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カクテル言葉は『覚悟を決める』

作者:久方小風夜



 ホームに停まった長距離列車から続々と人が降りてくる。ある者は観光に、ある者はビジネスに、またある者はここ最近話題になっているバトルのイベントに。ホームに降り立つ人々は皆、各々の事情で浮足立っている。
 ここにも観光客の女性がふたり、ミアレのカフェをまとめたガイドマップを開き、これからの旅程に胸躍らせながら楽しく談笑していた。あっ記念に写真撮ろ! とサコッシュからスマホロトムを呼ぶ。引っかかったハンカチが一緒に飛び出しコンクリートの上に落ちたが、盛り上がる彼女たちは気が付かない。

「すみません。これ、落としましたよ」

 不意に聞こえて来た少しハスキーな声。雑談に興じていた女性陣は振り返り、ヒャッと小さく悲鳴のような歓声を上げた。
 そこには思わず目を奪われるような美しい人間が立っていた。歳のころは十代半ばか後半ぐらいだろうが、身に纏う雰囲気は少し大人びている。古びた大きな旅行鞄を持っている点から、同じくミアレを訪れた旅行者なのだろう。すらりとした肢体を覆うスキニーパンツとポインテッドトゥのロングブーツ、黒革のジャケットとベレー帽。雪のような白い肌に、真っ黒なツーブロックの髪がよく映える。控えめな微笑みを讃えた顔は驚くほど端正で、どこか愁いを帯びた伏しがちな大きな目は吸い込まれるような深い闇色だった。

 あ、ありがとうございます、とハンカチを受け取り、あのう、私たちこれからカフェ巡りをするんですがお礼も兼ねて一緒にどうですか? と頬を赤らめる。旅行者は少し困ったように眉をハの字にして苦笑し、ごめんね、用事があるから、とやんわり誘いを断る。それじゃあ楽しんで、と向けた笑顔は少しあどけなく見えた。雑踏に紛れていく後ろ姿を目で追いながら、女性陣はすっごいイケメンだったね! 芸能人かな!? モデルさんかも! ミアレ来てよかった! ときゃいきゃい沸き立った。


 改札を抜け、駅を出た目の前の広場で立ち止まり、スマホロトムを開く。表示される複雑怪奇なマップを指でなぞり、小さくため息を吐く彼女――そう、彼『女』の名はニコラシカ。美青年と言って差し支えない凛々しい顔で、マニッシュな服に身を包み、生まれながら男性名を持ってはいるものの、身も心もれっきとした女子である。
 ミアレ、道がゴチャゴチャしすぎだよ、とニコラシカは困ったようにつぶやく。この街に足を踏み入れるのは初めてで、これといった伝手があるわけでもなく、知り合いも……少なくとも気楽に頼りに出来る相手はいない。ここまでの旅に連れもおらず、自分のポケモンを捕まえたことすらない。そんな彼女は何故、このミアレシティにやって来たのか。

 ニコラシカ、十六歳。現在、絶賛家出中である。



 彼女がこの街に来た詳細を説明するために、少し彼女の生い立ちを語ろう。
 ニコラシカの父は、暴力と犯罪を主とする反社会的活動により利益を得ている職業……端的にわかりやすく言うとヤクザである。しかも単なる一構成員ではない。複数の街、複数の地方に跨がる多数の組を統括している会の元締、つまるところ大親分である。
 非常に優れたトレーナーであったという母は生まれたときに亡くなり、父は後妻も娶らなかったため正真正銘の一人っ子。古くからの男社会である任侠の世界に生まれた彼女は父の意向により、男の名を与えられ、跡取りの息子として育てられた。

 だがしかし、男子として育てられたこと自体は彼女にとって大した問題ではない。
 身も心も紛れもなく女ではあるものの、自分に与えられた名はかっこよくて嫌いではなかったし、世間一般で言う男らしい服や髪型や振る舞いも己の気性に合っていた。ガーリーな物や格好に興味がないわけでもないが、今更可愛らしい装いもやや気恥ずかしく感じるし、やはり比べればカワイイよりカッコイイものの方がより好みに合致する。だから別に、男の子扱いされていたこと自体にはさして不満はなかった。

 そんなことよりもっと大きくて深刻な問題は、彼女は幼い頃から父の跡を継ぐ気など更々なかったということだ。
 そもそもの問題として、誰が好き好んで犯罪者になりたいと思うだろうかと彼女は常々思っていた。暴力と恐怖で相手を支配するのも気に食わない。家のことを知った人はみな近寄ろうともせず、幼い頃から友人もほとんど作れなかった。ニコラシカにとって、代々続く家業は人生の枷でしかなかった。
 幼い頃から幾度も、父に家を継ぐ気はないと主張した。しかし自分の組織と立場を何より重んじていた父はまるで聞く耳を持たず、ニコラシカの意見は一度たりとも聞き入れられることはなかった。
 幾度も幾度も繰り返し、幼い彼女はとうとう諦めた。父に何を言っても無駄だ。自分はこのまま生まれたときから作られた流れに大人しく従って生きるしかないのだろう、と。
 幼くして深く刻まれた孤独と諦念は彼女の意思を折り、未来への希望を間引き、歳に似合わぬ落ち着きをその身に纏わせた。

 そんなニコラシカに小さな転機が訪れたのは、遠く離れた場所からある若者が来たことだった。
 カロス地方のミアレという街から父へ挨拶に来たその男は、最近新興されたばかりの組織のリーダーとのことだった。裏社会の繋がりというか、礼儀というか、立場をわからせるためというか、そのようなもので父がわざわざ呼び出したらしい。
 日夜各地の様々な組の幹部や構成員など強面の男連中が出入りする環境で育ったニコラシカにとって、その男の第一印象は、歯に衣着せずに言うと「青二才」だった。二十代前半、いやもしかしたら十代後半だろうか、組織を束ねる者にしてはあまりに若い。小柄な容姿は相手を威圧するには迫力不足で、後ろに控えている大男の方がよっぽどそれっぽく見えた。何より、滲み出ている根っこの人の良さが隠し切れていない。甘っちょろい人間を嫌う父に、所属する組織諸共即座に叩き潰されるかもしれないな、などとニコラシカは内心考えていた。

 しかし、機転が利くのか、弁が立つのか、彼は裏社会でそれなりの立場にいる父に一切臆することなく堂々と渡り合って見せた。後々父が「あの若造がどこまで自分の理想を貫いて行けるんか、見てみるんも面白ぉなったわ」などと楽しそうに笑っていたので、相当に気に入られたらしい。

 顔を合わせてそう時間も経たない頃に、組員が入ってきて父に何やら耳打ちした。すまんが用事が入ったけぇ出るわ、まあゆっくりして行きんさい、と言い残し、父は幹部連中を連れて出て行った。部屋には会合に同席させられていたニコラシカとその男とお付きの大男だけが残された。
 わざわざ呼び出しといて本当自分勝手だし失礼だなぁ、と内心父に呆れつつ、ニコラシカは茶など入れて客人に出した。男はおおきに、と受け取った茶を啜りつつ、ご子息さんやったよな、こんな大人のつまらん見栄の張り合いに付き合わされてかわいそうになぁ、とどこか人懐こい声で話しかけてきた。別に、よくあることだから、とニコラシカが少しだるそうに返すと、男は肩をすくめ、さすが肝が据わってはるわ、と苦笑した。

 ところで、と男が眼鏡のブリッジを指で押さえる。ニコラシカは顔を上げた。何だか急に周辺の空気が変わった、そんな雰囲気を感じとった。
 ご子息さんはポケモンバトルはやらへんの? と男はニコラシカに問いかける。ニコラシカは一瞬顔を引きつらせてから、僕はポケモン持ってないんで、と顔を逸らす。そうなん? と男は首を傾げ、ニコラシカの足許の影を指差した。

「そこにおる奴、相当強そうやけどなぁ?」

 えっ? と男の背後に侍っていた大男が目を丸くする。ニコラシカはちらと男の顔を見て、よく気付くなあ、と小さく息を吐いた。
 足許の影から大きな灰色の手が現れたと思うと、それは音もなくニコラシカの背後から彼女を抱くように腕を回し、威圧感を放つ赤い一つ目で周囲をにらみつけた。
 へえ、と男は感心したように顎に手を当てる。

「ヨノワールやったっけ、初めて見たわ」
「……母のポケモンだよ。僕のじゃない」
「はーんなるほど、護衛っちゅうことか」

 道理であの大親分が大事なご子息をこんな得体も知れんチンピラ共のところに平気で放置するわけや、と納得したように頷く。
 『死神』とあだ名されていたと噂に聞く、かつてとても優秀なトレーナーだった亡き母の置き土産がこのヨノワールだ。レベルが高すぎるのか父ですら言うことを聞かせられないが、父への義理か、母と何か約束でもしたのか、あるいはニコラシカへの思慕か、常に影に潜み、四六時中その身を護っている。
 ええやんええやん、と何故かご機嫌そうに男は笑う。こんなごっつ強いポケモンがそばにおるんや、ご子息もさぞかしバトル強いんやろ? と愉しそうに言う。妙な空気だ、とニコラシカは密かに思う。単なる殺気や害意の籠もったものとは違う、肌がヒリヒリ灼けるような、近くでパチパチ静電気が爆ぜるような、しかし不思議と嫌悪感はない不思議な雰囲気。
 ニコラシカはふっと目線を逸らし、小さく息を吐いた。

「バトルはしない。……したくない」

 一瞬男の顔が真顔になった。爆ぜるような周りの雰囲気がすっと落ち着く。男はふうん、と値踏みするようにニコラシカの顔をじっと見てから、やたら優しい声で、何やワケありかいな、気になるなぁ、お兄さんに話してみ? と薄ら微笑む。胡散くさ、と思わず漏れた感想に男の眉間に皺が寄った。
 それでもニコラシカはしばし逡巡し、実は、と静かに口を開いた。普段はるか遠くに住んでいるこの男なら話してもいいと油断したのか、表面だけでも柔らかい態度に絆されたのか、それとも話を聞いてくれるという態度が嬉しかったのか。本心は彼女にもよくわからなかった。

 跡継ぎとされているけれども自分には継ぐ気など全くないこと。訴えても父は全く聞く耳を持たないこと。力が全ての極道の世界にいるからこそポケモンバトルに気が引けること。
 極道だ任侠だと聞こえよく言ってはみるものの、平たく言えば暴力団、力が何より優先される世界だ。己の肉体に依存するしかないスデゴロの暴力より、殺傷力はあるが足がつくと面倒な刀や銃より、手軽で強くて合法的なのがポケモンだ。ニコラシカの周りも当然、ポケモンの強さを求める者が大勢いる。組織の中で成り上がるにはバトルの強さが絶対条件だ。
 だからこそ、ニコラシカはバトルに対して気が進まなかった。嫌悪すらしている極道の、上に立つために必要な技能。バトルはこの上なく暴力的な行動であり、それを好むのは父が望むような反社会的人間に近づくような気がしていた。何より、そんな人間どもの欲求に何も知らないポケモンたちを付き合わせるというのが不快だった。

 ええとこに生まれてもそれはそれで別の悩みがあるもんやな、と男は小さく呟いて背後の大男とちらと目を合わせた。
 せやけど勿体ないなぁ、と男は大きく息を吐く。勿体ない? とニコラシカが尋ねると、だってせやろ、と男はニヤリと笑う。

「お前、ごっつ才能ありそうやん」

 ニコラシカは睨めつけるように男を見、ハッと自嘲するように笑って、アンタも僕は家を継いだ方がいいと思ってるってこと? と吐き捨てるように言った。しかし男は首を横に振り、ちゃうちゃう、そういうことやあらへん、と言いながら、ニコラシカの後ろで睨みをきかせるヨノワールに目を向けた。

「ポケモンは従う人間を選ぶもんや。気に食わん人間には捕まらへんし指示も聞かん。ましてや他人の手持ちなら尚更や。このヨノワールも大親分の指示聞かへんねやろ? せやけど見ればわかるわ、お前には懐いとる。ポケモンに好かれる才能ゆうのはな、トレーナーにとって代え難いもんなんやで」

 ニコラシカはチラリと後ろを振り返った。赤い一つ目と視線がぶつかり、ふいと逸らされる。表情の読めない顔は素知らぬ素振りで天井の方を見上げているが、肩に置かれた大きな手には僅かに力がこもった。
 それとなぁ、と男は髪を撫でつけ、頭をひねりながら少し歯切れ悪く言葉を紡いだ。

「まぁ確かにバトルは平たい話力比べやけど、せやけど何ちゅうか……。俺はバトルが好きやからか何となくわかるんやけど……トレーナーの間では、そいつの人となりを知りたきゃバトルせぇて昔から言うてな……その……ポケモンバトルっちゅうのは、お前が思っとるような側面だけちゃうんやないかと思うんよなぁ……何や上手く言えへんけど」
「……」

 ま、何言うても俺の立場じゃ説得力ないか! と男は左胸の代紋を撫でてカラカラと笑った。
 それにしてもほんまに強そうやなぁ、気になるわぁ、と男はまたヨノワールを見ながら言う。そんなにこいつが気になる? 何かあるの? とニコラシカは訝しげに尋ねる。別に他意はないで、明らかに強い奴がおったら戦ってみとぉなるやん? と男は不敵に笑う。またあの感じだ、とニコラシカは無意識に頬を撫でる。そうは言ってもなぁ、と渋る彼女に、わかったわかった、じゃあこうしよ、と男はニコニコ笑いながら提案する。

「お前は指示出さんでもええ。そこに立っとるだけでええわ。そのヨノワールなら指示なくても充分強いやろ。俺は強い奴と戦ってみたいだけやねん」

 どれだけ好戦的なんだ、とニコラシカは内心少し呆れた。そう言えばこの男は屋敷に来たときからそうだった。わざわざ遠くの地方から呼びつけておいて入り口を通させずにいきなり勝負を仕掛けて追い返そうとする、などという無礼なことをしたのはニコラシカの父だ。しかしこの男はあっという間に見張りを片付け、駆けつけた若頭を片付け、服に汚れのひとつもつけず平然と父の元へ馳せ参じたのだった。そういう所も父に気に入られた要因のひとつだったか。
 ニコラシカはちらりとヨノワールを見る。ヨノワールは彼女に目線を向け、静かに頷いた。ニコラシカは溜め息を吐き、わかった、それで満足するならいいよ、と肩をすくめた。
 男の後ろに侍っている大男が、いいんですか? と少し心配そうに男に尋ねる。現状大親分の子息の護衛に喧嘩を売っている形ではあるので部下として少々焦っているのだろう。ご子息がええ言うんならええやろ、と男は愉しげに弾んだ声で返す。尖った八重歯が目に入る。口角が上がるのを抑えきれない様子だった。
 残ったお茶をぐいと飲み干し、ほなやろか、と男は立ち上がる。ニコラシカはまた溜め息を吐き、じゃあ中庭に、と客人を促す。

 ニコラシカは後継者候補という立場上、何度か危ない目に遭ったこともある。その度いつもヨノワールが護ってくれた。凶暴な野生のポケモンも、他の組の刺客も、多少名の知れたトレーナーも。ヨノワールはどんな相手でもいつも苦もなく追い払ってくれる。トレーナーという立場でなくとも、その腕っ節が確かなことは疑いようのない事実だった。
 しかし、男はこれまで遭遇したどの相手より手強かった。繰り出してきたホイーガはまだ成長の途上にも関わらず、だ。毒を喰らわせ、素早い動きで翻弄し、じわじわと体力を削ってくる。後ろに立っている男の指示が的確なのだろう、とニコラシカは思った。ポケモン同士の単なる力量差を埋める何かが、男とホイーガの間にある。
 ニコラシカは初めて不安を覚えた。負けそうな気がする。ポケモン自身の力は多分、こちらの方が圧倒的なのに。ぞわぞわと落ち着かない気持ちが足許から這い上がってくる。
 チラリと背後を見た赤い一つ目と目線がかち合った、その瞬間だった。

 ぶわっ、と見知らぬ感覚がニコラシカを襲った。いつもどこか眠たげな、伏しがちな目がカッと開かれる。
 世界がやたらスローに見える気がした。肌に触れる空気はビリビリと、熱いような、冷たいような。全身の毛穴が開き、汗だか何だかわからないものが噴き出している感覚がした。
 褪めきって動かなくなった頭の毛細血管の一本一本にまでグラグラに沸き立った血液を捻じ込まれるような、逆に溶けて形を保てなくなった脊髄の真ん中に氷の柱を突っ込まれたような、頭は熱いのに背筋はぞわっと寒く、地面にしっかりついているはずの足は宙に浮いているよう。身体の内外に纏わり付く未知の力が、行き場を求めて暴れ回っている気がした。

 ニコラシカはさっと右手を水平に挙げた。たったそれだけで、周りに乱雑に散らばっていたエネルギーが収束してひとつの方向に向いていくような感覚がした。ヨノワールの赤い目がもう一度ニコラシカを見、全てを了解したようにグッと右の拳を握った。ニコラシカの口から自然と、普段出ないような大きな声が出た。

「シャドーパンチ!!」

 男の退避の指示にホイーガが反応するより早く、ヨノワールの振り抜いた腕がホイーガの胴体の真ん中を捉えた。丸い身体が軽々吹き飛び、中庭に敷かれた砂利の上に叩きつけられる。男はすぐに駆け寄って様子を見、片手を挙げて降参の意を示した。
 あかんあかん、ほんま強いわ、と男は大きく息を吐きながら首を振る。お前のええとこ全然出せへんかったなぁ、堪忍やで、とホイーガを労るように撫でる。ホイーガは甘えるように男の紫色のスーツに擦り寄る。

 ニコラシカは呆然と自分の手を見た。視界の端がチカチカと煌めき、前髪の生え際からドバッと滝のように汗が流れ落ちる。脳内シナプスがバチンバチンと連鎖的に爆ぜ、弾けたところから麻痺毒の混ざったシロップか溢れて脳みそに浸っていくようだった。
 じっと自分の手を見ながらパチパチと瞬きを繰り返すニコラシカの様子を見て、やっぱお前才能あるわ、勿体ないなぁ、と男は笑いながら息を吐く。その言葉に反応することもなく、ニコラシカはただじっと、先ほどの感覚を思い返していた。
 母の手持ちのヨノワールと、一瞬何かが繋がったような気がした。意識か、感情か、見えない何かのエネルギーか。これがポケモンバトルに身を投じる感覚なのだろうか?
 痺れるような未知の高揚感の中、一瞬、ほんの一瞬だけ、何かが見えたような気がした。現実と諦念に押し潰されて何もわからなくなっていた自分の、今いる先にある何かが。

 ぽふ、と男の手がニコラシカの頭に乗せられる。お前がこの先どうするんか、どうなるんか、どうしたいんかはまあ知らんけどな、と男は優しげに笑ってニコラシカの頭を撫でる。

「もしこの先、何か困ったらミアレにおいで。『お仕事』回したるわ」

 頭を撫でくり回す男の手をそっと払いつつ、ニコラシカはふっと苦笑した。

「やだよ。アンタもヤクザじゃん」

 そりゃそうやなぁ、と男は声を上げて笑った。





 そんな出会いから数年。ニコラシカの日常は特に変わりなく、あの男と再び会うこともなかった。
 ただあの日以来、諦念に押し潰され流れに身を任せることしか出来なかった彼女の心境には少し変化があった。再び父に不満を言うようになったし、後を継ぐ気がないこともまた積極的に主張するようになった。最近の坊ちゃんは反抗期ですなぁと組の人間たちは笑いながら噂した。

 そして、ニコラシカが十五のある日。とうとう彼女の堪忍袋の緒が切れた。
 その日父が持ってきた話に彼女は耳を疑った。正式に父の傘下の組へ幹部候補生として入れさせる予定。周囲へ知らしめるための披露会の日取り。そして将来的に婚姻関係を結ぶべき女性の存在。
 ニコラシカは何度も何度も、一度は諦めてしまうぐらい繰り返し、ヤクザになる気も家を継ぐ気もないと言い続けてきた。男子として育ったこと自体にさして不満はなくとも、そう育てられたのは父の我が儘であり、見た目や周囲の扱いはともかく自認は間違いなく女でもあった。
 父の立場や境遇に多少なり同情もあった。中身はともかく大きな組織のトップである重圧や不自由さはあったろうし、後妻も娶らないほど愛した女性と早々に死に別れてしまった悲しみも、その置き土産が望まぬ性であったことも不幸であったろう。しかしそれはそれとして、生まれた娘を何から何まで自分の好き勝手に扱って良いということにはならないのだ。
 父は自分の立場と組のことしか考えず、娘の言葉にまるで耳を傾けることはなく、こちらのことを見もしない。
 ニコラシカはブチ切れた。これまでに積もり積もった不満も含め、もう付き合ってられんと全てをぶん投げた。
 そして彼女は、家を出る決心をした。

 物置の奥から引っ張り出した古い旅行鞄に、必要最低限の衣類と小さい頃からコツコツ積み立てた預金通帳を詰めた。父に対する怒りの言葉を綴った手紙をしたため、今まで常にそばに潜んでくれていたヨノワールに持たせた。僕がいなくなったことに父が気が付いたらその手紙を見せてやってくれ、と。
 ヨノワールは渡された手紙を赤い一つ目でじっと見、不意に大きな手を伸ばすとニコラシカの頭を撫でた。思いがけず優しい手つきにニコラシカが目を丸くすると、ヨノワールは目をすがめて静かに頷き、ニコラシカの頭にそっとベレー帽を被せた。
 ずっとそばにいてくれたヨノワールと、その親だった言葉を交わしたこともない母に、「行っておいで」と言われたような気がした。



 それからおよそ一年、ニコラシカは単身飛び回った。訪れた先で短期のバイトをしつつ、父の手のものとおぼしき追っ手から隠れ、地方も越えて各地を転々とした。
 ガラルに飛び、パルデアで過ごし、空港からイッシュに行くふりをして電車で山を越え、そして今、ここカロス最大の街ミアレに到着したのだった。

 移動に明け暮れる生活の中、ポケモンを持つことも考えた。何かしら手持ちがいた方がバイトも見つけやすいし、護衛にもなる。何より、昔あの男と少しだけやり合ったときの痺れるような高揚感が忘れられずにいた。きっとあれこそが、人がポケモンバトルに惹かれる理由なのだろうと。
 しかし、いくら空のボールを手にしても、それを使うことがまだ出来なかった。あの一瞬心が揺らいでも、幼い頃から積み上げてきた価値観の呪縛は未だ強く、ポケモンを捕まえそばに置くことに後込みしてしまう。
 あと少し。あとほんの少しだけ、何か背中を押してくれるような、きっかけのようなものがあれば。密かにそんなことを思いつつ、彼女はひとり、ここまで旅を続けていた。


 何故この街に来てしまったのか、ニコラシカ自身にもはっきりとはわからない。パルデアからの列車の終着地点だったから何の気なしに選んだような、それとも、逃亡生活でじわじわと貯金もなくなる中、あの男に「困ったらおいで」と言われたのを思い出したからだろうか。いやしかしせっかく父の元から逃げ出してきたのに別のヤクザの手を借りるのははっきり言って本末転倒である。助けを請うつもりは欠片もない。
 パルデアで感じていた追っ手の気配はカロスに向かう前に撒けたはずだ。この街はあの男のシマだが、彼の組は父と友好関係といえども傘下ではない。即座に居場所がバレることはないと信じたいが、まあそもそも長居をするつもりもない。

 ここに来る前に予め短期のアパルトマンを契約しておいた。物価の高いミアレでは家賃も馬鹿みたいに高く、前払いした数ヶ月分の家賃のせいで財布の中はもうほぼ素寒貧だ。それでも寝る場所は確保できているので、この街で何でもいいから仕事を見つければ何とかやりくりできるだろう。次に行く場所が見つかるまで、どうにかこの街で生きていかねば――

 その時、スマホロトムの着信があった。出てみれば契約したアパルトマンの大家。あなた今日から入居の人よね? と早口のミアレ訛りで言ってくる。

「悪いんだけど、うちの地区が今朝ワイルドエリアに指定されちゃってね、基本立ち入り禁止になっちゃったからちょっと入居は無理だわ、ごめんなさいね」
「は? え……あの、家賃は……」
「こっちも生活があるからね、悪いんだけど」

 そのままブツッと乱暴に電話は切られた。ニコラシカはポカンと口を開けて真っ黒になった画面を見つめた。
 混乱しながら何とか頭を巡らせる。今財布の中はどうだった? 現金は何とかかき集めて一万ほどが限界だろう。この金額で、観光地のミアレで何泊出来るだろうか? せいぜい二泊出来ればいい方か。その短期間で仕事は見つかるか? 食事はどうする? 今更他の所に行く旅費はないか? あの男を頼る? いや、それは本当に最後の手段だ。しかしここから手の打ちようが果たしてあるだろうか?

「……どうしよう……」

 人々が行き交うミアレ駅の入り口前広場。ニコラシカは旅行鞄を片手に呆然と空を見上げた。




「……うわっ、すげぇイケメンいるじゃん!」

 ふと聞こえてきた明るい声。目線を向けるとそこにいたのは、年季の入ったジャケットを羽織った淡い赤色の髪の青年と、その足許からニコラシカを見上げる三匹のポケモンたち。
 青年は旅行鞄とか身長とか何やら言ったあと、スマホロトムを片手にはにかみ、弾んだ声を上げた。

「ちょっと協力してくれよ、本当にちょっとでいいから!」

 ――最後のきっかけと出会い、運命の歯車が音を立てて回り出す。