なぎさの母親について
上映中ひとつだけ気になっていたのが、なぎさが母親を一貫して「名前」で呼んでいたことなんですね。肝心の名前を忘れてしまったので、ここから便宜上「××さん」と書きます。
最初にアクアマリンでレコードをかけた時に「××さんがよく鼻歌で歌ってる曲だ」と言ったのですが、その時はバイト先か先生の名前かな? とか思ってたんですね、ところがその次のシーンで両親が出てきて、父親の方は普通に「お父さん」と呼んでいる、でもお母さんらしき人のことを「××さん」と名前で呼んでいるではありませんか。追い打ちとばかりにお父さんが「お母さんと呼びなさい」なんて言う。えっ、これってまさかってなりますよね。
このお母さんらしき人、継母なのでは? って。うちはそう思いました。
作中では結局××さんが継母なのか実母なのかは語られずじまいだったのですが(恐らく本筋とは関わらないので)、個人的には継母説を推します。そうでないと、なぎさが父親と母親で呼び方に差をつける理由が分からない。ましてや言葉を大事にするキャラクターであるなぎさが訳もなく名前で呼ぶとは思えない。他には少しも引っ掛かるところが無かったので、これは何か意図的な演出だと考えました。
アクアマリンでラジオを放送したことでなぎさは紫音からメールをもらい、なぎさは紫音の姿を探し始めるのですが、病院でラジオを聞いて紫音がアクアマリンにいることを突き止めます。そしてなぎさもアクアマリンへ急行するわけですが、この時のなぎさは何か鬼気迫る感じで紫音のもとへ向かっています。そしてアクアマリンでラジオを放送していた紫音を見つけるなり「お母さんはまだ生きてる、声が聞けないなんて言っちゃダメ」と号泣しながら訴えかけるんですね。この冗談みたいな押しの強さが功を奏して紫音となぎさは絆を結ぶわけですが、それにしたってなぎさの反応は大げさすぎる。
上映後、あのシーンについて初めはなぎさのキャラクター付けの一環だと思っていました。それくらい涙もろくて熱くて一生懸命な子なんだと。それもそれでいいと思います。けれど改めて振り返ってみて、なぎさが号泣したのには理由があったのではないか? と考えるようになりました。
昏睡状態の朱音、その母親の覚醒を待つ紫音、そして母親らしき人物を「お母さん」ではなく「名前」で呼ぶなぎさ。ここから導き出される結論は一つ。
なぎさが泣いていたのは、自分の境遇に紫音を重ねていたのではないでしょうか。
恐らくなぎさは母親と死別して、父親は今の母親と再婚した。今の母親との関係は良好で、お互い冗談を言い合うような関係ですけれど、なぎさからは前の母親の面影が消えない。そこへ来て、母親が意識不明でずっと目覚めない、けれど死んだわけではないという紫音に出会った。なぎさは自分のような悲しみを、母を永遠に失う悲しみを紫音に味わってほしくなくて、「おかあさんの声が聞けないなんて言わないで」と泣きながら言ったのではないでしょうか。
コトダマを信じるなぎさだから、紫音の言葉を聞いて居ても立っても居られなくなった。そう考えることもできるのではないでしょうか。
あくまで状況証拠に基づく推論ですが、全体に矛盾はないと思います。もしこの解釈が当たっていれば、この「きみの声をとどけたい」という映画はより一層深みのある一本になると思います。
とにかくいい映画なのでみんな観に行ってくれ!! マジで!!!!!