末武は
「北に向かうのでしたらこちらの道から周り道をすると宜しいでしょう」
「何故だ」
「この先の丘には泉があります。そこには人喰鬼が出て、道行く者を喰らう故、泉の前を通らずに往くといいでしょう」
末武は興味を示し、ずいと体を乗りだす。
「ほう、鬼が出るか。どのような鬼か?
「有り難きお言葉。恐々として道を渡らなければならず、村の衆共々、かの人喰鬼には困り果てておりました。しかしながら、お控えなさった方が宜しいです」
「敵うかどうかは己が決める。して、どのような鬼か?」
「水術を操る蜘蛛の鬼でございます。見るに
村人は末武の荷物を背負う、
「心配御無用」
末武は腰に吊り下げた
「例え敵わぬとも、生きて逃げ帰ることは出来よう。仮に死のうとも、己は既に一度死んだ命、今更惜しくは無い」
止めたが、末武は応じず、村人はついに折れて。
「左様ならば、私は止めることは致しませぬ。大事なお命、くれぐれも無益に散らさぬように」
と見送った。
出立した末武は、清水がせせらぐ丘を深く深くつき進んだ。そして村人の申した泉の前を通りかかると、泉の水面から無数の
「来たか」
獣珠より自らの妖獣達を繰り出して、声を張り、名乗りを挙げる。
「己こそは桔梗国の士、浦辺三郎 登部末武なり。そこに居るは邪鬼と心得る、命により成敗致す。いざっ! いざっ!」
すると水面が大きく波打ち、一匹の巨大な怪蜘蛛が泉の中から躍り出た。不気味な紅き闘気を全身に纏って真紅の輝きを放ち、目寸十尺を超える。針金のように細長い黄味がかった六本の脚で水面に着地し、頭部には巨大な水泡をなみなみと
鬼蜘蛛は、あわや末武に躍りかかるかと見えたが、はたと動きが止まった。末武はその隙を見逃さず指示を送る、大虚蔓は草結で鬼を捕縛し、裸電羊は動けぬ相手に雷霆を撃ち込んだ。雷で草の縄が焦げ落ち、身軽になった鬼は、たちまち身を翻して、元の泉の中に隠れた。
「恐れを成して逃げ出したか、炙りだしてやる」
末武は裸電羊をけしかけて、泉に雷霆を叩き込もうとしたところ。
「待て、待たれよ」
と人の声が呟くのが聞えた。末武は怪しがりて耳をそばだてると、その声は泉の中より聞こえてくるようだった。
「お前は自分を殺める心算であろう、その前に自分のことを聞いてほしい。案ずるな、騙し討ちなどせぬ」
末武は
「自分は人間であった」
鬼蜘蛛は、曇った低い声で名乗った。
「出自は日之本
目の前に現れた悍ましき異形の怪物が、どうして人間であったと言えるのだろうか。だが何故か不思議と末武は、この怪異を素直に受け容れて、怪しむことはなかった。
「ふむ、
泉の中からは、
「自分はこの異類の姿が恥かしい。どうして、おめおめと
否しかし…… 異形の身に成り果てて尚、人としての辱めに固執するのも
そうして、再び巨大な怪蜘蛛が泉より出でた。改めてまじまじ見るとやはり巨大である、十尺どころか十二尺はあるやもしれない、末武の故郷にも蜘蛛の妖獣はいたが、これほど大きな蜘蛛は見聞したことがない。先ほどと比べ、不気味な紅き闘気は幾ばくか静まっているが、それでも輝きは消えることなく、人の心を激しく掻き乱す威圧感を放っていた。鬼はどうして今の身となるに至ったかを、
自分は紫苑国の家の子として生を受けた。国は小さけれど、妖獣の操使が活発で、少数ゆえにその結束は固く、操使術は何処とも引けを取らない自負があった。だが乱世の奔流に
抵抗もむなしく滅ぼされ、一族共々殺されたが。自分は母の計らいで一人逃がされ、追手から逃れるため貿易の為に着岸していた
兎にも角にも金が必要だった、この地に根を張り、金を集め、同時に自らの操使の腕を鍛え上げた。そんな生活も数年も続けたある日、この泉に棲まう“鬼”の話を聞いた。勇んでこれを受け、鬼討伐に出向いた。
戦いは明け方から始まる、長い戦となった。日暮れに、ついに鬼蜘蛛は倒れて、鬼の頭を護る水泡が破裂して周囲一面に四散した。自分はその四散した水を頭から被ってしまったのだ。
その直後から、肉体に苦痛が走った。毒か! 不覚を取った! と悔い、悟った時には既に手遅れであり、共に戦っていた妖獣達も時同じく、横で
手足指先から始まり、それはまるで鉄が錆つくように、皮膚が腐っていく、苦痛はついに臓物に達し、
死ぬのか。崩壊した思考の中でそう感じた。不自由で動かせない肉体を捩り、自らの腕をちらりと見た。
否、違う、自らの肉体が変容しておるのだ。
指先というものは既に融けてなくなり、尖った脚の先となっていた、針金のように細長い腕の節には球体関節が形成されている。自らから紅き闘気が湧き上がっていた。その刹那、
自分の周りには、今の今まで操使していた妖獣達が倒れていたが、皆すでに息は無く、死んでいたようだった。何故だか自分はそれを実に美味で喰らいたいと欲し、そうして本能の
骨を砕き、肉を
自分は鬼になってしまったのだ。
成程、ならば幾度討伐しようとも果てることのない鬼にも、合点がいく。討伐したものが次の鬼になるのだ。泉の水面には、先刻まで対峙していた悍ましき鬼の姿が、自らとして映っていた。
それ以降、どのような所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。幾度となく死のうと試みたが、鬼の身体は頑強で死ぬには至れなかった。ならばと食を絶ち、飢餓死を試みれば、その度に自分の中の鬼が目覚めて途行く人を喰い、腹を満たした。鬼としての自分の残虐な行いの跡をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、
次第に、はたして自分は元は人間だったのだろうかと考え始めた。真に恐ろしいことだ、今少し待てば、自分の中の人間は、鬼の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。そうすれば、しまいに過去を忘れ果て、一匹の賤蟲として這い廻り、例えばお前を餌として裂き喰ろうても、何の悔いも感じないだろう。
ああ怖い、恐ろしいのだ。それを紛らわすために自らの過去を復唱し、しがみついて、自分が人間であることを忘れずにいようとするが、実に卑しき行為だ。いっそ自分の中の人間が消えて、ただ一介の賤蟲の仲間として生きるならば、そのような哀しさとは無縁に生きることができるだろう。それはどんなに幸せなことであるか。自分の人間としての無念、このような身に堕としても家に
何故このような運命になったか、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。
いや、元はと言えば、自分が鬼討伐に出向いたのが悪い。あの頃の自分は大いに焦燥していた、眞壁家のため、父上や兄上の無念のため、その想いに報いなければならない。この地で立身出世をしていつかは故郷の地を踏み、一国の
そのために
土地を失い、人を失い、たった独りで見知らぬ異国の地に辿り着いた自分は、誰一人信ずることが出来ず、努めて人の交わりを避けた。自分は誇り高き武家の生まれであり、衣さえもままならない下賤の民とは異なるものだと、自らを発奮させ、自尊心を糧に生きていた。
その自尊心というものは、実に臆病な自尊心と言うべきものであった。自分は名を成そうと思いながら、進んで島民に歩み寄りて強者を師に仰いだり、友を求めて互いに切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、
家にしても国にしても、自分の道というものは、人が在ってこそ成り立つものであるにも関わらず、自分は異国の民に
自分は、持っていた
自分の心は日毎ごとに鬼に近づいて行く。そうした過去も葛藤も消えてしまうのか? 堪まらなくなって、そこの滝崖の
だが、洞を共鳴し響き渡るのみ、泉に棲む鰯魚どもは声を聞いて、懼れてひれ伏すばかり。山も樹も月も日も、一匹の鬼が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り、地に伏して嘆いても、誰も気持ちを分かる者はない。今の自分の面を包むこの水泡は、涙で出来ているのやもしれない。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。かのような
かのように酷い、人で
成り果てて、ようやくそれに気が付くことができた。それを思うと、今も胸を灼やかれるような
「これで、自分の話は終わりだ」
氏春は、異形の容貌故に実に舌足らずの口調子であったが、自らの来歴を語り終えた。
「このような
氏春はゆっくりと首を
「……御労苦お察しする。己自身が如何に返辞すべきか決めかねるが。先ず伝えるとすれば、己はそちを殺さぬ」
「左様であるか」
「そちを死なせば、次は己が鬼と成るのだろう。そのような無謀はせぬ」
「恐らくな。……ならば、一つ頼みを聞いてくれないか? お前の話、故郷の話を聞かせてほしい。あれから我が故郷は――日之本はどうなったのだ?」
末武は、氏春の頼みに応じ、自らの身の上話と、日之本の今を語った。
数多くの戦が繰り広げられ、ついに火焔の武将が相棒の烈焰猴と共に、日之本すべての国をまとめ上げ、一時は天下統一したが、火焔の武将は嫡子に恵まれなかったため。
末武は、火焔の武将側に就き、焔馬に
この不屈の武将が幕府を開き、天下を盤石としたことで、戦国の覇者は、はじめにして始まりの地、若葉国出身の、不屈の武将が手にすることになった。かくして天下泰平の世が訪れた。
末武の兄が不屈の武将側に付いていたため、登部家は残り、兄が継ぐことになったが。負け武将である末武は、処罰されることになった。
そこで末武は死んだことにされて、こっそり日之本を抜け出し、この
皆には泣かれたが、末武は満足であった、この国にはもう戦は起こらない、勉学が不得で、兄のように
「そうか、天下泰平の世か」
と呟いた。
「戦は、終わったのだな」
そして、天を仰いで沈黙する。鬼の面ではその表情を見取ることはできないが、末武には彼が声に出さずに涙を流し、静かに
はたと、末武は一つ思い出し、首を捻る。
「困ったな」
「何を困ったのだ」
「己は村の者から鬼蜘蛛退治を承っておる。そちがここにいると、怖れて誰もこの地に近づくことが叶わん。おそらくだが、そちはこの地から離れられないのだろう?」
「そうだ、察しているようだな。幾度となく自分はこの地を離れようとしたが、叶わなかった。これはかつて殺された蜘蛛の
だが、策は何一つも無いわけでもない、しばし待たれよ」
氏春は再び水の中に潜む。それから暫く待つと、
「これを
「これはどういう物か?」
「妖獣と人間を結ぶ純晶なり、これがあれば自分が鬼として目覚めようと通じ合い、人間を起こして鎮まることが出来よう。試練をしてこれを持つに相応しい者を選び、自分を鎮める守り人とせよ。
「なるほど、ならば己がその守り人に名乗り出ようぞ」
「ならぬ」
「何故だ」
「解らぬか? 無論、守り人となれば自分が猛り狂いお前を喰い殺すやもしれない為でもあるが。 実を言えば、ここ長い間、自分の人間は消えており、すっかり鬼に成り果てていたのだ。だが、お前の名乗り口上、懐かしき故郷の言葉を聞いた
「無論だ、共に死に損ないの者同士、良くしようぞ」
「恩にきる。もし守り人となれば、平時もこの自分のそばに居るだろう、きっと自分の死に寄り添うことになるだろう」
氏春は、友に言う。
「自分はお前を友としたいが、仲間にはしたくないのだ」
登部末武は純晶を
王は
鬼蜘蛛は泉の
末武は島の巡遊を終えた後、嫁を娶り、
寿命を迎えた鬼蜘蛛からは、積年の怨恨の鎖が消え去ったのか、更なる鬼がつくられることは無かった。