海の民の村に、ちょっとした有名人がいる。村民からは『セツばあさん』の愛称で呼ばれている、御年76歳の女性だ。
セツばあさんは生まれた時から目が不自由だった。そのこともあって子どもの頃から大変な思いをしてきた。それでも幸いなことに、小さな島の小さな村で生まれたことによって、村民のほとんどが顔見知りのようなものだったので、誰もが彼女のことを気遣ってくれていた。
そんなセツばあさんは、13歳から歌の道を進み始めた。時代が時代だっただけに、女で、しかも盲目でもある彼女に対する世間の目は厳しかったが、それでも何度悔しい思いをして涙を流そうとも、その道を歩み続けたのだ。太古の時代からアローラに伝わる古い歌を古い言葉で歌い継ぎ、いつしかそれが評判になると、神事の際にポニ島の土地神であるカプ・レヒレに歌を捧げる大役まで与えられるほどになった。目のこともあり、島めぐりに挑むことのなかった者がカプへ歌を捧げていい訳がない、といった批判を受け石を投げつけられたこともあったが、それでも彼女の歌声を聞けば誰もが口を閉じてしまう。そんな不思議で、それでいて確かな実力を持った人だった。そもそも、本当に不適当であるのならばカプ・レヒレ自身が彼女に裁きを下しているはずだ。しかし過去も現在もそうはならなかったということは、それが答えである。
セツばあさんは現役の頃はポニ島以外の島にも行き、各島の民謡や踊りの時に歌うものを学び、ポニ島の伝統の曲も各島に伝えるという活動を行っていたが、70歳を境に引退し、現在は生まれ故郷で息子夫婦と同居している。
その息子夫婦の娘、つまりセツばあさんから見ると孫にあたる子は、目が不自由な祖母を幼い頃から見てきたこともあり、盲導ポケモンの訓練士になる夢を叶えるためにカントー地方へ留学していた。そして見事資格を取り、四年前にアローラ地方へ帰ってきたのだ。彼女は現在メレメレ島のハウオリシティで働いているが、そこに行く前に一頭のメスのハーデリアをセツばあさんのパートナーに任命していった。ハーデリアの名はナニといい、とても賢くてよく訓練されている優秀な子だ。
セツばあさんは杖だけで長年生きてこられたのだから平気だと言って、最初は孫の提案を断っていた。しかしパートナーがいることの心強さや素晴らしさを真剣に説く彼女の話に耳を傾け、ナニを受け入れることを決意した。自分のポケモンを持ったことがなく、あまりポケモン慣れしていないセツばあさんは当初は少し戸惑っていたが、ナニと一緒に歩く訓練を続けていくうちにすっかり打ち解け、今では孫同然のようにかわいがっている。
そしてナニがパートナーとなってからは早朝と夕方の散歩がセツばあさんの日課になっている。その中でも特に欠かさないのが、毎週金曜日の夕方にポニの原野の浜辺に行くことだ。
今週もまた、この日がやってきた。セツばあさんがいつもの時間にいつもの服で歩いているのを見かけた島民は、やぁ、セツばあさん、と皆親しげに声をかけ、そしてセツばあさんの邪魔にならない程度に距離を取って後をついて行く者もいる。セツばあさんはにっこり微笑んで、これがすっかり生き甲斐になってなぁ、と言ってしっかりとした足取りで浜辺まで歩いていく。しかし、セツばあさん以外は誰一人として砂浜にまでは足を踏み入れない。そういう厳格なルールがある訳ではないが、誰もが自然とそうするようになったのだ。そしてこの時ばかりは人間達だけでなくポケモン達も、海に住むもの達は波を立てるのをやめ、陸に住むもの達は物陰からこっそりと覗くに止めるのだ。
ナニがセツばあさんの足が海水で濡れないぎりぎりの位置まで先導する。そしてセツばあさんはナニの背に括りつけておいた折り畳み式の一人掛け椅子を取り、それにゆっくりと腰かけた。波が砂浜を押す音を聞きながら、時折ナニに話しかけたり撫でたりして静かな時を過ごす。そうして10分くらい待っていると、ざぶん、ざぶんと波をかき分ける音が聞こえてきた。セツばあさんは嬉しそうに笑って、音がすぐ側まで近づいてくるのを待った。
「るるーぅ」
「やぁやぁ、来たかい、来たかい」
海の向こうから来たのは、三頭の大人のラプラスだった。セツばあさんが椅子に座ったまま両腕を伸ばすと、ラプラス達は浜辺に上がってきて一頭ずつ挨拶するように額を擦り付ける。そして、いつも傍らにいるナニにも挨拶をするとナニも喜んで尻尾を振り返すのだ。
「ウア、カイ、レイ、元気しとったか?怪我しとらんか?」
セツばあさんの問いに答えるように、三頭は元気に鳴いた。姿は見えぬとも、鳴き声で三頭を見分ける、もとい聞き分けることの出来るセツばあさんは、それぞれに名前を付けてかわいがっていた。澄んで美しい声のウア、オス故に力強い声のカイ、落ち着きのある声のレイ。三頭とも野生のラプラスだが、毎週金曜日の夕方にだけこの浜辺にやってくるのだ。
***
セツばあさんと三頭のラプラスの出会いは三年ほど前に遡る。ナニと共に行動することに慣れてきたセツばあさんは、ある日の金曜日、いつもより少し遠出をしてみようと、初めて浜辺まで散歩の足を伸ばした。家を出る前に息子からシルバースプレーを貰っていたので、多少歩きにくいものの草むらも安心だ。
浜辺についた頃には少し汗をかいていたが、体に受ける潮風の心地良さについ心も喜び、セツばあさんはほぼ無意識の内に歌を口ずさんでいた。舞台に立った時や神事の時ほど本気になって声を出していたわけではないが、その歌は潮風に乗っていくかのようによく流れて行った。
歌い終わり、すっきりとした気分で体を伸ばして深く息を吸い込んだ時、ふと海から何かがやってくる音を耳が捉えた。セツばあさんはとても耳がいい。その音が真っ直ぐに自分へと近づいてきていることにすぐに気がついた。音の大きさからすると、自分よりも大きい何か。しかし、船ではない。逃げようかどうしようか迷っていたが、それは自分が思っていたよりも動きが速かったようで、浜辺から離れるよりも先に目前へと到着してしまったようだった。
セツばあさんの緊張を察したナニは唸り声をあげてそれらを睨みつけたが、相手に敵意は全く無いようだった。それら、三頭のラプラスの内の一頭(後にセツばあさんがウアと呼ぶようになったラプラス)が、ナニと話をするように鳴いた。威嚇していたナニが少しずつ警戒心を解いていくと、残る二頭のラプラス達も相槌を打つように短く鳴いた。
「あんれまぁ…」
少しの間蚊帳の外になっていたセツばあさんだったが、ラプラス達の鳴き声の美しさに感嘆の声を漏らした。
「ほんにええ声だなぁ、おめぇさん達、ポケモンかえ?」
そうです、と答えるように三頭は次々に返事をした。知能の高いラプラス達は人間の言葉を理解するという。その例に漏れず、この三頭もセツばあさんの言うことを完璧に理解していた。そして一斉に歌い始めたのだ。その音の流れは先ほどまでセツばあさんが口ずさんでいたものととてもよく似ていた。
「おお、おお、なんつーこった…もしかしておめぇさん達、わたしが歌ってたの聞いとったんか?そんで、真似しとんのか?」
その問いに、三頭はとても嬉しそうに長い鳴き声を上げて答えた。
「そうかいそうかい、おめぇさん達も歌が好きなんだなぁ、わたしと同じだなぁ」
人とポケモンであっても、好きなものを理解し合える。共有できる。そのことはセツばあさんにとっても、ラプラス達にとっても喜ばしいことだった。
三頭はまた真似をして歌い出す。しかし所々ずれていて、正しいものではない。セツばあさんはそれを一度止めてから、正しいものを自ら歌って教えた。三回、四回と繰り返していくうちにどんどん揃っていき、いつしか一人と三頭の音が綺麗に合うようになった。
すっかり没頭している内にいつの間にか日は暮れ始めていて、太陽は海に沈んで行く寸前だ。ナニが、もう帰らなくては、という合図を送る。こりゃいかん、とナニのリードを握り締めて帰り支度をするセツばあさんに向かって、三頭が細い声で鳴いた。セツばあさんは声の方を向いて、にっこり笑って言った。
「わたしはもう帰らんといけんがの、来週の夕方もここに散歩に来るようにするでの、もしまた会いたいと思ったらおいで。待っとるよ」
そう言い残していったセツばあさんの姿が見えなくなるまで見守っていた三頭は、何かを話し合うように顔を突き合わせてから海の向こうへと戻って行った。
***
この出会いの日から、週に一回の交流が始まり、そして今もずっと続いている。
驚いたことに、三頭は最初のうちはセツばあさんの歌を真似していただけだったのが、会う回数が増えていくと今度は逆に三頭が、まるで聞いたことのないメロディを歌うようになった。きっとこれは人間が作ったものを真似しているのではなく、ラプラスが作ったものを人間に真似させようとしているに違いない。そう直感したセツばあさんは、人間が出すには少々難しい音や音域も何とか真似してみせた。もちろん完璧には再現し切れなかったが、それでも三頭は大喜びで泳ぎ回り、もっともっと、と強請るのだった。
今ではウア、カイ、レイが歌える人間の世界の曲は10曲を超えているし(流石に歌詞までは真似できないが)、セツばあさんが歌えるラプラスの世界の曲も4つもある。
今週もまた、人間とラプラスの歌声が浜辺に広がる、日が暮れる間までの短い一時が始まるのだ。今日は朝から雲一つない晴天で、夜も星と月がよく見える天気だという。歌うは、太陽のケモノと月のケモノに感謝を伝えるために作られた、人間の世界の歌。セツばあさんが空を仰いで丁寧に礼をし、一つの音を長く長く発する。それに合わせてラプラス達も同じ音を発すれば、まるで浜辺そのものが祭壇にでもなったかのような神聖な空気が生まれた。
歌うは人とポケモン。聞くも人とポケモン。全てのもの達がアローラの空と大地を分かち合えるように、文化や思いも分かち合える。この歌を聞いていれば、そのことを信じさせてくれるような気がするのだ。だから皆、セツばあさんとラプラス達の歌が好きなのだ。
海の民の村に、ちょっとした有名人がいる。理由はもう、お分かりだろう。