「悪魔のボール…?」
訝しげにその単語を口にするレントラー。
「またしても世間知らず炸裂、ってとこかな…」
呆れてそう言うのはブラッキー。
雲ひとつない夏の朝、二匹は並んで林の小道を歩いていた。
先日の嵐のせいか、ブラッキーが森で収穫してきた木の実はいつもより少ない。
しなやかに日陰を狙って歩くレントラーは、聞き慣れない単語の意味を尋ねた。
「悪かったなルーク…で、その悪魔のボールって?」
「触れたポケモンが皆揃って行方不明になるって噂だよ…」
ルークと呼ばれたブラッキーがそう説明する。
「何だそのインチキ臭い話…」
レントラーは眉間にシワを寄せながら続けた。
「万一本当だとしても、触れなければいい話だ。破壊するとか、対策はいくらでも…」
「無理だよ。」
と即答するルーク。
「…と言うと?」
「技で壊そうとしても跳ね返されるらしくて。それにこの辺にはまるで無いけど…遠方の地にはゴロゴロあるらしいからね。何にせよ全部壊すのは無理ってこと。」
レントラーの頭に立ち込める疑念の霧は一向に晴れない。
「一応聞いておくが…どんな見た目だ?」
その問いに、ルークは一瞬うろたえた。
「その…僕も正しいことは分からない。色や模様に関する噂が多すぎて…」
「そんな不確実な話、やっぱりガセに決まってる。」
そう言ってため息をつくレントラーの心は、もはや地蔵のように固まって動かなくなってしまった。
「そう固いこと言わずに信じてくれよう…」
分かれ道が近づいてくると、夜行性のルークは眠気からかまぬけな口調になりながら、林の奥へ消えていった。
レントラーは軽く手を振って、ルークにおやすみを言い、林から出た。
開けた視界いっぱいに映るのは、澄み渡る空、青い海、白い砂浜の、息を呑むほど美しいコンビネーション。
朝起きて、ルークの木の実取りの帰りに合流、そのまま海沿いを散歩するのがレントラーの日課だ。
心地よい海風が黒く長い毛をなびかせる。
時折軽く目を閉じ、海の音を存分に楽しみながら、砂浜に等間隔の足跡を紡いでゆく。
すると突然その前足に、温まり始めた砂浜とは対照的な冷たい何かが触れた。
それは車輪のように転がり、バランスを崩して危うく転びそうになる。
「ったく何なんだ…」
行き場のない悪態をつきながら振り返ると…
そこには恐ろしい光景が広がっていた。
先ほど触れた冷たい球形の何か…
それは自然界ではまず見られない、毒々しいほどの赤と、雪よりも白い白色をしていたのだ。
まさに”ボール”と呼ぶにふさわしいそれは、レントラーが触れたのに反応して、口を開けるかのように中心でパカッと開いた。
その時、遠く興味の範囲外に追いやったはずの先ほどのルークの話が、とんぼがえりしたかのようにレントラーの頭の中に戻ってきて暴れ回り始めた。
「…!」
一瞬のうちに言葉にならない驚きと恐怖に支配され、球体に電撃を与えるが、あの話の通り虚しく跳ね返される。
もはや信じる信じないの話ではない。
この先に待っているのは恐ろしい未来だということを、レントラーは本能的に理解していた。
球体…もとい『悪魔のボール』が開き切ると同時に、青白い光が一気に解き放たれる。
しかし、それはすぐにレントラーの視界から遠のいていった。
思うよりもずっと早く、足が勝手にワイルドボルトを発動していたのだ。
光は追ってきてはいないため、レントラーは自らの本能に感謝しつつ、ひとまずは安心できた。
疾走で揺れる視界の中、レントラーは先ほど自分がいた場所を見続けていた。
すると次の瞬間、信じがたいことが起こった。
青白い光が集まり、何かの形になったと思えば消えてしまったのだ。
そしてそこにいたのは…一匹のポケモンと思われる、何か。
まだ警戒を止めずに、レントラーはゆっくりとそれに近づいていった。
するとそれはレントラーの方に振り向いた。
背景の海よりも青い、2本のおさげがふわっと揺れて、額の大きな結晶が太陽の光を反射して煌めいたそのポケモンは…
「グレイシア…?」
この短時間に起こった、あまりにも不可解すぎる出来事でレントラーは頭がパンクしかけていた。
「…誰?」
その棘のある物言いにアレンは面食らった。
「俺は…レントラーのアレンだ。」
「…あなたが私をモンスターボールから出したの?」
モンスターボール。
アレンにとっては、聞いたこともない言葉だった。
「そこに転がってるでしょ?そんなことも知らないの…?」
グレイシアから特大のため息が出た。
真っ白な冷気を帯びていて、アレンにまでひんやりした感覚が伝わってくる。
「お前こそ突然現れたと思えば…」
「そんなの知らないわよ…何なのかこっちが聞きたいくらい。それで…私のご主人はどこ?」
グレイシアは呆れる態度を変えない。
「ご主人…?人間のことか?」
「はぁ…当たり前のこと聞かないでよ。」
やはり、その言葉には棘が感じられる。
「どっちが無知なんだか…人類は三年前に消滅しているが…」
「え……?」
言葉を失ったグレイシアは虚を突かれたような顔を一瞬見せたが、すぐにまた鋭い表情に戻り、その場を立ち去ろうとする。
アレンは、菱形模様のその背中に声をかけた。
「人間は消滅したと言ったんだ。」
「聞こえてたわよ。野生で生きていけばいいんでしょ?」
「それはそうだが…」
「大体あなたは何?私が一匹で生きていけないとでも思ってる?」
そう冷たく言い放つグレイシア。
「…この世界のこと何も知らないだろ、お前。」
その言葉が聞こえないかのように、そのまま去って行ってしまった。
振り返らず進み続ける彼女を遠くまで目で追うアレンだったが、ふと違和感を感じた。
直射日光の下…彼女の足取りがおぼつかなくなり始めたと思えば、次の瞬間、ふらついて倒れ込んでしまった。
陽炎で、白い砂浜と白い彼女の境界が揺らいでいる。
「全く…」
アレンはそう呟き、熱を持った体のグレイシアを林の奥まで運んだ。
向かったのは、アレンがねぐらにしている小さな洞窟。
とりあえず、アレンは水を貯めてある岩の窪みにグレイシアを突っ込んだ。
その間も、アレンの頭はフル回転していた。
今しがた起こったことは何なのか…
赤と白のボール…悪魔のボール…
ルークの話が本当だとしても、なぜグレイシアが出てきたのか?
いろんな考えが頭の中でブレンドされる。
その時、アレンのそばで不意に水溜りが波打った。
「起きたか…」
そう言ったそばから、突然冷凍ビームが飛んできてアレンは危うく当たりそうになる。
「こんなところに連れてきて何するつもり…?!」
警戒心剥き出しのグレイシアに対して、アレンは動じずに言った。
「強がるならせめて自分の体温くらい把握しとくんだな…手間かけさせやがって…ともかく無事で良かった。もう無理はするな。」
タイムラグがあったが、小さな一言が返ってきた。
「ありがと…」
それに続けて、不安げな声が洞窟にこだまする。
「人間…本当に消えたの…?」
アレンは落ち着いた声で説明した。
「本当だ。環境破壊を繰り返し、アルセウスの怒りに触れて3年前に突然消滅した…少なくとも俺はそう聞いている。」
「もしかして私…モンスターボールに…」
その単語の再来に、アレンはすかさず質問した。
「お前は悪魔のボールのことをそう呼んでるのか?」
「何よそれ…どういう経緯でそんな変な呼び方をしてるのか知らないけど、あれは人間がポケモンを捕まえるために作った、ただの道具よ。」
噂を信じていなかったはずのアレンは、真実を包み隠す皮が一枚ずつ剥がれてゆくような感覚に、いつの間にか高揚を覚えていた。
「それ…触れたらどうなる…?」
鼓動が加速する。
「変なこと聞くわね…迂闊に触ると空っぽなら捕まっちゃうし、中にポケモンがいれば出てくるわよ。」
アレンの頭に電流が走った。
ポケモンが消える噂の正体…グレイシアが現れた理由…全てが紐付いた。
気づけばアレンは駆け出していた。
「ちょっと!どこへ行くつもり?!」
「…有識者のところだ。」
そう言い残してアレンが訪れた場所は、大きな切り株の前。
「ルーク!まだ起きてるか?」
アレンが叫ぶと、切り株の根元からとろんとした目のブラッキーが出てくる。
「今寝ようと思っ…え…?」
ルークは言葉を途中でぶつ切りにして、アレンとその隣を交互に見た。
「アレンが…女の子連れてる…?!幻覚か…?」
アレンが斜め後ろを振り向くと、グレイシアが少し赤い顔で佇んでいた。
「何だ…ついて来たのか…それよりさっきの話、信じなくて悪かった。決定的な事実が見つかったから行くぞ。」
「何だって…?!」
*
海に着いて、アレンは経緯を全て説明した。
ルークはグレイシアを見ながら難しい顔で言葉を並べた。
「そうか…と言うことは君は三年近く閉じ込められていたってこと…?」
同じく考えを巡らすアレンは言う。
「恐らくな…人間が消滅した時にボールに入っていたポケモンは、そのまま出る機会を失った…そうは考えられないか?」
その時、グレイシアが叫んだ。
「あれは…!」
そこには、二個目のボールが転がっていた。
ルークがハッとしたような顔をして言う。
「そうか…昨日の嵐で漂流してきてるんだよ!」
その傍ら何を思ったか、なんとアレンはボールに手を伸ばしていた。
「ちょっとアレン!」
ルークは焦る。
「大丈夫だろ…捕まったら後で俺を出してくれ。」
先ほどの青白いものとは違う、赤い光がアレンを包み始めた。
その時。
「やめてッ!」
叫び声と共にボールが氷漬けになり、佇むアレンを残して赤い光が消えていった。
その氷は、真剣な眼差しのグレイシアから放たれたものだった。
「簡単に触れないで…それは…一度捕まると人間の言うことを聞いてしまうようになる…人間がいなくなった今、効果は未知数。あまりに危険よ。」
「…すまない。」
アレンは自分のしたことの軽率さを反省して謝った。
その隣で虚ろな目をしたルークが、
「こんなの知るべきじゃなかったんだ…」
と呟く。
「でも…大勢のポケモンが閉じ込められていること…それを知ってしまった以上…何とかするしかないだろ。」
アレンは静かにそう言う。
「正気の沙汰じゃないよアレン…どれがポケモン入りか分からないし、技も跳ね返されちゃ…」
「お前…今の見ただろ?」
そう言うアレンは半開きになった氷漬けのボールを指差した。
「これは…!」
アレンの閃きは、ルークとグレイシアにも伝わった。
「俺達なら…協力して閉じ込められたポケモン達を解放できるかもしれない。」
「全てのボールに触れて確かめる気…?ポケモンは人間一人につき一匹なんてものじゃないわ…!世界中に散らばってるのよ?!そんなの無茶よ!」
動揺するグレイシアを諭すようにアレンが説明する。
「普通の技が効かない以上、お前のれいとうビームはおそらく…空のボールに触れてしまってもその機能を停止させることが出来る唯一の方法だ。」
間を置いてアレンは決意に満ちた表情でまた話し始める。
「俺は…こんな酷い現実を見て見ぬフリなんてできない。例え100%のポケモンを解放できなくても…全体の1%だったとしても…俺たちでやれるところまでやってみないか…?」
そう言ってルークとグレイシアを交互に見た。
「仕方ないわね…でも私もあなたと同感よ。協力するわ。その…偶然にも…た、助けてもらったし…」
グレイシアの声は少しずつ小さくなっていった。
「僕は夜行性だからあまり役には立てないかもね…でも情報面なら!」
そう言って微笑むルーク。
雲一つない青空の下、三匹の意志は一致した。
*
「そういえばお前、名前は?」
アレンがグレイシアに純粋な疑問を投げかける。
「私に名前は…ない…」
「なら三年ぶりの目覚め記念も兼ねて、僕たちが考えようか!」
「ちょっと何勝手に…!」
ルークとグレイシアが議論する一方で、アレンは氷漬けのボールを見ながら、何やら神妙な面持ちをしていた。
「アレン…?」
それに気づいたルークが心配そうに呼びかけると…
「…スピカ。」
突然アレンはそう呟いた。
しばらくの沈黙が流れる。
「…それサイコーだよ!アレンのセンス光っちゃったな〜!」
「何よ藪から棒に…今後私はスピカなわけ?」
そんな声が同時にする。
「スピカ!よろしく!」
ルークは陽気な声で早速名前を呼んだ。
「はぁ…まあ良いわ…」
額を抑えてそう言うグレイシアだったが、その尻尾は少し嬉しそうに揺れていた。
アレン、ルーク、スピカ。
三匹の第一歩は、ここから始まる。
解放率:100.000000%を目指して。