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ワイルドエリア巡回業務日誌 記録1:遺失物214172(バッジケース)①

作者:定時退社

「今のところ、君の落とし物は届いてないねえ」
 ゆっくりとした動きで席に戻ってきた老年の職員は、そうして気遣うような声色とともに眉を下げた。ちょうど彼の孫と同じ年頃の、カウンターの前で立ち尽くす少女が憐憫を誘うほどに狼狽していたからだ。
 華奢な肩に背負われた大きなバックパックも、爪先に乾いた泥がこびりついた靴も、まだ新品だった頃の面影を強く残している。彼女が新米トレーナーであることは、遺失物の問い合わせ内容からしても明らかであった。
 少女のポケモンなのだろう、寄り添うアブリーが彼女の心と共振するように物悲しい羽音を奏でている。職員は彼女たちを慰めるように大丈夫、と大げさな笑顔を向けて、背後にある年季の入った収納ケースから手慣れた様子で書類を一枚取り出した。
「うっかり落としてしまったり、野生ポケモンに持っていかれてしまったり……誰にでもあることさ。この紙の太枠のところに必要事項を記入すれば再発行できるから、そう気を落とさないで」
 少女は消え入りそうな声ではい、と呟き、職員からのろのろと申請用紙を受け取った。肩を落として記載台へ向かう彼女と入れ替わるように、灰色のつなぎを着た青年が老年の職員に声をかける。彼の腕に巻かれた反射板の光が目に刺さり、少女は反射的に片目を細めて手のひらに力を入れる。乾いた申請用紙の鳴く音が、少女を束の間の逃避から現実へと引き戻した。
 足が重い。やけに遠く感じた記載台の先で、彼女は安物のボールペンを手に取った。涙で滲んだ青い枠線の上には、ジムバッジ再発行届け、と無機質なフォントが冷ややかに少女を睨み返している。
 どうして、よりにもよって。やるせない後悔が胸を突き上げる。
 いっそ中身はどうだってよかった。本当に見つけたいものは外側、使い古されたバッジケース。細かい傷が無数に刻まれて、すっかりくすみ切ってしまった銀色のケース。かつてそこに収められていたという六つのバッジは、スポンジ部分のいびつな凹凸にだけその名残を残している。
 ただ、彼女は父の夢を叶えてあげたかった。たったそれだけ。
「(ジムチャレンジなんて、やるんじゃなかった)」
 やりどころのない怒りで白んだ指先が、タイラという名を綴った。



 結局、タイラは再発行届けを提出しなかった。できなかったと言った方がより適切かもしれない。
 しかして職員の親切を無下にするのも忍びなく、彼女は用紙を丁寧に四つ折りにしてバックパックの底にしまいこむ。まだ日も高い時間に宿へ戻る気分にはなれず、彼女の足は自然とワイルドエリアに繋がるゲートに向かっていた。スタジアムへの挑戦はとっくに終わっているのに、もう何週間もエンジンシティに滞在している。そろそろ次の街に移動しなければジムチャレンジ継続の意思なしと判断され挑戦権を失効してしまう可能性があった。
 エンジンシティに到着してすぐ、川沿いから広がる森や平野を散策したときに失くしたことは確かなはずで、何度か周辺のメインルートをなぞったが目当てのものは見つかっていない。タイラはエンジンシティのゲートから東へしばらく歩いたところで足を止めた。その先には鬱蒼と茂る森が広がっている。
 高すぎる峰や深い水辺といった物理的な障壁が少ないワイルドエリアでは、人間の往来が多いメインルートから一歩外れるだけで、新米トレーナーの実力では手に負えないレベルのポケモンがひょっこり飛び出してくることは珍しくない。人間とポケモン双方にとっての不幸な事故を防ぐため、ワイルドエリア保全協会に所属するレンジャーたちが定期的な巡回を行なっているが、やはりあらゆるエリア、時間をカバーすることは難しい。タイラも、ジムチャレンジ中は決してメインルートから外れないように、と旅立ちの前に口を酸っぱくして忠告されていた。
「(行くしかない、よね)」
 下唇を噛みながら森の奥を見つめるタイラに対し、渋々追従していたアブリーがついにしびれを切らしてぶぶぶと激しく空気を引っ掻いた。
 アブリーはオーラと呼ばれる不可視のエネルギーを見分けると言われており、危険察知能力が高いポケモンだ。小柄で力も弱い彼らが生き残るために身につけた能力は何度もタイラを救ってきた。だから今回の判断も、勢いだけのタイラよりはずっと正しいのだろう。それでも、やっぱりタイラは諦められなかった。
「ボールに入ってていいよ、アブリー」
 何でもないふりをして放った声は、彼女が自分で思うよりも硬い。アブリーは自分の訴えが届かないことを察して悲しげな瞳を伏せたが、ボールには戻らずにタイラの肩へ収まった。タイラは謝罪の言葉をかける代わりに指先で彼女の眉間をくしくしと撫で、一度深呼吸をしてから森の中へ足を踏み入れた。
 大きく育った木々の梢が太陽光を覆い隠し、方々に伸びた藪が足首を絡めとる。自らがたてるものとは明らかに異なる重い足音。ワイルドエリアを駆ける誰かの自転車のベルがいやに遠く聞こえた。湿った空気。土と獣の香りがぐんと強くなる。すぐ背後を振り返れば明るいメインルートに戻れるはずなのに、一歩、見えない境界を踏み越えただけでまるで別の場所のようだった。
 息をひそめて、おそろしいものに見つからないように、タイラは注意深く森を歩く。目的のものはすぐに見つかった。
 タイラのすねほどの高さに倒れた、稲妻が森の中を這ったような跡。草を踏みつぶさないよう慎重に辿り、幹の同じ高さに刻まれたマーキング痕を通り過ぎて、タイラはようやく一つの巣穴を見つけた。藪の中をやみくもに探し回るよりも、地面に落ちたものを拾い集める習性があるジグザグマの巣を探した方が可能性があると考えたのだ。巣穴の主が不在のうちに洞の中を探る。ない。もちろん、最初のひとつで見つけられるとは思っていなかった。気を取り直して次の跡を探し、調べ、時々巣穴の主に追い回され……。
 そうして地面ばかりを見ていたタイラは、森の奥から聞こえる汽笛のような長い鳴き声にハッと顔を上げた。
 気づけば陽が大分傾いている。街に戻るにも、野営の準備をするにも遅い時間だった。今日の探索はここまでにして引き上げようと周囲を見回して、「うそ、どうしよう」彼女はそこで初めて自分が見知らぬ場所に立っていることを知った。
 全身を氷水が流れるような心地になったのは、冷たい風がタイラの肌を撫でていったことだけが理由ではないだろう。バックパックには最低限の水と携帯食料こそ入っているが、キャンプを張るつもりでは来ていない。後ろ手で懐中電灯を探り当てる手がかすかに震えた。
「大丈夫、大丈夫。南に行けばメインルートのどこかにはぶつかるはずだし、西へ進めばエンジンシティの外壁が見えてくるはず……」
 自分を勇気づけるようにひとりごちて、タイラは身を翻した。一度も使ったことのないコンパスを頼りに見知ったランドマークを目指す。ジグザグマの巣探しに右往左往していたため直線距離は稼いでいないと思っていたが、自覚しているよりも随分森の奥に迷い込んでしまっていたらしい。歩けど歩けど道は見えず、夜が足早にタイラの背を追いかけていた。
 ボウボウ、と森の奥から聞いたこともない低い鳴き声が響く。頭上でポケモンが枝に身を預ける重い音。日中の温かさを夜風が拭い去っていく。懐中電灯が切り取った闇の端をポケモンの影がさっとかすめる度に、彼女は小さな悲鳴を上げた。
 暗闇と不安は、否応がなしに良くないものを連想させる。例えば凶暴な野生ポケモンに襲われるだとか、遭難の末に衰弱死するだとか、幽霊に遭遇するだとか。悪い妄想を振り払うように首を横に振ったタイラは、不安を鎮めるために肩の上のアブリーへ手を伸ばす。しかしアブリーは何故かその手をすり抜けて、彼女の肩から軽やかに飛び上がった。
「待って、どこ行くの、置いていかないで」
 アブリーはタイラの制止も聞かず、それとわかる細かい羽音を鳴らして飛んでいく。タイラは森にひとり置いていかれたくない一心でアブリーの後を追った。どれほど進んだだろう、不意にタイラの持つ懐中電灯の明かりが何かを強く反射する。ちかり、と跳ね返ってきた光に刺され、タイラは目を細めた。
「誰だ?」
 やや険のある、若い男の声だった。人だ。タイラの足から力が抜けそうになる。アブリーは彼のオーラを感じ取ったのだろう。特に男を警戒している様子はなく、彼女はくるりとタイラの頭上を一回りして、再び肩の上に収まった。
「あ、あの、わたし、迷っちゃって……」
 タイラは急く気持ちを抑えて大きく息を吸った。まだ新しい土をつけたショベルを支える、灰色のつなぎを着た青年だ。その足元には長い耳を神経質に揺らしたホルビーが、鼻をひくつかせながら彼の片足にまとわりついている。トレーナーという雰囲気ではない。彼の服装はワイルドエリア保全協会のスタッフが着用しているものだった。反射材の腕章にも同じ文言が書いてあるので間違いないだろう。ということは、彼もレンジャーなのだろうか。野営の支度か、森に広げられたブルーシートの人工的な鮮やかさが景色から浮いて見えた。
「よかったら、道を教えてほしいんです」
「それは構わないけど……まあいいや、説教は俺の仕事じゃない」
 青年はやや面倒そうにタイラとアブリーを眺めながら、足でバスケットボール大のものをブルーシートの中へ押しやった。青年の爪先を視線で追えば、ブルーシートには不自然な隆起があり、敷物として使っているというよりは何かを覆い隠しているようにも見える。
「エンジンシティまで送る。でも、その前に少し休みなよ。今から歩くなら日ィ跨ぐ」
 青年は荷物の中からアウトドアチェアを一脚広げ、タイラに座るよう促す。ぴんと張られたナイロンの幕に腰を下ろした途端、タイラの全身に疲労が雪崩れ込んできた。残り少ないペットボトルの水を飲み干してから、ほうと深い息を吐く。ペットボトルの蓋に分けた水がアブリーの長い口吻にみるみる吸い込まれていくのを見て、タイラは申し訳ない気持ちになった。
「あの、ありがとうございます。わたし、タイラって言います。こっちは友達のアブリー」
「ベンケイ」
 そう短く名乗りながら、青年はブルーシートの端を拳よりも大きな石や枝で押さえている。こんな時間に森の奥で何をしているのだろう? タイラは疑問に思ったが、これから世話になる相手にそこまで踏み込む勇気はなかった。
 ベンケイは人見知りをしているらしいホルビーを背負いながら、散らばった荷物をまとめている。途中、ふと思い出したようにタイラへ振り返り、先程までの気難しそうな雰囲気とは打って変わっていたずらっぽく目元を緩めた。
「探し物は見つかった?」
「え? いや、まだ……あれ、何で知って」
「そりゃあ、事務所で泣きべそかいてるところを見たから」
「な、泣いてない! です!」
 どうやら遺失物問い合わせのときにどこかですれ違っていたらしい。羞恥で頬を赤く染め、いたたまれなく視線を逸らしたタイラは、ベンケイの背後、藪の奥から視線を感じた。頭の位置が低い。四足のポケモンだろうか。タイラがアブリーを呼び寄せるより前に、それは大地を蹴り上げた。あっと叫ぶ暇もなかった。
 闇に紛れて飛び出してきたのは野生のフォクスライだった。つむじ風のようにブルーシートの中から何かをくすね、タイラの横を駆け抜けていく。口元に咥えられたものは暗くてよくわからない。ただ、生臭いにおいが横切ったように感じた。フォクスライに荒らされたシートの角が大きくめくれ上がる。
「まずい。ホルビー、そっち押さえて」
「て、手伝います」
「来なくていい!」
 慌てて腰を浮かしたタイラに強い拒絶の声が飛ぶ。親切心を断られたことにタイラは反感を覚えたが、彼女はすぐにベンケイの制止の理由を知ることとなる。
 めくれ上がったブルーシートの隙間から、白いものが覗いていた。
 生気を失い、鉤爪のように硬く曲がった五本の指、手の甲と続いて、中程まで続く腕。その先は、ビニールシートの陰になっていてタイラからは見えない。見たくもない。
「ひ、あ……」
「ああもう、ついてない」
 ワイルドエリアでブルーシートを見かけたら、近寄らない方がいいよ。
 きっとそこには誰かの死体が埋まっているから。
 喉奥から細長い悲鳴を上げながらタイラが思い出していたのは、いわゆる怪談、都市伝説と呼ばれる類のものだった。

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