通して何もかもと繋がってる、もちろんウチと結衣も。
だけど、それは地球の話。地球の外は、話は別で。
技術的な問題、ってのがあるらしい。月と地球はまだネットが繋がってないって聞いた。ホントは繋がってるけど、線が細くて皆が使うには全然足りない、ホントに大事な連絡の時だけ使えるんだって。映画でスペースシャトルとNASAのでっかい司令室みたいなところがやり取りしてるの見たことあるけど、逆に言うと地球の中と外がやり取りするにはあれくらいでっかい設備がいるってことでもあって。
だから、あれなんだ。ウチと結衣の間にも、その「技術的な問題」ってのが挟まるようになるんだ。
(厄介だなぁ)
ウチの声、物理的にも文字にしても、何にも届かなくなるんだよね、結衣に。逆も同じで、ウチが結衣の声を聴くことも見ることもできなくなる。当たり前にあったものがなくなるのって想像できないけど、想像つく前に結衣はウチの前からいなくなる。厄介だって思う、本当に厄介だって。
マジメに考えたらつらいよね、これ。辛い以外の言葉が出てこない。今楽しい時間なのにさ、センチになっちゃうよ。
(結衣)
思わず声が出ちゃいそうになったよ、声を出さないのがウチらのルールのドトールなのに。やっぱり自覚しちゃうよ、自覚しちゃうよなあ。
結衣のこと、好きなんだなって。
*
いつだったかなぁ、結衣からあの話聞いたの。確かウチの家で高校受験の勉強してる時だったっけ、赤本タブレットで見ながらさ。もう三年前になるんだ、ちょうど三年前。すっごい昔のことにも思うし、もう三年経ったの? 早くね? って気持ちにもなる。どっちだろう、両方かな。結衣と一緒にいると、時間の流れなんてどうでもよくなっちゃってたから。
だらだら過去問解いてた時だったなぁ、あれは。
「凛花さ、里子って知ってる?」
「えっ、何急に」
「知ってる?」
「知ってるけど」
「どういう意味?」
「あれでしょあれ、生みの親じゃない別の人に育てられるやつ」
「あったりー。大正解」
「なんか賞品とかある?」
「あるよ」
「なになに?」
「わたしの昔ばなし」
あっ、って思ったね。言われた瞬間に。結衣が話すことって全部筋が通ってて、関係のないことは言わない。理路整然って言葉がぴったり。だから、さっきの里子ってコトバも、結衣と関係があるんだ、って。
関係あるっていうか、そのものっていうか。
「あのね、里子に出されたんだって、わたし」
「結衣が?」
「うん。わたしが」
「今はじめて聞いた」
「だよね。他の人に話すのって、凛花が初めてだから」
「そっかぁ、そういうことかぁ」
「そういうこと、だよ」
「ふぅん」
「ヘンに同情されるの嫌だから、他の人にはナイショだよ」
口元へ人差し指を当てる。内緒にしてね、のポーズ。言われなくたって言わないけど、でも、結衣にとっては内緒にしたいことなんだなって。結衣が内緒にしたい事なのに、ウチには教えてくれるんだって。秘密にしてること、ウチには自分から教えてくれるんだって。
どうしてだろう、とかは思わなかった。ああ、よかった。どっちかって言うとそっちの気持ちが近くて。
「ウチには言うのに?」
「凛花だったら、そんなものかな、って思ってくれると思ったから」
「思ってくれると思ったから」
「うん。思ってくれると思ったから」
「おもおも」
「おもおもだね」
「なんかさ」
「うん」
「ちょっとビックリしたけど、そういうのあるんだって思ったけど」
「うん、うん」
「まあでも、結衣は結衣だしねって」
「ほら、思った通り。全然気にしてない」
「なんかそういう風に言われると複雑な気持ち」
「わたしのこと、『里子に出された同級生』とかじゃなくて『結衣』って見てくれるから」
「何それ愛の告白?」
「かもね。かも知れないよ」
結衣を見る。横顔をじっと。いろいろあったのかな、そういうことを考えちゃう。里子に出されたのはいつだろ、とか、里子だって言われた時どう思っただろう、とか。考えたって、ウチは結衣じゃないから結衣の気持ちにはなれない。だけど、ウチがウチでいることはできる。結衣が自分から内緒にしてることを話してもいいって思える、坂上凛花っていう一人の人間でいることはできる。
だったら、それでいいじゃん。ウチはそれがいいって思うから。
「結衣は結衣だもんね」
「凛花」
「あ、なんでもない、思ったことが出て来ただけ」
「ううん、ありがとう」
「結衣」
ほわっとした表情。出来立てのあんまんみたいな、円くて甘くて、何よりあったかい。いい顔だなって、何より先にいい顔だなって気持ちが浮かんだ。
「わたしは、わたし。そうだよね」
「結衣は結衣、そういうこと」
「それで、凛花は凛花」
「ウチがウチ以外だったら、そりゃおかしいもんね。星新一とかそういうやつだ」
「うん、おかしい。凛花は凛花だよ」
ウチに秘密を教えてくれたの、あれかな、ウチのこと、他の子たちとはちょっと違うんだって、そう思ってくれてるからかも知れない。
「かぐや姫みたいだね」
「かぐや姫?」
「ほら、生みの親と育ての親が違うし」
「うん」
「たけのこの里好きだし」
「好きだよ、たけのこの里」
「なんか竹の中に入ってそうだし」
「入ってないってば」
「うん、かぐや姫。結衣はかぐや姫だ」
「むちゃくちゃ言ってる」
笑った、たくさん笑った、すっごい笑った。ウチは足を怪我して陸上辞めて、結衣は里子に出された。お互い一筋縄じゃ行かない過去があるんだって分かった。でもいいじゃん、今が楽しいんだから。いいじゃん、二人で一緒にいる未来があるんだから。未来がある、未来があるんだ。走れなくなったウチにも、かぐや姫の結衣にも。
そう思ってたんだよね、あの時は。
少なくとも、あの時は。
*
あと一週間とちょっと。結衣が月へ行くまでのタイムリミット。なんかいろいろ手続きとかがあるらしい、今日はお休みだけど一日居ないって言われた。明日は会えるといいな、多分最後の日曜だから。
他に何もすることが無いときってさ、時間つぶしになるもの欲しいじゃん。周りの子はみんなスマホでゲームしてるけど、うちのスマホちょっと古くてみんなやってるゲーム動かないんだよね。結衣以外の子と話す機会多くないし、話題合わせるためにゲームやってガチャ回してーってのもなんかかったるい。だからってわけじゃないけど、うちは別のカタチでゲームしてる。
「はいムーンフォース。しゅーりょー」
ポケモン、剣の方。スイッチライトと一緒に買った。スイッチライトってなんか電気点きそうな感じだよね、バチンって押したらぴかっと光って、みたいな。電気は点かないけどゲームはできる。ポケモンもできるしイカもできる。久しぶりにイカやろっかな、でも三号倒せる気しないや。あれ絶対無理だよ、無理ゲーだよ。
よっしゃーアメげっと。でっかくならなくても余裕余裕、剣でもピクシーがウチの相棒ってやつ。でもさ、アメ食べたらレベル上がるってポケモン凄いよね、ウチも「いちごみるく」よく食べてるけど、全然レベルとか上がらないし。レベルって何だろ、身長? 頭の良さ? うん絶対どっちも上がってない。ひとりでレイドしいまくってたらだいぶアメ貯まっちゃった、なんか育ててみようかな。誰かゲットしに行こうかな。
楽しいよ、ポケモン。ヘンなのいっぱいいるし、かわいいのもちゃんといる。ほら、イヌヌワンとか。あれイヌヌワンだっけ、違うじゃん、ワンパチだワンパチ。でもイヌヌワンで覚えてる人多そう。イヌヌワン、って顔してるし。イヌヌワンは置いといてさ、ほっといたらいつまでも遊んじゃうくらい楽しい。
けど、なんかちょっと足りない気がしてる。不満とかじゃなくて、足りないって気持ちがあって。
レポート書いてからスイッチをスリープ、机の上に置いて入れ替わりで別のゲーム機を引っ張って来た。紅い折り畳み式のやつ、なんだっけ、そうだ3DS。3DSだ。しばらく触ってなかったけど、ふと気になって開いてみた。ペンでちょっとタッチしたりして、見覚えのあるポケモンの姿を探す。
「いた、テッカグヤ」
テッカグヤ。でっかい鉄パイプみたいな、でも見ようによっては竹みたいな腕。すっごい大きな体してて、メカメカしてて、だけどとても綺麗な女の人――もっとハッキリ言うと、かぐや姫みたいな風にも見える。テッカグヤ、ポケモンってみんなよくこんな名前考えるよねって思ってばかりだけど、テッカグヤは特にピッタリだって思う。鉄っぽいし、かぐや姫っぽいし。たった五文字でポケモンのこと全部表現してる、やばいよねこのセンス。
3DSの方のポケモンにはテッカグヤがいて、レベルだって100まで上げた。結構いろんな技覚えてくれるから、あれこれ試してみたっけ。すごい活躍してくれた。なんでもよく覚えて、誰を相手にしても器用に立ち回れるかぐや姫みたいなキャラ。なんかこう、ウチの近くにいる気がするんだ、そんな子が。
(「こんなにごっつくないよ、わたし」。結衣にこう言われたっけ)
ウチは結構似てると思うんだけどな。あれかも知れない、結衣なりの照れ隠しってやつなのかも。そう思うと、なんだかちょっと楽しくなる。
楽しくなるんだけど、だけど。
スイッチで作るのっていろいろ大変なんだろうね、画面めっちゃ綺麗になったし。今までのゲームに出てたポケモンのうち、半分くらいが出てこないって話になった。でもさ、確か一番最初に出たゲームが二十年とかじゃ効かないくらい前で、それから出たやつに今までずーっと全部のポケモンが出てたっていうのが逆にやばいんだけど。普通に考えたら毎回そんなに作り直すの無理だよね、だってもう千種類くらいいるし、ポケモン。
で、スイッチの世界に行けなかったポケモンの中に、テッカグヤもいた。
しょうがないかなって思う。テッカグヤはふつーにその辺の草むらにいるポケモンとかじゃなくて、いろいろややこしいことしないと捕まえられないちょっと特別なポケモンだから。皆がやってるゲームのガチャで言ったらなんだろ、一番上をウルトラレアとかにしたら、スーパーレアくらい? でもテッカグヤの分類ってウルトラなんとかだし、なんかちぐはぐだ。どーでもいいか、そんなこと。グダグダ言ったけど、今うちがいる新しい世界にテッカグヤの姿はない。どこを探しても出てこないんだ、テッカグヤは。だから、物足りないなって気持ちがあって。
それは、ウチと結衣のこれからの関係に似ている。結衣はウチのいない世界で、ウチは結衣のいない世界で、毎日を積み重ねていく未来が待ってる。それはもう決まったことで、誰もひっくり返せない。イカちゃんじゃない方のポケモンのイカだって、この状況をひっくりかえすのは無理だ。
ウチは結衣が好き、でも結衣は遠くへ行っちゃう、多分戻ってこられない。ウチの気持ちはウチのもの、だけど誰かを「好き」っていうのは、その「誰か」のココロに居座ろうとすることでもある。ウチは結衣のことをずっと「好き」って気持ちを持ってて、たぶん、きっと、結衣もウチと同じだって考えてる、それに応えてくれようとすると思う。でも、結衣は月へ行く。月へ行ったら、ウチの気持ちに応えようにも応えられない。
そんな状態で、ただウチが「好き」だって気持ちを結衣へ押し付けたら、結衣はどう思うだろう。結衣には向こうでの新しい生活が待ってるのに、いつまでも地球に居残るウチのことを考えさせる、そんなこと、結衣を好きでいる人間としてやってもいいことなのかな、って。ずっと考えてる、多分もう一ヶ月くらい。答えは出ない、半分嘘。もう答えは見えてて見ないふりをしてる。頭では分かりきってて、心がヤダヤダって嫌がってるって分かってるんだ。
結衣のことを好きなままじゃいられない、どこかでサヨナラを言わなきゃいけない、って。
「あーあ」
ベッドに思いっきり体を預けて横になった。少しだけ沈むのを感じる。実はベッドで寝るより布団で寝る方が好きだけど、部屋にベッドが置いてあるからベッドで寝てる。最後に布団で寝たの、いつだったかな。半年くらい前だった気がする。
秋の連休、結衣と一緒に、ちょっと遠くまで旅行した日だっけ。
*
「熱海ってさ」
「うん」
「ぐつぐつ言ってるのかな、海が」
「さすがにそんなんじゃないよ」
「そっかぁ。皮剥いた大根放り込んだら五分でくたくたになるとかだと思ってた」
「ないってないって。ま、大分干上がっちゃったから、当たらずとも遠からずだけどね」
「干上がったんだ」
「沖だったって場所まで歩いていけるくらいには」
「ほえー」
「ほえーって」
「だからかな、温泉多いの、熱海に」
「それは関係なくない?」
「関係なくなくもない」
「関係なくなくなくもあるよ」
「どっちだよ」
「わかんない」
すっごいバカっぽい会話しながらさ、遠くに大きな水たまりみたいなのが見える道を歩いたっけ。残暑も終わってちょっと涼しくなってきたね、そろそろ長袖出さなきゃねって感じの天気でさ。遠くに見える水たまり、あれが「海」だって結衣は言ってた。ちょっと前までもっと近くまで水が張ってたらしいけど、後ずさりに後ずさりを重ねて目を凝らさなきゃ見えなくなっちゃった。
熱海に行こうよ、言い出したのは結衣だったと思う。何かする時は決まって結衣が「しようよ」って言って、ウチが「いいね」って返して始まる感じで。結衣がこうやって物事を始めてくれてたから、ウチから見える風景もアレコレカラフルになってたってわけで。
新幹線乗って熱海まで行って、あれが海かぁって言いながら広い道を延々歩いて、近くの食堂で魚とか貝とかを焼いたのを食べて。焼いたのを持ってくる感じじゃなくて、生のを自分で焼くやつ、焼き肉みたいな。焼き魚だけど。不思議だよね、焼いてもらって食べるだけっていう方が楽なのにさ、自分で焼いたらなんかそっちの方がおいしいって思うの。楽なのがいつもいいってわけじゃないのかなぁ、なんだろうねアレ。
夜はホテル、じゃなくてちょっとこじんまりした感じの旅館に泊まった。結衣がだいぶ前にお父さんお母さんに連れてきてもらったことがあって、もう一回行ってみたいって思ってたんだって。昔行った場所にもう一回行くと、自分の背が伸びたってことが分かっていいね、結衣の言いたいこと分かるよ。ウチも昔遊んでた公園に行って同じこと思ったりしたから。
「布団二つ敷いてくっつけて寝るの、なんか楽しいよね」
「広く寝られるし」
「えー、それだとわたしのスペース狭くなっちゃう」
「場所の取り合いだって、仁義なき戦い」
「仁義なき戦いって」
「寝るスペースを取り合うのって仁義とか全然無さそうじゃん」
「じゃあ、わたしは別のカタチで勝負するよ」
「どんな形?」
「ココロの取り合いで勝負」
「何それ、えっ何それ」
「相手の心にどれだけ自分の存在を残せるか、みたいな」
「相変わらず結衣はしれっと恥ずいこと言う」
「凛花のココロにいっぱい残れたらいいなって思ってるよ、わたし」
ドキッとした。使い古された言い回しだけど、ドキッとした。ドキッとすると本当に心臓が跳ねるんだなって分かったよ、物理的なんだね、あれ。本当に跳ねたわけじゃないって頭でわかってても、心の方は心臓が跳ねたって感触でいっぱいだ。
好きなんだ、結衣のこと。なんか納得しちゃった。驚きとか戸惑いとかよりも先に納得の気持ちが前に出て来た。マジで納得しちゃった。好きなのかな、好きなのかもっておぼろげには思ってたけど、今この瞬間しっかりハッキリした。好きなんだ、結衣のこと。本当に好きなんだって。
「ね、凛花」
「ん」
「なんか、顔近くない?」
「気のせい」
「近いってば」
「気のせいだってば」
「別にいいのに」
布団を二つくっつけて敷いて寝たけど、あんまり意味なかった。一つの布団でも余っちゃうくらい、側でくっついて寝ることになったから。
「凛花ずっと笑ってる」
「笑ってないよ」
「鏡見る?」
「見せなくていいって」
「いい顔してるのに」
「まーたそういうこと言う」
意味もなく笑ってた。いい顔してるって結衣から言われるくらいに。だって嬉しかったもん、ウチは結衣のことが好きだって分かって、それは結衣もまた同じで、手を伸ばせば一瞬で届くくらいすぐ近くに結衣がいる。目の前に結衣がいる、それが嬉しかった。それだけで幸せでいっぱいだった。
でも、結衣はここからいなくなるんだ。目の前にいた結衣は、ずっと遠くへ行っちゃうんだ。
自分がどれだけ手を伸ばしても、絶対届くことのない――月へ。
*
明日かぁ、明日なのかぁ。実感湧かないな、全然そんな風には思えない。でもカレンダー見ると間違いなく明日だし、結衣に訊いても「明日だよ」って言われたし。
結衣が空の向こうにある月へ行っちゃうのってさ、ホントに明日なんだなって。
「すっごい歩いたね」
「めっちゃ歩いた」
「凛花の通ってた学校とか」
「小学校ね」
「あと、前に一回行った喫茶店とか」
「まだやっててなんかちょっと嬉しかった」
「閉店してないのは知ってたけどね」
懐かしい場所、行きたかった場所。どこへ行っても出てくるのは懐かしい思い出ばかり。昔の風景が蘇ってきて、その時の出来事がつぶさに思い出せる。
それはつまり――未来がないことの裏返し。
「月かぁ」
「月だね」
「向こうってどんな感じなんだろ」
「すっごく大きなドームの中に町があるみたいだって」
「遊ぶところとかあるのかな」
「遊園地とかあるって聞いたよ」
「ドトールとかあるのかな」
「あるといいなー。カフェオレ飲みたいし」
「向こうの大学通うんだよね」
「うん。受験ナシで入れるって」
「それちょっといいな」
「もし受験あって落ちちゃったら宇宙浪人だもんね」
「宇宙浪人って」
「なんか映画とかでありそう」
「ないっしょ」
「あるよきっと」
「えー」
結衣が月からすぐに帰って来るなんてことは、多分ない。多分って言うか、ほぼ確実に。一度月へ行ったら、そうそう地球には戻ってこられないって言ってた。よくて何年かに一回くらい、ずーっと戻ってこなくたっておかしくない。いくら科学が進歩したって、隣の駅まで電車乗って行くみたいにお手軽に行き来するってのはできないわけでさ。
これが、結衣と過ごす最後の時間。
(ココロの取り合い、か)
旅行先で聞いた結衣の言葉。ずーっと記憶に残ってて、頭の中でぐるぐる回ってる。ウチのココロには結衣がいて、大きくスペースを取って存在をアピールしてる。でもそれがおかしいとかって思ってないんだ、普通のことだって思ってる。ウチは結衣のことが好きで、結衣をずっと思ってたい。逆もそうで、ウチは結衣にずっと思われてたい、ココロの中にウチがいてほしい。そう思ってる。
でも、結衣はもう戻ってこられない。月と地球、全然違う世界で生きるから。
もう会えないかも知れないのにココロの一部に居座ること、それが本当にいいことなのかな。結衣に「月へ行くことになった」って言われた時からずっとずっとずーっと考えてた。映画とかであるじゃん、「帰ってくるから待ってて」って言って、その人が死んじゃって、言われた方が待ち続けてる、戻ってくるわけなんかないのに。これと似たようなもんじゃないのか。
分かってるんだ、本当は。ウチが結衣のココロの一部に居座ってるのは良くない、良くないことなんだって。それが本音、ウチのホントの気持ち。
(出ていかなきゃ、結衣のココロから)
それは自分の方だって同じ。結衣をちょっとずつ心から引き離して、薄めていかなきゃって思ってる。手の届かないものに恋焦がれてたって気が滅入るだけ、それこそ脚を怪我した後も無理して前みたいに走ろうとするのと同じ。現実を受け入れなくちゃいけないんだ、いい加減に。ウチがいつまでも結衣のこと好きだ好きだって言ってたら、それこそ結衣の方がしんどいじゃん。結衣を苦しめるような事は絶対にしたくない。だから綺麗さっぱり、サヨナラを言わなきゃ。
(言いたくないのにな)
サヨナラなんて、口が裂けても言いたくないのに。
結衣。横顔を見る。あぁ、ホントに綺麗だ、本当に綺麗だ、言葉が出てこない。ウチの少ない語彙力じゃ、隣にいる結衣がどれだけ綺麗かをちゃんと言い表すことなんてできない。なんかさぁ、本当にお姫さまみたいだよ、かぐや姫。かぐや姫ってさ、最後は月へ帰るって話だよね。結衣と同じ、最後は月へ行っちゃうって話だ。
だから、結衣はかぐや姫なんだって。
一緒にいて楽しそうにしてるのに憂いを帯びてて、どういう気持ちでいるのか手に取るみたいにわかる。同じだ、ウチと同じだって、そう思わずにはいられない。だからさ、だからだよ。ウチがしっかりしなきゃ、ちゃんとしなきゃって思うわけだよ。
辛いのは、結衣の方なんだから。
歩いて歩いて、また歩いて。
「いいのかなぁ、勝手に入っちゃって」
「って言いながらずんずん入ってない?」
「開いてるし、いいかなって」
「入りたくなかったら閉めとくもんね、校門」
「部活やってるとかかなぁ」
「ママさんバレーやってるとか聞いたよ」
「ママさんバレーって」
「言わない? ママさんバレーって」
「お母さんが言ってるの聞いたことあるけど」
中学。ウチと結衣が通ってたところ。ウチと結衣が初めて顔を合わせた場所、でもある。でもあるっていうか、そっちの方が主体っていうか。体育館の方が電気点いてるから向こうで何かやってるんだろうね、校門開いてて簡単に中に入れちゃった。高校生になった今の自分には縁のない場所、そこに今ウチがいるって感覚が不思議だ。懐かしい、中ほとんど変わってない。なんかこう、夢でも見てるみたいだ。これが夢で、目が覚めたらまたいつも通りの日常がずーっと続いていくとかだったら、ホントに良かったんだけど。現実はそう上手い事できてない。
階段を上る、上へ上へ。最後まで上りきるとドアが見えた、ごく普通に開けて外へ出る。ここ相変わらず鍵掛かってないんだ、適当だなぁ。建物の中だから鍵掛けなくてもいいや、とかそんな風に思ってるのかも。
「屋上だー」
「屋上だね」
「全然変わってないね、ここは」
「模様替えとかする場所じゃないし」
「屋上だって模様替えしてほしいなって思ってるよ」
「思ってない思ってない」
「えー」
「ていうか屋上が何か思うとかいう概念がおかしい」
「分からないよ、わたしたちがまだ認識できてないだけかも」
「結衣の妄想タイムまた始まっちゃった」
ウチと結衣はここで出会った。塞ぎこんでたところに結衣が声を掛けてくれたあの日のことを、昨日か一昨日くらいのことみたいにすごくハッキリ思い出せる。
「ここから始まったんだよね」
「凛花がいたの、向こうの方だったっけ」
「うん。向こうの手すりにつかまってた」
「よく覚えてるね、そうだったそうだった」
「結衣だって覚えてるじゃん」
「忘れっこないよ。ずっと話しかけたいなって思ってたら、絶好のポジションにいたんだもん」
「絶好のポジションって」
「絶好のポジションじゃない?」
「話しかけやすい空気だったとは思えないけどなぁ」
ここでよく暇つぶしにおしゃべりをしてた。休み時間とか放課後とか、空いてる時間の殆どをここで過ごしたと思う。ウチと結衣はここで出会って、ここで仲良くなった。ウチと結衣にとって、ここは言ってみれば――始まりの場所なんだって思う。
始まりの場所は、終わりの場所にふさわしい。ここで、綺麗に終わりにしなきゃ。
(終わりになんて、これっぽっちもしたくもないのに)
結衣に別れを告げるんだって言ってる頭、嫌だ嫌だって繰り返してる心。せめぎ合いから目を逸らすように、視線を上げて空を見た。
月。月が夜空で光ってる。
「明日じゃん、明日」
「明日だね」
「もう明日になっちゃいそうだし」
「さすがにそんなに時間経ってないよ」
「感覚的には」
「周り暗くなっちゃったしね」
屋上、誰もいない屋上。錆びついた手すりに体を預けて、髪を揺らす冷たい風を浴びてる。体、冷えちゃってるな。頭の中とは大違いだ。上は洪水下は大火事、これなーんだ? って謎々みたいな。あれ正解お風呂だったっけ。お風呂入りたいな、ちょっとぬるめのお風呂。緊張してるときって余計なこと考えちゃうんだよね、なんでだろ。
緊張してる、そう。ウチは今緊張してる。
「あっという間だったね、凛花」
「だね。っていうかさ」
「ん?」
「さっき結衣が言った『あっという間』ってさ、なんで『あっ』なんだろうね」
「あれだよ、『ふえっ』とかだと締まらないからとか」
「ふえっという間に」
「ほら、なんか締まらない」
「あーうん、口に出してみて分かった」
「でしょでしょ」
「まあ『あっ』でもあんま締まらない気がするけど」
よその人が聞いたらどう思うかな、ウチと結衣の会話。どう思われたっていいか、これは結衣とウチの話だから。ウチらがこれでいいんだって思ってれば、後はもうどうでもいい。プラスマイナスゼロ、足す必要も引く必要もないんだ。
でも――それはそれとして、ここから引かなきゃいけないものもあった。
「あのさ」
「うん」
遠くでさ、月が輝いてるんだ、さっきも言ったみたいに。今日は雲もないしよく見える。キラキラしてるのが分かる。でもそれよりもっと、もっと強く輝いてるの。
結衣が。ウチの目の前で、ほんとにすぐ目の前で。
ぽうっと柔らかい光を纏ってる。少なくともウチには光が見えてる。そんなことないはずなのにな、でもそういう風にしか見えない。なんかこう、住んでる世界が違うみたいだ、地上の人間と天上の民みたいな。
「いろいろ考えてさ、その」
これから先、冗談じゃなくてマジで別の世界で暮らすことになるんだけど。
「ひとつ、伝えとかなきゃって思って」
完っ全に別の世界、簡単に行ったり来たりできないくらい、遠く離れたところへ行っちゃうから、だから。だから、言わなきゃ。
「えっとさ、その。あんまり、いいことじゃないかも知れないけどさ」
自分なりに覚悟を決める。ちっぽけなウチにだって、覚悟ってやつがあるんだ。
「でも、聞いてほしい。結衣に聞いてほしい」
これがきっと、最後になるから。
「ウチ、考えたんだ。結衣のことと、これからのこと」
「結衣は月へ行っちゃって、ウチは地球に居てさ」
「もう滅多に会えなくなって、一生会えないかもって話じゃん」
「だからさ、ハッキリさせとかなきゃ」
「これからウチが、結衣が、どうするのかって」
カラダが震える、声も震えてる。結衣がまっすぐウチを見てる、ウチしか見てないって顔をしてる。結衣の瞳の中にウチがいる、ココロの中に居座ってるのと同じように。出ていかなきゃ、出ていかなきゃ結衣が辛い思いをする。
「結衣」
言わなきゃ。サヨナラって、これでもうサヨナラなんだ、って。
力を振り絞って、今にも閉じてしまいそうな口を開く。言わなきゃ、言わなきゃ、言わなきゃ――。
「――好きだよ、結衣のこと。大好き」
あれ、ウチ、今、なんて。
「ずっと好きだった、ううん、今も好き、これからも好き」
言葉が口から、喉から、いや、もっと奥、もっともっと奥底から、言葉が自然と紡がれてくる。頭の制止を振り切って、心が本当に言いたかったことを言い始めた。
好き。結衣のことが好き。本心の告白。
言えなかったよ、サヨナラなんて。最初からそんな勇気なんてなかった。言わなきゃ言わなきゃって、気持ちが先走ってただけだもん。本当は結衣のことが好きで、大好きで、その気持ちを隠し通すことなんてできなかったんだ。結衣の心の中にずっと残っていたい、結衣から思ってもらってたい。それがホントの気持ちで、情けないけど、ありのままの自分なんだ。
結衣はどう思うだろう。困っちゃうよね、明日月へ発つのに「好きだ」なんて告白されて、えっ、って思われたって仕方ない。怖くて顔を上げられない、言いたいことだけ言って目も合わせられないなんて、ウチってホントダメだ。臆病で勇気が持てなくて、でも好きだって気持ちで先走って。
顔を上げられないまま目を伏せてる、そんなウチに、結衣は。
「凛花」
――結衣は。
「ありがとう、凛花」
「そう言ってくれるの……ずっと待ってたよ」
待ってた? うちが、結衣のことを好きって言うのを?
「えっ」
待って待って、全然意味分かんない。ウチは結衣のことを好きって言って、凛花はそれをずっと待ってたってこと? そういう解釈で合ってる? それってさ、それって。
両想い……そういうこと?
「あっ、凛花『えっ』って顔してる」
「今そういうこと言うシーンじゃない」
「でもホントにそんな顔してるし」
「だって、だってだって」
「だーってだってだって」
「ヘンに真似するなっ」
「凛花面白いよ、顔つきくるくる変わるんだもん」
不意に視界が滲む。なんでだろ、涙が出てくるのは。悲しいから? 明日結衣は月へ行っちゃって会えなくなるから悲しい、だから合ってる。嬉しいから? ウチの告白を結衣が受け容れてくれたから嬉しい、だから合ってる。悲しいと嬉しい、両方の気持ちがいっぺんにわーって湧いて来て、泣いてる理由がごっちゃになっちゃってる。最後までバシッと決まらなかったな、ウチって。
「やっぱり、凛花は凛花だね」
でもいいんだ、これで。結衣が見たいのは、紛れもなくウチなんだから。
「これでおしまいになんてしたくない、そう思ってたから」
「思ってたなら言ってよ」
「凛花が先に言ってくれるって思ってたもん」
「ひどい」
「ひどくないよ」
「だって、だってウチ、ちゃんとお別れしなきゃしなきゃってずっと悩んでたのに、お別れでおしまいになるって思ってたから、だって」
「だーってだってだって」
「またそうやって茶化す」
「ごめんごめん。でもね、ありがと。本当に嬉しいよ」
「結衣」
「凛花から『好き』って言ってもらえて……これで、やっと踏ん切りが付いたよ」
遠く遠く、真ん丸のお月様を見上げて、結衣がつぶやく。
「凛花が勇気を出して『好き』って言ってくれた、だからわたしも言うよ」
「終わりになんてしないよ。必ず帰ってくるから」
「わたしも覚悟決めたよ。一日だって早く帰るんだ、凛花をずーっと待たせたりなんてしないぞ、って」
結衣は帰ってくる、地球に帰って来るって言った。結衣はウソなんて言わない、言ったことは絶対に守る。だから絶対、結衣は地球に帰って来るんだ。
「だからね、凛花。帰って来た時のお出迎え、よろしくね」
地球に帰って来た結衣を出迎える人が居なきゃダメじゃん。それってつまりウチじゃん。
ウチが居なきゃ、ダメってことじゃん。
「それでね、凛花」
「わたしが帰ってくるまで、預かってて欲しいものがあるんだ」
そう言って、結衣が取り出したもの。
――それは。
*
「こんなのさ、ほんとよくやってたよね。ウチだったら絶対途中で挫折するよ」
紙袋に入ってるモノ。絡んだままの編み針。結衣がウチに託したのは。
「でもさ……お店で売ってるやつそっくりじゃん。このマフラー」
編みかけのマフラー、それが結衣から託されたもの。必ず編み上げるよ、だから凛花が預かってて。結衣にそう言われたら、預からないわけには行かない。編み上げるって約束してくれたってことは、結衣はいつか本気で地球へ帰ってくるんだ。
何から何までかぐや姫だね、結衣は。
かぐや姫のオチってあれでしょ、天女の羽衣みたいなのをえらい人に渡して月へ行っちゃうってやつじゃん。今ウチが持ってるの、まんまその羽衣じゃんって。生まれ育ちもかぐや姫だし、雰囲気もかぐや姫だし、お別れする時もかぐや姫。一から十まで全部かぐや姫だ。
だけど、ひとつだけ違うことだってある。
(終わりにしたくない、結衣はそう言ってたから)
これで終わりじゃないんだ、ウチと結衣の関係は。ウチは「結衣のことが好きだ」って告白した、結衣はウチに「必ず帰ってくる」って約束した。ノリで言ったことなんかじゃない。結衣もウチも覚悟を決めたんだ、遠く離れたってずっと好きでいる、いつか会えるまで待ってる、って。
遠くの月を見つめて、編みかけのマフラーを、結衣が託した羽衣を握りしめる。
(「坂上さんが天上の人から、普通の人になったからです」)
かつて結衣がウチに言ったことを、もう一度かみしめて。
(待ってるよ、結衣。待ってるから)
結衣が天上の人じゃなくなるのを、かぐや姫を止めて地球へ戻ってくるのを。
ウチは、ずっと待ってるから。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。