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キョウカスイゲツ

おれ、なんでこんなところにいるんだろうな。さっきからずっと同じこと思ってる。

前を歩く女子、一歩踏み出すとスカートがひらりと揺れる、肩くらいまで伸びた髪も同じように揺れる。さっきからずっと同じ風景ばっか見てる、都会にあるっていうグルグル回る電車の路線みたいだ。始まりがなくて、終わりもないアレみたいな。おれと一歩前にいるアイツとの関係も、いつ始まったのかなって感じがしてハッキリしない。

匂いがする。少し懐かしい、そんなに嗅ぐチャンスのない匂い。桜の花、それだって気付くのに結構時間掛かった。ここが人の手が全然入ってない山で、どこかに桜の木が生えてるからなのか。それとも、前をアイツが歩いてるからか。

坂道はきつい、シャレにならないくらいきっつい。脚が発火すんじゃんってくらい熱持ってる。前の女子も同じみたいだ、楽にスイスイ進んでるって感じじゃない。ここへ来るのに慣れてるって雰囲気はちっともない。

じゃあ、なんでおれたちはこんなトコほっつき歩いてるんだろうな。知らない場所で、関わりの薄い女子と二人、顔も合わせずただ黙々と歩いてる。チグハグだな、噛み合ってない。でも足は止めずに前へ歩き続けてる。まるで夢でも見てるみたいだ、起きたらすぐ忘れるような短い夢。普通なら家でごろごろしてる時間なのにな、今日だけ今日に限って、こんな山道を苦労して歩いてる。

それも、絡みの薄い女子に連れられて。

「どこまで行くんだよ、チハル」

「まだ。もっと奥」

「そこにさ、何があるんだ?」

「ケイゴ君の知らないものだよ」

きつい坂道にやられて脚が痛くなってくのを、息が上がってくのをごまかすために、あんまり働いてなかった頭の方に意識を向ける。

この女子――チハル。チハルとここに来ることになった流れ、経緯。そういうことでいっぱいに埋めていって。

 

 

細く見える女子でもさ、同い年だと結構重いんだな、ってカラダが言ってる。人ひとり担ぐのってのは大仕事だ、映画やマンガみたいにヒョイヒョイ持ってくなんてことはできっこない。分かってるつもりだったけど、つもりだけだった。

「しばらく横になってた方がいいわ。チハルちゃん、症状は落ち着いたけれど、体力消耗してるはずだから」

保健の先生が言う。これ、おれが見てた方がいいやつなのかな。先生すぐ別の仕事に戻っちゃったし。近くにあった椅子を引っ張ってきて座る、背もたれ無い椅子は苦手だ、落ち着ける先が無いから。カラダが落ち着いてないし、ココロだって落ち着いてない。なんかさ、起きたことをちゃんと整理するって時間取れないままここまで来たわけだし。

ビビるよな、クラスメートの女子がすぐ近くでいきなりゲロ吐いたらさ。

別の同級生が連れてたオタチが原因だったっぽい、近くにいたポケモンあいつだけだったし。チハルになんか興味あったのかな、急に飛び掛かってさ、それでチハルがその場で膝折って崩れ落ちた……んだと思う。その瞬間までは見てないから。実際どうだったかってのはあんまり関係なくて、おれが見た時にはチハルがしゃがみ込んでゲロ吐いてた。食べたもの全部戻して、でもまだカラダが吐き足りない、吐けるものもう無いのにって感じのヤバいやつで。

速攻思った、これ従兄弟と同じじゃん、ポケモンアレルギーの従兄弟とまんま同じじゃん、って。

「おい、しっかりしろよ」

ほっとくとヤバい、さっきからヤバいヤバいってしか言ってないけどマジだから。オタチを引っぺがして親っぽい同級生に突き出すと、吐いてぶっ倒れたチハルを揺する。顔真っ青で本気で苦しがってたんだ、あいつ。床に寝かせてていいことなんて一つもないから、抱き起して肩を貸した。だけど全身から力が抜けててさ、歩くのも無理だってすぐ分かった。

だったらさ、担いでいくしかねえだろ。他に方法思い付かなかったし。周りの連中に後始末しといてくれって頼んで、一階の保健室まで連れてくことにした。

「ケイゴ君、一人で大丈夫?」

「なんとかする。後は頼んだ」

ここは三階だから、階段を二回降りなきゃいけない。二回って言うけど踊り場挟んで四つあるからな、いつもの二倍、いや四倍は大変だった。どうにか保健室まで運んで、先生に「ポケモンアレルギーで倒れた」って言って。

それで今、おれはベッドで横になったチハルを側で見てる、そういう流れ。

額に汗が浮かんでちょっと息が上がってるけど、さっきまでに比べたら顔色もいい。真っ白とか真っ青じゃなくてちゃんと肌色してる。従兄弟もこんな感じだったっけ、ポケモンに触られたらまともに呼吸もできなくなるの。大変だよな、どこ歩いてても周りにポケモンいっぱいいるし。寝てるのかそれとも目が開けられないだけなのかは分かんねえけど、瞼を下ろしたままのチハルをぼーっと見てる。

起きたら絶対何か話しかけられるやつだよな、これ。チハルとおれってどういう絡みあったっけ、ちょっと思い出しとかないと後で困りそうだ。目線を動かして外、グラウンドの様子を見ながら考える。

チハルのこと、チハルと今まで何かあったかってこと。

 

春の終わり頃だったっけ、社会見学あったの。それでさ、行く一週間くらい前に五人一組で班作ったんだ、近くの席にいるやつらで。メンバー見て思ったよ、絡みないやつばっかでつまんねーなって。

その「つまんねー」って思ったやつの中に、チハルもいた。いたけど、言ってみれば「話したことのない女子の一人」に過ぎないし、同じ班になったからって喋ろうって気になるわけでもない。ああコイツか、って感じで終わり、そこから先は何もない。別に無視してたとかじゃないけどさ、こっちから話せる話題なんてないしそれは向こうも同じ、同じ班だってことも忘れそうになるくらいだ。

で、社会見学当日。電車に一時間くらい乗ってでかい博物館まで行った。こういう機会でもないと博物館とか行かねーから割とよく覚えてる。展示してたのは、今から遠い昔の古代に棲んでたポケモンの化石と、三十年くらい前から研究されてるっていう人工ポケモンの資料みたいなやつの豪華二本立て。豪華二本立てだけど、おれ含めてほとんどのやつが展示どうこうより授業が無くなったことを喜んでた気がする。ま、そーいうもんだって。

着いてからすぐ自由見学になったんだけど、他のメンバーはさっさとどっかに行っちまった。よそのクラスに友達いるけどそいつは別の班だし、広い博物館の中を探すのだってラクじゃない、めんどくさい。集合時間になるまでテキトーに展示物でも見てヒマつぶしするかって思って、ぼけーっと五分くらい中を歩いてたら、すげえでっかい化石が展示されてるのが見えたんだ。

「これ……どんなカラダしてんだ」

尻尾にアタマがくっついたみたいな。無茶苦茶言ってると思うけどそうとしか言えない。そんな無茶苦茶な化石が目の前にドンと出て来たら、おれだってビックリする。別に滅多にビックリしない訳じゃないけどおれだってビックリする。こんな生き物いたのかよ、って。案内板の説明見てみる。遠く離れた地方で発掘された化石で、早い脚と頑丈な顎で敵を倒しまくって無敵だったけど、強すぎてエサが無くなって絶滅したとか書いてある。やっぱ無茶苦茶だ、こんな生き物(ポケモン)マジでいたんだ。どんな風に動いてたんだろうな、気になってしょうがない。

忘れたくないな、こういうのあったってこと思い出したい。ちょうど近くにクッション付きの手すりみたいな椅子っぽいのがあるし、時間もいっぱいある、他にすることもない。だったらさ、やるしかないじゃん、スケッチを。

リュックからノートとシャーペンを引っ張り出す。ノートを真ん中で逆向きに折り畳んで持つ。椅子っぽいのに寄り掛かって化石を正面から見据える。いけそうだ、そう思ったら勝手に手が動き始める。全体をわしゃっと掴むように描いていく、細かいところは後回しで、まずはこのでっかさをノートの中に収めるのが先だ。

絵を描くのが好き、ってなかなか他のやつに言いづらいよな。なんか描いてくれとか、描いた絵見せてくれって言われそうで。風景とかポケモンとかボカロとかいろいろ描くけど、誰かに見せるために描くってことはしてないからなおさら。けど絵を描くのは好きだ、それは間違いない。どこに行く時もメモ帳の代わりに自由帳持って行ってて、なんかいいなって思ったら即スケッチしてる。いっつもそうしてたらさ、妹が「ドーブルの生まれ変わりじゃん」とかトンチンカンなこと言うからデコピン決めといた。生まれ変わりじゃねーよ、普通の人間だって。

手は休まず動き続けてて、ノートに化石のシルエットが浮かび上がっていく。そうそう、こんな感じだ。おれが今見てるのは尻尾に頭が付いた馬鹿でかいポケモンなんだ、こんなのそうそう見られないよな、けど絵に残せばいつだって見られる。最初見た時のビックリをカタチにして残せるってこと。アタマの中の記憶はどんどん薄れて消えてくけど、絵にすればずっと長く持っていられる。いいじゃん、そういうの。

十分くらい夢中でシャーペンを走らせ続けてた。全体像はだいたいできたな、じゃあ次は細かいところ行くか――って時だった。

(カシャッ)

シャッターを切る音。聞き覚えのあるやつ、おれの持ってるスマホのカメラと同じ音がした。スケッチする手を止めて音のした方、多分右を見てみると、そこにスマホを構えた女子が一人。

「チハル、じゃん」

女子っていうか、同じ班のチハルだった。

おれのスケッチしてる化石をスマホで写真撮ってた。撮った写真をじーっと見てる。コイツおれが絵描いてる横で写真撮るのかよって感じだけど、別に撮っちゃいけないって法律とかがあるわけでもない。そりゃなあ、見たまんまを残したいなら写真の方がいいよ、おれだってそれくらい分かってる。けど、あれだ。おれは絵に描いて残しときたいんだ。分かるかなあ、分かんねえよなあ、こういうのってさ。

「絵?」

「え?」

「描いてるの、そっちが」

とかぐだぐだ考えてたら、いきなり「え?」って言われて「え?」って返しちゃった。二秒くらいしてから、おれの方は「え?」だけどチハルの方は「絵?」っていう意味だってことが理解できた。畳みかけるように「描いてるの、そっちが」って言うチハル。分かりにくい喋り方するなあ、なんとなく分かるけどさあ。分かろうとしなきゃ分からないタイプって感じがする。

「そうだけど」

「ふうん。見てもいい?」

「いいけど」

ノートをチハルに向けて、描きかけの絵を、尻尾に頭の付いたポケモンの化石の絵を見せる。まだ大まかにしかかけてなくて、細かいところはさっぱりだ。写真みたいにシュッと一瞬でそのまま残す、って訳にはいかない。自分で取った写真あるのにおれの絵見たがるって変わってるなコイツ。こんなところで絵を描いてたおれだって周りからすれば十分変わってるかもしれないけど。

描いてる絵を誰かに見せたって経験はほっとんどない。勝手に部屋入って見ていく妹とか、今はトレーナーになって地元出てった友達にちょっと見せてたくらいだ。チハルみたいな喋ったこともろくにない相手に見せるのは初めてじゃねーかな。どう思うもんなんだろ、全然分かんねえや。

「へぇ、こんな風になるんだ。他の絵もある?」

「あるけど」

「見せてよ、見てみたい。ケイゴ君の絵」

割と食い付いてきた。見せてもいい、ポケモンとか風景とかしか描いてないノートだったから、好きなところ見ていいけど、ってチハルにノートを渡した。パラパラページをめくって見ていくのを見てる。へぇ、って言ってたけどどう思ったんだろうな。見てみたい、ってからには興味は持ったんだと思うけど。こいつヘタクソだな、とか思われてたらイヤだな。ヘタなところがあるのは分かってるけど見られたくはないじゃん。なんかそういう風に見られてねえかな、チハルの様子をそうやってチラチラ伺ってたんだけど。

「うまいじゃん。このキリキザンとか」

キリキザンの絵。近くでバトルしてるトレーナーが居て、かっけえポケモン連れてるなと思って描いたやつだ。チハルの声色、からかってるって雰囲気じゃない。結構本気で裏の無い感じの「うまいじゃん」って言葉。正直ビックリした。描いてる途中の化石を見た時と同じくらいには。そういう感想出て来るとか思ってなかったし、うまいって言われて別に悪い気しないし。

「違うね、写真とは」

「写真よく撮るとか?」

「それなりに。見たもの覚えときたいから」

「へぇ」

「撮るだけ撮って後から見返さないことも多いけど」

邪魔しちゃったね、それじゃ。おれにノートを返して、チハルがどっかへ行く。いきなり隣に来て、写真撮って、絵を見てって、二言三言口にしてまた離れてく。正直よく分かんなかった、チハルがどういうやつなのかとか、なんでおれに喋りかけてきたのかとか。それからまた全然絡み無かったし、社会見学の終わりまで口を利くこともなかった。意識して口きかないようにしてるとかされてるとかじゃなくて、単に興味なかっただけで。

ただ、ただ、だ。キリキザンの絵を見せた時に言われたチハルの「うまいじゃん」って言葉は強く印象に残って、なんでもない時にふっと思い出すことがちらほらあった。なんでなんだろうな、褒められたから? 予想外だったから? その辺は合ってる、合ってるけど、満点百点の答えじゃないっつーか。

チハルのことで真っ先に思い出すのは、あの日絵を見せた時に言われた「うまいじゃん」――だ。

 

保健室来てどれくらい経ったかな、時計が向こうにあってちゃんとした時間は分からない。ちょっと見に行ってみるかって立ち上がろうとしたら、チハルがぱちっと目を開くのが見えた。立ち上がりかけたのを止めて座り直す。こっちに顔を向けて来た、戸惑ってるって感じじゃない、自分が何処にいてどうなってるのかを知ってるって顔してる。

「ケイゴ君」

名前を呼ばれた。なんて言えばいいのか分からない、大丈夫か、とか? あんま大丈夫って感じしないな、目は覚めたけど元気いっぱいって感じじゃ全然ない、まだちょっと苦しそうな感じするし。おれが保健室まで連れて来た、とか言うのもヘンだよな。なんか押しつけがましい。分かんねえや、どうしよう。

「分かってる」

「何が」

「ここに連れてきてくれたのがケイゴ君だってこと」

「それは」

「ありがと。でも」

「……でも?」

「気持ち悪いでしょ、わたし」

チハルの「気持ち悪い」が何を指してるのかはなんとなく、けどほぼ間違いないって感じで分かった。ゲロ吐いた、ってことだと思う。男子でもゲロ吐くところなんて見られたくないのにさ、女子じゃん、チハルって。そういうこと気にするのも分かるよ、おれだって。

「別に、そんなことないだろ」

「ケイゴ君」

「従兄弟が同じだったから」

「アレルギー持ち?」

「そういうこと」

「そっか。そうなんだ」

「だから、その、気にしなくていいって」

全然うまいこと言えねえな、もっと言い方ってもんがあるだろうに。気にしなくていい、って言われてその通り気にしないってやつがどんだけいるんだよって話だよな。口下手だって自覚あったけど、こういうちゃんとした言葉を掛けてやらなきゃいけないって時にうまく話せないの、ホント歯がゆいな。そうじゃねえだろ、って自分で自分に言ってやりたくなる。

間。ただ間。無言の間。なんか気まずい。おれ絶対言葉のチョイス間違ってたよな、とかそんな後ろ向きなことばっか頭をよぎる。だからって、チハルに対してなんて言えばよかったのかも分からない。ただ、ひとつ確かなことはある。チハルはおれに「自分は気持ち悪い」って訊いてきたけど、おれはそんなこと少しも思ってない。別にいいじゃん、ゲロ吐くくらい。おれだって風邪引いて寝込んでゲロったことあるし、言ってみればちょっと大げさに汗かくようなもんだろ、って。

「ねえ」

頭ん中グルグルしてる時に当のチハルから声が飛んできて、グルグルが全部どっか行って顔を上げる。なんだろ、なんか言いたいことあるのかな。

「絵を描いて」

「絵?」

「そう、絵を」

「おれが」

「ケイゴ君が」

「えーっと」

「わたしの絵。わたしの似顔絵」

何が何だか、ちょっと分かんねえな。チハルは絵を描いてほしい、おれに。自分の似顔絵を描いてほしい、おれに。急っていうか唐突過ぎないかって思うけど、チハルの目はからかってるとか冗談言ってるってテンションしてない。マジだ、これは。奇遇って言えばいいのかな、おれがさっきチハルに絡んで思い出せることなんかないかってなったときに思い出したのも、おれがチハルに絵を見せたあの時のことだったし。

チハルの方もおれが絵を描いてるってこと、覚えてたってわけなのかな。

「描いてくれる?」

「分かった、描くよ」

似顔絵は正直あんま描いた記憶がない、けど描けないってわけでもない。どうせこのあとやることも無い、おれが絵を描いてチハルの気が済むっていうならそれでいいや。ページの少なくなったノートと消しゴムキャップを失くしたシャーペンをカバンから引っ張り出す。描いてやるよ、チハルの似顔絵。

横になったチハルを正面から捉える。見たまんまそのまま描いても、こうだって思いこんで描いてもうまく行かない。特徴を掴みながら、ノートのページっていう限られた空間に落とし込まなきゃいけない。目で見てるチハルと頭が視てるチハルのイメージをすり合わせながら、真っ白なノートを削り出して裏に隠れてるチハルの絵を浮かび上がらせていく。いったん描き始めたら、今の状況がどうこうとかチハルとの関係が云々とかはどうでもよくなって集中できた。戸惑うことなんてない。いつも通りやるだけだ。

目の前で絵を描いてるおれをチハルが見てる。チハルがおれのことどう思ってるのかとか、今はそんなこと考えてるヒマはない。絵に集中したいから。描き終わったらどうしようか、ちょっと訊いてみたい気はする。けどそれも先の話。絵を描き上げるのが一番先だ。

三十分くらい。見せてもいいかなって感じの仕上がりになった。窓の外はすっかり暗くなって、グラウンドからもサッカー部とかポケモン部の連中が引き揚げ始めてる。上から下までもう一回絵を見直す。おれが視た、おれの見たチハルのイメージとできるだけ合わせる形で描いた。おれの中ではいいかなって思う、チハルがどう思うかはチハル次第。誰かに見せる前提で絵を描くってあんましないからな、描いたら描きっぱなしのいつもと違って緊張する。小さく息を吸ってから、ノートをチハルに向けて翻す。

「できた」

「見せて」

手渡されたノートをチハルが見る。表情は――固いって感じじゃない、今にも「ふぅん」とか言いそうな顔してる。まっすぐじーっと見つめて、かと思ったらちょっと角度を変えて別方面から眺めて。何これ最悪、とかそんな空気じゃないのは確か。全然箸にも棒にも掛からないわけじゃないみたいだ。けどまだちゃんと感想聞いたわけじゃない。テスト返しで自分の名前呼ばれるの待ってるときみたいだ。

閉じていた口が開くのが見えてから、一瞬遅れて声が飛んできて。

「今のわたし、こんな顔してるんだ」

心なしか嬉しそうにしながら、チハルは確かにそう言った。嬉しそう、っていうのはおれがそう思いこみたいからかも知れない、だけどあからさまに嫌そう、って感じじゃ全然ない。気に入ってくれたみたいだ、ちょっと安心して小さく息をつく。

おれの描いた似顔絵を飽きずに見つめて、片時も目を離さないまま、チハルがまた口を開いて。

「やっぱり、写真とは違うね。全然違う」

「写真撮るって言ってたっけ」

「見たものを覚えておきたいから。これも言ったっけ」

「言われた気がする」

「わたしは絵描けないから、写真しかないって思ってた」

「うん」

「でもケイゴ君、絵を描けるんだよね、こうやって」

絵の話をしながら、目線を絵からおれに向ける。チハルの仕草に「女子」を感じて、思わず鼓動が高鳴るのを感じた。えっ、おれちょっとでも意識してるのかよ、自分で自分に驚いてる。

「なら、もっとしっかり残せるかもしれない」

「残せる? 何を?」

「触れられないけど、綺麗なものがあるんだ。もうすぐ無くなっちゃうけれど」

「それは……」

「気になる?」

気になるか、訊きたいか。横になったチハルが、まるで誘い込むように問い掛けてくる。

「選んで」

「赤い薬か、青い薬か」

おれは――。

おれは。

 

 

ひたすら、ただひたすら歩いてく。どこに連れてかれるんだって思いと、この先に何が待ってるんだって気持ち。期待と不安が半々、どっちかって言うと不安の方がデカいかも。歩き終わったらどうなるのか、チハルは一言も言わなかったし、今も言わねえから。ゴールなしに歩き続けるのって、普通にどっかへ行くために歩くより数倍辛いんじゃねって思ってる。

おれがチハルを保健室へ担ぎ込んでから、五日が経った後だった。「行くよ」とだけ告げられて今おれはここにいる。休みだから家でだらけてたらほんと唐突に電話掛かってきてさ、それで一言「行くよ」だからな、マイペースにも程があるって。急いで荷物纏めて来たらこうやって山道歩かされてる。相手がチハルじゃなかったらぶっちして帰ってる、絶対。

先を行くチハル、迷わずに歩いてるからには行き先が分かってるっぽいし、何度か行ったことがあるんじゃないかっておれは思う。その割にはおれと同じくらい辛そうだけど。なんでこんなところ歩いてるんだろうな、マジでそういう気持ちはある。チハルのやつ何考えてるんだ、ってのも。

だけど。だけど、なんとなく着いていかなきゃいけない気がした。チハルが今まで見たことないくらいに真剣な顔つきしてたから。

「もうすぐだよ」

歩いて歩いて、歩きまくって。息を切らせながら、チハルはおれにゴールが近いことを教えてくれた。もうあと少し、深く考えずに前へ進もう。到着したらどうなるのかは、着いてから確かめればいい。何もない、なんてことはないはずだから。

チハルに「もうすぐ」って言われてから三分くらいして、急だった坂道がぷっつりと途切れて平らな道になるのを感じた。重かった足取りが幾分軽くなる、ホッとしたのも束の間、歩き優先で抑え込んでた痛みとか疲れとかがドバっと溢れてくる。先導してたチハルが立ち止まって呼吸を整えてる、その隣でおれも一息つく。三月の終わりでだいぶあったかくなってきたせいか、どっちも額に汗が浮かんでる。持ってきたタオルをチハルに貸した。ありがと、チハルが受け取って顔を拭う。返してもらってからおれも続く。

落ち着いてから顔を上げてみる。今まですっげえ山ん中で道もろくになかったのに、ここだけ人の手が入ったみたいに開けて見晴らしのいい広場があった。真ん中に大きな池のある広場、ベンチとかあったら公園に見えるんじゃね、って感じだ。この時点で結構驚いた。なんでこの広場だけちゃんとしてるんだろうなとか、あの池なんでできたんだろうとか。おれの顔が予想通りだったっぽい、チハルがほんの少し微笑んでるように見えた。

「ここは?」

「向こうを見て」

言われるがまま見てみる、目をしっかり開いて、瞳全部を使って光を捉えようとしてる。チハルが指差した方向、そこに小さな影が見えて。

ナスビみたいな生き物、短い脚でちょこまか歩いてる。それも一体じゃない、二体、三体、四体……森の方からぞろぞろと群れを成して出てくる。どれだけいるのかちょっと見当もつかない、とにかくいっぱいいる。歩くナスビみたいな生き物(ポケモン)、その名前をおれは知ってる。

「チェリム、だよな」

「よく知ってるね」

チェリムくらいおれだって知ってる、って言い返す場面だ、普通なら。なんかそんなテンションじゃないんだ、チハルの言葉が喉渇いてる時に飲む冷たい水みたいに、スーッとおれの中へ入ってったから。

「チェリム。分類はサクラポケモン」

「ええっとあれだろ、太陽を浴びると花弁が開いた姿(ポジフォルム)になるの」

「うん。それが桜の花そっくりだから、サクラポケモン」

「幼稚園バスとかによく描かれてる」

「しょっちゅう見るね、言われてみると」

「で、もうすぐ夜だから、花弁が閉じた姿(ネガフォルム)になってる」

「そうだね、普通なら」

普通なら、やたら含みのある言葉。集まっていくチェリムから目線が逸れてチハルの方に向く。

「こっち見てる場合じゃないよ」

おれの全部を見透かしたみたいに、チハルが心なしか弾んだ声で前を向くよう促す。

目を向けた先、花弁が閉じた姿(ネガフォルム)のチェリムたちの群れがいる。思い思いに歩いていたそいつらが池の前で急に立ち止まって、全員揃って空を見上げた。花弁閉じてるのにで空見えるのかよって普段なら思うだろうな、だけど今はそういうこと考えてる余裕なかった。水面に浮かんだモノを目にして、おれも一緒になって空を見上げる。すっかり夜の帳が下りた空は、太陽が完全に姿を消して見えなくなってる。けれど陽光とは違う――月光がおれたちを、チェリムたちを照らしている。月がある、おれが認識した瞬間だった。月光を浴びたチェリムたちに、予想もしてなかった変化が起きて。

「見逃しちゃダメだよ。じっと見て、目を逸らさずに」

「えっ――」

チハルが言ったホントすぐ後。チェリムたちが一斉に光に包まれて、姿かたちを変えていくのが目に飛び込んでいた。固く閉じられてた花弁、それがぱーって開いてくんだ、太陽が水平線の向こうから昇ってくるみたいに、眠りから覚めて瞼が上がるように、階段を上りきって地下から地上へ出て来たみたいに。どうしてだ、太陽が沈んで夜になったのに。浮かんだ疑問は目の前の光景にかき消される。何か考えてる余裕なんてない、チェリムたちが開花する瞬間を、カラダ全部を使って見てたいから。見ること以外の感覚が全部吹っ飛んで、おれの目がチェリムたちに釘づけにされる。

花が、桜の花が咲いていく。一斉に、月の光を浴びて、新たなセカイが始まるように。

「これ、いったい」

「ビックリしたでしょ」

「した。けどさ、アレじゃん。チェリムって陽が出てる時じゃなきゃ咲かないじゃん」

「普通はね、普通は。でもあの子たちはちょっと特別」

「特別」

「雲の無い夜、月光を浴びて咲くんだ」

「月の光を」

「こんなの他じゃ見られないよ。知ってる人だって少ないし。わたしのお気に入りの場所、大切な場所」

開花したサクラ――チェリムたちを見てる、一瞬だって目を離さずに、瞳へ焼き付けるみたいにして。忘れたくない風景だって思った、記憶に残しておきたい光景だって感じた。だから瞬きもせずに全力で目を見開いてたんだけど、そうしたら不意に目が痛くなった。なんだなんだ、って目を細める、手をかざす。辺りに強い光が差したみたいになってる、その理由はすぐに分かった。

フラワーギフト、意識しないうちに言葉が漏れる。チェリムには他のポケモンには無い特別な性質があるって聞いた。晴れになると自分の持ってる力が増す、ってやつ。しかもそれだけじゃない。近くにいるポケモンの力も引き出して、一緒に強くなるって話だ。それをトレーナーたちは「フラワーギフト」って名前で呼んでる。力の贈り物をするから「フラワーギフト」。なるほど納得。いっぱいいるチェリムがお互いにお互いの力を高め合って、いつもと比較にならないくらいのパワーを迸らせてる。強い力が光としてあふれ出して、おれの目にも見えるくらいになってる。そういうことだ。

光り輝く大輪の桜たち。ため息が出るくらい綺麗で、例えようもないくらい美しくて。ずっと目を奪われて見惚れてたから、隣のチハルがおれの方を見てるって気付くまでにすっげえ時間が掛かった。気配を感じてほんの少し右に目を向けたら、チハルがおれの方をじいっと見てたんだ。それも笑って。意地悪な感じじゃない、嬉しそうな顔、楽しそうな顔、心から。

いい顔してる、反射的にそう思うほどに。

「お花見だね」

「夜桜見物、だな」

「へぇ。結構シャレたこと言うじゃん」

「あ、いや」

「いいよ、褒めてるんだから」

なんでだろう、なんでだろうな。胸が跳ねそうになった、キュンとして。側にいるチハルの表情が、仕草が、声色が、全部いつもと今までと違って見える。「違う」にもいろいろ種類あるけど、なんだろう、艶っぽいって言っていいのかな。関わりの少ないクラスメートの一人だとしか思ってなかったのに、チハルのことすっげえ意識してる。「女子」だって目で視てる。おれがどぎまぎしてるのを全部見透かしたみたいに、チハルが目を細めて笑う。その姿にもまた目を惹かれてるのを自覚する。

おれ、チハルのこと、好きになりかけてる。いや、まだ「なりかけてる」なのかな、もう「なってる」のかも知れない。

チハルがコートのポケットからスマホを出す。間を置かずに、カシャッ、シャッターを切る音が聞こえた。写真を撮ってる、前にも見た姿。自分の見たものを記憶に残したい、そんな風なこと言ってたっけ。分かる、こんなに綺麗なんだから。忘れたくないって思うのは当然だ。カシャッ、カシャッ、カシャッ。何枚も撮ってる、天衣無縫に舞い踊るチェリムたちを、月光に照らされて輝くサクラを。撮って撮って、撮りまくって。

「だめ。いまいち」

だけど、チハルは満足していない様子で。

「なんか引っかかるとか?」

「写真に映らないんだ。わたしたちが今見てる、本当の風景」

「そうなのか」

「言うでしょ。写真には残せない場面僕ら生きてる、って」

「どっかで聞いた気がする」

「ね。だから」

だから、チハルがその言葉を口にした瞬間、おれのカラダを電流が走るような感覚が駆け抜けた。これから何を言われるのか、何を頼まれるのか、千パーセント絶対間違いないっていうでっかい確信がおれの中に生まれるのを感じた。

「だから――絵を描いてほしい?」

「すごいね。分かっちゃうんだ」

「それしかないって思ったんだ。やっぱり合ってた」

「わたしは今見てる風景を、ケイゴ君と見てる風景を忘れたくない。残しておきたい」

「おれと、見てる」

「ケイゴ君に絵を描いてほしい。ケイゴ君に」

リュックを下ろす、スケッチブックを取り出す。何か描いてほしいんじゃないか、その予感があったから、下ろしたてのスケッチブックを突っ込んでおいた。予感って当たるもんなんだな、思った通りの流れになった。迷うことなんて一つもない、描いてやる、必ず描いてやるんだ、おれが見たセカイを、チハルが残したいと願う全部を。

他でもないおれに描いてほしい、それがチハルの願いだから。

意識を集中させて鉛筆を握る。普段はシャーペン、だけど本気出す時は鉛筆使ってる。鉛筆の方がおれのカラダとひとつになってる感じが強くするから。チェリムたちは絶えず動いてる、だからそのままなぞるってことはできない。一瞬を切り取って、その一瞬を鮮明にするために神経を研ぎ澄ませる。白紙に覆われた風景の向こう側を見据える。おれに描かれたがっている風景は何か、スケッチブックと眼前の風景に繰り返し問い掛ける。

チハルが隣でおれの絵を見てる。時折チェリムたちの方も見てるけど、どっちかって言うと絵の方が気になるって感じで。チハルをがっかりさせたくない、その思いが腕に力を与える。おれが見たものは何か、どうすればカタチの無いおれの気持ちをスケブへ顕現させられるか。マジで難しい題材だって思う、だから熱が入る、やってやるぞって気になる。負けねえ、って本気になる。

他とは違うチェリムたち。月光を浴びて咲く桜。どうしてなんだろうな、スケブに鉛筆を走らせながら考える。普通じゃない、そうチハルは言ってた。きっと特別なチェリムたちなんだ、あいつらは。他じゃ見られない、ここにしかいない不思議なチェリムたち。それを今、おれは見てる、おれは描いてる、チハルの隣で、チハルと一緒に。

「もし」

「もし?」

「わたしがポケモンに触れたら、あの子たちの誰かを連れて行きたい、そう思うのかな」

チハルの問いかけを、おれはぐっと噛み締める。

池の水面に映った輝く月、遠巻きに見る美しいチェリムの群れ。どっちも触れることのできない存在、手に取れずただ見ることしかできないモノ。そこに在ることをその手で確かめられない儚さ。次の瞬間には消えてしまってもおかしくないセカイを、おれはその手で残そうとしてる。チハルのために、チハルの願いを叶えたいっていうおれのために。

描いて描いて、描き続けて。時間を忘れて描いたのは久しぶりだ、本当にそう思う。チハルに見せられるところまで持って行けた。何度も確かめる、おれの見た風景とズレてないか、おれが残したいと思ったものが抜けてないか、悔いはないか、迷いはないか、憂いはないか。ない、ない、ない、ない、ない。何もない、これがおれの全身全霊、できることの全部を叩きこんだおしまいの姿だ。顔を上げてチハルを見る。小さく頷いて、チハルにスケブを差し出した。

「これが、ケイゴ君の絵」

描かれているもの。飛び跳ねるように踊るチェリムたち、池に浮かんだ円い月。おれの目を釘付けにしたものをありのままスケブへ描いた。それだけじゃない。チェリムと月を見てるおれたち、おれとチハル。その後ろ姿も一緒に。チハルがそれを指差す、わたしたちだよね、問いかけというよりも確かめるような声色。そうだ、おれが応える。おれたちもまた、サクラと月の織りなすこの風景の一部だから。

緩む、頬が、チハルの。優しい顔つきしてる、内側から溢れてくる嬉しさや喜び、そういうポジティブな感情が思いっきり顔に出てる。さながら、大きく花開いたチェリムみたいに、それこそ、目と鼻の先で月光を浴びて輝いてるチェリムみたいに。

「わたしたちも居るね、この絵」

「今ここにおれたちもいるからな」

「そっか。うん、そうだよね」

スケッチブックを抱きしめる。ぎゅっと、強く。おれとチハルが見たもの、チハルとおれしか知らない光景。一瞬を切り取ったおれの絵、それをチハルは強く抱きしめてる。ああ、これだ、これなんだ。おれが見たかったのは、おれがみたいと思っていたものは。おれがチハルのために絵を描く、チハルがおれの絵を受け入れてくれる。

おれは、これが見たかったんだ。

「大事にする。大事にするよ」

そう口にしたチハルは、月の光を浴びたからか、チェリムたちの光に照らされてるからか――あるいはどっちもか。いつもとは違う輝きをまとっている、おれにはそう見えた。チハルが本当に光ってたのかは分からないし、どうだっていい。おれの目はチハルを見ていて、チハルは光り輝いてる。ただそれだけでよかったんだ。

チハルがスケッチブックを下ろして脇に抱えたすぐ後。にわかに空気がざわつく。なんだ、目を凝らして辺りを見回す。原因はすぐ分かった。月の下で遊んでいたチェリムたちの様子が、明らかに変わっていて。

「飛んでく、空に……チェリムたちが」

「来ちゃったみたいだね、お別れの時が」

チェリムたちが飛んでいく、森から来たチェリムたちが、次々に空へと飛び立っていく。

お別れ。チハルの紡いだ言葉にこもった意味、おれにもすぐに分かった。チェリムたちは戻ってこない、ここを飛び立って、ここではないどこかへ向かおうとしてる。桜の花びらが散って空を舞うように、チェリムたちが一輪、また一輪と、月輪の浮かぶ空へとその身を投げ出してゆく。

「もうここにはいられない、見つかってしまったから」

「おれたちじゃない、別の誰かにか」

チハルは答えない。だけど否定もしない。だから、おれはおれの言ったことが当たらずといえども遠からず、ということを自覚する。お別れ、チハルの言葉がリフレインする。これが最初で最後、もうこの場所へチェリムたちが来ることは無い。月の下でたくさんの桜が大輪の花を咲かせることはない。

おれとチハルの見たセカイは、おれとチハルの中にしか残らずに、どれだけ手を伸ばしても届かないところへ行こうとしているんだ。

「ケイゴ君。これだよ、わたしが見せたかったのは。わたしが一緒に見たかったのは」

空へ手を伸ばしたチハル。届かないものへ手を伸ばしているのは、その手が届かないことを感じるために。おれにはそう見えた、そうにしか見えなかった。

すべてのチェリムは飛び去って、一輪残さずいなくなった。月に照らされたチハルは輝きを増して、おれの眼前に佇んでいる。他に並ぶものなんて一つも見つからない、たった一つの天辺にある存在。隣に立つおれは、ただ。ただ、見惚れるばかりで。

「忘れずにいてくれるかな、ケイゴ君は」

「ここで見たものを、ここで起きたことを」

視線を投げかけてきたチハルの手が、すっとおれに伸びてきて。おれは、差し出されたチハルの手をそっと取り上げて。

月光の下で、ふたつの影がひとつに交わるビジョンが視えた。

 

 

お別れ会とかってさ、小学生しかやらねえのかな。別にやっちゃいけない法律とかあるわけじゃないと思うんだけどな、そういうもんじゃないか。当の本人がもうここにいないんだから、やろうって言ったってできっこないんだけど。

チハルは次の四月が来る前に、どこか遠くへ転校していった。引っ越すなんて話は聞いてない。どこへ行くとかも知らないまま、何も言わずに行っちまった。元の担任に何組にいますかって訊いたら、転校したって言われて知った。あっけないもんだ、そう思うしかなかった。チハルが居なくなったって実感が持てなくて、だけど三年に上がった後の教室にチハルの姿はなくて、学校中探しても面影さえ見当たらなくて。

ああ、いなくなったんだ。おれのセカイから、チハルは去って行ったんだ。

「エーテル財団、か」

後になっていろいろ聞いた。本人が居ないから全部嘘かホントか分からない噂になるけどさ、チハルはエーテル財団ってところの職員の子だったらしい。ポケモンを保護してる団体だって聞いた。それも稀少なポケモンを。あんまりいい印象を持ってないやつもいるって聞いた、だからかな、あんまり周りとつるもうとしなかったのは。周りと関わろうとしなかったのは。

じゃあ、なんでおれに関わろうと思ったんだろう。なんでおれに絵を描いてくれって頼んだんだろう。なんでだろう、って言いながら、その理由をなんとなく分かってる気がするおれがいて。

チハルはチェリムたちに教えたのかもしれない、自分たちを捕まえようとしてるやつが来るって。それであの場所を離れる日を知ってて、おれに見せてくれた。それは多分、おれに見せたかったから、おれに見てほしかったから。

自分しか知らなかった光景を、自分の記憶の中にしか残らないかも知れなかったセカイを、チハルはおれに教えてくれたんだ。

 

何回かの春が過ぎて、おれも周りも変わっていって。忙しい日々の中で時折チハルの姿を思い浮かべる、そんなことを繰り返してた。

「桜の花、今年も咲いたな」

歩き慣れた道に植えられた街路樹、桜の花が咲く。毎年おなじみの風景、あの日までなんとなく通り過ぎてた道。今は少しだけ見方が違う。桜の花が散る風景に、遠くへ行ったチハルの姿がオーバーラップする。

あの「お花見」は夢だったのか、それとも現実だったのか。夢だったようにも思う。あまりにも早く過ぎて行って、ため息が出るくらい幻想的で、おれがそこにいた実感がずっと持てなかったから。

だけど、と反撥する。使い古されたスマホを弄って、アルバムのページをパラパラと送っていく。一年前、二年前、三年前、見慣れた写真を見つけてピタリと指先を止める。メールで送られてきた写真、ただの一枚だけ手元に残った写真。

空を舞うチェリムたち、池に浮かんだ円い月。それは確かにあの日見た世界、チハルとおれのいたセカイ。あれが現実に起きたことだって認識させてくれる確かな存在、それは間違いない。間違いのないことだけど。

「ああ――本当に、チハルの言う通りだ」

写真をこの目で見るたびに実感するんだ、あの時聞いたチハルの言葉通りだって。

桜と共にチハルは消えて、今はもう手の届かないところにいる。どこにいるのかも分からない、どれだけ手を伸ばしても、その手の先にチハルがいることはない。それはさながら、チハルがチェリムたちへ手を伸ばしたときと同じように。

触れることのできない美しい存在。記憶の中にだけある光景。池に浮かんだ月。チハルにとってのチェリム。

あるいは、おれにとってのチハル。

「チハル、忘れない。おれは――忘れないからな」

風に舞う桜の花弁を追って、ゆっくりと視線を上げる。

あの日飛び立ったチェリムたちとチハルのいる、空の向こう側を見つめるようにして。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。