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蝋濡れの手で

作者:1TAS一話

 ドラゴン、そして火の鳥の敗北と、祖父の死によって、僕は人生を立ち止まるチャンスを得た。
 それはきっと幸福なことなのだろう。
 それが出来ぬことは不幸だと、恐らく誰もが言うだろうから。






 その地方は、この時代には珍しく、ポケモンバトルというものがその地方の文化に組み込まれてはいなかった。かつてはいくつかジムもあったらしいのだが、時代の中でそれらは消え、バトルの文化はホウエンとジョウトに吸収されていった。
 僅かに残るポケモンセンターがその名残として残っているが、それがその地方のポケモンバトルに対する認識であった。
 中途半端に舗装されたアスファルトを歩く学生たちの腰元にもモンスターボールは殆どない。そして彼らは、それを不自然なこととも、不幸なこととも思ってはいないだろう。
 それこそが、その地方の正常な姿であるのだから。



 高校生活という新たなルーティンを不安に思っていた者も、それに心躍らされていた者も、それが杞憂であり、大きな変化ではないことに気づき始めていた。
 人の流出こそあれど流入のないその地方で、目新しい人間関係の変化は少ない。人生の選択によって離れた友人はいるかもしれないが、基本的には、見知った顔がそのまま進学しているのだ。かつての所属先の差異はあるかもしれないが、大抵の場合、自分は誰かの知り合いであり、誰かは誰かの知り合いである。

 それ故に、彼、モーリの存在は、彼ら学生にとって注目すべきものであった。自分の知り合いではなく、誰かの知り合いであるわけでもないらしい。他の学生たちとは違うシュッとした雰囲気が、いわゆる垢抜けているということの証明なのだろうということを彼らが理解できたのは、モーリがカントー出身であるのだという噂を知ってからだった。







「次の現国、抜き打ちあるらしいぞ」

 昼休憩、食事を終えたモーリが次の授業の準備をしていると、彼の前の席に座っていた男、ミマが振り返ってそう言った。

「マジで?」
「ああ、二組の四限であったんだと」
「漢字?」
「漢字」
「マジかよ」

 ミマは、この学校より前にモーリと付き合いがあるわけではなかった。彼は生まれた頃からこの地方しか知らない。
 それでも彼がモーリにその情報を与えるということは、余所者の彼がある程度クラスに溶け込んでいるということでもあり、友人に近しい存在を作り始めているということでもあるのだろう。
 モーリが周りを見渡せば、たしかに漢字の参考書とにらめっこしているクラスメイトの姿が目に入る。

「参ったなあ」

 机のサイドの引っ掛けていたリュックサックを開き、その中から漢字の参考書を探し出そうとする。まだ教科書のすべてを学校に置き去りにするほど油断はしていなかった。
 その様子を見ていたミマが『それ』に気づく。

「モンスターボールじゃん」

 教科書の束の底にあった赤と白のコントラストは、本来その地方ではあまり見慣れないはずであった。もし、ミマがポケモンリーグのファンでなければそれは見逃されていたかもしれない。
 ミマのその言葉に、教室内はざわついた。
 カントーから来たらしいモーリに、モンスターボール。その組み合わせは都会的な要素と、いまだ知らぬ新世界の情報を彼ら彼女らに期待させるに十分だったのだ。
 だが、そのざわつきに対して、モーリの表情は少し硬くなっている。

「ポケモン、持ってたんだな」
「まあ、ね」
「これまで見たことなかったけど」
「基本は家なんだよ。今日はちょっと気まぐれでね」
「ちょっと見せてくれよ」

 やはりその言葉に、教室内の注目が集まる。
 彼らにとって幸いであったことは、校内へのポケモンへの持ち込みと、その繰り出しが校則では禁止されていなかったことだ。それは逆に、この地方、この学校におけるポケモン文化の薄さを物語っている。

 モーリはその提案に表情の硬さを緩めない。だが、それを明確に拒否する理由を持ち合わせていなかった。

「あまり愛想が良いわけじゃないよ」

 取り出されたモンスターボールをその場にポンと投げると、そこからポケモンが現れた。
 クラスメイトの視線が一斉にそれに集まり、そして、わずかに戸惑いの視線となる。
 全体的にまるっと膨れた体型に、不機嫌そうに曲がった口元、さらにヒゲは先端が縮れている。
 そのポケモン、ブニャットは、たしかにその手入れされた毛並みは野生のポケモンには見られない都会的なものであったが、そのまるまる太ったような見た目は、とても洗練されているようには見えなかった。

「餌やりすぎじゃね?」

 ミマはそのポケモンが何なのかよくわからなかった、リーグのトレーナーたちが使っているようなポケモンではなかったし、このへんで見るようなポケモンでもない。
 だからこそ、そのポケモンが太っていると思ってしまったのである。

「いや」と、モーリはそれを否定する。

「こういうポケモンなんだよ」

 彼はブニャットの頭を撫でながら続ける。

「体を大きく見せるために、尻尾でウエストを絞ってるんだ」

 その言葉通り、ブニャットの尻尾は胴に巻き付いており、相対的に太っているように見せているようだ。
 ギャラリーの女子生徒たちは、それが彼女らのよく知るかわいいポケモン、例えばエネコロロであったり、かっこいいポケモン、例えばレパルダスのようではないことに一瞬がっかりしたようだったが、ブニャットがモーリの手を頭をふって拒否したあたりから、よく見れば可愛いのではないかと、何も綺羅びやかなことばかりが可愛さではないのではないかと、いわゆる『ブサカワ』というやつなのではないかと考えを巡らせ、少しずつブニャットに好意的な興味を持ち始めていた。
 モーリの撫でる手を頭を振って拒否したブニャットは、そのまま女子生徒たちの手も軽快にかいくぐり、教室後方の掃除用具ロッカーの上にひらりと飛び乗った。そのままそこに腰を落ち着かせ、大きくあくびをして目を閉じる。

「あんまり懐いてないんだな」
「まあ、ね」

 モーリはくつろぐブニャットを眺める。
 この教室を一望できる場所を、真っ先に占有したのだ。
 きゃあきゃあ言いながらなんとかブニャットに構ってもらおうとする女子生徒を尻目に、ミマはモーリに問いかける。

「お前ってカントーから来たんだろ?」
「そうだよ」
「やっぱさあ、ジムに挑戦とかもしたわけ?」

 それは、テレビや情報端末でしかカントーを知らないミマ、あるいはその地方の人間らしい疑問であった。

「まあ、しなかったわじゃないけど」
「マジ? どんな感じなん?」
「レベル高いよ、とてもじゃないけど僕じゃあ無理だった」

 少し俯いてそう答えたモーリに、ミマが話題を変える。

「ウチの高校って『ポケモンバトル部』あるんだろ? 入らねーの?」

 その部に、モーリは覚えがあった。
 学校の掲示板に貼り付けられている、下手くそなピカチュウが描かれた勧誘ポスター。その下手くそさを誰も話題にしないことが、その部の存在感を十分すぎるほどに表している。
 ポケモンバトルがしたけりゃ、この地方に正解はないのだ。ホウエンやジョウトに向かい、挑戦をするべきだ。誰もがそう思っている。

「いや、やめとくよ」と、モーリはそれに答える。

「バトルはあまり得意じゃないから」

 そのすぐ後に、現国の教師が定刻の五分前に現れた。
 無駄話に気を取られていたミマを含む生徒達は阿鼻叫喚し、必死に漢字のテキストに目を通している。
 現国担当が掃除用具ロッカーに陣取るブニャットに好意的な興味を示し、大人しくさえしていれば、ブニャットがそこにいることを否定する校則はないことを説明したことで、現国の授業は一分ほど遅れ、抜き打ちテストの猶予が生まれた。
 だが、それはモーリにとっては大した救済ではなかった。
 彼は前日の夜に、予習復習の中で、それを終えていたのだから。





 中途半端に広い道路を少し歩いて左に曲がれば、すぐさまに地元の人間が行き交う小さな商店街のような片側一車線。
 それを三十分ほど歩いて少し寂れた地区、地元民から裏山と称される場所の麓に、モーリの新たな拠点はあった。
 距離的には自転車を使っても良かったかもしれないが、今のところ彼はそれを考えてはいない。通学時間という無駄な時間を、まだ彼は新鮮に思っていた。
 ふと、彼はほんの少し先がガヤガヤと人で賑わっているような気がした。たしかあの辺りには、小さな公園があったはずだ。
 だが別に、彼はそれに歩みを早めることはなかった。無理もない、今更小さな公園での喧騒に興味のある年齢ではない。
 しかし、一歩一歩とそれに近づき、その喧騒の意味合いが断片的に耳に入る言葉から理解できるようになると、彼はその歩みを早める。

「ポケモン」
「襲われる」
「誰か」
「女の子」

 それらの単語は、そこで何が起きているのか想像するに十分だった。



「どうしたんです」

 わずかに息を切らしながら、彼はその人混みに向かって言った。
 だが、それは言葉通りの意味ではない。
 何が起きているのか、それは目の前、公園の中央を見れば分かる。

 同じ高校の制服を着た女子生徒が、一羽のオニドリルに襲われている。
 否、彼らが襲っているのはその少女ではない。
 その少女が抱きかかえているフシギダネ。それこそが、彼らの獲物なのだろう。
 公園でのんびりしていた少女とフシギダネが、野生のオニドリルに襲われ、抵抗している。簡単に推理が出来る。

 故に、彼はその場にいる数人の大人達に向けて問うたのだ。なぜ誰も彼女を助けに行かないのかと。
 その問いを理解していたのだろう。一人の初老の男がそれに答える。

「今レンジャーに連絡したところだ」

 その言葉で、モーリは大体を理解した。
 この地方に、ポケモンバトルの文化はあまりない。

「連絡したって」

 到着はいつになるのか、彼らが知るはずもない。
 一瞬、モーリはそれを躊躇した。
 だが、すぐさまに歯を食いしばり、リュックサックを肩から下ろす。
 中から取り出したそれを握りしめ、彼は「これを」と、リュックサックを初老の男に預けた。

「君!」

 初老の男がそう止めるよりも先に、彼はオニドリル達に向かって歩を進める。
 大人達はそれを止めようとした。無謀にも野生に飛び込もうとする若者を引き止める。それが大人の義務であるのだと言う使命感があったからだ。
 だが、モーリはそれに止まらない。
 右手には、握りしめられたモンスターボールがあった。

「『ふいうち』!」

 少女の背中に爪をたてようとしていたオニドリルに、視野の外からブニャットの体当たりが届いた。
 地面を転がり、体勢を立て直したオニドリルが、ギラギラとブニャットを睨みつける。当然だ、そのポケモンと人間は、楽勝だと思っていた自らの狩りを邪魔してきた敵なのだから。

「後ろに」と、モーリは背を向けたまま少女に言った。

 野生との戦いに抜群の経験があるわけではない。
 だがそれでも、いま少女らが単独行動を取れば、再びオニドリルに狙われるであろうことは理解できた。
 少女は小さくそれに頷きながら、彼の背に身を任せる。
 獲物を取られると思ったのだろうか、オニドリルは一度上空に飛び上がって滑空攻撃を行う。嘴による『ついばむ』だ。

「『さいみんじゅつ』!」

 だが、オニドリルのその攻撃は、わずかにブニャットに届かない。
 先手を取って放たれた『さいみんじゅつ』が眠気を誘い、その精度を鈍らせた。

「『いあいぎり』!」

 間髪を入れない爪での攻撃。ブニャットは淀みなくそれを実行する。
 羽を撒き散らしながら、オニドリルは悲痛な声を上げ、逃げるように距離を取る。
 彼は恨めしげにモーリとブニャットを睨んだ後に羽ばたいた。すでに手負い、羽ばたけるうちに逃げることは野生の理にかなっているだろう。

「大丈夫だった?」

 モーリは少女を覗き込みながら言った。
 よく見れば服に多少の傷はあるが、少女やフシギダネに大きなキズはないようだった。

「はい、ありがとうございます」

 少女はフシギダネを地面に下ろす。フシギダネは心配そうに少女を覗き込み、つるでその顔に触れた。

「ありがとうな」

 モーリもまたブニャットに礼を言って頭を撫でようとしたが、ブニャットはやはりそれを振り払い、フシギダネの匂いを嗅ぐ。フシギダネもそれを受け入れ、ポケモン同士の挨拶はすんだようだ。
 自らに懐いていないことを当然のように思いながらモーリがボールを取り出そうとすると「あの!」と、少女が声を上げる。

「『ポケモンバトル部』に入りませんか!?」

 その瞳には、モーリに対する憧れのみが映り。

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