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無色透明な白昼夢 Color.1 こんにちは、白と赫

作者:→Color.2 半分青で、半分グレー

 青嵐が運ぶこの山の香に、未だ岩田茜は馴染めないでいた。
 慣れ親しんだ潮風とは、香りも感触も違う。あの鼻をつく臭いも賑やかな人の流れもここにはない。人も、景色も、音も光も、全てが違う世界にいる。中学校の帰り道、広くなった空を眺めてそう思うのは何度目だろう。
 ただいま、と引き戸になった玄関扉を開けると、おかえり、と祖母が茜を迎えに出た。
 茜が両親と暮らしていた頃。母方の実家は家から遠く、帰省は二年に一度のペース。それ故に、茜にとって祖母は馴染みのない人であった。
 この家に越して三カ月経った今も、茜はまだ祖母とどう付き合えばいいかの答えを持ち合わせていない。馴染みのない言葉も、馴染みのない家の臭いも居心地の悪さの一因であった。
「すぐご飯にするけん、着替えてきんしゃい」
「お母さんは?」
「まだ部屋で仕事しとーけん、晩御飯は後で食べるって」
「はあい」
 茜の母は横浜の本社に勤めていたが、離婚をきっかけに茜を連れて田舎に帰り、フルリモートで勤務している。茜と一緒にいる時間を増やしたい、と当初は話していたが、時折こうして仕事が長引いていた。
 以前も母は遅くまで仕事をしていたため父と二人での食事が多く、母との思い出も多くなかった。引越してからは茜と母、祖母の三人で食事を取る機会こそ増えたが、これまで家庭での接点の薄かった母は勿論、祖母にも茜は何を話せばいいか分からなかった。
 決まって学校はどうだったか、といった話になるが、ネタはすぐ尽きてしまうのであった。
 食事を終えた茜は逃げるように部屋に戻る。迷わずベッドに飛び込み、スマートフォンに手を伸ばす。スリープモードのまま何も映らない液晶越しに、反射する自分の顔をぼんやりと眺めた。こちらに来てから買い変えたそれには父の連絡先は登録されていない。
「ねえ、お父さん。どうしてどこかに行っちゃったの。置いて行かないでよ」
 枕元に放り投げられたスマートフォンは、沈黙を貫いた。


 茜の憂鬱は家の中だけでは無かった。いじめられている訳ではないが、学校もすぐには馴染めなかった。人見知りでは無いはずだったが、違う言葉、違う価値観の彼らに距離を感じていた。
 直に夏休みに差し掛かる、そんな部活終わりの事だった。
「例の化け物、男子が添浦の名無し神社で見たんやって」
「え~! 見間違いじゃなくて?」
「うん。やけん探してみようよ。動画撮れたらバズれるよ」
 近頃鴉や狸、猪などの野生動物の死骸が増えたという。誰が見たのか、黒い化け物のせいだ、という噂が学校中で盛り上がっている。
 聞くだけでも恐ろしい話だが、彼女らは珍しく身近で起きた怪奇話で盛り上がっていた。
「添浦やったら岩田さんの家の方角だし、岩田さんも一緒にどう?」
 悪気の無い柴田歩の誘いに、聞きに徹していた茜は困惑する。歩は転校直後から茜を気にかけてくれる優しいクラスメイトだった。慣れないこの学校での生活も、歩がバレー部に誘ってくれたお陰で孤立せずに済んだと思っている。とはいえ、
「でも危ないんじゃない?」
「大丈夫、ちょっと様子見るだけやけん。肝試しのつもりだよ」
 一体何が大丈夫なのか。との思いで口を開いたが「うん」と返してしまった。嫌ならやめればいいのに、仲間外れにされたらどうしよう。という思いが勝ってしまった。
 ──こんな自分が嫌いだ。
 茜は薄い膜で出来た笑みを貼りつけて、心の中で独りごちた。


 二日後の昼過ぎ、県境に聳える山の麓に茜ら五人が集まった。
 歩くこと十分。田園風景から鬱蒼とした林に景色が切り替わった頃に、件の神社が現れた。名前も遺されていない事から、名無し神社と呼ばれている。想像以上に広い境内はすっかり荒れ果てていた。
「手分けして探そうよ」
 リーダー格の子の提案で、じゃんけんで各々どこを探すかを決める。
「何かあったらDM飛ばしてね」
 制限時間や簡単な約束事を決め、散開する。茜は神社の参道を抜け、東側の門を抜けてみる。道の名残のようなものが林の奥へ続いていた。それに沿ってしばらく歩き続けると、前方の木陰で何かが動いているのが見えた。
 それはのっぺりとした黒い影だった。二足歩行に大きな尻尾、茜の知り得る動物では無いが、それでいてどこかで見たようなシルエットだ。その影の燃えるように赫い眼が開き、ギロリとこちらを睨む。
 ヒィ、と肺から飛び出た微かな悲鳴と共に、茜は後ずさる。数歩下がって隆起した木の根に躓き派手に転んだ。不格好に受け身も取れずに転んだ獲物に対し、影は飛び掛かる。その開かれた咥内は、眼と同じように赫々と燃えていた。
 祈るように両腕で顔を覆った茜の前に、白い生き物が矢のように飛び込んで真っ黒な影の横っ腹に噛み付いた。
 その方を見やると、何もなかったはずの空間に大きな“穴”が。その穴から茜より歳上らしき青年が現れる。茜は姿勢を低くして手近にあった木製の祠の裏に隠れる。
「ライボルト、ワイルドボルトだ」
 青年が発する単語に思わず耳を疑った。しかし茜を救った白い生き物──いや、淡く白に発光しているが紛れもなくライボルトだ。お父さんが買ってくれたゲームで見たシルエットそのものだ。ぱちくりと二度瞬きをしたが、間違いない。それは確かにここにいた。
 それは青白い火花を散らし、影に突撃する。影は吹き飛ばされて樹に体を打ち付けると、その場に崩れ落ちた。
 まるで憑き物が落ちたように、影に色が戻っていく。白地に所々赤の毛並み、ザングースのようだった。
 驚くのも束の間。ザングースはみるみる小さくなり、小さな鼬へ姿を変えた。鼬は立ち上がると、逃げるように林の奥へ消えていった。
 非現実的な光景に、茜はひどく困惑した。真っ黒な生物、空間の穴、そこから来た男とポケモン。夢なのか、と頬をつねったがしっかり痛い。
「二匹は祓いましたが、後二匹には逃げられました。穴が閉じる前に一度帰還します」
 誰かに報告しているのか、通信を終えた青年とライボルトは空間の穴の方へ向かう。その時、茜はふと祠の裏から体を出した。
「あの」カラカラに渇いた咥内から、茜は声を振り絞った。だが衝動的な行動に、続きの言葉が出てこない。聞きたい言葉は山ほどあるのに、何から聞けば良いのだろう。
「今日の事は忘れろ」振り返った青年は突き放すよう言うが、いや、と止まった。「もしまた黒い影、ケガレを見つけても近づくな」
 青年はそう言ってライボルトと共に穴の向こう側へ消えていった。初めから何もなかったかのように閉じた穴の向こう側は、どうなっているのだろう。
 そんな考えにしばし耽っていた茜の足元で、なにやら足音が。そこには先ほどのより二回り以上小さな黒い影がいた。これも青年がケガレと呼んでいた生物だ。
 大きな尻尾にボリュームのある胸毛。全身真っ黒だがイーブイのように見える。
 一瞬身構えたが、どうも様子がおかしい。耳は垂れ下がり、じっとしたまま動く気配が無くオドオドと周りを伺っている。伏せがちな眼は碧く、さっきのケガレと違って害意は無さそうだ。なんとなく、確信めいたものが茜の中にあった。
 どこから来たかは知らないが、馴染みのないだろう世界に現れて不安そうにするイーブイに、茜は馴染みのない町に来た自分の姿を重ねずにはいられなかった。
 ふとイーブイと目が合う。茜は屈んでそっとイーブイの頭に手を近づけるが、抵抗は無かった。そのままそっと撫でると、柔らかい触り心地に茜は自然と頬が緩む。
「大丈夫だよ」
 鞄の中でスマートフォンが震える。
 時間だから集まろう、と歩からのメッセージだった。気付けば約束の時間は間近に迫っていた。
 戻らないと。と同時にこのイーブイをどうしよう。と茜は考える。
 連れ帰って保護したいと思ったが、連れて行けば他の子らに見られてしまう。そうなったら、SNSに上げられるかも。最悪、保健所に送られたり。一旦隠さなきゃ、と思った。
 混乱のただ中で、脊髄反射的に体が動く。先ほどまで身を隠していた祠の扉をこじ開ける。罰当たりと言われようが、どうせ誰も来ないんだから構いやしない。
 茜はケガレを抱き上げる。兎みたいにふわふわで、ちょっと驚いた。そのまま祠の中に入れ、鞄からビスケットを取り出して置く。
「また明日来るから待っててね」
 少しだけ隙間を残して祠の扉を閉じる。来た道を小走りで戻りながらも茜はまだ夢の中にいるような心地だった。
 結局茜は誰にもケガレの話をしなかった。おかしい子と思われそうだし、正直自分でも信じ切れていない。まるで白昼夢──国語の教科書で最近見た言葉をぼんやりと思い浮かべた。


 翌日、茜は名無し神社にやってきた。周りに誰もいないことを確認して祠の扉を開くと、昨日のイーブイのケガレがやはりそこにいた。
心臓が喜んで跳ねる。夢じゃなかった。嬉しさと安心感が混ざって、何とも言えない溜息が漏れる。
「お菓子食べてくれたんだ」
 イーブイの頭を優しく撫でた。
 がさり、と頭上で木が揺れる。見上げれば、まるで太陽を塞ぐように真っ黒な影と赫い目が浮かんでいた。その影もやはりポケモン、ゴルバットのようだ。またしても目が合う。それは茜を飲み込みそうなほど大きな赫く燃える口を広げた。
 昨日の青年は後二匹を逃した、と言っていた。これがその二匹目なのか。
 ゴルバットは茜に向かって突っ込んでくる。茜は身を屈めたが、イーブイが祠の中からゴルバットに向かって飛び込んだ。
 真っ黒同士が一瞬重なり合う。ゴルバットは翼でイーブイを振り払った。イーブイは木に勢いよく打ち付けられ、碧い目を歪めて倒れ込む。
 茜は急いで駆け寄り、そっと抱きしめた。
 ゴルバットは再び茜をジロリと見る。視界に赫が迫り寄る。今度こそ絶体絶命だ。
 ──お父さん、助けて!
 慄然として唾を飲む。

 青白い雷光が茜の前で弾けた。
「まさか空を飛んでいたとはな。見つからない訳だ」
 声の方を目で追うと、昨日の青年とライボルトが立っていた。雷光を浴びたゴルバットは一度地面にポトリと落ちたが、再び羽ばたく。
 青年は茜の胸元にいるイーブイのケガレを睥睨する。
「人の忠告を素直に聞けないのか?」
 茜はイーブイを隠すように半身になると、青年は呆れ顔を浮かべる。
「そっちは後回しだ」
 青年の指示を受け、ライボルトは全身に電撃を纏う。ゴルバットが風を起こして応戦するが、ライボルトは軽やかな動きで的を絞らせない。徐々に距離を詰め、ゴルバットの右翼に牙を立てる。ゴルバットはそのまま不格好に地面に叩きつけられた。
 茜はホッと胸を撫で下ろすが、それも束の間。青年が茜に迫ってくる。
「ケガレを渡せ」
「い、嫌です」
 青年は茜を睨みつける。ちょっと怯んだが、茜は折れなかった。
「この子は弱ってるのに、私を助けてくれたんです。襲って来ないし何も悪い事はしてません」
 決してこの子の事を深く知っている訳じゃない。それでも、馴染みのない世界で馴染みのない人間である私を守ってくれたこの子を、守ってあげたい。そう強く願った。
「何も知らない癖に口を挟むな。こいつらを野放しにすれば大きな災いになる」
 それでも茜は譲らなかった。すると不思議なことに体の芯から温かい何かがぶわっと湧き出てくる。気付けばライボルトみたいに、茜の体も淡い白に光りだしていた。
 するとどうだろう。胸の中にいるイーブイのケガレの、体表を覆う黒い影が宙にほどけるよう消えていく。憑き物が落ちたその姿は、画面の向こうで見慣れたイーブイそのものだ。
 興奮と混乱の中、茜は事情を知り得るだろう青年を見やるが、青年も信じられないといった面持ちで目を丸くしていた。
 そんな茜の視界の奥、黒い影が蠢く。倒れたと思っていたゴルバットが青年目掛け飛び込んで来る。
「危ない!」
 青年の間に割って入ったライボルト。だが大きな牙で首元に噛みつかれ、脚元が覚束ない。
「大丈夫か!」
 青年はライボルトに駆け寄る。脂汗を浮かべたライボルトは苦しそうな表情だ。
 ふと茜の胸の中からイーブイが飛び出し、ライボルトの前に立つ。振り返ってこちらを見るイーブイと目が合う。戦おう、と言われたような気がした。
 知らない場所で知らない人のために立ち上がるイーブイの強さを、茜は心から眩しいと思った。
 私もあんな風に強くなりたい。
 やめろと言う青年の静止を振り切り、茜は誘われたように立ち上がる。
 鞄の紐を強く握り締め、自らを奮い立たせる。
 今この状況を打開出来るのは自分達だけだ。
「行くよ」
 イーブイは小さく頷いた。

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