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超個体~Survival of the fittest~

作者:隠れインターフォン

――あるあさ とつぜん ふってくる

 今年のカントー地方は連日猛暑が続いていて、俺の住むこのボロアパートはそろそろ変形してしまうかもしれない。熱気と湿気で最悪な目覚め、隣で眠っていたはずのリっちゃんがいないことに気づく。そういえば一限目から講義があると話していた気がして、外の明るさにハっとして、時計の針がまだ6時を回ったところだと確認した。
「タケちゃん起きたん?」
 せっけんのにおいをまとった彼女が、建付けの悪い引き戸の奥から顔を出した。「暑くて、シャワー借りたよ」と言いながら、冷蔵庫に入っていた俺の飲みかけペットボトルを渡してくれる。
「エアコン壊れちゃったんかな。全然効かないね」
「参ったな。去年おととしそんなに暑くなかったから、エアコン使ってなかったしな」
「寝苦しいと思ったことないもん」
 リっちゃんはそう言って、彼女が片付けてくれたワンルームの真ん中の椅子で足を組んだ。静かな朝で、リっちゃんだけがきれいだ。

 ジョウト地方の田舎町で、俺たちはささやかに愛を育んでいる。大学のサークル仲間だ。数あるカップルの中のひとつ、にぎやかに、まじめに、たまにケンカしながら、知り合って2回目の夏を迎えた。
 冷たい水で目が覚めて、半裸のリっちゃんのさらさらした髪と後ろ姿が目の前で鮮やかに見えて、俺は思わずきれいな腕を引き寄せて抱きしめた。
「まだ講義まで時間あるよね?」頬を寄せてキスしようとして「時間はあるけど、あなたのためにシャワーを浴びたのとは違う」って一蹴されて、ここは強引にいくべきか引くべきか逡巡して、やめた。リっちゃんを怒らせていいことは、この世の中にただひとつもない。
 ふたりの汗が染み込んだ布団を干そうと、座ったままで手を伸ばし、掃き出し窓を開ける。南向きのベランダが、陽光がまぶしすぎて真っ白に見えた。
「あれ?」
 カーテンを閉めていたリっちゃんが、隣接する道路の方で何かを見つけた。
「ねえ、なんだっけ、あのポケモン」
 布団を抱え、リっちゃんが指さす方を見る。明るさに慣れてきた目で、2階から見下ろしたそこにいたのは。
 つぶらな瞳の、まるで「ぴえん」。目が合った気がした。
「ヒマナッツ?」

 その時だった。
 天井から、鈍い衝撃音が聞こえて、俺たちはたぶん同じタイミングで、同じ方向を見上げた。
「え?」
 アパートの屋根に、物理的な衝撃があったことは確かだ。自然公園でバトル大会でもやっていて、ここまでポケモンが飛ばされた? それとも、本当に暑さで変形したか。そんなわけない。
「な、何か落ちてきた?」
 そう考えるのが普通だよね、とかわいいリっちゃんを見る。俺はまだ寝ぼけている。
「外のヒマナッツ? も怖いけど」
 と、もう一度外に目を向けようとして。

 外から、女性の叫び声が聞こえて、それからまた天井に衝撃があって。
 俺もさすがに恐ろしくなって、背筋から緊張する恐怖で、思わずベランダの手すりに身を乗り出す。
「危ない、絶対上から落ちてるって、頭ひっこめて!」
「何が?」
「ヒマナッツが! しっかりしてケンちゃん!!」
 しっかりしてって、ヒマナッツが落ちてくるわけない、何を言っているんだリっちゃんと、思った瞬間にまた、衝撃、そして、ヒマナッツ。ざわざわ、外が騒がしくなってきた。隣人も「なんだ?」と顔を出してきて、向かいの一軒家から、いつもおとなしいリングマがおじさんとともに勢いよく外に飛び出してきた。
 この間にも、目下の道路にはヒマナッツはどんどん増える。ヒマナッツが、空から、まさに、降っている。
 まばたきの間にふっと現れて、かといって落下の衝撃でつぶれるわけではなく、低反発のクッションの上に落下するようなニュアンスで、まるで配置されているような、誰かが雑に、それでいて壊れない程度に荷物を運搬していくような、そんな印象。
 少なくとも世の中の様々な法則ではありえない光景が、確実に俺の目の前に広がっている。
 その時、これまたどこからともなく現れたネイティオが、右から左に目の前を滑空していった。移動中のスピード違反取り締まりや、街の警邏でよく見かける警察関連のネイティだと直感で分かった。
 間を置かずに、また屋根から衝撃、衝撃、衝撃。はっと空を見上げても、そこには恐ろしいくらいの、真っ青な空。
 
 そこから、どこからともなく現れた影を、俺は目視した。
 その影が徐々に俺に近づいてくる。
 ぐるぐる空で回りながら、ぴえん、が近づいてくる。
 それはまさに無邪気な瞳で、まるで。
 まるで、赤ん坊じゃないか。
 
 視界の端に、すらっと白い腕が移り込んだ。
 リっちゃんは俺の目の前に身を乗り出して、ぴえんに手を伸ばした。
 危ない、危ないよリっちゃん。さっき俺に、頭ひっこめてって。
 声に出す間もなく、ぴえんが目の前まで、リっちゃんの腕の中まで迫ってきた。
 俺も、思わず、手を伸ばして。


「それが、うちの奥さんと結婚しようと誓った日だったんだよ」
「なんでやねん」
 コーノイケは、かきこんでいたどんぶりから顔を離して笑った。話がズレてますし、アンタの嫁さん関係ないし、その件で結婚を決意って意味が分からんと、口の中に食べ物を入れたまままくしたてる彼はマッギョに似ている。
「社長とは付き合い長いけど、そんな話、初めて聞きましたわ」
 ふたりで受け止めたヒマナッツには、「ヒマちゃん」という名前を付けた。ヒマちゃんと出会ったあのぴえん事件(リっちゃんとそう呼び合っている)から何年も経って、その間に俺は社会人になって、ちょっと遠距離恋愛したあとにリっちゃんと家族になって、コガネの郊外にふたりで日当たりがいい土地に家を建てて、勤めた会社から円満に独立して、俺と部下のコーノイケだけの小さな会社を興した。
 ぴえん事件は、一時全国ニュースで取り上げられ、年末の総集編で深堀取材していたところまでは見たが、結局なんだかわからないまま、世の記憶から忘れ去られている。
 あの日現れたヒマナッツ達は、続々現れたネイティオや警察官らが回収していった。俺の家にも捜査が入ったが、リっちゃんがあの後ヒマちゃんを連れて大学に行ってしまったので、保護されることはなく。その後定期的に俺たちの家を訪問して「ヒマナッツを捕獲していませんか? 目撃してはいませんか?」と調べにきた彼らに、俺たちは、正直に話したくなくて、知らぬ存ぜぬを貫いて、今に至る。
 リっちゃん以外に、ヒマちゃんのことを人に話すのは初めてだった。
「ほかには言わんといてな」
 コーノイケは「嫁さんとのなれそめ話、誰にも話しません。ごちそうさんです」とわざとらしく頭を下げた。
 マッギョ似のコーノイケは俺よりずっと年下で、頭脳明晰な部下だから、俺が引き抜くにはもったいない気もしたし、前職の会社からも引き留められたようだった。それなのに彼は「生き残るためには挑戦ですわ!」と言ってついてきてくれた。今でも不思議で仕方ない。幼少の時から友達だというレドームシと暮らしていて、地下通路で売っている怪しげな店を練り歩くのが休日の楽しみらしい。がさつなところがあるが、それがまた彼のいいところだ。

 賑わうコガネの真ん中を、日陰を選んでふたりで歩く。ぬるいビル風が木々を揺らし、ポポッコ達がふわりふわりと舞い上がっていく。今年は連日猛暑日が続いていた。大通りを人につられて(つれて?)闊歩する大型のポケモンたちも、いささかぐったりしているように見える。しかし、談笑しながら警邏中の警察官とともに歩くネイティオは、いつも通りの涼しい顔をしていた。
「社長、僕もうこれから暑くて溶けますわ、溶けて無くなる前に大通りのエスニックが食べたい」と、コーノイケが連絡を寄こしてきたので、これがヒマちゃんを話すきっかけになった。あの時も、同じように連日猛暑日が続いていた。大量発生したヒマナッツを捕まえたのは、俺とリっちゃんだけだったのか。なぜあれほど念入りに警察官が調べに来たのか。そもそもヒマナッツは、こうやってこの世に現れるのが普通なのだろうか。リっちゃんは事件の後、いろいろ調べていたようだったし、俺にも逐一報告はしてくれていた。
 一度リっちゃんが「ヒマちゃん、ここにいていいのかな」とつぶやいたことを思い出す。
「ふつう、ポケモンはタマゴから生まれて来るやんか。あの日の大量発生が、もしそういうプロセスを経ていなかったとして、それならヒマちゃんは、どこから来たのかな」
「ヒマナッツって、めっちゃ弱いポケモンなんだって。もしかしたら、ふつうに暮らしてたら、ほかのポケモンに負けてしまうから、生き残れないから、ああやって生まれて来るんかな」
「ああやってって?」俺は確かそんな風に返して。
「ああ、は、ああ、やんか」
 と訳の分からない会話に着地した、ような記憶がある。

「夕方のアポイントはそのまま飲みになると思いますんで、直帰しますわ。社長は事務所ですか?」
「うん、書類片付けて俺も帰るよ。お疲れ様、よろしく」
 コーノイケと別れて、ひとり事務所へ歩く。振り向きざま、涼しげネイティオと目が合った気がして、視線をすっとそらした。悪いことをしていないのに、警察を見ると悪い気がするのは、全ジョウト人共通の認識だと思う。

「ただいま」
 自宅に戻り、ダイニングの明かりをともす。リっちゃんはまだ仕事だろう、エアコンが付いていない我が家は異常な熱気で、彼女が帰る前にこの部屋を冷気で満たしておかなければならない。
 何かの額ほどの小さな庭で、ヒマちゃんはすうすう眠っていた。抱き上げてソファの上の寝床に乗せてやる。大きな瞳がこちらを見つめてきたので、俺は「きょうもいっぱい太陽浴びたか」と頭を撫でてやる。
 俺たち夫婦はこどもを授からなかった。俺はリっちゃんとふたりで暮らせればそれでいいし、彼女も「ヒマちゃんがおるしなあ」と言う。本心は分からないけど、ふたりにとってはヒマちゃんが大切な子どもなのだ。
 カーテンを閉め切り、夕飯の支度を始めようとして、スマートフォンの着信に気づく。リっちゃんからだ。モーモーミルクが切れているので、帰りに買ってきてもらおうと思い、耳に当てて。
 
「ヒマナッツを渡せ」
 と、その声を聞いた。

「は」
「ヒマナッツを渡せ」
 リっちゃんの声ではない。
 画面を確認する。間違いなく通話相手はリっちゃんだ。全身の毛が逆立つ恐怖、耳からの感覚に戦慄して、足がすくむ。
「これは私の妻の電話ですが」
「抵抗しなければ解放する」
 解放? 何が起きている?
 緊張した足を動かしてヒマちゃんへ向かう。抱きかかえ、相変わらず穏やかな顔で眠るその重みを体全体で感じる。
「今からネイティオをそこに送る。持っている箱にヒマナッツを入れろ」 
 電話が切れる。「おい! おいっ!!」震える手で通話ボタンを押しなおそうとして、スリープモードにしてしまったか、大きなスマートフォンの画面が、俺の顔がはっきりと映り込んで。
 俺の後ろにいる、何者かの顔をとらえた。
「うわああああ!!!」
 思わずケータイを放り出して、体制が崩れながら、俺は背後に立ったその姿を、昼間見たような、あの日も見たような、いつも見ているような、見られているような、その、ネイティオのおぞましい冷たい顔を見た。
「お前は何者だ!!!」
 叫ぶ俺の声が聞こえているだろう。しかし、ネイティオは全く微動だにしない。ヒマちゃんをよこすのを、待っているのか。ヒマちゃんを奴から守らなければ、でも、俺にはリっちゃんがいないと生きていけない。それだけが確かで、それ以外なにもいらないから、でも、それでも、ヒマちゃん、ヒマちゃんを渡すのか。この、得体のしれない奴に、リっちゃんを人質にするような奴らに!
 いつの前にか目の前に浮き上がる、不気味な黒い箱をネイティオは見つめて、早くここに入れろ、と言わんばかりの圧をかけながら。どうすればいい、どうすればいい、俺はもうわけがわからなくて、肩で息をしながらネイティオを見つめて膠着する。
 この状況は何なんだ、ヒマちゃん、きみは、なんなんだ。

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