トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

目は口ほどにものを言う

手にした綿あめに思いのほか質量を感じて、これが砂糖を熱して伸ばしたものだということを忘れそうになります。綿あめは綿あめでしかなくて、砂糖で作られているという事実を頭で確かに認識しているはずだというのに。

頭に載せて顎ひもで留めたお面を、ほんの気持ちだけ後ろへずらして。

「またですか。またいつものやつですか。もう、飽きないですね」

いつもより少し大きな声を上げてみました。祭囃子にかき消されないように、声が間違いなく届くように。どうしてそうしたのか、自分でも分かりません、理解できていません。嘘、それは嘘です、事実じゃありません。

それは正しくない、適切じゃないことです。本当は分かっている、理解しているんです。

「いいんですよ、この綿あめ食べちゃっても」

「カロリー計算はバッチリですからね、これを食べても一日の摂取カロリーはぎりぎりセーフです」

言葉ではそう言っていたけれど、口は喋ることに意識を向けていて、綿あめを食べようという気にはならなくて。なれなくて。

はあ。ため息が漏れる、ごく小さな、けれどハッキリと。ため息の意味を己に問う。意味を与えないと、生じた義務感が閉じた口を開かせて。

「やれやれです。そっちのペースに合わせる方の身にもなってほしいものです」

「分かってるんですよ、ばっちり。どうせ私の言ってること、全部聞こえてるんでしょう」

「もう慣れっこですしね、慣れっこ。無駄ですよ、これからもこんな感じで残念な反応していきますからね」

誰に向けて言っている言葉なのか、自分でも分からなくなりつつありました。その事実から目を逸らしている、目を逸らしていることからも目を逸らして、さらにそこからも目を逸らして。私の目はどこへ向いているのだろう、どこに向けられているのだろう、どこを向こうとしているのだろう。

目を逸らして、見えないふりをして。だけど本当は見えている、見えているんです。

「珍しいじゃないですか」

「普段なら、もう我慢できずに飛び出してくる頃なのに」

「出てこないじゃないですか」

見えていないことが――見えているんです。

 

 

制服のリボンをぴしっと伸ばします。不恰好によれていないことを鏡で確かめます、確かめるまでもなくピンと伸びています。髪は一本残らず同じ長さで、ブラウスにも皺ひとつありません。当然です、身だしなみに気を遣うのは学生の基本ですから。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい、マリちゃん」

母に見送られつつ、登校のため家を出ます。

申し遅れました。私はマリ、山村マリと言います。十五歳、今年進学したばかりの高校一年生です。得意な科目は英語と国語、苦手な科目はありません。好きな食べ物は大福と里芋の煮転がし、嫌いな食べ物はありません。得意なこと、好きなものはあっていいと思いますが、苦手なこと、嫌いなものは克服すべきというのが信条です。

他の人は私を「真面目」と言います。よく言われます。事実です。私は自分を真面目だと認識しています。真面目であることに何の躊躇いがありますでしょうか、私は自分の在り方を正しいと信じています。他の人に強制することはしませんが、私は私の在り方を変えるつもりもありません。ですので、不真面目は許せません。いけないことだと思います。しかしです、もっと許せないものがあるんです。

私が許せないもの、それはエセ科学やオカルトの類です。とても嫌いです、英語で言うならスーパー嫌いです。それらの中でも「幽霊」! 幽霊は特に嫌いです、エクストリーム嫌いです。幽霊なんてものは実在しないと決まっているのに、長きにわたってたくさんの人を惑わします。なんとも不埒な存在としか言いようがありません。非科学的な存在は認めません、絶対に認めません。

幽霊なんて、この世にいるはずがないのです。

「おはようございます」

「あ、マリちゃん。おはよー」

同級生の方と挨拶をします。朝の挨拶は生活の基本、欠かすべきではありません。カバンを席に置いて教科書とノートへ机へそっと差し入れます。中には置きっぱなしにしている人もいるとのことですが、家での自習に支障が出ます。ですので私はすべて持ち帰っています。これもまた当然です。家でも自習を欠かさず常に勉学に励むべき、これもまた私の信条です。

黒板消しがチョークの粉で汚れているのが見えます。これはいけません、授業に支障が出るかもしれません。クリーナーへ持って行って黒板消しを綺麗にします。たったこれだけのことで気持ちよく授業を受けられるのですから、やっておいて何も損はありません。すべて綺麗にしたところで自席へ戻り、参考書に目を通します。後は授業が始まるのを待つのみ、です。

さて、一時間目は数学です。得意な教科が最初に来ると気が引き締まっていいですね。

「この問題が分かる人、挙手してください」

授業中にはこうして自主的な挙手が求められる場面が多々あります。気後れして手が挙がらない、という方もいるでしょうが、私は違います。

「はい、山村さん」

積極的に手を挙げて解答すべきです。前に出て回答を黒板へ書きつけます。既に答えは分かっているのですから、何も躊躇う必要はありません。堂々として行きましょう、胸を張って生きたいと常日頃から思っていますから。別に胸が出ていないことを気にしているわけではありません。そう言う話はまったくしていません。関係ないことをあれこれ言うのは失礼です。

黒板に書いた答えを見て、先生が「そうですね、これが正解です」と言います。あくまで当然の結果です、驚くようなことは一つもありません。きちんと講義を聞き、予習復習をこなしていれば、授業中に出題される問題は必ず解けるはずですから。

日頃から備えていれば慌てる必要はありません、つまりはそういうことなのです。

 

そのまま授業を受けて、お昼休みを挟み、残る授業を終えて放課後となりました。普段私はすぐには家へ帰らず、図書室で少しばかり読書をしてから帰宅しています。今日もまたその例に漏れません。本日借りて読んでいるのは「悪童日記」。古典の名作ですね。今日はこちらを手に取りましたが、最近刊行された書籍もよく読んでいます。本に貴賤はありません、血肉にするもしないも己自身の読み方に掛かっています。ええ、例によって私の信条です。

書かれた文字を追うことに神経を集中させて、雑念を棄てて本と向かい合います。読書というのは頭の運動であると、常日頃から思っている次第です。神経を研ぎ澄ませることで物語が描こうとする風景・感情・その他諸々を脳裏に思い浮かべ、自分もその一部となるくらいに深く没入する。読書の在り方は人それぞれですが、私の理想はこのようなものです。「悪童日記」の主人公であるリュカとクラウスの……

「それでさぁ、御影ちゃんが走って行っちゃってぇ」

「うん、それでそれで?」

読んでいたページにしおりを挟み、ぱたん、とあくまで丁寧に本を閉じます。本は繊細にできていますから、乱雑に扱うようなことは禁物です。お喋りをしていた同級生にスッと目を向けると、相手方も私の存在に気付いたようです。微妙な空気のまま口を半開きにしています。例を示すべく、私は口を結んで無言のまま人差し指を当てて、

(静かに)

の仕草をして見せます。どうやら意図が伝わったようですね、二人がお喋りを止めて静かに本を読みはじめました。やれやれ、初めからそうしてほしいものです。

眼鏡を軽く直して、読書を再開します。よくある風景、いつもながらの光景です。

じっくりと読書したところで、終業のチャイムが鳴りました。速やかに家路に就きましょう。もちろん寄り道などすることはありません。まっすぐ家まで帰ります。買い食いなどもってのほかです。食事は家できちんと取りましょう。私は母と一緒に夕飯の支度をしています。きっと母も帰ってくるのを待っていることでしょう。

登校してきた道をそっくりそのまま逆に辿って歩いていきます。途中で信号のない交差点があるので、よく左右を見てから渡るべきです。この辺りはかつて交通事故が起きたとも聞きました。見ると時折花が供えられていることがあります。事故はあってはならない悲しい出来事です。未然に防ぐためにも、十分注意して歩きたいものです。

「ですが、私が注意していても、車の方が無謀な運転をすることがあるのが困りものです」

この帰り道でも、かなりの猛スピードで走って行く自動車を目撃しました。接触すれば文字通りひとたまりもありません。自動車が来る気配がないかしっかりと確かめてから道を渡ります。そろそろ信号や横断歩道が付いてもいいと思うのですが、なかなかここまで手が回らないようです。

交差点で揺れる花を横目に道路を渡りきれば、あとは安全な歩道を歩くことで家まで帰ることができます。一安心です。

「ただいま帰りました」

学業は学生の生業、そしてきちんと家に帰るまでが学業です。午後五時ぴったりに家まで辿り着くと、留守を守っている母に報告を兼ねて挨拶をします。

「お帰り、マリちゃん。今日もお疲れさま」

「買い物は大丈夫ですか。必要なものがあればすぐ買ってきます」

「今日はいらないわ、昨日マリちゃんが行ってきてくれたから」

「分かりました。では、夕飯の支度をしましょう」

「マリちゃんはしっかりしてるわね、少し休んでからでもいいのに」

カバンを自室に置くために階段を上って二階へ向かいます。その後はすぐ母と一緒に夕飯の支度です。休むのはその後で何も問題ありません。

こうして、今日もまた私の平穏な一日が無事に過ぎていく、というわけなのです。

 

休日には散歩を欠かさない、私の数ある習慣のひとつです。家に籠もっていては健康的ではありませんし、外の空気を吸うのは大事なことです。かと言って街中へ遊びに出ていくのは間違っています。散歩は適度な運動を伴う健康的な活動と言えます。何か武道のひとつでも嗜んでいればそれに打ち込めたのでしょうが、あいにく私は体力に自信がありません。日頃から克己の姿勢は欠かしませんが、己を知り無理をしないこともまた大切ですから。

散歩のルートはある程度決めています。当てもなく歩くのは好ましくありません、何事も明確な目的を定めて進めるべきでしょう。散歩もまた同じです。通学路を少し大回りする形で進んだのち、商店街を抜けて復路は川沿いの道を進み、交差点で元の道へ復帰するという流れです。所用時間はおよそ一時間、必要十分な距離と言えるでしょう。

交差点、いつも通っているあの場所です。今日もまたそこへ差し掛かりました。以前お伝えした通り、ここには信号がありません。そしてどうも自動車が速度を上げて突っ込んで気やすい場所のようです。十分に注意を払って渡る必要があります。右・左、もう一度右、念のため左。何も来る気配はありません。少しだけ歩くペースを速めて反対側の歩道へ。やれやれ、無事に渡り切ることができました。徹頭徹尾平穏無事な生活を送りたいのが信条ですが、この交差点がある限り叶いそうにありません。

ふと、交差点の角に目が向きました。歩いていた足も止まります。目線の先では花が揺れています、白い百合の花です。ここに咲いている――わけではありません。舗装されたコンクリートの上に咲けるほど、百合は強くないことを知っています。手向けられています、正しくは供えられています。束になった百合の花がそっと置かれて、誰かを悼んでいるようです。恐らくはここで数年前に起きたという交通事故を受けてのことでしょう。誰が被害に遭われたのかは分かりませんが、痛ましいことです。遺された方の心情を慮ると、美しい花を手向けたくなる思いも理解できるというものです。

「あの花いい感じでしょ? お母さんがチョイスしてくれたの」

なんですか急に声を掛けてきて。いわゆる「怪訝な顔」というべき表情で声のした方へ向き直ります。しかしながら、不可解なことに辺りに人の姿は見当たりません。右でしょうか、誰も居ません。左でしょうか、人影は見当たりますが男性の方です。聞こえたのは女性の声、それも恐らくは同年代のものでした。誰でしょうか、挨拶もなしに話しかけてきたのは。

「えっ、もしかして聞こえてたりする?」

また声が聞こえます。しかし近くに人影はありません。なんというか、綺麗な言葉ではありませんが、からかわれているような気がしてなりません。

「どなたですか、私に声を掛けたのは。人をからかうのははしたない行為ですよ」

と強めに言ってみましたが、周りの人たちは何やら不思議そうな顔をして私を見ています。どういうことでしょうか、ちょっと好ましくない雰囲気です。まるで……私が独り言をぶつぶつ言っているかのような。しかし、しかしです。確かに声が聞こえるのです、背中から、聞き覚えのない女子の声が。どうも嫌な予感がします、具体的にどうこうという訳ではありませんが、今の状況に適切な説明をすることがどうにもできそうにないのです。

声のした方向、すなわち背中へ振り返ります。ゆっくりと、十分な時間を掛けて。そこで私は、声の主と対面しました。

「ちょっと、誰ですか貴女は」

「うち? うち菜々子! 永遠の十六歳!」

「私は十五です。って、年齢は訊いてませんっ。なんですか一体、急に声を掛けてきたりして」

「めんごめんご、というか、やっぱうちの声聞こえてる?」

「聞こえるに決まってるじゃないですか。聴力検査はいつもパーフェクトです」

「すっごぉーい! マジで聞こえてるんだ! こんな子初めてだし!」

ちょっと意味が分かりません。こいつは何を抜かして、いえ失礼、この方は何を仰っているのかさっぱり分かりません。当然ながら面識もありません。私がこんな不埒な茶色に染めた髪の人と付き合いがあろうはずがありません。制服は私の通っている高校のモノと同じですが、顔も見たことのない方です。

「ふざけてるんですかっ。大体なんですかその髪は、茶髪なんてはしたないですっ」

「えっ見えるの? 姿も見えてるわけ?」

「見えてるに決まってるじゃないですか。視力検査はいつもパーフェクト……って同じこと言わせないでください!」

「うっわー、聞こえてるし見えてるし、マジ最高ってやつじゃんこれ!」

「さっきから一体何を訳の分からないことを……」

どうにもこうにも噛み合わないまま勝手に話が進んでいっている気がします。好ましくありません、非常に好ましくありません。一方的に流れを掴まれるというのは何とも不愉快なものです。もう一度この方の姿かたちを確かめてやりましょう、ということで、足元に目を向けました。

足元は――ありませんでした。

いえ、正確に言うと完全にないわけではないです。無いわけではないって二重否定ですね、不適切です。正確に言いましょう、存在はしています。しかしその存在の仕方が非現実的、非論理的、非科学的の三拍子揃ったものになっているのです。まったく揃っていてほしくないものがどうしてこう綺麗に揃うのか。言葉を尽くして表現してみますと……ええ、脚が透けています。ふくらはぎの辺りから急に薄くなっていって、足首からはまったく見えません。見えるのは地面、アスファルトで舗装された地面のみです。

「……は?」

と思わず礼儀も何もない声を上げてしまうくらいには驚きました。少しのことでは動じないと自負していますが、さすがに目の前で足元が透明な女子を見て落ち着けという方が無理筋ではないかと思う次第です。ええっと、なんでしょうこれは、新手のファッションとかでしょうか、光学迷彩みたいな。いやいや光学迷彩はまだ実用には程遠かったと記憶していますし、あれは確か軍事用です。眼前の方はどう見ても軍の関係者などには見えません。光学迷彩の線は無いでしょう。だとすると……何なのでしょうか。

「ふっふーん。うちの脚綺麗でしょー? こー見えてもお手入れは欠かさなかったし!」

「いや、そうじゃないんですが」

「あ、途中で消えてるやつ? ほら、うち幽霊だし」

「ゆゆゆ幽霊!?」

そんな馬鹿な、と目を疑います。目の前の方は自称幽霊とのこと、透明になってる足もそれが理由だとか。何が何だかさっぱり、いえ皆目見当もつきません。先ほどから言葉遣いが乱れ気味ですが、率直に言ってそこまで気に掛けている余裕がありません。

「はっ、まさかあの花は」

「そ。うちにお供えしてもらった花だよー。綺麗でしょ? お母さん花選ぶのうまいからね!」

なるほど話が見えてきました。この交差点で起きた交通事故、それで目の前にいる女子の方が亡くなられた、あの花は子の人のためにお供えされた、そしてどういうわけか今私の前にいる。ようやく個々の要素が一本の線に繋がったと言えるでしょう、着実な進歩ですね。

幽霊? 私が幽霊を見ていると? そういうことになるのですか?

「周りには誰も居ません、私一人だけですね」

「えっ、ちょっちょっ」

「きっと疲れているのでしょう、行けませんね、幻聴に幻覚とは」

「おーい、ちょっとー、幻覚でも幻聴でもないってばー」

「今日は帰って休むべきです。明日からの学業に差支えが出てはいけません」

ええ、はい。私は何も見ていません、何も聞いていません。疲れから生じる思い込み、感覚の異常でしょう。今の私に必要なのは十分な休息、他を置いてありません。休みましょう、休みましょう。そうすれば元通りになるはずです、私はそう信じています。

通常の倍くらいの速さで早歩きして家へ戻り、鍵を開けて中へ入ります。二階にある自室まで止まらず真っ直ぐ歩いていき、ばたん、と扉をきちんと閉めて一息つきます。やれやれ、ここまでくれば一安心です。私は何も見ていません、何も聞いていません。念押しでもう一回言い聞かせます。すべては思い込み、疲れから生じる脳機能の不具合、そう、そうなのです。そうに違いありません。

「おっじゃっましまーすっ!」

「はぁ!?」

えっ、ちょっ、どういうことなのこれ、なんなのこれ。はっ、いけませんいけません、言葉遣いが著しく乱れています。私としたことが、はしたないではありませんか。って、今はそんなことをいちいち気に掛けている余裕はありません。

「なぜここが!?」

「なぜここに、じゃない?」

「どっちでもいいですっ。どうして貴女にここが分かったのか、というニュアンスですっ」

「えっ、フツーに後ろから付いてきただけだけど」

「なら一言断ってください……って、あーっ! もうっ! 普通に会話しちゃってるじゃないですか私ーっ!」

ぶんぶんと全力で首を振ります、いけませんいけません、これは本当にいけません。このままでは私は幽霊と会話している人になってしまいます。幽霊、私は決してその存在を認めませんからねっ。これは幻聴です、幻覚です、すべては疲れた脳がもたらす架空の存在なのです。

「何も見えませんっ、何も聞こえませんっ」

「せーのっ、やっほぉーっ!」

「わぁ! ここ家ですよ!? 家で何大声出して叫んでるんですか!?」

「聞こえてないからだいじょぶだいじょぶ」

「聞こえますってば……いえ聞こえません! 一切聞こえません! びた一文聞こえませんっ!」

「どうして聞こえないふりするのー?」

「幽霊なんて非科学的で非論理的で非現実的だからです、いるはずがありませんっ。ましてや声が聞こえるなんてあるわけないからですっ」

「いるよ?」

「いませんっ」

「せっかくうちのこと見えてるんだから、もっと一緒に遊んだりしようよ」

「見えませんってば」

「えーっ。つまんないなぁ」

「こらっ、膝を立てて座るのは失礼ですっ。下着が見えてますよ」

「何色?」

「水色」

「やっぱ見えてるじゃーん」

「……って、こらぁーっ! 人をからかうのはよしなさい!」

「あ、こっちは白かぁ。真っ白だねっ」

「何見とるんじゃワレぇーっ!」

思わず汚い言葉遣いが飛び出すほどの怒りです。最悪です、最悪以外の言葉がありません。ぷち最悪などではなく百パーセットフルスペック最悪です。服の上から透視して下着の色を言い当ててくる幽霊とか今すぐ成仏してほしい以外の言葉がありません。なんでこんなのが見えてしまうんでしょうか、今まで幽霊だとかそういったものが見えた記憶はまったく無いというのに、なぜこの方だけ例外的に私の目で捉えられたのか、耳で声を聴けたのか、何一つ一切合切分かりません。一から十まで意味不明です。どなたか詳細を教えていただきたい次第です。

「うーん、ここ落ち着くなぁ。居させてもらうねっ」

「えっ……ちょっ、はぁ!?」

「ずーっと外歩いてて、たまに他の人の家上がったりしてたけど……うち、ここで住みたい!」

「いや、 何言ってるんですか貴女は、まるで意味が分からないんですが」

「だってさ、他に話し相手もいなくて退屈だったし」

「いけません、居候だなんて。家族、母に説明が付きません」

「ここにいるだけだから大丈夫だって。ほら、幽霊だからご飯食べないし」

「そ、それはそうですが……」

「よーし決めた! 今日からここで暮ーらそっ!」

「えぇーっ!?」

「いいよね? うんうん、おっけーおっけー!」

「よくありませんっ、出ていってください!」

理解不能です。ともかく部屋から、我が家から追い出さなくては、そう思ってぐいぐい押……そうとしたら、何も触れるところがなくて手は空を切り、その場で思いっきりずっこけました。見事なまでのずっこけです。おでこが床に直撃してとんでもなく痛いです、間違いなく赤くなっていることでしょう。酷い目に遭いました。何から何までこの自称幽霊のせいです。最悪にも程があります。

どうやら腕づくで追い出すことは無理そうです。何せ触れることができないのですから。腕ずくも何もあったものではありません。ということは、向こうが出ていく意思を見せない限りここに居着かれるということでもあります。冗談じゃありません、何ゆえに私がこのような自称幽霊を部屋に置いておかなければならないというのでしょうか。まるでさっぱり意味が分かりません。

「おかっぱちゃん面白い、見てて飽きないし!」

「誰がおかっぱちゃんですか。私にはマリというれっきとした名前があります」

「あっ、マリね、マリ。覚えたよ! うち人の名前覚えるの大得意だから」

「いいですか、私は貴女をこの部屋に……」

「で、ユリっちさぁ」

「早速間違えてるじゃないですか! マリですよマ・リ!」

「うちは菜々子! 好きなように呼んでくれていいよ」

「菜々子さん、ですか」

「カタいなぁー。もっと気楽に『ななっち』とか呼んでくれていいのにぃ」

「馴れ馴れしいです、その呼び方は。人の名前はきちんと呼ぶべきです」

「真面目なんだね、マリっちは。ま、とにかくこれからお世話になるんで、よろしくっ!」

「よろしくされても困るんですけど!?」

トントン拍子、いえ、これは良くないことなので本来正しくない用法だと理解しているのですが、何もかもうまく行かないまま、この菜々子さんと名乗る自称幽霊は私の部屋に住み着くことになりました。本気で意味が分かりません、なぜこんなことになったのかどなたかに説明を求めたいくらいです。しかし、しかしです。幽霊などという非科学的で非論理的で非現実的な存在のことを、私の口から誰かに相談することなどできますでしょうか。いいえできません、そもそも他の方には見えていないようです、相談したところでどうにもならないでしょう。

決して認めたくないのですが……どうやら、しばらくこの自称幽霊の菜々子さんと生活を共にする必要がありそうです。今から気が重くて仕方ありません。

「あ、そうだ。お菓子とかない? ポッキーとかビスコとか。ハリボーグミでもいいけど」

「ありませんっ」

 

 

菜々子さんという得体の知れない謎の存在が居候しようと、私が学業を修めるということには些かの変わりもありません。平時と同じように学校へ赴き、学生の本分たる学習に精を出して

「おー、マリっち余裕の登校じゃん。うちいっつもギリッギリだったからなぁ」

「ってぇ、何をしれっと学校まで着いて来てるんです!?」

「だって家にいてもすることないしー」

……という私の願いはもろくも打ち砕かれました。ええ、いるんです、すぐ隣に。あの菜々子さんとかいう自称幽霊が! どうやら私以外の人には本当に見えていないようです、教室に堂々と入ってきているというのに誰一人として気にする素振りを見せません、私一人を除いては。母も菜々子さんの存在に気付いていなかったようなので、今のところ本当に私にしか認識できていないのでしょう。意味が分かりません、なぜ私だけこんな目に。

「その辺をふらついてればいいじゃないですか」

「もうこの辺りは歩き尽したしなぁ」

「知りませんよ、そんなこと」

朝からため息が止まりませんが、ともかく普段通り授業を受ける準備をしなければ。鞄を机の上へ置いて、いつも通りの動作で教科書とノートを取り出します。私にとってはごく何気ないいつもの動作なのですが、隣の菜々子さんは妙に興味ありげに見ています。何が気になるのでしょうか、こっちが気になるというものです。

「へぇー」

「何がですか」

「マリっち置き勉しないんだ、って思って」

「しませんよ。きちんとすべて持ち帰っていますから」

「えらぁーい」

「これが普通です」

「うち置いてっていいやつ全部置いてたからなぁ」

「予習復習に支障が出るじゃないですか」

「宿題だけできればいいかなぁ、って」

やれやれ、意識というものが違いすぎます。自宅での予習復習は学業の基礎、そこを疎かにしていては応用で必ず躓きます。髪を染めていかにも遊んでそうな感じの菜々子さんですし、勉強はあまりやっていなさそうなイメージでしたが、どうやら間違ってはいなさそうです。宿題はやっていたようでちょっと意外、ではありますけれども。

お次は黒板消しのお手入れです。手に取ってみるといつものようにチョークの粉で汚れていますので、クリーナーに当てて吸わせます。繰り返しですが、こうした細かな心掛けが快適な授業と勉学に繋がるのです。

「ほほー、これ黒板消し綺麗にするやつだったんだ」

「ご存知でなかったのですか?」

「んー。使ってるとこ見たことなかったし」

「いいですか、こうして綺麗にしておくことでですね」

「うんうん」

「皆さんが気持ちよく授業を受けられるのですよ。分かりましたか?」

この精神、菜々子さんに理解できるものでしょうか。あまり期待できませんね、根本的にタイプが違う気がしてなりません。だからいっそう、どうして私にだけ菜々子さんの姿が見えているのか理解に苦しむというもの……

「マリちゃん、どうかしたの? 誰かと話してるみたいだけど」

「えっ? あっ、いえ、なんでもありません。ただの独り言です。お気になさらず」

「そっかぁ。マリちゃんが独り言って、なんか珍しいね」

いけませんいけません、周りの方に菜々子さんは見えていないということを失念していました。これでは虚空に向かってあれこれ話しかけている精神的に追い詰められた人のように見えてしまうではないですか。意識しなければ、菜々子さんは私にしか見えていないことを。

とまあ、私がこんな風に気を遣っているその横ではですね、やかましく騒いでいるわけですよ、菜々子さんが。

「ねぇマリっちぃー、おしゃべりしようよー」

「しませんっ」

「えぇー退屈ぅー」

はぁ、こんな調子ではまともに授業を受けることも叶いそうにありません。せめて会話している様子を怪しまれないように小細工をしなければいけませんね。カバンのポケットへそっと手を差し伸べて、中にしまい込んでいた物をそっと取り出します。折り畳まれたそれをパチンと開いて、すっ、とさりげなく耳に当てます。

「お? マリっちどっか電話?」

「違います。これでどこかに電話を掛けているふりをするんです」

見えない誰かと話をする、というシチュエーションは現実的にあります。普通にあります。そういう時に使うものはなんでしょうか? ええ、携帯電話です。どこにもつながっていない携帯電話を耳に当てて菜々子さんと会話すれば、違和感は少しばかり減じられるでしょう、という苦肉の策です。普段は滅多なことではカバンから出して使わないのですが、今は仕方有りません。やむを得ないのです。

「あっ、なるほどぉ! そうすればうちと話してても怪しまれないってわけだ、あったまいい!」

「怪しまれるって分かってるなら静かにしててくださいっ。それにこんなしょうもないことで頭いいとか言われても嬉しくありませんっ」

「いいじゃんいいじゃん。これで何話してても大丈夫なわけだし」

「いいですか、今だけですからね。授業中は静かにしててくださいね」

「っていうかそれガラケー? スマホじゃなくて? 買わないの?」

「要りません。電話とメールができれば十分ですから」

「えーっ、うちスマホがいいよぉ、スマホ触ってみたいー」

「元々物体には触れられないでしょうがっ」

がららっ、そうこうしている内に扉を開けて担任の内田先生が中へ入ってきました。朝の会が始まります。一時間目はちょうど内田先生が担当している国語ですので、このまま授業へ入ることになるでしょう。携帯電話を片付けて連絡に耳を傾けます。横で菜々子さんが「朝の会とか久しぶりー」とかなんとか言っていますが、今はスルーです、スルーしましょう。

一応何事もなく朝の会を終えて、さあ授業開始です。教科書とノートを机から取り出します。こうすると気が引き締まりますね、勉学に打ち込むぞ、という気分になります。さあ今日も張り切って

「ねーねーマリっち、ヒマだからあっち向いてホイしよ?」

「ってぇ、これから授業ですよ!?」

「だってうち席も教科書もないしー」

「菜々子さんは正規の生徒じゃありませんから」

「元生徒なのになー」

……張り切って行きたかったのですが、ダメそうです。ダメダメそうです。菜々子さんが授業を受けさせてくれそうにありません。というかこの歳になってあっち向いてホイはないでしょう。菜々子さんの趣味というか好きなことというか、そういうのはさっぱり理解できません。不真面目で子供っぽいというのは間違いないと思いますが。

授業が始まりました。教科書の朗読、ノートへの書き取り、問いへの回答。いつもと変わらぬ平常通り、受け慣れた授業の風景、そのはずなのですが、隣でふらふらしている菜々子さんのせいで気が散って仕方有りません。このままだといつぺちゃくちゃと喋り出すか分かったものではありません。小声、とにかく小声を意識して、菜々子さんにあらかじめ釘を刺しておくことにします。

「菜々子さん、授業は静かに受けてくださいよ。騒いだりしたらダメです」

「大丈夫だって、うち生きてる時ずーっと静かにしてたよ? 寝ちゃうこと多かったからすっごい静か!」

「授業中にグースカ寝る人がいますかっ」

「だってさぁ、話聞いてると眠くなっちゃうしぃ」

「早く寝ればいいだけの話じゃないですか」

「そうは言うけどぉー。あ、そうだそうだ。マリっちいちごショート派? いちご大福派?」

「いちご大福派です。ってぇ、静かにしててくださいって言ったじゃないですか!」

「そうは言うけどさぁ、うち退屈だし、マリっちと話すの楽しいしぃ」

「ダメです、静かにしててくださいっ」

「山村さん……どうかしましたか?」

「……はっ」

「大丈夫ですか? 何か独り言を言っているようでしたが」

「すみません、少々疲れていたみたいで、はい」

前を向くと、きょとんとした顔の内田先生の姿が。気付きました、今一番騒がしいのは他でもない自分自身だということを。迂闊でした、菜々子さんに引っ張られて授業中だと言うのにわあきゃあと声を立ててお喋りをしてしまうとは。失態です、大失態です。いけませんいけません、こんなことがあってはいけません。心穏やかに保たねば、明鏡止水、明鏡止水の心です。

「ほらほらー、授業中は静かにしなきゃダメだぞ」

「だまらっしゃいっ」

貴女が一番うるさいんですよっ、と言いかけてどうにか堪えました、ええ、どうにかこうにか。菜々子さんは私のやさしさに感謝すべきです。心から感謝すべきです。

 

 

「自分の部屋が広いっていいよねー、気持ちも大きくなっちゃう!」

「ここ私の部屋なんですけど!?」

「いいじゃん減るもんじゃないし。ほら、重なってれば場所も取らないじゃん」

「そういう問題じゃありませんっ」

学校にいる時もあんな有様なので、自分の家の自分の部屋にいてもなんにも変わりません。むしろ悪化していると言えます。ベッドでぐだーっと寝そべっている菜々子さんを前にして、私はただ頭を抱えるばかりです。なんだってこんな方の姿が見えてしまうのでしょうか、声が聞こえてしまうのでしょうか。意味不明の極致です。この状況には何一つ納得がいきません。

菜々子さんはとにかく忙しないです。落ち着きというものがまったくありません。ベッドに寝そべっていたかと思うと急に立ち上がってあちこち歩き回ったり、ドアをすり抜けて他所の部屋を覗き見しにいったり。今すぐとっ捕まえて……失礼、言葉遣いが乱れました。拘束して大人しくさせたいところですが、何分幽霊ゆえ実体がないのでそのようなことは敵いません。塩でも捲いたら多少はマシになるのでしょうか。前向きに検討すべきかもしれません、前向きに。

しかし、こんな調子で菜々子さんに付きまとわれてはおちおち勉強もできたものではありません。それでは大変困ります、どうにかならないものでしょうか。

「マリっちさぁ、部屋いる時何してんの?」

「見ての通り、勉強です。遊んでなんていませんよ」

「へぇー。マンガとか読んだりしないんだ」

「今は勉強が大事です。学生の本分は勉学にありますからね」

「そっかぁ……そうだよね。マリっちまっじめぇー」

「人をからかうのはよしてくださいっ」

「からかってないよぉ、ホントにそう思ったんだから」

とまあこんな具合に菜々子さんと噛み合わないやり取りをぐだぐだと続けていたのですが、不意にドアをノックする音が聞こえて。

「マリちゃん、入っていいかしら?」

「あ、はいっ。どうぞです」

母です。入られて困るようなことは何もありませんのですぐにドアを開けに行きます。もちろん菜々子さんには「静かにしててください」と言い含めることも忘れません。言ったところで少しも効果がないのも分かっていますが、言っておかねばならないのです。私の心情としては。

「はい、これ。おやつよ」

「ありがとうございます……って、少々多くないですか?」

「あら、マリちゃんひとり? お友達と話してるように聞こえたけれど」

な、なんと鋭い。菜々子さんはお友達ではありませんが、確かに話していました。認めたくはありませんが話していたのは事実です。さすが私の母、鋭いことこの上ありません。

「ひ、一人ですよ、私一人です」

「勘違いだったみたい。それじゃあ、食べられるだけ食べてちょうだいね」

私の言葉に納得して、母はすぐに部屋を後にしました。信じてくれて助かりました、詮索されても文句は言えない状況だったにも関わらず、です。母の素直さに感謝せざるを得ません、私も見習わなければなりません。母は偉大です、ええ、本当にそう思います。

「あれ、お母さんだよね?」

「そうです。大事にしていますよ」

「うんうん。いいよね、お母さんと仲良いと」

「そりゃあ私は模範生ですから」

メガネを直しながらキメて見せると、菜々子さんは「お母さんかぁ」と呟くのでした。少々ため息交じり、何か思う処がありそうな雰囲気です。アレです、親不孝なまま亡くなったことをちょっぴり後悔したりしているのでしょう。きっと不真面目な日々を過ごしてお母さんを困らせていたに違いありません。確証はありませんが確信は持てます、菜々子さんは不真面目な人ですから。

「ってかコレ、チョコクッキーじゃん! うちこれめっちゃ好き!」

「幽霊なのにクッキー食べられるんですか?」

「え? 食べられないけど。ほら、透けちゃうし。透け透け」

「だったら見てたって仕方有りませんよ」

「んー、こうすれば行けんじゃね?」

こうすれば、ってどうすれば? と私が戸惑っていると、菜々子さんが何やらずずずっと私に寄って来るではありませんか。なんですかなんですか、と仰け反る私に向けて、菜々子さんは……。

「それっ」

「ひえっ」

飛び掛かるようにして――中に入ってきました。ええ、中に入ってきたんです。どこの中ですって? 私の中以外無いじゃないですか。そうです、菜々子さんが私の中に入り込んだのです。幽霊とかがやるあれです。いわゆる憑依という行為です。冷静に説明しているつもりですがさっぱり意味が分かりません、菜々子さんが私に憑依、砕いていうなら乗り移った? 何をするつもりなのでしょうか、というかなんですかこれは、どういうことなんですか。

「えっ、あっ、ちょ、ちょっと」

「それっ」

「わわわっ、う、腕が勝手に!?」

「おー、動く動く! これならなんだってできちゃうね」

「口が勝手に動いて……声まで!?」

「よーし。じゃ、いただきまーす」

「わーっ、ちょっとちょっとぉ!」

私の身体に乗り移った菜々子さんは、お皿に載せられたチョコチップクッキーをひょいと取り上げて。そのままぱくぱくもぐもぐ、私の身体を使って食べ始めたのです。菜々子さんが食べているという体で説明してますが、私にも感覚は残っているので「クッキーを食べている」という感触はしっかり伝わってきます。甘味と苦み、ちょっと固めの食感、口の中で砕かれて柔らかくなっていく様子、すべていつも通りです。口を動かしていないのに動いているというへんちくりんな状態を除けば、ですが。

ひょいひょいと続けて二枚、合わせて三枚食べて、おいしかったー、と私の声で言った後、するっと菜々子さんが外に出てきました。私の外に。自分の意志ではぴくりとも動かなかった体が急に自由になって、続けてずーんとした重みがのしかかります。これはアレでしょうか、憑依されると体が重くなるとかそういうやつなのでしょうか、幽霊など存在していないという私の考えは変わりませんが、しかし、しかしです、菜々子さんが私の中に入って来たこと、どうやらそれは事実のようです。とんでもないです。

「成功成功! 体を借りればちゃんと食べられるみたいだね」

「菜々子さんっ! 何するんですか急にっ」

「えーっ、ちょっと体借りただけだし」

「身体は貸し借りするものじゃないですっ!」

「ごめんごめん、次からちゃんと先に言うからさ」

「言われてホイホイ貸す人がいますかっ」

「いいじゃんちょっとくらいー」

「ちょっとどころの話じゃありませんっ」

ぴしゃり、と跳ね付けます。こういうことはなぁなぁにすべきではありません。しっかりと言っておかないとどうなるか分かったものではありません、私の身体を使ってヘンなことをされては困ります。大変困ります。そうでなくても、菜々子さんは馴れ馴れしすぎるのです。相手をしているととても疲れてしまいます、きっちり線引きをしないと私の方が参ってしまいそうです。それはいけません、平穏な日常を取り戻さなければならないのです。

「ちぇーっ。仕方ないなぁ」

むぅ、と頬っぺたをふくらませる菜々子さんを見ても甘い顔をしてはなりません。一度許してしまえばあとはズルズルです。ズルズル行ってしまうのです。ひとまずこの場は下がったようですが、油断は禁物です。いきなり私の中に入ったりしないようにしっかり見張っておく必要があります。油断大敵の言葉通りです。

(まったく、気が休まる暇もありません)

こんなのが四六時中続いては、私の方がどうにかなってしまいそうです。この菜々子さんとか言う自称幽霊が、一刻も早く別の場所へ行くなり成仏するなりしてくれればいいのですが。いえ、幽霊の存在は信じていませんので成仏もまたあり得ないのですが、しかし幽霊を自称するからには、また成仏に類する現象も起きるはずなのでは、という考えからです。決して幽霊の存在を信じているわけではありませんよ、その点は明らかにしておきます。

しかし、まあ。

(いったいいつまでこの方と一緒にいることになるのでしょうか)

このような騒ぎがいつまで続くのかと思うと、気が重くて重くてなりません。

私はあくまで、静かに穏やかに、平和に暮らしたいのですが。

 

 

菜々子さんが私の家へ住み着いて早一週間。二度目の日曜日がやって来ました。日曜日がまだ二度目ということが信じられません、もう三年くらい経ったのではないかと思わされるほどです。ええ、それくらい毎日ドタバタしているということです。一瞬たりとも落ち着く時間がありません。家にいる時だけでなく学校にまで着いて来てですね、横からあれやこれやと話しかけられるのです。気が散ることこの上ありません、何かに集中することなど夢のまた夢と言えるでしょう。

(除霊でもしてもらえばいいのでしょうか、いや、しかしそれでは幽霊の存在を認めてしまうことに……)

このようなことを真面目に考えてしまっています。もうほとほと参ってしまいました。私に付きまとうこの菜々子さんという自称幽霊、一体どうすればいいのでしょうか。どなたか知恵を貸していただきたい次第です。

「ここ図書館だったんだぁー。知らなかった!」

「何の場所だと思ってたんですか」

「なんかこう、市役所みたいな」

「市役所はまた別の場所にありますよ。それくらい知っておいてください」

「第二市役所とか」

「ありませんよ、そんなもの」

日曜日の習慣で図書館へやって来ましたが、ここでも菜々子さんはいつも通りです。あくまでマイペースに自分の話したいことを話しています。横でずーっと聞かされる私の身にもなってもらいたいものです。私の身になってほしい、と言っても私の身体にひょいと乗り移っていいとかそういう話ではありませんよ。それとこれとは話が別です、まったく別のお話です。

以前から読みたかった本が返却されていたので棚から持ってきて読む準備をした……というところまではいいのですが、例によって、例によってです。菜々子さんがあーだこーだと横からくっちゃべってくるのです。ええ、本当に「例によって」です。うんざりしてくるくらいに「霊によって」……いえ、「例によって」です。

「何の本読んでるのー?」

「なんだっていいじゃないですか」

「えぇー。いいじゃん題名くらいー」

「ゆっくり本を読ませてくださいってば」

「退屈だなぁー。うちも何かしたいー」

ページをめくるのもままならないとは大変なことです。本を手にしてから三十分は経っていますが、進んだページは両手で、いえ片手で数えられる程です。少しも進んでいないということがお分かりいただけますでしょうか。中身ですか? もちろん頭に入って来ません。ええ、まるっきりです。本を読んでいるとはとても言えない有様でしょう。何のために図書館に来ているのか分からなくなります。

これがずっとです。ずっと! 学校や自室だけじゃあありません、食事だとかお手洗いだとかにもついてくるんです、この菜々子さんという自称幽霊は。来ないのはせいぜい入浴の時くらいです。いついかなる時もさっぱり落ち着かないので、自分でもカリカリしているのが分かります。今朝鏡を見てみると、まあ見たことがない暗いに険しい顔をした自分がいて驚いてしまいました。神経が尖っているのを感じます、我慢の限界が近付いているのを自覚します。

「ねーねーマリっちー、外出かけようよー」

いえ。実際のところ、もう限界は超えていました。心穏やかな私と言えど、こんなことが延々続いて黙っていられるほどお人好しではありません。煮えたぎったお湯でいっぱいになったお鍋、そこに被せられていた蓋が圧力の差で吹っ飛んでいくイメージが脳裏に浮かんだ直後、私は無意識のうちに立ち上がって、腹の奥から叫ぶような声を上げていました。

「いい加減にしてください!」

キレました。ついにキレました。堪忍袋の緒が切れました。これまで生きてきて一度も出したことのないような荒っぽい大きな声を上げて、菜々子さんに向かって言葉を投げつけました。辺りが騒然としているのが見えますが、もう気持ちを抑えることができません。荷物をまとめてどかどか歩きながら本を元あった場所へ挿しこんで、図書館から外へ出ます。未だかつてここまで頭に来たことはありません、初めての出来事です。

外へ出た私にももちろん菜々子さんがくっついています。目をまん丸くしているのが見えます。何を意外そうな顔をしているのでしょうか、当たり前のことじゃないですか。ずーっと付きまとわれて自分の時間もろくに持てないのですから、ストレスが溜まって当然です。私が怒るのもまた当然と言えるでしょう。

「ちょ、ちょっとマリっち、急にどうしたの」

「いいですか、私には私のしたいことがあるんです。もうこれ以上付きまとわないでください」

「でも……」

「でも、じゃありません! だいたい、私と菜々子さんには何の関係も無いです。これっぽっちも、ひとかけらも!」

「それは、その」

「菜々子さんが見えたのは偶然、単なる偶然です! 偶然菜々子さんが見えただけで付きまとわれる方の身にもなってください!」

思い切って言いました、ええ、言ってやりました。ここ数日ずっと胸に溜まっていたものを全部吐き出しました。言葉がつっかえていて物理的に胸が苦しいレベルに達していたのですが、言いたいことをすべて言ってつかえが取れたように思います。久々にスッキリした気持ちですね、本当に久々です。ふう、と一息つきます。思っていたことをすべて言葉にして、ようやく気持ちが落ち着きます。

しばらくは清々しい気持ちでいられました。ええ、しばらくは。ただ、ただですね。少し時間が経つと、周りの空気と言いますか雰囲気と言いますか、そういうものも感じ取れるようになってきます。今の私を取り巻く様子を言葉にしてみると……率直に言って少々気まずいです。というのもですね、目の前で菜々子さんがしょげた顔をしているのです。他に言い表しようのないくらいのしょげ顔です。しょげ顔なんて言い方するのか分かりませんが、落ち込んでいるのは確かです。

「そうだよね。それもそうだよね」

「菜々子さん」

「本当に、マリっちが初めてだったから」

見たことがないようなしおらしさを見せて、菜々子さんが呟きました。明らかに、明らかにいつもと様子が違います。私の言葉を受けて本気で反省しているようです、思った以上の反応でした。思った以上です。つまり、その。私の方も、少し言葉が過ぎてしまったのではないかと。そのように思わざるを得ない訳でして。

そして……「初めて」という菜々子さんの言葉が引っかかりました。私の何がどう初めてだったのか見当が付かなかったためです。

「その、初めて、というのは」

「うちの姿が見える、って人が、ってこと」

「ということは……今までは誰にも見つからなかったんですか」

「うん。見つけてもらえなかったよ、前に出て行っても、呼び掛けてみても」

「菜々子さんの姿が見えたのは、私が初めて、ということですか」

「そう。周りにたくさん人がいるのに誰の目にも留まらなくて、独りぼっちで。つまらないっていうより、寂しくて」

「それは……」

先程までとはまったく別の、百八十度反対の理由で言葉が詰まりました。思っていたよりも、それもかなり辛い境遇にあったのだということに気付かされたからです。言われてみると「自分のことが見えるのか」と出会った時に言っていたように思います、本当に私が初めてだったのでしょう、菜々子さんの姿を視界に捉えることができたのが。

誰にも気づかれずに一人街を彷徨う。想像すると……相当に苦しいものがあります。

「けど、言われてみればマリっちの言う通りだよ」

「うちとマリっちは何か関係あった訳じゃなくて、マリっちがたまたま『見える』人だったから」

「つきまといだ、って言われてもおかしくない、何もおかしくない。そういうことしてたよね、うちって」

「幽霊になってからずっと独りきりで、誰かと話せるのがただ嬉しかったから」

言葉が胸に刺さります、深々と刺さるのを感じずにはいられません。菜々子さんは独りぼっちだったのです、とても長い間誰にも気づかれず、話し掛けることもできなかったというのです。菜々子さんの姿が他の人に見えていないこと、声も聞こえていないことは明らかで、嘘を言っているとは思えません。菜々子さんの心情は想像するに余りあります、辛いとしか言いようがありません。

分かりました、今さらながらに、けれど確かに。菜々子さんが私に話しかけてきた理由も、私とずっと言葉を交わしたがった理由も。ずっと独りだった菜々子さん、そこへ不意に現れた、どういうわけか菜々子さんのことを認識できる私という存在。私が菜々子さんの立場になってみれば、恐らく似たようなことをしたことでしょう。菜々子さんの行動や言動の理由がようやく理解できて……胸が針で刺されたように痛むのを感じました。

「迷惑掛けてごめんね、マリっち。うち、やっぱり一人で……」

儚げな笑顔を私に向けて菜々子さんが呟きます。彼女の足取りは私から離れようとしている、そのことをすぐ察しました。意識しないままに、しかしながら意識の奥底にはっきりと存在していた言葉が、口からためらいなく飛び出しました。

「待ってくださいっ」

きょとんとした菜々子さんの顔を見つめます。心の思うままに言葉を紡ぎます、少し前、怒りを露わにした時と同じように。

「マリっち……?」

「知らなかったんです、菜々子さんが独りきりだったということを」

気の持ちようは――まったくもって、正反対だったのですが。

「それで、私が初めて菜々子さんの姿を見つけた、声も聞こえた」

「菜々子さんが話しかけてきた理由、遅ればせながら、ようやく分かりました」

「もし、私が菜々子さんの立場に置かれたら……きっと、きっと同じことをしていたでしょう」

前置きはここまでです。もっとも伝えなければならないこと、一番伝えたい言葉を、ありのまま口にします。

「ごめんなさい、菜々子さん。言葉が過ぎました。本当にすみません」

「そんな、マリっちは別に」

「失礼なことを言ってしまったときは、必ず謝りましょう。母からそう教えられていましたから」

「お母さんから……」

「あの、菜々子さん。私にできる限りのことをさせてください」

「マリっち」

「菜々子さんがまた独りきりになって、寂しい思いをしなくても良いように」

菜々子さんの瞳にきらりと光るものが浮かぶのが見えました。これは……涙でしょうか。つまりは……泣いている、ということでしょうか。思いもよらぬ反応にこちらが驚いてしまいます。私の考えていること、思っていることが、菜々子さんに伝わっていれば良いのですが。

「マリっち……ありがとう。ずっと思ってたけど……優しいんだね、マリっちは」

心に萌芽した一抹の不安は、他ならぬ菜々子さん自身の言葉で拭い去られました。

「育ちがよくなきゃこんなこと言えないよ。うちのこと見えたの、マリっちでホントに良かった」

「これも母のおかげです。母が私に教えてくれたことです」

「ありがとう。でも、うちもマリっちが勉強してるときとか本読んでる時とかは静かにするね」

「ええ、そうしてくれると助かります。そういう感じで行きましょう」

ようやく、ようやくと言えるでしょう。

私と菜々子さんは、お互いに分かり合うことができました。

 

 

日曜日の一件で、私は菜々子さんとようやく適切な距離感が掴めました。それからの日々は随分穏やかなものに様変わりしました。学校では隣に立って静かにしていますし、お手洗いや入浴にまで付いてくる、ということはなくなりました。もちろん、今のように机に向かって勉強している最中にわあきゃあと声を上げることもありません。ようやく落ち着きを取り戻すことに成功しました。善いことです、これはとても好いことです。

さて、そうして気持ちに余裕が出てくると、私の方も菜々子さんに何かしてあげたいという気持ちが自然に湧いてきます。菜々子さんには普段おとなしくしてもらうようになりましたので、息抜きの折にはこちらから返礼をするのが正しい在り方と言えるでしょう。いわゆるギブ・アンド・テイクというやつです。

「勉強はここまでにしましょう。菜々子さん、お待たせしました」

「ううん、全然平気! 横で見てるだけでも飽きなかったし」

「あまり面白いものでもないと思いますけれども」

「そんなことないってば。だって時々こっち見たりしてくれたし」

「気持ちは分かりますが。けれど、もっと具体的に面白いものがありますよ」

「えっ、何それ何それ」

「確か以前、読みたいとおっしゃっていましたよね」

椅子を下りてクローゼットをガララ、と開くと、そこには三段ほどのコンパクトな本棚がありまして。

「マンガを」

「えっ、マリっちマンガ読むの!?」

「読まないこともありませんよ」

「しかもけっこうたくさんあるし!」

「ほとんどが古本ですが、見ての通りそこそこ」

「意外だぁー、ちょっとビックリしちゃったかも」

「知的好奇心を満たす取り組みの一環です。決して学業を疎かにしているわけではありませんよ」

「今まで、っていうかついさっきまでいっぱい勉強してるの見てたしそれはないよ」

「私がマンガを読んでいること、他の方には口外しないでくださいね」

「だいじょぶだいじょぶ、てかしようと思ってもできませんから」

「そう言えばそうでした」

「あははっ、マリっち結構面白いとこあんじゃん」

私は他の方から学業一筋の模範生、と思われているように思っています。しかしながら、実のところこうしてマンガを読むのもそれなりに好きだったりするのです。イメージを崩さないよう他の方には伝えていませんが、好きなものは好きなのです。この部屋にいるからには菜々子さんにも伝えるべき、と思って伝えました。バラさないでくださいね、と一応念押ししましたが、菜々子さんの言う通りそもそも菜々子さんの声は私にしか聞こえないのでした。私としたことがうかつでした。いえ、何か失敗したという訳ではないのですが。

本棚を見せてあげます。割と年季の入った、それこそ十年前だとか二十年前だとかの少女マンガが割とぎっしり詰まっています。菜々子さんはどうでしょうか。おや、「おぉー」と目を輝かせているではありませんか。趣味はなかなか合いそうな感じですね。趣味趣向が一致するというのは良いことです、お互いの仲を深める切っ掛けとなり得ますから。背表紙を見せているだけでは何ですし、ここは中身を読ませてあげるべきですね。

「どうです? 読みたい本があれば、貸してあげなくもありませんよ」

「マジで? 嬉しい……あー、けど、うち本のページめくれないしなぁ」

「貸す、というのはですね、何も本に限った話じゃありません」

「……えっ? ってことは……」

両腕を広げて、なんかこう「ウェルカム」だとか「いらっしゃい」みたいな感じのポーズと言いますかジェスチャーと言いますか、そういう風な仕草を菜々子さんへ見せて。

「取り扱いは丁寧にお願いしますね」

「……もちろん! それじゃ――」

菜々子さんが私の中へすっと入ってきました。手足の自由がなくなって、「宙に浮いたような」と形容すべき感覚が全身を見たします。一方で自分の意識は明瞭で、菜々子さんのそれが混入してくる、ということはありません。飛行機のビジョンが脳裏に浮かびました。私と菜々子さんがパイロットで、それまで私が機長として飛行機――すなわち私の身体を操縦していたのを、菜々子さんにバトンタッチして後ろへ退いたような、というのが今の感触です。身体が動いているという実感はありますが、それは自ら動かしているわけではなく、「乗員」として乗り込んでいるように感じられる。私の意図が伝わればよいのですが。

右腕が動きます、右手が開きます、指先が本を掴みます。自分の意志とは無関係に体が動いているのをはっきりと感じ取れます。非常に風変わりと言いますか、大変に奇妙な感じがします。菜々子さんが私の身体を動かしている、思いのほか冷静に自覚している自分がいます。

「うわぁ……本読めてる! 本読めてるようち!」

「ええ、読んでいますね。『こどものおもちゃ』を」

「自由に読めてる……ページもめくれるし戻ったりもできるし、最高!」

「何もしていないのに体が勝手に動くのは、何とも言えない感じがしますね」

「貴重な体験だよー、他じゃできないからね」

「いいですか菜々子さん、あくまで『貸す』だけですからね」

「分かってるって! マリっちの身体だってこと、ちゃんと理解してるもん」

「私に乗り移りながら全裸になって外を走り回ったりしてはいけませんよ」

「ちょっ、うちそーいうことする子だって思われてるの!?」

「あくまでものの例えです。菜々子さんは私の認知を超えた存在ですので」

「んー、幽霊ってそんなに珍しい?」

「そもそも私は菜々子さんを幽霊だとは思っていません。幽霊の存在はあくまで信じません」

「マリっちヘンなとこにこだわるよね、そこがマリっちらしいんだけどさ」

文字に起こすとごく普通に私と菜々子さんで言葉を交わしているよう見えますが、実際のところ声色はすべて私のものです。傍から見るとひとりで何をぶつぶつ言っているのか、と思われかねない光景でしょう。常識から外れています、道理に沿った状況ではありません。しかし、しかしです。菜々子さんとこうして「会話」することに、どこか楽しさと言いますか、今までにない刺激を覚えているのもまた事実です。普段と違うことをするというのは、ただそれだけで新鮮な気持ちになるのだなと感じずにはいられませんでした。

菜々子さんは本棚に入っている少女マンガを次から次へと読んでいきます。夢中になっているのがよく分かります、読み始めてからはずいぶん静かになりましたから。私の中に菜々子さんが入っていますが、菜々子さんが何を考えているのか、見たこと・聞いたこと・触れたことを通して何を感じているのかは分かりません。その辺りは身体ではない別の場所で処理されているのでしょうか。頭と心は別だ、という話をどこかで聞いた記憶があります。菜々子さんには物理的な頭――すなわち脳はありませんが、自ら思考し感受するための「心」はあります。心が明確に分かれているゆえに、こうして一つの身体に二つの心が共存できるのでしょうか。興味深いです。

とまあ、私はそんなことを考えつつ、菜々子さんにさらなるサプライズを仕掛けることにしました。

「読書中失礼します」

「ん? どったのマリっち」

「右手をご覧ください」

「右? 見てるよ」

「もう少し上の辺りです」

「おっ、ポッキーだ。箱に入ったポッキーが見えるね」

「食べてもいいのですよ」

「えっ!? いいの!?」

「私が買ってきたものですが、菜々子さんが食べるということは私が食べるのと同じ意味ですからね」

菜々子さんが私の身体を操って立ち上がります。ちょっと不慣れなようですね、立ち上がる時にふらつくのを感じました。一歩一歩、やや覚束ない足取りで前へ歩いていきます。少々危なっかしかったのですが、それは最初の内だけです。すぐに慣れてまっすぐ歩けるようになりました。飲み込みは早いようです、思っていたより器用なのかもしれません。他人の身体に乗り移ってうまく動かす、というのはどんな感触なのか気になるところですね。今度聞いてみたいと思います。こうして見ると、菜々子さんには私の知的好奇心を刺激する要素がたくさんあります。最初は噛み合いませんでしたが、こうして余裕ができてみると、合いまみえて悪くなかったのでは、とも思えてきます。

封を切って袋を開けて、菜々子さんがポッキーを食べます。菜々子さんが、と記しましたが、私もポッキーの食感と味覚をはっきりと感じます。感覚器官は共有されているようですね。菜々子さんが食べると私も食べたことになる、この点は押さえておきましょう。

「食べてもいいですが、食べ過ぎには注意ですよ」

「うん、分かった。ありがとね、マリっち。身体貸してくれて」

「勘違いしないでください、これは調査です。菜々子さんの秘密を科学的に解明するための試みなのです」

「マリっちってば、素直じゃないんだから。そこがイイんだけどね」

私は幽霊の存在を信じていません、非科学的で非論理的で非現実的だからです。しかし、ここにいる菜々子さんは「菜々子さん」としてその存在を確かに認知しています。

菜々子さんが何者なのか――こうして共に過ごす中で、少しでも理解したいな、と思えるようになっていました。

 

 

一日が終わる前に必ずしなければならないことがあります。一日の汚れを落とし、明日に備えて身を清める行為です。

「というわけで、お風呂に入ります」

「分かった。じゃあ、うちここで待ってるね」

「一緒に行きませんか、菜々子さん」

「えっ」

菜々子さんが驚いた顔をします、いい顔です、何度も見たくなります。普段ペースを握っている菜々子さんを驚かせているということも心地よさの一因と言えるでしょう。とは言え、驚かせるためにこんなことを言ったわけではありません。あくまで提案、私の率直な提案なのです。

「幽霊かどうかはさておき、体を清潔にしておくのは大事ですよ」

「わ、うち汗くさかったりする?」

「いえ、特にそういったことはありません」

「よかったぁ、マリっちに汚いって思われてたらヤバかったよ。でもお風呂いいな、入りたい!」

「いいでしょう。では行きますよ」

菜々子さんを伴って部屋を出て階段を下りて、浴室の引き戸をがららと引いて脱衣所へ。家にいるのは私と母、それから菜々子さんと女性のみではありますが、マナーとしてちゃんと扉は閉めておきます。上から順に服を脱いで、菜々子さんだけですし下着もあまり躊躇せず脱いでしまいます。素っ裸、全裸です。菜々子さんが私の裸をまじまじと見ています。少々気恥ずかしいですが、まあ良しとしましょう。

「ごめんねマリっち、一個いい? 言っていいのか分かんないけど」

「ええ、なんですか」

「こう……思ってたより胸おっきいな、って」

「母からの遺伝ですね、間違いありません」

「いいなー、うち小さいからちょっと悩んでたし」

「大きくていいことはそんなにありませんよ」

「ええー、それいいサイズしてるから言えることだよぉ」

乳房が小さいことで悩んでいる、というお話は時折耳にします。私はこれといって気にしたことはありませんが、背丈や顔つきがコンプレックスになる方がいる世の中です、悩み事になっている方もいらっしゃるのでしょう。ちょうど菜々子さんのように。しかし菜々子さんは気付いていないようです、これから菜々子さんは一時とはいえその悩みから解放されることを。

「では、一緒にお風呂に入りますよ」

「うちがお風呂に入る……ってことは」

「ええ、そういうことです」

以前と同じように、両腕を前へ突き出して少しばかり広げる「いらっしゃい」的なポーズを取ります。菜々子さんはそのままではお湯の温度や水圧を感じられませんが、私の身体に乗り移れば問題ないというわけです。

「ふぇぇ、ウェルカムされちゃうと却って戸惑っちゃう」

「一番最初は勝手に入って来たというのに、分からないものですね」

「だってぇ。でも、マリが受け入れてくれるなら……」

「そういうふしだらなことじゃありませんよ、これは」

「でもアレじゃん、うちがマリのナカに入るわけだしさぁ」

「早くしないと閉めちゃいますけど」

「わぁーっ、待って待ってお風呂入るマリっちに入るー!」

するっ、と菜々子さんが私の中に入ります。それと同時に体がぴくりとも動かなくなります、いえ、正確には「動かし方を忘れた」というべきでしょうか。動かそうとしても動かないという訳ではなく、そもそもどうやって動かしていたのかを忘れてしまったような状態です。なので、意外ですが「身動きが取れず不自由」という感じではありません。以前も言いましたが、飛行機のパイロットから乗客へ変わったような印象です。

何度か体を貸していますので、菜々子さんはもうお手の物、といった具合で私を動かします。不自然なところは少しもありません。ごく普通にドアを開けて浴室へ入り、浴槽の蓋を取り、軽く掛け湯をしてからシャワーの準備をします。私がしている所作と何ら変わるところはありません。お湯のぬくもりや浴室の湿気といった感覚は私にもしっかり感じ取れます。菜々子さんが身体を洗ってくれるはずですので、ある意味私は楽ができている、とも言えます。

「うわぁ、ひっさしぶりのシャワーだぁ! あったかいねぇ」

「まあ、お湯ですからね」

「ホントに久しぶりだもん。長生きはしてみるものだね、って死んでるんだけど」

「縁起でもないジョークはやめてください」

「あははっ、ついテンションアガっちゃって。マリっちって頭洗う時どうしてる?」

「よくお湯で汚れを落としてから、シャンプーの後にリンスも使っています」

「りょーかい! じゃ、その通りにするね。ほら、マリっちの体だし」

「丁寧によろしくお願いしますね」

私が「丁寧に」と言うと、菜々子さんはその通りとても丁寧に髪を洗います。思いのほか繊細な手つきです、考えていたよりもガサツな方ではない、ということでしょうか。髪をすっかり綺麗にしていただいたところで、ゆらゆらと湯気を立てる浴槽へ静かに身を沈めます。菜々子さんは完全に私の身体を使いこなしています、私の意志では動かせませんが、菜々子さんが動いていてもどかしさや違和感を覚えるということがありません。順応性が高い、と評するべきですね。

「あぁー、湯船に浸かるのも久しぶりだよぉ。生き返るねー、って死んでるんだけど」

「縁起でもない上に天丼ですよ、菜々子さん」

「まぁまぁ、細かいことは言いっこなし! けどね、すっごく気持ちいいよ、お風呂入れてホント嬉しい」

「お風呂に入っている、という感触は私にも伝わってきます。いつも通りの感じですね」

「やっぱそうなんだ。人の身体に乗り移るのってさ、マリっちに会うまで一回もやったことなかったんだけど、結構面白いかも」

「乗り移られる方は少々不可思議な感じですが、悪いものではありませんね」

「そっかぁ。にしてもさ、幽霊になって結構経つけど初めてなんだよね、お風呂入るの」

「ずっと入られてなかったんですね」

「入る方法無かったしね。ほら、幽霊のままお湯に重なっても熱くもなんともないし」

「なるほど。ですので、こうして体を借りる必要がある、と」

「うん。そーいうこと」

菜々子さんは物理的に何かへ干渉することはできませんし、また干渉されることもありません。なので何かと接触する必要がある場合、こうして私に乗り移って実体を得なければならない、ということなのですね。幽霊は信じていない私ですが、今私に起きていることは紛れもない事実、なのでひとつひとつ原理を理解し、知見を得ていきたいというわけです。

「ふぃー、いい気持ちぃ。いつまでも入ってたいくらい」

「菜々子さん、長風呂しすぎるとのぼせますよ。私の健康に差支えます」

「めんごめんご、ちゃんと分かってるよ」

「それならば構いません。それに久しぶりとのことですし、少々長く入られる程度であれば私も気にしませんよ」

「……ありがとう、マリっち。うちってちょっと話し方軽い感じだし、伝わりにくいかも知れないけど、ホントに感謝してる。独りじゃできなかったこと、マリっちがさせてくれるから」

「これも調査研究の一環ですから。とは言え、菜々子さんに喜ばれるのは悪いことではありません」

「えへへっ。うち、マリっちと仲良くなれてよかった」

仲良くなれてよかった、菜々子さんの言葉が胸に沁みます。紆余曲折ドタバタ七転八倒だったのですが、不思議なことに私も今同じような気持ちを抱いているからです。決して出会うはずがなかった菜々子さんのような人と交流を深められたのは、私にとっても善いことだったのではないか、そのように認識しています。理由も根拠もないのですが、今こうして菜々子さんと触れ合っている時間が快いものだと感じているのは紛れもない事実ですから。

「あのさ」

「なんですか」

「うち髪の毛乾かすの面倒だから、マリっちに任せていい?」

「こら、都合よく出入りするのはいけませんよ」

「ちぇー」

こうして軽口を言い合えるのは、距離が縮まった証拠――そう言えるかもしれません。

 

 

「菜々子さんが行きたいと言いましたからね、特別に来ましたよ」

「うわぁ……スタバだぁ! マジでスタバ来てるんだうちら!」

週末のお休み。以前菜々子さんが「行ってみたい」と言っていたスタバ――もとい、スターバックスコーヒーまでやってきたのが今です。三駅乗った先の少々大きなターミナル駅、そこの駅ビル内にあるスタバが最寄りの店舗でした。ええ、地元には無いのです。鄙びたところだという認識はありますが、一番近いところであっても三駅も離れているという事実には少々驚かざるを得ません。

「マリっちは行ったりしないの? こーいうコーヒーショップ的なトコ」

「ええ。不真面目なイメージがありましたので」

「なるほどねー。けど、実際来てみるとそーいう感じあんまりしないよね」

「まあ、見る限り悪い雰囲気ではありませんね」

「あれでしょあれでしょ、マリっちって喫茶店とかも行かない感じでしょ」

「その通りです。煙草や珈琲の味を覚えてしまう良くない場所です」

「イメージが昭和って感じぃ」

「古式ゆかしい、と言ってください。ともあれ、ひとまず何か注文しましょう」

菜々子さんを伴ってカウンターへ向かいます。伴って、とは言うものの、菜々子さんの姿が見えているのは私だけなのですが。既に並んでいる方が次々に捌けていき、私たちの順番が近付いてきます。他の方に怪しまれないようすっと携帯電話を取り出して、さもどこかに電話を掛けていますよ、といった素振りで菜々子さんに声を掛けます。

「何か飲みたいものはありますか?」

「うちキャラメルマキアートがいい!」

「なんですか、そのキャラメルなんとかというのは」

「うちも詳しくは知らないけど、キャラメル使った飲み物だって聞いたよ」

「キャラメルというのは、あの四角いお菓子ですか?」

「そそ、あの嘗めると甘いやつ!」

「あれが飲み物に……? 気になりますね、そちらを頼むことにしましょう」

「おー! さっすがマリっち、ノリがいい!」

いらっしゃいませ、ご注文はいかがなさいますか? アイスのキャラメルマキアートをください、サイズはいかがいたしましょう、トールで、かしこまりました、奥でお待ちください。ふう、無事にオーダーを通すことに成功しました。この手のお洒落なお店はどうにもハードルを高く感じていけませんね、もっとスムーズに、流れるように注文ができるようになりたいものです。

出て来たキャラメルマキアートを持ち、空いていた窓際の席を確保します。席に座っているのはパッと見私だけに見えますが、向かい側にちゃんと菜々子さんも座っています。椅子に座る、ということはできるようです。容器に入った鮮やかなキャラメルマキアートを前に、瞳をキラキラ輝かせています。まるで星のようです。なかなかいい表情ではないでしょうか。

「よーし! じゃ、代わりばんこで飲もうね」

「私はどちらにしても飲むことになりますけどね」

「あ、そっか。一杯で二人飲めてお得かも」

「それはあるかも知れません。では菜々子さん、どうぞ」

「よっしゃー! じゃ、入っちゃうね」

例によって菜々子さんが私の中に入って、肉体操作の主導権を譲渡します。すっ、とカップを取り上げて、ストローを口に付けて軽く吸い上げます。するとどうでしょう、あのお菓子のキャラメルの甘味が広がります。本当にあのキャラメルの味がするんですよ、不思議なことに。飲み物だというのにキャラメルの味がするのです、こんなものは飲んだことがありません。脳が味に驚いているのを実感します。

「おいしい! 思ってたより甘くていい感じ!」

「悪くありませんね。良いと思います」

「でしょでしょ? マリっちもそう思うっしょ?」

「ですが、この甘さは悪い子の味がしますね」

「悪い子の味? 何それ」

「癖になって何度も飲みに来てしまいそう、という意味です」

「あーなんか分かる! けどマリっちの言い方変わってて面白いかも」

「そうでしょうか、特に変わったところはありませんよ」

言い合いながらキャラメルマキアートを飲みます。私が飲むと菜々子さんも飲んだことになり、菜々子さんが飲むと私も飲んだことになる、一つの身体を共有すると食べ物や飲み物をシェアできてなかなか興味深いです。菜々子さんの存在そのものは非論理的で非現実的で非科学的ですが、この飲食物を共有できる現象そのものは合理的、と言えるのではないでしょうか。菜々子さんそのものは、相変わらず人知を超えた存在ではあるのですが。

「はぁー、おいしいなぁ。一回飲んでみたかったんだよねー、コレ」

「飲んだことが無かったのですか」

「うん。こーいうトコ、来る機会無かったから」

「意外です、実に意外です。しょっちゅう行っているものとばかり」

「そうかなぁ? そーいう風に見える?」

「ええ。あとディスコとかにも」

「行かないよー、そんな場所。てか、ディスコとか聞くの久しぶりすぎるし」

「そうだったのですか、こうした場所でよく遊んでいると思っていたのですが、アテが外れたようですね」

「うちが遊ぶって言ったら、ちょっと裏山まで行ってきまーすとか、市民プール行ってこようっと、とかそんな感じだったよ」

「えっ、そういう方向なんですか?」

「窓に映ってるマリっち、すごい意外って顔してる」

「仰る通りとてつもなく意外です、まったくもって想像すらしていませんでした」

「山で走り回ったりするの楽しかったなぁ、ホント。でも、休みの日でもないとあんまり遊べなかったんだよね」

「何か別のことをされていたんですか」

「うん、新聞配達。朝早かったから大変だったなぁ」

今なんと? 菜々子さんは何と言ったのです? 私の口を借りて菜々子さんが口にした言葉に思わず耳を疑います。自分が発した言葉だというのに、一から十までまったく理解できず、思わず唖然としてしまいます。

「し……新聞配達!? ですか……?」

「そうそう。うちの家あんまりお金なかったから、お母さんちょっとでも楽にさせたげたくて」

「それは……初めて知りました、驚きました」

「あんまり他の子に言うような事でもないって思ってたから。けど、マリっちには言っときたかったんだ」

「働いて家にお金を入れていたんですね、学校にも通いながら」

「けっこー大変だったけど、お金もらえてうれしかったよ。お母さんは『苦労かけてごめんね』って言ってたけど、別にうち苦労してないし」

「菜々子さん」

「ん? マリっちどしたの?」

「ちょっと、いえ、かなり見直しました。見直したというのは失礼ですね、見方を改めました」

「えっ、なんでなんで? うちなんかいいこと言った?」

「働いて家へお金を入れられていた、ということに驚いたのです。それにお母様を大切にしている様子も伝わってきました。私が勝手に想像していた菜々子さんのイメージとは大違いでした」

「そっかなー、でもマリっちにそういう風に言ってもらえるの、なんか嬉しいかも」

「菜々子さんは、お母さんを大切にされていたんですね」

「うん。気付いたらお父さん居なかったし、うちと二人暮らしだったから」

「そうですか。私と同じ、ですね」

「……そっかぁ。マリっちもなんだ。似た者同士だね」

似た者同士、という菜々子さんの言葉に、心の中で同意します。似た部分があったからこそ、私は菜々子さんの存在を認識できたのかも知れません。表向きの性格や外見は大きく異なりますが、根っこのところで近しいところがある。そのように考えると、菜々子さんへの親近感が増していくのを実感できます。

なんでしょう、ちょっと気恥ずかしくなってきました。ここで少しばかりかしこまったことを言って、気を紛らわせることにしましょう。

「菜々子さん、いいですか」

「私は菜々子さんの存在を信じています、信じているというより、ここに存在することを確信しています」

「ですが、幽霊という概念は別です。私はあくまで幽霊は信じていませんからね」

と、その直後。ふっ、と身体が軽くなってから、ほどなくして今度は逆にずしんと重みを感じる……という感覚を覚えました。同時に、身体を自分の意志で動かせるようになりました。これは、つまるところ……。

「……あれ? 菜々子さん? どうしたんです?」

菜々子さんが私の身体から出ていった、ということに他なりません。急なことに思わず辺りをキョロキョロ見回します。菜々子さんは何処へ行ってしまったのか、不意の出来事に少々困惑してしまいます。近くを見回しても見当たりませんが、少し経つとどうにも背中の辺りに視線を感じることに気付きます。そーっとそーっと、ゆっくり振り返ってみると、そこには。

「菜々子さん、そんなところで何をしてるんですか」

「あ、見つかっちゃった」

「急にいなくなりましたから何事かと思いましたよ」

「ちょっとマリっちにイタズラしたくなっちゃって」

「そうやって人をおちょくるんですから」

「マリっちってば面白い、幽霊になったのも悪くないかも」

「幽霊は信じてませんってば。私は本気ですからね」

「んー、それじゃあさ、一緒に行ってみない?」

一緒にどこへ行くというのでしょう、私が首をかしげていると、菜々子さんが行き先を口にしました。

「事故の現場、うちが幽霊になった場所だよ」

 

 

「この交差点、ですね」

「そ。ほら、あそこにお花供えてあるし」

ええ、菜々子さんの仰る通りです。花が供えられているのが確かに見えます。こまめに換えられているのでしょう、以前目にした時と同じように、鮮やかな百合の花が風に揺れているのが見えます。交差点にぽつんと供えられた花、ここは交通事故の現場なのだと認識させられます。そしてその事故で菜々子さんは命を落とし、ご本人が仰るには幽霊になった――そういうことでしょう。

「うちはここで幽霊になって」

「私はここで菜々子さんに出会った」

「だよね。なんかさ、不思議な場所だなぁ。なんて言えばいいんだろ」

「不思議な場所……ですか」

「うん。死んじゃったのは辛い思い出だけど、マリっちに会えたのはいい思い出じゃん。辛い思い出といい思い出、両方あるってレアじゃないかな、って」

「それは、確かに」

「今はこうやってマリっちがいてくれるからさ、いい思い出の方がでっかいけど」

「そういうものでしょうか」

「そういうものだよ、割とね」

手向けられた花を見つめます。私も、菜々子さんも。菜々子さんに顔を向けます、菜々子さんも私に視線を投げかけます。ここには確かに菜々子さんがいる、けれど、それを認識できるのは私しかいない。ここに至るまでに当然の事実として理解しているはずだというのに、胸騒ぎが収まりません。

不意に空気が変わるのを感じました。菜々子さんが口を開くのが見えます。視線を菜々子さんへ固定して、紡がれる言葉に耳を傾けます。

「朝に新聞配達してる時だったかな、七月の……二十日くらい」

「明日は誕生日だーとか、そういうこと考えてた気がする」

「よーし車来てないな、ってちゃんと見てから出たよ。ちゃんと見てから出たんだけど」

「がーっと急に飛び出して来てさ、がしゃがしゃがしゃーってすっごい音がして」

「それでさ、少しして気が付いたら――うちが、自分が目の前で倒れてて、血も流れてて、あれ? ってなって」

「おーい、って呼び掛けてからさ、自分に触れてみようとしたけど、すかっすかってすり抜けちゃって」

「これもしかして……って思ってたら、うちにぶつかった車走って逃げちゃってさ」

「どうしよっかな、どうもできないなぁ、とか思ってこの辺りで座ってたんだ」

「そしたら知らない人が通りがかって、その人が救急車呼んでくれて」

「で、うちが担架に乗せられて運ばれてくんだけどさ、ほら、誰か付き添わないとダメじゃん? うちが運ばれてるのにうちが付き添うのもヘンな話だけど」

「それで声を掛けてみたんだけど、ちっとも聞こえてなくてさ。しょーがないから勝手に乗ってくかー、とか言って乗ったっけ」

「それから病院でいろいろあったみたいだけど、うちは待合室でぼけっとしてて、いつもだったら学校行ってるなーとか、この時間体育だったっけとか考えて」

「少ししたらお母さん来て、あっ、おかあさーん、って読んだけどやっぱ反応無くて」

「で、傷だらけになって寝てるうちの前でわんわん泣いてて。見たことないくらいわあわあ泣いてて」

「あー……これそういうことか、うち死んじゃったんだ、幽霊になっちゃったんだ。その時全部分かった……って、マリっち? マリっち?」

目の前がぐしゃぐしゃになってよく見えません、しゃくり上げるような動きが止まりません、そして涙も止まりません。菜々子さんの話を聞いていた私は、菜々子さんが事故に巻き込まれた辺りでもう堪え切れずにぼろぼろ泣いてしまいました。今も泣いています、ええ、泣きじゃくっています。こんなに泣いたのはいつぶりでしょうか、幼稚園に通うよりも前のような気がしてなりません。けれど止まらないのです、涙が止まらないのです。

「ど、どうしたのマリっち、なんでそんな泣いてるわけ?」

「だっで……だっでななござん……」

「これ泣くような話? マリっちいつもなら『なるほど、そのような経緯を経て菜々子さんは幽霊になったのですね、いえ、幽霊の存在を認めたわけではないですが』みたいに言わない?」

「いいまぜんっ、ないでまぜん」

「いや、めっちゃ泣いてるんだけど」

「ないでまぜんっ、ごれは今朝タマネギをみじん切りにじだぜいでず」

「そんなことしてなかったじゃん」

「うぅ……ぐすっ、だっで、だっでぇ……」

菜々子さんが私の中に入ってくるのを感じました。私はされるがまま、身体を菜々子さんに預けて。

「泣かないで、マリ」

「マリが泣いてるとさ、うちまで悲しくなっちゃうから」

私の指先で、流れる涙をそっと拭ったのでした。菜々子さんの優しさがまた私の心を激しく揺さぶって、せっかく拭ってもらったというのに涙が滝のように流れてきます。

「ずびばぜん、やっばり泣いでまず」

「マリっちったら、どーでもいいところだけ素直なんだから」

ぼろぼろこぼれる涙を、菜々子さんはその都度その都度丁寧に拭ってくれたのでした。

 

供えられた花を前にしてそっと手を合わせます。目を閉じて雑念を一掃し、ただ祈りを捧げます。不幸な事故で世を去ることになった菜々子さんを偲び、私の菜々子さんを悼む気持ちが少しでも届きますように、と。

「先程菜々子さんの仰ったことがよく分かりました」

「幽霊は非現実的、非論理的、非科学的です。ありのままそのまま全部信じるわけにはいきません」

「しかし――菜々子さんは別です。菜々子さんがここにいること、そして菜々子さんが私に教えてくれたことは、間違っていないでしょう」

近くにいるだろう菜々子さんに向けて、私なりに――幽霊の、いえ、菜々子さんの存在を確かに認めた旨を告げます。

「いいですか菜々子さん、菜々子さんが例外なだけですからね。幽霊を全部信じるわけではありませんからね」

「菜々子さんにはいろいろ言いたいこともありますが、嘘は言わない方だと分かっていますから」

「これからも私が側にいて、貴女の在り方を科学的に証明……あれ? 菜々子さん? 菜々子さん?」

今の今まで菜々子さんがすぐ隣にいるとばかり思っていたのですが、ふと辺りを見回してみてもどこにも姿が見当たりません。きょろきょろ視線を動かして探してみますがさっぱり見つからず、いる気配も感じられません。忽然と姿を消してしまいました。

先程まで近くにいたはずの菜々子さんの姿を求めて視線を動かしていると、無意識のうちに供えられた花へ目が向くのを感じました。まるで何かを暗示するように。その「何か」が分からないほど、私だって鈍いわけではありません。幽霊は心残りがある故に現世に残る、と一般的に言われています。裏を返せば心残りがなくなれば、このように留まる必要は無くなるのです。居残る必要のなくなった幽霊はどうなるか、それは……。

「まさか、菜々子さん……成――」

目の前が真っ白になりかけた、まさしくその直後でした。

「じゃーん! ここだよマリっちー!」

「ひえっ!? な、菜々子さんっ!?」

「へへー。ちょっと目を閉じてたからその間に隠れてビックリさせちゃおう、って思って」

「なんてことするんですかっ、心配したんですよ! 真面目にビックリしましたよ!」

「あれでしょー、うち成仏しちゃったとか思ったでしょ?」

「マジで思ったんですけど!!」

「ちょ、マリっちが『マジで』とか言うのマジで似合ってないし」

「今そういう話はしてません! もう、油断も隙もありません」

「ごめんごめん、マリっちがビックリするとこ見たくなっちゃって」

「まったく、子供っぽいんですから」

「背はうちの方が高いよ?」

「そういうのが子供っぽいんですっ」

とまあこんな具合で、いつも通りの菜々子さんのイタズラでした。本当につまらないイタズラが好きな人です、呆れるばかりです、ほとほと呆れるばかりです。

(……イタズラで良かった、と感じているのは、気のせいでしょうか)

呆れる反面、どこか安堵している自分の心境を実感するのでした。

 

 

「買い物から戻りましたよ」

「おーっ、お帰りマリっちー! 何買ってきたの?」

「すぐに分かりますよ」

提げていた箱を自室にあるミニテーブルの上へ置きます。ええ、手提げの箱です。この時点で私が買って来たものの想像が付く方もいらっしゃるのではないでしょうか。視覚情報をお届けできないのが残念ですが、実物を見ればまず確実に「ああ、アレね」となること間違いなしです。って、私は誰に話しているのでしょうか、菜々子さんとの会話に集中しましょう、集中です。

「箱を開けましょう。何が見えます?」

「ショートケーキがふたつ見えるね、いちごの載った。てか、二つ買ったの?」

「当然です。ここに二人いますから」

「マリっちとうち?」

「他にいらっしゃいませんし」

「マジかぁ……ありがと、マリっち。けどなんで急にケーキなんて買ってきたわけ?」

「今日はいつもと少し違う日ですからね」

「あれ、なんかあったっけ?」

意外と鈍感なところがあるようですね、菜々子さんは。ここは慌てず騒がず、菜々子さんにケーキを買ってきた理由をびしっと教えてあげるべきでしょう。すっ、と菜々子さんを指さします。人を指さすのは失礼と母に躾けられていますが、今回は特別です。それに私と菜々子さんの仲です、引っかかることはないでしょう。

「誕生日、今日ですよね」

「……ああっ! そうだった! 完っ全に忘れてたよ!」

「ですよね、間違いありませんね」

「うんうん、合ってるよ、うちの誕生日。まあ死んじゃってもう幽霊なのに誕生日って、なんかヘンな感じだけど」

「私は菜々子さんを幽霊だとは思っていませんから」

菜々子さんは菜々子さんで確かにここに存在していますが、しかし、しかしです。幽霊の存在をそのまま信じるというのは、やはり私の沽券に係わると思うわけです。菜々子さんは菜々子さんであって幽霊ではない、非常にセンシティブなところですが、私としてはここを譲るわけには行かないのです。ええ、大事なところなんです。

「幽霊なのに誕生日ってアレだけど、でも嬉しい、マジで嬉しいし!」

「そうでしょう、そうでしょう、ぜひ喜んでください」

「もうお祝いとかしてもらえないな、って思ってたから。あ、けどさけどさ、今日がうちの誕生日だってなんでわかったの?」

「この間交差点へ行った時に言っていたじゃないですか」

「あ、言われてみれば。もうすぐ誕生日、とか言ってた気がする。すっかり忘れてた」

「覚えてなかったんですか」

「うち言ったことすぐ忘れちゃうからさー」

「まったく、しょうがない人ですね、菜々子さんは」

「細かいことは抜き抜き! お祝いしてもらえて嬉しいのはマジだから!」

「喜んでもらえて何よりです。ではさっそく例のやつを」

「例のやつ?」

「誕生日と言えばこれ、ですから」

すーっ、と深呼吸をして、肺の中の空気をすっかり入れ替えてしまいます。そうしてから、お腹の中から、を意識して声を出します。

「――はっぴばーすでーとぅーゆー」

「はっぴばーすでーとぅーゆー」

「はっぴばーすでーいでぃーあななこさーーん」

「はっぴばーすでーとぅーゆー」

はい、見ての通り、いえ聞いての通り、誕生日に欠かせないあの歌です。少々気恥ずかしいところですが、菜々子さんの誕生日ですしね。個人的にはこの歌がないと誕生日をお祝いした気になれませんので。

「おおー、マリっち結構歌上手じゃない? うちより上手いって」

「褒めてもケーキしか出ませんよ」

「いやマジでマジで。うちマリっちに入ったら同じようにうまく歌えるかな?」

「やってみます? 私は一向にかまいませんよ」

「よーし、それじゃ!」

菜々子さんが中に入ってきました。割と特異な現象のはずなのですが、私はもう慣れっこです。こんなことに慣れてどうするのか、という思いも無くはないのですが、あまり気にしても仕方ありませんので。よーし、じゃあ歌うよー、と私の声で菜々子さんが宣言してから、すーっと息を吸って。

「――はっぴばーすでーとぅーゆー」

「はっぴばーすでーとぅーゆー」

「はっぴばーすでーいでぃーあ」

「菜々子さん、菜々子さん」

「ん? どったのマリっち」

「こう言っては失礼ですが、音程滅茶苦茶ですよ」

「やっぱダメ? やっぱダメかぁ、うち音痴ってすっごい言われてたんだよね」

「乗り移っても歌唱力はそのままのようですね」

「うーん、けどさ、たくさん唄えばマシになると思うんだ。だからさ、カラオケとか行きたかったんだけどなぁ」

「行けばいいじゃないですか、私と一緒に」

「マリっち」

「行きましょうよ。付き合いますよ、とことん。歌を唄うのは嫌いじゃありませんから」

元々嫌いではありませんし、菜々子さんが行きたいというなら付き合います。一緒に唄うというのも、悪いことではなさそうですし。

「歌も唄ったところで、いよいよケーキタイムと行きましょう」

「わーい! お皿お皿っ」

「慌てなくともケーキは逃げませんよ」

二つ並んだショートケーキを一つお皿へ取り分けて、フォークを前に置きます。どうぞ、と菜々子さんへ合図すると、するりと中へインして来ました。私もですが、菜々子さんの方も慣れっこになったようです。悪いことではありませんが、なかなかに不思議なものだと思わずにはいられません。それはさておき、菜々子さんがフォークを手にしてケーキに向かいます。一口サイズに取り分けて、そのまま口へ運んで行って。

「……うん! おいしい! これめっちゃいいケーキじゃん!」

「いいでしょう、いいでしょう。ケーキは食べ過ぎると太るので良くないですが、今日は特別ですから」

ぱくぱく、もぐもぐ。菜々子さんが夢中でケーキを食べています、私も食べている感触を味わっていますのでよく分かります。ほとんど一息にすべて食べ終えると、菜々子さんが外へ出ていくのを感じました。身体の自由を取り戻したことを確かめるべく、軽く腕を回してみます。間違いありませんね、今は私が自分の身体を動かしています。

「ふぅ。どうです菜々子さん、銀泉堂のケーキは、お高いだけあってなかなかのものでしょう」

銀泉堂は商店街のほぼ中央にある老舗の洋菓子屋さんです。老舗だけあってケーキひとつにもいいお値段が付いているのですが、その分味はお墨付きです。私は素晴らしいと思っていますし、菜々子さんも満足したに違いありません。自信を持って菜々子さんに訊ねます。

「あれ? 菜々子さん? 菜々子さん?」

が、返事がありません。気配が消えています。ほんの少し前まではすぐ側にいたのに、今は影も形も見当たりません。一体どこへ行ってしまったのでしょうか、まさか今度こそ成仏してしまったのでは、私が誕生日をお祝いしたことで悔いがなくなってしまったのでは、そのような考えが頭をよぎります。菜々子さんが私の手が届かないところへ行ってしまったかも知れない、思わず頭が真っ白になります。

……しかしながら、私はここで落ち着きを取り戻します。ええ、このようなシチュエーションには覚えがあります。それも一度ではありません。何度か繰り返されています。今回もまた同じことでしょう。焦ってしまえば菜々子さんの思う壺、ここは敢えて冷めた反応をしましょう、どうとも思っていないことを見せつけてあげましょう。

「菜々子さん、またですか。この間とまったく同じじゃないですか。もう驚きませんからね」

するとどうでしょう、壁の向こうからするすると人影が姿を現すではありませんか。

「ちぇー、もう通用しないかー。またマリっちびっくりさせたかったのになぁ」

「もう、本当に子供っぽいんですから」

「だってうちまだ子供だしぃー、永遠の未成年だしぃー」

「まったく、呆れますよ」

呆れつつも、思った通りに菜々子さんが現れたことに安堵しています。もう誤魔化しません、菜々子さんがいつもと同じようにここにいることに安心している自分がいます。ほんの少し前までこのような感情を抱くことなど想像もしていなかったのに、です。

「言っては何ですが、こうして菜々子さんと一緒にいるのも悪くありませんね」

「マリっち」

「悪くないというだけですよ、良いと言っているわけではありませんから」

「うん、ありがとね、マリっち」

「さてさて、菜々子さんも悪戯を止めて戻って来たわけですし、もう一つのケーキを……」

と言いかけて、私がハタと動きを止めます。

「ん? どしたのマリっち」

「迂闊でしたっ。菜々子さんが食べるということは即ち私も食べるのだということを失念していましたっ」

「うちはまだいっぱい食べれるよ!」

「私が食べられないんですってば」

「あははっ、マリっちが食べられないなら仕方ないっか」

ね、と菜々子さんが顔を寄せてきます。なんでしょうか、私は首をかしげて見せます。

「ケーキは食べないけどさ、マリっちの中、また入ってもいい?」

「いいですよ。さあどうぞ」

「うん。入っちゃうね」

先程と同じように菜々子さんが私へ入り込みます。操縦桿を菜々子さんにお渡しして、私は菜々子さんが身体を動かすのをすぐ近くで見ているような状態になります。他に味わうことのない不思議な感覚ではありますが、ここ最近は毎日のように味わっていますので、段々と日常のひとつになりつつあることを実感します。さながら、自転車に乗るようなものでしょうか。初めは前に進むことすらままならず、身体でバランスのとり方を身に付けることで自由に乗りこなせるようになり、いつしか移動手段の一つとして空気のような存在になる……よく似ている気がしますね。私の身体を操作しているのは菜々子さんなので、私という自転車に菜々子さんが乗って運転しているようなものではありますが。

私の中へするりと入った菜々子さんは、おもむろに両腕を広げて。

「……ぎゅっ。こうやったら、うちがマリっちを抱いてるってことになるのかな」

自分で自分を抱きしめる――言い換えれば、菜々子さんが私を抱きしめる、そのような形になりました。

「なるほど、そうとも言えるかもしれませんね」

「どう? 痛かったりしない?」

「菜々子さんが痛くないなら、私が痛いはずはありませんよ」

「そっか……うん、そうだよね。ありがと、マリっち」

私が何かしたわけではありませんよ。けれど、菜々子さんが喜ぶなら、悪いことではありません。自然とそう思えるほどに、私は菜々子さんと心を通わせていて。

「うちさ、ずっとこんな風にしてさ、誰かと笑ったりして楽しく過ごしたいなって思ってた」

「願いが叶ってよかったなって、ホントにそう思うよ」

菜々子さんの――願いが叶った。

(どうしてでしょうか)

(善いこと……好いことのはずなのに、どうして不安に駆られるのでしょうか)

私の心に一抹の不安がよぎって、拭おうとしても拭い去れない、まとわりつくような感触を伴って広がっていきます。それが何なのか、私自身でも説明できなくて。

説明できないことが、さらに不安を大きくしていくのを実感するばかりでした。

 

 

とかなんとかあったりもしたのですが、それからはこれといって変わったことも起こらず。私にとっては、菜々子さんと一緒にいることがもはや当たり前になっていました。

「マリっちマリっち」

「なんです菜々子さん」

「さっき電柱にポスター貼ってるの見たんだけど、今日お祭りあるんだよね」

「確かそうでしたね、私は今まであまり行ったことがないのですが」

「うち行きたい! 生きてた頃毎年めっちゃ楽しみにしてたし!」

「事故に遭ってからは行かなかったのですか?」

「行かなかったっていうかさ、行けなかったんだよね、行きたくても」

「それはどうしてです?」

「お祭りってさ、なんか不思議なエネルギー出るみたいなんだよね。それで『幽霊はお断り』みたいにブロックされちゃってさー。場所が神社だからかも?」

「ああ……なんとなく分かるような分からないような」

「けどけど、マリっちにくっついてったら入れる気がするんだ」

「要は私の中に入って、菜々子さんの進入を阻む障壁を突破する、と」

「そ。マリっちのおかげでやりたいこといっぱいできたし、あとはお祭り行けたらカンペキだって」

「なるほど、悪いことではなさそうですね。いいですよ、行きましょう」

「だよねだよね! よしっ、行こ行こ!」

確かに外は陽が傾いて来ていて、お祭りが始まる時間が近付いて来ていることを感じます。今から会場である神社に向かえばちょうど開始のタイミングで到着できることでしょう。善は急げ、というわけで早速家を出ようとした……のですが。

「わっ、体が急に言うことをっ」

「ストーップストップストップ!」

「なんですか藪から棒に」

「マリっちそのままのカッコでお祭り行くの? マジで?」

「外に出るには特に不都合の無い服装だと思いますが」

「えーっそりゃないよぉ、だってさ、お祭りって言ったらほら、浴衣じゃん!」

「浴衣、ですか」

「ふつーは浴衣着て行くっしょ」

「そうでしょうか、私は持っていません」

「えぇーっ」

「ですがまあ、浴衣の方が風情があるのは確かです。母に相談してみます」

お祭りと言えば浴衣、という菜々子さんの言い分も分からないではありません。母に相談すれば何かいい案が見つかるかもしれません、困った時にはまず母に相談です。

して、その結果はというと。

「昔母が着ていた浴衣を見つけて着せてもらいました。どうでしょうか」

「おおっ、いいじゃんいいじゃん!」

お祭りに行きたいので浴衣はないでしょうか、と簡潔に事情を説明すると母はすぐに浴衣を探してきてくれて、あっという間着付けまでしてくれました。さすが母です、頼りになります。

「見ての通り丈もピッタリです。柄は少々古めかしいかも知れませんが」

「ううん、そんなことないって! 紫陽花柄うち大好きだし!」

「ちょっと意外です、少々面食らいました」

「そう?」

「てっきり、もっとこうギンギラギンのやつが好きなのかとばかり」

「うちそういうキャラじゃないし。ま、いい浴衣見つかって良かったね。じゃ、行こ行こ!」

菜々子さんと一緒に家を出て神社へ向かいます。ここからですと歩いて二十分ほど、ちょっとした散歩気分です。菜々子さんとふたり、お祭りを楽しみたいと思います。

 

神社までは滞りなくたどり着きました。既に多くの人の姿が見えていて賑やかですが、まだごった返しているという感じではありません。いいタイミングで来られたと言えるでしょう。境内の前まで来たところで、隣に立つ菜々子さんに声を掛けます。

「では菜々子さん、合体しましょう」

「うわマリっち直球ー、ドキッとしちゃった」

「そういうのじゃありませんから」

「分かってるって。じゃ、入っちゃうね」

しゅるっ、と菜々子さんが身体の中へ入り込みます。左右を見回してから「よし!」と呟きます、何がいいのかは分かりませんが、まあよしとしましょう。私の身体を操って菜々子さんが神社の敷居を跨ぎます。特に何かに阻まれるということもなく、するりと中に入ることに成功しました。狙い通りです。やはり私のように生きている人の中に入るとうまくごまかせるのでしょう。神様をごまかして何やら罰当たりなのでは? という気がしないでもないですが、まあそれはそれとして。

入る時と同じようにするりと菜々子さんが私の外へ出ました。一度神社の敷居を跨いで境内まで入ってしまえば、菜々子さんだけで外に出ても問題ないようです。私としてもずっと乗り移られていると少々もどかしいですし、この方が助かります。

「一回中に入っちゃえば、マリっちに乗り移ってなくても大丈夫っぽいね」

「なかなか興味深い仕組みをしていますね、菜々子さんは」

「うちっていうか神社のパワーだと思うけどなぁ。てか懐かしー、ここの神社久しぶりに来たよ」

「私は年に一度の初詣で訪れるくらいですが、菜々子さんはよく来ていたのですか」

「しょっちゅう来てたよ。受験の前に菅原道真公にお参りして、お賽銭で五百円入れて合格めっちゃお願いしたりとか」

「ご、五百円!?」

「五百円! 五百円だよ、なけなしの五百円! 公立行けばお母さんだいぶ楽になるって分かってたからホント合格したかったもん」

「合格祈願のためにそこまでする人は初めて見ました、菜々子さんは思い切りがいいですね」

「でしょー? おかげでバッチリ合格したもんね! あっ! マリっち、あっち見てあっち」

菜々子さんが指差す方向に目を向けると、ずらりと並んだお面が飛び込んできます。見たことのあるキャラクターを象ったものもあれば、何やらモチーフのよく分からないお面も分け隔てなく並んでいます。

「ねーねー、あれ買おうよあれ」

「菜々子さんってああいうのが好きなんです?」

「お面、いいじゃん。うちも子供の頃お母さんにお願いして買ってもらったっけ」

「あまり身に着けることもありませんが、買ってもいいですよ」

「やったぁ! うち好きなの選んでいい?」

と言ってから、菜々子さんが選んだお面はと言うと。

「いえーい! 元気でつおい子ーっ!」

「はしゃぎすぎですよ、菜々子さん」

「やっぱさやっぱさ、お祭りでお面って言ったらアラレちゃんっしょ!」

どういうわけか縁日のお面屋さんに必ずと言っていいほど並んでいる「アラレちゃん」、あのお面でした。もうずいぶん昔に登場したキャラクターだったように記憶しているのですが、今の子は誰なのか知っているのでしょうか。って、私もそんなに詳しく知っているわけではないのですけれども。

「頼まれても被りませんからね」

「いいよいいよ、頭に載せてるだけで。カワイイよマリっち」

「もう、子供っぽいんですから」

「いいもーん。うちずっと子供だもーん」

子供っぽい。そうです、菜々子さんは子供っぽいんです。しょうもないことばかり考えていますし、趣味趣向はどこからどう見ても子供そのものです。子供には大人が付いていなければなりません、それが私ということでしょう。菜々子さんの側には私がいるべきで、私は菜々子さんを見守っているべき、つまりはそういうことです。菜々子さんをひとりにして放っておいたら、どうなるか分かったものではありませんからね。

「さて。せっかくお祭りに来たんですし、何か食べるとしましょう」

「あの綿あめにしましょう。今日は甘いものを口にしたい気分です。砂糖そのものの綿あめはピッタリですね」

「菜々子さんも食べますよね? いいですよ、分け合って食べましょう。食べるのは私なのですが」

「買ってきますから、この辺りで待っていてください」

味覚も子供っぽい菜々子さんですから、綿あめもきっと気に入ってむしゃむしゃ食べてしまうことでしょう。夢中で食べる様子が今からハッキリ浮かんできます。口元はきっとベタベタになること間違いありません。後で私がきちんと拭わなければなりませんね。

屋台へ向かいます、綿あめひとつくださいと注文します、小銭入れを取り出します、三百円を渡します、割り箸に巻き付いた大きな綿あめを受け取ります、踵を返して菜々子さんの元へ向かいます。

「菜々子さんっ」

そこに、菜々子さんの姿はありませんでした。

「菜々子さん……? 菜々子さん、菜々子さんってば」

繰り返しその名を口にします。けれど返ってくるのは静寂ばかりで、私の望むもの……菜々子さんの声は、一向に聞こえてくる気配がなくて。

(どこへ、行ったのですか)

手にした綿あめに思いのほか質量を感じて、これが砂糖を熱して伸ばしたものだということを忘れそうになります。綿あめは綿あめでしかなくて、砂糖で作られているという事実を頭で確かに認識しているはずだというのに。

頭に載せて顎ひもで留めたお面を、ほんの気持ちだけ後ろへずらして。

「またですか。またいつものやつですか。もう、飽きないですね」

いつもより少し大きな声を上げてみました。祭囃子にかき消されないように、声が間違いなく届くように。どうしてそうしたのか、自分でも分かりません、理解できていません。嘘、それは嘘です、事実じゃありません。

それは正しくない、適切じゃないことです。本当は分かっている、理解しているんです。

「いいんですよ、この綿あめ食べちゃっても」

「カロリー計算はバッチリですからね、これを食べても一日の摂取カロリーはぎりぎりセーフです」

言葉ではそう言っていたけれど、口は喋ることに意識を向けていて、綿あめを食べようという気にはならなくて。なれなくて。

はあ。ため息が漏れる、ごく小さな、けれどハッキリと。ため息の意味を己に問う。意味を与えないと、生じた義務感が閉じた口を開かせて。

「やれやれです。そっちのペースに合わせる方の身にもなってほしいものです」

「分かってるんですよ、ばっちり。どうせ私の言ってること、全部聞こえてるんでしょう」

「もう慣れっこですしね、慣れっこ。無駄ですよ、これからもこんな感じで残念な反応していきますからね」

誰に向けて言っている言葉なのか、自分でも分からなくなりつつありました。その事実から目を逸らしている、目を逸らしていることからも目を逸らして、さらにそこからも目を逸らして。私の目はどこへ向いているのだろう、どこに向けられているのだろう、どこを向こうとしているのだろう。

目を逸らして、見えないふりをして。だけど本当は見えている、見えているんです。

「珍しいじゃないですか」

「普段なら、もう我慢できずに飛び出してくる頃なのに」

「出てこないじゃないですか」

見えていないことが――見えているんです。

 

(マリっちのおかげでやりたいこといっぱいできたし、あとはお祭り行けたらカンペキだって)

 

そう言っていました。菜々子さんは確かにそう口にしました。

完璧だ、と言っていました。「満足」とも言い換えられるでしょう。お祭りに行くことができれば菜々子さんは満足して、満ち足りて、もうこの世に未練や悔いはなくなる……そう捉えることもできます。幽霊は一般的に、心が満たされて現世に居残る必要が無くなった時に成仏すると聞きます。私は幽霊の存在を信じていません、ですが菜々子さんが幽霊に近しい存在であるということは認めざるを得ません。

ということは――もしかすると、そういうことなのでしょうか。

(この静寂は何を意味しているのでしょうか)

いつも通りの菜々子さんの悪戯だと、子供っぽい悪ふざけだと、そう信じたいのに。信じたいという感情と、現実を分析する頭脳がぶつかり合って、一歩も動けないまま道端で立ち尽くします。

賑やかな祭囃子に囲われて、独りきりで佇む。私が見つけるまで、菜々子さんもこれと同じような思いをしていたのでしょうか。いたたまれなくなって視線を空へ向けると、星々が煌びやかに瞬いているのが見えました。生きていようと亡くなっていようと、この星空の下で共に在る……少なくとも、私はそう思っていました。現実はともかくとして、私の考えは一度も揺らいだことなど無くて。

手にした綿あめの棒をぐっと握り締めて、一口齧るようにして食べます。

「……どうしてでしょうか」

「甘いはずなのに、砂糖でできたお菓子のはずなのに」

「甘さを感じることが……できません」

味のしない綿あめを噛み締めながら、私はひとり、お祭りの喧騒の中で独り、居なくなってしまった菜々子さんに想いを馳せます。

あれこれ言ってはいました、口では確かに言っていました。子供っぽいだとか、イタズラが過ぎるだとか、いつもやかましいだとか。けれど本当は――本当は、もっと一緒にいたいと思っていたのに、他にも一緒にしたいことがたくさんあったのに。

「勝手に行ってしまうなんて、ひどいじゃないですか」

「独りになるのは嫌だって……そう言っていたじゃないですか」

「自分がされて嫌なことを相手にするだなんて、最低じゃないですか」

菜々子さんは私にしか見えませんでした。菜々子さんの声を聴けたのは私だけでした。菜々子さんが此処に居たことを知っているのは、ただ私だけで。その菜々子さんがいなくなってしまったことを、他の誰が理解してくれるというのでしょうか。他の誰も菜々子さんが私と共に在ったことを知りません。伝えたところで理解してもらえることもないでしょう。菜々子さんと過ごした日々は、ただ私の中にしかなくて。その私の前から、菜々子さんはいなくなってしまった。私の隣に菜々子さんが居て、私と共に過ごしたことは、紛れもない事実なのに。

「どうして」

それを伝える術を、私は持ち合わせていなくて。

「どうして、行ってしまったんですか」

声を上げて問うてみても、返答があるはずもなくて。

目の前の光景が滲んでぼやけて、まともに見えなくなりました。瞼が熱くなっているのを感じます。内側から込み上げてくる感情が、熱を帯びた雫になって零れていくのを肌で理解します。私は涙を流していました、私は泣いていました。菜々子さんがいなくなってしまったという現実を目の当たりにして、もう自分の目が菜々子さんを捉えることはないのだと――この目で理解して。

「……菜々子さん」

いつしか、いつの間にか、かけがえのない人になっていた、その人の名前が、自然と口から零れて――。

 

「――マリっち!」

 

「……えっ」

「ごめんごめんっ、ちょっと外しちゃってた」

「菜々子さん……」

そこには、菜々子さんがいました。菜々子さんがいました。確かに――菜々子さんの姿がありました。

「さっきお母さん歩いてるの見かけてさ、今どんな風にしてるかな、ってちょっと気になって追いかけちゃって」

いつも通りの菜々子さんがいました。この目でいつも見ている――何ひとつ変わらない普段通りの菜々子さんが、私の前に立っていました。見間違えや錯覚ではないか、自分の目が信じられなくて、繰り返し瞬きをしてしまいます。けれど菜々子さんの姿が消えてしまうことはありませんでした、雲散霧消することなく、私の前に佇んでいました。

菜々子さんが、私の目に映っていました。

「マリっち……泣いてる? もしかして、うちが急にいなくなっちゃったから」

「ごめんねマリっち、泣かせちゃって」

「でも、泣いてくれたんだね」

「うちのために……うちがいなくなったから、それで」

泣いていることを菜々子さんにハッキリ言われてしまうと、どうしてでしょうか、急に気恥ずかしくなってきました。浴衣の袖で慌ててぐしゃぐしゃと涙を拭うと、菜々子さんに顔を直接見られたくなくて、頭に載せていたお面をサッと下ろして。

「泣いてませんっ」

「マリっち、別に泣いたっていいのに」

「泣きませんっ、元気でつおい子ですっ」

「あははっ。似合ってるよ、マリっち」

お面で顔を隠してみたところで、私の心の内は、菜々子さんにすべて筒抜けでした。元通りの位置へお面を戻すと、菜々子さんの目をしっかり見つめました。

もう目を離さないように、この目が菜々子さんを捉えられなくならないように。

「菜々子さん、来てください」

「うん。行くよ、マリっち」

これから先、私たちがどうなるかは分かりません。いつか本当に菜々子さんが成仏してしまう日が来るかもしれません、私が菜々子さんと同じ幽霊のような存在になってしまう日が来ることもあり得るでしょう。未来は未だ来ない時間、ゆえに私たちはそのありようを知ることができません、見ることは決して敵いません。

(けれど、今は)

菜々子さんと共に在りたい、その気持ちが何よりも強かったのです。

私の中へ菜々子さんが入り込んで、私は菜々子さんに、菜々子さんは私になって。

「行きましょう、菜々子さん」

「うん。まだまだいっぱい楽しまなきゃね!」

私と菜々子さんは――ひとつになって。

「一緒にいようね、マリっち」

「ええ。菜々子さん」

 

前へと、歩き始めました。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。