鬼鎮蜘蛛

著者:円朱府立古文書資料館

 登部(とべ)末武(すえたけ)という男、阿羅拉(あろら)の島を巡りて、鍛錬の途にいた。

 末武は日之本(ひのもと) 桔梗国(ききょうのくに)の若武将であり、妖獣使いの才に秀でていたが、末武が初陣に出た時には、戦国の乱世は終わりを告げ、時代は天下泰平の世を迎えようとしていた。末武は自らが産まれてくるのが少々遅かったのかもしれないと思っていた。家は兄が継ぐことになり、桔梗国に居場所が無くなったためもあるが、自らが鍛え上げし妖獣達とその操使術の使途はこの国に無いと悟り、新たな戦いと修練の地を求めて船で海を渡り、この阿羅拉(あろら)の地に辿り着いた。


 阿下拉島(あからじま)に宿をとった末武が、太陽が昇りきぬうちに北へ出立しようとしたところ、村人の申すこと。

「北に向かうのでしたらこちらの道から周り道をすると宜しいでしょう」

「何故だ」

「この先の丘には泉があります。そこには人喰鬼が出て、道行く者を喰らう故、泉の前を通らずに往くといいでしょう」

 末武は興味を示し、ずいと体を乗りだす。

「ほう、鬼が出るか。どのような鬼か? (おれ)が退治しよう」

「有り難きお言葉。恐々として道を渡らなければならず、村の衆共々、かの人喰鬼には困り果てておりました。しかしながら、お控えなさった方が宜しいです」

「敵うかどうかは己が決める。して、どのような鬼か?」

「水術を操る蜘蛛の鬼でございます。見るに(おぞ)ましく、醜く(おそ)ろしい姿をしており、その醜悪至極な姿を一目見れば、雄々(おお)しき男も小水を粗相(そそう)し、(たちま)ち逃げ出します。いままでに幾度となく腕なりの強者が鬼に挑みましたが、誰一人として戻ってくることが叶いませんでした。その水泡の前にはあらゆる炎は経ちどころに消えてしまいます。横に居られる焔馬では、とても、とても敵いませぬ」

 村人は末武の荷物を背負う、炎鬣(ほのおのたてがみ)の一角馬を指し示す。

「心配御無用」

 末武は腰に吊り下げた獣珠(じゅず)を取り出すと、中より裸電羊と大虚蔓を繰り出した。それぞれが水獣に強い、雷と草の妖獣である。どちらも末武が鍛えに鍛えた自慢の妖獣だ。

「例え敵わぬとも、生きて逃げ帰ることは出来よう。仮に死のうとも、己は既に一度死んだ命、今更惜しくは無い」

 止めたが、末武は応じず、村人はついに折れて。

「左様ならば、私は止めることは致しませぬ。大事なお命、くれぐれも無益に散らさぬように」

 と見送った。



 出立した末武は、清水がせせらぐ丘を深く深くつき進んだ。そして村人の申した泉の前を通りかかると、泉の水面から無数の(あぶく)が立ち上がった。

「来たか」

 獣珠より自らの妖獣達を繰り出して、声を張り、名乗りを挙げる。

「己こそは桔梗国の士、浦辺三郎 登部末武なり。そこに居るは邪鬼と心得る、命により成敗致す。いざっ! いざっ!」

 すると水面が大きく波打ち、一匹の巨大な怪蜘蛛が泉の中から躍り出た。不気味な紅き闘気を全身に纏って真紅の輝きを放ち、目寸十尺を超える。針金のように細長い黄味がかった六本の脚で水面に着地し、頭部には巨大な水泡をなみなみと(たた)え、その水泡越しに悍ましき賤鬼(せんき)の面を見せていた。

 鬼蜘蛛は、あわや末武に躍りかかるかと見えたが、はたと動きが止まった。末武はその隙を見逃さず指示を送る、大虚蔓は草結で鬼を捕縛し、裸電羊は動けぬ相手に雷霆を撃ち込んだ。雷で草の縄が焦げ落ち、身軽になった鬼は、たちまち身を翻して、元の泉の中に隠れた。

「恐れを成して逃げ出したか、炙りだしてやる」

 末武は裸電羊をけしかけて、泉に雷霆を叩き込もうとしたところ。

「待て、待たれよ」

 と人の声が呟くのが聞えた。末武は怪しがりて耳をそばだてると、その声は泉の中より聞こえてくるようだった。

「お前は自分を殺める心算であろう、その前に自分のことを聞いてほしい。案ずるな、騙し討ちなどせぬ」

 末武は驚懼(きょうく)しつつも、このような怪蜘蛛なれば、人語を操る妖術の一つも使えるだろうと至った。

「自分は人間であった」

 鬼蜘蛛は、曇った低い声で名乗った。

「出自は日之本 紫苑国(しおんのくに)眞壁 阿岐守 氏元(まかべ あきのかみ うじもと)の子、信四郎 氏春(うじはる)なり。宜しく(たてまつ)り候」

 目の前に現れた悍ましき異形の怪物が、どうして人間であったと言えるのだろうか。だが何故か不思議と末武は、この怪異を素直に受け容れて、怪しむことはなかった。

「ふむ、(にわ)かには信じられぬが、その名乗りは懐かしき己が故郷のものに相違ない、話を聞こう。だが泉越しでは声が曇ってよう聞こえん、どうだろう、もしも話が長くなるならば、顔を出してくれぬか」

 泉の中からは、(しばら)く返辞が無かった。ややあって、低い声が答えた。

「自分はこの異類の姿が恥かしい。どうして、おめおめと(あさ)ましい姿を(さら)せようか。畏怖嫌厭(いふけんえん)の情を起させるに決まっている。

 否しかし…… 異形の身に成り果てて尚、人としての辱めに固執するのも傍痛(かたはらいた)し、それこそ忌みべき賤劣(せんれつ)な精神だ、ならば醜悪な今の外形など厭わず、速やかにこの姿を曝すべきだろう。とくと見よ」

 そうして、再び巨大な怪蜘蛛が泉より出でた。改めてまじまじ見るとやはり巨大である、十尺どころか十二尺はあるやもしれない、末武の故郷にも蜘蛛の妖獣はいたが、これほど大きな蜘蛛は見聞したことがない。先ほどと比べ、不気味な紅き闘気は幾ばくか静まっているが、それでも輝きは消えることなく、人の心を激しく掻き乱す威圧感を放っていた。鬼はどうして今の身となるに至ったかを、滔々(とうとう)と語り始めた。



 自分は紫苑国の家の子として生を受けた。国は小さけれど、妖獣の操使が活発で、少数ゆえにその結束は固く、操使術は何処とも引けを取らない自負があった。だが乱世の奔流に(あがな)うことができず、ある時、隣国より「我が領地に侵入し、不当に妖獣を獲らえている」との文が届き、その後何通か文が届いた後に攻め込まれた。当時の幼き自分には分からなかったが、あれは言いがかりだったのであろう。

 抵抗もむなしく滅ぼされ、一族共々殺されたが。自分は母の計らいで一人逃がされ、追手から逃れるため貿易の為に着岸していた洋夷船(よういせん)に潜り込み、日之本を去った。この洋夷船の往き先が、阿羅拉(あろら)の地であった。自分はこの故郷より遥か遠きこの地で、自らの名を改め、家の再興を誓った。

 兎にも角にも金が必要だった、この地に根を張り、金を集め、同時に自らの操使の腕を鍛え上げた。そんな生活も数年も続けたある日、この泉に棲まう“鬼”の話を聞いた。勇んでこれを受け、鬼討伐に出向いた。


 戦いは明け方から始まる、長い戦となった。日暮れに、ついに鬼蜘蛛は倒れて、鬼の頭を護る水泡が破裂して周囲一面に四散した。自分はその四散した水を頭から被ってしまったのだ。

 その直後から、肉体に苦痛が走った。毒か! 不覚を取った! と悔い、悟った時には既に手遅れであり、共に戦っていた妖獣達も時同じく、横で轟轟(ぐぉうぐぉう)と呻き声を挙げて苦痛にのたうち回っていた。骨がめきめきと(きし)み上がり、四肢は在らぬ方向に(ねじ)じれ上がる感覚。口は間抜けて大きく開いて気を欲し、目も大きく見開いていたが、感覚が鈍り、白光の視界が広がっていた。全身を駆け巡っていくのは激痛。仰け反り、ただ耐えることしかできなかった。

 手足指先から始まり、それはまるで鉄が錆つくように、皮膚が腐っていく、苦痛はついに臓物に達し、蠕動(ぜんどう)が臓物を締め付けて、疼痛(とうつう)が襲う。しかし意識は手放すことはない。身が何かで固く締め付けられていた、悶えて身を捻じると、紙が破れるようの束縛は解けて、さらなる痛みが重なる。

 死ぬのか。崩壊した思考の中でそう感じた。不自由で動かせない肉体を捩り、自らの腕をちらりと見た。

 否、違う、自らの肉体が変容しておるのだ。

 指先というものは既に融けてなくなり、尖った脚の先となっていた、針金のように細長い腕の節には球体関節が形成されている。自らから紅き闘気が湧き上がっていた。その刹那、朽木(くちき)が砕けるように脊椎が(ひしゃ)げて、意識は闇へと沈んだ。


 夢現(ゆめうつつ)のまま朦朧と目覚め、立ち上がると、自分は激しい空腹に襲われた。

 自分の周りには、今の今まで操使していた妖獣達が倒れていたが、皆すでに息は無く、死んでいたようだった。何故だか自分はそれを実に美味で喰らいたいと欲し、そうして本能の(おもむ)くままに彼らを貪り喰った。

 骨を砕き、肉を()み、血を(すす)り、そうして跡形残らずかつての同胞らを腹に納めて、自らの飢餓を満たし終えた時に、自分の中の人間が目を覚ました。目の前に広がる同胞の残滓(ざんし)を目にし、今しがた夢の中で見えていた風景が真のことであることに気付き、嗚咽した。

 自分は鬼になってしまったのだ。

 成程、ならば幾度討伐しようとも果てることのない鬼にも、合点がいく。討伐したものが次の鬼になるのだ。泉の水面には、先刻まで対峙していた悍ましき鬼の姿が、自らとして映っていた。

 それ以降、どのような所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。幾度となく死のうと試みたが、鬼の身体は頑強で死ぬには至れなかった。ならばと食を絶ち、飢餓死を試みれば、その度に自分の中の鬼が目覚めて途行く人を喰い、腹を満たした。鬼としての自分の残虐な行いの跡をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、(いきどお)ろしい。かつては泉の水面に移った自らの変わり果てた姿を見るたびに、その禍々しさから恐れが止まらなかったものが、今ではむしろ快いものに感じてしまい、賤劣な鬼の仲間に成り果てようとしているのだ。

 次第に、はたして自分は元は人間だったのだろうかと考え始めた。真に恐ろしいことだ、今少し待てば、自分の中の人間は、鬼の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。そうすれば、しまいに過去を忘れ果て、一匹の賤蟲として這い廻り、例えばお前を餌として裂き喰ろうても、何の悔いも感じないだろう。

 ああ怖い、恐ろしいのだ。それを紛らわすために自らの過去を復唱し、しがみついて、自分が人間であることを忘れずにいようとするが、実に卑しき行為だ。いっそ自分の中の人間が消えて、ただ一介の賤蟲の仲間として生きるならば、そのような哀しさとは無縁に生きることができるだろう。それはどんなに幸せなことであるか。自分の人間としての無念、このような身に堕としても家に(こだわ)ることがあるのだろうか。そんなことばかり考えるようになった。


 何故このような運命になったか、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。(くさむら)にて丸呑むに遭いた者は妖精の妖獣に生まれ変わり、人々の生活を見守るようになる伝承や、北方にて兎狩りに行った者が雌兎と成って戻り(めあわ)せた逸話もある。どれも愛らしい妖獣に成るあたりが如何にも女子騙(おなごだま)しで、童子に聞かせる御伽話であったが、妖獣の技の中には人間を自らの仲間にしてしまう技があるやもしれん。

 いや、元はと言えば、自分が鬼討伐に出向いたのが悪い。あの頃の自分は大いに焦燥していた、眞壁家のため、父上や兄上の無念のため、その想いに報いなければならない。この地で立身出世をしていつかは故郷の地を踏み、一国の(ぬし)に還り咲く。否、流石にそこまでは望まぬ、嫁を貰い、家を構え、一家の主と成れば良しだ。

 そのために我無性(がむしょう)に駆けずる悋嗇(りんしょく)となっていた。それがこの(ざま)である。不運であったのだと諦めることも出来よう、だがこれは自分の心が招いた必然ではないかと思うのだ。

 土地を失い、人を失い、たった独りで見知らぬ異国の地に辿り着いた自分は、誰一人信ずることが出来ず、努めて人の交わりを避けた。自分は誇り高き武家の生まれであり、衣さえもままならない下賤の民とは異なるものだと、自らを発奮させ、自尊心を糧に生きていた。

 その自尊心というものは、実に臆病な自尊心と言うべきものであった。自分は名を成そうと思いながら、進んで島民に歩み寄りて強者を師に仰いだり、友を求めて互いに切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、(へりくだ)り俗物の間に交ざることも潔しとしなかった。自分の臆病な自尊心の所為である。

 家にしても国にしても、自分の道というものは、人が在ってこそ成り立つものであるにも関わらず、自分は異国の民に(おく)し、次第に世と離れて、人と遠ざかり、山に籠りて妖獣と対することばかりであった。その憤悶(ふんもん)によって、ますます内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。

 自分は、持っていた(わず)かばかりの機会を空費していった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、肝力の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、(いと)う怠惰とが自分の凡てだったのだ。人間は誰でも鬼を持ち、その鬼に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この臆病な自尊心が鬼だった。そこを賤蟲に取り込まれた。自分を損ない、果ては、自らの外形をかくの如く、内心に相応しいものに変えてしまったのだ。

 自分の心は日毎ごとに鬼に近づいて行く。そうした過去も葛藤も消えてしまうのか? 堪まらなくなって、そこの滝崖の(いわ)に上りて、空に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。天を仰ぎ、日輪や月輪に向って咆え、誰かがこの苦しみが分って貰えないかと。

 だが、洞を共鳴し響き渡るのみ、泉に棲む鰯魚どもは声を聞いて、懼れてひれ伏すばかり。山も樹も月も日も、一匹の鬼が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り、地に伏して嘆いても、誰も気持ちを分かる者はない。今の自分の面を包むこの水泡は、涙で出来ているのやもしれない。

 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。かのような進言(しんげん)の言葉を昔聞かされたが、それを(ほう)けて忘れ、人を蔑み、軽んじた。そのような者が主と成れるだろうか?

 かのように酷い、人で()しは、鬼にならんや。

 成り果てて、ようやくそれに気が付くことができた。それを思うと、今も胸を灼やかれるような(くい)がある。



「これで、自分の話は終わりだ」

 氏春は、異形の容貌故に実に舌足らずの口調子であったが、自らの来歴を語り終えた。

「このような世迷言(よまよいごと)を信じろというのが阿呆な話だろう、もし殺める気ならば自分は一向に構わない、今さら人間に戻れるわけでもないのだから、人間の自分が眠らぬうちに殺すと良い」

 氏春はゆっくりと首を(もた)げる。末武は口を開く。

「……御労苦お察しする。己自身が如何に返辞すべきか決めかねるが。先ず伝えるとすれば、己はそちを殺さぬ」

「左様であるか」

「そちを死なせば、次は己が鬼と成るのだろう。そのような無謀はせぬ」

「恐らくな。……ならば、一つ頼みを聞いてくれないか? お前の話、故郷の話を聞かせてほしい。あれから我が故郷は――日之本はどうなったのだ?」

 末武は、氏春の頼みに応じ、自らの身の上話と、日之本の今を語った。


 数多くの戦が繰り広げられ、ついに火焔の武将が相棒の烈焰猴と共に、日之本すべての国をまとめ上げ、一時は天下統一したが、火焔の武将は嫡子に恵まれなかったため。叛旗(はんき)を翻した不屈の武将と、火焔の武将の臣下達とで、天下分け目の戦が行われた。

 末武は、火焔の武将側に就き、焔馬に(またが)り、勇んで出陣したものの。その天下分け目の戦は不屈の武将側の勝利に終わった。

 この不屈の武将が幕府を開き、天下を盤石としたことで、戦国の覇者は、はじめにして始まりの地、若葉国出身の、不屈の武将が手にすることになった。かくして天下泰平の世が訪れた。

 末武の兄が不屈の武将側に付いていたため、登部家は残り、兄が継ぐことになったが。負け武将である末武は、処罰されることになった。

 そこで末武は死んだことにされて、こっそり日之本を抜け出し、この阿羅拉(あろら)の地に渡った。

 皆には泣かれたが、末武は満足であった、この国にはもう戦は起こらない、勉学が不得で、兄のように(まつりごと)も出来ず、戦の中でしか生きられない己は、どちらにせよこのような道が良いと思っていた。


 一頻(ひとしき)り聞き終えたところで、氏春は。

「そうか、天下泰平の世か」

 と呟いた。

「戦は、終わったのだな」

 そして、天を仰いで沈黙する。鬼の面ではその表情を見取ることはできないが、末武には彼が声に出さずに涙を流し、静かに(むせ)び泣いているのだと察した。ただそれが悲しみか、はたまた嬉しさなのかは判別できなかった。

 はたと、末武は一つ思い出し、首を捻る。

「困ったな」

「何を困ったのだ」

「己は村の者から鬼蜘蛛退治を承っておる。そちがここにいると、怖れて誰もこの地に近づくことが叶わん。おそらくだが、そちはこの地から離れられないのだろう?」

「そうだ、察しているようだな。幾度となく自分はこの地を離れようとしたが、叶わなかった。これはかつて殺された蜘蛛の怨嗟(おんさ)が生み出した地縛の呪詛なのだろう。自分はこのまま異形の鬼として朽ちるまでだ。生涯、ここを離れることはない。

 だが、策は何一つも無いわけでもない、しばし待たれよ」

 氏春は再び水の中に潜む。それから暫く待つと、揺蕩(たゆた)う水を思わせる、蒼水色の菱形水晶を二つ携えて戻ってきた。

「これを島嶼之王(とうしょのおう)に渡せ、もう片方はお前が隠し持て」

「これはどういう物か?」

「妖獣と人間を結ぶ純晶なり、これがあれば自分が鬼として目覚めようと通じ合い、人間を起こして鎮まることが出来よう。試練をしてこれを持つに相応しい者を選び、自分を鎮める守り人とせよ。(たけ)る鬼を討ち倒して黙らせうる、強き者が良いだろう。さすれば安堵してこの泉を通ることができよう」

「なるほど、ならば己がその守り人に名乗り出ようぞ」

「ならぬ」

「何故だ」

「解らぬか? 無論、守り人となれば自分が猛り狂いお前を喰い殺すやもしれない為でもあるが。 実を言えば、ここ長い間、自分の人間は消えており、すっかり鬼に成り果てていたのだ。だが、お前の名乗り口上、懐かしき故郷の言葉を聞いた(しゅん)に、久方ぶりに人間が目覚めて引き戻された。驚いた、今こうして言葉を交わせることも、奇跡と呼ぶに相違ない。感謝極まりない、有難い。このような遠き越海の地で同郷の者に邂逅するとは思わなかった。出会ったのはつい先刻だったとは言え、既に早くも長年の親友のように思えてくる。お前のことを、この地で初めての友として良いか?」

「無論だ、共に死に損ないの者同士、良くしようぞ」

「恩にきる。もし守り人となれば、平時もこの自分のそばに居るだろう、きっと自分の死に寄り添うことになるだろう」

 氏春は、友に言う。

「自分はお前を友としたいが、仲間にはしたくないのだ」





 登部末武は純晶を可霓可(こにこ)の島嶼之王:阿下拉王(あからおう)に献上した。

 王は蝶神(てふがみ)の神託を受け、祭祀を執り仕切り、齢十三,四ばかりの純潔の少女を守り人に封じ、水の純晶を下賜した。

 鬼蜘蛛は泉の(ぬし)となり、守り人は純晶を以ってその鬼蜘蛛を鎮め、王は泉の道には門を築き、認められた者以外の侵入を禁じた。


 末武は島の巡遊を終えた後、嫁を娶り、烏拉島(うらじま)北東の馬利埃(まりえ)に居を構え、彼の友、氏春の子を譲り受け、それらを池に放ち育てたとされる。

 寿命を迎えた鬼蜘蛛からは、積年の怨恨の鎖が消え去ったのか、更なる鬼がつくられることは無かった。