White Detective

著者:デンリュウ

  1


「ほら見て、ここ」

「どこです?」


 男の指先が示す数字を見つめて、汚れのない新品の制服を着た色白の警察官は、そばかすの上にある目を細めた。

 紅茶の香りが湯気に混じってふわりと漂う。スーツ姿がよく似合う、短いハンサムな髪型の男は、決して自分のペースを崩さない。指差していた手を広げて、「ちょっと待ってて」と合図しながら、白いカップの中身をゆっくりと口の中へ流し込んだ。

 芳醇なモモンの味わいが口いっぱいに優しく広がっていく。その独特の甘さときたら、紅茶のわずかな苦味に混じって、溶け合い、際立っていた。ある地方では、モモンは神の果実と呼ばれているらしい。神が甘く熟れた極上の果実を独占したくなる気持ちがよく分かった。

 警察官の男が咳払いをしたせいで、最後まで浸れずに現実へと戻された。スーツの男は不機嫌そうに声のトーンを落とす。


「投資先だよ。投資会社は分散投資が基本だ。もし一箇所に集中して投資して、株価が下落したら? 損失をカバーできなくて大変なことになっちゃうよ。なのにアローラ・インベスターズは顧客から集めた資金の、なんと2割を密かにメガやす・ホールディングスに投資してた。おかげで先週のメガやす株は買いが殺到して300パーセントの大暴騰だった」

「でも今朝の株価は大暴落していました、ニュースで大騒ぎだった」

「昨日、メレメレ都市開発条例の改正が市議会で可決されたからだ。数人の議員が造反して、過半数勢力が逆転したんだ。2番道路を開拓して新たなスーパーマーケットを建てようとしていたメガやすにとっては大打撃だよ。否決を信じて始めた事業は失敗、巨額の減損損失が出る。でもアローラ・インベスターズが買い注文を出すまでは、市場の予想は半々だった」

「じゃあこれは、ただの投資の失敗ですか? なんで証券取引委員会が調査に乗り出してきたんです?」

「ちょっとは自分で考えてみたら?」


 答えをもらえるとばかり思っていた警察官の男は、まるで突き放されたイワンコのようにうろたえた。あちらこちらへ目を泳がせて、こんがらがった頭で必死に考える。もちろん分かる訳がない。

 やがて、同じチームのデスクで雑多な書類整理に明け暮れていた、ややくたびれたジャケットを着た同僚の男、ロスが見かねて顔を上げた。


「意地悪すんなよ」


 スーツの男はにやにやしたまま答えた。


「犯人の目的は株の空売りだ。メガやす株を高値に吊り上げて、最も高いところで売り抜けた。あとは最低値を待って、借りた株を返すために買い注文を出すだけ。アローラ・インベスターズの中で顧客の金を秘密裏に動かせる一定の地位にあって、かつ、これから買い注文を出す人物が犯人だ。それから組織犯罪対策課に話を持って行った方がいいだろうね。これだけ大きい計画は個人の資金力でできるものじゃないからね、きっと根は深いはずだ」


 曇っていた警察官の顔がぱあっと一気に明るくなった。


「なるほど……ありがとうございます、当たってみます!」


 スーツの男が背中に「頑張って」とエールを送るも、警察官は振り返ることなく颯爽と出て行った。返事がなかったのは単に張り切りすぎて聞こえなかったのか、それとも一刻も早く逃げたかったのか。一緒に行くわけでもないのに、置いてけぼりを食らったような気がした。

 カップに残った最後の一口を飲み干して、空になったそれをデスクに置いた。

 これから憂鬱なデスクワークの再開だ。長い報告書を何枚も書き上げなければならない。またはファイルの整理。限りなく人生を無駄に浪費しているように思わせる作業の山。なんて楽しいんだろう。

 積み上げられたファイルの一番上からひとつとって、大義そうにペンを走らせ始めた。


「あいつ上が新しく設置したホワイトカラー(知能的犯罪捜査チーム)の新入りだろ? 何で殺人課のオフィスに来てるんだ?」


 と、ロスが訊ねた。

 彼は時々こういう意地悪をする。スーツの男は、ますます不機嫌になった。


「さあ……何でかな。全然分からないや」


 スーツを着た私服警官。

 名前はレイリー、殺人課の刑事だ。

 少し前まで彼はイッシュ地方警察で知能的犯罪を相手に戦ってきた。大規模な都市を抱えるイッシュ地方の市場は、世界に通じるほど巨大な主要市場に成長した一方で、地下経済も巨大であった。資金洗浄、不正な証券取引、債券偽造、偽札、知能的犯罪の例を挙げていけばキリがない。

 レイリーはそうした犯罪を相手に、なかなかの戦績をあげていた。検挙率は8割を超え、イッシュ地方警察は彼をレシラムにちなんで「白の英雄」として讃えた。彼の目は、手は、時には舌は、あらゆる偽造を見抜いていたのだ。ある事件が起こるまでは。


「こっちでもその才能を発揮してくれよ、新人君」


 ばさりと目の前にファイルが落ちてきた。

 おかげで手に当たって文字が歪んでしまった。書き直し。どうもありがとう。

 顔を上げて、気楽な同僚へ恨めしい視線を飛ばす。


「その呼び方やめてほしいな」

「怒るなよ、そいつはお前のために取ってきてやったんだから」


 嘘だ。ロスの嘘はすぐに分かる。彼はいつも手柄を横取りするために事件を取ってきてはレイリーに押し付けていた。

 レイリーも早々に相棒刑事を変えて欲しいと心から願っていた。さて、どうすればこの無能な相棒刑事を振り切ることができるだろうか。頭の中でぶつくさ呟きながら、レイリーはファイルを開いた。そして淡々と読み上げる。


「『世界がダムの底に沈んでどうしようもなくなる』と公道で叫んで暴れる血まみれの男を逮捕、近年蔓延している麻薬『ホワイティ』中毒者の疑い。……なにこれ?」

「間違えた、こっちだ」


 さらにファイルが落ちてきた。

 気を取り直して新たに投げ込まれた方のファイルを開いた。途端に後悔が襲ってきた。


「うわ、見るんじゃなかった」


 死体の写真が一番上にあった。全身の皮膚がほとんど丸焦げで、ところどころまだ赤黒い。まるでミイラに焦げた肉を貼りつけたようだ。今にも人間の焼けた肉の臭いが漂ってきそうな迫力がある。

 しかし興味を惹かれる要素もあった。死体が置かれた環境だ。大の字に横たわる死体の周りに、儀式的な白い文様。見覚えがある。確かこれは……リリィタウンの中央広場にある土俵だ。

 ロスは頬杖をつきながら気だるそうに言った。


「被害者は35歳女性、名前はカーラ・ケイト、今朝リリィタウンの中央広場で遺体で発見された。メガやすのシニアマネージャーだ。両親以外に家族はいない、バリバリのキャリアウーマンってところだな」

「死因は?」

「バリバリと雷に打たれたから」

「笑えないよ」

「雷に打たれたってのは本当だ。死亡推定時刻は今朝の深夜1時から3時の間、ちょうどその頃の天気は雷雨だった」

「まさか、ただの自然事故?」

「とも言いがたい。深夜の雷雨に起こされた近隣住民が窓から外を見てみると、なんと中央広場にポケモンの姿を見たって言うんだ。何だと思う?」


 ああ、分かったぞ。もったいぶって言うからには、特別なポケモンだ。

 確かこのメレメレ島にも1匹そういうのがいるらしい。電気タイプのポケモン。名前は確か……。


「何だっけ、思い出せないや。カプチーノとか、コケコッコとか、そういう感じの」

「カプ・コケコだ。いい加減覚えろ、この島の守り神だぞ」

「ごめん。……その守り神様が犯人? それって変じゃないかな、だって……これじゃ守ってないよ、殺してる」


 ロスは咳払いをして続けた。


「ケイトはメガやすの社員で、2番道路にスーパーマーケットを建てる事業計画の責任者だった。守り神の怒りに触れて、今度は建物じゃなくて人間が襲われたって訳だ。メガやすも散々だな、インサイダー取引の材料に使われるわ、現地の社員が守り神に殺されるわ」

「なんてこった……島の守り神も、ついに保健所行きか」


 世の中の不条理を呪いながら、やれやれ、とレイリーは一息ついた。

 ……ん?


「待ってよ、これって解決済みの案件じゃない?」

「俺もそう言ったんだけどなぁ、警部が念のために調べろってさ……これが殺人事件だって言い張る奴がひとりいるんだよ。そいつが警察の中で顔が利くもんだから、いい迷惑だよな」


 曇りがちだったレイリーの顔つきが、澄み渡る青空のように明るくなった。

 これだよ。こういう事件を待っていたんだ。事故やポケモンの仕業として片付けられた殺人事件。犯人を見つけるには地道な捜査なんかよりも、大胆に謎を追いかけて解明するしかない。そういう事件。

 先ほどまで無数のファイルと同じく陰鬱とした雰囲気しか漂ってこなかったファイルが、急に黄金のように光り輝き始めた。見るのも億劫だった写真は、さっきとはまるで違う光景に見える。捜査資料を読めば読むほど、事件の詳細が頭の中になだれ込んできた。


「つまり、神の裁きを装った殺人事件ってことか。その方が面白いね」

「そう言うと思ってたよ。今からこの事件の担当はお前だ」

「僕の? いつもは君がボスで、僕が手下だったのに。もしもみんなの結論を覆して殺人犯を逮捕できたら、大手柄だよ。一緒に行かないの?」

「今回はパス。俺は信心深いのさ、触らぬ神に祟りなしってな」

「ふーん……」


 生返事で返しながら、レイリーはチャンスだと思った。

 これで評価を上げられれば、相棒刑事を変えることができるかもしれない。もっと優秀な刑事と一緒に組めば、きっと面白い事件に巡り合う機会も多くなるはずだ。なんて素晴らしいアイディア! こんな掃き溜めとはおさらばだ!

 レイリーは知らず知らずのうちに顔がにやけていた。幸い、ロスは「ただ事件が面白いから笑っているのだろうな」と良い方に誤解して肩をすくめていた。

 ふとレイリーは気になった。いったい誰がこの事件を殺人課に持ってきたんだろうか。きっと鼻が効く優秀な刑事に違いない。


「その、言い張る奴って誰?」


 同僚は苦々しく答えた。


「あいつだよ、ウラウラ島から出張に来てるクチナシ巡査」





  2


 リリィタウン、中央広場。

 現場検証も終わって、後は片付けるだけだ。もちろん当分の間は使えないままだが、カプ・コケコに人々がすっかり恐れをなしたおかげで、早く使いたいと名乗り出る人はいなかった。

 もちろん何にでも例外はある。自然保護を訴える活動家や重度のポケモンマニアたちがカメラを構えて、黄色いテープの囲いの外から、怒れるカプ・コケコが現れる時を今か今かと待ち望んでいた。

 それらを横目に、ファイルを抱えたスーツの彼がテープをくぐった。

 また一般人が無断で入ってきたのか。そう思って止めようと近づいてきた女性制服警官に、レイリーはベルトに差した警察バッジを見せて、優しく微笑んだ。


「どうも、殺人課のレイリー刑事です」


 女性警官は目をぱちくりさせて驚いた。


「貴方がレイリー刑事?」

「あー……僕はそのはずだと思ってたけど、違うの?」

「いえ、失礼しました。どうぞこちらへ」


 レイリーは女性警官に連れられて、広場の土俵に歩いた。深夜中降り続けた雨はすっかり止んで、空には太陽が眩しく輝いている。一方下はまだ乾ききっていない泥、ぬかるんだ地面。時々滑りそうになる。

 ふと、広場から町の外へ伸びるタイヤ痕が目に留まった。ひとつではない、何本も残っている。広場に入る手前で止まっているもの、広場を囲んで近隣の山小屋のような家に停まっている車に続くもの、あるいは空の駐車場に続くもの。それからもちろん、無数の足跡も。人間のものだけでなく、ポケモンのも多い。

 横から女性警官が言った。


「まさか殺人課の刑事がお見えになるとは思わなくて。ほら、この事件って明らかに……その……」

「カプ・コケコの裁き? みんなはそう思ってるね、でも今回は違うよ」

「だといいですね」


 そう祈っているようだった。

 レイリーはゆっくりと広場の土俵の階段を上る。白い模様が描かれた土俵の中央には、特に目を引くようなものはない。雨が洗い流してしまったせいだろう。レイリーは持っていたファイルを開いて、現場の写真とその場所を見比べた。タイヤ痕や足跡の写真。遺体の写真。

 女性警官が片眉を吊り上げて見守る中、レイリーは突然叫んだ。


「うわ、凄い!」

「何かあったんですか!?」

「ちょっと言ってみただけ……君がものすごく見つめてくるから、ちょっとビックリさせようと思って」


 女性警官は深くため息を吐いた。

 噂通りだ。知能的犯罪捜査の白い英雄、しかしその一方でルールを無視する暴走っぷりが目立つ。彼が真っ当な捜査をしていれば、今頃は警部に昇格していたはずだ。それが今でも刑事で、しかも凶悪事件の少ないメレメレ警察の殺人課にやってきたのは、彼の奔放さが理由なのだとよく分かる。


「気をつけてください。ここでふざけたりしてると、カプ・コケコの怒りに触れるかもしれませんよ」

「やだな、君までそんな迷信を信じてるの? あんなの馬鹿げてるよ、ポケモンが人間に裁きを下すなんて。何様のつもりなんだろう」

「バカにしないでください。そりゃあよそから来た貴方にはそう見えるでしょうけど、我々には紛れもない真実です。島の守り神であるカプを怒らせたウラウラ島のメガやすがどうなったか、ご存知でしょう?」

「裁かれたのは建物。つまり僕が怒りを買っても、警察署が壊されるだけで、僕は大丈夫。安心した?」


 ああ言えばこう言う、屁理屈だけは一級品だ。女性警官は再びため息を吐いた。

 けらけら笑うレイリーの視界の端に小道が映った。見た瞬間に、周りの世界が消えてしまったような気がした。音もない、形もない、あるのは小道の両側に鬱蒼と茂る木々と、土俵のような模様を描いた石像。その奥からわずかに風の音が聞こえる。

 不思議だ。何かに呼ばれているのか。それとも、そう思い込んでいるだけなのか。レイリーは知りたくなった。


「ねえ、こっちは何?」


 ぼんやりとした様子で呟くレイリーに、女性警官は呆れていた。また何かからかうつもりなのか。


「マハロ山道です、くれぐれも立ち入らないでください」

「どうして?」

「神聖な場所だからです。今はこんな時ですから、うかつに入るとどんな罰が下るか」

「そうだね……神様を怒らせちゃまずい」


 いつもならここで引き下がった。人をからかうのは好きだが、イッシュ地方にいた時は、やりすぎだと見かねたパートナーがスーツの裾を引っ張ってたしなめてくれた。今でも時々、スーツがグイグイと引かれている気がする。

 だが今回は止める者はいない、レイリーは聞き分けが悪かった。


「ところであれなんだけど、何なんだろう。僕には分からないな。ほら見て、ひょっとしたら事件の手がかりになるかも」


 反対側の民家を指差した。

 女性警官もつられて振り返る。


「何がですか?」


 目を細めて、首をしきりに伸ばす。何のことを言ってるのだろうか、どこにあるのだろうか。あるいは、もう少しヒントを期待していた。

 しかし一向に続きが聞こえてこない。そこでレイリーに振り向いて、ようやく気づいた。

 やられた。彼はすたこらと走ってマハロ山道を突き進んでいた。


「あっ、ちょっと! 待ちなさい! 待って、レイリー刑事!!」


 走り出しても既にレイリーの背中は遠く、守り神への恐れもあって、女性警官の足はすぐに止まった。

 何てこと、本当に守り神の怒りを買ってしまうかもしれない。女性警官は慌ててパトカーの無線機に手を伸ばした。


 彼女の心配をよそに、レイリーはまだ走っていた。くねくねと曲がった山道を駆け上がるのはひどく疲れて、息はすぐに上がり、足は早くも痙攣し始めていた。しかし、もしも女性警官がポケモンに追跡を命じていたら、ポケモンを持たない自分はあっという間に取り押さえられて署に連れ戻されてしまうだろう。そうなれば、この胸騒ぎにも似た好奇心を満たすことができなくなる。そんなの、絶対に面白くないぞ。

 しかし体力の深刻な衰えには勝てないもので、やがてへろへろと道端に座り込んでしまった。息が苦しい。全身がばくばくと脈打って、今にも爆発してしまいそうだ。

 いや、それでも捕まってたまるものか。この奥にあるものを確かめるまで帰らないぞ。レイリーはすぐに立ち上がって、今度はゆっくりと歩き出した。


 深い谷に架かる橋を渡った先に、それは見えてきた。

 戦の遺跡。名前からしていかにも来訪者を脅かす気に満ちている。おっかない場所だ。

 いかにも人工物らしいアーチをくぐって、レイリーは洞穴に足を踏み入れた。


「すみませーん」


 ひょこひょこ歩きながら大声で呼びかける。

 何かいるとすれば、きっとカプ・コケコに違いない。


「僕は刑事のレイリー、警察です」


 人気のない石畳を歩く。空気は澄んでて心地いい。長い年月を経て崩れた天井から光が差し込んできていて、視界にも困らない。むしろ光のカーテンが降りているようで幻想的にも見えた。こんな贅沢な場所を独り占めしているのだとしたら、ちょっとずるい。

 だが探し物が出てくる気配はない。呼んだくせに出てこないとは酷すぎる、坂道を走るのがどれだけしんどかったことか。これがそもそも気のせいだったとしたら、それはそれでやるせない。


「もしもーし、カプ・コケコさんはいますかー?」


 一抹の不安がよぎる。まさか本当に勘違いだったのか。

 とうとう人の足で踏み入れる最奥の祭壇にまで来てしまった。それらしい厳かな雰囲気が漂っているのに、ここまで怪しい影はひとつも見当たらない。大層に飾られている石像にぺたりと触る。

 冷たい。それだけだ。ひょっとしたらこの石像がポケモンに変身するとか、何か凄いことが起こるんじゃないかと最後の希望を託していただけに、反動の失望感は大きかった。

 結局、ここまで観光に来ただけだった。みんなから容疑者だと疑われているカプ・コケコと実際に会ってみれば、何かが分かると思ったのに。

 しかしその方が良かったのかもしれない。もし本当にカプ・コケコが犯人で、人殺しをするようになってしまっていたら? たまたま彼が不在で助かったかもしれない。

 足取り重くとぼとぼ歩く下山途中、ため息を吐いてはそう思って自分を慰めた。


 降りたら降りたで厄介な問題が待ち受けていた。

 リリィタウンの広場にまばゆく光る赤色灯の数々。パトカーの群れ、ピリピリと張り詰めた空気を漂わせるポケモンたちと警察官たちの慌ただしい姿。彼らが今、本音ではどれだけカプ・コケコを恐れているかがよく分かる。

 山道から歩いてくるレイリーに最初に気づいたのは、あの女性警官だった。鬼のような形相を浮かべて、凄まじい剣幕で詰め寄ってきた。


「レイリー刑事!! 困ります、島の神聖な遺跡に……勝手に、入って……」


 一歩近づいてくるごとに、顔を真っ赤にして頭のてっぺんから湯気でも出ていそうなほど怒っていた彼女が、声のトーンを落としていく。しまいには足の勢いすら失って、あんぐりと口を開けていた。まるで神を見た信者みたいだった。

 レイリーは茶化す気にもなれず、弱々しい笑みを浮かべた。


「どうかした?」


 女性警官はすっかり固まっていた。

 周りで警戒していた警察官たちに至っては。


「ひいい!?」

「きゃあー!!」

「うわああっ!!」


 などと騒ぐ始末。ポケモンたちは揃って吠え立てているか、尻尾を巻いて逃げ出した。

 そういえば、こんな逸話がある。安易にキュウコンの尻尾を触ってしまったばかりに、祟りを受けて酷い目にあった人間の話だ。

 馬鹿げた子供騙しのおとぎ話だと思っていた。だが、たった今そういう神秘的な類の物質を触ってきたばかりだ。石像に触るな、なんていう話は聞いたことないが、怒ってる神の御神像のようなものに触ったのだから、ひょっとしたら、もしかしたら、何かに呪われてしまったんじゃないだろうか。

 レイリーは慌ててペタペタと自分の体や顔、髪の毛まで触って、異変が起きていないかを確かめた。

 何もなかった。

 それが分かったとたん、レイリーは苦笑いを浮かべた。


「やられたよ、みんな演技がうまいね。お友達を呼んで、みんなで僕をからかった訳だ。よくやるよ、まったくバカみたいだ、もう子供じゃないんだから。大人げないね」


 誰ひとりとして返事をしなかった。

 かわりに、固まったままの女性警官がぎこちない動きで指をさした。最初は自分が指をさされているのかと思った。だが念のため、どうせ後ろを向いたら笑われるだろうなと覚悟しながらも、振り返った。


「うわっ」


 何か、いる。

 オレンジのギザギザしたトサカ、真っ黒で華奢に見える体、両手に携えている黄色い大きな殻。観光雑誌の写真で見た姿そのまんま、カプ・コケコだ。

 しかもかなり近い。ほとんど目と鼻の先だ。危うく刺々しいトサカの先端にキスをするところだった。

 思わずびくりと飛び上がって、レイリーは下がった。


「ひょっとして、これが?」


 訊ねると、女性警官は無言で小刻みに頷いた。

 いつの間にいたんだろう、まったく気がつかなかった。ひょっとして遺跡からずっと?

 レイリーはおそるおそる握手のために手を差し伸べる。まるで宇宙からやってきたデオキシスとファーストコンタクトする地球人の気分だった。


「どうも。初めまして、刑事のレイリーです」


 努めて落ち着いて、丁寧に。少なくとも声色はそう心がけていたが、この湧き上がる好奇心を隠しきれたかは自信がない。ひょっとしたらニヤケ面が表に出ているかもしれない。

 そんな心配をよそに、カプ・コケコはじぃっとレイリーの手を見つめていた。やがて、すっとその手に自分の手を添えた。レイリーがワンテンポ遅れて握り返して、やっと握手になった。

 レイリーは満足げに微笑みながら言った。


「これでひとつ分かった」

「……何が?」


 未だに自分の見ているものを信じられない女性警官が上ずった声で訊ねた。

 レイリーは確信を持って言った。


「カプ・コケコは間違いなく犯人じゃない」





  3


「だってそうでしょ? カプ・コケコが本当にメガやすの社員を殺したのなら、神聖な遺跡に無断で入った僕も今頃丸焦げになってるはずなのに、僕はまだ生きてる。みんなが思ってるほどカプ・コケコは危険じゃないってことだよ。それにウラウラ島のカプも、破壊したのは建物だけ、しかも建物はまだ原型を留めてる。ということは、カプ・コケコが人を殺すようなポケモンとは考えにくい。犯人は別にいる、人間だ。これは殺人事件だよ」


 肌が黒く髪の長い女性警部グレイスは、目尻と眉間にしわをたくさん作って、おでこに青筋まで立てながら、辛抱強くレイリーの主張に耳を傾けていた。

 できるだけ公平に聞く耳を持ちたかった。だが彼の肩の向こうでカプ・コケコが警察署内のオフィスに並ぶデスクをあちこち行ったり来たりして、そこら中から悲鳴が聞こえてくるとなると、もう我慢の限界だった。


「問題はそこじゃないのよ、レイリー刑事!!」


 これが美女の唾であれば喜んで浴びただろう、あるいは彼女があと20歳若ければ。

 レイリーは彼女の怒号にびくりと震えた。


「貴方が無断で遺跡に入ったことは到底許されることではありません! それに一歩間違えれば、カプ・コケコの怒りを買ってメレメレ島が危険に晒されていたかもしれないんですよ! カプ・コケコへの対処についても市議会で揉めに揉めてる最中だと言うのに、あろうことか本人を警察署内に連れ込んで、こんな軽率な行動が許されると思って? まさか! メレメレ警察にあるまじきとても不真面目な態度だわ!」

「でもほら、警部、あれ見てください。安心して、メレメレ島の守り神様は怒ってませんよ。とても人懐こいし、楽しそうだ」


 彼が指し示す先では、カプ・コケコがデスクに積み上げられた警察の捜査資料を漁っていた。控えめに言っても、かなり乱暴に。

 そこへ1匹のガーディが果敢に吼えたてる。それは主人の大切なものだぞ、触るな。あっち行け。

 立ち向かったはいいが、カプ・コケコから放電攻撃を浴びてあっさり返り討ちにあってしまった。あえなく一発KOだ。すぐに飛び起きて、きゃんきゃん鳴いて逃げ出した。


「レイリー刑事!!」

「はい黙ります」


 グレイスはまるでやんちゃな子供を叱っているような気分になった。そうやって少年みたいにしょげる姿を見れば、だんだん怒っていること自体がアホらしくなってくる。彼は確か今年で28歳。いい大人なはずなのに。

 諦めて、深いため息を吐いた。


「イッシュ地方警察の知能的犯罪捜査班から、貴方の扱いには十分気をつけるようにと言われていました。その意味がよく分かったわ」

「僕の昔の検挙率、見ました? 大丈夫、この殺人事件はもうすぐ解決しますよ。保証します」

「うちはイッシュ地方警察じゃない、メレメレ警察です。今後もうちで働くつもりなら、ちゃんとうちのルールに従って捜査して」

「でも警部、僕はもっと」

「返事は?」

「はいです」

「では以上よ、下がってよろしい」


 言うべきことは言った。もうしばらくは顔も見たくなかった。

 だがレイリーはまだグレイスのデスクの前に佇んでいた。何かを言いたそうに口をパクパクさせている。


「あの、でも……」


 はっきりと言わず、口ごもる。

 以上、と言われたけど、あとひとつだけ聞いてもいい? そんな風に困っている彼を眺めるのは、正直気分が良かった。


「まだ何か?」

「あれはどうします?」


 レイリーは肩越しに背後を指差した。

 カプ・コケコはどうやら一箇所に留まるということを知らないらしい。逃げ惑う警察官を追い回しては、捜査資料の入ったファイルをぶんどって、開いて、投げ捨てて、また他の警察官を追い回して、これを繰り返していた。

 グレイスはにっこりと笑った。


「連れて来たのは貴方でしょ? 我々はまだカプ・コケコをどうするか決めてないの、だから貴方が適切に対処して」

「対処っていうのは、つまり……」


 グレイスの顔から笑顔が消えた。


「遺跡に、お帰り頂いて、今すぐ」


 打って変わって氷のように冷たい口ぶりに、レイリーは背筋が凍った。

 彼女は怒らせてはならないタイプの相手だ。ここでうまくやっていくために、覚えておこう。





  4


 常夏の地方、アローラの太陽は今日もギラギラと輝いている。青い海が寄せては返す白い砂浜では、海水浴に訪れた人々が水着姿で南国を満喫していた。

 黒くてぶにぶにした生き物を掴んでは海に投げて遊ぶ子供たち。際どい水着で艶かしい身体を見せつけ、魅了を振りまくギャル。浅瀬で尻尾を海に浸し、何かが釣れるのを昨日からずっと待っているヤドン。ふと、ギャルとヤドンの目が合った。互いの頬が赤らんだのは、日焼けのせいではないだろう。

 海からの潮風に吹かれながら、レイリーはくしゃくしゃになったファイルを抱えて、カプ・コケコを連れて道路を歩く。それから、後方からこっそり後をつけているつもりの制服警官2名。見張りだ。

 レイリーとカプ・コケコは警察署を出てから互いに口を利かなかった。かわりに時折目配せをして、意図が通じたと確信すると、レイリーはウィンクした。


 急にレイリーが踵を返して、尾行中の警官たちに笑顔を振りまいて歩み寄った。カプ・コケコも一緒に。

 思わず警官たちは驚き、互いに顔を見合わせた。


「あの、レイリー刑事? リリィタウンはあっちです。こっちじゃない」

「知ってる。でも考えたんだ、カプ・コケコがどうして僕についてきたのか。彼は、僕に犯人を見つけてほしいと思っているんだよ」

「……だから?」

「それに逆らったら、それこそ守り神様がお怒りになると思わない? だって殺人の濡れ衣を着せられたんだよ? 僕だったら怒って島をめちゃくちゃにしちゃうかもしれないなぁ」


 警官たちは腕を組んで唸った。その通りかもしれないし、違うかもしれない。

 とにかく自分たちでは判断できないことだとすぐに分かった。


「待っててください、今から警部と相談を……あっ」


 ポケットから電話を出そうとした瞬間、彼らの脇をするりと抜けて、レイリーたちは悠々とショッピングエリアへ歩き出した。リリィタウンとは真逆の方角へ。

 また追いかけっこになった。だが逃げるレイリーはカプ・コケコが一緒だから、人混みでも自然と皆がどいてくれる。すぐに警官たちは遠くなっていった。


 ハウオリシティのポケモンセンターにあるカフェスペースは、考え事をするには最適の場所だ。それにレイリーは普段からここがお気に入りだった。

 ここには様々な人やポケモンが訪れる。島巡りの旅人、地元住人、はたまた遠い海の向こうからやってきたトレーナー。レイリーは彼らを観察するのが好きだった。

 ただ、今日は逆に観察される立場になるだろう。カプ・コケコの待っているテーブルに、湯気が立ちのぼる2つのカップを乗せたトレイを運んでいく姿は、その場に居合わせたすべての人々から注目を集めた。


「何? 見世物じゃないんだから、こっち見ないでよ」


 腰の警察バッジをチラつかせながら、レイリーは威圧を込めて言った。それでほとんどの人は素知らぬ顔をして日常に戻っていった。まだ残って写真を撮っている奴もいたが、気にしないことにする。かわりにカプ・コケコが電磁波のようなものを発して、カメラを壊してくれた。


「ロズレイティー、いれたてだよ」


 ハーブティーのカップを並べて、レイリーは微笑んだ。

 椅子に座って、まずはファイルを置いて、ひと口目を含む。香りが口に広がり、続いて喉が味を感じ取る。ロズレイドが優しく抱きしめてくれるような、最高のひと時。

 カプ・コケコは首を傾げていたが、見よう見まねで両手でカップを持ち上げ、おそるおそる口に流し入れた。


「接客はイマイチだけど味は最高。体の内側からあったまるよ。短気な君でも心が落ち着いて、だんだん優しい気持ちになれる……ほらね?」


 穏やかに言っても、カプ・コケコは頷かないし鳴きもしない。無言でハーブティーの水面を見つめていた。それでいい。初めての体験はそうやって噛みしめるものだ。レイリーは満足げに頷いた。

 今度は一緒にふた口目を味わった。

 カップを静かに置いて、レイリーはカプ・コケコを見つめて目を細める。


「昔はよくパートナーと一緒に喫茶店に足を運んでいたんだよ。僕と君とはよく似てるけど、彼と僕とは真反対な性格でね。律儀で礼儀正しくて、ルールから外れようとする僕をたしなめてくれた。だから僕は有名になれた。正直、やりたいようにできないのが嫌だなって思ったことはあるよ、でも僕たちはお互いの本質を見抜いてたし、認めてた。しかも趣味が合うんだ。僕も彼も、紅茶が大好きだった。じゃなきゃ、きっと2、3日でミラクル交換してたはずさ」


 遠い昔のように思える景色が浮かぶ。目の前にいるのは、カプ・コケコとは似ても似つかない穏やかそうなポケモン。優しい目をして、少しふくよかで滑らかなライン、すらりと長い尻尾を持つポケモン。尻尾の先には紅色のきれいな宝玉。共通点といえば、同じ黄色で、電気タイプ。それだけ。

 やがてレイリーは我に返って、ファイルに手を伸ばした。


「さて、そろそろ君と僕で事件を解決しよう」


 狭いテーブルに所狭しと写真や文書を並べていく。カプ・コケコはしきりに首を左右に傾けていたが、やがて煩わしく思って、席を離れてレイリーの隣に移った。

 彼のために、ひとつひとつ指をさして解説する。


「これが発見直後の被害者の遺体を撮った写真。そしてこれが、周りの現場。もしも君が犯人なら……もしもの話だよ? どうやって殺す?」


 聞き方が悪かったのかもしれない。

 カプ・コケコは突然両手の先を掲げて合わせ、バチバチと激しい電流の塊を育て始めた。迸る放電が辺りの床を、壁を、黒く焦がしていく。当然周囲はパニックに陥り、悲鳴があちこちから飛び交った。


「あぁ、分かった! 分かったから……やめて、怖いからやめて」


 レイリーが背中を丸くして怯えながら言うと、カプ・コケコは素直に攻撃をやめて大人しくなった。何事もなかったかのように、自分のカップを両手で抱えて、キョトンとした顔でレイリーを見つめる。

 もう大丈夫? と、おそるおそる顔を上げて、レイリーは胸をなでおろした。


「島の人々が君を恐れる訳だよ。守り神って聞いたから、最初はもっと優しくて穏やかなポケモンだと思ってたのに、これじゃあとんだ暴れん坊だ。昔の人はなんで君のために祭壇や遺跡なんて作ったんだろう」


 まだ辺りがざわついている。もはやいちいち「警察です、安心して」と呼びかけるのも億劫で、無視することにした。

 気を取り直して、捜査資料に目を通していく。まずは遺体発見現場の写真。


「犯人は頭がいい。少なくとも自分ではそう思ってる。カプ・コケコに殺人の罪を着せて、今頃は安心しているはずだ。遺体発見現場の演出から見て、調子づいてる若者か、または自己顕示欲の強い中年だろうね」


 続いてレイリーとカプ・コケコの視線は容疑者のリストに移る。


「まだ君が犯人だと結論づける前、警察は事件と事故の両方の面から捜査を進めていた。その際に上がっていた容疑者は7名。男性秘書は違う、それから妹も。恋人は確かに怪しいけど、彼が犯人じゃつまらない。殺人の方法から見て犯行は計画的で冷静に実行されてる。痴情のもつれの線で浮かび上がったメガやすの社長も外そう。これで容疑者は3人に減った」


 得意げな笑みを浮かべたまま、レイリーはカプ・コケコを見遣った。


「容疑者その1、事業計画立案担当者のビル・エイブラム。中年男性で性格は粗暴、以前部下に暴行を加えた容疑で起訴されてる。和解したらしいけど、社内での評価は最低まで落ち込んだ。彼はケイトの部下だったが、先の件でケイトからチームを外されそうになっていた。動機は自分の地位を守るためかも……でも彼がそんなに賢いとは思えないな」


 カプ・コケコは黙ったまま紅茶をすする。カップの持ち方、動かし方が、少し手慣れてきた。


「容疑者その2、ポケモン自然保護活動家のハロルド・ジョナス。年齢24歳。いわゆる過激派で、ポケモンを守るためとか何とか言ってチンピラみたいに因縁つけたり暴れ回ったりしてる。警察も彼をずっと危険人物としてマークしていた。動機はおそらく2番道路でのメガやす建設計画の阻止。事業責任者を殺して経営幹部らを脅そうとした……改正法案が通って事業計画がどうなるかを見届ける前にそんなことをするかな? 気が短すぎる、だとしたら相当の馬鹿だよ」


 カプ・コケコは空になってしまったカップを覗き込む。いくら見つめても無いものは無い。がっかりしてカップをテーブルに置いた後、捜査資料を読み上げているレイリーの脇にあるカップに気がついた。彼はまだほとんど口をつけていない。まだ残っているはずだ。

 案の定たくさん残っていたそれに、手をつけた。


「容疑者その3、地元マフィア構成員のバジーリア・ロンターニ。通称『血波のサーファー』。42歳女性。ライチュウ使いの筋金入りで、相棒と共に貸した金を回収して回ってるみたい。彼女のライチュウは敵の流した血で尻尾を真っ赤に染めてるんだって、うわあ怖いね……彼女は暴力的なだけでなく、頭もいい。マフィアの中でも一目置かれてる。ライチュウを使って感電死させられるから、犯行も簡単。でも何でマフィアの女が容疑者に浮上してくるんだろう?」


 レイリーが顎に手を当てて呟いた。

 すると、2杯目もすっかり飲み干したカプ・コケコが、カップを置いてから書類のひとつを指さした。手に取ってみると、それは被害者ケイトの資産状況を示す銀行残高や投資会社の口座の一覧が載っていた。

 思わずレイリーは顔を歪めた。


「へえ、分かるの? 君に?」


 カプ・コケコは何も語らない。

 なんとも妙な気分だったが、レイリーはひとまず目を通すことにした。


「うわっ何これ。マイナス残高? こっちも、こっちもだ。借金の額に至っては凄いや、桁をひとつ間違えてない? 破産してるじゃないか」


 続けてカプ・コケコが指し示した書類にも目を通していく。今度は被害者ケイトの数年間にわたるカード履歴だ。

 レイリーは堪えきれずに笑ってしまった。


「ああ、はははっ、そういうことか。つまり彼女は高級志向な買い物依存症だったんだ。身の丈に合わない買い物を続けて、やがて借金に手を出してしまった。それでも買い物がやめられない。借金は膨らむばかり。マフィアの取立屋にも睨まれる羽目になった……ところでなんで君がそれを知ってるの?」


 どうせ聞いても返事は返ってこない。それでもいいよ、気に入った。カプ・コケコの頭を撫でくり回しながら、レイリーは彼に関する逸話を思い出した。

 ある日カプ・コケコが保管されていたZリングを盗み出し、カントー地方から来たという少年に手渡したというのだ。それが本当なら驚愕の事実だ。ポケモンが人工的な加工物が何の役に立つのかを理解していることになる。もっとも、あれは素材からして神秘的な物らしいが。詳しくは知らない。

 カプ・コケコから手を払われて、少々がっかりしながらレイリーは今までの資料を見比べる。


「目撃情報によると、被害者は事件の夜、バタバタと自宅マンションから飛び出して行ったらしい。行き先はおそらくリリィタウンだと書かれているけど、本当にそうなのかな? 雷雨の中、わざわざ遠いリリィタウンまで走って行くと思う? そもそも殺人現場がリリィタウンかも怪しい。土俵で黒焦げになるほどの電流を浴びたのなら、土俵も焦げてるはずだ。事件現場を見てきたけど、土俵はどこも焦げてなかった。彼女は別のところで殺されて、カプ・コケコの仕業に見せかけるために、リリィタウンへ運ばれたに違いない。問題は、どうしてケイトは慌てて外に出て行ったのか、どこへ行ったのか……」


 さっきみたいにヒントを出すなら今だぞ、名探偵カプ・コケコ。

 しばらくレイリーはこれ見よがしに間を溜めていた。しかし彼がつぶらな瞳で見つめるまま動きだす気配がないので、諦めて自分で答えることにした。


「それは見られたらまずい相手と会うため、またはその話の内容が人に聞かれるとかなりまずいからだ。たとえば……」


 その先は実はまだ考えていなかった。不倫? 不祥事? 何かネタはないかと捜査資料のあちこちを見渡した。

 しょうがない、手を貸してやるか。カプ・コケコがスッと手を動かしたと同時に、ピッピカチュウ、レイリーの頭にピカッと閃いた。


「インサイダー取引だ」


 したり顔を浮かべるレイリーを、カプ・コケコは目を細めて睨んだ。


「お金がなかった彼女にはインサイダー取引をする動機があった。おそらく彼女は条例が改正されると知っていて、マフィアに情報を渡すかわりに借金を帳消しにしてもらおうとしたんだ。あるいは、ひょっとすると2番道路にメガやすを建てる事業計画そのものが株価を暴落させるためにケイトが仕組んだことだったのかもしれない。間に取締役会やいくつかの審議を挟んでるけど、事業を提案したのはケイトだった」


 レイリーはすっかり子供のようにはしゃいでいた。辺りをキョロキョロとせわしなく見回して、見つけたパンフレットスタンドに手を伸ばして、メレメレ島の簡素な観光マップをひとつ取った。

 それをテーブルに広げて、胸ポケットに差していたボールペンを握る。


「さあ、ストーリーは見えてきた。次は殺害現場だ」


 まずリリィタウンにバッテンを付ける。そしてハウオリシティからリリィタウンへ大きな矢印を描いた。


「犯行現場はハウオリシティのどこかにある。ここで殺して、遺体をリリィタウンまで運んだ。雷雨の夜だから目撃情報はまず出ない。さて、密会に適していてる場所はどこかな?」


 カプ・コケコは首を傾げて、視線をうろちょろさせている。

 よかった、彼にも分からないことがあるということだ。ならば競争だ。レイリーは落ち着いて息を整えた。


「マフィアのロンターニが犯人なら、密会場所はどこでもありうる。でもポケモンを使って殺人を犯すなんて、答えが簡単すぎる。他の可能性を探ろう。全身が焦げるぐらい感電できる場所は……例えば浴槽。お湯を張った浴槽に気絶した被害者を入れて、コンセントに繋いだままのドライヤーか何かを放り込んだ。なら行き先は犯人の家? 違う、それじゃケイトは安心できない。ここなら安全だと思えて、浴槽があって、かつ密会するとしたら……ホテルかモーテル、民宿だ」


 レイリーは舌なめずりをして、ハウオリシティの上に丸を5つ書き込んだ。

 焦っているカプ・コケコをよそに、思考を重ねて行く。


「ケイトは高級志向、高いホテルだと落ち着くはず。まずはケイトが場所を提案する。でも犯人は却下する。なぜならそこは監視カメラだらけ、もしも犯行を計画していたのなら、記録に痕跡が残るような真似はしたくないはず。似たような理由で民宿も可能性が低い、誰にも見られずに遺体を運び出すのは困難だ。残った場所はただひとつ、2番道路のモーテル!」


 レイリーがボールペンの先端をそこに置くと同時に、カプ・コケコも同じ場所を指し示していた。





  5


 日が少し傾きかける頃。街を外れて2番道路を少し上って行った先に、海沿いに建っているモーテルが見えてくる。ビーチからは少々離れているものの、値段は安くて眺めもいい。観光ガイドにも載っている、旅人にはオススメの宿泊施設だ。

 宿の主人は白髪頭の気のいいおじさんだった。レイリーが警察バッジを見せると若干緊張した面持ちになったが、後から受付に入ってきたカプ・コケコを見るや否や、目を丸めて驚いた。事情を話すとすぐにマスターキーを引っ張り出して、該当する部屋にレイリーたちを案内した。

 幸いにも予約のキャンセルが入ったために、その部屋は空いていた。カプ・コケコが殺人をした、なんて話が広まったせいだという。


「うちらはね、本当はカプ・コケコ様はやってないんじゃないかって、そう信じたいんだよ。でもほら、リリィタウンの広場に黒焦げの死体が出て、しかもしっかりした目撃情報もあるだろ? もう分かんなくなっちまってさあ」

「お察しします」


 ガチャガチャとドアの鍵を開ける宿の主人が肩を落としてため息を吐くその後ろで、レイリーはもっともらしく返事をした。本当はカプ・コケコがどう思われていようと関心はなかった。おそらくカプ・コケコ本人でさえそうだろうと思っていた。

 やがてドアが開いて、「さ、どうぞ」と宿の主人が道を譲った。

 部屋番号は2号室。雷雨があった日の夜、1人の女性、または女性を含めた2人組が当日にやってきて宿泊した部屋だ。宿の主人の記憶に残っていて助かった。鑑識を呼んで逐一丁寧に調べるような時間の無駄はしたくなかった。


「それで、どんな2人組でした?」


 部屋を見渡しながら、レイリーは訊ねた。カプ・コケコも何かないかと一緒に手がかりを探す。宿の主人は「あー……」と口ごもった。

 とても簡素な部屋だ。シングルベッドがひとつと、並んでポケモン用の寝床であろうクッション。壁際にはテレビラックの上に薄型テレビと電気スタンド、ゴミ箱、それから小さな丸いテーブルと鏡付きのデスクがひとつずつ。バスルームと部屋はカーテンで仕切られている。カーテンを開いて奥を覗き込んでも、足は伸ばせそうにない小さなバスタブとトイレ、それから洗面台があるだけだ。どこも綺麗に掃除されていて、手がかりなんてものは残っていないだろう。

 レイリーは宿の主人に振り返った。


「それじゃあ、何かなくなったものはありますか? 備品とか、何か」

「ああ、そういえばドライヤーがなくなっていたよ。ちょうど古くなってガタがきてたから、新しいものを揃えたんだ」

「ふーん……ドライヤーね」


 予想的中。

 レイリーはニンマリと笑った。そして大げさな口調で、まるで攻め立てるような勢いで宿の主人に言い寄った。


「おそらくケイトはここで殺された。あの浴槽で、感電死したんです。お湯を張って、ケイトを殴るなり何なりで気絶させ、お風呂に放り込んで、コンセントに繋いだままのドライヤーを入れた。それも全身が真っ黒に焦げるほど長い時間をかけて、犯人は彼女を殺したんだ。なんて残酷なやり方だ。しかもその罪を島の守り神になすりつけるなんて、こんなの許されていいはずがない。そう思うでしょ?」

「そんな!」


 宿の主人はじりじりと下がって、やがて外の地面で尻餅をついた。顔はすっかり青ざめて、ガタガタと震えている。なんて恐ろしいことを、どうして気がつかなかったんだ、としきりに呟きながら。

 レイリーは立ち尽くしているカプ・コケコにウィンクして、続けて宿の主人に訊ねた。


「ねえ、君はさっき男女の連れが駆け込んできたのは覚えてるって言ったのに、その人の特徴を聞いたらごまかしたよね。でも男は人殺しで、島の守り神様を踏みにじった極悪人だよ。本当は僕が訪ねて来たときにピンと来たんでしょ、ひょっとしてあいつらがカプ・コケコに濡れ衣を着せたんじゃないかって。もうかばう理由なんてない。教えてよ、その人の特徴を」

「かばってた、訳じゃあ、ないんだよ……」


 宿の主人は弱々しい声で答えた。


「女性の方は警察の帽子を深くかぶってて顔が見えなかったし、警官の制服を着た色白の男も、サングラスをかけててもじゃもじゃの髭と髪のせいで顔の輪郭さえよく分からなかったから……た、多分男は若者だと思う、声はそんな感じだった。それに、その警官はこう言ったんだ。今は犯罪組織に追われてて、緊急で秘密裏に女性を匿いたいから部屋を貸してくれ、それからこの事はたとえ警察が来ても絶対に話すな、記録も残すな、彼女の安全のためだって……金は前払いだったし、朝にはいなくなってたから、きっと別の場所に移ったんだろう、と……」

「待ってよ、警官がそう言ったの? もじゃもじゃの? 本当に?」

「ほんとさ、あぁそれから……思い出した、そいつは頬のあたりにそばかすが付いてたよ。これって手がかりになるかい?」


 目を丸めていたレイリーが、その口角が、ゆっくりと吊り上っていった。





  6


 日が沈んで、夜が来た。暗黒のドームに散りばめられた宝石のような星々が色とりどりな輝きを発し、淡く光る月が優しく降り注いでいる。今は夜の9時を過ぎた辺り。激務の警察官たちも、仕事を終えて帰る頃だ。まだ残っている警官といえば、熱心な新人か、責任ある立場の人物ぐらいだ。

 グレイス警部は椅子から立ち上がって、大きく伸びをした。デスクワークのせいで凝り固まった体を右へ左へと捻り、ほぐしていく。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。今日も私はよく頑張った。家に帰って、愛する家族、そしてパートナーのアブリボンと一緒にゆっくり過ごしましょう。

 そのささやかな幸せをぶち壊す一声がオフィスに響き渡った。


「犯人は君だ、ギャレット巡査」

「はい?」

「何ですって?」


 いつの間に戻って来ていたのか、レイリーがオフィスの椅子に座ってふんぞり返り、唖然としているそばかすの新人警官ギャレットに宣告した。

 驚いたギャレットとグレイスはほぼ同時に珍妙な声をあげた。いきなり何てことを言うんだ。しかしレイリーは2人を置いてけぼりにして、構わずペラペラと喋り倒していく。


「君は賢いね。いかにも君は汚職警官って感じには見えない。誠実で、いかにも規則を大事にする、真面目な新米警察官だ。なのに腹の中は真っ黒、おまけに殺人もできるときた。君のように殺人をした次の日も平気な顔で職場に出られる人間をなんて言うか知ってるかい? サイコパスって言うんだよ。カッコ悪く言えば変態だ」

「待ってください、いきなり私を殺人課のオフィスに呼びつけておいて……何言ってるんですか!?」


 うろたえるギャレットに続いて、グレイスも重い頭を支えながらため息交じりに言った。


「レイリー刑事、ちょっとオフィスで話せるかしら」

「もうちょっと見てて、ここからが良いところだから」


 信じられない。なんとレイリーは茶目っ気あるウィンクを飛ばしてごまかそうと言うのだ。グレイスが目玉が飛び出るぐらい大きく目を見開き、そして口を開いた。

 だが喋り出したのはレイリーが先だった。


「君は事件の夜、被害者であるケイトを呼び出した。話の中身はメガやす株のインサイダー取引についてだ」

「ケイトがインサイダー取引を?」


 グレイスは諦めて訊ねた。一度最後まで話を聞くしか、このお喋りを止める方法が無いだろうと思った。しかし間違いだった暁には、その首を自らの手で飛ばしてやるつもりでもあった。

 彼女が乗ってくると、レイリーは微笑んだ。


「その通りです、警部。ケイトは買い物依存症で、借金をしてまで高級品を買い漁る浪費家だった。マフィアの借金取りに返済を迫られ、追い詰められた彼女は、最後の手段としてインサイダー取引を持ちかけた。おそらく彼女は、事業計画の初期段階か最近か、はっきりとした時期は分かりませんが、2番道路にメガやすの新しい店舗を建てる事業は、都市開発条例の改正が通って失敗するだろうと分かっていた。いずれメガやすの株が、それによって下がるであろうことも。この情報は莫大な利益になります」

「確かにそうね……でもその話がどうしてギャレット巡査に繋がるの?」

「証券取引委員会が株のインサイダー取引を疑って、メレメレ警察の知的犯罪捜査班との合同捜査に乗り出したせいで、ケイトは心底震え上がった。だから彼女はこっそりと通報することにした。しかしタイミングが悪かった。メレメレ島の知能的犯罪捜査で通報の窓口をやっていたのは、新人であるギャレット巡査だった。彼はケイトから通報を受けて、彼女の殺害を決めたんです。なぜなら、ケイトは知らなかったが、実は彼もインサイダー取引に一枚噛んでいたからだ。彼はマフィアが警察に送り込んだスパイです」


 ギャレットは激昂して叫んだ。


「バカバカしい、全部デタラメですよ!! どうかしてます!!」


 レイリーは足を組んで、さらにまくし立てるように続けた。


「事実かどうかは君の資産状況を調べれば分かる。おそらく今回のメガやす株暴落でマフィアと一緒に相当儲けたはずだ。……電話で相談を受けた君はかなり怒っただろうね。成功すれば巨万の富が転がり込んでくるのに、借金まみれの女に邪魔させてたまるか。そう思った君は、きっと優しくこう言ったに違いない。『分かった、ひとまず会って詳しい話を聞かせてくれないか。警察署ではダメだ、マフィアに気づかれたら君を守れない。安全なところで話そう』とね」


 最初こそくだらないと思っていたグレイスも、すっかり耳を傾けていた。今のところは状況証拠ですらない憶測ばかりで、「わずかに疑わしい」というだけに過ぎない。話も突飛な点が多すぎる。だが筋は通っているし、何より、面白い。

 レイリーはグレイスとギャレットの反応を交互に観察しながら、話を続けた。


「君は考えた。どうやって殺すか。海に沈めるか、いやダメだ、行方不明になれば彼女の捜索のために周辺を事細かに調べられてしまう。早急に捜査を終わらせるにはどうすればいいか。簡単だ、ポケモンの仕業に見せかければいい。それには凶暴なポケモン、島の暴れん坊、カプ・コケコが最適だと閃いた。ウラウラ島では他のカプがメガやすの店舗を破壊した。今回もカプがメガやすに怒ったんだとみんな考えるはずだ。そして君は変装して2番道路にあるモーテルでケイトと落ち合い、宿の主人を騙して2号室を借りた。そこでケイトをスタンガンかポケモンの技か何かで気絶させ、そしてカプ・コケコの仕業に見えるように殺したんだ」


 グレイスは静かに彼の意見を聞きながら、ふと話題に上ったカプ・コケコの姿が見当たらないことに気がついた。尾行させた警官たちの話では、「レイリー刑事がカプ・コケコを遺跡に帰さず、連れ回している」と言っていた。

 レイリー刑事について回ることに飽きて帰ったのだろうか。彼女がそう思えるぐらいカプ・コケコは気まぐれなポケモンだ。ここはカプ・コケコが暴れなかったことに安心するべきかもしれない。


「実際みんな疑わなかった。少数の人がカプ・コケコの無実を声に出してはいても、心の中では疑っていた。それぐらいカプ・コケコは怒りっぽくて、気まぐれだった。もしかしたら脅かすだけのつもりだったかもしれないが、今回は運悪く死なせてしまったんじゃないか、とね。まったく賢い発想だよ、警察でさえ彼を本気で恐れていたんだから。僕以外はね」

「お忘れのようですが」


 ギャレットは怒りで顔を引きつらせながら、自信満々に切り返す。


「遺体はリリィタウンにあったんですよ。しかも黒焦げで」

「そこは簡単だよ、説明するまでもないほどに。君はモーテルの浴槽で彼女を感電死させ、何時間か放置して丸焦げにした。おそらく浴槽に跡が残らないようシートを敷いたか、彼女の体を袋に詰めたか。そうして殺した後、君は用意していた車に遺体を乗せて、リリィタウンの広場に置いたんだ」

「でも聞いた限り、最初の現場検証では、不審なタイヤ痕は見つからなかったそうです。残っていたのは全部、リリィタウンの住民の車のタイヤ痕と一致していたそうですが?」

「それも簡単な話、君はリリィタウンの手前、一本道の途中で降りたんだ。あそこならリリィタウンを出入りするすべての車が通る、タイヤ痕の鑑定なんてできる訳がない」

「でも足跡が残るはずだ」

「残ってたよ、住人の足跡だと結論づけられたけど。もちろん君の身体記録も読んだ、君の足のサイズより一回り大きかったね。それなら靴を大きいものに履き替えるだけでいい。……この不毛な議論を続けてもいいけど、手遅れだ。君はひとつ、致命的なミスを犯した。遺体を広場に置くところを目撃されているんだ。これは君にとっても想定外だったはずだよ」

「そんなバカな、デタラメだ!!」


 グレイスは眉間にしわを寄せた。


「何ですって? 目撃者がいるの?」

「えぇ。ギャレット巡査は、自分が帰った後にたまたまそれが現れたのだと思っているようですが、違います。カプ・コケコは、彼が遺体を置くその一部始終を見ていた。カプ・コケコが今回の事件の目撃者だ」


 場が凍りついた。

 ギャレットとグレイスは同じように驚いて、それからの反応が別れた。ギャレットは勝利を確信した笑みをにんまりと浮かべ、グレイスは頭を抱えて大きなため息を吐いた。


「冗談でしょ? いくら島の守り神でも、ポケモンは証人にはなれない。まさか証拠がそれだけだなんて言わないわよね?」


 頼むから言わないで。後生だから。グレイスは心の底からそう祈っていた。

 もちろん、現実が無情であることは承知だった。


「おっしゃる通り、証拠はそれだけです。でも、むしろたったこれだけの証拠でちゃんと真犯人を見つけ出した僕を褒め称えるべきですよ。いちいちルールに従っていたら絶対に辿り着けなかった」


 いけしゃあしゃあと語るこのくそったれ刑事をこの手で絞め殺してやる。

 グレイスからどす黒い殺意をシャワーのように浴びながら、レイリーは平然とギャレットを見上げて言った。彼はまるで自分の勝利を信じて疑っていなかった。


「君はひょっとしたら罪に問われず、完全犯罪を成立させてしまうかもしれない。でも、これからは背中に気をつけた方がいい。君が否定しようとも関係ない、カプ・コケコは見てしまった。彼と1日中一緒に過ごしたから僕には分かる、彼は君に対してものすごく怒ってるよ。本当に殺してしまおうと思ってる。でも仕方ないよね、なにせ君のようなサイコパスに自分の名前を騙られたんだから、僕でも思うよ。よくも僕の名前をそんなことに使ったな、殺してやるーってね」

「何をバカなことを、そんな訳」


 ギャレットがせせら笑った。次の瞬間、激しい稲光が窓から差し込んできて、ほぼ同時に窓ガラスがビリビリと震えるほど大きな雷鳴が轟いた。ガタンと何か大きな物音がして、とたんにオフィスの明かりが消えて真っ暗になった。

 残っていた数人の警察官たちがざわめく。不安に駆られた警官から順にポケモンを繰り出していく。ただの停電だろうか。それとも、ついにレイリーが守り神の裁きを受ける時がきたのか。

 いつの間にか窓の外にはざあざあと酷い雨が降っていた。大きな雨粒が窓に叩きつけ、強烈な風がびゅうびゅうと吹きつける。今朝の天気予報では黒髪の女子アナが今週はずっと快晴が続くと言っていたのに。

 皆が警戒している中で、ついにそれは起こった。

 今度は全身が震えて鼓膜が破れそうなほどの雷鳴が響いて、窓が一斉に割れた。壁と一緒に。細かい電流が壁や床、天井を走り、外に面する壁が一瞬で崩れ落ちた。

 グレイスは口を開けっぱなして呆然と立ち尽くす。本当にこんなことってあるの。


「う、うわあああ!!」


 まるで狂ったようにギャレットが真っ先に叫んだ。雷雨の嵐の中に、稲光が走った瞬間、黒い影が宙に浮いている姿が見えた。カプ・コケコだ。荒い息を吐いて興奮している、彼は明らかに怒っていた。今にも電撃を放って胸を貫かれそうな威圧感が空気を支配している。ピリピリと神経が張り詰めて、息が苦しい。

 カプ・コケコが一歩迫ると、ギャレットも一歩下がった。無意識のうちに手足が震える。やがて背中が壁に当たった。びくりと震えて左右を見回す。もう下がれない。次にカプ・コケコを見た瞬間、その姿が消えた。目の前が真っ白になって、怖くなって壁伝いに走り出した。直後、カプ・コケコから野太い電流が鞭のように伸びて、彼が背中を当てていた壁が吹っ飛んだ。


「助けてくれー!!」


 必死に手足をばたつかせて逃げ惑うギャレットを、放電攻撃が追い回す。デスクが爆発して、文書が花びらのように舞い散る。捜査資料を貼り付けて整理したホワイトボードは黒焦げだ。警官たちはポケモンに攻撃の指示を出すが、カプ・コケコに近づくまでもなく、放電の余波であっという間に制圧されていた。

 見かねたグレイスが叫んだ。


「誰かカプ・コケコを止めて!!」


 やがて、ギャレットはとうとう床に落ちた書類で足を滑らせ、転んでしまった。体を起こして逃げようとしたが、石像のように動きを止めた。カプ・コケコが目の前に立ちはだかり、見下ろしている。体中に黄色い電流をまといながら。

 ここぞとばかりにレイリーは叫んだ。


「このままだとカプ・コケコは君を殺しちゃうよ! でも自白すれば警察が君を容疑者として逮捕して保護できる! 君はどっちがいい!? 刑務所で安全に過ごすか、守り神の裁きを受けるか!」

「分かった、認める! 俺がやった!! 俺がケイトを殺した、俺はマフィアのスパイだ!!」


 ギャレットが身を丸めてうずくまり、涙混じりの大声で叫んだとたん、レイリーは微笑んだ。そして崩れた壁から外を見下ろして、大手を振って合図を送った。

 ピタリと止んだ。雷鳴も、雨も風も、すべてが消えた。

 みんな唖然としていた。何が起きたのか分からず、固まっていた。グレイスはおそるおそる動き出して、レイリーの横から署の外を覗き込む。道路を挟んだ向かい側に、ジャージ姿の若い女性がヤドンとウォーグルを従えて立っている。

 女性ははしゃぐように大手を振り返って言った。


「レイリーさーん、お礼の1万円よろしくー!」


 当のレイリーはにこやかに返してから、まだ現実を受け入れられないグレイスにささやいた。


「ほらね? 僕の言った通り、真犯人を見つけたよ」


 彼の憎たらしい笑顔と、「キシャー」とわざとらしくギャレットを脅すカプ・コケコを交互に見比べて、グレイスの両手はわなわなと震えた。

 先ほどまで鳴り響いていた雷鳴や獣の咆哮など可愛いものだと思えるぐらい、壊滅的な怒鳴り声が衝撃波となってハウオリシティに轟き渡った。





  7


 メレメレ島はしばらく賑やかになった。警察官が殺人犯だったこと、彼がカプ・コケコに罪をかぶせようとしたこと、メガやす株を使ったインサイダー取引、マフィアの関わり、アローラ・インベスターズの不祥事、諸々が芋づる式に吊し上げられていった。

 テレビではポケモン博士やら証券取引の専門家やら、コメンテーターもこぞって体制の批判や社会の闇への言及に明け暮れている。ハウオリシティのポケモンセンターに設置されたテレビからもその手の番組が流れていた。なんだかめちゃくちゃな捜査をしたという刑事のことも批判されていたようだが、大して気にならなかった。彼らはどうせ何も知らずに文句を言っているだけだ。そのくせ、的外れだと分かっても何もしない。カプ・コケコが無実だと分かると、今の彼の姿をカメラに収めようと遺跡に人が群がってきたらしい。きっと彼にとってもいい迷惑だろう。

 レイリーはやや自嘲気味に笑って、ロズレイティーを口に含んだ。いいお茶だ。こんな僕でも、どんな気分の時でも、思わず花びらの舞を踊ってみたくなる。


「ほんと、いいお茶ね」


 グレイスはカップを置いて、レイリーの向かいの席に座った。先ほども何度目かの記者会見を終えたばかりで、化粧は整っているが、少しやつれて見える。だがとても穏やかな口調だった。

 それがレイリーには気に入らなかった。ふてくされたように口を尖らせる。


「勤務時間外ですよ。それとも内部監査官がまた何か因縁をつけてきたんですか?」

「仕事の話じゃないわ。友人として話に来たの」

「友人? 警部が? 僕の?」

「署の全員がね。みんな貴方のこと心配してるわ、私も含めて」


 レイリーはフッと嘲笑った。


「僕は平気です。市長も僕の功績を認めて建物を壊したことを大目に見てくれたし、相棒刑事はちゃんとした奴に変わりましたし、悪い奴は刑務所行き。これってハッピーエンドでしょ?」

「そうね。あとは貴方が過去を受け入れて、ちゃんとカウンセリングに行けば完璧よ」


 カップを口に運ぼうとする、レイリーの手が止まった。

 グレイスはお茶をひと口すすってから続ける。


「犯罪は起こるし、止められない。捕まえられるのは警察しかいない。でも警察も完璧じゃない、時には間違えるかもしれない。だから慎重に客観的な証拠を集めて、事実を積み上げていくしかないの。安月給に見合わないような膨大で地道な作業を経て、それでも真実を見失うかもしれない。でもやるしかない、なぜならそれが仕事で、私たちはプロだから」

「同時に人間でもある」

「そうよ。そして心がある。自分の過ちでパートナーを失う苦しみはよく分かるわ、でもお願いだから自分を罰するのはもうやめて、自分を見失わないで。カウンセラーと一緒に自分の心を見つめ直しなさい」


 知ったような口を。レイリーの目が細くなる。紅茶の水面に映る自分の顔は、無表情でひどく冷たい。久しぶりに見た気がした。

 レイリーは繕いもせずに顔を上げた。


「分け合う気はない、これは僕だけのものだ」


 少し視線を伏せていた間に、グレイスは紅茶を飲み終えていた。ちょうど最後の一口を飲み干して、カップとともに席を離れた。

 カップを返却して帰るところ、彼女はすれ違い際にささやいた。


「どうかしら?」


 出ていくグレイスを見送りもせず、レイリーは鼻で笑った。

 何も知らないくせに、よく言えたものだ。結局は彼女もテレビのコメンテーターと変わらない。人の領域に勝手に入って荒らしていく。何があっても知らんふり、無責任なことこの上ない。

 レイリーは微笑みながらわずかに残った紅茶を見つめていた。僕にポケモンの相棒はいらない。面白い事件を嗅ぎつける刑事だけでいい。僕は戦わないし、銃も使わない、謎を解くだけだ。それ以上のことをしたら、きっとまた誰かが死ぬ。それも身近な誰かが。

 でも、カプ・コケコと一緒にあちこち回るのは楽しかったな。悪くなかった。また昔みたいな捜査ができて、懐かしかった。久しぶりに達成感もあった。

 誰かと一緒に何かをすることがこんなに気分を明るくさせてくれていたこと、どうして今まで忘れられていたんだろう。いいや違う、忘れなきゃいけなかったんだ。思い出すべきじゃなかった。僕はずっと独りでいい、そうあるべきだ。

 過ちを犯した。とても拭いがたい、傲慢で愚かな過ちを。もう二度と繰り返してはいけないと誓ったんだ。

 なのに。


「君はどうして、僕を選んだ?」


 返事が欲しい相手は、ここにはいない。今どこにいるのかも分からない。

 ギャレットを自白させたあと、いつの間にか彼はいなくなっていた。警部は「カプ・コケコは飽きっぽいから、現れてもすぐにいなくなるの」と言った。

 寂しくないのだろうか。ふと思ってしまう。ずっと一緒にいてくれる誰かを欲しいと思ったことはないのか。それとも、元々そういう性質のポケモンなのか。僕に近づいてきたのは、ただの気まぐれ? 誰でもいいから遊びたかっただけ?

 だとしたら、少しだけ残念だ。

 最後のひと口を、ゆっくり傾けて飲み込んだ。