コンテストのページへ戻る

ロスト・エボリューション ― 第一章 マサラタウンで生まれた男 ― 1.『九郎と吾郎』

作者:45

 水底から引き上げた磁石付きの仕掛けには、またしても外道が掛かっている。沼本九郎はため息をつき、藻にまみれた金属球をバケツの中へ放り込んだ。
「次は何色だ?」
「赤と白」
「まァた屑か。そろそろここは諦めようぜ」
 ゴーグルを濡れた額に引き上げながら、水城吾郎が戻ってくる。魚網には雑魚が数匹見えるだけで、成果は芳しくなさそうだ。赤と白が山となったバケツへ目を移し、九郎は後ろめたさに駆られた。吾郎は九郎の腹を満たし、九郎は吾郎の懐を潤そうと努める。十年来の不文律だが、このところ彼らの懐には隙間風が吹いている。
「明日だ、明日にはケリをつける。どうしてもこの辺な気がするんだ」
「九郎のポンコツレーダーは、いつになったら『マサラ』を見つけてくれるんだか」
 トントン、額を示しながら、吾郎はニヤリとした。彼は粗暴だが良いパートナーだった。
「分かってる。……けど、いつも言うが、服を着てから話しかけろよ」
「うるせえな、これがゴロウ風ファッションよ」
「ゴーグル一丁の素っ裸をファッションとは言わんのよ……」
 小柄ながら引き締まった肉体を惜しみなく披露しつつ、相棒はさっさと引き上げていく。釣り用具をまとめてから、九郎はふと顔をあげた。
 どこまでも青く透き通る、深い湖の底には、今日も遠い遺構がゆらめいている。



 ――この惑星には、昔はたくさんの人間が棲んでいて、今よりも遥かに高度な文明社会を築いていた。
 その時代、ポケモンと人間は、手を取り合って暮らしていた。ポケモンは人間を助け、人間は叡智をもってポケモンを理解し、これを保護した。豊かさの背景には、二者の協力があった。今では考えがたいことだが、ポケモンは人間に使役され、指図されることを、受け入れていたと考えられる。
 だが、今より数百年前。大地を司る神と、海を司る神が、領地を巡り大戦を起こした。
 戦いの果てに、大規模な気候変動と地殻変動が、同時に惑星へ襲い掛かった。残されたのは、類を見ない天変地異に適応できた一部の生物と、奇跡的に崩壊を免れたごく一部の遺構のみ……。
「またその話だ。九郎は昔話が好きだなあ」
 先を歩く吾郎に、ロマンと言ってくれよと九郎は返す。吾郎は九郎より歩くのが早い。だが、ペタペタと湿った足音は、いつも九郎の歩みを待つ。
「『火』と『水』。神の戦いを継ぐように、世界は今も二つの国に分かれてる」
「そんで、遺構を求めていがみあってる」
「そう。だから、奪い合って暮らすしかない。過去に無関心ではいられないよ」
「ん! まァ難しいことは九郎が考えてくれりゃいいさ」
 吾郎はしっしっと手を振って笑った。
 遺構の沈む湖から、港町トキワまで歩いて十分ほど。潮風に晒された建物が、少しずつ風化するだけの小さな町だ。天変地異以前はこの地も豊かな森だったらしいが、今は豊かさとは程遠い――豊かな森などという概念自体、何もかも枯渇した現代では夢物語に過ぎないのだが。
 各地に点在する遺構を求めて旅するふたりは、この町を拠点にして三か月ほどになる。
「おーいゲンシジン、今日もボウズか」
 発酵酒を傾けている連中が、青空天井の酒場から機嫌良く煽ってくれる。吾郎が気が済むまで言い返すのを、九郎はいつも苦笑いで待ってやる。気が強いのは悪くないが、喧嘩っ早さには困ったものだ。
 高度文明時代の遺構を利用して集落化している場所は多く、このトキワも例に漏れない。建築というのは実に難解だ。遺構は石や金属を用い、摩訶不思議な技術で組み上げられているのだが、現在の文明ではまだ再現不可能だ。遺構がなければ我々は、洞窟や腐った木の穴なんかを巡り、今もさもしい争いをしていただろう。だから遺構には価値があり、草むらを覗けばいくらでも見つかる外道扱いの遺物にも、同様に多少の価値がある。
 釣り上げた金属球を、金物屋でほんのわずかなどんぐりに換えてもらう。晩飯は小魚が三匹くらいか。
「ゲンシジンてひどくねえ? 俺ぁこんなに高度で文化的なゴーグルを持ってるお洒落さんだぞ」
 渋々腰巻をした吾郎と共に、住み慣れた宿の暖簾をくぐる。
「そもそもゲンシジンってなんだよ」
「それも知らずに怒ってたのか……」
「あれだっけ? 人間に従ってた頃のポケモン。知能が低くて、ホラ、自分の名前以外なにも話せないっていう」
「大昔の話さ。『火の国』には、今でもいるって噂だが」
 こんな感じ? ごりょごりょごりょ! 言ってワハハと笑う吾郎に、番台の女がくすりとした。
「お帰りなさい、吾郎さん九郎さん。宝探しはどうだった?」
 宿を切り盛りする彼女は、レーヌ嬢と言う名で皆から親しまれている。三か月も同じ部屋に住み着いているので、もう気心知れた仲だ。ピンピンでよォと言いつつ階を上がる吾郎を見送り、九郎からどんぐりを受け取ると、嬢はほっとした笑みを浮かべた。
「今日も、無事でよかった」
「ああ」
 背を向ける。頬を掻く。安宿の番台にしておくには、いささか惜しい女である。



 夜。布団をはねのけて大いびきをかく吾郎を横目に、九郎は魚脂に火を灯す。
 手製の地図。近辺にある遺構は見尽くした。明日の探索を終えたら、この宿は発つつもりだ。北方のニビは既に調べたし、南方は海なので、東に出るか、西に出るか。どちらにせよ吾郎はついてくるだろう。カイナの浜で鼻水を垂らしていた子供が「俺は九郎の用心棒だ」と言い張って同行しはじめてから、もう十年近い月日が流れた。
 十年近い月日をかけ、追い求めてきた『マサラ』の遺構は、未だ尻尾も掴めぬままだ。
「……東だな」
 トキワ以西は『火の国』が支配する遺構が多い。遺構を巡る二国の諍いは歴史上の出来事になりつつあるが、交わらぬよう互いに努めているだけで、小さな戦は今も起こっている。なんだかんだ九郎を慕ってついてくる吾郎を、危険に晒すわけにはいかない。
 日誌をつけていると、歌声が、潮風に乗って届いてきた。
 月の出る晩には、レーヌ嬢は海に向かい、美しい歌声を響かせる。すると酔いどれた喧騒も、波の音さえも、皆歌声に聞き惚れる。
 彼女の亭主は、海底の遺構を求めて海へ発ち、そのまま戻らなかったのだと言う。
 物悲しい歌声を初めて耳にしたとき、九郎の胸は、覚えのない情動に激しく揺さぶられたものだ。
 皆、何かを失いながら生きている。多くが失われたこの時代にとっても、また、根無草の九郎にとっても、それは同じことだ。旅は、喪失の連続だ。訪れた地で、何かを手に入れてしまえば、あとには必ず喪失が待ち受ける。
 吾郎の腹に、そっと布団をかけ直してやる。九郎が旅で手に入れたものなら、この呑気な相棒だけで十分だった。
「ん……」
 ぼんやり開かれた寝ぼけ眼が、九郎越しに窓へ向いて、はたと丸まる。
「なんだァ……? 空が赤いな」
 九郎は振り向く。
 いつの間に、歌声は止んでいた。


 宿を出て仰げば、異変は更に顕著だった。
 北の空が燃えていた。山火事か? 石ばかりのニビ方面に燃えるものなど――胸騒ぎがして、九郎は波打ち際に駆けた。
 レーヌ嬢は岩場に腰かけ、打ち寄せる波を見つめていた。
「おい、嬢、……」
 声をかけ、ハッとする。
 嬢が、振り返る。ゆっくりと、視線が交わる。いや、交わった、と言えるのか。無色透明で、硬質で、なんの感情もない――そう、それは、ただのガラス玉のようで。
 嘆きの歌を奏でる口を、レーヌ嬢は上下に開き。

「――あっしれえええええええええええーぬ!!」

 獣の咆哮を、上げた。
「!?」
 何もかも、一瞬だった。嬢は尾鰭で岩場を叩きつけ、飛んだ。水流が迸る。“アクアジェット”。間一髪避けたものの尻餅をついた九郎へ向かい、嬢は両鰭を振り上げた。
 みるみる膨張する巨大水泡。“泡沫のアリア”か。
 避けられない。息を呑む。
「――“水の波動”ッ!」
 泡が、風船のような破裂音を響かせる。砕けたあぶくが嬢の足元に雪崩れ落ちる。ざっ、と嬢と九郎の間に割り込んだのは吾郎だった。
「下がれ九郎、正気じゃねえ!」
「れーぬ! レえええええーぬ!!」
 レーヌ嬢は理解できない言葉で――言葉なのだろうか、意味はあるのだろうか――吼えた。吾郎に突き飛ばされるようにして、九郎は走りはじめた。
 街の様子は一変していた。

「ぜにぜに! ゼニがあああああああああああ」
「ヌオオオオオオォ! ぬオオオオオオオォォ!!」
「おっおっおっオッオッ……」

「なんだ、こりゃ……!」
 誰も彼もが、奇声をあげ、無闇に技を放っている。金物屋。酒場。どこもだめだった。
「どうなってんだよ九郎! 皆どうしちゃったんだ!?」
「分からない、でも……!」
 襲いくる住民たちを蹴散らす吾郎に先導されつつ、九郎は北方の空を見上げる。
 赤く燃える空。――火。それが意味するのは、つまり――

「なんだ、まだ“野生”のポケモンが残っていたか」

「!」
 ふたりは立ち止まった。
 赤い夜空を背景に、浮かび上がる鎧の国章――それは彼が『火の国』の民であることを示している。
「ミズゴロウにヌマクローか。すぐに捕獲してくれる」
 鎧を身につけたエースバーンは、手の内のものを宙に投げ、強かに蹴り付けた。
「ッが!」
 咄嗟に飛び出して九郎を庇った吾郎の背中に、それが直撃する。刹那、赤い閃光が視界を埋め尽くし。
 吾郎が、消えた。
「……!?」
 目を疑う。
 相棒のいた場所に転がっている、紅白の金属球への見覚えに、九郎は愕然とする。
「……遺物……!」

「捕獲完了だ」
 エースバーンがパチン、と指を打ち鳴らした。

 球が上下に割れ、また吾郎が飛び出してくる。
 その、目を見て、ゾッとした。

「――ごりょ! ごりょごりょごりょおおおおおおおおお!!」

 十年来見慣れた相棒が、十年来聞き馴染んだ声で、意味不明な奇声をあげた。
 九郎の鳩尾へ手心のない“岩砕き”が叩き込まれる。吾郎の技を食らうのははじめてだった。衝撃に胃の内容物が逆流する。倒れ込んで嘔吐く九郎を見下す吾郎の口元に、氷の粒子が凝結していく。“冷凍ビーム”を応用した氷の刃。九郎は彼の強さを知っている。切り裂かれれば、ただでは済まない。
「目を覚ませ吾郎……っ」
 吾郎が、刃を振りあげる。
 
 時が止まったかのようだった。
 九郎は目を瞠った。
 吾郎は、刃を振り上げた姿勢のまま、ガラス玉の目を歪ませ、ガクガクと身を震わせていた。

「ごりょお……ッ、ぉ、オ俺……は、ク、ろウの……、用心棒……ッ」

「まだ理性があるか」
 ざ、と背後へ迫る男が、低く呟く。
 鎧の右手が、九郎の顔を指し示す。
 吾郎は目を見開いて叫ぶ。
「逃げろ相棒!!」
「やれミズゴロウ」
「――ッごりょあああああアアアア!!!」
 悲痛な声と共に、きらりと翻った氷の刃が、九郎の顔面を切り裂いた。
 烈火の痛み。声すら出なかった。
 熱く、冷たく、赤く、暗く。沈みゆく意識の中で、声が、蠢く。
「……? このヌマクロー、“捕獲済み”か。まあいい、所詮は雑魚一匹」
「どう致しますか、エース大佐」
「痕跡が見つかると厄介だ。湖に沈めておけ」



 どぷん――と全身を水に包まれると、『水の国』の民たちは皆安心するのだという。不思議な話だ。こんな、冷たくてほの暗い場所で、なぜ安心するのだろう。
 ヌマクローのくせに鰓呼吸もままならないと知られると、皆一様に九郎を笑った。笑わなかったのは、生涯で吾郎だけだった。「誰にだって苦手なことはあるからさ。俺がどんぐりの勘定ができないのと同じように、九郎は泳げないってだけだろ」そう言われたときのあたたかな驚きを、今もはっきりと覚えている。
「俺、思うんだよ。水の国の民は日照りを起こせない、火の国の民は雨雲を呼べない。でも、植物が育って森になるためには、日も雨もどっちも要るんだろ? だったら、皆で足りないもの補いあえば、皆幸せに暮らせるのにな、って」
 沈みゆく体が、受け止められる。重力に逆らって、ぐんぐん上へのぼってゆく。そう、それが始まりだったのだ。海に落ちて溺れた九郎を、吾郎が引き上げてくれて――
 ――ざぷん!
「ぷはあ!」
 水面に顔を上げた瞬間、それが、大仰に息を吸い込んだ。水中では息ができないと言わんばかりに。
 九郎は重い目蓋をこじ開ける。
「あーびっくりしたあ急に水の中だもんな……お前、すっげえ怪我してるけど大丈夫か?」
 九郎の体を抱き、立ち泳ぎする“それ”を見て――
 暗闇に落ちかけていた九郎の意識が、一気に覚醒した。
「……は、人間!?」
「うわ!?」
 数百年前に滅んだはずの“それ”は、驚いた九郎を見て、九郎と同じように驚いた。
「――ヌマクローが喋ったあ!?」

Tweet