みつめるしおさい

著者:このポケマメは渡




 楽園のさえずりに、永遠に続くと思われた暗い夢から引き上げられる。

 頭の奥の鈍痛は、時差ボケという呪い。

 肌にさらさらと心地よいターコイズブルーのシーツの上、目を開いた。

 薄闇の中、枕元では私のニャスパーが未だ惰眠を貪りつつある。彼女はぷうぷう寝言を漏らしてはその愛らしい手足を宙でぱたつかせていた。しなやかな毛並みの前肢に頬をふみふみと揉まれるのはひじょうに快いものだ。灰色の子猫の一等ぽわぽわした胸に鼻先をうずめれば、甘い茉莉花の香りに包まれる。


 そして一方の我が相方はというと、彼の手持ちのシシコを温石代わりに腹に抱え、籐のソファにしどけなく寝そべって健やかな寝息を立てていた。

 アイボリーのTシャツにスレートグレーのハーフパンツというシンプルな服装が彼の伸びやかな褐色の手足を映えさせる。深い呼吸に合わせて腹がほのかに上下する。艶の戻った黒髪が額や頬にはらはらと落ちかかり、シシコの鼻先の朱色をくすぐるまで滞りなく流れている。その瞳は瞼の大地と黒い睫毛の奥でまどろんだままだ。赤林檎のような唇は無防備に緩く開いている。

 兄弟のような二頭の若獅子はすっかり安らいでいた。

 ここにきて何日目、何週間目か。数えてすらいないが、ようやく。穏やかに眠れるようになったようだ。



 天井の張られていないヴィラの架構は、力学の飾らない美しさを湛えている。

 壁も無く、細竹を綴った簾と硝子戸とが間を仕切るのみ。ベランダから差し込む光が、寝間をバニラ色に濡らす。

 相方の休む籐ソファの正面、卓上の青硝子の水盤にはホテルのキュワワーが摘んだピンクの薔薇――ロケラニの花がいくつも浮かべられて、一晩が経過しても変わらぬ歓迎と癒しの香気を放ち続けており。


 てっきり熱帯地方というのは朝から晩まで蒸し暑いものかと思っていたが、このアーカラ島のホテルしおさいのヴィラは存外涼しく、ただケララッパと思しき鳥ポケモンの声が黎明よりしきりにうるさい。私はベッドの上で身を起こし阿檀の葉で編まれた絨毯に素足を下ろす。

 飴色の床をぺたぺたと光の方へ彷徨い出る。通りかかりざま相方の黒髪を戯れに指先で梳くも、目を覚ます気配はなく気持ちよさそうに眠っていた。

 硝子張りの引き戸を開く。ヴィラのベランダに出て勾欄に体をひねるように腰掛ける。


 遠く、紺色の海面近く空に群れ漂う白雲を、旭日が薄紅色に染める。

 椰子の木の輪郭に縁どられ、我が目に映ずるその光景は眩しく神秘的で。

 ミントグリーンに透き渡った浅海の白い深呼吸が、かすかに海風に乗って届く。

 常夏の晴天の下、ヴィラを囲む南洋杉の林はむしろカロスの冷涼な曇天下の針葉樹林のよう。明るい色の芝生は、カロスの丘陵地帯を延々と切り取る淡い色彩の田園風景に似て。

 暗く寒い呪いを振り払うべく眼をしっかりと見開けば、いつのまにか空には大きく朝虹が浮かんでいた。

 ここは遠い、遠い南の楽園。




 それがあまりに見事な虹なので、私には相方の憂いなき寝顔を見続ける楽しみを奪われることよりも、相方が虹を見逃すことのほうが段々と勿体なく思われてきた。

 ふと思いつく。

 カロスに伝わるおとぎ話のように、呪いを解くことができたなら。

 ――しかし私はくだらない悪戯心と毒牙を収め、ただごく普通に起床を促した。

「メラノさん……アローラ?」

 これは相方の偽名だ。黒髪だから、メラノ。

「……アローラ、アルバさん」

 寝起きの声が私の偽名を呼ぶ。白髪だから、アルバ。


 メラノは至極面倒くさそうに瞼を押し開くと、人の顔を見るなりカエンジシのような大あくびをしてくれた。露わになった歯列は磨かれた大理石のように白く、舌も歯茎も健康的なピンク、今日も調子は良さそうだ。

 彼は気持ちよさそうに伸びをして震え、口をもごもごさせながら丸くなり再びクッションの山に潜った。ろくに眠れていない私もつい眠気を誘われ、ふわあ、とあくびをする。ついでにソファのそいつの右隣に雑に体をねじ込む。

「メラノさん、朝からすごい虹が出ているぞ」

「へー……その上を歩いて渡れるぐらい?」

「タップダンスにも耐える強度を誇る」

 つい先ほどまでいぎたなく眠り呆けていた相方の体も、その体が沈んでいたソファもぽかぽかと温かく、うとうとと瞼が重くなる。

「アルバさん……寄り掛かって寝られると、俺が虹の上でタップダンスできんのですが。というか、ニャスパーちゃんの枕を奪った恨みの念力で吹っ飛ばされんの、俺なんですが」

「いいだろ。それで」

「何のために俺を起こしたんだ、アンタ」

「吹っ飛ばしてもらえばいい、虹のふもとまで」

「詩的だね」

「素敵だろ」



***



 久しぶりに暖かな夢を見た気がする。

 午前10時ごろか、再び目を覚ますと頭痛の呪いは収まっていた。私の膝上ではいつの間にか可愛いニャスパーが微睡んでいて、ぎゅふぎゅふと甘えて頬を押し付けてくるのが堪らなく愛しい。

 毛繕いに勤しむシシコを膝に乗せて右肩には私の頭を凭れさせたメラノは、デカルトの『方法序説』の原書――といっても私たちの母語なので別に大した事ではない――を黙々と読んでいた。何故そんなものをわざわざバカンス先に持ってきたのか甚だ理解に苦しむ。

 私はそいつの右肩に顎を乗せてやった。

「再びアローラ、メラノさん。何だそれは?」

「再びアローラ、アルバさん。これは相手に賞金の小切手を書かせるときの下敷きだ」

「緊急重版待ったなしか」

「ところで、虹の生成過程を初めて説明したのってデカルトだよな?」

「どうせ私の空腹を癒す方法も説明してくれてるんだろうな」

「レストランで小切手でも書け、とさ」

「実用的すぎる」



 ホロキャスターのアプリで現地のラジオを聴く。ハリケーン接近の情報は無し、本日は終日快晴。

「メラノさん、水着は下に着てるな?」

「うい」

「日焼け止めは塗ったな?」

「うい」

「手持ちのボールと財布と身分証明書とホロキャスターは持ってるな?」

「うーい」

「じゃあ行こうか」

「ういー」

 メラノと私はサングラスをかけてビーチサンダルを裸足に引っかけ、ヴィラを出た。

 前の芝生にはライドギアのバンバドロを休ませてある。その背のウエスタンサドルにまず相方を押し上げて跨らせ、それから私がその後ろのタンデムサドルに飛び乗り、撓んだ手綱をとった。

 ゴーゴートと異なり乗る者にリーダーシップが求められるが、このバンバドロというのはギャロップやゼブライカに比べて圧倒的に従順で扱いやすく、ケンタロスより小回りがきき、更に成人二人を乗せても平気なほど持久力に富むという優秀なライドポケモンだ。

 仲良くきゃっきゃと大はしゃぎするニャスパーとシシコを宥めて、ゆるりとバンバドロに歩み出させた。


 私たちが宿泊しているヴィラはカンタイシティのホテルしおさいのものだが、そのヴィラの位置というのはせせらぎの丘にほど近い海岸にあたる。

 私たちは暑く眩しい青空の下、舗装されていない四番道路をバンバドロに下らせホテル本館を目指していた。

 速歩に調整すると、風が心地よく感じられた。右手に遥かに見下ろす群青の海にメラノが嘆声を漏らす。

 反対側の左手には蒼翠の森の奥に、せせらぎの丘に作られたタロイモの水田が鏡のように日の光を反射して煌めいているのが見える。




 ホテルしおさいの前庭の噴水は、カロスの四番道路パルテール街道のペルルの噴水を彷彿とさせる。

 紺碧の海の傍に佇むクラシカルな白亜のホテルしおさい本館は、まさしくアーカラの真珠、カンタイの貴婦人。海の神殿アクーシャもかくあれかしというコロニアル様式の壮麗な宮殿だ。

 ちらと見かけたホテルのプールには宿泊するカップルの雰囲気を盛り上げる為か、熱々の紅に色づいたラブカスが大量に放流されていた。爆笑が止まらない。ハートが泳ぐ。ハート型の鱗が虹色に閃く。メラノと私はにやにやしながらプールサイドを通り過ぎた。どうやらとんでもない所に来てしまったようだ。

 チップを渡してベルボーイにバンバドロを任せ、ニャスパーとメラノとシシコと共に白い列柱のエントランスをくぐると、やはり故郷カロスはパルファム宮殿を想起させるロココ調の、海をモチーフにした豪奢な内装が私たちを迎える。よもや温度までも海底を模しているのか冷房が効いており寒いぐらいだ。

 吹き抜けになったロビーでは複数組のカントーの新婚カップルがタキシードとウエディングドレスで写真撮影を行っていた。なるほどラブカスが大人気なわけである。


 蒼海が眼前に迫ってくるようなビーチフロントのレストランは、日が高いせいで客が少なく居心地が良かった。

 中庭にどっしりと根を下ろし屋根のように豊かに枝葉を茂らせている巨大なバニヤンツリーの、その涼しい樹陰のテラス席に私たちは腰かけた。パラソルの帆布の天幕が木漏れ日に眩しい。ここならば甘い潮騒を背景音楽に、爽やかな海風を浴びつつ、碧瑠璃のアローラの海を存分に眺め楽しむことができる。

 賑やかさを増す一方のツツケラのさえずりの降り注ぐ中、私は飲み物とパンケーキのブランチを二人分よどみなく注文してやった。

 私の向かい側のメラノはいつの間にか再び立ち現れていた海上の蒼穹の虹を見つめて寛いでいる。

「……なあアルバさん、知ってるか」

「何を?」

「アローラで旅行者が虹を見ると、またアローラに来れるって言われてんだと……」

「そうか。では私たちはいつかカロスに帰れるのかな」

 私は彼の横顔にそう苦笑を返すしかない。

 卓上の果物籠に野生のツツケラが数羽舞い降りてきた。ニャスパーとシシコがキルトクッションの上でこれ見よがしにあくびをしてもまるで構うことなく、小柄な鳥ポケモンたちは順にきのみをかすめ取り、南洋杉の梢の向こうへと飛び去ってゆく。私たちはぼんやりとそれを傍観していた。レストランの給仕もおおらかなもので小鳥たちにいちいち目くじらを立てることなく、焼きたてのパンケーキの大皿にきりりと冷えたパイルジュースを添えた。

「他にも……二重の虹なんてのを見たら、願い事を唱えるとそれが叶うそうだぞ」

「主虹と副虹のことか。コニコの文化圏じゃそれをドラゴンのつがいと見なして虹霓と呼ぶとか」

「それ鳳凰と混同しつつあるよな」

 二枚重ねられたパンケーキは新鮮なマゴとブリーの実が贅沢にあしらわれているところにココナッツシロップをたっぷりとかけて頂く。果物の酸味と自然な甘みが絶妙で、また生地はふかふかの食感、ほのかな塩味、しっとりとなめらかな口当たり。甘く優しい極上の味。

 メラノは大きな切れ端をもふもふ頬張りながら、更にもごもご呟いた。

「あと、このアーカラ島では月虹を見ると幸せになるって言われてるらしいぞ……」

 相方の視線は青空に浮かぶ虹にぼんやりと注がれ続けている。

 昔から夢想家だったが、ここにきてすっかり顕著なロマンチストぶりである。かつて美しいカロスをぶち壊そうとしていた男が、美しいアローラを面白がっているわけだ。

「楽しんでくれているようでよかった。案外いいところだな」

 甘酸っぱいパイルジュースを吸いながら私がそう呟くと、正面でメラノもぐらぐら頷いた。

「ん。アホみたいに暑くて異常にテンション上がるな」

「……元フレア団員に対する関心が薄いから楽だな。いっそこのままイッシュに亡命するか?」

 そう半ば本気で尋ねると、彼は無表情でどもり始めた。

「In fact……Me, I don’t speak English very well……」

「ハロー?」

「あ、アぁ……アロォー」

「ぷっ……くっ、くくく、ふ、プァッ」


 まあ確かにH音が発音できなくたって、ハローすら言えなくたって、このアローラでならさほど困りはしない。

 私たちはブランチと共に他愛のないお喋りを楽しんだ。

「そういえばメラノさん、昨日カンタイの観光案内所で妙な木彫りを見ただろう。あれは何だ?」

「ティキっつーアローラの神像の置物バージョン。四種類あって、アローラ四大神を象ってんだと……」

「カプ・コケコとかのことか?」

「……そのコケコとかテテフとかブルルとかレヒレっての、カントーやイッシュの移民が適当につけた名前らしいぞ。ほら、アローラじゃロコンのこと《ケオケオ》って呼んだりするだろ? アローラの守り神も元々はそれぞれ戦の神《クー》、命の神《カネ》、実りの神《ロノ》、彼岸の神《カナロア》って呼ばれてたそうな」

「このアーカラの守り神はカプ・テテフ……命の神《カネ》にあたるわけか」

「うい。《カネ》は太陽の光や新鮮な水など、生命の根源となる要素を司っておられる。アローラの伝統的な主食であるタロイモも《カネ》がもたらしたものだとか。ちなみにコケコと違って、テテフは生贄を要求しない穏やかな神なんだと」

「……虹の伝承の件もそうだが、やたら詳しいな」

「頑張って予習した……」

「英語を頑張って予習してほしかった……」


 メラノと私は南国の楽天的な海風に流されて話し続けた。

 そもそもカロス人は総じて喋り好きだといえよう。

 そんなわけだから、旧約聖書でノアが飛ばしたのは白マメパトと白ポッポのどちらかだとか、炒りナマコブシと乾しパルシェンとサメハダー鰭が三つ合わせて『タワラモノ』と呼ばれるホウエン地方の高級輸出食材とされたのは何故かだとか、あの散歩道を行く観光客の出身地はどこだろうかだとか、論題は迷走した。

「――ああメラノさん、例えばあれは明らかにカントーの家族連れだ。猫背ですり足気味」

「それな」

「で、あれがイッシュ人。声がでかい上に歩き方が粗雑。あとファッションが微妙。肥満体形も多い」

「イッシュ人に恨みでもあんの?」

「それに比べて、見ろ、今レストランに入ってきたサングラスのカップルを。あのようなラフな服装でも自分流に着こなせていて洗練された印象を受けるし、歩き方も重心が高く美しい。カロス人はもれなく歩く時の腰の振り方などにカロス的な特徴がみられるものだ」

「それ自慢?」

「に見せかけたお前への称賛だよ」

 そんなことを言い合っていると――私たちの使っていた祖国の言葉が耳に届いたか、それとも私たちのニャスパーとシシコが目に留まったか。サングラスをかけたカロス人カップルのほうも私たちを同郷の者と見定めたとみえて、確信に満ちた足取りでこちらに歩み寄ってきた。

 しかし、私たちはよほど油断していたのだろう。その二人がサングラスを外す瞬間まで、そのことに気づかなかったのだから。


 脊髄を氷で砕かれた。

 世界が薄闇に沈んだ。

 カロス地方のプラターヌ博士の助手が、目の前に。



***



 青みがかった黒髪のマダムは白のレイヤードホルターネック、ダメージデニムホットパンツに、ピンクのバタフライサングラスをかけている。金髪のムッシュはアローラナッシー柄の黄色いTシャツと七分丈デニムジーンズで、こちらは青いメタルフレームサングラスだ。二人とも抜群のスタイルがなせる業かそれとも隠し切れぬセンスの発露か、いやにスタイリッシュに決まっている。

 そんな彼らに目をつけられた私はニャスパーを膝の上に呼んで、ひそかに息を吐いた。その紫水晶の瞳を見つめながら柔らかな毛並みに触れて心を静める。相方も相方で、迷惑がるシシコの砂色の耳や尾をふにふにといじりながら、心なしか冷ややかな視線を落としてその二人の出方を窺っていた。

 元フレア団大幹部もリーグであの子供と対峙する時、こんな気分を味わっただろうか。


 その仲睦まじげなカロス男女二人組は、フレア団を叩きのめした上に『パレード』などという色々な意味で凄まじいパフォーマンスをミアレシティのど真ん中でド派手に催してくれた、プラターヌ博士のその手先である。

 それに対する私たちは二人とも、かつてフレア団に所属していた悪者である。

 ただ、フレア団といえばご存じ洒落た赤いスーツとウィッグとサングラスだ。フレア団時代だってメラノは年がら年中黒スーツで法務に邁進していたし、私は年がら年中白衣で不老不死の研究に勤しんでいた。そして今はそれにも増して、髪はぼさぼさ手足はむき出しでバカンス満喫中の駄目人間である。よもや一目見ただけでフレア団と関連付けられることはあるまい。

 案の定、私たちの前でいそいそとサングラスを外している二人組はまさか私たちが元フレア団員だなどとは夢にも思わないらしく、警戒心が欠片も無い様子だ。

 普通のカロスのカップルならば観光先でも二人だけの世界を作り上げていることが多いのに、彼らは既にアローラで長いのかやたらと他者に対してフレンドリーだった。


「アローラ! ボンジュール! もしかしなくてもカロスから来られた方ですわね?」

「アローラ! よかったら食事の間、少しお話でもしませんか?」

 言いつつ表情豊かなマダムとムッシュは私たちのすぐ近くのテーブル席を占めたので、やむなく私たちは彼らと握手を交わし、偽名を伝えるはめになった。

「私はアルバです」

「俺はメラノ」

「どうぞよろしくお願いいたしますわ! 麗しいあたくしの麗しい名前はジーナ!」

「ぼくはデクシオ。プラターヌ博士からポケモンと図鑑を託された……いうなれば博士の弟子です」

 ええよく存じ上げておりますとも。私などはフレア団の仕事でご両人のホロキャスターを盗聴させていただき、更にカロス発電所やフラダリラボそして件のパレードでは直にそのご尊顔を拝察して、ぶっちゃけると醜い感情を一方的に募らせていたのだから。

 何故なら、彼らは真っ当な人生を全うしている生粋のエリートトレーナーだから。そして私たちも自らの正義を信じてフレア団として全力で戦っていたのだから。

 それが今となっては破壊の炎は潰え、毒の花は萎んでしまった。フラダリ様は生死不明のままだ。

 であればもうプラターヌ博士の一派とは私たちは何ら関係ないはずだ。

 この人たちはメラノと私が元フレア団員と知ったら、一体どうするつもりなのか。



 私と相方が不躾に胡散臭げな視線をよこすのにも構わずマダム・ジーナとムッシュ・デクシオは私たちのニャスパーとシシコにも丁寧に挨拶をしてくれたから、なるほど流石はカロスの光を代表するプラターヌ博士の助手であると思われた。さりげなく左手首にお揃いのアクセサリーとでもいうように白いメガリングを着けているのには悪意すら感じるが。

「アルバさんとメラノさんのお姿は数週間前からお見かけしておりましたわ!」

「ずっとホテル近辺におられますよね?」

「ここアーカラは雄大な自然を楽しむのに絶好の楽園でしてよ!」

「ジーナとぼくは既に滞在を始めてけっこう経ちますし、同郷のよしみで名所の案内などしますよ?」

 そう易々と申し出てくれるあたり、まこと善人の模範である。

 しかし私たちは、まだ時差ボケが落ち着かないのでこの近辺でおとなしくしているつもりだと答えてお断りした。するとマダムとムッシュはアーカラ島の絶景スポットや名物について事細かに語ってくれて、自分たちの食事にもろくに手をつけないというお人好しぶりを披露してくれるのである。ギャルソン――否ここではウェイターと呼ぶべきか――が手早く皿に透明なカバーをかけて、人慣れした鳥ポケモンから彼らの食事を守っていた。

 無論カロス人は話好きだ。アローラを語り尽くせばしぜん話はカロスに移る。ご出身は? お仕事は? トレーナー暦は? もちろん私とメラノは素知らぬ顔で嘘をつく。


「そういえば、このアローラ地方の各リゾート地には複数の元フレア団員が潜伏しているという噂がありまして」

 そう語ったのはムッシュ・デクシオである。相方と私はひそかに緊張を高めた――やはりその話になるか。

 マダム・ジーナもこそこそと顔を寄せ、わざとらしく声を潜めてくる。

「あたくしたちはプラターヌ博士の代理として元団員との接触を試みてるのですけれど、それがなかなか捕まらないんですのよ……!」

「フレア団にはカロスのさる名家の方々も所属されていたとかぼくたちは聞き及んでいます。プラターヌ博士もフラダリさんと親交があったぐらいですしね」

「とにかくフレア団にはリッチな方が多くて、そうした方がカロスからこのアローラのリゾート地に大勢逃れてきているようですわ」

「とにかくアルバさんもメラノさんも、フレア団には気を付けてくださいね」

「お二人は折角、フレア団を厭われてこちらにいらしたのでしょうに……」

 ええ、と反射的に私は頷いてみせていた。

 メラノは考えの読めない無表情のまま、それらしいことを口から出まかせに喋り出す。

「奴らのせいでカロスは大損害だしな。貨幣とか株式とか大暴落でまだ不況続いてるし、元セキタイ住民への賠償だってなんだかんだ無責任な言い訳して不十分だしよ」

 ひやりとした――そこまで言うか?


 しかしプラターヌ博士の弟子たちは気付かなかったようで、私はこっそり冷笑すらしてしまった。

「ええ仰る通りですわ! しかもなんとフレア団のナンバーツーに至ってはその存在以外、尻尾すら掴めていないそうですわよ!」

 私たちがあえて驚き怒ってみせると、それに対してムッシュ・デクシオとマダム・ジーナは一転して気の毒げな表情になった。私たちを憐れんでいるのかと一瞬だけ殺意が芽生えかける。

「あの、確かにフラダリさんや幹部の消息がつかめないのも心配ですが……一方で元団員の社会復帰が進んでいない現状も、ぼくらは問題だと感じてるんですよ」

 ほう、実にお心優しいことで。

「お二人には申し訳ないけれど、あたくしたちが元フレア団員と話をしたいのは実はそういった理由からですのよ。やはりカロス全体が混乱しているせいで、各地で元団員が暴行を受けたという事件もたびたび起きていますし……同情の余地がないとも言い切れませんもの」

「私はそれこそフレア団の自業自得だと思いますがね。本当にカロスはどうなることやら」

 アグレッシブさはメラノに劣るけれど、私も私なりに熱心にブラフを撒く。




 ――元フレア団員が、殺された。フラダリラボの不祥事の余波で職を失い将来を悲観して自殺した女性の娘の、復讐の犠牲となった。

 今や誰もがポケモンという凶器を持つ時代、僅かな恨みを買うだけですぐ命を奪われる時代だ。であればこそ世界中の誰もがポケモントレーナーにこれでもかというほど親切にするわけだが。

 とにもかくにも、元フレア団員が不審死を遂げた話など腐るほど聞いている。正確には、元団員間の情報網にはそのような話が玉石混交で溢れかえっている。だから資産ある元フレア団員はこぞってさっさとアローラやイッシュに亡命してしまった。

 私とメラノだって同じだ。カロスで命の危険を覚えたから名を偽ってまでアローラに来たのだ、それ以上の理由は無い。別にバカンスを楽しみに来たわけではない。


 あれだけ壊したかったカロスが今は懐かしいのは、あそこが相方と共に青い春ならぬ赤い春を謳歌した地だからだろうか。とにかくカロスの気候が食事が言葉が風景が祭りがすべてが誇らしく恋しい。社会復帰というものができるならばとっくにそうしている。

 でも無理じゃないか。この根っからの善人の二人組はいざ知らず、カロスでのフレア団の扱いというのは絶対悪も同然で、およそカロスの人間はすべからく『あの五人組』を崇拝し元フレア団員を憎んでいるのだ。



***



 苦みのきいたグランブルマウンテンコーヒーを飲み干し、プラターヌ博士の助手たちと別れてレストランを出たのは既に正午ごろのことだった。

 そのまま腹ごなし兼気晴らしに、ホテルしおさいの誇る広大なトロピカルガーデンを探索した。それは巨大な屋外プールと一体となっており、さながらジャングルの河岸の様相を呈して人やポケモンの遊び心を喚起する。

 アローラの強い日差しと青空の下、メラノと私も水着でプールに入った。

 水は冷たく心地いい。

 あまりに広すぎるこの熱帯植物庭園プールは当然の成り行きで人口密度が低く、ほとんどプライベートビーチにいる気分でのびのびと寛ぐことができた。私のニャスパーは私にくっつくようにしてプールで懸命に短い手足をばたつかせて泳ぎ、相方のシシコはモンステラやシダ類の生い茂る陸地を嬉々として走り回る。


 青い房をいくつもつけたバナナの木の上には野生のナゲツケサルの群れが集まっていた。うっかり近づけば硬い椰子の実を剛速球で投げつけられ頭蓋骨陥没待ったなしなので、よくよく注意しなければならない。

 野生のアブリーを誘い集めている、赤黄桃橙白と多彩なハイビスカス、淡紅色の月桃、黄色い天鵞絨のようなアラマンダ、鮮紅色の南洋桜、色とりどりのブーゲンビリア、白く吊下った朝顔、真紅の火花のオヒアレフア、黄赤色の火焔葛、深紅の仏炎苞から花序の伸びたアンスリウム、緋色の凌霄花、甘い香りのプルメリア、花穂を垂らした紅紐の木、櫻花を紫に染めたかのようなジャカランダ――それらの名前をひとつひとつメラノは教えてくれた。明るく暖かく笑いながら。

 彼は見慣れない極彩色に夢中で、片っ端から花の香りを嗅いで回っているのだった。プラターヌ博士の弟子二人組に会った時からそこはかとなく強張っていた表情はあっという間に氷解し、水を得たヨワシのようにすいすいと泳ぐ。

 よほどここが気に入ったようだ。

 私は潜水する。

 冷ややかなエメラルド色に水底が輝いて揺れる。

 その視界にどぷんとメラノの呑気な笑顔が飛び込んできた。まさかこの私を追って潜ってきたのだろうか。豊かな長い黒髪がゆらゆらと揺れて、まるでダダリンのようだ。

 そして私たちはノリで水中じゃんけんをした。

 私がチョキでそいつの胸の突起をちょんと挟んだらそいつは顔を真っ赤にして泣きながら逃げていったのでおそらく私の勝ちである。




 ゆったりと時間が過ぎていく。

 蝶のように花から花へと誘われるメラノに付き合って広大な植物園プールをどうにか一周し、さすがに疲れた私たちはオーシャンビューのカフェラウンジで午後のティータイムと洒落こんだ。

 エネココアと、主に手持ちのポケモンたちの為にポケマメとマラサダを注文した。

 濃厚な味のふわふわなココアをテラスで啜りながら、店の前の砂浜でおやつタイムに入ったポケモンたちを優雅に観察する。彼らは色味豊かなポケマメやマラサダを興味深げに齧り、またゼリーのような南国の海やカラフルな熱帯植物にじっと見入り、空気のにおいをしきりに嗅ぎ、やがて店内から見える範囲をうろつきまわったり椰子の木陰で昼寝したりと思い思いにリラックスし始めた。

 それでメラノと私もひとまず安心して、食べ残されたポケマメに手を伸ばしてみた。ぽりぽりとした食感で、独特な風味があるものの旨みがあり慣れればそこそこいける。この豆はボックスに預けられたポケモンたちがポケリゾートと呼ばれる無人島で収穫しているのだ、とカフェのマスターは語った。


「おう……ついにポケモン融通ビジネスの先駆けが現れたか……」

「銀行みたいだな」

「まさしくポケモン銀行だろ。ポケモンを預けて、預かり主はそのポケモンを使って稼いで、預け主のトレーナーは利子としてリゾートでポケモンが採ったものを受け取る……素朴な形態だが画期的だ。アローラのそのポケリゾートってとこは個人経営だけど、絶対ほかの地方でも流行るわ。政府主導で開発されるぞ絶対」

 そう語る相方の声は低いけれど流暢で、それまで茫洋としていた金茶の瞳には次第に強い理性の光が宿ってきているのだった。

「ボックスに預けたポケモンが死蔵されるのは経済的な損失だって発想だよ。ボックスに無期禁錮なんて可哀想だっつープラズマ団的な論拠はおまけみたいなもんだが、そういう大衆受けする大義名分があるからこそ、トレーナーにポケモンをどんどん捕獲させたり繁殖させたりするインセンティブになる。政府はその余剰資産を労働力として運用する。野に放たれるポケモンは減少して生態系や環境も保全されるから、アクア団・マグマ団的発想からしても良いこと尽くめだ」

「でもそれ、ロケット団とやってること大差なくないか?」

「多数決の暴力でどうとでもなる」

 そう語る相方の背筋がまっすぐに伸びてくる。

 さも楽しそうに冷笑している。

「更には労働力として提供されるポケモンを監督する人間が現場には必要不可欠だから、トレーナーの需要も増加する。落ちこぼれトレーナーにも雇用の扉が開かれるわけだ。最高だな。――どうだアルバさん、ポケリゾートとやらを見学して経営のノウハウを教われば各国政府から引っ張りだこ間違いないぞ?」


 私はココナッツクリームがたっぷり詰まったマラサダパフをつまみながら、ただただ、相方がかつてのように冷静に社会分析する姿が見られたのが懐かしく嬉しかった。フレア団が壊滅してからというもの私たちはそれぞれの生き甲斐を喪失し、身を縮めて息を殺してひたすら世間の悪意から逃げ惑ってきたからだ。

「メラノさんがそう言うなら、ポケリゾートに研修に行くかな」

「……え、行くんか?」

「お前がそう勧めたんだろう?」

 途端に椅子の上で背を丸めてぼそぼそ口調に戻ってしまったメラノに、私は指についた粉砂糖を舐めながら笑いかけてやった。

「…………なんてな。忘れよう」



***



 それから私たちは再びバンバドロを駆って、より北にある穴場ビーチに向かった。

 いかにも火山帯らしい色の濃い砂浜が広がっている。

 外に出して連れ歩いていたポケモンたちも、私たちに従い海へと向かっていく。相方のシシコと私のニャスパーもさっそく泡立つ白波と戯れ始めた。

 アローラの海は、ドビュッシーの交響詩の如きカロスの海とはまったく異なる様相を呈している。砂底まで透き通った海はブルーとグリーンの斑模様を成して鮮やかに輝いて、浅海にひしめくサニーゴもライフセーバーのハギギシリも波間に紛れさせてしまう。

 海面でケイコウオが跳ねて、キャモメにあっという間に攫われるのも目に眩しい。

 よく日焼けした碧眼のライチュウが尾をサーフボードにして波に乗る。

 砂浜ではスナバァに心を奪われた幼子の手から魔のスコップをもぎ取ろうと大人たちが奮闘している。

 浜のあちらこちらにパラソルがさされ、大判タオルを砂に敷き寝ころび肌を焼く者、シュノーケリングをする者、サーフィンをする者、カヤックを漕ぐ者、ヨットを操る者、岩場で釣りをする者など、人々は思い思いにアーカラ島のビーチを満喫していた。

 水際の火山岩の上では間抜け面のヤドンが尻尾と共に涎を垂らしており、そのあまりの相方との酷似に私はつい噴き出してしまう。

 その当のメラノは野生のナマコブシを故意にか過失でか蹴飛ばしていた。ピンクの突起の生えた黒い丸は放物線を描いてぼちゃんと海に落ちる。彼は「踏まなくてよかった」と呑気に笑った。私もそう思う。軸足の向う脛を殴られて骨折なんて痛すぎるだろう。


 日焼け止めを体に塗り直すと、私とメラノは碧落の下、熱い砂浜に寝転がった。

 いつ時差ボケの呪いで睡魔に襲われるか分からなかったし、夕刻にはホテルのイベントに参加する予定を組み入れてあったから、時間のある内にのんびりするに限る。

 左隣のメラノがうっとりと目を閉じつつ呟いた。

「……ああ、《マナ》が俺の中に満ちてくる……」

「何故いきなりマナさんに掘られてるんだお前は……」

「……《マナ》ってのはアローラで言う魂、あるいは超自然的な霊力、もしくは生体エネルギーとか、そんなもんのことだよ……俺たちが列石でポケモンたちから吸い上げて最終兵器に注いでたのは、きっと《マナ》だ」

 その《マナ》とやらがこのアローラの大自然には満ちていて、メラノを癒しているとのことだ。そう語る相方の腹の上にはなぜかランボーの詩集『地獄の季節』が乗せられていて、だから何故そんな物をバカンスに持ち込むのか小一時間問い詰めたい。

 勿論そのようなことをしても詮無いことは分かりきっているので、私は何も言わずサングラスをかけ、暴力的な太陽を霞ませた。


 メラノはこの数週間ほどですっかりアローラ地方に浸りきっている。もしかしたら死ぬまでこの楽園で悠々自適の生活をしたいと思っているかもしれない。

 それも当然だ。

 この島でなら、過熱報道上等のメディアに追い回されることもない。入店を断られることもない。通りすがりに唾を吐きかけられることもない。急に正面から怒鳴り散らされることもない。調子に乗った勘違いトレーナーどもに思い出したように荷物をかすめ取られたり、呪いや泥や熱湯をかけられたり、尖った氷や石を投げられたり、食事に毒を入れられたり、早朝から周囲で騒音を撒き散らされたり、理不尽なポケモンバトルを強引に仕掛けられることもない。


 だが、ここは暑い。私には眩しい。息苦しい。心ごと腐敗していきそうだ。

 私たちは所詮、曇天の下のカロスで陰気に――あくまで比較の問題だが――暮らすのが相応しいのではないだろうか。

 夏の数週間ならば暑さにフラフラダンスで混乱しているのも楽しかろう。けれど私は既に恋しい、秋の収穫祭で味わう新酒が。長い暗黒の寒夜をイルミネーションと暖炉の炎で温めるノエルが。萌えいづる春のイースターが。短夜の夏至の音楽祭が。

 そう、アローラには無いのだ。

 四季というものが。

 よって生命の循環という発想がここには欠けている。

 アローラ地方というのはそもそも、ゼルネアスやイベルタルやジガルデの出る幕などない場所なのだろう。理性でもって運命を制御するという発想を持たない、鬱陶しいまでに熱く楽観的な南国だ。ここの支配者は太陽と月と星と土地神だけ。神の感情、恣意、あるいは気まぐれによって楽園は永遠の中に切り取られる。

 ずっとここにいては堕落してしまう。

 我が相方にはフレア団に所属していた頃のように、聡慧な男であってほしいと思うのだ。昔のように凛と背筋を伸ばして、怜悧で、道行く女性から秋波を送られるほどの人物であってほしい。それだけの才覚があるのだから。私はあの時の彼に救われ、憧れたのだから。

 私の目標であり続けてくれ。失望させないでくれ。リージョンフォームをかなぐり捨てて本来のお前に帰ってくれよ。

 サングラスの下の私の心はあの薄暗く涼しいカロスの曇天の下を彷徨っている。

 ――帰りたい。

 元気になったのなら、いつまでも呆けていないで、早く昔のお前に戻ってほしいと願う。




 だから私は覚悟を固めつつ、サングラスの下で決然と瞼を閉じた。

「メラノさん……私にもしものことがあったら、ポケモンたちのことはお前に頼むからな」

「何それプロポーズ?」

「あァ?」

 自分で思った以上に低い声が出た。しかし分からない。なぜだ。なぜ遺言が結婚申込に曲解されねばならんのだ。

 私の正当なる周章狼狽などつゆも関係ないとでも言うかのように、メラノはごろりと体ごとこちらを向くと、自分のサングラスを外して至極まじめな表情でこのようにのたまった。

「死後に俺にポケモンを譲るってことは、アルバさんは俺にアンタのポケモンを相続してほしいと願っている、ちゅうことで間違いないな?」

「……ああ」

「だがその前提として、現状、俺は法律上は、アルバさんとは完全なる赤の他人だ。で、その状況でアンタが死んだ場合、アンタの親が出しゃばってくるってのが一番めんどくさいパターンなわけ。世の中の相続制度にゃ遺留分っつーもんがあってな。遺留分ってのは、『被相続人の財産の中で、法律上その取得が一定の相続人に留保されていて、被相続人による自由な処分に対して制限が加えられている持分割合』のことだ。そしてアルバさんの親には、アンタが死んだときに遺留分の減殺を請求する権利がある。そこで、あくまでもアルバさんのポケモンたちはこの俺が譲り受けるとする。じゃあそれってアンタの遺した全財産のうち何割に当たんのか? つまり、アルバさんのポケモンはおいくらなのって話。アンタの親が出張ってきたら実際にそういう問題になるわけよ。ごねられたら俺がアンタの親に何百万単位で遺留分を価額弁償しなきゃならんくなる。もちろん裁判で争うこともできるがよ、面倒くさすぎるだろ。俺が」


 私はもはやメラノの知識自慢などまともに聞いていなかった。私がイラつくだけだと知っているくせに何故また長々とご高説を垂れるのかが疑問で、はたと思い至った。

 ――彼は、急に遺言をし出した私の心など見透かしている。

 だからこそ、このように真面目に法律の話をしてくれている、らしい。これは長年付き合ってきた友人としての単なる勘だけれど。


 ああ、そうか。

 やはりお前は聡いな。

 私は暗い空を見つめる。するとそこには主虹とその色の順を反転させた薄い副虹、すなわち二重の虹が大きく架かっていた。

 一般的に、サングラス越しの色は鮮やかに見えるものだ。

 裸眼の相方には見えていないかもしれない。


 そいつの煙水晶のような金茶色の瞳がきょろりと動き、私のサングラスの奥を、私をしっかと見つめてくる。

「だから俺が言いたいのはね、アルバさん」

「……何ですか、メラノさん」

「死後に俺にポケモンを譲りたいと思ってんなら、アンタはまず俺と結婚して配偶者という法的地位を得るべきだな、うん」

 そうだな、確かそんな話だったな。

 どうせそれが嫌なら余計なことはせずこのアローラでおとなしくしていろとでも言うんだろう、このタコが。

 私がサングラスの下で眉間に皺を寄せまくっていると、そいつはさざ波のように笑った。

「その手続きとしてはまず、二人揃ってカロスの役所に行ってだな」

「はい?」

「どんな書類を揃える必要があるかは、そこで教えてもらえるから」

「おい?」

「まあよく考えながら、暖かくして《マナ》でも蓄えて、ゆっくりおやすみな」

 相方は私のほうに右手を伸ばしながら、波音にかき消されそうな声でそう囁いた。

 熱い指先が私の唇に優しく触れ、そしてサングラスを奪った。

 彼の笑顔がひどく温かく、眩しい。



***



 相方を見くびっていたことを私は認めざるを得なかった。

 北国でクールに決めていようが南国でぬるく呆けていようが、こいつは私の自己中心的な思考を見通すぐらいには侮れないことに変わりはない、ということだ。そうして、相方をアローラに残して私一人でカロスに帰国するという密かな計画はものの数分でおじゃんになったわけである。

 不思議と、笑いがこみ上げてくる。

 熱い日差しの下、そいつの右手の指と私の左手の指を絡めながら、穏やかな気分で眠りに落ちていった。


 午睡から醒めたのは15時ごろだった。

 深く眠れはしたものの、慣れない日光浴のために暑さのあまり頭は朦朧とし、肌も焼けてひりひりする。カロス人のくせに生まれてこのかたクソ真面目に勉学や仕事ばかりにかまけてバカンスに慣れ親しまなかったツケが今ここに回ってきたわけである。

 暑い。だるい。苦しい。

 とりあえずこちらものぼせ気味の手持ちのポケモンたちを全員ボールに戻してやり、メラノと私はふらふらとヴィラに引き上げようとした。

 しかしその途中、道端の小さな広場でカロスのマルシェと同じようにたっぷりの青果が屋台で売られているのに遭遇した。ロゼル、バンジ、マゴ、イア、パイル、ラブタ、ロメ、カイス、チーゴ、ズリ、ブリー、ウブ、ナナ、オレン、ラム、ウイ、ゴス、イバン、ヤチェ、ヤタピ、オボン、チイラ、リュガ、スターなどが色鮮やかに山と積まれ、甘い香りを漂わせている。

 太陽に虐げられた体は、太陽のエネルギーをたっぷり浴びて瑞々しいそれらを渇望していた。メラノが欲しがるトロピカルフルーツを両の腕から溢れるほど選び、笑顔の眩しい地元の農家の方に重さを量ってもらいほうほうの体で代金を支払うと、虚弱な北方人に見かねたか二人分の天然ココナッツジュースをおまけしてくれた。

 甘い。生き返る。

「あー、《マナ》補給完了」

「なるほど、これが《マナ》というやつか」

 クールダウンして元気を取り戻し、意気揚々とせせらぎの丘近くのヴィラに帰った。

 そしてヴィラに備え付けてあったミキサーでそのフルーツを片っ端から粉砕し、大量のミックスジュースを作って手持ちのポケモンたちと一緒に浴びるように飲んだのである。

 甘くとろみのある南国の飲み物は元気をくれる。たっぷりと水分を補給し、再び天上の至福を味わう。

 ポケモン用のドリンクボトルにジュースを詰めて腕に抱いたニャスパーに飲ませてあげるのは、まるで赤ん坊にミルクを与えてでもいるみたいで母性がくすぐられて幸せな気分になる。ぴちゃぴちゃちろちろと小さな舌先で舐めるのもたいそう愛らしいし、んくんくと喉を鳴らすのは言うも更なり。メラノも同じようにして彼のシシコに《マナ》とやらを与えてやっているのが実にままごとじみていて微笑ましい。

「手際がよろしいですね、メラノさん」

「アルバお義母さんもなかなかのお手際でしてよ。でも最強の母はアタシよ」

「何よこの泥棒ニャースっ」

「何よこの古ジグザグマっ」

「何よこの女キュウコンっ。あんたに食わす秋ビスナは無いわよ!」

「まさか……アタシの体を冷やさないように……!? な、なんて優しいの……好き!」――――ハグ。

 ハッピーエンドと引き換えに、私たちの腕の中にいたニャスパーとシシコは投げ飛ばされました。


 ニャスパーにふくれっ面をされ、シシコに唸られながら私はソファに座り込み目を閉じた。甘ったるい果汁のおかげで体が潤い、頭が回り始める。

 暑くて苦しいこともあるけれど、このあたたかな幸せは故郷では得られなかったものだ。だからこの地には感謝しているし、もう少しだけ欲張ってもいいかと思った次第である。

「ところでメラノさん、人生には挑戦が必要だと思わないか?」

「……ん?」

 籐椅子にだらしなく倒れ込んでちゅうちゅうとトロピカルミックスジュースを飲んでいたメラノが、心なしか緊張気味に上目遣いで私を見上げる。

 私はグラスを置いてソファから立ち上がると彼を上から覗き込み、その黒髪に指を差し入れてぬくもりのある頭をかき撫でてやった。

 こんなことを彼にするのは初めてだ。

 彼は気持ちよさげに瞑目する。

「お前がこのアーカラ島の自然と触れ合って《マナ》とやらを得るのは素晴らしいことだ。その経験はお前の心や人生そのものを豊かにする。だが、己の好む楽しい物や楽な事にばかり触手を伸ばしているのは、偏狭な人間を作る原因だと思う」

「……ほ、ほう……」

「確かに無理をするのは駄目だ。だが、適度な努力は良い刺激、良い薬となってお前の人生に更なる幸福をもたらすだろう。だいじょうぶ、私も手伝うから……」

「……………………?」

 彼はぎこちなく固まってしまった。

 私は微笑んでその首に腕を回し、彼の耳元で囁いた。

「スパ、行こうな」

「――そう言うんじゃって気がしてた! 嫌だッ!」



***



 いやだーいやだースパゲッティーになりたくないー、と盛大に駄々をこねる成人男性を引きずって、私はホテルしおさいのスパのエントランスに来ていた。たかが入浴ごときでスパゲティ現象が起きるものか、まったく温泉をブラックホールか何かと勘違いしているんじゃないのか。これだから文系は。

 暴れるそいつをバンバドロに乗せられず結局ヴィラからホテル本館まで歩いてきてしまって、現在は16時半ほど。夕食の予定までまだしばらく時間がある。そのイベントに備えて先に入浴を済ませるのが合理的だと私は判断したのだ。それもヴィラのシャワーで済ますなんて勿体ないだろうが、せっかく火山帯のアローラに来ているのに。

 否が応でもパルファム宮殿を思い出させるミロカロス像の見下ろすフロントでチェックインをし、多彩なサービスメニューの中からアローラ伝統のロミロミマッサージを私の独断で選ばせていただいた。

 手持ちのポケモンたちも全員それぞれのタイプに合った専用のスパに送り出して、メラノを引きずる私が向かった人間用のそれは水着着用かつ混浴形式の湯で、どちらかというとプールや海水浴のような感覚で入るものだ。



 そこは吹き抜けのアトリウムになっており、高級感あふれる白金色の湯気と光がやわらかく空間に満ちていた。

 その中央に円形のミントグリーンのジャグジーが泉のように煌めいて静まっている。

 熱湯に入るなんて正気の沙汰じゃないなどと戦々恐々のメラノをジャグジーに突き落とし、私も同じ大きな浴槽に浸かった。

「盟神探湯ッ!」

「ふうん、何かやましい事でもあるのか?」

 絶叫するそいつを頭から沈没させ黙らせて、私は全身を優しく刺激する湯の泡を堪能しつつ周囲をのんびりと見回した。

 穏やかなカーブを描く大理石の浴槽に南国の植物が緑を添え、籠にふんだんに積まれた真白なボディタオルには紫紅の蘭が品よく散らされている。


 アローラ産の薬草や果物、香辛料、精油と海水塩をブレンドしたバスソルトの湯壺は複数あって、クラボ色、ロメ色、チーゴ色、ブリー色、オボン色と見た目にも鮮やかに美しい。色ごとに効能も違うそうで、私はその全てに茹でダコじみたメラノを連れ回してたっぷりと汗をかかせた。

「気持ちいいだろう……?」

「あ、あつい……だめ……」

「……まだいけるだろ……《マナ》とやらがお前の中に、満ちて……ほら」

「ちょ……やめ……あ……」

「ああもう……お前は本当に早いな……」

「……ひ、ひどい」

 ――という茶番を演じながら、ぐったりとした茹でダコを湯船の傍らにあるチェアに干した。ジャクジー脇に備え付けられていたサーバーから香り高いアイスロズレイティーをカップに注ぎ、そいつに飲ませて回復を待つ。



 動ける状態になったら更衣室でガウンを着て、私たちは外に出た――静かに豊かに水が流れ、多種多様なシダが茂るホテルしおさいのトロピカルガーデンに。

 日がだいぶ海に近くなっている。

 ほのかな夕闇の中、庭園は赤い篝火が灯されて幻想的な表情を湛えていた。

 夜と共に萎んでしまうハイビスカスは深い紅紫に染まり、夕映えに揺れる。

 落暉を揺らすプールの水面を石伝いに渡っていくと、椰子の葉で葺かれたうつくしい東屋に白いシーツの敷かれたマッサージ台が誂えられてあって、私たちが来るのをセラピストたちが待っている。


 夕暮れの優しい風を浴びながら、二つ並んだベッドにメラノと私はうつ伏せに横たわった。

 ロミロミに使用するのだろうオイルや生薬などを載せた台には一匹のアマカジがおとなしく座っており、心安らぐ甘い香りを漂わせている。

 白い服に身を包み耳元にプルメリアの花を飾った女性セラピストが、前腕を使って全身を丁寧にマッサージしてくれた。

 ヴェラ火山の橄欖石の砕片を詰めた袋で背中を軽くぽんぽんと叩くようにした。ボトルから掌に取った白生姜の花のオイルを垂らし、肘まで使って力強く背筋から揉みほぐしてゆく……という隣の相方の施術を私は観察していた。

 地元産のタロイモとナマコブシの粘液から作ったトリートメントは日焼けに効果があるそうで、熱を取り除き肌を滑らかに保湿してくれるとのこと。

 呼吸に合わせて腕をストレッチし、細かく揉んでいき、上向けた掌は肘でぐりぐりされる。

 下肢も同様に。

 また、アーカラ島の海岸で拾い集めた黒くつるつるの丸い火山石を熱しておいて、そのホットストーンで温めながら凝りをほぐしていく。肩甲骨まわりのツボにその石を押し当てられ、それをセラピストが拳でごつんごつんと叩いて抉るようにされた時は僅かに息を呑んだ。大きめの火山石を掌に握らされたり、足の指の間すべてに小さい石を挟まれたりと、体の末端までじんわりと温めてくれた。

 仰向けにされたら、キテルグマの縄張りから決死の思いで集めたという天然ハニーミツでアブリボンの栄養満点の花粉団子を溶いたものを、しっとりと顔の皮膚に塗り込められる。


 一時間弱かけて行うマッサージコースだ。私もそのうちの半分ほどは意識がない。

 干しダコはというと、私の隣でういうい言いながらなめされていた。うっとりと目を閉じ涎を垂らして、あれだけ来るのに抵抗を示していた割に幸せそうではないか。ほらやっぱり、私が背を押したのは正解だっただろう?



***



 ロミロミマッサージを経てたっぷりと《マナ》の恩恵にあずかったら、その後は少しだけカンタイシティのショッピング街をぶらついて時間を潰した。

 19時からは予定通り、ホテルでルアウに参加する。

 ルアウというのはアローラ地方伝統の宴のことだそうで、現在はもっぱら観光客向けのイベントになっているけれど、折角アローラに来たのだからと見聞を広めるくらいのつもりで予約しておいたのだった。


 海辺に林立する椰子もルアウに集合しつつある観光客たちも、いっせいに橙色の夕陽を纏う。観光客は案の定イッシュ人や新婚カップルらしきカントー人が多めで、群れることをさほど好まないカロス人は少ない。

 会場は椰子の林やトーチに囲まれて、ビーチを眼前に臨む屋外に設営されている。

 受付で入場券と引き換えにウェルカムドリンクのマイタイを受け取り、ラランテスのように色鮮やかな蘭花のレイをキュワワーに首にかけてもらった。

 薄桃色のオドリドリが席まで案内してくれる。このオドリドリというのはアローラの各島に適応放散しており、アーカラ島では薄桃の蜜を好むこのふらふらスタイルが見られるのだそうだ。

 会場内では肉を土中の竈で蒸し焼きにする儀式が始まっていて、私たちが抱きかかえていたシシコとニャスパーがその匂いにそわそわと落ち着きを失う。


 青磁色の大空はグラデーションを成して薄紫色に転じ、やがては劇的な赤橙色に燃え上がった。

 アーカラ島の夕焼けはアローラで一番、いや世界で一番美しい。

 紅色の太陽が藍色の海に完全に沈む直前――それは鮮やかな翠色に輝きを変じたのである。

 慌てて相方と顔を見合わせる。

「…………まさか今のは……グリーンフラッシュ?」

「やったなアルバさん。あれ見たら幸せになれるって言われてんだと」

 メラノはマイタイを啜りながら真顔でそう断言した。




 やがて黒紫の夜闇が落ちてきた。

 槍の形をしたトーチに火が灯されて赤い炎がぱちぱちと爆ぜ、林立する椰子の木が黒い影絵を描くころ、そろそろと食事や歌、踊りの前座が始まる。

 最初の儀式で蒸し焼きにした肉、タロイモを蒸してすり潰した甘みのあるポイ、生切り身と塩や海藻などを和えたポキ、ヤドンテールサンド、マケンカニの鋏をココナッツミルクで煮込んだシチュー、リンドとマトマとギネマと蕨のサラダ、フライドライス、ノメルとしあわせタマゴのパイ、ココナッツミルクを澱粉で固めたハウピアなどなど、アローラ料理を中心に幾膳もビュッフェ形式で供される。それを木の大皿に取り寄せてテーブルにつき、舞台で行われるショーを優雅に観覧するというわけだ。


 舞台では本格的なショーが始まった。

 色とりどりの装身具を身に纏ったダンサーたちが、熱に浮かされたようなウクレレの音色に合わせ、薄桃色のオドリドリと共にたおやかに腰を振る。

 幕が移ると、今度はジャラランガの鱗を綴った黄金の衣装を華やかに打ち鳴らし、木でできた素朴な楽器の音色を明るく響かせ、鳥のような甲高い声で歌う。

 あるいは鬼火を操るガラガラと息を合わせて、男たちが精強なファイヤーダンスを披露する。

 闇の下でライトに照らされ、陽気な音楽のもとダンサーたちの白い歯が眩しい。

 観光客がこぞって手持ちのポケモンを繰り出し頭数を数倍に増やして大いに踊り食らうものだから、観客が数十名の少人数ショーと聞き及んでいたものの、かなりの大宴会と相成った。誰も彼もが色鮮やかなレイに顔周りを彩られ、赤いトーチの灯を受け頬を上気させている。



 メラノと私は見るもの聞くもの全てが珍しく、熱狂の空気に酩酊していた。

 前々から期待していた通り地ビールもパイルワインも砂糖黍のラムもトロピカルカクテルも美味い。料理に関してはカロス料理に勝るものなしを自負していたものだが、この宴においては素朴なアローラ料理が何にも勝るご馳走に感じられる。

 ふと漆黒の夜空を見上げて――私はちょうど星の降るのを見てしまった。相方のシャツの裾を軽く引く。ニャスパーもシシコも目を輝かせて、空に向かって大はしゃぎをした。

 オゾン層に棲むというメテノが群れで地上に移住でもしているのだろうか。

 儚い雨のしずくのように、煌めく軌跡があちらこちらに降り注ぐ。

 それはまるで自分が浮遊しているかのような体験だった。故郷のカロスでは夏は夜がとても短いし、夏以外は夏以外で曇っていることが多いから、もしかしなくとも私も相方も今ここで生まれて初めて流れ星というものを見てしまったのである。


 しばらく二人して熱く甘い楽園の音楽に耳を傾けながら、無言のまま天空のささやかなショーを鑑賞していた。

 ロマンチックすぎるそのシチュエーションに私は内心ではもんどりうって大爆笑していたのだったが、我が相方はというと一体どんな崇高なことを考えているものやら、相変わらず腑抜けた面がヤドンに激似であった。

 ならば私は、それに噛みつくシェルダーにでもなろうか。

 甘い尾に釣られるほど易くない。

 愚鈍な頭を差し出してみせろよ。

 それまで黙って、舌を出して笑っていてやるから。



***



 ところで、我々フレア団の犯した最大の罪は何だったかご存知だろうか。

 大量のポケモンを列石に縛り付けてその生命力を奪ったこと? ――しかしそのポケモンというのはいずれも、団員がせっせと野生のものと一体ずつまじめにポケモンバトルをした上でモンスターボールで合法に捕獲したものなのだ。財産の処分権は所有者たるフレア団にあったのだから、ポケモンたちにした仕打ちはせいぜい愛護法に触れるだけで、他のカロス市民には何ら関係ないと申し上げたい。

 それとも、カロス発電所の電力を強奪してミアレ市中を大停電に陥らせたこと? ――だが停電の発生期間はちょうど夏季すなわちバカンスシーズンにあたるよう調整してあって、当時ミアレシティからは殆どの市民が出払っていたから、被害は最小限に抑えられていたという事実を主張しておきたい。

 私が言いたいのは、そう何よりも大問題だったのは、最終兵器の影響でセキタイタウンが廃墟と化したことだった。



 もちろん、すべての元セキタイ住民にはあらかじめ相当額のお金を払ってあって、あくまで自主的かつ合法かつ公然かつ穏便にセキタイからご退去いただいたのだ。

 そしてその責任者が、当時フレア団で法務として勤務していた、我が相方のメラノだったりするわけだが。


 フレア団の壊滅後、元セキタイ住民はフレア団に賠償金を請求しようとした。メラノはその請求をぶっ潰した。

 また、誠に遺憾ながら元セキタイ住民の中には故郷を追われたことを苦にされ自死を図られた方もあった。その遺族の方がやはりフレア団に慰謝料を請求しようとしたが、それもメラノがぶっ潰した。

 ちなみに最終兵器稼働後のセキタイタウンは、最終兵器から漏れた有害な電磁波の影響で現在も立ち入りが規制されている。そんな『汚染されたセキタイ』から他の土地に移ってきた元セキタイ住民は各地で誤解を受け迫害された。それでフレア団に賠償金を以下略。

 あるいは、『元セキタイ住民はフレア団という悪の組織に大金をもらって贅沢三昧に耽っている』と思い込んだカロス市民が元セキタイ住民を迫害するケースも各地で頻発し以下略。

 以下略。


 我が唯一無二の親友は、毅然とした態度で法律と理屈とをもって元セキタイ住民に対処し続け、その明晰なる頭脳と巧みなる弁舌を武器に一貫して元セキタイ住民の憎悪の矢面に立ち続けた。

 フラダリ様が消えても動ずることなく幹部らを差し置いて素顔も実名も晒した彼は、どういうつもりでか、私たち元フレア団員を身を挺して庇ってくれたわけだ。過激なアンチから手持ちポケモンで自衛しつつ、どうにかフレア団の一件でかつてない混沌に見舞われたカロス社会に秩序を取り戻そうとしたけれど、それでも限界がくる。

 精神を病んだ。

 この私の目の前で幾度も自殺を試み、阻止すれば私の存在ごとフレア団のことを綺麗さっぱり忘却し、時間をかけて記憶障害が治ったかと思えば再び発狂し――を五サイクル繰り返した。無論、その間もカロスにおける元フレア団員に対する風当たりは強くなるばかりだったわけで。

 廃人になったそいつを何年も世話し護り続けたのは私である。

 でも彼はフレア団時代、科学者としての才能を除く一切の社会的能力を持ち合わせていなかった私のことを何度も助けてくれたのだから、当然の事と思ってすべて私が勝手にやっただけだ。



 その甲斐あってか、現在はどうにかこうにか、自殺衝動も治まり記憶も回復した状態で彼は落ち着いてくれている。

 私が憧れたフレア団時代のシニカルなそいつとは似ても似つかないが、そいつは穏やかに笑うようになった。

 アローラへのバカンスを最初に提案した時も、私一人でカロスに戻ろうなどと企んでみた今日の昼間も。いつもいつも私の我儘で引っ張り回しているのに、そいつは甘い顔をして私の傍で微笑んでいる。

 なんでそんなに度量が大きいんだ。お前は海か何かか。



***



「帰るか」

 はっと我に返ると、シシコを胸に抱いた相方が金茶色の瞳を細め、大海のような慈愛に満ちた笑顔で私を見つめていた。

 ――どこに?

「帰って寝るか、アルバさん。俺ももう疲れた」

「…………そうだな」

 ショーが始まってまだ二時間も経たない頃だ。折しも満月が空に高くかかり始め、舞台では泡沫の歌姫アシレーヌが躍りながら水のバルーンを放って月光に煌めく幻想ステージを生み出し、その潤いのある歌声をいざ披露し始めたところ。アシレーヌの歌に合わせて満月の下、ピッピが跳ねるように踊り、その磁場に誘われたか――普段は人を避けるはずの野生のピクシーのつがいがスキップしながら乱入すらした。

 宴もたけなわだったが、涼しい良夜に満腹で、そのうえ時差ボケの影響か全身に重い疲れがのしかかっている。

 頷き、ニャスパーを抱き上げて相方と共に席を立った。ご馳走をひととおり食べ終えていた他のポケモンたちをボールに戻し、のんびりと風に吹かれながらルアウの会場を後にする。


 すると、シシコを抱えた相方が左隣から話しかけてきた。

「今日はほんとよく動いたな……」

「アローラは本来は歩き回ってなんぼの観光地だからな。とりあえずアーカラ島滞在中にオハナ牧場は見学してモーモーミルクのバケツアイス食べるぞ。ロイヤルアベニューではドームでバトルロイヤルというのも観戦したいし、幻のマラサダといわれるマボサダも気になるし、スーパー・メガやすで買い物もしないと。あと科学者として言わせてもらえばカンタイシティの空間研究所にひじょうに興味をそそられている。カンタイの乗船所からは船でコニコシティに行けるようだぞ、そこで――」

「島クイーンのジュエリーショップでお揃いの指輪でも買うか?」

「あはははは、考えておこうか。とにかくこのアーカラ島だけでもまだまだ行くべき場所はあるからな」


 そんな和やかな雰囲気で私たちはヴィラに戻ろうとしていたのだが、よくよく耳を澄ましてみると、隣を歩く相方はエディット・ピアフのシャンソン『愛の讃歌』を鼻歌で歌い始めているではないか。

 ――おい待て。ちょっと待て。だから何故そんなものをこのバカンスで、いや今ここで歌う? どういうテンションだ?

 しかもお誂え向きに私たちの行く小路の脇に鎮座まします例のラブカスプールは蠱惑的なマゼンタにライトアップされており、際どい情緒を醸し出していた。

 さらにいえば、つい先ほど夕涼みにカンタイシティを散策していた折、雑貨店でエンニュートの毒ガスを薄めた香水というものが売ってあったのを、何も知らず考えずに手首に試用し、店員にシャイニングにっこりされたのを私は不意に思い出した。

 ――本気でちょっと待て。どこに向かっているんだこのムードは?

 私は全身全霊の気合でもって脳を覚醒させた。散々昼間に寝たのだ、多少の無理はきく筈だ。

「よしメラノさん。今からヴェラ火山公園へ星空観察しに行くか!」

「……いや、眠いし、暗い中のライドギアって危ないし、そもそも満月で天体観測にゃ向かんのでは……?」

「じゃあナイトシュノーケリングでもいい。チョンチーやランターン、ヒトデマン、ケイコウオなんかが海中で光ってそれはそれは綺麗なのだそうだ。ああ、今宵はなんて素晴らしい月夜だ。ヴィラに帰るのは惜しいな、そう思うだろうが?」

「えええええー…………」

 渋るメラノと、押し問答をして数十秒。


 プールを照らし出していた、眩いばかりの照明が唐突に消えた。



 ライトは不愉快な点滅を始めた。

 切れかけた蛍光灯のように。

 視界が紫に照って闇に消えて紫に輝いて闇に沈んで紫に弾けて闇に縮んで紫に爆ぜて闇に堕ちて、それきり静かになった。


 暗い。

 光源は登り初めた満月と、遠い滄溟に敷かれた月の道ばかり。

 ようやく気付いた。ホテルが丸ごと停電に見舞われているらしい。

 周囲は上も下も右も左も深淵なる闇、かろうじて近くのプールの細波とラブカスの鱗が月光にちらつく。

 相方の名を呼ぼうとしたそのとき、轟音が空をつんざいた。



 すぐ近くに雷が落ちたのだとわかる。

 さすがに度肝を抜かれたが、一瞬の閃光で相方の居場所を特定すると手を伸ばした。その腕を掴み、もう片腕に抱えていたニャスパーに指示を出す。

「“フラッシュ”を頼む」

 私の子猫は愛らしい上にたいそう賢いのだ、ということを大いに自慢したい。彼女はすぐさま光球を生み出し、月のように柔らかく周囲を照らしてくれた。

 だが次の瞬間、私は失笑した。ニャスパーと相方と相方の腕の中のシシコの毛が一様に浮き上がり、全員そろって素敵な爆発ヘアーになっていたのだ。もちろん笑い事ではない。想像を絶する静電気が辺りに満ち満ちている。歩を進めようにも誘導電流が危険だ。


 そして周囲に巡らせた視線が捉えたものに、絶句した。

 プールのラブカスが一匹残らず力なく浮かんで、水面を緋色に染めていたのだった。



***



 空を見上げて三度目の驚愕。先ほどまでの星空がいつの間にか分厚い暗雲に覆い隠されているではないか。気づけば生ぬるい風が吹き荒れている。

 ――ハリケーンか? いや、そんなものが来るならホテルが気象情報を伝えてくれていた筈だ。


 極めつけに、そこに虹色の爆発が起きたかと思うと、ひび割れるようにして空に大穴が開いた。

 呆気に取られ、ただ仰ぐ。

 カンタイシティの上。

 どこからか、何かがゆっくりと降下してくるのが見えた。いや、上昇しているのか。沈下しているのか、浮上しているのか、落ちながら登っている、下っている、上っている。オーロラ色の電磁波を浴びながら、『それ』がこの世に現れ出たことだけが確かだった。

 その化け物を、何と形容したものか。



 人型のようだが、その体躯はゴムチューブを束にしたよう。

 その頭部は大星型十二面体に見える。より世俗的なものに例えるならば刺々しい金平糖、あるいはノエルの時期にカロスに氾濫するようなツリートップか。そこには生命体に備わってあるべき目も耳も鼻も口も無い、当然ながら表情も無い、そもそも顔と呼べるものが無い。

 その両腕の先端から露出した銅線は、かつて科学者として勤めていた私をして震撼せしめた。あのような導体が露出している状態で『それ』が暴れでもしたらどうなるか。考えただけで卒倒しそうだ。『それ』は危険すぎる。『それ』は壊れている。『それ』は悪意ある欠陥をその完全体としている危険動物である。

 『それ』はSFにでも登場しそうな、意思をもってのたうち回る巨大なケーブルの塊なのだった。いつか観たポケウッド映画の赤い霧の怪物じみて、顔のない化け物はくねくねとアーカラ島に降り立ちながら、長い手足で踊っている。

 私が呆然としている間に、『それ』から幾筋もの雷光が奔った。

 爆音とともに、目の前で火柱がいくつも上がる。


 一瞬で南のカンタイシティが燃え上がったのが、空の色で分かった。

 ルアウの会場からも悲鳴が上がっていて、浜の椰子の木、海上の船もことごとく炎上し、鳥ポケモンたちが夜闇の中を正体もなく逃げ惑う。低く垂れこめた暗雲だけが赤々と不気味に輝かしいのだった。


 突如湧いて出た嵐雲はそれ自身が多量の電気を含んでいて、そのケーブルの化け物は天に腕を伸ばすと黒雲から雷電を啜り上げる。黒光りするビニール質の肌がそのたびに痙攣するようにビクンビクンと悦びのたうち回るのが、生理的な嫌悪感を否応なく喚起する。

 カンタイの町のひときわ高い建物に接地した化け物は、ゆらゆらと全身を波打たせた。心なしか苛立っているかのように。

 吸った息を吐くように、化け物は放電した。

 紫電が迸る。

 島が壊されていく。

 町も山も森も海も野も差別なく、高電圧を浴び蒸発する。


 メラノと私は唖然としてそれぞれシシコとニャスパーを抱きしめたまま、その未曽有の大災害を眺めていることしかできなかった。

 逃げて身を守らなければならない、というのは本能で分かっているのに、理性がそれに協力しようとしない。――何だあれは? あんな生き物は見たことがない。あんなものがアーカラ島にいるなんて聞いたこともない。そもそもどこから出てきた?

 あれがポケモンだとはとても思えない。

 いうならば。

 Ultra-Chimère。




「何事ですの!」

 ホテルのラウンジから飛び出してきたマダム・ジーナとムッシュ・デクシオはプールの中の地獄絵図を目にするなり息を呑んだ。わななきながら、低く呟く。

「……まさか――バーネット博士の仰っていた――ウルトラホールの……?」

「やはりエーテル財団が――これがジガルデの――急いで博士に連絡を」

 その震え声を遮るかのように、またもや爆雷。

 恐る恐る目を開けると、ムッシュが繰り出したとみられるメガフーディンがその場にいた私たち全員を光の壁の内に守ってくれていた。

 化け物は遠くカンタイシティのビルの屋上でくねっている。顔が無いせいでどこを見ているかわからないのがより一層の恐怖を募らせる。

「アルバさん、メラノさん、あの謎のポケモンはあたくしたちが引き受けますわ!」

「ぼくらに任せて、安全なところに避難してください!」

「またお会いしましょう! ボン・ヴォヤージュ!」

 あれをポケモンと言い切った彼らの豪胆ぶりにいっそ戦慄する私たちを置いて、プラターヌ博士の助手二人組は颯爽とカンタイシティへ駆けていった。


 メラノと私には何が何だか一向に分かっていない。

 ウルトラホールというのは、先ほど空に開いた謎の穴のことだろうか。エーテル財団というのが黒幕か? いずれも当て推量に過ぎないが。

 ところであの二人組は何でもないかのように走り去ったけれど、周囲ではひっきりなしに落雷が続いている。私は生憎この天気の中を移動する無謀さは持ち合わせていない。



 私はメラノの腕を引いた。

「……そのまましゃがめ。足は閉じて。手は地面につけるな。誘導電流で感電しないように」

「了解」

 メラノは呑気な顔で私に倣って屈みこんだ。ひたすら泰然としているのが頼もしいと言うべきか、それともただの現実逃避なのか、あるいは――この期に及んでまだ、ここで死んでもいいなどと考えているのなら私は悲しい。

「すごいなアルバさん。俺、実は好きなんだよな、こういうの」

「黙ってろタコ!」

 能天気なことを言っている場合ではないのに、私が怒鳴っても、そいつは怯えるシシコの背中を愛おしげに撫でさすりながらふわふわ笑っていた。

「強いやつが感情のまま大暴れしてすべてをぶち壊すの、昔から好きなんだ。俺は臆病で虚栄心が強くて体力のない餓鬼だったかんね。エネルギーを分けてもらえる気がしてさ」

「冗談を言っている場合ではないぞ……」

「もちろん冗談じゃない。エーテル財団さんとやらがあの化け物を暴れさせてんのも、フラダリ氏が最終兵器でカロスをぶち壊そうとしたのも、アンタみたいなマッドサイエンティストにすぐ毒づかれ――」

「クセロシキと一緒にするなこの腐れタコ野郎が!」

 うっかり更なる大声で罵声を浴びせてしまったが、そいつはマゾヒストだったのか、ますます朗らかに笑った。

「――なあ突然だけどアルバさん、俺はカロスに帰らなくちゃいけないと思ってる」

 雷鳴の切れ間にそう言われて、私はぎくりとした。

 本当に唐突だった。

 相方はどこか寂しそうな笑顔になった。

「やっと決心ついたよ。結局、アンタに尻叩かれないと俺は何もできないな」



***



 カンタイシティでは、腕に覚えのあるポケモントレーナーたちが一致団結して化け物に抵抗しているらしかった。

 メガフーディンを含む複数のポケモンが化け物を攻撃する。化け物は高電圧を暴走させ、その太い腕で薙ぎ払い、あるいは強い電磁力を駆使してビルからビルへと跳躍する。

 こちらに来る。

 私はそれを意識の片隅で認識しながらも、相方から視線を外すことができなかった。


「フラダリ氏も、そのエーテル財団とかいうのもさ、理屈を通すのをやめて、利己的な理想の為に実力行使に走ったわけだろ?」

 メラノは次いでそんなことを言いだした。

 それがカロスに帰るべきだといきなり主張し出したこととどのような関係があるのか、私には分からない。

「だけど失敗するだろうな。こんなことされてカンタイの人らも、セキタイの連中みたいにきっと凄く怒る。アローラ地方も憎悪に満ちる。だから俺らは方法を変えなきゃ駄目だ。カロスもアローラも変えないと」

「……そうは言っても」

「すぐ感情的になって武力に訴える、そんな世界的風潮を、トレーナー的発想を、人々の価値観を覆さないと駄目なんだ。それはフラダリ氏にもできなかったことだけど。アンタと一緒ならできるんじゃないかって思った」




 カンタイシティのトレーナーに追われたか、ケーブルの化け物はこのホテルしおさいに接近しつつあるようだった。

 銅線の爪が建物に突き立てられる耳障りな音が、大きくなってきている。

 飛び移るようにして北へ、こちらへと逃げてきているのだ。


 近く遠く稲妻の走る音を聞き化け物の襲来に怯えている状況にありながら、プールサイドに二人並んでトゲデマルのように小さく丸まったメラノと私は、それぞれシシコとニャスパーを愛撫して心を静めつつ、久しぶりにゆっくりと話をした。それ以外にできることが一切なかったからだ。

「アルバさんは、いつも強く輝いていて、俺に力をくれる太陽みたいな人ですよ」

「前触れもなく口説くな」

「まあまあ。俺って物心ついたときから無気力な虚無主義者で、人に言われたことしかやれん人間なのよ。それでフラダリ氏にもホイホイついてったんだしな。フレア団じゃアルバさんに会えたのが一番おもしろかった、あんな風に何を要求してるのか分からん奴は初めてだったから」

「馬鹿な……」

「でも、フレア団が無くなった後もどうにかやってこれてんのもアンタのお蔭です。元セキタイ住民を無視せんかったのもそうだし、しかもそれで死にそうになってもやっぱり俺の太陽さんが助けてくれたわけだしよ」

 彼はそう幸せそうに懐かしそうに語った。


 そこでようやく私は得心した。

 相方は、大洋のように穏やかで寛容な優しい男である。フレア団時代に私がいくら暴言や暴力に訴えても軽く笑い飛ばして構い続けてくれたのは彼だけだった。私は物心ついたときから毒を吐き周囲を汚染してばかりいた問題児だったから、そんな相方には感謝してもしきれない。

 ところが、ここにきて思い知った。私が憧れる相方というのは、こいつ単体のことではなく、『我儘を言って暴れる私に元気を得てにこにこしているこいつ』のことだったのだ。相方は一人ではただの大ボケ野郎で、私が傍にいるからこそその優秀な脳みそを多少は働かそうかという気になるのだと。


 我思う故に我あり、ならぬ、汝想う故に我あり。

 気付いてしまった。恥ずかしい。

「ちくしょう」

 俯いたまま両手でそいつの肩を軽くどつく。

 悪化しつつある落雷に首を縮めながら、そいつは煌めく瞳を細めて私を見つめ、にやにやしていた。

「なあ、帰るか。カロスに。一緒に」


 私も顔を上げて無理やり笑顔を作った。

「…………またいつか、アローラにバカンスで来れるだろうか」

「来れるといいな。ただ、まあ、そりゃ、万が一もあるからな」

 町から逃れてきた電光の化け物は、ホテルしおさいの建物を越えた。

 ぬう、と頭を出す。

 相方と私はそれを視線で迎えた。

 セキタイの毒花が破壊の炎を噴いたあの時を思い出す。


 化け物は目にも止まらぬ速さで、導線の露出した片腕を突き出した。

 だが相方が私にシシコと自分の手持ちのボール四つを押し付け、止める間もなく立ち上がる方が早く。


「もし俺が死んだら……そのときは俺のポケモンたちのことは、アンタに頼むよ」

 その海のように穏やかな声を奪うような、呆気ない音がした。

 肉に金属がつきささる感じのおとだ。

 轟音と共に、視界がまっしろに染まり。

 写真でもとったみたいに、とっさに見上げたそいつの笑顔が網膜にやきついた。まるで永遠のように。




***



“......Elle est retrouvée.”

“……Quoi?”

“L'Éternité. C'est la mer allée avec le soleil.”



***




 ばけものの銅線の爪にはらを貫かれ、高圧電流を流されたきり、そいつはたおれたままだ。

 みゃあみゃあと悲しみに満ちた声で彼を呼ぶニャスパーとシシコをただ抱きしめてぼうぜんと座り込んだ私の頭上に、きらきらと虹色にかがやく粉が降りそそいでいることに気づく。

 時差ボケのせいなのだろうか。あたまの奥に鈍痛がある。

 永く暗い夢に色彩がさす。



 暫く前から雷鳴が途絶えていたのは、アーカラ島の守り神があの異空の化け物を北のジャングルまで撃退した為らしかった。

 気まぐれで私の前に姿を現した命の神《カネ》は、ピンク色の蝶々だった。

 その姿につい故郷の花園をふわふわと夢のように舞っていたビビヨンを思い出し、私は視線を落とす。


 しどけなく眠り込んでいる相方の、鱗粉を薄くかぶったその黒髪を、戯れに指先で梳く。

 背後から海へと駆け抜ける風が、月下美人の芳香を運び、焼け焦げたハイビスカスの影を揺らし、椰子や南洋杉の枝葉を鳴らしていった。

 暗雲は吹き払われ、完全無欠の月が現れる。


 ふと思いつく。

 おとぎ話のように、呪いを解くことができるなら。

 熟れた、甘やかな唇に口づける。

 しかしそいつが起きていることなど分かっていたのだから、とんだ茶番だ。



「《マナ》とやらは蓄え終わったのか、眠り姫」

「……知ってるか、王子? 唾液は《マナ》を媒介するんだぞ」


「命の神《カネ》の鱗粉はその頭には毒だったか」

「シェルダーの毒牙で、ヤドンは天才的な頭脳に目覚めたんだよ」


「知恵を得たら楽園からは追放だぞ、知ってるか」

「毒蛇もろとも、な」


 狡猾なそいつを見つめ、私は笑って唆す。

「…………アローラ?」

「アローラ」

 空に眩い月虹の下、そいつは輝く瞳に私を溶け込ませ、一緒に帰ろうかと笑った。