開演を知らせる、耳を突き刺すようなブザーの音で目を覚ます。
突然のことに驚いて飛び起きると、彼は辺りの異様な光景を目にした。
「ここは……舞台の、上?」
たった一人、ぽつんと置かれた暗闇で、青年は慎重に自身が伏せていた床に触れる。
スポットライトに照らされた、氷のように冷たい床。見慣れたそれは、仲間たちと様々な物語を紡いできた舞台の上だった。
「……僕は、いったい……」
目を覚ませば四方もわからぬ暗闇で、唯一ある光源は自身に注がれるスポットライトだけ。そんな状況に困惑していると、目の前にもう一つ、別のスポットライトが灯される。
『大丈夫、大丈夫よ。アーサル』
青年は目の前の光景に背筋を強ばらせた。もう一つの照明に照らされた場面は、この青年、アーサルの幼少期だった。
ミアレシティのとある一角。平凡なアパートの一室で、幼いアーサルは母に抱きしめられていた。この腕の中は、この頃のアーサルにとってどんな恐怖も和らぐ安全地帯だった。
『人に親切になりなさい。どんなことでも受け入れて、完璧にこなすの。……そうすれば、怖いことなんてなくなるのよ』
まるで自分自身に言い聞かせるように囁く母は、重ねた包帯が覗く手のひらで幼いアーサルのことを撫でていた。
『大丈夫……大丈夫よ』
苦しげに言葉を連ねる彼女の背に、懸命に小さな手を伸ばす少年。彼は母を安心させるように朗らかに笑う。
『うん。だいじょうぶだよ』
母親を傷付けるあんな男になりたくない。だから、彼女に信頼されるように、彼女の生き方を正しいものであると証明しないといけない。
そんな思いを背負った言葉で、目の前の照明は落とされた。
「……夢、か」
ハッとして、目の前の寸劇を見ていた青年のアーサルは、不可思議な現象にやっと確信を持った。試しに自身の手をつねると、全くと言っていいほど痛みが無い。それ以前に、体に触れている感覚も無い。
腕から手先、胴から足元。己が体を次々に触診していると、先程とは別の場所からスポットライトが灯る音が聞こえた。夢の主がここを『夢』だと理解しても、この演劇は終わらないらしい。ならば最後まで見るしかないのかと、ため息を吐いてそちらを振り向く。
『ごめんなさい。あなたはお留守番なの』
『ううん、大丈夫だよ。いい子でいるから、安心してね』
場面は代わり、アラベスクタウンの叔父の家。母は家庭で起きてしまった事件を境に、アーサルを遠く離れた叔父の元へと預けたのだ。
『……元気でいてね』
震えを堪えた声を残し、扉の向こうに消えてしまう母。先程よりも少し背が伸び、目に傷を負った少年は、被っていた笑顔を不安に歪ませた。
『ちゃんといい子で待ってなきゃ。帰ってきた時にうんざりされてしまうから』
縮こまる少年は、自身を落ち着かせるように抱きしめる。何度も何度も、『大丈夫』と魔法の言葉を呟きながら。
照明が落とされたばかりのその場所を、アーサルは寂しげに見つめていた。
「……結局、母さんは帰って来なかったな」
じくり、と胸を焦がす苦しさを思い出し、その場から目を逸らす。
そのタイミングを見計らったかのように、目線の先でまた寸劇が始まる。
『座長、あとで演技のコツ教えてもらってもいいですか!?』
『もちろんだとも。他にも教えてもらいたい子がいるのなら、呼んでおいで?』
『ねぇね座長さん。いまね、小道具の修理してるんだけど、人手が足らなくって……』
『おや、それは大変だ。すぐ手伝いに行くよ』
様々な団員たちに囲まれ、頼りにされているのは大人になったアーサルだった。アラベスクタウンでの修行を経た彼は移動演劇を立ち上げ、旅をしながら公演をする一座の座長になった。各地で公演を続ける度に仲間たちが増え、頼りにされる頻度も増していった。
疲労感はあるが、かけがえのない皆の笑顔を見られる。それはとても喜ばしい光栄な役目。
そうやって己を奮い立たせ、座長としての頼りがいある笑顔をしていると、唯一彼を咎める声が聞こえてくる。
『おい、無理してるだろ』
ぶっきらぼうな声の主は、アラベスクタウンで共に育った幼なじみ。クロムの声だった。
昔からの鋭い眼光で睨みつける彼は、唯一己の過去を知る者。強い語気の裏にある心配に気が付きながらも、アーサルは良心をわざと殺して嘘を吐いた。
『ううん、無理なんてしてないよ』
辞められない。自分は、常に優しい親切な人でないといけないから。
自分よりも遥かに優しい親友に、自分自身を責めながらいつものように微笑む。
『だから、倒れたんだよオマエ』
暗くなったばかりの舞台に放心していると、突然、アーサルの背後から不機嫌な声が聞こえた。聞き馴染んだ呼びかけに、彼はすぐに振り返る。
真後ろで舞台衣装を着たクロムが座り込み、こちらを睨めつけていた。見上げられているはずなのに威圧感を感じる鋭い視線。アーサルは気後れして、少し後ずさった。
『地方公演最後の舞台だってのに、幕引きピッタリでぶっ倒れやがって……』
このザマをカッコイイとでも? と鼻で笑って、クロムは自身の手を広げる。見れば、彼の膝を枕にして糸が切れた人形ように眠る自分がいた。
その光景に、アーサルはここで目を覚ます前の出来事を思い出した。幕が降り、カーテンコールが響く中、仲間たちに振り向こうとした瞬間、精神的なストレスでくらりと視界が暗転したのだ。意識を失う前に目にしたのは、こちらに手を伸ばす親友の姿だった事も、今では容易に思い出せる。
『もう勝手にしろ』
倒れて眠る自身を持ち上げ、クロムは大股で歩いて行く。背後のアーサルに振り返りもせず、そのままスポットライトの外へと姿を消してしまった。
残されたアーサルは我に返って追いかけようとするも、スポットライトの下からは出られなかった。透明な壁に阻まれているような、それとも脳に停止信号を指示されているような。言葉にできない制限に、彼はついに諦めて俯く。
「……はは、ダメだなぁ僕は」
静かに嘲笑うスポットライトは、哀れに崩れ落ちた人間を照らしている。
もっと早くから、自分は『いい子』を辞めればよかったのだろうか。けれども、それは母の生き方を否定しているという事になる。ずっと守り続けたこの言葉を捨てれば、自分は楽になるかもしれないと、何度も悩んでいた。しかし、周りの笑顔を見る度に、その笑顔を拒否してはいけないというプレッシャーがアーサルを囲んでいった。
絶対的ないい人でなければ、存在する価値がない。
人を助ける喜びを感じなくなり、いつの間にかそうやって自分を脅迫していた。何度も投げ出したくなる自分を、押し殺して来た。
しかし今日、自分は周りに迷惑をかけてしまった。彼女の言葉を守ってきたのに、自分が不甲斐ないせいで全てが台無し。母の生き方の証明も、皆で作り上げた舞台も、全部が自分一人のせいで無駄になった。
「……ごめんなさい」
その掠れた独り言に返事はない。それはただ、暗闇に溶けて無になるだけだった。
「その謝罪はなんのため?」
その声は、崩れ落ちた彼の正面から聞こえた。力無く見上げれば、そこには眉をひそめたアーサル自身がいた。もう一人の彼にはスポットライトが照らされていない。一つしかない明かりの仄かな反射で、その姿を朧気に映している。
「謝って何か起きると思ったの? どうにかしたいと、そう心から動かないとなにも始まらないよ」
もう一人のアーサルは、サッと正面から退いた。すると目の前に母が消えていった玄関扉が現れた。幾分か距離のあるそれは、暗闇の中に無機質に置かれている。
「きみは、どうしたいの?」
冷たく見下ろされながらも、アーサルは考えた。けれども、考えても考えても、ハッキリとした答えは思い付かない。
「……母さんの生き方を否定したくない。けど、皆と心から笑って演劇をしていきたい。でも、いい人でいないと母さんを悲しませてしまう。どちらも裏切ることなんて、できない……そんな事したくない……」
脳内に浮かぶ言葉をか細く零していく。そんな彼を、もう一人のアーサルは呆れたように見つめていた。しばらくの沈黙の後、明かりの外いる彼はしゃがんで目線を合わせる。
「その教えは、母さんを励ましたくて守ってるんでしょう? なら、母さんの今を見れば、もういいんだって思えるんじゃないの?」
もう一人のアーサルは扉の方へと目線を向ける。あの日、母が姿を消してしまった扉に。
スポットライトの下にいるアーサルはその言葉に、自身の本音らしき感情に気付いた。
「……僕は、母さんに会いたいの……?」
そう呟いた瞬間、暗闇の中にいた自分に手を引かれ、同時に立場が入れ替わった。透明な壁なんて元から無かったかのように、すんなりと移動してしまえた。
「俺はここにいる。今ならオマエのやりたい事ができるだろう」
スポットライトの下に移動したアーサルは、その注目を全身に浴び。光の外側……誰も注目を向けていない自分に向かって告げた。
「えっ、でも……」
「いいから」
行け、と自分とは程遠い無言の圧力を感じ、影にいる彼は扉に向かう。近くでも遠くでもない距離だというのに、辿り着くのには時間がかかった。
「ありがとう僕……いや、きみは僕じゃないよね?」
後ろを振り向き、自分よりも堂々とした立ち振る舞いをする彼を見る。彼はフンと鼻を鳴らすと、顔を背けてしまった。
「勇気をくれて、ありがとう」
見覚えのある仕草に正体が誰なのか分かってしまったが敢えて言及はせず、アーサルは決意を固めて扉を開けた。扉から漏れ出る光に目を焼かれ、視界が真っ白になった瞬間。自身の体に現実味を帯びた重みを感じた。
「起きたか、寝坊助」
真っ白な天井と、優しい桃色の煙。そして不機嫌そうな親友の顔が目に映る。
「……おはよう、クロム。それからムシャーナも」
ベッド近くにいるムシャーナは、返事の代わりにくゆりと煙を揺らすが、主人のクロムは全く反応を示してくれない。彼の目線は手元に注がれていて、オボンの実の皮剥きに集中しているようだった。
アーサルは、ムシャーナがふわりと浮かしてくれた丸メガネを手に取り、ピントの合った世界を見回す。
清潔なシーツに花瓶を彩る数本の花、レースのカーテンから零れる橙の日差しが、空間に平行線を作っている。心が落ち着くこの部屋は、どこかの病室だなのだと理解すると、アーサルは二人に向けて頭を下げた。
「ありがとうね。二人とも」
「は? 一体なんのことだ」
寝すぎて頭でもわいたか? とクロムは顔を顰めているが、ムシャーナは嬉しそうに擦り寄って来る。先程の夢は、彼女たちが見させてくれた背中を押す為の応援だったのだろう。主人と違って素直な性格のムシャーナの頭を、アーサルは喜んで撫で続けた。
「変な夢でも見たんなら、それは俺じゃなくソイツがやった事だ。俺は関係ない」
そうは言いつつ、ぶっきらぼうな彼は切り分けたオボンの実をアーサルに渡した。こうやって、相手の気を逸らせようとする素直じゃない行動に、アーサルはいつも通りの穏やかさを感じて笑顔になる。
「なら、僕の勘違いでもいいよ。それでも感謝を伝えておきたいから」
僕として、僕に勇気を与えてくれてありがとう。
アーサルの自分勝手を忠告し、夢の中でアーサルとして背中を押してくれた親友に、真っ直ぐな感謝の言葉を再び告げる。クロムは腕を組んでそっぽを向いてしまったが、髪から覗く耳の先は、ほんのりと赤色に染まっていた。
「オマエにはしばらく長期休暇を命じる。これは副団長命令だ。今後こういった事をしないよう、母さんにこっぴどく怒られて来い」
コホンと咳払いをした言葉には重々しい雰囲気が乗っていたが、優しさと気遣いが隠れていた。そうでなければ、劇団の座長を一人旅に立たせるなんてことを、仲間たちの意見を無視して実行させることはできないからだ。
「僕がいなくても、きみたちなら大丈夫だね」
自身が倒れている間、きっと一様に話し合ってくれたであろう光景を思い、アーサルは感慨深さから目を伏せる。
「大丈夫なワケないだろ……」
とても小さく告げられた本音に顔を上げるも、口をへの字にした不機嫌顔で睨まれてしまった。言及しようと口を開きかけると、仲間たちであろう足音が徐々に近付いているのに気付く。いつ仲間たちに連絡をしたのかは分からない。タイミングの良い彼らの到来は、きっと賢いクロムが上手く引き寄せたものなのだ。
「周りはきみが優しい人だと知っているのに、どうして隠してしまうんだい?」
愉快な仲間たちが来る前に、彼の素直な言葉を聞きたいと思った。すると、彼はニヤリと笑って告げた。
「優しすぎるヤツなんてオマエだけで充分だろ? 俺だけは厳しくないと、劇団が緩んじまうからな」
だから『大丈夫なワケがない』と言ってくれたんだ……と、心が温められる感覚にアーサルは思わず笑みを浮かべた。しかし、クロムはそのにやけ顔に軽いデコピンを食らわせる。
「せいぜい騒がしいお仲間に泣きつかれろよ、優しい座長さん?」
意味深な言葉を残し、クロムは椅子ごと横にズレた。瞬間、彼の背後に隠れて見えていなかった仲間たちが、病室の扉を開け放ってこちらに突進して来ていた。
心配で泣いている顔、少し怒ったような顔、安心して微笑んでいる顔。様々に心配する彼らに、アーサルは困ったように笑って、来たる衝撃を受け止めたのだった。
『お前の母親はミアレに居る』
アーサルは、遠い昔に叔父から聞いた言葉を思い出す。自分の母親の情報はこれだけしか残っていない。それだけを手がかりに仲間たちに見送られ、彼はゆったりと電車に揺られていた。
叔父から貰ったアンティークなカバンとトレンチコートは、彼の旅を彩るお気に入り。座っていた際に出来てしまったシワを優しく伸ばして、車内アナウンスに従って電車を降りる支度を始める。
パッと開いた扉からホームへ一歩踏み出せば、どこか懐かしい匂いが風に乗って彼を迎えていた。幼い頃の記憶が微かに蘇り、もしかしたら本当に会えるかも知れないと期待を膨らませる。
「……やっぱり、人間の発展とは早いものだね」
改札を出れば、昔の面影はあるものの、全く新しい街となったミアレシティが顔を見せていた。唯一、変わらぬ佇まいでシティを見守っているのは、白く輝くプリズムタワー。懐かしさと真新しさの融合に、彼は感嘆とため息を零す。この和やかな雰囲気に、良い息抜きにもなりそうだと予感した。その時。
「いたッ!」
ふと、元気な声が近くからあげられアーサルは僅かに体を揺らす。そちらを見れば、声色のイメージ通り活発そうな少女と目が合う。彼女はグラデーションの髪を揺らしながら、アーサルのカバンを指さした。
「駅から出てきたそこのあなた! その大きな旅行カバン……観光客でしょ?」
「えぇ、そうですが……」
「よかった~! 違ったらメンタルブレイクしてたよ」
少し戸惑い気味なアーサルを置いて、彼女は自分のペースで話し続ける。
「観光客のあなたに、ちょっとお願いしたいことがあってさ! あたしが撮影するから『ホテルZ最高!』って言ってみて」
「ホテル……? もしや、なにか動画の制作されているのですか?」
流石にこのまま流されてはいけないと思い、アーサルは抵抗するように問いかける。彼女の言葉を察するに、何かしらの動画を撮ろうとしているのだろうと勘付いたのだ。しかし、それは違う意味に聞こえたらしく、少女は途端に目を輝かせた。
「えっ! もしかして知ってる!?」
「あ、いえ知りま……」
ポジティブ思考な彼女に、あらぬ誤解を解くよう口を紡ごうとするが、くるりと体を回されほぼ強制的に肩を掴まれてしまった。案外力の強いそれは、何を言っても無駄なのだなという強い意志の表れで、アーサルはつい苦笑いをしてしまう。
「まさか宣伝動画を見てくれてるとは! これはもう運命だし、撮影の協力よろしくね!」
撮影したいポジションがあるのか、そのままアーサルの背中を押して歩く彼女。楽しげな声はハツラツと跳ねていて、この快晴のように清々しかった。悪気のない純粋な言葉と、足元を歩くどこかで見た事のある三匹のポケモン。穏やかに賑わう街並みに釣られて『これも旅の醍醐味なのかも』と、アーサルは心が軽くなる。
『こんなに平和な街なんだ。きっと、母さんは元気にしてる』
彼に残っていた心の重みは、この出会いによって少なからず些細なものとなった。街を歩む彼を優しく包むように、ミアレのそよ風が彼の帰省を喜んでいた。