「……見えた! 1時方向、政府軍のポテ540! 数、2!」
叫び声が聞こえた。すぐ隣、ほんの2メートル程度を隔てた先でも、張り上げなければ声が届かない世界。空っていうのはそういう場所なんだ、とじいちゃんから話には聞いていたけれど、実際にその場に来て初めてはっきり意味がわかった。
音という音はみんな、耳もとを駆け抜けていく風の音にかき消されてしまうのだ。
「カルロス、聞こえた?」
「ああ」
「見える?」
「見えた。あのカロスの鈍亀、アーマーガアも抜けないって聞くぜ、おれたちに追いつけない道理はねえよ」
聞こえているかどうか不安になって――ぼくと鞍とその他諸々を乗せて元気な顔で飛んでいるけど、彼は150年以上は生きている御老体なのだ――カルロスの赤い後頭部をとんとんとタッチしてから訪ねてみる。
まだそこまで衰えてはいないことに胸をなでおろす。わかってはいるのだけど、本当にそうなのか不安にはどうしてもなるものだ。
「ロドルフォ!」
ぼくの名を叫ぶ声。敵機のことを叫んでいたさっきの声だ。
左手、下の方を見る。カルロスの身体の下に翼を潜り込ませるようにして、ぎりぎりまで体をカルロスに近づけるリザードンの姿。声の主は、リザードンの背に乗った男だ。
「改めて言うが、私のそばから離れるなよ。それと、無理に手柄を立てようともするな。生き延びることをまずは第一に考えろ。いいな」
「はい、隊長!」
「いい返事だ。20秒後に目標へ緩降下で仕掛ける。私が先に仕掛けて気を引くから、きみはその隙に攻撃をかけるんだ。いいな」
「はい!」
「よし、あと10秒」
リザードンに跨る彼は、ぼくらのポケモン航空戦部隊を取り仕切る隊長だ。
反乱軍に協力する義勇軍――とは言っても、実際には立派な正規軍人だそうで、だからこそ隊長までやっているのだが――の一員として外国からやってきた隊長は、パルデア人に比べて随分と色白で身体も細く、ひ弱なやつだと嘲る大人たちもいるほどだった。
でも、ポケモンを操り空を駆ける実力は本物だ。訓練で隊長を乗せたリザードンに一本取れた大人たちとそのポケモンは一組もいなかった。ぼくらはどうだったか、って? そんなの言うまでもない。
聞けば、隊長もぼくと同じで、ポケモンを育ててともに戦地を駆ける、そんな武人の家柄で育ったのだそう。軍人になって軍隊でポケモンを使う仕事をしているというのは、ぼくと違うところだけど。
「3、2、1、今!」
隊長の合図に合わせて、カルロスは降下を始めた。
改めて目標を睨む。木箱にベニヤ板を乗っけたみたいな形の不格好な爆撃機、ポテ540。あんなやつにカルロスが飛び方で負けてなるものか。
ポテの銃塔が動いた。狙われてる? いや、ぼくじゃない。ってことは。
隊長のリザードンが、先頭の1機に火を吹きかけるのが見えた。いつの間にあんなに肉薄してたなんて、やはり隊長の飛び方はすごい。
負けてなるものかと、ぼくは自動小銃を構える。風圧に負けてひっくり返りそうになって、うわっと情けない声を上げてしまう。
なんとかこらえて、狙いを定めた。カルロスはまっすぐ後ろの1機へ向かって飛んでくれている。次第に大きくなるプロペラの羽音を聞きながら、風で震える手を抑え込む。隊長だけ見てろよ。こっちを見るなよ。
ポテが2人がけのソファくらいの大きさになったところで、ぼくは引金を引いた。ひとを撃つのは怖かったから、翼の下のエンジンを狙った。
1発、2発、反動でブレる狙いを合わせ直すうちに、みるみるポテは大きくなっていく。
当たっているのかどうかさえ確かめる余裕もない。風で身体を吹き飛ばされないことと、銃口を相手に向けて引き金を引くことだけを考えて、3発、4発と撃ち続ける。
「よけるぞ!」
カルロスが叫ぶと同時に、視界が右へひっくり返った。
銃を落とさないように左手に力を込め、右手は鞍を掴む。何かが空気を切り裂く甲高い音が、風の音に混じって響いた。
右に傾いた身体が水平に戻ったときには、目の前に木箱の姿はなかった。見えるのは空と雲。上昇している?
後ろを振り返る。果たしてポテはそこにいた。こちら側に腹を見せて旋回している。引き返していくのか?
「妙だな」
カルロスのつぶやきがかすかに聞こえた。
言うとおりだ。膠着している戦線を打ち破るために飛んできたであろう爆撃機なのに、数発撃たれただけで引き返すなんていくらなんでも諦めが良すぎる。
何か裏があるってことくらい、戦いのことなんて素人同然のぼくにもわかった。
前へ向き直る。一面に広がる田園風景。おもちゃみたいに小さく見える家々。遠くには連なる山並み。雲はさほど多くない青空。その中におかしなものがないか、目を皿にして探す。
「ロドルフォ、何か見えるぞ。左前!」
「左前? 時計の針で言って」
「10時くらい。地平線より上だ」
カルロスの声。ぼくは彼の言葉通りに目線を動かす。
カルロスの頭から伸びる白い翼、その少し上の空に、鳥やポケモンとは思えない影が見えた。ふたつだ。
「見えた。飛行機!」
カルロスに向かって叫ぶ。
影はこちらへ近づいているようだった。みるみるうちにぼくたちが捉えた影は大きくなっていき、姿かたちをあらわにしていく。
不格好なポテとは全く形が違う。木の葉みたいに薄い翼が、カマスジョーみたいに細い胴体からなめらかに伸びている。
あの形ははっきり覚えていた。教練のときに見た写りがいいとは言えない写真に写った姿でも、その流麗な姿かたちは僕の目を虜にしていたのだ。
「あいつは……新型、SBだ!!」
ぼくが叫ぶのと同時に、敵の新型爆撃機SBは翼を翻した。
一杯食わされた、とぼくは理解した。のろまなポテはぼくらを引きつけておくための囮で、本命はこいつらだった、ということなのだろう。
追いかけて、と言おうと思った言葉を飲み込む。SBは快速がウリの爆撃機で、戦闘機だって追いつけないほどだ。ここからカルロスが追いつくなんて、この場でぼくを落としていったとしても難しいに違いない。そんな酷なことをカルロスに言うなんて。
でも、何もしないで見ているというわけにもいかない。追いつくことはできなくても、できる限り追いかけるくらいはしたほうがいいか。そう思った時だった。
ぼくとカルロスのすぐそばを、陣風が吹き抜けた。
ゆらめく陽炎を残し、橙色が飛んでいく。隊長のリザードンだ。
速い。今のカルロスが力を振り絞っても、あれだけのスピードは出せないだろう。
「カルロス! 見失わないくらいでいい、追いかけて!」
ぼくはカルロスに叫んだ。
みるみる小さくなっていくリザードン。でも、奥を飛んでいるSBのほうが、もっと早く小さくなっていく。
隊長のリザードンは速い。でも、それも所詮『人を乗せて飛ぶポケモンの中では』の話なのだ。
追いつけないSBを必死に追いかける隊長とリザードンの姿は、ぼくにはまるで風車に突撃するドン・キホーテのように見えてしまった。
そう、ぼくらはドン・キホーテそのものなのだ。今の時代、物語の中にしかいなくなった騎士になりきって、戦いにならないような戦いをやっている。戦闘機の数が足りないからって、こんなことをするのに意味があるのだろうか?
ぼくの目はとっくに隊長を離れて、ぼくらを置き去りにして悠々と飛び去っていくSBにとらわれていた。
そいつの姿は本当に憎らしく、妬ましく――そしてなにより、美しかった。
* * *
「屈辱だな。そう思わないか」
駐屯地に帰るなり、隊長は吐き捨てるようにぼくに語り掛けてきた。
ぼくはなにも返すことができない。ぼくの中には、こんなのは当然の結果だ、という諦観しかなくて、隊長の悔しさを分かち合うことができない。
「航空機の進歩は著しい。それは空軍軍人として喜ばしいことではある。しかし……そのせいで、栄光あるポケモン騎士が、いよいよ過去の遺物に変わろうとしているというのは、それはそれで受け入れがたいものだよ」
隊長はひとりで勝手に話を進めている。この人、陸の上だとひとりごとが多いんだよな。相手のことを見ているんだかいないんだか、話しているとよくわからなくなる。空の上ではぼくのことを見てくれてるのに。
「君はそうは思わないか。カルロス」
答えないぼくにしびれを切らしたか、隊長はぼくのかたわらに立つカルロスに話を振り始める。
隊長に目を合わせるカルロスの顔には、隠しきれないけだるさが表れていた。
「君たちコライドンの一族、そして君が乗せているロドルフォの一族は、古より力を合わせ異教徒を欧州から打ち払い、パルデアが世界を股にかけた帝国を築き上げるのに貢献した。そう聞いている」
「……大昔の先祖の話ですよ。あっしはパルデアという国と一緒に朽ちただけの、ただの老いぼれです」
隊長のお世辞――もしかすると、隊長はそうは思っていないかもしれない――に、カルロスはけだるそうに返す。
武勇伝を聞きたがる子どもたちを相手にするときと同じ顔だ。ぼくも小さいころ、同じように武勇伝をせがんで、同じような顔をされたものだ。
カルロスは昔の戦いの話をしたがらない。戦いの中にいい思い出がないんだろうな、というのは、ぼくにもなんとなくわかる。
確かにぼくらの先祖は、かつてのパルデアを一大帝国に引っ張り上げた立役者ではある。でも、ぼくはもちろんカルロスも、パルデアの輝かしい帝国時代を知ってはいないのだ。
カルロスが生きてきたのは、パルデアの栄枯盛衰の『枯』と『衰』の時代。そしてその末につまらない国に成り果てたあとの、今のパルデアに産まれたのがぼくだ。
ぼく自身も、血筋の話をされたくはない。カルロスともども血筋だけを理由に、今は共和制政府に追われパルデアを離れている王家のために戦う反乱軍に担ぎ出されてしまったからだ。カルロスはともかくぼくなんて、血筋以外は何も持っていないのに。
「そう慎むこともあるまい。君たちにはそれだけの力がある。それは今でも変わっていないはずだ」
褒められているのか馬鹿にされているのかわからない――隊長はたぶん褒めているつもりなんだろうけど――言葉を隊長から聞かされて、とうとうカルロスも黙り込んでしまう。
もうどうにもいたたまれなくて、ぼくは鉛みたいに重くなっていた口を開いた。
「あの……それはともかく隊長、今は休みましょうよ。隊長のリザードンだって疲れてるでしょうし、休めるときに休んでおかないと」
「……ん、そうだな」
あっさりした答えを返して、隊長は振り返った。振り返った彼の視線の先には、くたびれた様子で木陰に腰かけているリザードンの姿があった。SBに追いつこうだなんて無茶をさせられたんだ、あれだけ疲れもするだろう。
隊長はもっとリザードンをいたわってやるべきだとぼくは思った。隊長のポケモンの扱いはどうにも素っ気がなさすぎる。
「あれほど疲れる仕事をさせているのだ、その疲れに見合った成果を挙げさせてやらねばな」
リザードンを見る隊長の口からこぼれたのは、そんな乾いた言葉だった。むっとして、ぼくは一言言葉を返す。
「見合った……と言いますと?」
「決まっているだろう。上層部も敵も目を見張るような大きな戦果を出すことだ。ポケモン騎兵は時代とともに消えゆく運命にあるのかもしれん。だが、消えるにしても、その前の最後の輝きを私は世に示したいのだよ。
私はポケモンの力を信じている。生命の力というものは、ただで機械に居場所を明け渡してしまうような弱々しいものではないはずだ、とね」
誇らしげに語る隊長の背中越しに見える彼のリザードンに、ぼくは同情の念を抱かずにはいられなかった。
この人、本物のドン・キホーテじゃないのか。文明が作り出した機械との力の差を目の当たりにさせられたばかりなのに、まだこんなことが言えるなんて。
「歴戦のコライドンから、ひとつ忠告しとくぜ。ああいう御大層な上官の言葉は、話半分に聞いとくのが生き残る秘訣さ」
カルロスを一瞥する。うんざりしたような曇った顔で、カルロスはぼくにそう言ってくれた。
こんな上官のそばについて、これから戦いを続けていかなくちゃいけない……そう考えただけで気が重くなる。
ぼくとカルロスは、このパルデア内戦を生き延びることができるのだろうか?