放課後、
「ただいま!」
とランドセルを裏玄関に放り込んだレッカちゃんは網を引っ掴んで、
「いってきまあす!」
もう声が遠ざかる。
「おかえりーいってらっしゃーい」
と台所のお母さんがのんびり返す。
からっと晴れた青空の下、田んぼの畦道をレッカちゃんは走っていく。
大きな木に囲まれた用水池を三人組が覗き込んでいる。捕虫網を持って虫籠を提げて藁帽子のケンちゃん、するめをつけた凧糸を池の中に浸してカラフルなバケツを足元に置いたヨウちゃん、おやつの袋と草を挟んだノートがリュックからはみ出したチカちゃん。
学校帰り、
「チカちゃーん!」
大声で手を振ったレッカちゃんに、三人は振り返ってしーっと口の前に人指し指を立てた。
「えっなんなん?」
「なんかおるねん」
とチカちゃん。
「デカいやつがおるねん、ぬるっとしとった!」
と興奮気味にケンちゃん。
「ナマズかなぁ。魚の網、持ってきたらよかったぁ」
ヨウちゃんはザリガニ釣りが巧すぎて網は使わないのだ。
「ほな網取ってくるわ!」
と、レッカちゃんはお家にダッシュしてきた次第。
「取ってきたで!」
とレッカちゃんは威勢よく魚網を振り上げる。ケンちゃんが持っているレースのカーテンみたいな捕虫網と違って、目は荒くて糸も太い。見るからに丈夫そうだ。
が、ヨウちゃんは腕組みして困ったように、
「入るかなぁ?」
「なに、そんなにおっきいん?」
「めちゃくちゃデカいで、人間の赤ちゃんくらいあったもん」
両腕をぐわっと広げてケンちゃん。それは大きすぎる。
「かまれへんかな? な、かまれへん?」
池から離れて怯えるチカちゃん。
「え、かむん?」
少しびびったレッカちゃんに、
「わからん」
と重々しくヨウちゃん。
「この網長いから大丈夫や!」
豪語してレッカちゃんは水面を睨む。
水は黒々と濁っている。
「あっ……!」
チカちゃんが浮草の蟠るあたりを指さした。
水中を黒いぬるりとした巨大な影が泳いでいる。レッカちゃんの持ってきた網より大きいかもしれない。
「おばけオタマジャクシやな……」
神妙にヨウちゃんが呟き、そっと水辺から離れた。確かにまんまるな体も短いしっぽも形はオタマジャクシそっくりだ。
「捕まえたる!」
レッカちゃんが網を構えて岸から回り込む。
「レッカちゃん気ぃつけて!」
とチカちゃん。
「追い込むわ」
とケンちゃんが反対の岸から石を投げる。
どぽんどぽん。
黒い影はすいすいと石を避けてレッカちゃんが網を構える。
「とりゃあっ!」
レッカちゃんが網を振り下ろす。と、水中の黒い影から水面を貫いて水鉄砲が放たれた。
「わっ!?」
がんっと重い感触が網を後ろに弾き飛ばし、レッカちゃんは尻もちをついてしまう。
「レッカちゃん!?」
「大丈夫レッカちゃん!?」
黒い影はぬるっと身を翻して池の深い所に潜っていった。
「いまの見たけ!?」
「うん」
幸い怪我はしてない。レッカちゃんは頭が痺れたようなふわふわした気分で影の去った池を見つめる。
「うわっ!」
ヨウちゃんが大声を上げた。
「網、破れとるやん!?」
「破れてへんもん、うわっほんまや!?」
漁網の真ん中に見事に穴が空いている。
「いまの水鉄砲で破れたんや!」
興奮気味にケンちゃんが言いつのる。
「あれぜったいぽけもんや!」
耳慣れない言葉に俄然興味を示すレッカちゃん。
「あれぽけもんっていう魚なん!?」
「ちゃう、ぽけもんはすごいどうぶつや!」
ケンちゃんがぐわっと両手を広げて言う。
「でかかったりすごい技使ってきたりしよるねん! 正式名称はポケットモンスターや!」
「ポケット? でかいのに?」
「……あ、せやな? なんでポケットなんやろ?」
うーん、とケンちゃんも首を傾げる。
「おかんに聞いてくるわ」
「だめだよっ、そんなあぶないどうぶつがいるってわかったら大人のひとに捕まえられちゃうよっ」
とチカちゃん。
「うーん、おとなのひとに捕まえてもらった方がよくない?」
漁網の大穴を見つめながら少し怯えた声音でヨウちゃん。
「こっちが手ぇ出してやり返されたのにっ、おとなに捕まったら遠くにやられちゃうって! せっかくここに住んでるかもしれへんのに! だめだよっ」
チカちゃんの剣幕に押されてしゅんとしていたレッカちゃんは、ふと瞬きして、ぱんっと手を打つ。
「あ、じゃあミナトくんに訊くわ!」
言うなりレッカちゃんは破れた網を担いで畦道をダッシュ。
「あ、ちょ、レッカ……!」
ケンちゃんが声をかけた時にはもうレッカちゃんは電柱ひとつ分は遠ざかっている。
「ミナトくんってだれ?」
とヨウちゃんが興味津々で訊く。
「ミナトくんはレッカちゃんのお友達で、なんでも知ってるんよ」
とチカちゃん。
「明日学校で訊いたらええのにー」
とケンちゃん。
「俺らは明日訊きに行こうや」
宅配便のおじさんと一緒にミナトくんが住むマンションに侵入したレッカちゃん。
ミナトくんの家のインターホンは高すぎて届かないのだが、今日のレッカちゃんは柄の長い網を持っている。銛みたいにボタンを滅多突きにして、ピンポーン、と鳴ると同時に叫ぶ。
「こんにちはー! ミナトくんおるー!?」
「あらレッカちゃん、マフィン食べる?」
すらっと背が高いミナトくんのお母さんがドアを開けるなり訊く。
「食べるー!」
網を外に置いて靴を揃えて、勝手知ったる洗面所で手洗いうがいをして、ミナトくんの部屋の襖をすぱあんっと開ける。
「ミナトくん!」
「やあ、レッカちゃん」
大きな本棚の横の壁に背を預けて三角座りで本を読んでいたミナトくんが微笑む。
ミナトくんのメガネは薄い。レッカちゃんの割れるたびに分厚くなっていった瓶底眼鏡とはまるで違う。
小さなテーブルにはガラスのコップの底に丸まった氷が重なってストローが挿さっている。
開いた窓から温かい風が白いカーテンを揺らす。
ミナトくんちはレッカちゃんのおうちとはまるで違ってとてもわくわくするのだ。
「ポケモンってどうぶつ知ってる?」
いきなりのレッカちゃんの問いに、
「知ってるよ、ポケモンには動物みたいな植物もいるよ」
とあっさりと答えるミナトくん。
「ポケモンは不思議ないきものなんだ」
「ドラゴンみたいな!?」
「そう、ドラゴンもポケモンなんだよ」
「そうなん!?」
「うん」
「さっきポケモン見たんやけど」
熱く語るレッカちゃんに、ミナトくんは少し不思議そうに首を傾げて、
「うん……?」
「おっきかってん」
「うん、ポケモンってよく似た生き物より大きいよね」
「なんでおっきいのにポケモンって言うのん?」
「ポケットに入るからだよ」
「おっきいのに!?」
「ポケモンは小さな隙間に入り込めるんだ。だから見つかりにくいし、突然現れてびっくりされるんだ」
「へぇ!?」
「その小さな棲家を持ち歩いて、ポケモンに守ってもらったり仲良くなって働いてもらったりするんだよ。郵便屋さんのピジョンとか見たことない? 工事現場のゴーリキーとか」
「えっなにそれ、見たい!」
「早起きしたら飛んでるよ。夜明け前くらいかな?」
「早起きするわ!」
勢いよく立ち上がったレッカちゃん、ダッシュで
「お邪魔しましたー!」
網をひっ掴んでおうちへ。
「早いね!? マフィン焼いてるのにっ」
ミナトくんのお母さんが言い終わる頃にはもうレッカちゃんは階段を駆け下りていた。
次の日。
「早起きできひんかったぁ」
放課後、ミナトくんちに直行したレッカちゃんが呻く。
「毎日飛んでるから」
ミナトくんは本棚から大きな本を引っ張り出す。
「ほら、これが郵便屋さんのピジョン」
「へぇ、おっきい!」
レッカちゃんとミナトくんは同じ学校なのだが、クラスが違う。レッカちゃんは休み時間になった途端に外に飛び出して授業が始まるチャイムぎりぎりまではしゃぎたくり、ミナトくんは図書室に直行して本に没頭するので、学校で会うことはほとんど無いのだ。
「あーポケモン見たいー」
畳の上をごろごろ転がるレッカちゃんに、
「うーん。じゃあポケモン持ってる人知ってるから、見せてもらいに行く?」
とミナトくん。
「行くー!」
「じゃ、電話してみるね」
居間の襖を開けると、ダイニングテーブルで宿題をしているミナトくんのお姉ちゃんのナギサちゃんが、
「スミレさんなら今日はバイトじゃない?」
と言う。レッカちゃんの大きな声が襖つつ抜けで聞こえていたのだ。
「あ、そっかぁ。じゃあ明日かなー?」
「日曜にしなさいよ、私も行く♪」
何故か胸の前で手を組んでキラキラした目でナギサちゃん。
「どんなひとー?」
「お姫様みたいなの! すごく綺麗なのよ!」
「かっこいいお兄さんだよ。すごく物知りなんだ」
「おめかししてるスミレさんの方がぜーったい素敵よ!」
「見た目で態度を変えるなんてよくないよ!」
珍しく熱く言い合うミナトくんをレッカちゃんが目をぱちくりさせて眺めていると、
「とりあえずスミオくんにご都合聞いたら?」
とお母さんが口を挟む。
「そうだね、留守電入れとこ」
慣れた手つきで電話機のボタンを押すミナトくんを、大人だなぁとレッカちゃんは思う。
レッカちゃんは前に電話機のボタンを押したら消防車が来てしまったのだ。怖くなってそれから電話機に触っていない。
「もしもしミナトです、スミオさん」
スミレさんじゃなくてスミオさん? レッカちゃんは気になりつつ電話中は静かにしておく。
「明日の夕方、遊びにいってもいいですか? 友達のレッカちゃんといきます。お返事ください」
流暢にご用事を吹き込んで電話を切るミナトくん。すごいっ。レッカちゃんは感嘆した。
レッカちゃんはおばあちゃんのお膝に納まってスイカにかぶりつく。
「ぽけもんっていうのがいるんやって」
ぷっとお庭に種を吹いて、おばあちゃんのお膝にころんと寝転がる。
「おっきくてなんかすごいらしいねん」
おばあちゃんはにこにこと頷きながらレッカちゃんの頭をなでなでして、スイカの皮をしゃくしゃく食べている。
「明日見せてもらうねん」
風が止まって、おばあちゃんはうちわでレッカちゃんを扇いでくれる。
と、なにか思いついた様子で奥の箪笥を空けて、指をくいっとやって引き寄せた小さな袋をキャッチしてレッカちゃんの目の前にぶら下げる。
甘い匂いのする小さな袋のお香。これを持っていきなさい、とレッカちゃんのお手々に握らせる。
「わ、これ借りていいの!?」
うんうん、と頷くおばあちゃん。
「ありがとおばあちゃん!」
しばらくして、お母さんが呼びにきた。
ミナトくんから電話がきて、明日はOKだったからスミレさんちにお邪魔するって伝えてくれた。
「おみやげ持たさないとねぇ」
とお母さん。
「なにがいいですかねぇ」
おばあちゃんはお口をぬぐって、おいしかったよ、とお母さんに微笑む。
「あぁ、お下がりのオレンの実がいいかしら、どんなポケモンでも好きって言いますものね。お蜜柑も一緒に入れたらいいかしら」
うんうん、と嬉しそうに頷くおばあちゃん。
「おばあちゃんおやすみー!」
ひらひらと手を振るおばあちゃんに元気よく手を振って、レッカちゃんは母屋に戻った。
明日は別に早起きしなくてもいいんだけれど、楽しみで仕方がなくって、レッカちゃんはすぐにお布団に入った。
「あれ、レッカ寝てるんだ」
障子をちょっと開けてお風呂上がりのお父さんが拍子抜けしたように言う。
「ひょうきん大集合、録画しとくかー」
「風邪ひきますよ!」
とお母さんが叱る。
「ごめんごめん、なにか着るよー」
レッカちゃんは夢を見ていた。
田んぼの真ん中にお城があって、ミナトくんと一緒に大広間に通される。そこにはお姫様がいて、これがポケモンよって見せてくれたのはひょろんとしたヒモ。お姫様はヒモをつまみ上げて「ほら動いてる、可愛いでしょ?」と揺らして見せる。「ヒモやん!」「まあ、私の可愛いポケモンがヒモですって!?」「まずいよレッカちゃん」「牢屋に入れてしまいなさい!」お姫様が怒って兵隊に取り囲まれてしまう。「うわーん、だってヒモやん!」叫ぶけれどどんどん暗い石造りの地下室に運ばれていく。
「レッカうなされてるね。……あ、おばあちゃん」
「ああよかった、おばあちゃん、おねがいできます?」
おばあちゃんが頷いて、長いお鼻をぴたっとレッカちゃんのおでこに当てた。すっとおばあちゃんが息を吸うと、眉間にシワを寄せて呻いていたレッカちゃんのお顔が安らかに緩んで、すうすうと寝息を立て始める。
けぷ、とおばあちゃんは小さくげっぷをして、安堵の顔のお父さんとお母さんにひらひらと手を振ると、離れに戻っていった。