雪の女神

著者:海隈巖

 おじいちゃんの宗太郎が三途の川を渡って、かれこれ一週間が経った。

 ナツは宗太郎が使っていたモノを順繰りに手に取りながら、過ぎ去った日々を振り返っていく。このラジオはいつもお茶の間で聴いていたもの、あの本はもう潰れた本屋で買ったもの、その万年筆は自分が生まれる前から使っていたもの。部屋にあるモノすべてに物語があって、ひとつひとつに宗太郎の思いが詰まっていた。

 だからこそ、持ち主である宗太郎がここにいないということの寂しさを、ひときわ強く感じてしまって。

(おじいちゃん、ごめんね。一緒にいられんで、ごめんね)

 痛切な表情をしたまま、ナツは手にしていた万年筆をそっと机の上へ戻して、ほう、と大きなため息をつく。

「がうっ」

「大丈夫ばい、ヘキリ。ちょっと昔のこと思い出してしもうただけやけん」

 ナツの傍らにはルクシオのヘキリがいた。短くハネた髪を揺らしつつ、ナツにそっと寄り添う。毎日のように宗太郎の部屋にこもって物憂げな顔ばかりしているナツのことを、ヘキリも少々心配しているようだ。ナツがヘキリの背中、黒と青が交わるあたりに手を当ててなでてやる。ヘキリは小さく鳴いて、ナツの近くに座り込んだ。

 開け放たれた窓の外からは、天辺が見えないほど高くまで伸びた煙突山の姿を、はっきり見ることができた。

 

 煙突山の火山灰を纏い、些か年季の入ったこの一軒家で、ナツは母親の久子と宗太郎の三人で暮らしていた。父親はずいぶん前に家を出たきりだと久子から教えられ、祖母はナツが生まれる前に亡くなったと宗太郎から聞かされた。結果として親子三代一人ずつ、三人暮らしの日々が続いていた。

 伊吹ナツ、十四歳。彼女は煙突山の麓にある小さな田舎町であるフエンタウンで暮らしている。生まれも育ちもフエンで、修学旅行だとか遠征だとか、そういった特別な機会を除いては外に出ていくこともなかった。特段地元が好きというわけでもなかったけれど、かと言って嫌いというわけでもなかった。

 髪型はさっぱりしたショートヘアで、こだわりはあまり無い。服装も同じで、動きやすくて着回しのきくものを好んでいた。そのためか、学校でも家でもジャージでいることが多い。いつもキリッとしたマジメな顔をしていて、笑顔を見せることは滅多にない。背は少し低めで小柄だったけれど、一目見て体育会系だとわかる引き締まった体つきをしていた。好きな食べ物は蓮根の天ぷら、嫌いな食べ物は特に無い。何でも食べる方が体が強くなる、とおじいちゃんから教わったからだ。

 性格は一本気で意地っ張り。一度言い出したら聞かないところがあり、負けん気もとにかく強かった。曲がったことや陰口の類が大嫌いで、嘘はつかないしつかれるのも嫌がった。いろいろと融通の利かないところもあったが、根は至って真面目で清廉清楚。見た目共々さっぱりした気質の持ち主と言えた。

 ルクシオのヘキリは、コリンクの頃からナツが育てている相棒だ。かつてポケモンブリーダーをしていた宗太郎がナツにプレゼントしたタマゴから孵ったから、正真正銘ナツが親になる。性格はナツによく似て真面目で意地っ張り、闘争心と負けん気の強さはナツに勝るとも劣らない。どちらも自分の意見を譲らなくて、しばしば取っ組み合いのケンカもしたけれど、それくらいお互い遠慮しない、いい関係を築いていたとも言える。ナツに背中をなでてもらうのが好きでしばしば甘えたり、二人で一緒に町内をランニングすることも多かった。

 ヘキリの父親に当たるのはライボルトで、母親がレントラーだった。母親は穏やかな性格で、跳ねっ返りの強さは父親譲りだと宗太郎から聞かされた。それと関係があるのかは定かではないが、育つにつれて父親が使っていた技のいくつかを使いこなすようになっていった。電光石火の早業で相手の懐へ飛び込んで体当たりしたり、キバを熱して相手に炎を帯びた噛み付き攻撃を仕掛けたりするのは、普通のルクシオにはできない芸当だった。

「おじいちゃんが居のうなってん、お母しゃんの仕事は変わらんか」

 久子はナツが物心付いた頃から街の隅にある研究所のような施設で働いていて、怪我をしたり人に捨てられたりしたポケモンを保護する仕事をしていた。久子の仕事はずいぶん忙しいようで、帰ってくるのは決まって夜遅くだし、時には丸三日家を空けて帰ってこないようなこともあった。母親とふれ合う時間が少なかったこともあって、ナツはいつも家にいた宗太郎によく懐いていた。

 なっちゃん、なっちゃん。宗太郎は少ししわがれた声でナツを呼んで、本を読んで聞かせたり、手作りのおやつを振る舞ったり、一緒に遊んだりしてくれた。ナツはそんな宗太郎のことが大好きだった。誰よりも頼れる存在として、心から慕っていた。

「うち、大きゅうなったら、おじいちゃんと結婚したか」

 なんてことを言って、当の宗太郎の笑いを誘ったこともある。もちろん、十四になった今はさすがにそんなことを言う真似はしなくなったけれど、それでも宗太郎のことが好きだという気持ちにはいささかの揺らぎもなかった。

 一言で言うと、ナツはおじいちゃんっ子だったのだ。

 宗太郎はかつてトレーナーとして世界を旅した後、ブリーダーとしてポケモンの繁殖や育成に当たっていた。宗次郎、という弟もいたけれど、十代初めにポケモントレーナーとして旅立って以来一度も姿を見せていないという。もちろんナツは顔も見たことが無い。この世界にあって、顔も知らない親類がいるということは別段珍しいことでもなかった。ただナツは「おじいちゃんによく似た顔をしている」というだけで、見たこともない大叔父に思いを馳せることがしばしばあった。

 主を失った部屋で一人佇みながら、ナツが色あせた一冊の本を手に取る。

「これ、あん時の本ばい」

 懐かしい思い出の数々が、一度に蘇ってくるのを感じる。

 

「おじいちゃんって、ジュードーやっとったと?」

 タイトルは「柔道基礎教本」。忘れもしない、今のナツを形作るきっかけになった本だ。

 宗太郎は子供の時分から近所の道場で柔道を習っていて、その実力はかなりのものだったという。指導員として道場にいたナゲキと互角にやりあったというから、相当なものだ。宗太郎は孫娘のナツが柔道に興味を持ってくれたことがよほど嬉しかったようで、ナツに対して熱心に手ほどきをした。

「ようし、なっちゃん。受け身ん取り方からばい。こげんして背中が着いたら、床ばバンって叩くんや」

「うーんと、こげん感じ?」

「よかよか! しゃあなっちゃん、もう一度やってみんしゃ」

 基礎の基礎である受け身から入って、立ち会い前の礼法、相手との立ち回り方、それから本題の投げ技まで、ナツは宗太郎から柔道のイロハを教え込まれた。ナツは大好きなおじいちゃんに褒めてもらえるのが嬉しくて、夢中になって練習に打ち込んだ。そうしているうちにだんだんと柔道そのものが好きになってきて、気が付くと自分から日々鍛錬を重ねるようになった。

 まだ小学校に上がる前の時分から宗太郎の手解きを受けて柔道のイロハを身に付け、通っている中学校の部活では押しも押されもせぬ主将として活躍している。女子どころか男子を含めても部内で一番強いことに疑いの余地はなく、男子たちからも一目置かれる存在だ。やや小柄ながら体力も技術も大人顔負けで、大学まで柔道をやっていたという顧問さえ五分五分に持ち込むのがやっとだった。

 本気を出したときの爆発力は凄まじいものがあり、一部ではその感情とパワーの強さを活火山である煙突山に準えて「火山娘」と言われ恐れられるほどだった。これはなんとなく想像が付く通り、怒るととても怖いという意味も込められていた。練習に身を入れない同級生や後輩たちを言葉少なに、しかし確実に牽制する。覇気をたぎらせるナツに感化されたのか、柔道部の練習はいつも緊張感に満ちたものだった。

 そんなナツの得意技は「山嵐」。相手の懐まで素早く潜り込み、手と足を使って地に叩き伏せてしまう大技だ。

(引き手は右に、釣り手は襟に)

(右足を相手の右脚に掛けて)

(足の裏で、相手の脚を払う)

(背負い投げの要領で、相手を床に投げ落とす)

 宗太郎から教え込まれた山嵐の型。ナツはこれを忠実に守って、一つも崩すことなく相手に掛けることを常に意識し、どんな状況でも驚くほど綺麗に決めることができた。

 ナツの山嵐は非常に強烈で、「ヤマアラシを山嵐で投げ飛ばす」とまで言われた。ヤマアラシというのは、主に年配の人が使うサンドパンの古い呼び名のことで、物凄いスピードで山を駆け回って砂嵐を起こすことから「山嵐」に由来するとも、鋭い爪や刺で山の木々を激しく傷付けることから「山荒らし」に由来するとも言われる。どちらにしろ、あまり風雅な意味ではないのは間違いない。ともあれ、ヤマアラシさえ掴んで投げ倒してしまう、ナツはそう噂されるほどの強さを誇っていたのは事実だ。

「ナツは僕より強か。僕が一番強かった時期よりもっと強かねぇ」

 宗太郎は「ナツは全盛期の自分よりももっと強い」と太鼓判を押して、ナツのことをべた褒めしていた。憧れのおじいちゃんに褒められるのがとにかく嬉しくて、ナツはますます柔道に打ち込む、そんなサイクルが出来上がっていた。ナツは負けた悔しさをバネにしてさらに強くなれる強靭なメンタルの持ち主で、生来の負けん気の強さと根性を武器にハードルをどんどん乗り越えていった。

 ナツの柔道への熱心さは、ある種の一途さとも言い換えることができた。額に汗を光らせながら鍛錬に明け暮れる凛とした姿は可憐で、男子からも「柔道やってないときは可愛い」なんてことを言われていた。というわけで、男女問わずナツに好意を寄せる子はそこそこいたのだけれど、本人はと言うと。

「恋愛とか、好きな人とか、今はそげなことに興味なか」

 色恋沙汰にはさっぱり関心を示さず、自分の心身を鍛えることに夢中のようだ。まあ、よくあることだろう。

 都会指向の女子たちと違ってホウエン言葉丸出しでしゃべり、磨けば光るだろうに飾り気というものがない。見てくれも中身も、良くも悪くもこざっぱりしたタイプ。それがナツという女の子だった。

 

 そんなナツが誰よりも慕っていた宗太郎が、今年の春先、病に倒れた。

 少し前から元気を無くしていて、ブリーダーの仕事も休みがちになっていた。このままでは示しが付かないと、トレーナーから預かっていたポケモンもみんな送り返してしまった。休業して回復に専念しよう、そう考えて掛かりつけの病院で検診を受けた矢先のことだった。

「お父しゃん、胃がんばいって。それも、もう末期ん」

 宗太郎の診察に付き添った久子が、深刻な顔をしてそう告げたことを、ナツは今でも忘れられずにいる。

 もちろんショックだった。ナツだってがんがどんな病気かは知っている。末期と言われれば、治る見込みがほとんどないことも分かっていた。けれどナツは諦めない。おじいちゃんはきっと元気になる、自分が元気にしてみせると意気込んで、宗太郎の前では明るく振る舞うと心に誓った。

 フエン市民病院に入院した宗太郎をナツは毎日のようにお見舞いして、「元気になってほしい」と励ましつづけた。宗太郎はナツのお見舞いをとても喜んで、「必ず元気になる」、そう応えてナツを勇気づける。病床にあってもナツと宗太郎の関係は変わらなくて、どちらも決して希望を捨てていなかった。ナツにとって、宗太郎は一番のヒーローだった。だから病気なんかには負けない、そう信じていた。

 しかし、現実はとても冷酷だった。宗太郎は日に日に衰弱していき、最早快復は望めないことは誰の目にも明らかだった。ナツの心は不安に激しく揺さぶられて、先の見えないトンネルに入ってしまったかのようだった。

 そして初夏のある日のこと。主治医はお見舞いに訪れたナツを呼び止めて、別室で静かにこう告げた。

「申し上げにくいのですが……宗太郎さんは、もって来週の土曜日までです」

 来週の土曜日。そう聞かされたとき、ナツはすぐさま大事なことを思い出した。

(土曜日は、地区大会ん日ばい)

 三年生のナツは夏の地区大会を最後に、柔道部を引退することになっている。つまり最後の晴れ舞台となる大会だったのだ。その日が宗太郎の峠だと言われてしまった。最後の地区大会と宗太郎、ナツにとって掛け替えのないもの二つが天秤に掛けられてしまった。そのショックは計り知れない。

 病室で宗太郎と話している間も、ナツはずっとそのことばかり考えていた。宗太郎を取るか、大会を取るか。今までどんなことも迷わず決断を下してきたナツだったけれど、今回ばかりは悩まずにはいられなかった。これが最後になるのだから、大会に出たいという思いは強い。柔道部の皆を引っ張る主将としての役目もある。けれど、宗太郎との今生の別れになると思うと、どうしても後一歩踏みきれなかった。

 ナツが懊悩していた、まさしくその時。

「なっちゃん。地区大会、来週やったね」

 ずいぶん弱々しくなった声で、宗太郎がナツに声を掛ける。

「先生からは聞いとーばい。ちょうどそん日が僕ん峠やと。なっちゃんもそん話ばしゃれたんやろう?」

 宗太郎は自分の病状を冷静に受け止めていて、以前から主治医には常に事実を報告するよう言付けていた。ナツが聞かされたことは、宗太郎はもう知っていたのだ。

 表情を改め、ナツの目を真っ直ぐ見つめて、宗太郎が告げる。

「行ってきんしゃい、ナツ。うちは、ナツが大きか舞台で活躍してくるーことが一番ええんや」

「おじいちゃん」

「それに、土曜日はナツの特別な日やなかと。大地ん神様も、きっとナツに味方してくるーよ」

 ナツが大会へ出場することは、自分の願いだ。宗太郎はそう言って、迷うナツの背中を力強く押した。

「最後ん大会やけん、悔いん無かごとするんばい、ナツ。おじいちゃんが見守っとーけん、頑張ってきんしゃい」

「わかった。うち、行ってくる。必ず勝ってくる。大会が終わったらすぐ戻ってくるけん、待っとってくれん」

 宗太郎の手を固く握って、ナツは地区大会への出場を決めた。

 破竹の勢い、その言葉がぴったりのペースで、ナツは連勝を重ねていく。得意技の山嵐が冴え渡り、ホウエン中から集まった強豪たちを次々に投げ飛ばしていく。鬼気迫る表情で懐へ飛び込んでいくナツの姿に味方は大いに鼓舞され、相手は恐怖に震え上がった。開始から三十秒も経たずに決着してしまう試合も少なくなく、ナツの強さが遺憾なく発揮された。

 ナツと部員たちの勢いを止める相手は最後まで現れず、そのまま優勝まで一直線となった。ナツは出場した試合すべてで一本勝ちを収めるという驚異的な結果を残して、優勝に大いに貢献した。ここ一番で圧倒的な爆発力を見せる、まさに「火山娘」の異名に違わぬ活躍ぶりだ。

 優勝の喜びに沸く部員たち。けれどその中で、ナツだけは違うことを考えていた。

(うち、おじいちゃんのところへ行かな)

 大会が終わったら宗太郎の元へ向かうと約束していた。前もって顧問に事情を話しておいたので、ナツがすぐ病院へ向かえるよう取り計らってくれた。タクシーを呼んでもらってフエン市民病院まで飛ばし、全速力で宗太郎の元まで向かう。大会で優勝したことを、宗太郎に伝えたかった。

 自動ドアをくぐって、廊下をひた走り、病室の扉を開け放つ。

「おじいちゃん!」

 そう叫んだナツの、その目に飛び込んできたものは。

(二時間くらい前に亡くなったと、主治医ん先生が教えてくれた)

(ちょうど、大会で優勝ば決めたときやった)

 宗太郎は、既に息を引き取っていた。

 ベッドの上で静かに横たわる宗太郎。それはまるで、家の布団でゆっくり眠っているかのよう。けれど、その体はぴくりとも動かない。もう二度と目を覚ますことはない。

「……おじいちゃん」

 真っ赤になった瞳から、一筋の涙がこぼれる。それをきっかけにして、ナツは堰を切ったように泣き始めた。

「おじいちゃん……おじいちゃん!」

 ナツは、初めて人前で泣いた。

 人目も憚らずに、わあわあと声を上げて泣いた。大会で負けても泣くより歯を食いしばって悔しがるようなナツが、感情を露にして泣きつづけた。泣いても泣いても、宗太郎はもう戻ってこない。その事実を突きつけられて、ただ悲しくて、胸が張り裂けそうになる。冷たくなった宗太郎を抱いて、ナツはただ泣くばかりだった。

(おじいちゃん、死ぬ前何ば考えとったんやろう)

(うちゃ大会に出らんで、おじいちゃんの側におった方がよかったんやなかか)

 宗太郎の死に目に合うことができなかった。それが今もわだかまりとして残っていて、ナツの心の中で引っかかり続けている。

 手にした教本を眺めていると、かつての思い出がよみがえってくる。それは美しくて心地よいものだったけれど、今はもう繰り返されることのない、過去の一ページなのだということもまた強く実感させられる。思い出は思い出でしかなくて、再び同じ時を過ごすことは叶わない。

 また目頭が熱くなる。ナツは指先で目元を擦ると、零れ落ちそうになった涙を拭った。

 

 ナツは魂が抜けたような顔をして、宗太郎の遺品を整理する日々を送っていた。整理と言っても処分したりすることなどできるはずもなく、ただ手に取って思い出に耽るばかり。見るに見かねたのか、ヘキリが隣に寄り添うようになった。ナツが気の迷いを起こさないよう見張っているかのようだ。練習にも身が入らなくなり――それでも他の部員に負けるようなことは無かったけれど――心配した顧問が、しばらく休養するよう言うほどだった。

 おじいちゃんのことばかり考えてしまう。ちょっとしたことで感情が激しく揺さぶられて、泣きそうになってしまう。おじいちゃんのことが、こんなにも好きだったんだ。頭では理解していたつもりだったけれど、亡くしてみて初めて分かった。自分が宗太郎をいかに心の支えにしていたことを、誰よりも深く慕っていたことを。

 ヘキリと共に宗太郎の部屋で過ごしていたナツだったが、そこでふと、閉じられたままになっている押入れが目に止まった。

(押入れん中にも何かあるんやろうか)

 何の気もなしに襖を引く。そこには寝具や古い雑誌に混じって、小さな金庫が置かれていた。おじいちゃんが金庫なんて、とナツは不思議がる。宗太郎は無駄遣いこそしなかったが、困窮しているトレーナーやブリーダー仲間に気前よくお金を渡している姿を、ナツはしばしば見ていた。貸していた、ではなく渡していた、と記したのは、宗太郎がその返済を一切求めなかったからに他ならない。お金に頓着しない性格だったのだ。

 だから、おじいちゃんが金庫を持っていたということ自体が、ナツに取っては意外だった。そうなると、中に何が入っているのか気になってくる。ナツはダイヤルに手を伸ばす。まったく無意識のうちに、ナツは「0715」と入力していた。まるで待っていたかのように、そのたった一度だけで金庫の扉が開く。

 七月十五日。それはナツの誕生日にして、祖父の命日となった日。おじいちゃんの前にナツが現れた日にして、ナツがおじいちゃんとの今生の別れとなった日だった。

「ノートばい」

 開かれた金庫の中には、色あせたノートが三冊置かれていた。ずいぶん古びてはいたが保存状態は良好で、中を読むことができそうだった。ナツがそのうちの一冊を手に取る。

 ノートは日々の記録を綴ったレポート、宗太郎がトレーナーとして各地を飛び回っていた頃のポケモンレポートだった。

(トレーナーやったていうことは聞いとったばってん、レポートも書いとったんやなあ)

 慕っていた祖父が書いていたというポケモンレポートに、ナツが興味を持たないはずはない。迷うことなくノートを開いて中を読み始めた。

 ノートには宗太郎が出会ったポケモンたちについて子細に綴られていた。丁寧なスケッチと共に、観察できた生態の記録が書かれている。中には以前話して聞かせてくれたポケモンもいた。遠く離れた雪国に生息する樹氷のようなポケモン、海を渡った先にある国で暮らす四季に応じて姿を変えるポケモン、遺跡で多数見つかったという文字のようなポケモン。どれもナツの暮らすホウエンでは見かけない種族ばかりで、ナツは夢中になってノートを読み進めていく。

 あっという間に一冊目のノートを読み終えると、続けて二冊目も手に取る。こちらは少し趣を変えて、とても希少なポケモンや、実在するかさえ分からない伝承上のポケモンにまつわる記録や資料を丹念に書き留めている。

(皆はこげんポケモン、いるはずなんかなかって言うかも知れん)

(ばってん、海原ん神様は本当におった)

 それまで実在しないと信じられていた海原の神様――カイオーガが蘇って、ホウエン全土に凄まじい大雨を降らせたことがある。宗太郎と共に小学校の体育館へ避難して眠れぬ夜を過ごしたことは、もうすぐ三年が経とうとする今もなお生々しく記憶に残っている。だからここに記されている「ゼルネアス」「ディアルガ」「レシラム」という名が記されたポケモンたちも、カイオーガのように実在するかも知れない、ナツはそう考えた。

 そして最後のノートに至る。ノートの表紙には「Alola」とサインペンで走り書きがされている。アローラ地方のことだろうかとナツは思う。アローラの名は耳にしたことがあった。南方にある島国で、リゾート地として人気だとか。変わったポケモンがいるという噂は聞いていたが、具体的には知らなかった。ここに何か書かれてるかも、ナツがすぐさまノートを開く。

 予想通り、そこにはナツが目にしたこともないポケモンが描かれていた。鋭いクチバシの連打で木に穴を空ける鳥ポケモン、単独ではか弱いが群れることで強さを発揮する魚ポケモン、突然現れてハリテヤマと相撲を楽しんでいったという筋肉質な赤い虫ポケモン。数々のポケモンが目に飛び込んでくる。

(おじいちゃん、アローラ行ったことあるんばい)

 ノートの中程には単語帳のようなページもあった。アローラで使われている言葉を調べたようだ。そこには、ナツにとって馴染みのある単語も混じっていた。

「『雷:ヘキリ』……!? ヘキリって、アローラん言葉やったんと」

 隣にいたヘキリと顔を見合わせる。ルクシオはシンオウのポケモンだから、ナツは「ヘキリ」をシンオウの言葉だと思っていたが、どうやら違ったようだ。ヘキリはアローラの言葉で「雷」を意味する。電気を使った攻撃を得意とするルクシオにはピッタリの名前だ。

 ナツはさらにページをめくる。ノートの半ばまで達した頃、ページをぶち抜く一際大きなイラストがあった。

 シルエットのように曖昧にぼかされたタッチのイラスト。何を描いたのかはハッキリとは分からない。けれどナツはそれを一目見て「美しい」と感じた。そのページの隅には、描かれたモデルと思しき名が入れられていて。

「『ポリアフ/雪の女神』……」

 ポリアフ、雪の女神。確かにそう書かれていた。全体から伝わってくるイメージは確かにどこか冷たさを感じさせて、「雪の女神」の異名がしっくり来る姿をしていた。下にはさらに小さな文字でポリアフに関わる情報が綴られている。青白い体を持ち、現れるだけで吹雪を巻き起こす美しい神の化身。人の言葉を理解する神通力を持つ神秘的な存在――少しばかり乱れた筆致からは、興奮を抑え切れなかった様子がありありと伝わってくる。

(そういえばおじいちゃん、ずっと前にそげん話ばしとったような)

 ナツは思い出した。宗太郎はかつて「雪の女神」のことをナツに話して聞かせたことがあって、「もう一度会いたい」としきりに繰り返していたことを。ずいぶん昔のことだし、まだ年端もいかない子供だったのでさして気にも掛けていなかったけれど、今思うと何度か同じ話をしていた記憶がある。心から会いたがっていたのだろう。

 おじいちゃんが会いたがった雪の女神ポリアフ。一体どんなポケモンなのだろうかと、ナツが想像をふくらませる。そうしているうちに、自分もポリアフに会ってみたいという思いが生まれてくるのを感じた。

(おじいちゃんの見た「ポリアフ」に、うちも会うてみたいばい)

 自分がポリアフに会って、そのことをおじいちゃんに伝えることができたなら。ナツはそう思い至った。ナツは宗太郎の死に目に会えなかったことを悔やんでいて、まだ吹っ切れられずにいる。ポリアフに会った土産話を聞かせてあげれば、おじいちゃんも喜んでくれるかも知れない。

 ナツの心が、大きく動き始めていた。

 

 その日の伊吹家は普段とはうって変わって、ずいぶんと賑やかな夜になった。

「宗太郎しゃんにはばりお世話になった。こいつは今も頼りにしよー」

「まあ、お父しゃんが見つけたタマゴから生まれた子ば今でも連れよるんやなあ。きっと向こうで喜んどーよ」

 宗太郎にお世話になったトレーナーや友人達が食べ物や飲み物を持って集まり、思い出話に花を咲かせていた。フエンに古くから伝わる、堅苦しい葬式が終わった後気楽に故人を偲ぶために催される寄り合いだ。ナツと久子も加わって、めいめいに宗太郎との思い出を語る知人達の相手をしていた。

 とは言え、ナツはどこか上の空で、聞かされる話に曖昧な相槌を打ってごまかすばかりだった。

(誰か『ポリアフ』のこと、知っとー人とかおらんやろうか)

 理由は簡単。つい今しがたまで眺めていたノートに描かれた「ポリアフ」のことで頭がいっぱいになっていたからだ。ここにいる面子はトレーナーも多い、誰かポリアフについて知っている人もいるかも知れない。ナツは場の雰囲気を読みながら、自分の話を切り出すタイミングを密かに伺っていた。

 寄り合いが始まってから一時間半ばかりが過ぎて、場の空気が少しずつ緩んできたように感じた。ここぞとばかりにナツが身を乗り出して、皆に聞こえるような声で話し始める。

「あのくさ、ちょっと聞いてくれん」

「なっちゃん。どうかしたんか」

「こん中で誰か、ポリアフってポケモンば知っとー人はおらんか」

「ポリアフ? 聞いたことなか」

「アローラにおるっていう氷んポケモンのことばい。昔おじいちゃんが見たと、うちに話してくれたことがあるんよ」

 いきなり前のめりになって捲し立てるナツに、皆が顔を見合わせる。そうしていると、トレーナーの一人が口を開いた。

「うーん、なっちゃん。アローラはぬくかところやけん、氷んポケモンはおらんよ」

「ばってん、おじいちゃんがノートに書いとったんばい」

 食い下がるナツに、別のトレーナーがちょっとおどけた声でこう言ってみせた。

「あれやなかと? ホウエンにもいるやろ、強か日差しば呼ぶ化け狐。あいつに会うたんやなかやろうか」

「ああ、そりゃキュウコンのことやなあ。近頃は晴れになると強うなるポケモンと組んどーことが多かばい」

「あいつは神通力ば使えると聞くし、人ば騙したり惑わしぇたりすることもあるんやね」

「宗太郎しゃん、大方そいつに騙しゃれたんやなかと? アローラは南ん島、氷んポケモンが住めるところやなかよ」

 こんな塩梅で、揃ってポリアフの実在を否定されてしまった。それだけでなく、宗太郎は性悪のキュウコンに騙されたんじゃないか、とまで言われる始末。もちろん皆悪意があったわけではない。キュウコンに騙されることはトレーナーにとってそう珍しいことでもない。ましてや暑いアローラとあっては尚更だ。

「……いる」

「なっちゃん?」

 が、これがまずかった。

「絶対いる! おじいちゃんが見たことあるってうちに言うた、会いたかって言うた!」

 ナツは宗太郎が馬鹿にされたと感じて、声を荒らげて食ってかかったのだ。これには寄り合いにいた面々も戸惑うばかりだ。

「うち、自分で見てくる。自分でアローラまで行って、ポリアフば探してくる。本当におることば、うちが確かめてくる!」

「な、なっちゃん。俺が悪かことば言うた、宗太郎しゃんば馬鹿にするとか、そげんことやなか」

「行くって言うたら行く! 絶対に見つけてくる!」

 こうなるともう止まらないのがナツという少女だ。自らアローラまで渡ってポリアフを探しに行くと啖呵を切った。無論感情に任せての発言だけれど、ナツは一度やると決めたら絶対にやり抜く意地と根性の持ち主だ。言い出したからには何が何でもアローラまで行く、ナツはそんな子なのだ。キュウコンに騙された、なんて軽口を叩いてしまったトレーナーはずいぶん気まずそうな顔をしてナツを宥めるが、ナツは聞く耳を持たない。

 今にも暴れだしそうなナツを制するように、隣から久子が語りかけてきた。

「行ってきんしゃい、ナツ」

「お母しゃん」

 行ってきなさい、そう静かに告げて、ナツの肩に手を置いた。久子はナツのアローラ行きを認めたのだ。

「渡航ん準備は手伝うちゃるばい。仕事ん都合でアローラには伝手があるんやよ」

 娘のナツがどれだけ意地っ張りなのかは、久子だってよく知っている。気が済むまでやりたいようにやらせるのが一番いいことを、久子は理解していた。

「ばってん、夏休みん間だけばい。終わったら必ず戻ってくると約束してくれん」

 大きく頷くナツ。久子は柔らかく笑って、ナツの目をジッと見つめる。

「いつまでもお父しゃんの部屋に篭もってめそめそしとーより、外に出て日焼けん一つでもした方がナツらしいばい」

 こうして久子の一声で、ナツのアローラ行きが決まったのだった。

 

 照りつける太陽がこんなにも眩しいとは。ナツの偽らざる本音だった。

「ホウエンも暑かところばってん、アローラん方がカラっとしとーね」

 額に手を当てて日光を遮りながら、ナツが雲一つないアローラの空を見上げる。隣にはヘキリも一緒だ。真っ赤なハイビスカスや黄色いプルメリアといった、ホウエンでは見られない花が方々で咲いていた。

「がうっ、がうっ!」

「花ば好いとーもんね、ヘキリ」

 カラフルな花を見て嬉しそうにはしゃぐヘキリ。こういうところは女の子だね、とナツがおどけて言うと、ヘキリは一声吠えて応えた。

 久子の手を借りてアローラへ渡航する準備を済ませたナツは、はやる気持ちを抑えきれずにすぐさまアローラへと飛んだ。目的はただ一つ、祖父が目にしたという「ポリアフ」に一目会うためだ。会ってからどうするのかは分からない。ただ、ノートに描かれた幻想的なポリアフの姿に、ナツもまた強く心惹かれていた。会ってどうするのかは会ってから決めればいい、ナツはそう割り切っていた。

 背の高いヤシの木があちこちに立っているのが目を引く。ケンタロスに乗って移動するトレーナーや、ラプラスの背中で遊覧をする観光客など、ホウエンでは見られない光景があちこちで展開されていた。ケンタロスやラプラスといったポケモンそのものはナツも知っていたが、彼らが見せている姿は彼女が目にしたことのないものだった。新しいものを目にする度に、ナツが目をまん丸くして驚く。

「フエンの外って、うちの知らんものがいっぱいあるんやなあ」

 ナツの口からそんな言葉が漏れるのも、無理からぬことだった。

 飛行機に乗ってアローラへ乗り込んだナツは、アーカラ島のカンタイシティから、人が多く集まるという南西のコニコシティへ移動した。理由はもちろん、雪の女神もといポリアフに付いての情報を集めたかったからだ。四つの島に分かれた広大なアローラを自分一人で見て回るのは難しいが、地域の歴史に詳しい地元住民や、ポケモンに関する情報を集めているトレーナーなら何か知っているかも知れないと考えたからだ。

 ディグダが掘ったと言われるトンネルを抜けて、ナツはコニコシティへたどり着いた。ホウエンではまず見ることのない赤を基調としたエキゾチックな雰囲気の街に思わず目を奪われつつ、ヘキリと共に辺りを散策する。

「あっちんお店、ご飯ば食べるところかな」

 しばらくすると、ナツが街の中央部に大きな食堂を見つけた。入ってみよう、軽い気持ちで扉を開けて中へ進む。店内は多くの人でごった返していたが、幸い席が空いているのが見えた。さっと席を取ってメニューを手に取ると、店員らしき緑髪の女の子がオーダーを取りにくるのが見えた。

「はーい! 何にします?」

「えっと、何かおすすめってあると?」

 せっかくなので何か変わったものが食べたい、そう考えたナツが、店員に一押しを訊ねる。

「おっ! それなら、このZ定食スペシャルがおすすめでっす!」

「スペシャルかぁ。じゃあ、それひとつくれん」

「オーダー! スペシャルひとつ! 以上で!」

 元気のいい店員さんだな、なんてことを考えつつ、ナツが料理の到着を待った。

 十分ほどしてから、オーダーしたZ定食スペシャルが姿を現す。だがそれはナツの想像をはるかに超えた、得体の知れない一品だった。

「こん灰色んやつ……何と?」

 べっとりした灰色の豆腐のような謎の物体、魚の小骨が浮いた紫色のスープ、モロヘイヤか何かを混ぜたとしか思えない緑色のご飯、もはや何がなんだか分からない焼いた肉のような何か。

 いや、やばそうなのは外見だけで味はいいに違いない。ナツは目を閉じて自分にそう言い聞かせてから、灰色のプリン的な何かを口へ運んだ。

(……味がしぇん)

 未知の味に舌が麻痺する。スプーンを口に入れたまま、ナツは完全に硬直していた。味がしないというより、未体験の味に舌が理解を拒否しているかのよう。食べ物の味とは思えない、それがナツの偽らざる本音だった。

 目の前にはまだほぼ手つかずのZ定食スペシャルが鎮座している。一瞬心が折れそうになったが、ここでナツの心に火が付いた。

(こげんしたら、何が何でん全部食べきるばい)

 持ち前の意地を発揮して、遮二無二食べ物を口へ運び始めた。エキゾチックな味わいに痺れていた舌が活力を取り戻してきて、食べている内にだんだん味が分かるような気がしてくる……いや、ただの気のせいかもしれなかったが、とにかくナツはZ定食スペシャルに全力で立ち向かった。

 およそ十五分後。肩で息をするナツの前には、すっかり綺麗になった食器があった。あの得体の知れない物体どもを、ナツは意地で全部平らげたのだ。

「わわ! 完食しちゃったんですね!」

「変わった味やったけど……ちょっと気に入ったかもばい」

 息を切らしながら、ナツはお皿を上げにきた件の少女ににやりと笑って返す根性を見せたのだった。

 

 ナツは食堂からポケモンセンターへ移動して、カフェスペースで休憩していた。パイルジュースを頼むと、カフェのマスターからサービスとしてお菓子を一つプレゼントされた。

「おじしゃん、これ、フエン煎餅と?」

「おや、知っているのかい?」

「うち、そこから来たんばい」

「なるほど。ずいぶん遠いところから来てくれたんだね」

「アローラで、どげんしてん見たかものがあるんばい」

 ナツが貰ったのは、地元フエンでしょっちゅう見かける名物「フエン煎餅」だった。遠く離れたアローラの地で、おじいちゃんと一緒にしょっちゅう食べたフエン煎餅に出会うとは。ナツは少し嬉しい気持ちになって、ヘキリと一枚ずつ分け合って食べた。

 さて。ナツがバイルジュースを半分ほど飲んだ頃、彼女の近くに一人の少女がやってきた。

「アローラ! お姉ちゃん、ここ座っていい?」

「ん、よかよ」

 相席する少女。モンスターボールを持っているのを見ると、どうやらトレーナーのようだ。中を見てみると、クロバットが静かに佇んでいるのが見える。

「ありがと。あたしラウレアって言うの」

「ラウレアちゃんと。うちゃナツばい。こっちはルクシオんヘキリ」

「あっ、この子知ってる! 島の北に住んでるって聞いたよ。でも、滅多に見つからないんだって」

「へえ、ルクシオもアローラにおるんか」

「ナツさんって、観光しにきたの?」

「それに近かばってん、ちょっと違うとー。ラウレアは?」

「うーんと、島巡りの前に、クロちゃんとトレーニングしてるの」

「島巡り?」

 聞いたことのない言葉に首を傾げたナツに、ラウレアが大きく頷く。

「あのねー、十一になった子は、アローラの島を回って試練に挑戦するんだ」

「キャプテンの出す試練をクリアして、島にいるぬしポケモンと戦うんだよ」

「あたしはまだ挑戦できないけど、今から鍛えてるんだ」

 四つの島にいるキャプテンたちと戦って、すべての試練の制覇を目指す。聞いていると、ナツは地元ホウエンの風習を思い出さずにはいられなかった。

「なんだか、うちんところと似とーね」

「お姉ちゃんも島巡りするの?」

「島巡りやて言えば、島巡りなんかも知れん。小しゃな島に行くこともあるんやばい。うちゃやらんかったけども」

 ホウエンでも、十歳だか十一歳だかになると親元を離れて旅立つ風習がある。ナツの友人も多くが外の世界へ飛び出して行った。そしてそのほとんどが今や行方知れずだ。ナツは数少ない例外だった。親元を離れず、小学校から続けて学業を修めている。地元を出る機会はほとんど無かった。

 ラウレアがボールに入れたクロバットを見ている。クロバットはトレーナーと深く心を通わせることで進化すると、ポケモンにさほど詳しくないナツも聞いたことがあった。

「ラウレアって、ポケモンと仲がよかね」

「ありがと! ちょっと前に進化したんだ。すごい人から交換してもらったポケモンでね、ずっと育ててたの」

 褒められて喜ぶラウレアが、そうだ、と手を叩く。この間友達になってくれた子を紹介するね、そう言ってカバンから別のモンスターボールを取り出す。床へボールを落として飛び出してきたポケモンに、ナツが思わず目をみはった。

「こりゃディグダと? 頭に毛が生えとーが……」

「アローラにしかいないディグダなんだよ! ヒゲで周りの様子を探るんだって」

 ラウレア曰く、アローラには独自の進化を遂げたポケモンが棲んでいるという。他の地方にいるポケモンでも、アローラの姿は異なっていることがある。これが最近になって、他地方のトレーナーや研究者からにわかに注目を集めているそうだ。

 やたらと背の高いナッシーとかこんがり日焼けしたライチュウ、青白いロコンみたいな、他じゃ見られないポケモンがいるんだよ。生き生きと語るラウレアの様子に、ナツは目を奪われていた。

(トレーナーになっとったら、うちもこげん風になっとったんやろうか)

 脳裏にそんなことが浮かんだナツの心を見透かしたのか、はたまた単なる偶然か。ラウレアがナツに問いかける。

「お姉ちゃんもトレーナー?」

「ううん。うちゃただポケモンば連れとーだけばい。トレーナーにはならんかった」

 ナツはポケモントレーナーではない。ルクシオのヘキリはかなり強くて、そこらのポケモンには負けなかったけれど、あくまで彼女はただポケモンを連れているだけの一般人だ。

(おじいちゃんの側ば離れとうなかったけん)

 トレーナーにならなかった理由はその一言に尽きた。慕っていた宗太郎から離れたくなくて、ナツは地元に残る道を選んだ。それが自分にとって最善だと考えていた。

 けれど、宗太郎の気持ちは違っていたようだった。自分のように外の世界へ出ていろいろなものを見て回ってもらいたい、そう考えていた節がある。ナツは薄々察していた。

(うちがトレーナーにならんかったんな自分ん責任やと、おじいちゃんな思うとった)

 お互いの気持ちがすれ違っていた、今のナツはそう考えている。

 思えば、宗太郎が亡くなるときも同じだった。ナツに試合に出るよう促した宗太郎と、宗太郎の最期を看取りたかったナツ。相手のことを思いやる余りにすれ違ってしまう、そしてどちらにも負い目ができてしまう。気付かない内に、それを繰り返してしまっていた。

「ラウレア。ちょっとうちんこと喋ってんよかか」

 そう前置きしてから、ナツが口を開く。

「うちがここしゃぃ来たんな、死んだおじいちゃんがアローラで見てんポケモンば探したかからばい」

「おじいちゃんはずっと、うちに外ん世界ば見てもらいたがっとった」

「もう一度会いたかって言うとったポケモンにうちが会うて、『外ん世界ば見てきたよ』って言うちゃりたかんばい」

 どうしてアローラに来たのか、それは宗太郎が見た「ポリアフ」に会いたいから。なぜポリアフに会いたいのか、宗太郎の心残りを無くしてあげたいから。宗太郎の心残りを無くしたいのは、自分の気持ちに整理を付けたいから。言葉にして初めて、ナツは自分に素直になれた。

 私にはしなければならないことがあるから、ナツはそう締め括った。

「そっかあ、いろいろあるんだね。あたし、お姉ちゃんのこと応援するよ!」

「ありがとう、ラウレア」

 ナツがラウレアから応援をもらって、なんとしても目的を達成する、と意気込む。

「……ばってん、一筋縄ではいかんなあ」

 意気込んではみたものの、前途は多難と言えた。ポリアフに関わる情報は何もなくて、これからどこへ行けばいいのかも見当が付かない。そもそもホウエンを越える暑さのアローラに、雪の女神などと呼ばれるポケモンが棲んでいるのかどうか。

「こげん暑かところで、雪ん降る場所なんてあるんやろうか」

「あるよ、とっても寒い場所」

「えっ」

 何気なく漏れたナツの言葉をラウレアがすかさず拾う。余りにあっさり「ある」と言われたので、ナツが素っ頓狂な声をあげてしまう。ラウレアがにっこり笑って、教えてあげる、とナツに囁く。

「港から出てる船で、隣のウラウラ島へ行ってみて」

「ウラウラ島の真ん中にある『ラナキラマウンテン』、きっとそこのことだよ」

 ラナキラマウンテン。ラウレアによると、アローラで最も高い山であるとされ、地元の人からは霊峰として知られているらしい。年中雪が降り積もるアローラ唯一の極寒の地で、ごく最近まで入場が制限されていた。近年ようやく登山道が整備され、多くの人が訪れるようになったという。

 そこだ、とナツは確信した。ポリアフがいるとするなら、ラナキラマウンテンしかない。

「ポリアフはきっとそこしゃぃ居るはずばい。今すぐ行かなならん」

「待って待って。お姉ちゃん、その恰好じゃ氷漬けになっちゃうよ」

 ラウレアがポケモンセンターの外を指差して、そっちへ行こうとナツに促す。

「お隣にブティックがあるよ。おしゃれ着だけじゃなくて、登山用のしっかりした服も売ってるの」

 そして、さらにこう付け加えてきて。

「ちょっと安くしてねって、あたしからお母さんに話したげるよ」

 白い歯を見せて、にいっと笑ったのだった。

 

(ラウレアん言うた通りばい。氷漬けになったっておかしゅうなか)

 ナツとヘキリは口から真っ白な息を吐きながら、雪に覆われた道無き道を歩いていた。

 ウラウラ島・ラナキラマウンテン。温暖なアローラの地にあって、ただ一つそれに当てはまらない極寒の地。ヘキリ共々、コニコシティで調達した防寒具で身を固めていても、なお肌を突き刺すような凄まじい寒さだった。麓にいたガイド曰く、突然激しい吹雪が巻き起こることがあるので気を付けるように、とのこと。この有様ならさもありなん、とナツは納得する。

 だが不思議と、ナツもヘキリも足取りは軽かった。ホウエンは稀にしか雪が降らない。最後に降ったのはいつのことだろうか。ナツにとっては滅多に見られない雪、それだけでも心が弾んだ。一歩間違えれば命の危険さえある場所だというのに、ナツには雪景色を楽しむ余裕があった。ヘキリも同じだ。ルクシオは元来寒冷なシンオウ地方に生息する種族、暖かなホウエンで生まれ育ったと言えど、本能に訴えかけるものがあったのだろう。寒さにへこたれるどころか、むしろ活き活きとしている。

「これが『外に出る』いうことなんやな」

 人っ子一人いない雪原でナツが呟く。ホウエンにいては望むことのできない風景の数々を、若き日の宗太郎は幾度と無く目にしてきたはずだ。自分にこんな風景を見てほしかったのかも知れない。こうして宗太郎の足跡を辿っている今なら、その気持ちが分かる気がした。

 ここへ来た目的はただ一つ。雪の女神・ポリアフを探すためだ。アローラで雪が降るような場所はここしかない。雪の女神の名を冠するポケモンなら間違いなくこの地にいるはずだ。祖父を虜にしたポリアフをこの目で見てみたい、その気持ちがナツを突き動かしていた。

 雪原をヘキリと共に探索していると、前方から何者かが近付いてくるのが見えた。

「――がうっ! がうっ!」

「こげんところに来るような人はそうそうおらんけん。そうやな、ヘキリ」

 唸り声を上げたヘキリを見てナツが身構える。野生のポケモンが姿を現したのだ。

「へえ、アローラにもいるんやなあ。アブソルに、ユキワラシも」

 雪をかき分けて二人の前に飛び出して来たのは、アブソルとユキワラシだった。どちらもホウエンでも見かけるポケモンで、ナツも知っている種族だった。

「アヌアヌ、やったっけ。ユキワラシん古か呼び名って」

 ナツの地元でサンドパンが「ヤマアラシ」と呼ばれるように、アローラのユキワラシにも「アヌアヌ」という呼び名がある、ガイドが聞かせてくれた話だ。そんな考えを巡らせられる程度に、ナツには余裕があった。アブソルがヘキリに、ユキワラシがナツにそれぞれ襲い掛かる。

 勢いに任せて飛び掛るユキワラシだったが、大きく腕を伸ばしたナツに空中で引っ掴まれて、驚きに顔を染める。

「せやぁ!」

 掴んだユキワラシを地面へ思い切り投げ飛ばして、ナツが構え直す。よもや人間に直接反撃されるとは思っていなかったようで、ユキワラシが起き上がれないままあわあわと困惑する。

「ポケモン頼みんトレーナーやなかけんね、うちゃ」

 怯んだユキワラシを掴んで無理やり立たせると、今度は背負い投げを叩き込む。ナツがユキワラシ相手に大立ち回りを繰り広げている横で、ヘキリもアブソルと派手にやり合っていた。炎の牙や電光石火といった得意技をどんどん繰り出し、アブソルを地面に叩き伏せる。ナツとヘキリにいいようにやられて、ユキワラシもアブソルもすっかり進退窮まっていた。

 さらに攻め込もうと二人が構えた刹那、突然激しい吹雪が巻き起こった。

「うわっ……!」

 これ幸いとばかりに、吹雪に紛れてユキワラシとアブソルが逃げ出した。強烈な雪と風が容赦なく襲い掛かる。ナツはとっさに姿勢を低くして、ヘキリと離れないよう身を寄せ合う。山の天気が変わりやすいのは知っているが、些か急過ぎる。ナツは直感的に「何か」が起きていると感じた。

 目を開けていることさえ困難な風雪の向こうに、ナツは一つの影を見つけた。猛然とこちらに迫ってきているのが分かる。明らかに自分たちのことを認識していた。目を凝らして姿を見つめたナツが、その姿を目の当たりにして声を上げる。

「――ポリアフ!」

 その瞬間、吹雪がピタリと止んだ。

 燦々と輝く太陽を背にして、一匹のポケモンが大きく飛び上がった。ナツとヘキリの前に降り立ち、堂々とその姿を白日の元に晒す。隣にいるヘキリは闘争心を露にして、今にも飛び掛らんとしている。♀のヘキリが全力を発揮できるのは同性相手、つまり眼前に立つポケモンは♀に他ならない。すらりとした青白い体躯に、美しい氷柱のような髪、すべてを射抜くような凛とした眼差し。

 雪の女神。その言葉が誰よりも相応しい風貌。ナツの前に立っていたのは、紛れもなく雪の女神・ポリアフだった。

「ポリアフって……アローラんサンドパンやったんと」

 数日前にラウレアが自分に見せてくれた、頭に毛の生えたディグダ。ポリアフも同じ、アローラで独自の進化を遂げたサンドパンだったのだ。そのフォルムはホウエンでも見かけるサンドパンに近かったが、全身を鋭く刺々しい氷が覆っている。陽の光を跳ね返してキラキラ輝き、武骨な原種からは到底想像できないほど美しい姿をしていた。

 ポリアフがナツを見据える。表情を険しくしたかと思うと、鋭い爪を光らせ躍りかかった。

「うわっと!」

 受け身を取る要領で素早く転がり、ナツがポリアフの攻撃を躱す。小賢しく動き回るナツにポリアフはいよいよ怒りを露にして、腰を落として構えて見せた。

 次の瞬間だった。ポリアフは両手の爪で雪をかき分け、見た目からは想像できないほどの恐るべきスピードでヘキリへ突進を仕掛けてきた。あまりの速さにナツもヘキリも反応が追いつかず、ヘキリがそのまま大きく吹き飛ばされてしまう。

「ヘキリ!」

 ナツがヘキリの元へ向かおうとするが、ポリアフが目の前に立ち塞がる。敵愾心に満ちた瞳にナツを映し出して、爪を振りかざして襲い掛からんとする。ヘキリが起き上がってポリアフに攻撃を仕掛けるが、ポリアフはすぐに気が付いてヘキリを軽くあしらう。雪の上に体を投げ出して、ヘキリはぐったりしてしまった。

 再び向き直ったポリアフが、ナツを射抜くように見つめる。居すくまるナツがポリアフを見つめ返した直後、思いも寄らぬ出来事がナツの身に降りかかった。

「――愚か者め」

「えっ」

 はっきりと聞き取れる、ナツへと語りかける声。辺りに人影はない。いるのはナツとヘキリ、そしてポリアフのみ。

「人間風情が、この地に土足で踏み入ろうとは」

「……ポリアフ!?」

 声の主は、他ならぬポリアフだった。人の言葉を口にし、ナツに敵意をぶつけてくる。

(『青白い体を持ち、現れるだけで吹雪を巻き起こす美しい神の化身。人の言葉を理解する神通力を持つ神秘的な存在』……)

 宗太郎のノートに書かれていたポリアフについてのメモは誇張などではない、すべてが厳然たる事実だったのだ。

 襲い掛かるポリアフから身を躱しながら、ナツはポリアフの姿を見つめ続ける。ノートの中に描かれていたポリアフが、宗太郎が思い出話として聞かせてくれたポリアフが、トレーナーたちがいるはずなどないと一笑に付したポリアフが今、自分の目の前にいる、自分と戦っている! その高揚感が、ナツに力を与えてくれた。

「――『ペレ』め。火山の煙たい匂いがしよるわ」

「あの時と同じ……まったく忌々しいことよ」

「今更何をしに来たというのだ! わらわの怒りを受けよ!」

 今更。ポリアフが吐き捨てるように言ったその言葉に、ナツがハッとする。

(まさか、今うちん前におるんは)

 ポリアフはナツが一瞬だけと言えど油断した隙を見逃さなかった。身を大きく翻して、背中に生えた氷柱のようなトゲをナツ目掛けて放って来たのだ。

「うああぁっ!」

 氷針がナツの腕や足を切り裂く。無数の切り傷を負って、ナツが思わずその場に膝を折る。真っ白な雪原に真っ赤な鮮血が零れ落ちて、くっきりしたコントラストを描いた。身体が冷たくなっていく、苦悶の表情を浮かべたナツが傷口を抑えてうずくまった。

 ここぞとばかりに雪をかき分けて迫り来るポリアフの目を、それでもナツは見つめつづけた。

(もしかしたら、ポリアフは……こんポリアフは……!)

 ナツの目に光が宿る。意地と根性で立ち上がると、大振りなポリアフの攻撃を紙一重で躱して見せた。ポリアフが一瞬ナツを見失い、その場に立ち止まる。ほんの一瞬生まれた隙、見逃すはずがなかった。

「がううっ!!」

「何!?」

 闘争心を発揮して、再び起き上がっていたヘキリがポリアフの不意を突き、熱した牙を腕に突き立てた。効果は覿面、ポリアフが大きく怯む。

「……せりゃあぁあああーっ!!」

 ラナキラマウンテン全域に響き渡らせるかのような喊声を上げて、ナツがまっすぐに、まっすぐに、ポリアフの懐へ猛然と飛び込んでいく。人の限界を越えた速さでポリアフにアプローチしたナツが、全身全霊の力を込めてポリアフの体を掴んだ。

 宗太郎の声が、ナツの脳裏にこだまする。

(引き手は右に、釣り手は襟に)

(右足を相手の右脚に掛けて)

(足の裏で、相手の脚を払う)

(背負い投げの要領で、相手を床に投げ落とす)

 時間の流れが何倍にも引き伸ばされて、すべての音が消えてなくなる。無限に拡張された時の中で、ナツはまったく無意識のうちに、かつて宗太郎から教え込まれたあの技の掛け方を、型通り一つ一つ順番になぞっていく。

(ナツ。これが――)

 脚を払うと同時に、ポリアフの体を背中で持ち上げる。無力なまま浮かび上がった相手を、あるがままの流れにそって、あるべき形で投げ落とす。

 時間が元の速さに戻るのを感じた。どさり、と大きな音が聞こえた。辺りに激しく雪が舞い上がった。

(――『山嵐』だ)

 ナツに山嵐を掛けられて、ポリアフは地面に倒れ伏した。

 ホウエンではサンドパンをヤマアラシと呼ぶ者がいる。ナツはかつてサンドパンと戦った経験があり、それを同じく山嵐で投げ飛ばしたことがあった。そのエピソードからナツは「ヤマアラシを山嵐で投げ飛ばす」と称された。

 ポリアフ、アローラの姿のサンドパン。ナツはかつてのように、山嵐でポリアフを倒したのだ。

「……ポリアフ」

 地面に投げ倒されたポリアフに、ナツが近付いて声を掛ける。ポリアフの目にもう敵意はない。穏やかな眼差しで、ナツのことをじっと見つめている。ポリアフに聞こえるよういっそう顔を寄せて、ポリアフに呼び掛けた。

「会いにきたよ、ポリアフ」

「おじいちゃんの代わりに、会いに来たよ」

 天を仰いだまま、ポリアフは何度も頷く。やがて絞り出すような声で、こう声を上げた。

「やっと、来てくれたのだな」

「――ソウタロウ」

 ソウタロウ。そうたろう。宗太郎。忘れるはずもない、かけがえのない祖父の名前だ。

「ポリアフ」

「やっぱり、おじいちゃんが会うたポリアフなんか」

 ナツの前にいるポリアフは――かつて宗太郎が遭遇したポリアフ、そのものだった。

 

 近くの岩場に腰掛けて、ナツとヘキリ、そしてポリアフが輪を作る。

「あれからもう、六十回は冬を越しただろうか」

「ソウタロウに出会ったのは、日差しの高い夏のことだった」

 今から六十年近く前のこと。ポリアフはラナキラマウンテンへ足を踏み入れた宗太郎と出会った。その時のことを、ポリアフは克明に話して聞かせてくれた。

「わらわはハウ・イオレたちの新しい首領に選ばれ、皆を率いていく必要に迫られた」

「マウナ・ケアの奥地に鎮座する冷たい石……わらわはそれに触れた」

「年端も行かぬハウ・イオレだったわらわが、今のハウ・アリイの姿となった」

 群れのリーダーに抜擢されたポリアフは、それに相応しい力を得るべく進化の儀式を執り行った。今のポリアフの姿を得たのはまさにその時だった。強大な力を得たポリアフだったが、その代償は大きかった。

「身体の変化が急すぎたのだろう。わらわは立つことすら出来ぬほど疲れ果てていた」

「まるですべてを見透かしたかのように、あの忌々しいエレエレが現れよった」

「黒い身体に白い爪、そして血の色のような赤い耳。我々ハウ・イオレに仇なすポーポキたちの中でも、とりわけ性質の悪い種よ」

「わらわはエレエレに組伏され、抵抗ひとつできぬまま、一つ一つ傷を増やされていった」

 エレエレ。黒い身体に白い爪、赤い耳を持つラナキラマウンテンの厄介者。ポリアフの並べた風貌を整理して、ナツはそれが自分の知るところのニューラであると確信した。進化を遂げたばかりで体力を消耗していたポリアフを狙って、ニューラが襲撃を掛けたのだ。

「ソウタロウがわらわの前に姿を見せたのは、その時だった」

 ニューラに執拗に痛めつけられていたポリアフだったが、そこへ現れたのが宗太郎だった。宗太郎はニューラに嬲り者にされているポリアフを認めるとすぐさま駆け寄って、ニューラを挑発して気を引きつけた。

 攻撃対象を宗太郎に変更して、ニューラが宗太郎の元へ猛然と奔る。

「この距離ではポーポーは投げられぬ、彼の者の命が危ない、わらわはそう思った」

「だが、彼の者は違った。ポーポーを投げる必要などなかった」

「わらわの前で、彼の者……ソウタロウは」

 駆け込んできたニューラに姿勢を低くして突っ込むと、わずかばかり怯んだ間に瞬時に型を完成させて。

「そなたと同じ遣り口で、あのエレエレをいなして見せた」

「エレエレはソウタロウの一撃で恐れをなして、ほうほうの体で逃げて行った」

「技の名は『山嵐』。そう言っておったのを、今でも覚えている」

 ニューラに自ら山嵐を決めて、ポリアフを救い出したのだ。そなたと同じ遣り口、ポリアフから言われたナツは、思わず胸が熱くなるのを感じる。かつてこの地で、生地から遠く離れたこの地で、宗太郎もポケモンに山嵐を掛けたのだ。興奮を抑えきれない様子のナツが、大きく身を乗り出す。

「火はわらわの天敵。雪と氷の世界に生きる故、熱さには耐えられぬ身よ」

「けれど、あの雄々しき姿がわらわにもたらした熱情は、計り知れぬものがあった」

「人の言葉で『一目惚れ』と言うのは、かような心持ちなのだな」

 自分を窮地から救い出してくれた宗太郎に、ポリアフはすっかり心奪われていた。それまでこの極寒の地でただ日々を生き抜くことばかりを考えていたポリアフが初めて抱いた、身を焼き焦がすような感情だった。

 宗太郎に背負われ、ポリアフは安全な洞穴まで運ばれる。薬を使って傷を癒してもらい、チーゴの実を分けてもらって体力を回復させる。宗太郎に甲斐甲斐しく世話を焼かれ、ポリアフは己の命を拾うことができた。そうしている間ずっと、宗太郎はポリアフに穏やかな目を向けつづけていた。

「わらわはソウタロウに感謝の気持ちを伝えたかった。されどその時はまだ慣れぬゆえ、人の言葉を話せなかった」

「あの時ほど口惜しく思ったことはない。人の言葉を口にできれば、この思いを伝えられように。歯がゆさで胸が押し潰されそうだった」

「されど、ソウタロウは。ソウタロウはわらわの抱いた考えを、口にしたき言葉を、すべてを理解してくれた」

 ポリアフが人の言葉を学び身に付けることを決意したのは、その時だったという。

「折しもマウナ・ケアには颶風が巻き起こっていた。ソウタロウは、わらわと共に洞穴で一夜を明かすことを選んだ」

「ソウタロウはわらわに数多の話を聞かせてくれた。ソウタロウ、その名を教えてくれたのもその時だった」

「生まれははるか遠くの島で、そこにはもうもうと煙を上げる火山があると語ってくれた」

「わらわのようなホロホロナを連れて、方々を旅して廻っているとも言っておった」

「エレエレをあしらう折、何故ホロホロナをポーポーから出さなかったのか……わらわが身振り手振りで訊ねたことを、ソウタロウは理解して応えてくれた」

「皆寒さに弱い故、辛い思いをさせたくないと。ホロホロナ達はメアハナではなく、オハナであるから、と」

「『いざって時は、己ん腕っ節で何とかするもんや』。ソウタロウはそのように言って、わらわの前で笑ったのだ」

 自分の知っている「おじいちゃん」と何一つ変わらない。ナツはポリアフの語る宗太郎の話の一つ一つに頷いていた。若い頃から変わらず大人になったんだ、ナツの抱くイメージとポリアフの言葉は、驚くほど一致していた。

 ポリアフはますます宗太郎に惹かれていった。身を寄せるポリアフを、宗太郎が優しく撫でる。あの感触を忘れたことはない、そう語るポリアフの目には、郷愁の色がはっきりと顕れていて。

「ふと、ソウタロウが何かを取り出して、わらわにこう言ってきた」

「『綺麗な顔ばしとーね。ノートに描かしぇてくれんか』と」

「ソウタロウの記憶に、わらわの姿を留めることができるなら。わらわに断る理由などなかった」

 あのノートにポリアフの姿が描かれたのは、まさしくこの時であった。ソウタロウはポリアフの姿を鉛筆描きで精緻に模写して、出来上がると同時にポリアフに見せた。

「紙片の中には、もう一人、わらわがいた」

「深く魅了され、食い入るように見入っていたわらわに、ソウタロウが声を掛けてきた」

「『君に、名前ば付けてよかか』」

「『君は「雪の女神」――アローラん言葉で言うなら「ポリアフ」ばい』と」

「――『ポリアフ』」

「ソウタロウが、わらわに授けてくれた、わらわの名前だ」

 彼女に、ただの名前を持たぬサンドパンに過ぎなかった彼女に「ポリアフ」という名を与えたのは、他の誰でもない、宗太郎だった。

 宗太郎とポリアフは、吹雪の中で一夜を共にした。

「夜が明けるまで、ソウタロウとわらわは語り合った」

「このまま朝が訪れなければ。かような願いを掛けてしまうほどに、甘美な時だった」

「されど、明けぬ夜はない。朝が訪れぬ日はない」

 朝を迎えると吹雪はピタリと止んで、抜けるような青空が広がった。快い空模様とは対照的に、ポリアフの心には晴れぬ雲が掛かったようだった。

「ソウタロウは旅を続けなければならぬ。わらわはハウ・イオレたちの元へ行かねばならぬ」

「名残惜しい気持ちはあれど、我らには戻るべき場所があったのだ」

 また会いに来る、宗太郎はポリアフにそう約束して。ポリアフは辛さをこらえて頷き、安全に下山できる道のりを宗太郎へ教えた。小さくなっていく宗太郎の背中を、完全に見えなくなるまで見送ってから、ポリアフは群れの暮らす集落へ戻った。

「わらわは待ち続けた」

「いつかまたソウタロウが訪れてくれる日を、ただ待ち続けた」

 ポリアフはいつか宗太郎がこのラナキラマウンテンの地を訪れてくれると、疑うことなく信じ続けていた。群れを率いてラナキラマウンテンを守りながら、心の中では宗太郎の訪れをずっと待ち侘びていた。

「天に誓おう。ソウタロウに会いたいと願うことは数多あれど、なぜ来ぬのかと恨むことは無かった」

「ソウタロウが約束を反故にすることなど無い、必ずここへ姿を現す。わらわはそう信じていたのだ」

 六十年近くが経った今もなお、ポリアフの宗太郎への情熱は些かの変わりもない。どれだけ一途なのだろう、どれだけ純真なのだろう。ポリアフはその姿に匹敵するほどの美しい心を抱いたまま、長い時を過ごしてきたのだ。

 それだけに、ナツは宗太郎がどのような運命を辿ったか口にすることを強く躊躇った。言えばポリアフの心は折れてしまうのではないか、そんな残酷なことができようか。けれど、嘘を言うこともごまかすことも、ナツにはできなかった。それは目の前にいるポリアフを欺き、穢してしまうことに他ならない。

(……本当のこと、ポリアフに言わな)

 逡巡を重ねた末、ナツが決意する。苦しい表情のままポリアフの目を見て、重々しくその口を開く。

「おじいちゃんは……宗太郎おじいちゃんは」

「天に、召されたばい」

 ナツの言葉に、ポリアフが目を伏せて頷く。

「やはり、もう……」

「ポリアフ」

「そうではないかと……薄々そう思っておったのだ」

「すまんばい、ポリアフ、本当に……」

「ナツ。そなたが気に病むことではない。そなたは身命を賭して、わらわにその報をもたらしてくれたのだから」

 辛さのあまり目に涙を浮かべるナツの背中に、ポリアフがそっと手を添える。ポリアフも覚悟していたようだ。あまりにも時間が経ちすぎていた。既に宗太郎はこの世にはいないのではないか、それを感じ取っていたようだった。

「我々は種が違う。同じ時を生きることは叶わぬ」

「わらわの属する種は長命。二百の冬を越えると言われるほどに」

「エレエレ相手とて頑健ならば遅れは取らぬ故、天敵たりえぬ。そしてこの、並のホロホロナでは三日と生きられぬマウナ・ケアの地に適した身体は、さらに長い命をもたらす」

「……土に還るまでにソウタロウと二度と会えぬこと、心のどこかで覚悟はしておった」

 ナツの瞳を見つめて、ポリアフが語りかける。

「そなたを一目見た途端、ソウタロウの子息……孫娘だと確信した」

「ペレのごとき強い力を秘めた、ソウタロウと血の繋がりがあるに相応しい娘だと感じた」

 出会い頭にポリアフがナツに向けて投げつけた「ペレ」という言葉。ナツは先のガイドが話した中にその名も含まれていたことを思い出した。アローラの伝説でポリアフと敵対する火山の女神、それがペレだった。奇しくもナツの生まれはホウエンはフエンタウン。活火山である煙突山の麓にある、火山とは切っても切れない土地だった。

「ソウタロウに会いたかった気持ちを、誰かにぶつけずには居られなかった」

「ソウタロウを待ち続けたわらわの思いを、そなたに分かって貰いたかった」

「わらわの行き場のない熱情……それをそなたに受け止めて欲しかったのだ」

 ナツを目にするなり戦いを挑んできたポリアフの心境。ナツはそれを余すところなく理解して、繰り返し繰り返し何度も頷いた。ポリアフの気持ちは誰よりも深く分かった。宗太郎を喪って行き場のない感情を募らせていたのは、ナツもまた同じだったからだ。

「そなたはわらわの思いに、まっすぐ応えてくれた」

「ソウタロウが、かつてわらわを救い出してくれたあの技で、わらわを過去から解き放ってくれた」

「すべてを受け止めて、見事に返してくれた」

「あれはまさしく、ソウタロウの『山嵐』そのものだ」

 あふれんばかりの感謝の思い。ポリアフはかつて口にできなかったその思いを余すところなく言の葉に載せて、ナツに贈っていく。

「そなたは紛れもなく、間違いなく――ソウタロウの、孫娘だ」

 ナツの目から、ひとしずくの涙がこぼれた。

 ポリアフとナツ。二人はとめどなく涙を流す。雪のように募ったソウタロウへの恋慕を、心に染み付いて離れなかったおじいちゃんへの心残りを、透き通った美しい涙が綺麗に洗い流していく。

 ナツが天を仰ぐ。青い、青い空が、視界いっぱいに広がる。

(ラナキラマウンテンは、マウナ・ケアは、アローラで一番天に近か場所だって言いよった)

(ここからなら、きっとおじいちゃんにも見えとーはず。おじいちゃんにも、うちとポリアフん姿が見えとーはずばい)

(アローラで一番おじいちゃんに近かこん場所で、うち、おじいちゃんに恩返しがでけた)

 霊峰ラナキラマウンテン。霊験灼かなこの地で、ナツは宗太郎が遣り遺したポリアフとの再会を果たすことができた。ナツはその手で、宗太郎の願いを叶えたのだ。

(ありがとう、おじいちゃん)

(うち、おじいちゃんの孫でよかったばい)

(本当に、本当によかったばい)

 もはや一片の悔いもない。すべてのわだかまりが雲散霧消していくのを、ナツはつぶさに感じ取る。

(さよなら、おじいちゃん)

(うち、もう泣かんけん、安心して)

(おじいちゃんから教えてもろうた技ば使うて、おじいちゃんに恩返しがでけたから)

 はるか向こうの空で、宗太郎が笑っている。

 ナツの目には、そんな光景が見えた気がした。

 

 遮るもののない、見事に晴れ渡った空の下、ナツがポリアフにそっと手を差し出す。

「なあ、ポリアフ」

「うちと一緒に、おじいちゃんにお線香ば上げにいかんか」

 ポリアフは口元を緩めて、ナツの手を取る。

「そうだな。わらわも言いたいことは星の数ほどある」

 隣に居たヘキリが遠吠えを上げて、ラナキラマウンテンに声を響かせた。

 山の嵐は消え失せて、雲一つない青空がどこまでも広がる。

 

 それはさながら、ナツとポリアフの心のように。