コンテストのページへ戻る

夏空アップストリーム

作者:アルメニア38

正座をして目を瞑る、それからそっと手を合わせる。換えたばかりのお線香の匂いが微かに鼻をくすぐる。たぶん一分くらいそうしてたと思う、重い瞼をゆっくり開いた。

目の前には、お父さんの遺影があった。

「もう一ヶ月、か」

仕事から帰る途中に事故に遭った、病院から掛かって来た電話を取って無我夢中で走ったっけ。昨日のことのように思うし、もう何年も前のことのようにも思う。わたしが病院に着く頃にはもう意識がなくて、結局そのまま目を覚まさなかった。

その後のことは、正直に言ってちゃんと覚えてない。病院で手続きをして、葬儀屋さんと話をして、家に何人も人が来て、その人たちひとりひとりに型通りの挨拶をして。川に流された草舟みたいに物事が進んでいって、自分の気持ちを整理する時間もなかったと思う。

ようやく全部落ち着いて、こうして一人きりの家でお父さんの遺影と向き合っていると、サラサラに渇き切った心に少し潤いが戻ってくる気がした。じわり、と視界が滲む。間を置かずに頬を雫が伝う感触がした。ぽたり、と畳の上にこぼれて、ごく小さな跡をつくる。

「お父さん」

しぼり出すような声といっしょに、ずっとわたしの中で留まっていた涙がとめどなくあふれてきた。



この家にいたのはわたしのお父さんの二人だけ。お母さんと呼べる人はいない。いたのかも知れないけれど、物心ついた頃にはただお父さんがいるだけだった。わたしを産んですぐに家を出て行ったって聞いたっけ。それでショックを受けたとかはなかったし、何にも思わなかったっていうのが正しいと思う。わたしのことはお父さんがちゃんと見てくれてる、そういう安心感が今まであったから。

今までは。そう、今までは。今はどうだろう? わたしは家に一人遺されて、仏壇の前で途方に暮れてる。これからどうすればいいんだろう、答えられっこない疑問が胸の底からむくむくと湧いてくる。分かんないよ、そんなこと。力なく頭を振ることしかできなかった。

座布団から膝を立てて立ち上がる。どうすればいいのか分かんないけど、何かしてないと落ち着かない。だからかな、お父さんがこの家に遺してったものを整理してる。整理って言っても何ひとつ捨てられなくて、結局ただ少し置き場所を変えるだけ、みたいになっているけれど。

自然と足がガレージに向かう。お父さんが黙々と作業をしていて、わたしは横でそれを見ている。休みの日になるといつもそうだったっけ。今はもう、作業をするお父さんの姿はどこにもない。ガレージはがらんとしていて、見慣れてるはずなのに違和感でいっぱい。わたし、ここにいていいのかな。そんな気持ちが止むことなく湧いてくる。

「もう、これにも乗れないのかな」

ガレージにはサイドカー付きの大型バイクがある。確か……そう。ハーレーダビッドソンのツーリングモデルだ、ってお父さんがよく言ってたのを覚えてる。自分にとって二番目に大事な宝物だ、とも。「じゃあ、一番は?」わたしのその質問には最後まで答えてくれなかったっけ。休みになるとわたしはサイドカーに乗り込んで、お父さんの運転するバイクにくっつく形で走った。屋根の付いた車にはない、風を切って走る感覚が大好きだった。

だけどもう、これに乗ることもない。わたしはまだ免許を持ってないし、もし免許を取ったからと言って、独りでこのバイクを運転する気にはなれない。隣に誰もいなくて、自分が独りぼっちだって一段と強く思わされるはずだから。

そっとしておこう、今はまだ向き合えない。目を伏せてガレージから家の中へ戻ろうとした――その時だった。

「よう、コズエ」
「……えっ!?」

妙にトーンの高い声で名前を呼ばれた、もちろん不意に。全然意識してなかったからビックリしちゃって、思わずヘンな声が出ちゃった。振り返ってガレージを見ると、バイクのすぐ近くに見慣れない“何か“が浮いてるのが見えた。

「ろ、ロトム……?」
「へえ、知ってたのか。カナメのヤツから、コズエはポケモンにゃ疎いって聞いてたんだがな」

ロトム。簡単に言うと電気の幽霊みたいなポケモンだ、って学校の友達から言われたような気がする。ネットやテレビで姿を見たことはあったけど、本物を見るのは初めてだ。このロトムが言ってるみたいに、わたしはポケモンに詳しくない。詳しくないというか、全然知らないって方が合ってるけど。

そんなところへいきなり何も無いところからこのロトムが飛び出してきて、驚かないわけがない。しかもわたしとお父さんの名前を知ってるってことは、どこかから迷い込んだってわけでもなさそう。家のどこかに隠れてたとか? それでわたしとお父さんの話を盗み聞きしてたとか。だとすると、ちょっと失礼なポケモンだと思う。

「えっと、あなた誰ですか? どうしてわたしとお父さんの名前を知ってるんですか?」
「どうしても何も、俺はずっとこの中に居たからな」
「中って、どこの中ですか」
「見りゃ分かるだろ、バイクだよ」

当たり前のことみたいに「バイクの中にいた」って言ったあと、ロトムがふっとその場から消えた。あれ? と思っていると、ちゃんとキーを抜いておいたはずのバイクのエンジンが瞬く間にうなりを上げて、もういつでも走れます、みたいな感じの音を立て始めた。どういうこと? わたしは目をまん丸くするばかり。

するとまたロトムがスッと出てきて、それと同時にピタッとバイクの駆動音が止まる。そういえば、ロトムは機械の中に入り込んで動かせる能力を持ってる、そういう話をどこかで聞いたことがある気がする。バイクの中にいたっていうロトムの言っていたことは、どうやら本当みたいだ。

「いつからそこに?」
「さぁて、いつだったかな。コズエがまだハイハイしてた時からいたってのは間違いないが」
「そんなに前から――」
「ああ。カナメがお前のオムツを換えるところもちゃあんと見てたぜ」
「へぇ……って、何見てるの!」

こんなことも言ってるし、昔からバイクに乗り移ってたのは間違いなさそう。間違いなさそうなんだけど、さっきからこのロトムすごい失礼だと思う。勝手にうちにいるのもそうだし、わたしが赤ん坊だった時からチラチラ見てたってことだよね? なんだかこう、いろんな意味で信じらんない。

「あとはそうだな、お前がカナメのためにクッキーを焼こうとしたら消し炭が出来たりとか」
「わっ」
「夜中に怖い夢を見たっつって、中学生にもなってカナメの布団に入れてもらったりとか」
「ちょっと、いい加減にして!」

どうしてそんなことまで知ってるわけ!? 思わずそう口に出そうになった。他の人が絶対知らないようなことをペラペラ話してきて、その全部がわたしの恥ずかしい話なんだから、聞かされてる方はたまらない。ほっぺたが熱くなって、赤くなっちゃってるのが鏡を見なくても分かる。

このロトムと一緒にいたらホントにロクなことがない、聞きたくないようなことを延々言われそうだ。相手にするのはやめよう、ちょっと頭を冷やしてから出て行ってもらうように言わなきゃ。ため息を一つついて、わたしが家の中へ戻ろうとしたら――。



「なぁ、コズエ。もう一度父さんに会いたくないか」



お父さん。思わず足を止めて振り返る。さっきまでのちょっとヘラヘラした感じの笑顔じゃなくて、口を結んで真面目な顔つきをしたロトムの姿があった。わたしがロトムの目をまじまじと見つめると、彼は左右についてる羽みたいなもので腕組みをして見せた。

「俺はあいつから、たくさんの伝言を言付かってる」
「お父さんから何か言われたの?」
「ああ。今までのこと、これからのこと。もちろんコズエ、お前に向けての言葉もだ」
「だったら――」
「まあ待て、そう話を急ぐんじゃない」

今ここで教えて、わたしがそう言うのを見越したように制止する。そういう風に言われたら、わたしだって急かすわけにはいかない。静かにロトムの話を聞かなきゃ、そんな気持ちになる。

「それでだ。ひとつ俺から提案がある」
「提案……って?」
「少しの間ここを出て、ちょっくら旅に出ないか」
「どこか遠くへ行くってこと?」
「ああ。おあつらえ向きの乗り物も、丁度ここにあるわけだしな」
「運転、できるの?」
「できねえなら最初っからこんな風に誘ったりしねえさ」

ロトムがわたしに言ってきたのは――どこか遠くへ旅に出よう、あのバイクに乗って、という話。ちゃんと運転もできるらしい。ホントかなあ、半信半疑だ。だけどバイクの中に出入りしてエンジンを始動させるのは確かにこの目で見たから、動かし方は分かってそうだ。

このロトムと一緒にいたいか、って言われたら、それはちょっとイヤかもって思う。だけど、お父さんがロトムに話したっていうことは聞きたい、ううん、聞かなきゃいけない。きっとわたしの知らないお父さんのこと、ロトムはたくさん知ってるんじゃないかって思うから。

「どうせなら道すがら話したいってのもある。それに」
「それに?」
「俺もあいつがいなくなってお先真っ暗、どうしたもんかなって思ってたわけだ」

あっ、わたしと同じだ。お父さんがいなくなってこれからどうしようって、ロトムも思ってたんだ。ほんの少しだけだけど、ロトムの気持ちが理解できた気がする。まだ打ち解けるってほどじゃないし、何考えてるのか分かんない部分の方が多いし。

でも――なんだろう、どうしようもないヤツってわけでもなさそうだった。

「どこまで行くつもり?」
「行先は決まってる。あいつがいつかお前に見せたいって言ってた場所だ」
「それが遠くにあるんだね」
「ああ。コズエ、お前をそこまで連れてって、それから無事に家まで送るのが――俺があいつから頼まれた最後の仕事だ」

目を閉じて真面目な調子で呟くロトムに、わたしはなんだか可笑しくなって吹き出しそうになった。

「案外真面目なんだね、ロトム」
「そりゃぁ、男の約束を破る奴ァ男じゃねえからな。で、コズエはどうする?」

ロトムは話をしてくれた。じゃあ、今度はわたしの番だ。彼と一緒に旅に出るか、出ないか。

答えはもう、決まってる。

「行きたい。お父さんがわたしに見せたかったって場所、そこまで行ってみたい!」
「いい返事だ。それでこそ、あいつの娘だな」

荷造りをしてくれ、俺はその間にこいつを出す準備をする。ロトムの言葉を背中で聞いて、家の中へ荷物を取りに行った。

お父さんの遺してくれたお金、何日分かの着替え、石鹸やタオル、あと細々とした必要そうなもの。お父さんといっしょに旅行へ行く時もこんな風にしてたのを思い出す。だから準備はテキパキできて、迷うこともなかった。

家を出る前、最後に一度だけ仏壇を見る。お父さんの遺影が目に入った。お父さんは何も言わない、言わないけれど、背中を押してくれている気がした。行こう、ロトムが待ってる。

「荷物積むよ」
「手際がいいな。こっちも準備万端だ」

サイドカーに乗り込んでヘルメットを被る。ロトムはわたしの様子をしっかり確かめてから、バイクの中へ吸い込まれていった。

「あいつの形見だ。丁重に運転させてもらうぜ」

スピーカーからロトムの声が聞こえたかと思うと、バイクが開け放たれたガレージから勢いよく飛び出して。お父さん顔負けのハンドルさばきで、道路とピッタリ平行になった。夏の強い日差しが照り付けて、眩しさに思わず手をかざす。

空は雲一つない抜けるような青。ずっと家の中に居て仏壇ばっかり見てたから、外がこんなに綺麗だったなんて思いもしなくて。

「外の空気を吸うのは久々だろ」
「うん」
「こんなもんはまだ序の口だ。しっかりついて来いよ」

ロトムがバイクを繰る。アクセルが大きく踏み込まれるのが見える。走り出す直前の重力を全身で感じて、わたしは大きく目を開ける。

「行くぞ」

エンジンがうなりを上げて、まっすぐに伸びた道を、風を切って颯爽と駆けはじめた――。

Tweet