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hole. 1話

作者:おさんぽおこう

 空に穴が開いてしまって、あたしの非日常はさらに加速している。


 蒼白い肌の同居人が起き出す前に、少し遅い朝食の準備を開始するところからあたしの一日は始まる。厚切りベーコンとスクランブルエッグ、けれどスープは味噌汁で……と味噌を求めて冷蔵庫を開けたところで、違った、と手を止めた。妙な食べ合わせの博士は、今は居ない。
「どこ行ったんだろう、ウィロー博士……」
 思わず独り言ちてから、溜め息を誤魔化すようにわざと音をたてて冷蔵庫のドアを閉めた。
 あたしはウィロー博士の助手で、彼の住まいに下宿している。研究の手伝いと合わせて、炊事洗濯はあたしの仕事。生活能力の低いウィロー博士を支えるべく、ポケモンの捕獲や育成と同じくらい家事スキルも磨いてきたわけなのだが、まさか当の本人が消えてしまうとは。
「心配だよね、メルタン」
 狙われていたフライパンを避難させながら、液体金属めいた相棒に声を掛ける。お前はこっち、と差し出した螺子に飛び付いたメルタンが本当に博士を気に掛けているかは、正直怪しいかもしれない。けれどそれでも、口に出さずにはいられなかったのだ。
 空に穴が開いたその日から、ウィロー博士は行方不明になってしまっていた。因果関係はわかっていない。ただ、新しい同居人曰く、空の穴────『ウルトラホール』に、関係があるらしい。こことは違う、異世界に通じる穴。
「……と、言われてもなぁ」
 今度は異世界か、なんて思いながら、良い具合に焼き目の付いたベーコンをひっくり返していると、二階の寝室から物音がした。匂いに誘われたらしい。程無くして降りてきた蒼白い少女、リイは、あたしの顔を見るなり「おはよう、ポケモントレーナー」とおどけた。
「だからそれ、やめてってば」
「ふふ。ごめんね」
 然程申し訳無さそうにもせず、リイは遮光器越しの双眸を細めて笑った。皿の上にスクランブルエッグを滑り込ませながらも、あたしはつい彼女の服装に目が行ってしまう。異常なほどの猛暑日が続く今年の夏に、その装備は明らかに適していないように見える。あたしの視線に気付いたリイは「そろそろ慣れてほしいかな」と言った。
「この世界の光は、わたしには強過ぎるから」
「わかってるけどさ、見てるだけで暑いんだよねぇ」
 蒼白の肌に、見慣れない装備。GOウルトラ調査隊とやらに所属する彼女はウルトラホールの向こう側、つまり異世界から来たらしい。
 言葉だけでは信じられないことではあるが、彼女の容姿といい、やや突飛な言動といい、そしてポケモンへの態度といい、この世界のヒトと違うのは明らかであって。
 だってこれまでは、あたし以外は誰もポケモンの存在に疑問も持ってなかったし。
「メルタンも。おはよう」
 リイの朝の挨拶に、メルタンは笑顔で何事か鳴いた。彼なりの返事なのだろうか。謎の箱から出てきたこのポケモンの研究はあまり進んでおらず、まだまだ謎が多い。
 嗚呼、わからないことだらけだ。消えたウィロー博士も、空の穴も、なんならこの世界すらも。おかわりを強請るメルタンに「一つだけだよ」とナットを手渡しながら、自然と眉根を寄せる。そもそも、ウィロー博士の助手になったのだって完全に成り行きなわけで……。
 思考の迷宮を彷徨いだしたことに気付いたのか、リイはベーコンを切り分けていた手を止めて、あたしに向き直る。
「大丈夫。あなたの未知をなくすために、わたしがいる」
「リイ」
「だからあなたは、これからもポケモンたちについて教えてほしい」
 よろしく、ポケモントレーナー。いつかのようにそう微笑んだリイに、あたしは力無く笑い返す。
「……ポケモンだって、まだまだ未知なんだけどなぁ」
「何年前って言っていたっけ」
「五……いや、もう六年経ったかな」
「これまで、あなたと同じ認識の人は居なかったのでしょう?」
「ポケモンに新鮮な反応するの、リイが初めてだよ……まあ、あたし以外は、だけど」
 諦めを含んだ、沈んだ声音がダイニングに響く。そうか、もう、そんなに経っていたんだと、言葉にして改めて直面させられた気分だった。

 ポケモンがあたしの世界に現れて、六年。嗚呼、思えば、あの日も茹だるような暑さだったように思う。
 ピカチュウくらいしかろくに知らないあたしの前に、それらは当然のような顔をして出現した。
 フシギダネ。ヒトカゲ。ゼニガメ。
 状況を理解できないまま、渡されたモンスターボールを投げて。いつの間にか居なくなった下宿先の小柳さんの代わりとばかりに、出会ったばかりのウィロー博士の助手として置いてもらうことになり。それからはもう、毎日ポケモンを捕まえては育てて、観察して、時にはバトルもして、珍しくて強いポケモンも、また捕まえて、育てて……。
 六年間、すっかり日常になってしまった非日常の中で、今度は空に穴が開いてしまって。ただでもおかしくなっていたあたしの生活は、さらに非日常へと加速して転がっている。
「いや、ごめん。また暗くなってた。考えても仕方無いって、わかってるつもりなんだけど」
「気にしないでいい、不安なときはいつでも頼ってほしい。長い付き合いになるって言ったでしょう、相棒」
「……そうだね。ありがとう、リイ」
 あたしを宥めるような、落ち着かせるようなリイの声色に、スッと胸が軽くなったような気がした。
 リイの言葉は不思議だ。絡まっていた思考の糸が解けて、まずは目の前のことをやろうという気にさせてくれる。思えば初めて会ったときも、ウィロー博士が居なくなって狼狽えるあたしを導くように声を掛けてくれた。
「ねえ、リイ。今日はどうするの」
「そう、聞いて。この間ウツロイドが通ってきた物とは違うウルトラホールが開いたようだから、今日はそこの調査に向かいたい。どんなウルトラビーストが現れるか、まだわからないけれど……」
「うーん、また未知の存在かぁ」
 今まで以上に先の見えない現状に、思わず頭を抱える。しかし、さっきまでの焦燥感や諦念は、どうしてか鳴りを潜めていた。


 あたしの毎日は、確実にさらなる非日常へと転がっている。
 けれど、隣に居てくれるようになったその非日常のことは、あたしは嫌いでは無い、ので。

 リイとふたりの、暑過ぎる夏の冒険がはじまる予感がしていた。

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