カロス空港からミアレ駅へ向かう列車に揺られる。
車窓を流れていく景色は移ろうばかりで、おれの思考まで連れていくほどの力はない。目は外を見ていても、頭の中に浮かぶのはあの男のことばかりだった。
死にかけていた孤児のおれに裏社会の空気を教えてくれた。おれにとって、生まれて初めての家族だった。
瞼を閉じる。
暗闇の内側に、黄金に輝く光の粒のような記憶が浮かびあがる。映画のフィルムを一本ずつ引き出すように、過去が勝手に再生を始めた。
○
夜のタマムシシティは、表と裏で違う呼吸をしていた。大学やデパートなど沢山の人が行き交う大都会の顔と、ロケット団が牛耳る裏社会の顔があった。そして、どちらからもはみ出た路地裏のスラム――。
物心ついた頃からスラムで生きていたおれは、親の顔も覚えちゃいなかった。周りも同じだ。孤児たちはおれも含めて、誰もが盗みで腹を満たし、残飯を奪い合い、日光の当たらない街の隙間で、虫けらみたいに息だけ繋いできた。
――だが、ロケット団が崩壊し、残党が裏路地へ流れ込んだ日から、すべてが変わった。
おれたちの小さな弱肉強食なんざ、クソみたいなものだった。カタギから盗んだ物は、奴らに奪われた。命がけで漁った残飯すら持っていかれる。逆らえば殴られ、度が過ぎれば殺される。裏路地に生きるガキは徒党を組むこともできず、自分の喉笛だけ守るのに必死だった。
だが、連中は違う。組織という檻にいた過去が、そのまま群れの力になっていた。大人とガキという差も、残酷なほど歴然だ。おれたちが敵う相手じゃない。
――だからあの日、おれは死にかけていた。
数人に囲まれ、拳と靴で刻まれ、ズバットに頬を裂かれ、コラッタに脛を噛まれ――転がされた先で降り出した雨が、容赦なくおれを洗い流す。血の色はすぐに薄まり、やがて雨水に溶けていく。
――そうか。こんなふうに、おれは消えていくんだ。誰にも惜しまれず、誰にも気づかれず。タマムシの排水溝に吸われるゴミと同じ運命ってわけだ。
そう思った矢先だった。
「ガキひとりに恥ずかしくないのか?」
その声は低く、静かに響いた。
おれとロケット団の残党どもの間に割って入ったのは、ポケモンも持たない丸腰の男だった。
たった一人で来た男を見て、連中は鼻で笑ったが、次の瞬間にはその笑いは砕けていた。
飛び掛かるズバットの顎を、ポケモンを持たない男はその顎で砕いた。今度はコラッタが脚へ噛みつく。男はそのまま引きはがし、片手で地面に叩きつけた。鈍い音とともにポケモンたちは路地裏に転がった。心無しか、男の拳は輝いて見えた。
「ロケット団も落ちぶれたもんだな」
男が吐き捨てるように言った途端、ロケット団の残党どもはタランチュラの子供みたいに霧散した。
雨だけが残った路地裏で、男はおれに視線を落とした。
「立てるか?」
差し伸べられた手は、大人のものだった。だがカタギのぬるさは一滴もない。かといって、ロケット団の残党みたいな腐った匂いもしない。
ただ、荒事を熟知した者だけが持つ、重く静かな気配があった。
「あんた……誰だ? 何でおれに……」
「お前の目が知ってるヤツによく似ててな。そんな目されちゃ放っておけねえだろ」
男は何も聞かなかった。おれがどこで生まれ、どう生き、どれほど惨めな路地裏のガキだったか――そんな背景に興味はねえ、とでも言うように。
「腹、減ってるだろ。ついて来い」
救いとか正義とか、そんなしょうもない名札をぶら下げた救助劇じゃない。男はただ、自分の判断一つで、おれを拾った。それだけだった。
「俺は運び屋のグラントリーだ。まあ、グラと呼んでくれりゃいい」
グラは薄く笑った。その笑みは、雨より冷たく、しかしどこか優しかった。その瞬間、おれの中の何かが震えた。
連れて行かれたのは、タマムシの路地裏にあるスラムのさらに奥、誰も好んで立ち寄らない、息をするだけで肺が煤けそうな場所だった。
グラは慣れた足取りで、鉄扉を開ける。
「ここを寝ぐらにしてる。好きに使え」
薄暗い部屋だった。床は硬く、湿気は骨に染み、電球は光ったり消えたりしている。
だが、外の路地裏よりはずっとましだった。おれは初めて、落ち着くという感覚を知った。
グラは無駄なことは言わない。ただ、最低限の食い物を並べ、黙って座った。
「あんたは、何を、その……運ぶんだ?」
恐る恐る聞いた。聞くべきじゃないと分かっていながら、どうしても気になった。あの強さと眼光を持つ男が、ただの荷物屋のはずがない。
「……知れば後戻りできなくなる」
低く、冷たい声音だった。
「戻る過去もないんだ、おれには――」
堰を切ったように感情が溢れ出した。あんなクソみたいな生活には戻りたくなかった。
「――そうか。なら、次から一緒に仕事しろ。運んでるブツが何かなんてそのうち分かる」
グラは、おれの言葉を最後まで聞かなかった。雨の路地裏でほとんど死体だったおれに訪れた転機だった。裏社会のどんな危険な橋でも渡ってやる。そして、もう二度とあんなくそったれた汚い路地裏に戻るものか。
「とにかく食ったら寝ろ。この世界、体力が資本であり基本だ。明け方から動き出すぞ」
そう言って、グラは横になった。おれも真似して冷たい床に横になる。
その夜、グラは寝つきが悪いらしく、何度も姿勢を変え、天井を睨むように見つめていた。眠れぬまま、その横顔を盗み見て気づいた。
あの男は――闇の匂いを身にまとっているのに、どこか哀しげだった。ただのアウトローじゃない。何か大きな傷を抱えながら、それでも歩き続けている男。
だからこそ、おれはグラに惹かれたのかもしれない。
闇に呑まれた者同士、互いの輪郭が少しだけ見えた。そんな夜だった。
○
おれの最初の仕事は、タマムシの裏路地での受け渡しだった。
そこはいつだって油の酸っぱさと湿った煙草の臭いが漂っている。人が腐る匂いだ。
孤児として泥水みたいな日々を過ごしてきたおれが、グラに拾われ、初めて運び屋として動いたのは、そんな矮小で、鬱屈した路地の奥だった。
「こいつを運べ」
グラは鈍く輝く銀色のアタッシュケースをおれに押し付けた。慌てて受け取ると、結構な重みがある。
「中のモノは知らなくていい。しくじった時の被害が少なくて済むからな」
「しくじったら……?」
「しくじらなければいい」
しくじったら自分の命で責任を取れと言わんばかりのグラの態度に、おれはいよいよ後戻り出来ない裏社会に来てしまったことを否が応でも実感した。
「なあ、本当に……渡すだけでいいんだよな?」
「ああ。渡すだけで終わりだ。ただし──落とすなよ。落としたら……」
言いかけて、グラは口を閉ざした。その沈黙が、妙に重かった。
おれは喉をひきつらせた。
「落としたら……どうなる?」
「――落とさなければいい。それで十分だ。運ぶこと以外考えるな。取引相手に渡したらすぐ戻れ」
暗黙の圧力に押され、おれは黙ってうなずく。
アタッシュケースを抱え、裏路地のさらに奥、人目のない地点へと歩いた。
現れたのは、鋼で固めたような筋肉に迷彩服を着込んだ男だった。この国の人種ではない、金髪の白人だ。
「……ヘイ、イエローモンキー! ユーが運び屋?」
「あ、ああ……これだ」
ケースを差し出すと、男の目が細くなる。周囲を確認し、そっと蓋を開けた。
――その瞬間、わずかに笑った。
ほんの一瞬。
だが、その笑みは、どす黒い欲望を映していた。
おれは背筋に冷水を浴びたような感覚を覚えた。中身を知らずとも、これが普通じゃない代物だという確信だけが胸を占めた。
金髪は去り、初仕事は成功した。グラにも褒められ、裏稼業の一員になれたのだと、その時のおれはただ高揚感に満たされていた。
あの頃のタマムシは、ロケット団の壊滅によって秩序を失っていた。
正義面したどこかの英雄が“悪”を叩き潰した結果、残ったのはチンピラ崩れのクズ共だけ。独りで路地裏を這っていたおれらみたいなガキには地獄の時代だった。
だから、おれは幸運だと思った。拾ってくれるアウトローに巡り会えたのだから。
〇
グラとブツを運ぶようになってしばらく経つ。ロケット団も壊滅して久しく、そんな過去の名を口にする者も居なくなっていた。
相変わらず、ブツの正体は教えてもらえなかったし、おれも聞かなかった。受け止めるだけの覚悟もまだ無い。グラがその時が来たと判断するまで、自分からは聞かないつもりだった。
タマムシ銀行前。人で溢れた夕暮れ。
誰にも気づかれず、ひっそりと崩れ落ちている男がいた。ボロボロの黒服には、汚れたマークが刺繍されていた。かろうじて、アルファベットの“R”と読み取れる。
おれが気にするより先に、グラはそばに行った。
「顔色ひどいな」
グラは人の流れの切れ目を見計らい、男をビル影に引きずり込む。そこで何やらこそこそと話し始めた。
「大丈夫か?」
「もう……金がないんだ……」
男の目は虚ろだった。
「なら、こいつだな……元ロケット団員なら当然知ってるだろ?」
まるで禁制品の取引だ。仕事でもないのに、グラはいつも忍ばせているブツを懐から取り出し、目にも見えない速さで男に押し付けた。
「金に替えりゃ、しばらくは保つだろ」
「こ、これは……しかし……」
「金にかえるのが惜しけりゃ、眺めるなり舐めるなり、好きに使えよ。とぶぞ……嫌なことも忘れられるぜ……」
「ほ、ほんとに貰っていいのか?」
男は受け取った物を見て、驚愕している様子だった。何かの罠で、生命を奪われるとでも思っているのかもしれない。
「行け、俺の気の変わらないうちにな……」
男はグラに何度も礼を言うと、路地の奥へと逃げるように走り去って行った。
人が来ないように表通りを見張っていたおれだったが、男が逃げるのを見て思わず叫んでしまった。
「何やってんだよ! あいつ、元ロケット団だろ!? しかも仕事以外で渡すなんてどうかしてるんじゃないのか!?」
グラがブツを簡単に渡したことに、おれはひどく腹が立った。
「相手が誰かなんて関係ねえさ。困ってただろ? だったら、助けるだろ。困った奴がいれば渡す。困ってなくても渡す。それに、金の話じゃねえよ。これは矜持だ……代々、俺たちナナシマの一族がやってきたことだ。正義とも言える。誰かがやる必要がある」
馴染みない土地の名が出て来た。しかし、深追いはしない。
「正義? グラは世界でも救う気なのかよ」
思わず鼻で笑うと、グラはひどく真面目な顔してほくそ笑んだ。
「そうさ。俺の行動が、世界を救うんだ」
「ばかばかしい」
おれは呆れたが、同時に、少しだけ誇らしかった。
「馬鹿馬鹿しいだろ」
グラはそう言って笑った。つられて、おれも笑った。
「……けど、なんかいいな、そんな生き方」
グラは一瞬呆気に取られたような顔を見せたが、とんだ馬鹿野郎だとおれを見て笑った。
おれも笑っちゃいたが、馬鹿だなんて思わなかった。路地裏で泥水を啜って生きてきたおれもまた、そんな馬鹿馬鹿しさに救われた一人だったから。
帰りながら、グラは珍しく語った。
「俺には双子の弟が居たんだ。筋肉馬鹿の俺とは違って、知性的で冷静で、ポケモンを使わせても強くてな。俺たち双子はよ。昔はそこらじゃ一目置かれてたんだぜ。ロケット団にも勧誘されてよ……」
そこでグラは首を振った。
「ロケット団にいたのか?」
「……ああ。だが間違いだった。あの頃の俺たちは社会のお荷物だったから……ロケット団は俺たちの生きる場所だと思っちまったんだ。実際は単なる使い捨ての駒だ……」
今は無きロケット団。そこにグラたち兄弟は居た。
グラは膝の上で手を握った。
「弟は……出先のガラルで死んだ。遺体は見つからなかったが、ロケット団の任務なんて、大体そんなもんだ」
そして、黙る。
「お前を最初に拾った時、まるであの頃の俺たちを見ているようで放っておけなかったんだ。お前の目が、弟にそっくりでよ。最初はただ助けて終わりのつもりだった。だけどな。お前は気づきゃ家族になってたよ、俺の中でな」
おれは、思わずふっと笑みをこぼした。
「おれの中でもだよ。グラ」
しばらく二人して笑っていたが、やがておれは呼吸を整え、真顔に戻した。空気が一瞬で冷えた気がする。
「グラがどんな顔で、どんな想いで、どんな“誇り”であれを運んでるか……ガキのおれにもちゃんと伝わってきてた。だから、その重みに触れちゃいけないんだって……おれも聞かなかった。でも今は違う」
夜のタマムシが遠くでざわつく。
ネオンの光が階段の鉄骨をゆっくり舐めていく。
「──教えてくれ。運んでいるものが何なのか。そして、俺も本当の意味であんたの家族にしてくれ。家族に隠し事は無しだろ?」
視線を交わす。
重たい沈黙が、ふたりの間に落ちた。
「中身か――」
グラは、敗北したように、誇らしげに、静かに笑った。
「次の仕事で教えてやる。俺の運んできたものが何なのか。その意味を……」
おれはついにこの日が来た事に、胸が高鳴り、心臓は破裂しそうだった。
「これから俺は世界を相手にする。まずは、ここカントー。そして、シンオウ、イッシュ……いずれ世界の全てに手を出す。覚悟しろ。俺は目的の為なら手段は選ばない。お前もそうしなきゃならなくなる。いいか、ここからはもう後戻り出来ねえ。それでも着いてくる覚悟があるなら……来い」
おれは悩むことなく頷いた。どんなに危険だろうが、命を落とすことがあったとしても、おれは行くつもりだった。
グラの居る世界こそが、おれの生きる場所だったから。
○
グラはトキワシティの民家に住まう住人のフリをしていた。
「昔はよくここを、拠点に活動したもんだ」
トキワジムはかつて、サカキというロケット団のボスがジムリーダーとして溶け込み、暗躍していた。グラもトキワシティを拠点に、新たな団員の勧誘や、例のブツの密輸などの活動をしていたのだという。
「しばらく、お前はただ俺の仕事を見てろ。言ったが、手段は選ばねえ。無害なオッサンを演じ、獲物が掛かるのを待つ。前も、何人かこの手口でヤッた」
そう言われて、おれは思わず息を飲んだ。
女子供だろうが関係ない、グラはそんな目をしていた。
その後、おれは民家の外からマイクから音声を拾い、グラの働きを「ただ観察しろ。そして何があっても介入するな」と、きつく指示された。
――プロの仕事。
おれがグラと一緒の時はおれにブツを運ばせ、それ以外は、グラは一人で仕事に行く。だから、おれは今までグラがその手を汚すのを一度だって見たことはなかった。
そのときだ。一人の少女が民家へ入っていく。おれは外の窓から中を伺った。
グラは笑みを浮かべ、ポケットにそっと手を入れる。年端もいかない少女だろうと関係ない、獲物を狩る獰猛な獣の目をしていた。
そして――少女に何やら黄金色の球体を押しつけた。
「それは、おじさんのきんのたま! おじさんの、きんのたまだからね!」
きんのたまを押しつけられた少女は悲鳴をあげ、慌てて逃げ出した。きんのたまを持ったまま。
グラが渡していたものは、きんのたまだった。それからも誰かが民家に入る度、老若男女それが誰であれ、等しくグラは、きんのたまを押し付けた。華麗な、プロの手口だった。
そんなサイクルを何日も続け、ある日グラは、「そろそろサツが嗅ぎつける。ここは潮時だ」と言った。
おれは、グラの一連の行動の理由を何も聞けなかった。グラも、「しばらくは黙って俺の仕事を見ていろ」と言った。
○
次はカントーのナナシマ。グラの故郷に向かった。しかし、やることは同じだ。
「それは、おじさんのきんのたま! おじさんの、きんのたまだからね!」
きんのたまを押しつける姿はただの変態だった。しかも、その後、ダウジングマシンで見つけられるように、なぜか“きんのたま”を埋めていた。
「なぜ、きんのたまを埋めたんだ?」
「……俺が埋めたのは、きんのたまじゃない。誇りだ。誰かがきっと、俺たちの誇りを受け継ぐだろう」
グラは自嘲的に笑った。
おれは、それからもグラの仕事を観察させられ続けた。見て覚えろということらしい。グラに連れられて世界の至るところに行った。
あるときは、シンオウ地方。
「探したかい? 待ちかねたかい? きんのたまおじさんだよ」
通りがかった少年に話しかける様子は、相変わらず変態だった。
「君にこれをあげちゃうよ。おじさんのきんのたまだからね。有効に活用してくれよ」
もうどうしようもなかった。
しかし、グラはこれに飽き足らなかった。次のターゲットに対しては、きんのたまを二つ用意した。そう、何かを暗示するかのように“二つ”だ。
通りかかったミニスカートの少女の前に、突然、姿を現したグラ。
「探したかい? 待ちかねたかい? きんのたまおじさんだよ」
唖然とする少女に向けて、グラは満面の笑みを浮かべる。
「特別にもう一個あげよう。だって、きんのたまだからね!」
変態以外の何者でもなかった。
しかし、グラはひと仕事を終えた後、遠くを見つめるように口にした。
「あの少年は、そして少女は神を相手に立ち振る舞い、いずれ世界を救う」
どこか遠い目をして言った。その話が事実に変わったのは、それから間もなくのことだった。グラが見ていたのは光り輝く未来だった。まるで、きんのたまのような。
あるときは、ホウエン地方だった。
キンセツシティの屋上を歩く少年に、平静を装い近づくグラ。すれ違い様に、口角をあげる。
「はいっ。手を出してね!」
唐突に声をかけられた少年は、反射的に手を出してしまう。それこそが、グラの手口だった。
「……あー! 手に持っちゃった! それじゃ、それは今から君のものだね! いやー、よかったね!」
無論、きんのたまである。そして、得意の台詞を吐く。
「それは、おじさんのきんのたま! 有効に活用してくれ! おじさんのきんのたまだからね!」
少年はその後、大地と海の化身と呼ばれる二対の神話の存在をいさめ、世界を救った。
「グラ……あんた、あの子がホウエンの危機を救うって分かってて――」
「馬鹿野郎。俺は何も考えちゃいねえよ。男ってのは馬鹿なもんなんだ。頭よりも先に、きんのたまで考えちまう。そういう生き物なんだよ」
間接的にホウエンの危機を救ったグラは、しかしまだ遠くを見据えていた。その手には、きんのたまが握られている。
最後はアローラ地方だった。
赤いポロシャツに、白のハーフパンツを履き、常夏の国にふさわしい格好でグラは乗船所に居た。
少女を見かけると、南国らしく人懐こい口調で話しかける。
「いやー、長旅を経て、やっとこさアローラに着きました! 最初に出会えたトレーナーさん。記念にこれをどうぞ!」
そして、その後に決めゼリフ。
「それはおじさんの、きんのたま! 有効に活用してくれ! おじさんのきんのたまだからね!」
グラは道化を演じながら、大胆かつ巧妙に、しかし計算高く、きんのたまを人々に渡し続けた。雨の日も風の日も嵐の日も休むことなく。何がグラを突き動かしているのか――誰にも分からなかった。
「きんのたまは何かって? ……さあな。俺には俺のきんのたまがある。お前にもあるだろ、大切なきんのたまがよ」
上手くはぐらかされたようにも思う。ただ、きんのたまだけがすべて知っているかのように、微かに震えたように感じた。
○
「お前に教えることはもうない」
急にそう言いだしたものだから、おれは驚いた。まだ、ろくに何も教えてもらっちゃいない。
「分からない、という顔をしているな。そうだな、俺にも分からない。だが言える事はある。俺はそうするように導かれているんだ。大いなる何か……理解の範疇を遥かに超えた、言うなれば、“黄金の意志”に俺たちは導かれ、こうして運び、ただひたすらに渡している」
「黄金の……意志?」
しばし静寂があたりを包み込んだ。
「――俺はガラルに行く。お前はお前の道を進め」
そう言うとグラはおれの目の前に握りこぶしを出す。そして、くるっと回すと指を開いた。黄金の輝きがそこにあった。
「綺麗だろう。ナナシマは黄金の石の採れる豊かな地だった。それに目をつけ乱獲し、ナナシマを牛耳ったのがロケット団の奴らだ。しかし、今や奴らは居ない。有り余ったロケット団の資産を、死にそうな貧しい奴や、今はまだ若い未来の英雄に……俺たちナナシマの黄金の意志を継ぐ者が配り続ける。そうすりゃ世界は、今よりちっとはマシになるだろうよ」
そして、グラはアローラにいた時の赤のポロシャツ、白のハーフパンツの姿のまま、何やら頭に妙なモンスターボールを模した被り物を被った。
出来上がったのは、ガラルのマスコットキャラ、ボールガイだった。様々なイベントに出没し、ボールを配り歩いているマスコットだ。
「俺はガラルに行く。すでに基盤は出来上がった。驚くなよ。俺がこれからヤるのは相当でかいヤマだ……ブラックナイト事件の後、マクロコスモス社の社内事情も混乱したままで、リーグ体制も変わり安定していない。今なら国ごと乗っ取ることだって出来るだろう」
そう言うとグラは少し呼吸を置く。おれは思わず生唾を呑んだ。
「グラ、今度は一体何をやる気なんだよ
……?」
「今向こうにいるボールガイの中身は、俺の息のかかった奴だ。今は、モンスターボールやハイパーボールなんかに紛れさせ、きんのたまをさりげなく配っている。しかし……これからトレーナーの奴らは、ボールなんて貰えない。ボールガイが渡すのは、全てきんのたまだ」
「な、なんてことを考えつくんだ……」
俺はそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。グラという男の底知れぬ野望を感じたからだ。
グラは常に何手も先を見据えている。これまでも、そして、これからも。
「ここからは、俺の仕事だ。お前はお前のやり方でやれ――お前の仕事をな」
そう言って、グラはおれの手にずっしりとした重みのある球体を握らせる。
「重いか? その重さこそが、おれたちナナシマの一族が引き継いできた“思い”だ。黄金の意志――その重みに潰されるなよ」
おれは何も返さなかった。言葉は要らなかった。
グラは、おれのもとを去って行った。同時にそれは、初めて一人前と認められたことを意味する。
だったら、おれはおれのやり方で、おれの道を行くだけだった。
○
初めての仕事の場にカロスを選んだのは、グラが向かったガラルに歴史的に因縁のある地だったからだ。それ以外に特に理由は無かった。
おれは、グラから譲り受けたブツを、旅行カバンに潜ませ、今こうしてカロス地方を走る列車に乗っている。
窓の外の景色に、やがて、ミアレシティのシンボルであるスカイタワーが見えてくる。
「当列車はまもなくミアレ駅に到着します」
アナウンスが流れ、列車が停車する。
改札を抜け、駅を出ると、美しい街並みが広がった。裏社会で生きてきた癖で、周囲の会話は自然と耳に入る。
「準備OK! あなたたちもまた動画にでてもらうし」
何やら少女が、三体のポケモンに話しかけている。
「今回のミッションはメンバー集めだからね。ホテルZを宣伝して集まった客の中からよさそうな人をスカウトするし……いい感じの観光客いないかな」
言いながら少女は周囲を見渡す。
「いたッ」
そう叫ぶと、少女はおれの方に向かってくる。
「駅からでてきたそこのあなた! しかもその大きな旅行カバン。観光客でしょ?」
入っているのは大量のきんのたまだったが、咄嗟のことに、おれは観光客を装うほかなかった。
「よかった! 違ってたらメンタルブレイクしてたよ。身長もあたしと同じくらい……この方が並んだときの見栄えもいいし、観光客のあなたにちょっと協力してほしいことがあるんだけど」
無言て頷くだけのおれを気にした様子もなく、勝手に少女は話を進めていく。疑うことを知らないその少女の笑顔は、日陰者のおれには、きんのたまのように眩しすぎた。
「あたしが撮影するから、ホテルZ最高って言ってみて」
撮影と聞き、タマムシの暗部で生きてきたおれは思わず躊躇してしまう。
「大丈夫! 宣伝してくれたらどのホテルに泊まってもいいし。じゃあ撮影するよ!」
しかし、少女はそれを照れていると感じたのか無邪気にフォローする。瞬間、ビルの巨大ディスプレイがちょうど映像へと切り替わり、人々の視線が流れる。
悪くない――いや、できすぎなくらいの瞬間だ。グラなら、この隙にあっさりブツを押し付けたはずだ。だが、おれにはまだグラのような切れ味も胆力もない。
――お前はお前のやり方でやれ。
その言葉が、一筋の黄金の煌めきのように脳裏をかすめる。
おれは、きんのたまの運び屋だと悟られることなく、少しずつ信用を積み上げる。油断し切ったその瞬間に、そっと“それ”を託す。きれいに、静かに、確実に。
卑怯と笑われようがいい。
おれには、おれのやり方がある。おれにだって――ナナシマの黄金の意思が受け継がれている。
ネオンが瞬き、少女の横顔を淡く黄金色に染めた。
おれの“きんのたま”は、わずかに重さを増した気がした。