この小説は案件レポート#118174「ウバメの森のジャンクション」と併せてお読みください。
「……はっ」
ふと目が覚める。あれ、ここどこだっけ? てか私何してたっけ? 寝ぼけてるせいでちっとも回らない頭をのっそり起こして、ぼやける視界で辺りを見る。寝起きだからってこんなにぼやーっとしてたっけ、そう思って右を見ると鏡があって、鏡の中の私はおでこに眼鏡を乗っけてて。って、ぼやけてるのこのせいじゃん! すごいマヌケな顔してるし! 慌てて元の位置へ戻した。とほほ、思わず声が出ちゃう。情けない声。
長い夢を見てたような気がする。どんな夢だったっけ、すぐに思い出せない。思い出そうとするとぽろぽろ崩れてく、風雨と日光に晒され続けた石像みたいに。あまりいい夢じゃなかったかも。辛い夢? たぶんそう。思い出せないのはいいことかもって思うくらいには。もっとキラキラしたいい夢見たいなあ、キラキラ。
近くに置いてたスマホを手に取る。何か通知入ってるかな、そう思って見てみたら、やっぱりLINQにメッセージ。発信者を見てみたら、やっぱりマロンだった。ま、LINQでやり取りしてるのなんて一人しかいないし、確かめるまでもないんだけど。
マロン、中一の時くらいからかなあ、ずっとつるんでる。もう十三年くらい? 知り合ったのチャットだったっけ、LINQも気の長いチャットみたいなものだからちっとも変わってない。こんなに長続きしてるカンケイって珍しいよね、他に誰もいないし。私と趣味がよく似てて、ざっくり言うとヲタ仲間。しょっちゅう揃ってイベントに顔出して、たまにサークル側で本売ったりして。どんな本? それは訊かないお約束。
メッセージ見てみる。さっさと原稿上げたい、とかしょうもないやつだ。しょうもないピクチャでお返し。こういうゆるいやり取りっていいよね、肩の力抜いてさ。お互いチャットに入り浸ってた時はもうちょっとだけ堅苦しかったけど、今はこれくらいの調子がちょうどいい。
年季の入ったマグカップの取っ手を掴む。夕方に淹れたコーヒーはとっくに冷め切ってたけど、構わず全部飲みほした。後で洗っとかなきゃ、そう思いながらテーブルの上へ戻す。ちょっと腰痛いな、ぐーっと伸びをした。窓の外を見てみると、ぽつぽつとしたビルの明かりの向こうに鬱蒼とした森が見える。今度散歩でも行こうかなぁ、フィールドワークだけじゃちょっと運動足りないだろうし。
「仕事してたんだった」
何言ってんだろ、って自分で思っちゃいそうな独り言が出た。そう、仕事中だったんだよ私。ワードで資料作りながら裏でエクセルの進捗管理表更新、みたいにして。残業して眠くなってちょっと目を閉じたらコレだもん。やっちゃったなあ、どうせなら家帰ってから寝た方がずっといいのに。
仕事中ってことでパソコンは点けっぱなし、フロアにいるのはもちろん自分だけ。寝ちゃう前にはもう最後の人出てっちゃってたし、当たり前か。最近忙しくて帰るのが遅くなる日が増えちゃったんだよね。うちで相方が待ってるから早く出たいって気持ちはあるんだけど。あ、相方っていうのはニャスパーのリィズのことね、彼氏とか彼女じゃないよ。一応言っとくよ、一応。
壁掛け時計を見ると、もうあと一時間ほどで日を跨ぎそうな時刻だ。明日休みだからって油断してたなあ、休みだからこそ早く帰った方がいいのについ居残っちゃう。仕事が好きとかそういうのじゃないんだけど、なんとなくアレもコレもってやっちゃう、みたいな。今やってる仕事、別に急ぎでも何でもないし、今日は今日のうちにサッサと帰っちゃおう。
なんて、頭の中では考えてるのに、なんとなくスマホに手が伸びちゃう。んー、完全に癖になっちゃってる。ヒマさえあれば見てる気がするし。LINQから画面を切り替えてニュースアプリを立ち上げる。夕方からずっと見てなかったから全部新着だ、それでもって一番上に来てた記事は、というと。
「……『カントー地方ハナダシティ近隣でバスの衝突事故、けが人多数』」
セキチクで起きたバス事故を伝えていた。修学旅行中のバスだったみたいだ。
意識しないうちにスマホを持つ手に少し力がこもる、背中をひやりと冷たいものが滑り降りていく。嫌な感触だ、とても嫌な感触。調査報告会で矛盾とか調査漏れを指摘されたときの感じに似てる。気が付くと親指がテキパキ動いてて、別のカテゴリへ移動してた。移動した先はネコポケモン特集の記事、ああ、これなら大丈夫、ほっと息をつく。やっぱりネコポケモンはいいよね、可愛い。ま、一番はうちのリィズだけど。
右手の指先でネコポケモン特集の記事をページ送りしつつ、パソコンで勤怠管理システムを立ち上げる。帰る前にコレだけはちゃんと入れとかなきゃ。最近キビしくなってきたしね、労務管理ってやつ。居眠りしてた分は休憩時間にしてヘンに残業付かないようにしとかなきゃ。月末報告会でまた遅くなりそうだし、あとあと面倒くさいもん。
ポータルから勤怠管理システムを立ち上げると同時に、新着メールの通知も上がってるのが見えた。新着って言っても長いことチェックしてないから、多分だいぶ前に届いてるはず。ちょっと考えてから通知のリンクをクリックした。ほら、未読のメールがあるって分かってる週末ってなんとなく嫌だし。中身の確認だけして、中身をちゃんと読むのは来週にしよう。大事なメールならフラグ立てときゃいいし。
メールが新しいウィンドウで開いて、中身がばばばっと目に飛び込んでくる。差出人は統括部からで、送信時刻は一時間ちょっと前。こんな時間までお疲れさま。統括からの宛先指定メールって時点で、なんとなくどんな中身かは予想がついてて。
「ふぇー、また新しいお仕事かぁ」
思わず変なため息が出た。今でも十分忙しいのにまた追加とか、ため息しか出ないっしょ。まあしょうがない、かぁ。こういうとことだって分かってたし、センパイからも聞かされてたし。
「しょうがないよね。案件管理局だし」
*
眠い目をこすりながらコーヒー飲んでパソコンに向かう。昨日遅くまでマロンとわちゃわちゃ喋ってたのがいけないんだ、一緒に同じ映画観たりするとすーぐこうなるもんなぁ、面白いもの見たらいろいろ語りたくなっちゃうのはしょうがない。だからって夜ごはん食べてからもLINQで続きやって次の日までぶち抜いちゃう、ってのはやり過ぎだけど。午後からフィールドワークあるし、午前中に眠気覚まししとかなきゃ。
田中来実。「くるみ」ってひらがなで書くとイメージがだいぶ変わるって言われる。それとよく「来見」とか「来海」と間違えられる。子供の頃はそーいうの嫌だし気にしてたけど、最近はそんなでもないかな、ちゃんと覚えてほしいけど。
元々はカントーのニビシティに住んでて、三年前にここジョウト地方のコガネシティへ転勤になった。ニビは人の往来も多くない片田舎って感じの街で、周りを高い山に囲まれてたから、最初はコガネの都会っぷりにクラクラしちゃったっけ。けど、イベントに出やすくなったのはかなり嬉しい、コガネでしかやらないの多かったし。何より、マロンがここに住んでるってのが大きい。対面で話せるのはやっぱりいいよ、ホントそう思う。
で、就職したのはここ案件管理局。元々フィールドワーカーとして採用されて、今は内勤と外勤が半々くらい。散歩好きで外歩きが得意です、って面接で言ったのが効いたって今でも思ってる。お月見山までちょっと散歩、みたいなノリでよく行ってたし、間違いじゃない。今は警戒レベル低めの案件を複数掛け持ちで担当してて、中には無力化を確認してクローズしたのもいくつかある。給料は悪くない方、少なくともお金に困ったことはないけど、「公務員を減らせ」って言う世間の声がちょっと痛い。胸がチクチクする。勘弁してほしい。
大学の卒論でテーマに「時空間」を選んだからかな、その手の案件が回ってくることが結構ある。専門チームがシンオウの拠点にいて、その人たちとTV会議をする機会も少なくない。ただ、シンオウのチームはホンモノ、ガチの専門家の人たちが固まってて、どういう原理で動いてるのか分かんない発明品とか作ったりしてる。私でも分かるようなものだと、時間異常を起こしてる空間を正常化する「錨」とか。なんで錨なんですか? って聞いたら、「海に浮かぶ船を安定させるものだから」って返された。うーん、分かったような、分からないような。
案件管理局で働こう、って決めてたのは結構前、高校入ったすぐぐらいには考えてたっけ。世界の謎について知りたい、みたいな気持ちがあって、その時ほどじゃないけど今もその思いは消えてない。実際、得体の知れない現象やオブジェクトはいくつも見られた。信じられないようなコトやモノ、それが自分の住んでる世界に存在してるってことに気付かされたのは一回や二回じゃ済まない。
(まあそれ以上に、異常でもなんでもない平凡なお仕事の方が、ずーっと多いんだけど)
決まりきった様式に過去分からコピペして「異常認められず」の報告書――市民の皆様から寄せられる通報ひとつひとつについて調べて、なんでもなかったらこういう報告書を残してるんだ、律儀なことに――を作る。こーいう山も谷もない仕事の方がよっぽど多い。ちっとも面白くないけど、そもそも面白い仕事なんてものの方がきっと少ないんだ、世の中っていうのは。
むろん、ちゃんとした……物理法則なんかに反しまくってるって意味ではちゃんとしてないけど、明確に異常だって言える案件もある。私が担当してきたのはこんな感じ。
案件番号#126973「超強力なんでもなおし!®」。警戒レベルは3。驚異製薬と名乗る要注意団体が全国の薬局・薬店にばら撒いた、液状の医薬品風オブジェクトだ。医薬品や食料品は普段担当しないんだけど、この案件は少し時間の要素が絡んでたこともあって、第四課の主担当をアシストする副担当として参加した。
このオブジェクトの性質を端的に言うと、「あらゆる欠損を修復する」「断片から本体を生成する」というもの。尻尾の切れたヤドンに垂らせばヤドンの尻尾が再生するし、ヤドンの切れた尻尾に垂らすと「ヤドンそのもの」が再生する。一般的な「本体」が残ってる前者はともかくとして(十分異常だよ、念のため)、本体から分離した「切れ端」から本体が再生するというのは特に異常だ。
私が関わったのは、このオブジェクトが対象に干渉するとき「時間を巻き戻している」のではないか、という仮説を立てたから。局内では担当外の案件についても、公開情報を元に仮説を立てることが推奨されている。たまたま目に留まって思い付いたってレベルだけど、実際それに近い仕組みだったみたいで、調査が大きく進展したから儲けものってやつ。収容プロトコルも制定して、今は見つかったら即回収して破棄、って手順も確立されてる。
案件番号#124329「フクマルデパートの複製」。警戒レベルはこれも3。コガネシティに来てから担当した案件で、なかなか大変なやつだったっけ。ここコガネシティには「コガネデパート」っていうそのまんまな名前の大きなデパートがあるんだけど、それの前身になったのが「フクマルデパート」っていうところだったりする。運営母体が変わってコガネデパートに建て直されたわけだけど、そのフクマルデパートがどういうわけかコガネシティ郊外のマンション建設予定地に出現したからさあ大変。
当然最初は取り壊しに掛かるわけだけど、壊しても次の日になると元通り、頑張って更地にしても結果は同じ……っていうこの手の案件にありがちな状態に陥って、土地ごと局が管理する羽目に。で、私が担当者にってわけ。土地所有の手続き面倒くさかったなあ、これがあるから建造物系の案件はヤなんだ。ひとまず性質を掴むために、探索チームを派遣して内部を調査したんだよね、確か。外から指示出すのは今でも緊張するけど、あの時は初めてだったからガッチガチだったよ。
実地調査で分かったのは、中が常に「四十年前」の状態に保たれてるってこと。置かれてる商品や貼付されてるポスターからの判断だ。これで私がアサインされた理由がピンと来た。フクマルデパートが改装されたのは今から四十三年前、それからちょうど四十年経って再出現した。今の時間軸から見て四十年遅れて時間が流れてるってこと。仮説として、単に四十年待てば消えるのでは、って仮説を提示した。これが採用されて、今は人目に付かないようにして時間が経つのを待ってる状態。ただ、警備員から時々「何かの放送が聞こえる、迷子を呼んでいるように聞こえる」といった報告が上がってて、上司からは調査計画を立てるように言われてる。なんとかしなきゃなぁ、とほほ。
案件番号#131390「『センセイ』が必要な部屋」。警戒レベルは1。言っちゃ悪いけど大したことない、ほとんど害のない案件。ただ、これも時間が深く関わってるのは確か。害はないんだけど、概要を説明しようとすると結構骨が折れる。時間に関する案件は全般的にそうなんだけど、他人に説明するのが難しいものが少なくない。さっきの二つはまだ分かりやすい方だったけど、これは少し説明が長くなる。
なるべく簡潔に言うと、ポケモンが使う技のひとつ「トリックルーム」と似た現象が起きてしまうアパートの一室、って言えばいいかな。この部屋では、「複数の者が関わる事象で常に物事の前後関係が逆転する」奇妙な現象が発生する。例えば「一切れしかないケーキを先に食べようとすると、どれだけ早く行動に移しても相手の方がより早くケーキを取ってしまう」といった具合だ。事前説明一切なしに職務に忠実なお互い面識のない職員同士の実験でも同じ結果が出た。証明するの、ホント大変だったなあ。
部屋自体は封じ込めて利用できなくする、でいいとして、同じ事象が別の場所で起きた時円滑に収容が行えるように「任意の順番」で物事を進める方法について検討する必要があった。これはたまたまだったんだけど、部屋の中で「自分が先にケーキを食べます」と「宣誓」してみると、本当に「先制」してケーキを食べられた。分かってしまえば単純で、何か優先度が生じる物事をする時は「自分が先にします」と「自分が後にします」と「宣誓」するとその通りになるというわけ。事前に口に出して言うだけだからプロトコルの制定もすぐで、事実上の無力化に成功したってわけ。
こんな感じで、時間に関する案件がしばしば回ってくる。休み前に統括からメールで回ってきたのもきっとそういうのだろうなぁ、頭シャキッとさせなきゃ。淹れたてのコーヒーで満たしたマグカップを持って席へ戻る。ひとまず事前調査、概要を掴むところから入らなきゃ。
案件番号は#118174、もともと6桁の数字なんて覚えられないから記憶はアテにならないとはいえ、ピンと来る数字じゃなかった。案件データベースに問い合わせよう、もう担当者としてのセキュリティクリアランスは付与されてるはず。メールに記載された案件番号をコピーして貼り付け、検索検索、っと。
「なになに、タグは『時間異常』『時空異常』『クロガネ第六支局連携』『ジョウト地方』『ヒワダタウン』『ネットワーク』……やっぱこういうのかぁ」
うはー、案の定だわ、案の定。時間異常タグや時空異常タグもそうだけど、やっぱ「クロガネ第六支局」ってのがビンゴすぎて。ここはさっき言ったシンオウの時間異常関連案件チームが属してる。案件自体は私のいるコガネ第二支局持ちでクロガネ第六支局が直接管轄してるわけじゃないけど、そこに協力を仰がないといけないくらいややこしい案件って意味。「ネットワーク」っていうのだけピンと来ないけど、これは中身見れば分かるはず。
案件登録は2007年、私が就職する一年前か。珍しいわけじゃないけど長期未解決案件にピックアップされた形跡があって、更新履歴を見ると棚卸時に監査部門から指摘が入ったのがしっかり残ってる。どうなってるんだって言われてもなあ、どうにもならない案件も多いよ、とほほ。
よし、中身を見よう、「詳細」のリンクをクリックする、権限チェックが走った。おっ、フルアクセス承認。もう権限付与は完了してるみたい。ディレクトリにアクセス、途端に鏡に映る自分の顔がちょっと渋くなる、六年も前からやってるから資料がうんざりするくらい詰め込まれてた。ホント信じられないくらい資料が多い。何かのログとかも見えるけど、こういうのから見ると泥沼に嵌るからまず経緯書と初期調査報告書から。どこにあるだろ? こっち? それともこっち?
「骨が折れそうだなぁ」
まだ湯気の立ってるマグカップを掴んで、ミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口すする。担当してる案件でも番号だけだと覚えらんないから、案件名も押さえておこう。さて、こいつの名前は――。
「――『ウバメの森のジャンクション』、か」
*
異常物品の実験記録を取ったり、無力化した案件をクロージングしたり。やることがいっぱいで手が回らない、と言いつつも、割り当てられた案件だから気にはなっていて。「ウバメの森のジャンクション」、なんとなく引っかかる名前だ。ウバメの森ってところが特に。少し時間ができたし、ちゃんと見ておこう。
ウバメの森はコガネシティとヒワダタウンを隔てる森林地帯で、地理的にはヒワダに属している。一応人や車が通るための道は整備されてるけど、ほとんどが自然のままで手が入っていない。人が立ち入らない場所だっていうこともあるのかな、ちょっと気になる民間伝承を耳にする機会があった。
なんでもウバメの森には「トキワタリ様」と呼ばれる不思議な存在がいて、名前通り時を渡って森の中で生き続けているらしい。ただ長命なだけじゃなく、気まぐれで時空を捻じ曲げたりする、とも。案件管理局の局員なら、こういう話は聞き流さずむしろ注意して聞かなきゃいけない。そういう伝承の由来になるような超常現象が過去に起こった、或いは今も起きていることのサインに成り得るから。昔話を信じる・信じないじゃなくて、そうしたエピソードがある、ということ自体が重要な情報になる。
民間で伝わる信仰や伝承の類には、過去に起きた超常現象を「その時の知識と常識」で説明しようとした結果作られたものが少なくない。異常な事象が繰り返し起きると、地元の人たちが言うところの「トキワタリ様」のような神様が立てられて、そこに起源があるってことにされるパターンが多い。今回もそれだと思う。「トキワタリ様」の実在はあまり関係なくて、「トキワタリ様」というシンボルが立つくらい時間に纏わる現象が起きてるってことだ。
「さてさて、何が起きてるんですか、っと」
何は無くとも概要の把握から。六年もあったんだから、ある程度は分かってるはず。
かいつまんで説明すると――ウバメの森の奥地に出所不明のアクセスポイントが発見されて、そこからインターネットへ接続できるって通報があったのが切っ掛けらしい。それだけならまだしも、接続先が普通のネットじゃないことも分かった。
「2001年4月15日、か」
ネットはネットでも、過去のネットに繋がるアクセスポイント、ということらしい。接続した時点から五年前の相対的な過去ではなくて、絶対時間で見た過去へ繋がっているそうだ。この手の時間異常は珍しくない。前に上げたフクマルデパートは「今から四十年前」の相対時間を参照していて、超強力なんでもなおしは「その物体が破損していなかった時点」の絶対時間へ巻き戻す作用を持っている。ウバメの森のジャンクションは「2001年4月15日」の絶対時間に結び付いている、そういうこと。
資料を見ている今は2013年5月、今から12年以上前の時代で固定されてるってことになる。ごく限られたサイトにしか接続できず、ちょっとしたことですぐに接続が途切れてしまうから調査にも手間がかかって、最初の方はアクセスできるポイントを探すだけで苦労してるのが伝わってくる。今はどういう状態だろ? いったん途中のは飛ばして最新のを見てみよう。
「あれ? これ……無力化済み?」
鏡に映る自分の目がまん丸くなるのが見えた。最新の報告書を見ると「異常性は喪失した模様」と書かれていて、その検証をする段階で担当者が離れたみたいだ。統括からこれ以上の収容と保全は不要だって提案が出ていて、あとはその裏取りと案件完了報告書の作成だけってステータスになってる。
ラッキー! ……なんて口に出して言ったら上司に怒られそうだけど、実際ありがたいのは間違いない。こういう後始末だけの案件はちょくちょく回ってきてて、やることは大体決まってる。無力化されたことの実験と実証、それが終わったら様式に沿って報告書を出すだけ。腕利きの局員には日々湧いてくる新しい案件に向かってもらって、私みたいに比較的手の空いてる局員が事務手続きめいたクロージングをする、案件管理局ではよくあることだ。
「んー? 収容違反……?」
ただ、ひとつだけ厄介な点もあって。どうやらこれは過去に収容違反が起きた案件らしい。らしい、って言うのは、こういう情報は極力他の局員に回ってこないようになってるから。局内で情報連携がされた形跡もないし、私も今まで知らなかった。収容違反を起こしたのは前任者、正確にはその人のサポートで入った別の局員がやらかして、その監督不行届きで……ということみたい。
経緯書を見てみる。作戦行動中に計画外のアクションを起こして、結果的に因果律が乱れるレベルの事案が起きた、過去に訴求して歴史が変わった可能性あり……なんてさらりと書いてある。おっそろしい、さらっと書くような事じゃない。時間系の案件をたくさん見てるからそのヤバさは骨身に染みて理解できる。これは確実に懲戒免職モノだ、そう思いながら読んでたら、案の定セキュリティクリアランス全剥奪になったらしい。当たり前っていうか、当然っていうか。
実験中には何が起こるか分からないとは言え、独断で計画から外れたことをしでかすってのはかなりタチが悪い。もちろん超常現象が相手だから、事前に想定したのとは違う予期せぬ事態が起きて、咄嗟の判断で計画外の行動を起こすってのはあり得るし、そういうのはさすがに考慮される。だけど、これは何度も実験が行われていてある程度性質が分かってる案件だから、やっぱり始末に負えない。言い訳のしようがない。
「けどなんで別の担当者入れたのかな、今まで一人でやってたみたいなのに」
気掛かりなのはそこだった。立ち上げから五年くらいずっと単独案件だったみたいなのに、収容違反が起こる直前でサポートの局員を入れてる。こういうのはあまり見たことがない。何年も一人で持ってきた案件は大抵その人が片付けるし、複数人が関わるようなものは初期から体制を作って取り組む。ちょっと歪な印象を受けるな、これは。
ま、いっか。ひとまずこの案件でやることは見えたし、思ったよりも早く片付きそうだ。そろそろミーティング始まっちゃうし、会議室に移動しよう。終わったら後藤さんの実験サポートもあるし、続きはちょっと出来そうにない。今日はいったんここまでにしとこう、システムからしっかりログアウト。
「定例会、予定通り終わったらいいなぁ」
終わらないかなぁ、やっぱり。掘り下げ始めちゃうんだろうなぁ、佐伯課長が。とほほ。
はぁー、でっかいため息が出ちゃう。三日前にフクマルデパートの複製で過去に記録のない事象が起きて、現地調査と収容手順の見直し、それから統括への報告で、連日連夜の残業アンド早朝出勤。この様子だと、四十年間ほっとくっていう今のプロトコルは不十分・不適切かも知れない。内部に未知の存在がいる可能性が示唆されてるし、内部調査を再計画した方が良さそうだ。ひとまず目の前のタスクは全部片づけたけど、先が思いやられるよ。
フクマルデパートの件がひと段落したから、やっとまとまった時間が取れた。「ウバメの森のジャンクション」だ。優先度低めでやってたけど、実質文書作るだけだし今月中にケリを付けちゃおう。文章書くのは苦手じゃないし、やる気出せばパパッと片づけられるはず。根性だ根性、手持ちのタスクは減らすに限る。
無力化確認の計画書と案件完了報告書、作るのはこの二つだけ。前のは過去の実験から引用すればすぐ作れるし、後のはカッチリした書式がある。どっちも中身のアテはあるから、何を書けばいいのか分かんないってことにはならない。何回か書いたことあるしね、こういうの。
「実験のケースは……新しい資料から引用した方がいいかな」
ディレクトリを軽く漁ってみる、一番最後の実験記録が入ってるのはこれかな、20130508。あったあった、実験計画書だ。収容違反が起きた後、統括の方で臨時担当者を派遣して実験したっぽい、これをコピーして新規に作ればいいかな。それで行こう。
資料を作り始める、割と順調に進んでる。大筋はこのままでいいと思うけど、過去の記録とかも見てケースが足りてるかチェックしておいた方がいいかな。ひとつ前の計画で作られたディレクトリへアクセスする。さっそく資料を探そうとして、ふと変わった名前のファイルを見つけた。
「なんだろ、これ。『chat.marimo.com.7z』……?」
他のディレクトリにはないファイルだ。拡張子.7zは局内で標準的に使われてる7-zip形式のアーカイブに付くものだけど、ファイル名が何だか変わってる。ドメイン名だよね、これ。ファイルを開いてみようとダブルクリックしてみるけど、ダイアログが表示されてパスワードを要求された。ダイアログに出てる情報によると、このアーカイブには何かのログファイルが格納されてるみたいだ。どっちにしろ、パスワードが分からないと開けないんだけど。
この案件内で使われてたパスワードなんて引き継いでないし、ぱっと思い当たるパスワードも無い……無いんだけど、名前になってる「chat.marimo.com」って文字列には見覚えがあった。「マリモチャット」っていうレンタルチャットサービスで、中学くらいの時にこの中の部屋によく出入りしてたっけ。ゲームの攻略と創作がごっちゃになってる、昔よくあったタイプのサイトに設置されてたやつ。
私が通ってたサイトだと二種類のチャットがあって、一つは誰でも入れるフリースペース、もう一つは常連さん専用で決まった人しか入れない。管理人と仲良くなるとパスワードを教えてもらえる仕組みだったはず。パスワードって言っても全員共通の「合言葉」みたいなものだ。あそこに通ってたの、もう何年前になるのかなぁ。十一……十二年かぁ。すっかり時間が経っちゃったなぁ、十二年前って。
意識しないうちにパスワードを入れていた。「anuzikonirom」、確かこれだ。こういうことだけちゃんと憶えてるんだよね。って、このパスワードでアーカイブが開くわけないんだけど――。
「……えっ、展開された?」
目を疑った。案件管理局で仕事をしていて自分の目を疑うことはしょっちゅうあるけど、この瞬間起きたことは今までのそれとちょっと毛色が違う。どうして? なんでこのパスワードで開くの? ぞわぞわが止まらない。局内でこんなパスワードを使うルールなんてないはずだし、思い付きで設定するにはちょっと長すぎる。じゃあなんであのパスワードで開いたの? いったい誰がこれを? 疑問がどんどん湧いてくる、見てはいけないものを見ているような感覚が収まらない。
ファイル自体はそんなに大きくなかったみたいで、展開作業はすぐに終わった。出て来たのはログファイル、それもHTMLファイルを直接保存したもの。念のためウイルスチェックに掛けてみる、結果はグリーン。アーカイブから展開する時に引っかからなかったから当然と言えば当然だけど、でもやっぱり気になるし。ファイルの安全性は分かった、じゃあ次は……これを開いて、何が書かれてるのか確かめなきゃ。
眼鏡を直す。たぶん、これはセッションを記録したログのはず。過去の実験記録に「チャット参加者とのセッション」という項目があったのを思い出す。サイトからサイトへ移動した先でひとつだけ稼働してるチャットがあって、そこで時間になると必ず入室してくる人がいるとか。ちゃんと読んどけばよかったな、誰が入って来るのかとか。このファイルはきっとその時のやり取りをそのまま保存したもののはず。
見覚えのあるドメイン名、記憶にあるパスワード、それに……私はチャット自体に縁がある。ここに何が書かれてるんだろう、誰が参加したんだろう。収まらない胸騒ぎを抱いたまま、意を決してファイルをダブルクリックして開く。
「これ……これ……っ!」
暗い菫色の背景、デフォルトスタイルのhrタグ罫線、カラフルなフォントカラー、三コマのアニメGIFアイコン。記憶の中にあったチャットと完全に一致するデザインの画面が、ウェブブラウザの画面に再現されてる。大きい割に解像度の低いCRTディスプレイで見ていた画面が、案件管理局標準の高解像度液晶ディスプレイに広がってる。懐かしさと場違いさを同時に覚える光景、ほとんど全部が自分の憶えてるのと一致してて、違うのは画面の解像度だけ。
見覚えのある配色、見覚えのあるレイアウト、それから……見覚えのある名前。
「空色フォントの……『クリス』、って」
クリス。常連向けの第二チャットでよく目にしてた、よく話してた人の名前。発言するときのカラーはいつも空色だった。名前も色も一致する、菫色背景のマリモチャットにいる、空色フォントのクリス。偶然の一致? あり得ないわけじゃない、でも……ここまで一致する確率が現実的にあり得るかって問われたら、自信をもって首を縦には触れない。
ログは下の方に伸びていってる、過去ログページに記録されるときの動きだ。普段は上に上にメッセージが積み重なっていくわけだけど、過去ログモードで見ると逆に下へ下へ伸びていくカタチになる。クリスが入室してからしばらくの間、チャットのシステムメッセージだけが並んでる。人が少ないと賑やかしのために創作のキャラがランダムでメッセージを出す機能があったのを思い出す、これも一緒だ、見覚えがある。
やっぱりここは……私が通ってた、あのチャットとしか思えない、あの場所に間違いない。
確か20時くらいだとか書いてたっけ、このチャットに案件管理局とは関係ない、2001年当時の誰かが入ってくるのは。過去のセッションではこの人とコンタクトを取ろうとしていたという記述があった。クリスが入室したのは20:09、もうすぐ他の利用者が入ってくるはず。マウスのホイールを回して、ある一定の時刻になると入ってくるという誰かを探す。
誰かって……誰? 真っ白になりそうな頭の中で、ひとつの記憶だけが鮮やかな色を帯びて蘇ってくる。何の気なしにチャットへ入ったあと、思いもよらぬメッセージを見て困惑したことが、まるで昨日のことのように思い出せる。あれは夢だと思いこもうとして、いつの間にかすっかり忘れていた、あの日の出来事が。
「――そんな」
その誰か――「綺羅々★」が入室するログが見えた。入室したばかりの「綺羅々★」がクリスに挨拶をする、けれどクリスは「綺羅々★」へ返事もせずに、一方的に、何かに急き立てられるように、こんなメッセージをチャットへ送り込んでいて。
「5/19のホウエンへの修学旅行には行かないで」
「その日バス事故が起きてきららは死ぬ」
「これは未来から書きこんでる」
「絶対に行っちゃダメだ」
「いかないでくれ」
クリス。インシデントを発生させた局員が名乗っていたハンドルネーム。綺羅々、クリスがインシデントを起こしてまでもメッセージを送った相手。メッセージの内容は、綺羅々から見て未来に起きる出来事を伝えるもので。それは、本来その時の事故で死ぬはずだった綺羅々の運命を変えるためのもので。
傍らに置いていたスマホが揺れる、LINQの新着通知。震える手を伸ばしてメッセージを開く。差出人はマロン、十年来のチャット仲間。
「きらら氏~ 今度のライブのチケット取れた~」
そう。
あの「綺羅々★」は――私、だった。
*
「そういうこと、だったんだ」
両手を見つめる。手のひらをじっと見つめる。自分は確かにここにいて、間違いなく生きている。自分は死んでない、2013年の今を生きてるんだ。自分がここにいるのは、あの時クリスがチャットで警告してくれたから、すべてを教えてくれたから。
(クリス……)
一ヶ月も先の修学旅行の話をいきなりされてすごく戸惑ったのを覚えてる。けれど行先がホウエンだということ、日付もピッタリ一致してたから、口から出まかせや悪戯だとも思えなくて。それからもう一度クリスと話をしたかったけど、チャットに個人情報みたいなことを書いたって理由で管理人にアク禁されて、結局二度と話せなかったっけ。クリスの連絡先も分からなかったから、あのメッセージが事実なのか確かめる方法はなかった。
(そこまで楽しみにしてたわけでもないし、行けなかったら行けなかったで別にいいかな、何も起きなかったらそれでおしまいだし)
そう思って、当日に仮病を使って行かないことにした。元から病気がちでよく学校休んでたから、お母さんにも疑われたりせずにすんなり通ったっけ。熱もないのにベッドで横になりながら、クリスから言われたことを何度も思い返してたのを覚えてる。本当に事故なんて起こるのかな、でたらめじゃないのかな。そう考えてみても、まさか、という疑念を完全に振り払うことはできなくて。
だから――テレビで事故のニュースを見た時は、目の前が真っ暗になった。十一人も同級生が亡くなって、中には同じクラスの子もいて……本当にショックだったっけ、その夜は一睡もできなかった記憶がある。目を瞑っても事故の悲惨な光景が目に浮かんできて、耳を塞いでも犠牲になった子の声が聞こえてくるみたいで。振り返る度に胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる感触を覚えるのが辛くて、あえて思い出さないようにしていた。
何より、あのクリスからのメッセージが全部紛れもない事実だったことが、普通じゃ説明できない超常的な何かを感じて、私の胸をひどくかき乱して。私が案件管理局で働こうって考え始めたきっかけ、それは他でもない、修学旅行でのバス事故とクリスからのメッセージだった。
「……そういうこと、だったんだ」
担当者に協力したという局員がどうして収容違反を起こしたのか、事前の計画になかったテキストを送信したのはなぜなのか、その局員がチャットに入室する「綺羅々」のことを知っていた理由は何なのか、直前のレポートで「自分なら『綺羅々』と話ができる」と言ったのはなぜか。
あの時のクリスはどうしてあんなことを言ったのか、ネットの知り合いには誰にも言っていなかったはずの修学旅行話をされたのはなぜなのか、シンオウに住んでいると言っていたクリスが行先がホウエンだと知っていた理由は何なのか、クリスが「綺羅々」にそのことを伝えたのはなぜか。
「私……今も生きてるよ、クリス」
全部、あの局員が――クリスが、綺羅々を――自分を、助けるため、だったんだ。
未来から教えてくれたんだ、修学旅行のバス事故で自分が死んじゃうってことを。何もかも知ってる未来のクリスが、何も知らない過去の綺羅々へ。そのクリスが、他でもない収容違反を起こしたあの局員その人で。綺羅々は私で、それで、それで。
地位も権限も何もかも投げ捨てて、ただ……私のために。
「あなたのおかげで、今も、私……っ」
今はここにいないクリスを思う、深く想う。私の運命が変わって生き延びたことを、クリスは知ってるだろうか。自分を犠牲にしてまで助けたいと思った人が、確かに助かっていたことを知るすべはあったんだろうか。結果を知ることができないまま、ただ多くのものを失っただけだとしたら、それはあまりにも辛すぎるんじゃないか。
せめてお礼を言いたい。案件管理局の局員としてじゃなくて、一人の人間として。
(……そうだ)
私がこれから何をすべきかがパッと浮かんできて、体がすぐそれに応じて動いてくれて。
「あっ、お疲れ様です、第二課の田中です。すみません、今人事部の福山さん――」
*
退職することになった局員は、通常だと必要な記憶処理を受けたうえで雇用関係が解消されることになっている。けれど、中には例外も存在する。重大なインシデントを起こして、事後対応が必要になるようなケースだ。重大なインシデントを起こしたからには局員として雇用を継続することはできない、かといって記憶処理もできないし、重ねて何かしでかさないか監視が必要、という状態になる。
こういう面倒なパターンになった時は、大抵局が管理する別の団体――いわゆるフロント組織で再雇用されることになる。セキュリティクリアランスは当然全剥奪で、待遇だってよろしくない。局による調査が済むまでそこで監視されながら働いて、用が済んだら退職するか続けるかを選ぶ。もちろん、どちらにしろ記憶処理は避けられないけど。
「案件担当者が私で、好都合って言ったらアレだけど……好都合だよね」
主担当者として、クロージングのために元局員にヒアリングを申し込みたい、人事部に相談したらあっさりすべての情報を教えてくれた。元局員は局が管理してるポケモンセンターで警備員として再雇用されているらしい。私にしてみれば、物事を自分の思うように進められて都合がいいのは間違いない。相手のことを思えば、素直には喜べないって言うのが本音ではあるけれど。
ポケモンセンターの待合室で人を待つ。辺りは人でごった返していて、あちこちから賑やかな声が聞こえてくる。ここはごく普通のポケモンセンターとしての機能を提供しつつ、異常なポケモンの一次収容先としての機能を持っている。案件管理局の管理下にあることは一般に知らされていない。案件管理局は縁の下の力持ちとして、光の当たる場所で暮らす人々を脅かす闇を監視する役目を担う存在だからだ。
案件管理局で働くことの意義とか意味なんて、今まであまり考えたことなかったっけ。超常現象に立ち向かって市井の人々やポケモンたちの平穏を守る、そんな仕事なんだって漠然とは思っていたけれど。今、こうして自分が生きているのはなぜか。案件管理局に籍を置いているのはどうしてか。すべては運命の巡り会わせ、この道を歩んでほしいと誰かが願った結果で。
私は今、その誰かに会おうとしていて。
「来た」
警備員の制服を着た人のシルエットが見えた。人を避けながらこちらに向かってゆっくり歩いてくる。小さく息をついて、それから敢えて目を合わせないようにする。スマホを取り出して視線の逃げ場所にした。俯いたまま少し震える手つきでSMSアプリを立ち上げて、人事部からもらった電話番号を打ち込む。電話番号の変更も禁止されてるから、これで間違いなく届くはず。
顔を合わせたら、何を伝えようか。後任としてヒアリングに来ました、それは後。どうして助けてくれたの? 月並みかな。こんな顔でちょっとがっかり? 言ってて自分で凹んじゃう。久しぶりだね、いきなり言われてもきっと分かんないな。伝えたいことはたくさんある、両手で抱えきれないくらい、いっぱいに。
今までの人生で間違いなく一番長い一秒をいくつもいくつも積み重ねた末に、私は最初のメッセージを打ち込んだ。文面を確かめる、これでいい、これで行こう。覚悟を決めて送信ボタンをタッチする。スッとスマホを下ろして、グッと顔を上げた。
不意に警備員が立ち止まって、ズボンのポケットからスマホを取り出す。その途端――目の色が、顔つきが、はっきりと変わるのが見えて。様子が変わるのを私もまじまじと見ていたから、自然とお互いの視線が交錯して。
ディスプレイが点きっぱなしになってる私のスマホには、相手に送ったメッセージが吹き出しへ入って映し出されていて。
「クリスへ、会いに来ました。綺羅々★より」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。