HWC-385さんの「夏の終わりに」

レーティング: 全年齢対象

 八月ももう二十日を過ぎて、少しずつ終わりが見えてきた頃のこと。

「おい、こっちだぞ、早く来いよ!」

「ちょっとタカフミったら、そんなに急いでどこ行くのよ!」

 傍らにデルビルを連れた少年タカフミと、隣にソーナノを伴った少女エリが、陽のあたる坂道をパタパタと駆けてゆく。

「まったく。この暑いのに、よく走れるよ」

「タカフミくん、一度走り出したらなかなか止まらないからね」

 エリに遅れること五歩ほどのところに、ネイティを頭に載せたメガネの少年ジュンと、ニョロモを抱いたおさげの少女ミチルが続く。

 タカフミ・エリ・ジュン・ミチル。男子二人女子二人。四人はいつも一緒に遊んでいて、長い夏休みの間もほとんど毎日同じ時間を過ごしていた。こうやって走っていくタカフミをみんなが追っていくのも、よくある光景の一つだった。

 エリはタカフミの幼馴染で、お互い物心付いた頃からの仲だ。ケンカするほど仲がいい、と言われる関係でもある。ジュンはタカフミが、ミチルはエリがそれぞれ小学校へ上がってから友達になった。ジュンとミチルのどちらも、活発なタカフミとエリとは対照的な物静かなキャラクターをしている。友達の友達は友達ということで、こうして四人で遊ぶようになったわけだ。

「もう! なんでそんなに走るのよ? 別に歩いたっていいじゃない」

「馬鹿言うなよ。夏がもうすぐ終わっちまうんだぞ、歩いてなんてられるかってんだ」

 そう言ってのけるタカフミが向かう先にあるのは、街外れにある人気のない神社だった。

 背の高い木々が社を取り囲むように立ち並ぶ。それによってできた木陰で幾分涼しい神社の境内へ立ち入ったところで、タカフミがパッと足を止めた。続けてやってきたエリ、そしてジュンとミチルが後ろへ付く。

「神社なんかまで走ってきて、いったいどうしたって言うのさ」

「はぁー、走ったらほっぺたほてっちゃった。ここ、涼しくていいねー」

 タカフミは三人がひとまず落ち着いたところを見計らって、おもむろに口を開く。

「なあ、聞いてくれよ。この神社で事件が起きたって噂を聞いたんだ」

「事件? ちょっと、それってどういうことよ。詳しく教えなさいってば」

「それを今から話すんだって。あのさ、ここに一匹スバメがいたんだけどよ、そいつが別のポケモンに連れ去られたらしいんだ。友達が言ってたんだよ」

「別のポケモン? 人間じゃなくて?」

「ああ。そいつが言うには、連れ去ったやつは……ええっと、あれだ、そうだ! 『振り子』だ! 振り子を持ってたって言ってたな」

 振り子、という言葉を耳にしたジュンが、何か気づいたような顔をして。

「それってさ、『スリーパー』ってポケモンじゃない?」

「……スリーパー? ううん、どんなポケモンなんだろう?」

「ちょっと待ってて。確か……あっ、これだ。見てこの写真!」

 ポケットから折りたたみ式のケータイを引っ張り出してポチポチいじってから、ジュンが画面をミチルに見せた。ミチルがケータイの画面を覗き込むのを見て、タカフミとエリも続けて目を向ける。

 タカフミとエリ、そしてミチルの目に飛び込んで来たのは、全身が真っ黄色で、首元にマフラーのような白い体毛が纏わりついた、まあ見るからに怪しい風体をしたポケモンの姿だった。手にはタカフミの言っていた「振り子」もぶら下げていて、ますます如何わしさを漂わせている。

「前に図鑑で読んだけど、子供を連れ去る事件があったとも書いてあったね」

「えっ、何それ! 誘拐犯じゃない!」

「やっぱりそういうことか……間違いない、スバメを連れ去ったのもこいつだ」

 確かに誘拐事件の一つでも起こしそうな風貌だと、四人全員が納得する。

「怖い話だね。この神社で起きたってことは、近くにいるかもしれないってことなのかな?」

「ああ、そういうことだな。あいつはまだ街のどこかにいる。そこで、だ」

「そこで?」

「俺たち四人で、そいつを退治してやるんだ」

 近隣で誘拐事件を起こしているらしい犯人を、自分たちで撃退してやろう。タカフミは皆の目を見てから、きっぱりと言い切って見せた。

「僕たちで、誘拐犯を……?」

 一番近くにいたジュンは目をまん丸くして、何度もまばたきを繰り返している。言われたことの意味をうまく飲み込めていない様子が見て取れる。

「ふぅーん。悪いやつを懲らしめてやればいいのね。おもしろそうじゃない」

 エリはすぐに事情を飲み込んで、早速同調して見せた。タカフミの提案に乗り気のようだ。

「悪いことをやめさせるんだよね? それなら、わたしもお手伝いするよ」

 意外なことに、ミチルもやる気を見せている。普段はおっとりしていて大人しい彼女だが、やるときはやるタイプでもあった。

「いや……それ、危なくない? 相手は誘拐犯なんだし、止めといた方がいいんじゃない?」

 さて、残るはジュンだ。タカフミの勢いに気圧されつつも、さすがに危険で無謀なことじゃないか、と指摘する。けれどタカフミは一向にひるまず、ジュンの手を取ってさらに説得を重ねる。

「大丈夫だって。俺たちがいればなんとかなるって。なあジュン、一緒に手伝ってくれよ」

「悪いやつをやっつけるには、腕っ節だけじゃダメよ。物知りのジュンみたいな頭脳派が欠かせないわ」

「ジュン君がいた方が、わたしたちも助かるよ。お手伝い、してほしいな」

 皆から口々に「ジュンも加わってほしい」と言われて、ジュンも少し気持ちが変わってきたようだ。ちょっとばかり間を置いて考えてから、おもむろに顔をあげて「みんながやるなら、僕も力を貸すよ」と答えた。これでジュンも加わった。三人よれば文殊の知恵、四人いれば言わずもがなだ。

「よし! これで決まりだな!」

「で、これからどうするわけ? 当てずっぽうに探したってしょうがないし、何かいい方法は……」

「俺は事件があったって場所を見てくるぜ。何か分かるかも知れねえからな」

「こういうのって、犯人を見た人がほかにいないか、訊いてみるのがいいんじゃないかな」

「聞き込みだね。僕もそれに賛成するよ。じゃあ、僕は犯人の性格を分析して、どんな行動をするか予測してみるよ」

 街に潜む連続誘拐犯を捕まえるべく、各々が情報収集をすることになった。エリとミチルはご近所を回って聞き込み、ジュンは犯人の性格を分析して行動をプロファイリング、そしてタカフミは現場検証。みんなそれぞれやることを決めて、早速行動開始だ。

 夏の終わり、最後の一週間。タカフミたちの戦いが始まる。タカフミ・エリ・ジュン・ミチル。四人の大作戦が、今幕を開けた。

 

 それから二日後、お昼過ぎを迎えた頃のこと。

「確か、ここの裏だったよな。ニャースがいなくなったってのは」

 タカフミがやってきたのは商店街の路地裏。薄暗く人通りも少ない、あまり長居したくない場所だった。聞いたところによると、この辺に一匹で住み着いていたニャースが忽然と姿を消したらしい。ニャースがいなくなる直前に、見慣れない不審な人影を見たという人もいる。例の誘拐犯の可能性がとても高かった。

 この路地裏に限らず、目撃されたポイントはどこもかしこも人気のない場所ばかりだ。人目に付かない場所でこっそりポケモンを攫っているのは明らかで、少なくとも「見られてはいけない」ことは理解しているようだ。単なる変質者というわけではなさそうだった。

 陽の光の差さない路地裏を眺め回しながら、タカフミは数年前学校で見かけたポスターのことを思い出していた。

(あの時のポスターも、子供を連れ去るスリーパーの絵が描いてあったっけな)

 廊下の掲示板に貼られた、犯罪防止のためのポスター。そこには、子供たちの手を引いて歩いていくスリーパーの姿が、おどろおどろしさを伴って描かれていた。一般にもそういうことをしでかすポケモンとして認知されているらしい。街に潜む誘拐犯の正体がスリーパーというのも、説得力のある話だ。

「夏休みの終わりに、町を騒がせる誘拐犯をとっ捕まえてやるぜ」

 路地裏の現場検証を済ませたところで、タカフミが踵を返す。三時にいつも遊んでいる公園へ集合して、集めた情報をお互いに持ち寄ることになっていた。エリとミチルは聞き込みをしているはずだし、ジュンは犯人の性格分析を進めているだろう。それぞれの状況を確認したかった。

 タカフミが公園まで走っていくと、エリ・ミチル・ジュンの三人が既に固まって待機していた。来るのが遅い、といつも通り文句を言うエリに、悪い悪い、とタカフミが笑ってごまかす。落ち着いたところで、情報共有が始まった。

「近くの人に訊いてみたけど、やっぱり間違いないわ。犯人はスリーパーよ!」

「わたしもそう思う。見た人みんな『振り子を持ってた』って言ってたから」

「そうそう。あと、眠ったポケモンを抱いて歩いてたところを見たって人も何人かいたわ」

 エリとミチルの聞き込みはかなり集中的に行われたらしい。おかげで、犯人の特徴をいくつか掴むことができた。振り子を持って歩いている、眠ったポケモンを抱いて歩いていた。スリーパーには振り子を使って人やポケモンを眠らせる能力があると言われている。それを踏まえると、どちらもスリーパーの性質とうまくかみ合っている。

 他の証言からは、不定期に街の公園や神社に出没しているらしいことが分かった。タカフミが最初に耳にした話とも辻褄が合う。

「いくつか見てきたけど、どこも寂しい場所ばっかだったな。やっぱそういう場所狙ってるんだって」

「僕の分析とも一致するね。小さなポケモン、子供のポケモン……そういうか弱いポケモンにターゲットを絞って、一匹になったところを狙ってるに違いない。分かっててやってる、計画的な犯行だよ」

 人目に付かないようなところで、か弱いポケモンを付け狙ってさらっている。今まで得た情報とジュンの分析を足し合わせると、大まかな犯人像が見えてきた。放っておいてはいけないタイプの犯罪者だ。

「ポケモン誘拐して何してんのか知らないけど、きっとロクなことじゃないわ」

「そうだよね、すぐに止めさせなきゃ」

「次は、犯人を追い込むための作戦を考えなきゃね」

「よし! 俺たちが誘拐犯を捕まえてやるぜ!」

 街を騒がせる誘拐犯を捕まえるべく、四人が気持ちも新たに声をあげる。声を上げると同時に見上げた空は、どこまでも青くて、どこまでも広くて。

 終わりなんてありっこない、そんな思いを抱かせる風景だった。

 

 皆と別れて一人になったタカフミが、自宅へ続く道を進んでゆく。時折ひゅん、と自動車が横を通りすぎていくだけで、行き交う人の姿は見当たらない。この辺は人が少なくなってきていて、街全体が寂しくなってきている――そんな風なことを、父親が食事時に言っていたことを思い出す。

 後ろから走ってきて瞬く間に自分を抜いていった軽自動車をぼんやり見送りつつ歩いていると、たまに四人で遊んでいる小さな児童公園の前まで差し掛かったことに気が付いた。

(確か、公園でもあいつを見たやつがいるって言ってたな)

 あいつとは、言うまでもなくスリーパーのことだ。この時間になると公園で遊ぶ子供もおらず、中はしんと静まり返っているのが常だった。そう、夕暮れ時のこの場所は、普段なら静かな場所のはずなのだ。

(ん……? 誰か泣いてるのか……?)

 か細くか弱いながらも、確かに聞こえてくるそれは、小さな子供の泣き声のようだった。それも人間ではない、ポケモンの泣き声だとすぐに気が付いた。どのポケモンだっただろうか、タカフミはしばし考えて、まもなくそれがピチューの声にとてもよく似ていることを思い出した。

「どこだ……?」

 ピチューがどこかで泣いているに違いない。確信したタカフミは、すぐさま行動を開始した。聞こえてくるのは公園の方からだ。足音を立てずにそっと中へ入ると、ピチューの姿を探して方々に目を凝らす。

 声の出所を探していたタカフミだったが、ある時一際大きな泣き声が聞こえた。はっとしたタカフミが反射的に公園の奥へ目をやると、遠くに人型の――けれど明らかに人ではない、大柄な影を見つけた。

 人影は大きな木の根元まで静かに歩いていくと、そこにいた小さな小さなポケモン、ピチューの側に立つ。ピチューと視線を合わせたのち、その手にぶら下げていた何かをゆっくり揺らすと、泣きじゃくっていたピチューがあっという間に静かになった。仕草から見て眠ってしまったようだ。大きな影は眠りについたピチューをそっと抱えあげて、そのままどこかへ連れていこうとしていた。

(あれって……まさか)

 その姿、手つき、行動。すべてに強い見覚えがあった。

 つい今しがたジュンが自分に見せた、スリーパー――そのものじゃないか、と。

「お前! 何やってんだ!」

 いても立ってもいられず、タカフミが声を上げて走っていった。ピチューを抱いた影がハッとして振り返ると、とっさにその場から逃げ出す。

「おい、待て! どこ行くんだ!」

 追いかけるタカフミだったが、思いのほか相手の逃げ足が速かった。あっという間に自分の手の届かないところまで走って行かれてしまって、これ以上追跡するのは難しい状況だった。

 ちくしょう、逃げられちまった。苦虫を噛み潰したような表情をしつつ、タカフミが恨み言をこぼす。走っていくスリーパーの後ろ姿を目で追っていくと、その方角には時折遊び場にしている裏山があった。

(あいつの住処は、あの山にあるみたいだな)

 スリーパーを捕まえられなかった悔しさを噛み締めつつ、タカフミは山へ消えていくスリーパーの背中を追いつづけた。

 次は必ずとっ捕まえて、懲らしめてやる――その決意を胸に秘めて。

 

「子供のピチューを眠らせて、どっかに連れてった……ってそれホントに!?」

「昨日、ジュン君が言ってたことと同じだね」

「だとすると、僕らの街を騒がせてる誘拐犯の正体は……」

「やっぱりあいつだったんだよ! スリーパー!」

 昨日の帰り道で起きた出来事を、タカフミがエリ・ミチル・ジュンの三人に話して聞かせている。目の前でスリーパーがポケモンを誘拐するところをこの目で目撃したとあってか、タカフミは少々興奮気味のようだ。聞いている三人も彼から片時も目を離さない。今まで噂でしかなかった誘拐犯が実在すると分かったのだから、気が高ぶるのも道理だ。

 何とかしてヤツを懲らしめなければ。四人全員が同じ思いを抱いていた。しかし相手はなかなかの手練で、真っ昼間にのこのこ姿を表すとも思えない。手がかりも少なく、こちらから探し出すことは困難だ。何か別の手を打つ必要があった。

「タカフミ。スリーパーはあの山をねぐらにしてるんだろう?」

「多分な。向こうに逃げていったから、山の中に潜んでるはずだ」

「失礼な話ね! あの山あたしの遊び場なのに! 許せないわ!」

「そういうことなら、あいつが出てきそうな場所に囮を置いて、誘い出してやるといいかも知れないね」

「スリーパーは小さなポケモンをさらってるんだよね? それなら、小さなポケモンを使えばいいんじゃないかな」

「あら、ミチルったらなかなかの策士じゃない。それならちょうどいいわ。昨日家に入り込んだ子供のコラッタを捕まえたばっかりなのよ。こんな形で役立つなんてね」

「別にいいけどさ、そいつ囮にしちまって構わないのか?」

「いいのよ別に。だって、家に入り込んで食べ物を盗み食いしようとしてたんだから」

 スリーパーは子供のポケモンをターゲットにして誘拐を繰り返している。なら、そこを狙わない手はない。幸い昨日エリが捕まえたばかりのコラッタがいる。コラッタをエサにして、スリーパーをおびき寄せる作戦だ。

「いい感じだね。じゃあエリちゃん、そのコラッタを連れてきてよ。僕はGPS付きの首輪を取ってくるから」

「GPS? なんだそりゃ?」

「グローバルポジショニングシステムの略だよ。コラッタに付けとけば、衛星が位置情報を送ってきて、どこにいても居場所がすぐ分かるんだ。コラッタに発信器を付けて、誘拐犯を追いかけようって寸法さ」

「そういうことか! で、ヤツをとっ捕まえるってことだな!」

「完璧ね。じゃ、あたしちょっとコラッタ連れてくる!」

「僕も必要なものを取ってくるよ。待ってて」

 エリとジュンが公園を出て走っていく姿を、残ったタカフミとミチルが見つめる。

「エリちゃん、張りきってるね。タカフミ君の前でいいところ見せたいと思ってるのかな」

「えっ? エリが俺にいいとこ見せたい?」

 何気なく出てきたミチルのつぶやき。さりげないとは言え決して聞き過ごせないその内容に、タカフミが思わず目を丸くする。

「あれ、タカフミ君気付いてなかったんだ。エリちゃん、ああ見えてタカフミ君のこと好きみたいだよ」

「あいつが俺のことを……? いやいや、冗談だろそれ」

「ホントホント、ホントだよぉ。見てたら分かるもん、わたしだって女の子だし」

 エリがこの一件でやたらとやる気を見せているのは、想い人のタカフミにかっこいいところを見せたいから――だとか。気持ちは分かるが、やり方が完全に男の子のそれだ。

 男勝りってのは、こういうことを言うんだろうな……と、タカフミは思わず苦笑いを浮かべるのだった。

 

 夕刻を迎える。

 待ち伏せの場所は、以前スリーパーが目撃されていて、かつ山の麓にある神社に決まった。ジュンが持ってきたGPS付きの首輪を取り付けたコラッタを、賽銭箱の前辺りに放してやる。四人はすぐさま茂みへ身を隠すと、標的であるスリーパーがやってくるのを待った。

「これで、本当に来るのかな?」

「来るよきっと。ねぐらの近くだし、目撃情報のあった神社だし、小さなポケモンだっているしね」

 四人が物陰から境内を見張る。一匹で取り残されたコラッタは、いきなり知らない場所へ連れてこられてしまって怖くなったのか、寂しげな声を上げはじめた。コラッタの声が閑散とした境内に響く。タカフミたちは額にうっすら汗を浮かべながら、事態が動くのをじっと待ち続ける。いつでもスリーパーを取り押さえられるように、それぞれの相棒ポケモン――デルビル・ソーナノ・ネイティ・ニョロモ――も、外に出てスタンバイしていた。

 張り込みを始めて二十分ほどが経ったころだった。皆の足元でじっとしていたジュンのネイティが何かを察したのか、ジュンの足にぐいぐいと顔を擦り付け始めた。

「ネイティ、どうかした?」

「……もしかして、スリーパーが近付いてきてるんじゃない?」

「超能力を使う者同士、何か分かることがあんのかもな」

「あっ……みんな、静かにして。誰かこっちに来てる」

 ミチルが小さく声を上げると、全員の視線が一斉に境内へ注がれる。コツ、コツ、と足音を立てながら、何者かが石造りの階段を登ってきているのが分かった。それはやがて階段を登りきり、境内に踏み込んでくる。

 タカフミが思わず息を飲む。その目に映った姿は、昨日目の前でピチューを連れ去ったあのシルエットと寸分違わず一致していた。振り子をぶら下げた特徴的なその姿。間違いない、スリーパーだ。タカフミがそう確信して、大きく頷く。

「コラッタに近付いてってるわ」

「やっぱり、攫うつもりなんだ」

 四人が見ていることには気付いていないようで、スリーパーが泣いているコラッタの前までやってくる。コラッタの前で屈み込むと、具体的に何と言ったのかは聞き取れなかったが、何某か声をかけたようだ。コラッタに目を向けると、心なしか嬉しそうにしている様子が見えた。あいつはきっと、子供の心をつかむのがうまいんだ――タカフミはそう考えた。子供を狙う犯罪者は、えてして子供の心を掴むのがうまいものだと、どこかで聞いた覚えがあった。

 スリーパーは屈んでコラッタの頭を撫でてやってから、どこからともなく一掴みのどんぐりを取り出した。手のひらに載せたそれを地面に置いてやると、コラッタに食べるよう促す。コラッタはお腹が空いていたようで、もらったどんぐりを勢いよく食べ始めた。スリーパーは時折コラッタの背中や頭を撫でてやりながら、側で様子を見守っている。

 コラッタがどんぐりをすべて食べ終えた。満足したようで、顔にはすっかり笑顔が戻っている。スリーパーをコラッタの様子を確かめてから、そっと両手を差し伸べた。コラッタは少しも迷うことなくそこへ飛び込んでいって、スリーパーの腕の中へ収まった。コラッタを抱いて撫でてやりながら、スリーパーが神社を後にしようとする。

 

「――今だっ! かかれっ!」

 

 タカフミの号令とともに、エリ・ジュン・ミチル、そして各々のパートナーが一斉に茂みから飛び出す。スリーパーが隙を見せたらすぐに取り押さえようと、事前に打ち合わせをしておいたのだ。コラッタを抱いて両手が塞がった今こそ好機、そう見た四人が行動を開始した。

 これに驚いたのはスリーパーだ。まさかこんなところでいきなり襲い掛かられるとは思ってもみなかったらしい。一瞬まごついた様子を見せたものの、咄嗟にその目を光らせる。

「うぐっ!? こ、これは……!」

「あれ? 体が……動かなくなっちゃった……?」

 目を合わせたジュンとミチル、その相棒のネイティとニョロモの動きを瞬時に止めてしまった。いわゆる「金縛り」だ。催眠術に止まらず、なかなかの超能力の使い手らしい。タカフミとエリが一瞬立ち止まったのを見るや否や、コラッタを抱いたまま逃げ出した。

 追いかけるんだ、早く――そう叫ぶジュンに背中を押されて、タカフミとエリがスリーパーの追跡を開始する。スリーパーの逃げ足はなかなか速かったが、決して追いつけないほどではなかった。何とかしてヤツを追い詰めてやる、その気持ちはタカフミもエリも同じだった。

「タカフミ! あいつを小糸橋まで追い込んで!」

「小糸橋だな……分かった!」

 小糸橋は、山の中にある古びた細い橋だ。老朽化が進んでずいぶん危なっかしい状態になっていて、渡るときは決して走ってはいけないと強く言われている。あそこへ追いやることができれば捕まえることができるはずだ、エリが咄嗟に出した提案の意図をすぐさま理解して、タカフミが走っていく。

 並走するデルビルに「火の粉」の指示を飛ばす。デルビルが口から無数の小さな炎を撒き散らしてスリーパーを攻撃するが、スリーパーはそれを念力でかき消してくる。タカフミが舌打ちをするが、スリーパーの進路を制限することには成功した。知らず知らずのうちに、スリーパーは小糸橋まで追い詰められつつあった。

 エリの姿は見えなくなっていたが、タカフミは特に気に掛けていなかった。エリは四人の中でも特にこの山の地理に詳しい。自分の知らない裏道を通ってきて、スリーパーに奇襲を仕掛けるつもりに違いない。小糸橋へ追い込む案を出したのもエリだ。なんだかんだで、タカフミはエリのことを信頼していたのだ。

「野郎! 絶対捕まえてやるからな!」

 スリーパーはコラッタを放さない。タカフミは追跡を止めない。逃げるスリーパー、追うタカフミ。なんとしても捕まえなければならない、タカフミの表情からは、その強い意志がはっきり浮かんでいた。

 と、ここで、タカフミの隣の空間がぐにゃりと歪んで。

「タカフミ!」

「追いついたよ、タカフミ君!」

「ジュン! ミチル! 金縛りが解けたんだな!」

「金縛りは距離が離れると効果が切れるからね。隆史くんの波長を追って、テレポートしてきたんだ」

 ジュンとミチルがネイティのテレポートを連発して、タカフミのすぐ横まで追いついてきた。これでこちらは三人、そしてエリは奇襲攻撃の準備に入っている。状況はタカフミたちが圧倒的に有利だ。スリーパーはそれを知ってか知らずか、足を早めてこの場から逃げようと必死だ。

 ミチルが抱いていたニョロモを前へ出すと、ニョロモが大きく飛び上がった。

「ニョロモ、バブル光線だよ! 泡だらけにしちゃえっ!」

 ニョロモが大きく息を吸い込んで吐き出すと、口から大量の泡が発射された。一つ一つがスリーパーにまとわりついて離れず、スリーパーの逃げる速度が著しく落ちた。くっついてくる泡を手当たり次第に割りながら、スリーパーが光の壁を展開して、これ以上泡を喰らうまいと防御を固める。

「さっきのお返しだっ! ネイティ、あいつをつっついてやれ!」

 次に繰り出されたのは、ジュンのネイティが繰り出した突く攻撃だった。これはさすがにたまらず、スリーパーがじたばたと暴れる。効果は覿面なようだ。

 抱いていたコラッタを邪魔だと感じたのか、スリーパーがコラッタをどこかにテレポートさせた。身軽になったところでスリーパーがネイティを軽く叩いて退けると、再び走って逃げ出した。けれど、タカフミはその様子を見てニヤリと笑う。この先の道は、あの小糸橋に繋がっていると知っていたからだ。

 ジュンとミチルを連れて、タカフミがスリーパーを追い詰める。走って行くにつれて、ザアザアという渓流の音がだんだん大きくなってくる。そこからさらに進んだ先には、老朽化した小さな橋――小糸橋があった。小糸橋が掛けられている珪川(たまがわ)は普段から水量が多く、晴れた日でも川底を見ることができないほどの水深がある。タカフミたちが住んでいる町の水源として大切にされているが、その実態は数年に一度は必ず溺死者を出すとても危険な川だった。

 走って走って、ついに小糸橋までたどり着いたところで、スリーパーは思わず立ち止まる。

「待ちくたびれたわよ、誘拐犯!」

 後から追いついてきたタカフミたちが見たのは、小糸橋のど真ん中で仁王立ちするエリと、相棒のソーナノだった。前方のエリを直接突破するのは難しいと判断したようだ、振り返って元来た道を戻ろうとする。

「今渡こそ逃さねえぜ! デルビル、もう一発火の粉だ!」

 逃げようとしたスリーパーの行く手を「火の粉」で塞ぐ。前門のタカフミとデルビル、後門のエリとソーナノ、スリーパーはここに来てついに進退窮まってしまう。

 タカフミがスリーパーを引きつけている間に、エリとソーナノがじりじりと距離を詰めていく。夕焼けに照らされたスリーパーの影が自分の方に向かって伸びているのを、エリは見逃していなかった。

「今よソーナノ! あいつの影を踏んじゃって!」

 エリの命令と同時にソーナノが飛び上がり、スリーパーの影を思い切り踏みつける。スリーパーが気付いたときには、ソーナノはスリーパーの影をしっかり掴んで放すまいとしている状態になっていた。ソーナノには「影踏み」という特性がある。相手の影を踏みつけると、その場から一歩も動けなくしてしまうことができるのだ。逃げようとする相手にはうってつけの特性だ。

「みんな、今のうちよ!」

「任せろ! 行くぞデルビル、体当たりだ!!」

「デルビルに続くんだ、ネイティ!」

「ニョロモも! 思いっきりぶつかって!」

 影踏みで足を掴まれて身動きの取れないスリーパー目掛けて、デルビル・ネイティ・ニョロモが固まって激しいタックルを仕掛ける。そして三匹がぶつかる瞬間に、エリがソーナノを持ち上げて影踏みを解除した!

 どんっ、という鈍い音が聞こえて、ポケモンたちの体当たりをもろに受けたスリーパーが大きく吹き飛ばされた。悲鳴を上げながらスリーパーが橋から落ちて、そのまま珪川へ落っこちてく。ドボン、と大きな水しぶきを上げて、あっという間にスリーパーの姿は見えなくなってしまった。

 タカフミたちは、スリーパーを撃退したのだ。

「……やった、やったぞ! あいつをやっつけたんだ!」

「決まったわね! 影踏みタックル!」

「僕らの勝利、正義の勝利ってやつだよ!」

「これで、もう誘拐事件は起きなくなるんだね。よかった!」

 見事な連携でスリーパーをやっつけた四人が、勝利の喜びを分かち合う。街を騒がせていた悪党を自分たちで倒した、その嬉しさに身を震わせていたのだ。

 ひとしきり喜んだところで、ミチルが声を上げる。

「そうだ、コラッタどこ行っちゃったんだろう?」

「きっとあいつの住処へテレポートさせられたんだよ。そこまで計算済みさ」

「なるほどな。位置が分かれば、さらわれたポケモンも助け出せるってわけだ」

「相変わらずジュンは頭が切れるわね。じゃ、早速行きましょ」

「ああ。昨日連れ去られたピチューもいるはずだからな!」

 ジュンがコラッタに発信器を取り付けておいたおかげで、スリーパーがねぐらに使っていた場所も分かりそうだった。そこにはきっと、今まで連れ去られたポケモンたちもいるはず。怖い思いをしていただろう彼らを助け出せば、すべてうまく行く。

 これでなんとかなる――そう思っていた。

 

 ジュンが携帯電話の画面を見ながら、タカフミたちを案内する。GPSが指し示す座標に向かって歩いていくと、ぽっかりと口を開けた洞穴が見えてきた。ここが住処に違いない、そう考えた一同が、おもむろに中へ踏み込む。

「いた、コラッタだ!」

「ピチューもいるみたい。声が聞こえてくるわ」

「それだけじゃなさそうだ……なんだか、やけにたくさんいるみたいだ」

「みんな、スリーパーに連れてこられたのかな?」

 コラッタもピチューもすぐに見つかった。それだけではない。洞窟には、スリーパーに連れてこられたと思しき子供のポケモンが大勢いた。少なく見積もっても三十匹ほどはいる。かなりの数だ。これまで何度も誘拐を繰り返してきたのだから、ポケモンが多くいるのは分かる。ある程度予想はできていたことだ。

 ただ、どうにも引っかかることがあった。

「……どういうこと? みんな、なんか……」

「元気そう、じゃない……具合悪くしてる子もいなさそうだし」

「中もずいぶん綺麗にされてるな……どうなってんだ?」

「なんだか、思ってたのとちょっと違うね」

 思っていた光景と何かが違う。ミチルのこの言葉がすべてだった。

 たくさんのポケモンが、狭くて不衛生な環境に閉じ込められている。大方そんなことだろうと想像していたのだが、実態は大きく異なっていた。どうやったのか、中は電気も引かれていて明るい。マメに掃除もしていたのか、中も清潔な状態が保たれている。ポケモンたちもみな健康で、怯えているような者もいない。誰も彼も元気そうだった。

 怪訝な顔をしながらジュンが中を見回す。すると、一匹のドーブルが、壁に何やら落書きをしているのが見えた。

「……見てよ。あのドーブルが描いてる絵を」

「何よ、これ……スリーパー?」

 四人がドーブルが描いていた絵を見つめる。緑の単色で描かれていて細部は読み取れず、絵その物が拙いためにかなり乱雑なものではあったが、遠巻きに見てもその絵が何を表現しているものかはハッキリしていた。

 件のスリーパーを、たくさんのポケモンが取り囲んでいる。どのポケモンも楽しそうな表情をしている。スリーパーも笑顔を見せていた。ポケモンたちがスリーパーを慕っている――そんな風に見える光景が広がっていた。

 全身を包み込んでいた熱が急速に引いていく。何かが終わってしまった音が聞こえた気がした。

 ジュンもミチルも、エリもタカフミも、揃いも揃って黙り込んでしまった。重苦しい空気が一同を包み込む。自分たちが何をしたのか、自分たちは何を見ていたのか。信じていたもののあやふやさを感じて、安易に言葉を発することができない状況に陥っていた。

「あのスリーパーは、ポケモンをここへ連れてきて……」

「お世話、してたのかな……」

 ポケモンたちを見る。まったく傷のないポケモンもいたが、多くのポケモンには傷跡や火傷の跡のようなものが残っていた。

「見て、ポケモンに傷があるわ。やっぱりあいつが……!」

「いや……多分違う。これは、最近付いたものじゃない」

 エリが一瞬色めき立つが、タカフミがすぐに首を振って制した。そのほとんどは付けられてから時間が経っていて、スリーパーが関与したものではなさそうだった。人間や他のポケモンに付けられたものだと、四人ともすぐに理解できた。

 スリーパーは、虐待されたり孤児になったポケモンを保護して、ここで世話をしてやっていた――誰に言われるでもなかったが、こんなストーリーが想起されたのは当然の成り行きだった。ポケモンたちの様子を見れば、その認識が大きくズレたものではないことは火を見るより明らかだ。

「あっ、あの絵……スリーパーが夢を食べてる?」

「じゃあ、夢を食べるために子供をここに連れてきてたとか……?」

「……それも、多分違うわ。食べてる夢の内容を見てみて」

「悪い夢を食って、寝つきを良くしてやってる、ってところか……」

 別の絵はスリーパーが夢を食べている様子が描かれている。このためにポケモンたちを保護していたのかとも思ったものの、その推測もすぐに否定されてしまう。スリーパーが食べていたのはどうやら悪い夢で、ポケモンたちがよく眠れるようにと気を配ってやっていたらしい。スリーパーが子供たちを食い物にしているという筋書きも、ここで潰れてしまう。

 連れてきたポケモンを酷い場所に監禁していた訳でもない、何か危害を加えていた訳でもない、夢を食い物にしていたわけでもない。単純に、不憫なポケモンを保護して面倒を見てやっていただけ。住処にあった数々の証跡が、タカフミたちの描いていたストーリーを無慈悲に叩き壊していく。

「どうするのさ、これ……」

「どうする、って……」

 そうこうしているうちに、洞穴の中が騒がしくなり始めた。タカフミたち四人が入り込んでいるのを見て、ポケモンたちが怯えて泣き始めてしまったのだ。一匹が泣き始めると他もそれに続いて、あれよあれよと言う間にほとんどのポケモンが大泣きを始めてしまった。

 いつもなら帰ってくるはずのスリーパーがいつまで経っても帰ってこないことも、彼らの不安を増長させていたに違いない。

「……ここにいたらよくないよ。みんな、行こうよ」

「行こうって、ミチル、お前……」

「だけど、この子たちを放っておいたら……」

「僕らじゃどうしようもないよ! 全員の面倒を見ることなんてできっこない、行くしかないんだよ!」

 この場をどう収めるかを巡って、タカフミたちが押し問答を始める。ここからすぐに出ていくべきだと主張するミチルとジュン、戸惑って意見を出せずにいるタカフミ、何とかならないかと食い下がるエリ。互いの意見を辺り構わずぶつけ合うけれど、現実はどこまで行っても現実のまま。彼らにできることなどたかが知れていた。

 一悶着あった末、結局どうにもならないと判断したのだろう。すべてを放り出して、四人は洞窟を後にした。あれだけ大きかったポケモンたちの泣き声が、離れるに連れてだんだんと小さくなっていって、洞窟が見えなくなる頃にはすっかり聞こえなくなってしまった。

 重苦しい空気のまま、先ほど大立ち回りを繰り広げたばかりの小糸橋まで戻ってくる。もしかしたら、という一縷の望みは、まるで人気の感じられないいつも通りの橋の姿に脆くも打ち砕かれた。珪川から誰かが上がってきた様子はなく、水は濁っていて底の様子を伺うこともできない。

「……分かってると思うけど」

 ジュンが思い詰めた表情をして、後ろにいた三人に目を向ける。

「このことは誰にも言っちゃダメだ。絶対に、絶対にだ」

 言われずとも既に分かっていたことだった。自分たちのしたことを他の誰にも話してはならない。タカフミ、エリ、ジュン、ミチル。この四人だけの秘密にして、墓の底まで持っていかなければならない。もし秘密が暴露されるようなことがあれば、それは四人全員の破滅を意味していた。街を騒がせていた誘拐犯を撃退したという武勇伝を皆に聞かせて回るつもりが、誰にも言えない後ろめたい秘密になってしまった。

 ひところに比べて、セミの鳴き声も幾分小さくなった。夏ももう終わる。熱狂の時期は過ぎ去って、現実へ還らなければならない時がやってくる。学校が始まってしまえば、忙しさにかまけてこの出来事も闇に葬ることができるかも知れない。誰も敢えて口には出さなかったが、似たようなことを考えていたのは事実だった。

「約束だよ。僕らだけの秘密にするんだ」

「もし、破ったら……どうなるかは分かってるよね」

 夏の終わりに、彼らは約束した。

 この秘密を胸に隠したまま、後の時間を過ごしていくのだと。

 

 +++

 

 夏ももう終わりだというのに、熱帯夜はいつまでも続く。蒸し暑さがもたらす寝苦しさには、すっかりうんざりさせられていた。

 そうして横になっていると、子供の泣く喧しい声が聞こえてくる。軽い眩暈を覚えつつ、男がのっそりと体を起こした。

「なんだ、亮のやつ、また泣いてるのか」

「しょうがないでしょ。まだ赤ちゃんなんだから」

 妻が子供をあやしているのが見える。ここ最近夜泣きが激しくて、まともに眠ることができていない。うんざりした顔をしながら、男が一服しようとタバコに手を伸ばす。

 その途端、妻から鋭い声が飛ぶ。

「ちょっと隆史さあ、亮の前でタバコ吸わないでって言ってるじゃない」

「分かったよ」

 刺すようなみちるの声にうんざりしながら、隆史はしぶしぶベランダへ出た。ベランダへ出て網戸を閉めても、亮の泣く声は変わらずよく聞こえてくる。

 泣き声を聞いていると、昔のことを思い出してしまう。

 夏の終わりのあの一件があってから、四人は自然と疎遠になっていった。各々個別の人間関係ができてきたこともあったし、集まって外で遊び回るという年齢でもなくなりつつあったからだ。とはいえそういったことより、顔を合わせてしまうとあの出来事を思い出してしまう、という心理的な面が大きかったのだけれど。

 会話をする機会も徐々に減っていき、いつしか年に一度顔を合わせるかどうか、という状態になっていった。そうして四人の関係はほとんど切れてしまっていたが、秘密だけは共有しつづけていた。

(けど、あの時のことを知ってるのは……もう二人しかいない)

 今もスリーパーの件を知っているのは隆史とみちるの二人だけ。絵里と準はどうしたのか。

 絵里は中学三年生の頃、家が全焼するほどの火事に巻き込まれて亡くなった。夏休みの終わりで登校日を翌日に控えていた時期だったから、学校中が大騒ぎになった。睡眠中に不審火が出たとは聞いたものの、具体的な出火原因は分かっていない。睡眠中の火事で、逃げる間もなく煙に巻かれてしまったという。かつて絵里の家があった場所は更地にされて、今も土地の買い手が付かないまま放置されつづけている。

 準はどうか。準は大学二年の夏、免許を取ったばかりの自動車を運転中に事故で死亡した。中央分離帯に激しく衝突して、車は原型を留めないほど大破したらしい。中にいた準は即死だった。詳しい原因は分かっていないものの、事故の状況から準が居眠り運転をしていたのではないかと見られている。

 いずれにせよ、絵里も準も死んでしまって、今はもうこの世にはいないことは明らかだった。

(それで、俺はみちると再会して……)

 隆史は高校生になってから、小学校を卒業すると同時に地元を離れたみちると再会した。しばらく会わない間にずいぶん世間ずれしたようで、以前とはすっかり印象が変わって見えた。田舎で年頃の男女二人が出会って、それも互いに勝手知ったる仲とくれば、自然とそういう雰囲気になるものだ。成り行きでみちるを抱いてしまうと、そのままずるずると関係が続いていった。

 高校を出た後は地元のホームセンターに就職して、小さなアパートを借りてひっそりと暮らしている。一年程前には子供も生まれた。それが先ほどから夜泣きを続けている亮だった。隆史は流されるまま今の環境に身を置いていて、未来にこれといった希望や願望を持てなくなっていた。みちるとの関係は冷めていたし、仕事もそこまで熱意を持って取り組めているわけではない。かと言って子供ができた以上、今更一人になることもできない。

 考えるのが億劫になって、隆史はもう一本タバコを取り出して火を付けた。みちると来たら、以前は自分に負けないくらいのヘビースモーカーだったというのに、亮が生まれてからはやけに煙を気にするようになった。だからこうしてタバコを吸うときはベランダへ追いやられてしまう。大きく煙を吸って一息に吐き出すと、ベランダの手すりにもたれかかる。

 ふと上を見ると、物干し竿に掛かった古びたリースが見えた。以前みちるが作って結びつけたものだ。風雨に晒されてすっかり劣化してしまっているが、輪っかの形は未だしっかりと残っている。風もないのにゆらゆら揺れるそれを見ていると、全身に熱さによるものではない冷たい汗がじっとりと浮かんで来る気がした。

 隆史がリースから目を逸らすと、二人の様子はどうかと窓越しに中を覗き込む。すると、先ほどまであれほど激しく泣いていた亮がすっかり静かになって、ベビーベッドの上で眠っているのが見えた。みちるも眠ったようだ、布団の上で横になっている。ようやく落ち着いたようだ、隆史がほっと胸を撫でおろす。タバコの火を消して、吸殻を排水口へ捨てる。

(俺も、眠くなってきたな)

 寝苦しかったのが嘘のように心地よい眠気を覚えて、大きな欠伸を一つする。明日もまた仕事がある。いつも通りの代わり映えのしない日常がやってくるのだ。これ以上起きている理由はない、隆史は二人を起こさないよう静かに窓を開けて、みちるの隣までのそのそと歩いていく。静かに布団の上へ横になると、そのまま眠気に任せて瞼を閉じようとした。

 そうして隆史の視界が完全に闇に染まる、ほんの一瞬前。

 

 人の形をした大きな人の影が、アパートの部屋の中に伸びているのが見えた気がした。