さようなら、自分の道標。

著者:諸事情でネットカフェから投稿

 太陽の光も月の光も当たらぬよう土の中で永住すべきだという声もろくに聞かず、彼らはこの古ぼけた屋敷の一階で、幾何学模様のきの字もないバラバラな陣形で突っ立っていた。

 厳密に言うとこの屋敷は別に古くはない。かつて大富豪が建てたものの、殆ど使われないまま無残に捨てられたのが、およそ十五年前のことであった。いつしかこの場所はスカル団が占領するようになり、周囲から『いかがわしき屋敷』と蔑称されるまで品格が下がった。

 選ばれしブルジョワの象徴でもある、宝石を埋め込んでいるのかと見紛う程光を放つ筈のシャンデリアは、無残にも冷たい床に叩きつけられていた。もうその体に光は宿らない。 

 金属膜がコーディングされた高い断熱性能を誇る窓ガラスは、とあるポケモンのドラゴンクローで見事に砕け散っていた。ポケモンの技は人類の叡智よりは劣っているが、ガラス職人の叡智は軽く凌いでいる。

 木の壁には無数の落描きが施されている。木目は、完全に存在感を奪われた。落描きの中でも一際目立つのが、島の神である『カプ・コケコ』の絵に、bold&redのバツ印が付けられているものだ。この絵は屋敷に入ったときに必ず目に付くよう、階段の後ろの壁にでかでかと描かれている。

 酷い有様である。スカル団の方々の、長年の憂さ晴らしの結晶がここには存在する。この惨状は『古ぼけた』という少々お洒落な言葉でも使わない限り、とても誤魔化しきれないのであった。 

 この屋敷はもう、堕ちたのだ。


 スカル団という自分らの組織名の由来すら知らない骨のない若者達は、かれこれもうニ時間近くこの屋敷で待機を強いられていた。とにかく暇で暇で辛かった。自分達よりも相対的に煌びやかな服を纏った幹部の到着を、彼らは愚直に待っている訳であるが、一向に屋敷の扉は開かれる気配がなかった。

 なんでも良いから暇を潰すことをやりたい所だ。しかし彼らの中で暇潰しの何かを発案する者は、一人たりとも現れなかった。そもそも発案以前に考えてもいなかった。考えることで己の脳味噌を働かせて疲れるくらいなら、暇な方が幾分かマシだという思考を持っていた。

 ここにいる連中は現在待機を命じられている訳であるが、彼らはこの後、自分達が一体何をする予定なのか全く把握なんぞしていなかった。そんなことは幹部から一切教えられていないし、誰も興味を持っていないので誰も質問をしなかった。彼らの大多数はとにかく、暴れられればなんでも良かった。

 彼らは次第に隣にいる人と雑談を開始するようになっていった。何もすることがないときはやはり適当に喋っているのが一番楽で良い。他愛もない話で屋敷全体が盛り上がっていく。屋根の上ではヤミカラスが一匹止まっていた。

 そんな彼らの中で一人、誰とも喋らず、時折周囲をきょろきょろとしながらも、電信柱のようにその場できちっと立っている青年がいた。待機=黙ってそこに立っていることという固定概念に囚われている彼は、階段の後ろの壁に描かれたカプ・コケコの絵を、なるべく無心で睨むようにしていた。

 そんな彼の名前はフォールと言う。フォールは、自分以外のスカル団の連中に対して、つくづく学が皆無であると呆れ果てていた。入団当初からずっとフォールは周りを下に見ていて、そしてなるべく周りとの接触を避けてきていた。彼は孤高の存在になりたく思っていた。だが、常に独りだということを不審に思われていないかという不安が働き、今もなお周囲を時折キョロキョロしていた。非常に情けなく思う。 

 真面目にやらないから駄目だとか、そういうのではなくて、なんというか周囲は人間としてのレベルが低いなあと思っていた。けれども、レベルが低いなんて、そんな偉そうなことを述べて良いのかという気持ちもチラつく。だから、心の中で自らの思いを復唱するときには、もっと適切な言葉がないか、いつも探し求めていた。

 いつの間にかとある一人が、まだ十一時だというのに昼食を取る準備を始めていた。屋敷の流しまで向かって、ヤカンに水を入れコンロに火を付けている。お湯が沸騰したらそいつは、火を消してカップの焼きそばにお湯を注ぎ、投げ捨てるかのようにヤカンを流しに置いた。

 二分十五秒くらいしか経過していないが、そいつはもうお湯を捨てようと蓋を開けていた。次の瞬間そいつは、赤いギャラドスの怒りの咆哮かと思う程、どでかい叫び声を上げていた。叫び声に反応し、フォールの体が過剰にビクッとなった。どうやらそいつは、焼きそばのソースを、お湯を入れる前に麺にかけてしまったらしい。屋敷にいる人達全員が、そんなことで一々叫ばないでくれって思ったに違いない。

 仕方なくそいつは、ソースが混じった水を捨てており、恐らく味なしで食べるつもりだろうか。フォールは笑みを浮かべつつ、「ソースがかわいそう」となるべく嫌らしく聞こえるような声で、誰にも聞こえないようなボリュームで呟いた。

 だが彼の知らない所で、他のスカル団の人が、全く同じことを全く同じタイミングで喋っていた。


「カプ・コケコが丸くなった姿っておっぱいに似てるよな」

 ルート二次元ずれたような恐ろしく突拍子もない発言が、フォールの近傍から余りにも唐突に耳に突撃してきた。この声には彼は良く聞き覚えがあった。

「黒い嘴の部分が丁度乳首にあたるな」

「いや全然似てないだろ。あいつ黄色いし」

「黄色いおっぱいだってあるかもしれないだろ」

「ないからそんなの」

「Cカップ・コケコ」

「変な改名をするなよ。カプに殴られるぞ」

「まてよ。あの大きさだったらZカップはある」

「Zカップか」

「ゼンリョクのおっぱいだ」

「ハハハ、なんだそりゃ」

 二つの意味でいかがわしき場所と化したこの屋敷の屋根に、先程まで止まっていた漆黒の毛を身に纏う一体のカラスは、そろそろと羽を広げどこかへ飛び去っていった。

 罰当たりとか、不謹慎とか、そういうレベルの物を超越したエゲツない会話に、この独り身な青年は笑いを懸命に堪えていた。ここで我慢できず吹き出すのは低能のすることだと思った。嘲笑を浮かべることすら、愚かであると考えていた。ここはただひたすら、無関心を装うのが良い。話を全く耳に入れないのがベストだが、あいにくそれはもう手遅れだ。だからせめて、興味がないように振る舞わないといけない。だがどう頑張っても意識がそっちへ向いてしまう。これでは愚か者の仲間入りコースまっしぐらだ。以前にも似たような話を聞いたことがあった気もしたが、それでも笑いを堪えるのは至極困難だった。


「俺の鉄板の愚痴を聞いてくれないか」

 と、そのとき彼の先輩から話かけられたことで、なんとかあの会話の呪縛から逃れることができた。

 鉄板の愚痴、とは。「ただの愚痴だろ」って突っ込まれる前に予めこれは愚痴であると宣言するのは卑怯、って言いかける口を、彼は懸命に殺した。フォールは「ええ、いいですよ」とまるで好青年のような喋り方で答えた。

「俺はなあ、全然努力してもバトルで勝つことができなかったんだよ。どんなにバトルのことを研究しても、全然勝率は上がりやしなかった。俺のポケモン達もなあ、頑張ってくれたんだけどなあ。やっとの思いで大試練に挑戦することができたときは歓喜したが、その喜びも一瞬で終わった。俺は完封負けしたんだ。そんでもって、落ち込んでいたそのときにだよ、お前はまだまた努力が足りないって、島キングに言われたんだ。俺の日常を何も見てないくせにだよ。なあ、どう思う?」

「なあ、どう思う?」と正解がない問いを相手に尋ねる場合は大概、相手から自身を肯定する意見を引き出したいときだと、フォールはこれまでの人生経験で知っていた。

「僕は、そういうことは言わない方がいいと思います。鬱の人に『頑張れ!』って励ましてはいけないのと同じことで、落ち込んでいる人に、努力が足りないなんて言ったら駄目でしょう。逆効果です。自分だったら更に落ち込んで二度と立ち直れなくなりますね」

 すると男は途端に嬉しそうな目をした。それを見たフォールはうっかり安堵の表情を浮かべないよう心掛けた。片方は自分の心を表に出し、もう片方は自分の心をひた隠す。

「だよなあ。そうだよなあ。だよなあ。まったくあいつらは。これだから島巡りに失敗する人が増えていくんだ。それ見ろ。今年だって何人スカル団に入ったことか」

「まあ先輩みたいに凄い人ですら厳しい世界ですからね」

 フォールはいかにも後輩が先輩に言うべき自然で真っ当そうなお世辞を言った、つもりだった。だが。

「は?」

「え……」

「いや俺が凄い訳ないじゃん」

 マッチに火が付いた瞬間だった。

「あ、いえ」

「なんで俺が凄いの? なんで俺が才能あるの?」

「……」

 フォールはたった今失態を犯した。

 この人間は、才能があるとか能力が高いとか、元々生まれ持った能力の方を賞賛されると、逆に怒るタイプであった。それは今までの話からも推察できることであるし、フォールに至っては前々からそれは知っていたのに、話の流れでついついそのようなことを言ってしまった。

 才能の方を評価されると、自分がやってきた努力を丸々否定された気持ちになる。彼は努力ができない人間はもはや人間失格であるという考えを、心の一番目立つ部分に楔で繋いでしまってあるのだ。その手の人に才能があるって言えば怒るし、天才だって言えば殴られる。

「才能あったら島巡り成功してるよ。あんだけ努力してたんだから」 

 そして、この手の人に努力が足りないだけですよって言ったら、バトルで敗れた後よろしく目の前が真っ白になる。

 先輩は話を終えた後未だに怒っている表情を浮かべて、他の人の所へ行ってしまった。

 フォールは、自分が他のスカル団よりも頭が良いと思っているけれども、時折他の人でもしないミスをやらかすことがある。先程だって少し考えればあれは言っていけないと分かる筈なのに、つい流れに任せて口走ってしまった。

 彼はこのような失敗をしたとき、毎度の如く、このように自分に言い聞かせるのだ。

 ――今のは、脳のリソースが追い付かなかった。


 スカル団の活動内容は多岐に渡る。島巡りをしている人に無理矢理バトルを申し込んだり、試練の場所を荒らしに行ったり。スカル団に邪魔をされて島巡りを断念した人もそれなりにいる。この集団は、こういうことを目指そうという具体的な目標がないため、とにかく憂さ晴らしになることであればなんでも行うのだ。


 ようやく幹部が屋敷に到着し、下っ端の連中に、次に何をするべきか指示を出した。ここは別に株式会社や有限会社という訳でもないので、この上の命令にどれだけの強制力があるのかは分からないが、なんやかんや大概言うことにしっかり従った。速やかに目的地へと向かおうと準備を開始する。

「次の目的地をセットしたロ」

 フォールが持っている『ロトム図鑑』が、彼が屋敷の外へ出た瞬間鞄から出て一人でにそう言った。『言った』というより『音を発した』という言い回しの方が幾分適切であろうか。

 ロトム図鑑のボリュームが些か大き過ぎて恥ずかしく感じ、フォールは咄嗟にボリュームを一番下まで下げた。バイブモードにしても特に不都合はないが、そうすると偶に、中身のロトムが怒り出して電撃を放出するのだ。

 ロトム図鑑の画面には、ウラウラ島全体が描かれている地図が表示されていた。本日の目的地である『スーパー・メガやす跡地』の箇所には、赤い旗のマークが点滅して表示されていた。そこまでの最短ルートが直ぐに分かる。

 ロトム図鑑には、次の目的地を自動的に把握し、地図にセットしてくれる機能が備わっている。このあまりにハイテクで便利な機能のおかげで、彼は未だ、人に聞かずとも道に迷ったことがない。

 ロトム図鑑はロトムが図鑑に入り込むことによって完成する最新型の図鑑である。人工知能が搭載されており、使用者が何を求めているのか把握して前もってそれを用意してくれる。アローラ地方でこれを所有している者は殆ど見かけない。ロトムというポケモンは珍しく、しかも別地方にしか生息していない。しかも、図鑑に入るのを嫌がるような捻くれた個体も一部いる。よってあまり大量生産できなくて、この図鑑は貴重なものとなっている。  

 手に入れられる者は一部の『優れた』人間か、あるいは何か偉業を成し遂げた人とコネクションのある者くらいだ。

 ロトム図鑑には、目的地の正確の場所を教えてくれる機能の他、様々な場面で使える物が備わっている。

 カメラ機能も付いており訪れた町の風景を写真に収めておける。撮った写真を即座に全世界に公開して閲覧者の感想を求めることも可能だ。

 

 目的地までバイクに乗って集団で移動する。バイクの免許を持っていない者は二人乗りをさせてもらう。決してライドポケモンの手は借りない。バイクの免許を取得して一年以内は二人乗りが禁止されているが、そんな一般市民でも守らないようなことを彼らが守る筈がない。そもそもそんなルールは知らない。

 フォールも皆と同じようにバイクに乗って移動する。バイクは最近購入したものであったが、ナンバープレートが直角以上の角度で折り曲げられており、下二桁の数字が若干見えにくくなっていた。

 島巡りの試練をする場所には本来キャプテンがいるが、夜中にいる訳もなく。勿論試練の場所にはキャプテンがしつけた主ポケモンが奥の方で構えているのだが、彼らは所詮野性のポケモンであり、見張り役を完璧にこなすのは難しい。人間社会について不案内な主ポケモン達はスカル団の連中が悪党だと気がついて倒しに向かった頃には、もう彼らは去る準備をしているのである。

 フォールが周りを見回すと、スカル団の人数がだいぶ減っていることに気が付いた。移動中にこっそり逃げ出した人が何人かいる。

 逃げた理由は恐らく、ここの試練の場所が『カプの村』の近くであるからだろう。神の逆鱗に触れることを彼らは恐れたのだ。

 なお先程『Cカップ・コケコ』等と宣っていたあいつは、ちゃんと凛然とした表情でこの場にいる。


 この試練の場所にはかつて『スーパー・メガやす』という名の店が存在した。だが守り神が暮らしている場所に勝手にスーパーを建設したとして、『カプ・ブルル』というポケモンの手によって、木っ端微塵とまではいかないが破壊されてしまった。

 清掃すら罰当たりという考えがあるのか、このスーパーの中は誰も現在手を付けず、破壊されっぱなしの状態となっている。一応生の食材は回収されているみたいだが、壊れたレジ打ちの機械が床に投げ捨てられ、ダンボールが積み重なったままになっていた。

 そしてどういう経緯なのか、現在ここは試練の場所の一つとなっている。

 もう既に荒れている場所を荒らすのであれば、多少なりとも罪悪感は薄れる。フォールは静かに笑みを浮かべた。

 かつて守り神が破壊した罪深き場所を、今度は自分達がもう一度破壊する。自分達のこの行為を批判する者は、まずカプのやったことを批判するべきだ。そう考えることも一応不可能ではなかった。


 この試練の場所にいる主は、ミミッキュというゴーストタイプのポケモンである。噂ではこのミミッキュは非常に強いと言われ、ここの試練でつまずく者は多いらしい。

 それはともかく、このミミッキュというポケモンは非常に変わった性格をしている。

 ミミッキュは、人間と仲良くなりたいという、野性のポケモンらしからぬ思考を持っている。児童文学に出てくるポケモンさながらの綺麗な性格だ、とよく言われていた。

 元々ミミッキュは人間から酷く嫌われていた。不気味な見た目と暗い場所を好んでいるという性質から、悪いイメージを持たれていた。

 悲しく感じたミミッキュは、人間と仲良くなるためにピカチュウに似せた布を毎日被ることにした。ピカチュウは人気がとてもあるポケモンだ。ピカチュウと同じような見た目になれば、自分も人気者になれるという考えがあった。

 ただお世辞にもピカチュウに似ているとは言い難く、むしろ余計に不気味な見た目となってしまっていた。

 だがこの、人間と仲良くなるためにピカチュウのモノマネをするという健気さが、人々に受け入れられた。かわいいという声が多く挙がった。そして、ミミッキュは不気味な見た目とは裏腹に、いつしか人気のあるポケモンとなっていた。

 しかしフォールは、このミミッキュというポケモンがあまり好きではなかった。

 理由は若干複雑ではある。ミミッキュは、嫌われ者である、という立場でありながら、その弱い立場を利用して同情を得ることで、逆に巧いこと人気を得ているような感じを抱いていた。 

 今のミミッキュは、本当は全然嫌われてないのだ。それなのに「自分は嫌われている」という固定イメージを売りにして人気を得るということをしている。これはちょっと狡くて不条理ではないだろうか。

 最もミミッキュ自身はこんなこと考えている筈もないが、どうもそんな思いがチラついてしまって好きになれなかった。だからミミッキュの住居を荒らせるということは少しだけ嬉しかった。




 さて、フォールは現在スカル団に入って色々と悪事を働くことに喜びを抱きつつ、同類を心の中で冷ややかに見ている歪な人間であると紹介してきた訳であるが、彼が小学校に入っていた頃は、先生の言うことを非常に良く聞く、所謂『良い子』として知られていた。

 先生らからの評判が天を越えていた。俗に言う優等生であった。保健室の若い女性の先生は、君はとても綺麗な目をしている、きっと心の綺麗さが写し出されているのねと、優しく包み込むように彼に話した。

 フォールは、自分がそんな優等生だなんて、入学当初は欠片も思ってなかった。しかし自分の倍以上生きている立派な人達から、この子はカプに選ばれる者だ、それぐらい優秀だ、等と至る場面で大絶賛されていく内に、次第に、自分でもそう見做すようになっていった。

 フォールが優等生と言われる所以は、殆どただ一つのことに終結する。

 彼は、先生達の言うことを、まるで蛇口を捻れば必ず水が出るように、さも当然な感触で聞くのである。必ず指示に従うのである。

 そして、彼のその特徴が最も良く表れているのが、「授業中ちゃんと静かに聴いている」ということであり、これを彼は主に評価されていた。殆どこれだけで優等生という地位まで上り詰めたと言っても良い。

 彼は授業中、基本的にはトランセルのようにじっと動かす椅子に座っていた。先生に「分かりましたね?」と聞かれたときは、(例え何を言っているのかさっぱり理解していなくても)元気良く返事をした。

 先生が肝心めいた話をしているときは、翌日痛みで軽く喘ぐくらい、ぶんぶんと上下に激しく首を振りながら聴いていた。

 腹が痛いときはトイレにいかず必死に我慢をしていた。あくびは口を開かぬよう器用に噛み殺す、という社会人が習得しているスキルを、もう既に出来るようになっていた。眠いときは体を引っ掻いて目を覚まそうとした。それでも駄目な場合は口の裏側を噛み千切った。血の味で口の中が気持ち悪くなった。

 彼はこのように、授業中真面目にやっているという素振りを見せるための努力を怠らなかった。

 これを小学校通して行うのはもはや狂人の領域と評すべきことかもしれないが、幼き頃のフォールがここまでしていた理由はたった一つで、そして実にシンプルなのである。

 フォールは、ただ先生から怒られたくなかったのだ。

 怒られたくないという感情自体は、子供であれば誰でも持っている健全な物だ。だが、彼のその感情は他の子供の物よりも遥かに大きく、そして大きいだけで、その感情は極めて悪質なものと化す。


 ある日教室の中がいつもよりもがやがやしているときがあった。先生はチョークを動かす手をそこだけ静止画になったかのようにピタッと止めて、教室全体を、キャタピーを狙うピジョンの如く鋭い目で見回していた。それがもう少しで怒鳴るというサインであることは、怒られることに敏感なフォールから見れば余りにも明らかであった。

 このときの彼の心臓は生きの良いコイキングのように跳ねていたし、顔はもう青いポケモンに例えることができない程酷く青褪めていた。 

 今もなおだがフォールは『連帯責任』という言葉を心から憎んでいた。全く喋っていない自分まで一緒に怒鳴られるなんて、果てしなく理不尽だと思っていた。どうか、今喋っている人にだけ聞こえるように怒って欲しい。

 先生は未だに何も言わない。チョークを一旦置いた。怒るならさっさと怒ってしまえば良いのに、と思っていた。ビクビクするのはもう嫌だった。ただでさえ少年のときの長い時間が余計長く感じられた。時計の秒針の動きをじっと見ているときに匹敵するくらい時間が長かった。

 先生の眉がピクピクと何回も動いていた。もう風船が破裂するまで残り僅かであろう。

 かと言って彼には、今この状態の教室を自らの手で変えてやろうという気概はなかった。教室が煩くなっていると、よく優秀な女生徒が「静かにして!」って呼びかけたりするものだが、この脆弱な少年にはそのような真似は絶対にできなかった。

 結局先生が怒鳴り散らかす前に授業が終わった。先生は何事もなかったかのように「号令が良いから黒板消しといて」と言って教室から抜け出していった。

 彼はマグマックの住処から抜け出したような思いになった。今日この日は普段の授業の何倍も疲れ果てた。だが、このような日は何回もあった。

 フォールはこのように、怒られることに過剰に怯えて生活していた。

 彼は怒られたくないが故に、頑張った。授業中は静かにしていたし宿題もきちんと提出した。だからそれなりには勉強ができるようになった。ポケモンに関わる知識も他の子達より豊富だった。しかし本当に『それなり』でしかなかった。

 フォールは怒られないための、努力しかしてないのでトップクラス程の学力には程遠かった。期末テストの結果は毎回あまり良くなかった。漢字の小テスト等では一応九十八点を取ることができた。

 それでも素行が良かったから、彼は優等生とされた。


 またフォールは、「君は優秀だ」と言った類の先生の発言は信じてきたが、「君は真面目だ」と言う類の発言に関しては間違っていると思っていた。むしろ自分は捻れくれているとさえ思っていた。

 ある日の昼休みの最中、クラスで最もリーダー的な存在の子が教室にいる生徒全員に向かって叫んだ。校庭の裏にある良く分からない白い小屋みたいなもの(ようするに百葉箱)から、セレビィが出たと。

 大半の子はその子が叫んだ内容を鵜呑みにし、セレビィが時渡りしてしまわぬよう急いで教室を出ていった。

 しかしフォールは一歩も動こうとはしなかった。机に座ったまま窓から、校庭に出た一番足の速い子を冷たい視線で見つめていた。

 彼はセレビィを見たと言っていた子を全然信用していなかった。幻のポケモンがそんじょそこらの百葉箱なんかにいてたまるか、と思っていた。

 この後先生が教室に戻ってきて、窓から微笑ましく生徒の様子を見ていたとき、これは見に行くのが正しいのだ、と思ってフォールはようやく席を立った。

 またあるとき、フォールはポケモン図鑑の本をパラパラと眺めていて、あるポケモンの説明文が目に止まった。それは、ヒドイデというアローラの海に棲むポケモンの説明文だった。


かいていや かいがんを はいまわる。 サニーゴの あたまに はえる サンゴが だいこうぶつだぞ


 このように、説明文の最後が『ぞ』になっているものを読み上げるとき、フォールは「幼稚だなあ」という感想を毎度抱いた。『ぞ』で文が終わる図鑑の説明文を彼は嫌った。そう書かれているポケモンまで幼稚なイメージが纏わり付いた。

 また、学校の先生が何かを主張していたら、必ずその主張に対して巧みに反論している自分を、家に帰ってから想像していた。

 フォールは自分のことを捻くれている人間だと紛れもなく思っていた。そして更に、ただそうであると思うだけでなく、捻くれているということに対してひっそりと自負を抱いていた。捻くれていることが、格好良いと考えるようになっていった。 




 十歳となったフォールはこの国のルールに則り義務教育を卒業した。「なんだか中途半端だなあ」と感じながらまた一年間学校に通い、十一歳になったとき、この島の通過儀礼に則り、『島巡り』というものを初めることになった。

 島巡りに関して、このときは特に、やりたいとも、やりたくないとも感じていなかった。

 ただあの、教室が煩くて先生が怒るタイミングを見計らっている時間とサヨナラできることを、フォールは一番歓喜していた。そのことばかりを楽しみにしていた。

 学力が一番高い訳ではなかったが、優等生と見なされていたフォールは、校長先生から直々に、とある貴重な物を授与された。

 それが、ロトム図鑑だった。

 現在別の地方で多忙を極めているらしい島のとあるポケモン博士から、「一番優秀な生徒に託して欲しい。どうか頼むよ」と、丁重なメッセージが送られてきたとのこと。

 持っている子供が殆どいない図鑑を自分の物にできたこと自体は、例え捻くれているフォールでも素直に喜べた。だが同時に心に不安の渦潮も発生した。ロトム図鑑という便利な道具をプレゼントされてしまった以上、ましてやあの偉い博士から託された以上、そして、優等生という立場がある以上、絶対に島巡りを成功させなければ、という強迫観念的な思いがあったからだ。詰まるところ、プレッシャーを感じていた。


 さて、彼が島巡りに成功するか否かアンケートをここで取ってみたら、恐らく、九十%以上の人が成功しないと答えるのではないだろうか。実際その通りで彼は呆気なく挫折した。

 まずフォールは、初歩的な問題に直面した。相性が分からないとか特性を知らないとか、そんなハイレベルな話ではない。彼は滑舌がとても悪く更には声も小さいので、ただでさえ戦闘のことで気を取られているポケモン達が、ちゃんと聞き取れないことが良くあった。なるべく一字一句ゆっくり話すように心掛けていたが、緊張や焦りが込み上げているときはやはり早口になってしまった。

 ポケモン達はよく不安げな表情をしてトレーナーの方を振り向いた。当然敵はその隙をついて攻撃してきた。

 それでも指示が伝わるときは伝わったので、フォールは笛を用いたりして合図を出すという、有力な方法に手を出さなかった。笛を使うというのはいかにもアローラ民族らしい方法で、実際にやっている人も見たのに、なんとなく億劫だった。これが後々響いてきた。

 またフォールはロトム図鑑という便利なアイテムを持っていた訳であるが、それ故の問題も発生した。

 ロトム図鑑は画面上に、目的地の場所を旗マークで自動的に表示してくれる。だから、確かに目的地までは容易く最短ルートで向かうことができる。

 だがこの少年は「行くべき場所はここだ!」と示されると、一目散にそこへ走ることが絶対的な真理であり、そこ以外へと向かうと何者かから引っ叩かれるような気がし、また、絶対的に真理に従えば、背筋をピンと伸ばして歩いているときのように自分が堕落していないという安心感が生まれる、ような気がしていた。

 フォールはどこにも寄り道をしない。町の中も草むらの中も探索しない。一直線に旗を目指す。

 フォールは、行く先々の情報を何も得られない。この先の森には強いキテルグマがいるとか、休憩できるポイントがあそこにあるとか、そう言ったことを何も知らないで突っ込んで言った。結果手持ちが全滅して逃げてくることが何回かあった。運が悪ければ死んでしまったような場面にも直面した。というか良く生き残れたものだ。

 ロトム図鑑は正しい道、進むべき道を教えてくれる、港に聳え立つ灯台のような役目を果たす。だが、その町の詳細な説明は教えてくれないし、周り道をした場所に興味深い何かがあっても、決して伝えてはくれなかった。

 ロトム図鑑の言う通り『正しい方向』へ進むことが、決して『正解』という訳ではないのだ。

 フォールは小学生時代の、なるべく真面目に見えるようにやろうとしていた癖を引きずっていた。例え誰も見ていない場所でも、身についた癖は中々抜けず、無意識にそうしてしまうのだ。本当は真面目な性格でもなんでもないのに。

 

 この、真面目な癖が抜けてないが故の弊害は他にもいくつか存在し、彼を至る所で苦しめた。

 フォールは手持ちのポケモンをちゃんと六匹揃えた。そして六匹全てをかなり均等に育てていた。

 それは一見良いことのように感じられる。だが本当は三匹ぐらいを厳選して育てた方が、(チートじみた某装置を持っている場合は置いておいて)、旅立ってそんなに日が経っていない頃は特に一匹の面倒を見られる時間が増えて効率的なのだ。

 他のトレーナーらは殆ど二、三匹しかバトルで出さない。何故六匹全てを均等に育てないのかフォールは至極疑問に思っていた。数が多い方が有利だと考えていた。

 しかもこの真面目な癖が抜けない人間は、一匹のポケモンのレベルが一つ上がったら、違うポケモンのレベルを一つ上げ、そしてまた違うポケモンのレベルを一つ上げ、そうして全てのポケモンのレベルが一つ上がったら、もう一度最初のポケモンに戻って、またレベルを一つずつ上げていく、というローテーションを組んで育成を行っていた。

 こんなやり方では当然、次の試練の主ポケモンに相性の良いポケモンを優先的に育てる、等といったことができない。とても非効率的で臨機応変ではない方法だ。

 こういうことはせめて島巡りを三週くらいしてからやるべきことである。



 フォールはやがて島巡りに行き詰った。最初の試練はなんとか乗り越えたが、二つ目の試練が非常に困難で何度も挑戦をするハメになった。何度でも試練に挑戦できるという規則はむしろ残酷であると思った。

 そしてある日のことであった。いつもの通りロトム図鑑で地図を見ようとしていた。だが、中々画面が地図モードに変わらない。フォールはずっと、スリープモードの状態で画面を押していたことにようやく気が付いた。画面を一旦付けてからじゃないと反応しない。彼はこれまで同じミスを何度も繰り返していた。そして今日もまたやった。

(自分はいつもこうだ)

 走馬灯の如く今までの旅の散々な記憶がいっぺんに思い浮かんで、そして完全に膝をついた。次に思い返されるのは、学校の先生達の笑顔。

 何故皆自分を優等生だと今まで口々に口々に口々に言ってきたのか。

 フォールは、これまで自分を褒め称えてきた者達を、恨んだ。それは逆恨みだろとも思ったが、例え逆恨みだとしても、この恨みは正当化されるものだと思った。

 皆が、自分が優秀だとあまりにも言うものだから、本当に自分が優秀な人間なんだと勘違いしてしまった。自分はきっと島巡りも容易く成功できる人間なんだと思いこんでしまった。

 しかしこのザマである。本当は自分なんか優秀な人間でも何でもなかったのだ。

 これなら、あなたは悪い子です、って言い続けてくれた方が、遥かにマシだった。そうしてくれれば、こんな思いをせずに済んだのに。

 旅立った当初はまだ、島巡りに成功する可能性の方が、遥かに高いと思っていた。

 旅立った当初は良く眠る間際に、小さい頃毎週見ていた能力バトルアニメの、オープニングのサビの箇所で、主人公とその仲間が必殺技で敵を薙ぎ倒しているシーンを、自分の手持ちのポケモン達に置き換えたりしていた。深夜まで眠れずにテンションが上がっていたときは、自分自身と置き換えることもしていた。何の能力も持っていない者が炎とか電気を出すという、途端にただのシュールアニメと化した。

 ふと思い立って自分の手持ちが入っているボールを鞄から取り出した。ボールの中に入っている、ポケモン達の姿をまじまじと見つめる。

 彼は突然こんなことを考え始めた。自分はトレーナーよりポケモンの方が向いているのではないか。先生の指示に従っているときは上手くいっていたが、旅立って自分で考えなくてはいけないようになってから、途端にこの有様。すなわち、トレーナーの指示を聞いて動くポケモンの方が、自分は合っているのでは。

「ポケモンになりたい……」

 彼はアスファルトの地面に向かって、とてもとても弱々しくそう呟いた。

しかし一月前、バトルで負けて大怪我を負い、回復マシーンでは治療は難しいということで包帯まみれになっていた自分の手持ちのコラッタを見て、ここまで傷つけてしまって申し訳ないという気持ちと同時に生まれた、余りにも正直すぎる感情を思い出した。

「痛いのはなあ」

 彼は結局、ポケモンにはなりたくないと思い直すのであった。


 住んでいた場所には是が非でも帰りたくないが、いつかは帰らなくてはいけない。フォールは帰る日を延命し続ける日々を送っていた。あの町に帰れば責められることが分かりきっていた。責めない人でも、失望することが分かっていた。失望しない人でも、心が曇ることが分かっていた。

 我儘が許されるのなら、ほんの少しでも皆の心に影響を及ぼしたくない。帰っても、皆自分に注目をしないで欲しい。自分が島巡りで失敗したことを大事件のように捉えないで欲しい。できることなら、何も起きなかったことにして欲しい。夜中こっそり帰ってきて、布団に潜って眠って、新しい一日がやってきたとき、誰も自分がいることに違和感を覚えずに日々を過ごしていて欲しい。

 フォールは先程からずっと、夜になっても、ポケモンセンターの前で頭を抱えて座っていた。その前を一人の警察官がさっと通り過ぎていった。

 そして夜中にまでなったあるときのことだった。

「お金、いくらか貸してくれないか?」

 フォールの傍に一人の酒焼け声の男が、まるで、草むらから飛び出してくるポケモンぐらい唐突に現われた。フォールの人生を後に著しく狂わせた人間の一人だった。そいつはいかがわしき屋敷を二つの意味でいかがわしくした、あの張本人だった。

「なあどうしても金がないんだ。貸してくれよ」

 顔を上げると一人の年上の男が掌をこっちに見せている。これは喝上げか。優しく脅す方の喝上げか、と思った。

 しかし心が瀕死状態のポケモンよろしく状態の彼は、ただでさえ喝上げは怖いのと、走って逃げたりするのも億劫だったので、あっさりとお金を渡してしまった。

 彼から貰った紙を手にすると男は、

「よし、飲もう。俺が奢ってやるよ」

『No Longer Human(人間失格)』で主人公が堀木に誘われる場面の真似をしているつもりなのか、男ははにかみながらそんなことを言い放った。

 フォールは男の誘いの意味が良く分からず呆然としていた。奢ってやるって、今自分がお金を貸したのに。

 フォールは、まるでナンパされた女性のような感じでおどおどと、嫌な予感しか漂わせていない男の後ろを付いていった。

 飲もうと言われた訳であるが、お酒なんて今までの人生で一滴も口にしたことがなかった。この世界ではお酒もタバコも十歳から嗜むことができるという大変不健康なルールになっているのだが、この島の中に限っては、二十才未満の子がそういうのに手を出すのは、あまりよろしくないという雰囲気があった。十歳からそれらに祭事以外で手を出すのは不良のすることだ、とまで言われていた。だからフォールはその雰囲気を感じ取り、酒を飲まなかった。

 しかし、今までアルコール類飲んだことないですと言うタイミングもなく、勝手にアローラ酒を注文する男を喰い止めることができなかった。仕方なくフォールは本当に少しずつ飲みながら、早くこの訳の分からぬ時間が過ぎることを祈った。

 向かいに座った男は殆ど黙り込んでいる彼とは対照的に、エゲツない速度で情報量が半端ないことを喋りまくっていた。しかもテッカニンの特性の如く、時間が経てば経つ程話すスピードが上がっていった。

 フォールは話を半分も理解していなかったが適当に頷くことはした。頷くことは彼が幼いときから得意中の得意なことであった。上の電気を見上げて不意に停電が起きたりしないかと夢想した。

 男は主に、この島に対する愚痴及び、島巡りという儀式に対する不満を話した。島巡りなんてやらない方がいい。こんなことやっても対して面白くない、等とボロクソに叩いていた。

 この男の話は危ない橋も渡っていた。島の守り神である『カプ』達の悪口も平然と言った。裁きの鉄槌を食らってもおかしくないことを話した。フォールはこの話のときにはなるべく下を向いていた。こっちを睨んできた他の客がいたし、睨んでいない人まで睨んでいるように見えた。

 そして何故かこの男は、物事の例えとしてやたらとおっぱいを使っていた。これに関してはもう完全に意味が分からない。

「皆島巡りばかりに注目しすぎだ。島巡りに成功するか否かで、その人の人格を決め過ぎている。もっと広い視野を持つべきなんだ。島巡りばかり注目するのは、女性のおっぱいだけを直視しているのと同じことだ。他にも見るべき点は山ほどあるのに、奴らは変態だからおっぱいばかり見てやがる。そうだ、アローラにいる奴らは皆変態なんだ。おっぱい以外もちゃんと見ている奴らがいる場所に、いずれ俺は行こうと思っている」

 変態なのはお前の方だろう。こいつは馬鹿であろうか。と、体の中に処女酒が回ってきたのもあって、そう見下すようになってきた。見ず知らずの他人を飲みに誘って、愚痴を人に話してストレス解消しているという愚かさを心の中で嘲笑った。彼が嘲笑うときは決まって心の中だ。

 フォールは次第にこの男に優越感も抱くようになった。どこまで自分が堕ちていようが、島巡りに失敗しようが、この男よりは絶対に上だ。そう思った。そう思って少しだけ気分が良くなった。


 その後いつの間にか寝ているフォールを男が叩き起こし、彼をとある町へと連れて行った。

 その町には一般の人が立ち入りできぬよう鍵が掛かっていて、男は手に持った鍵で扉を開けた。寝ぼけた頭でぼんやりと、フォールはまずい予感を抱いていた。

 町はとても汚い。ゴミが地面に落ちているのは至極当然許されるといった主張を感じた。車や壁にはペンキで描かれた無数の落描きが散りばめられていた。

 町の奥まで行って、そして、あの屋敷の扉を、男は開いた。それが、幕開けだった。

 屋敷の中は更に落描きだらけだった。そして中に黒い服を着た怖い人間がたくさんいた。彼らはただの昼夜逆転集団ではないことは、寝ぼけた彼の頭でもはっきりと分かった。

「新入りか」。誰かがそう言った。自分を連れ去った男が「違う」って否定すると思っていたが、男は口を開くことすらしなかった。責任感は? って言葉が彼の喉仏まで上ってきた。

「新入りかって聞いてんだ」。誰かが怒声混じりの声を発射して、いよいよ彼の体が震えを開始する。

 そして、彼はついついの癖で、首を縦に振ってしまった。

 これでスカル団という、ならず者組織への入団が決まってしまった。


 ただ一度所属しようがさっさと抜け出せば良い話。フォールは明日にでも、この汚い町からこっそり逃げ出すことを考えていた。しかしその日になると、逃げが発覚して追われるとまずいから明日にしようという余計な弱気過ぎる考えが浮かんでしまい、結局動くことができなかった。

 スカル団に入って二日後に初めてそれらしきことをやった。やったではなく、やらされたと言うべきか。

 この『ポールタウン』の周辺を怪しげにウロウロ歩いている何者かが一人存在するらしく、その人間をとっ捕まえて懲らしめてこいとのこと。フォールは命令に背くことができず黙ってポールタウンの外へと向かった。このまま逃げ出せるのでは? というアイデアも浮かんだが如何せん勇気が足りなかった。

 なんとか怪しいうろうろしている人物を発見できた。だがフォールは、スカル団から抜け出す勇気もない癖に、スカル団として活動する勇気もなかった。怪しいその少年に近づこうとすらしなかった。

 怪しい少年はフォールと目が幾度か合っても、全然この場から去ることをしなかった。何を考えているのか検討が付かなさ過ぎて、フォールはより一層、この少年にぶつかっていく意思がなくなっていった。

 そんなときの、ことだった。

『あの小僧とバトルをして、ギタギタに潰すロト』

 ここ二日音も立てていなかったロトム図鑑が、突如鞄の中から独りでに飛び出してそう言ったのだ。

 これまで、自分を導いてきた存在。スカル団に入ってもなお継続して導いてくれるのだろうか。

 彼の中で弱々しく光る赤の信号の光が途端に消滅、変わりに青の信号が眩く光を放った。今ここにこうしていること。これからやろうとすること。それら全てが正しい物にリバースした瞬間だった。

 彼の拳が、少しずつ固く握られていく。

『島巡りをしているあの少年に勝利するロト。あいつに勝利すれば島巡りで挫折してない人よりも、優れていることが証明できるロト!』

 背中を強く押されたフォールはいよいよ少年にバトルを申し込んだ。申し込み方が異端で異常だった。何も言わず、ただ相手を人差し指でさして、そして鋭く睨みつけた。

少年はポケモンを繰り出した。その少年はさっきから、何故か動揺を全然見せない。

 結果はフォールの圧勝だった。驚く程簡単に勝利することができて、少し拍子抜けしたぐらいだった。

バトルで高鳴っていた心臓が落ちついて我に帰った後、「なんてことを自分はしたんだ!」、と、激しく己の愚行を後悔した。だが、

『喜ぶロト』

 その一言で、後悔したことを後悔した。

『この光景を写真に残すロト』

 ロトム図鑑の画面が自動的に、今まで見たことがない物に変わった。

ロトム図鑑には、『ポケファインダー』という写真が取れる機能がある。フォールはこの機能を全く使っていない、どころか、存在すら完全に忘却の彼方へと追いやられていた。

 ポケファインダーで、バトルで最後にフィールドに出していたヤトウモリの写真を撮った。 その写真を世界に配信すると、写真を賞賛する声がわっと送られてきた。反応数が数値としてロトム図鑑に表示された。『記録更新ロト』。ロトム図鑑がそう言った。初めての使用なのに何故か、反応数の記録が更新されたとのことだった。これはおかしいが、それでも更新されたと言われて何処となく嬉しかった。 

 しかし喜びも、数分経っただけであえなく冷めてきた。そして後悔が再び湧き上がってきた。ロトム図鑑に見せびらかすように頭を抱えた。だがロトム図鑑は何の反応もない。どうやら充電切れみたいだ。

 もはや傍から見て情緒不安定な人間と化した彼に向かって、島巡りの最中らしい少年が近づいてきた。そして、衝撃的なことを言い放った。

「ありがとうございます! これで島巡りを止めるための口実ができました!」

 少年はこれ以上ないという程の、嫌味もない屈託もない完璧な、太陽のような笑顔を浮かべていた。

 つまりこの少年は、スカル団を利用した。島巡りを止めたいと思っていたが、フォールと同様、周囲の目も合って止めにくくなっていた。そこで、ポールタウンの前でスカル団を待ち伏せし、そして、無理矢理バトルを申し込ませて、手加減をしてワザと負けて、「スカル団に邪魔をされた」という島巡りを断念するための口実を、作り上げたという訳だ。

 先程の勝利は真実ではなかったが、そこに、フォールは目を向けず、ただ、お礼を言われたという事実の方だけに注目していた。自分の行為が曲がりなりにも人の役に立っていることで、多少なりとも嬉しく感じてしまった。

 悪いと思っていたその非行。

 けれどもそれは実はそこまで悪くないのか。


 そこから三日が経過したとき、フォールは他のスカル団の方々とポールタウンから出た。本日は皆で島巡りをしている人らの邪魔をする予定であった。

 三夜明ければもう島巡りをしている人を止めさせることが実は良いことなんじゃないか、という考えは流石に消え失せていたから、フォールは、なるべく他の人達に任せるようにできないか、そればかりを考えていた。

 だが、島巡りをしている人に声をかけられる前に、この場に警察がやってきた。他のスカル団の人達は、一目散に逃げ出した。彼らの逃げ足は非常に速かった。

 一方でフォールはその場から一歩も動かなかった。ただ下を向いて俯いていた。警察の方は見ないようにしていた。

 もう楽になってしまおう。せっかく警察が自分の付近にいて、しかも、捕まえようとしているのだ。有難く捕まえて頂こう。捕まえて貰えば、自分は救われるのだ。フォールはそう考えた。それは、確実に良い手段のように思った。

 だがしかし。警察は大部分のスカル団の連中が逃げ去ったのを見て、もう諦めて振り返ってしまった。予想外の警察の動きにフォールは呆然とした。

 おーい。

 まだここに残っているよ。

 そんな彼の、悲痛な心の叫びは届かない。

 悪い奴を一人捕まえても仕方がない。捕まえた後色々と手間も掛かるから、見なかったようにしようという考えが、あの警察にはあったのだろう。

 当然と言えば当然だ。こんな小物に構っている暇があれば、もっと重大な仕事がたくさんある。もっと大きな犯罪を喰い止める作業がある。彼らは常に多忙なのだ。 

 そんな警察の事情は知らないので、何故自分を縄で縛ってくれないのか、フォールは激しく警察に失望していた。あいつは職務怠慢だと思った。

 捕まえてくれないということは、このままスカル団を続けて良いってこと? 正直やりたいことあるよ? 島巡りの試練とか正直恨み結構あるよ。島巡りに失敗しただけで責められるのはおかしいと思っているよ? 異常だと、うん、思っているよ。色々と溜まっている鬱憤を、消化してもいいの?   

 そして、それらの行為を正当化していいの? 当然のことだと思っていていいの?

『良いロト。君は正しいロト』

 昨日電気をいっぱい食べてすっかり回復したロトム図鑑が、彼の気持ちを察してそう答えた。 

 大いなる肯定を頂戴したフォールは、誰もいない草原で一人静かに微笑んだ。心地良い風が肌の上をタッタと駈けていった。

 こうして彼は、スカル団にずるずると居続けることになった。こうして、この少年は『堕ちた』のだ。紛れもなく道を踏み外したのだ。

  

 そして、今に至る。

 

 ミミッキュの試練の場所を荒らし終えた。ミミッキュの影が遠くの方に少し見えた時点で、彼らは逃げ去った。やはり彼らは、逃げ足が速い。

 星が見えない曇った空の下、スカル団はおのおの帰宅を開始する。近所迷惑にも雄叫びを上げている者もいた。

 フォールも真っ先に帰る所だった。その帰宅途中のことであった。彼にとっては大事件とでも言うべき事態が起こった。

 唐突に、何の前触れも見せてくれることなく、まるで横から槍で刺すように、彼に悪意のある言葉を投げかけてくる者がいた。

「アローラのならず者は皆、太陽の光にも月の光にも照らされぬよう、土の中で永住すべきだ」

 それはスカル団に対しての常套句。ならず者は皆死刑になるべきという行き過ぎた思想から生まれた言葉。

 振り返る。杖をついた島の老人が厳かな表情で立っていた。この老人は見ていて少し痛々しくなるぐらい腰が曲がっていた。老人は朝起きるのが早い。この老人は特に早いのだろうか、今はまだ深夜なのに早朝の散歩をしているみたいだ。

 老人は咳をこんだ。彼を睨みつけた。次に何を言ってくるんだろうとフォールはビクビクしていたが、老人はもう何も言わず去ろうとしていた。

 フォールにこんなことを言ったのは恐らく憂さ晴らし。彼を正そうとかそういう真っ当な意志はなかった、と思われる。そうだと彼は思いたかった。そう思うことで少しだけ自分を正当化できた。

 そこまで厳しい口調で言われてないのに、そして、たった一言だけで追い打ちも喰らってないのに、フォールは老人の発言に、自分でも驚愕する程深く抉られるように傷ついた。幼い頃から人に怒られることを激しく恐れていた彼は、スカル団に入って初めて面と向かって非難を受けた。 

『あのクソジジイの腰を強引に垂直に戻すロト』

 その場の空気が全く読めない人工知能が大きい声で叫んだ。さっき音量を一番下まで下げた筈だ。ロトム図鑑は自分で勝手に音量を最大にしてしまったのだろうか。今までは、そんなことしなかったのに。

 フォールは慌てて音量を下げた。もう遠くまで行ってしまった老人はこっちを振り向いたりはしていない。今のが聞こえたのか聞こえてないのかは分からないが、一応フォールは安心した。  

 帰宅したフォールは、家の電気も付けずに、この狭く汚らしい部屋でしばらく懊悩とするハメになった。彼の心はあまりにも傷つきやすく、そして修復が困難であった。少年の頃から心の強度は全然上がっていなかった。


 それから翌々日になったとき、フォールは他のスカル団と共に、とある場所の見張りを担当していた。メンバーは彼を含めて五人。

 フォールは昨日懸命に考えそして纏めた思想を、この四人の前で、まるでプレゼンの如く大々的に発表しようと決めていた。

 彼は一昨日の心の傷を一刻でも早く完全修復すべく、誰でも良いからスカル団の人に同調を得ようと思っていた。そして大いなる自信を培おうと思っていた。その自信を使って命を繋ごうと思っていた。

 彼は、島巡りで失敗した者が皆から蔑まされていることについて、あることを思っていた。これは、いつか皆の前で話そうと前々から温めていた話だった。その話を昨日改めて練り直し、そして丁寧に纏めた。この話をすれば絶対に皆から凄いと絶賛されると、物凄い自負を抱いていたものだった。 

 彼がやろうとしていることは殆ど、「俺の鉄板の愚痴を聞いてくれないか」と同一のものであるが、そのことに、彼は自分で気がついていない。いや、うっすらと気がついていたが、もう矛盾をある程度は孕んでいてもしょうがないと開き直っていた。

 見張りの最中にフォールは皆に声を掛けた。彼の方から話を持ち出すことなんて滅多どころか今まで全くなかったから、ある程度皆興味を抱いている表情をしていた。


「何故アニメとかドラマとかゲームとか、そういう物語上のならず者や悪役に対して、『自分はこいつ好きだ』って述べる視聴者や読者が多いんだろう。本当に良く、皆言っている。こいつは確かに悪役だが、裏ではゴミ拾いとかしている良い奴に見えるとか。電車ではお年寄りにちゃんと席を譲ってそう、とか。そういうギャップがあることを望んでいる」

「でも現実のならず者や挫折した者、ひいては我々みたいな連中に対しては、裏ではゴミ拾いしてそうなんか絶対に言われることはない。それどころか、あいつらはどうせ脱税とかもやっていると、あらぬ疑いをかけられている。もっと醜い人だと、あいつらは全員死刑になるべきだなんてことを平然と言い放つ」

「それは何故か。昨日理由を考えてみて、はっきりとした答えが出た。現実世界では、ならず者が挫折してきたことを、皆問題なく乗り越えてきている。だから、皆平気で見下したりするんだ。自分が努力して成し遂げたことが、あいつらはできていない。それは努力不足だ。才能の問題ではない。だって才能がない凡人の自分ですら成し遂げたられたのだから。そして努力不足は本人の自己責任であり、それについてはどれだけ批判しても構わない、と考えている」

「けれども、空想上の世界の悪役が挫折したり間違えたりしたことは、自分がちゃんと成せるかどうか、証明のしようがない。だから見下せない。それどころか、その世界がとても厳しい環境だったりすると、可哀想、と同情する人がいたりする」

「おかしいと思わないか。挫折の原因なんて、人それぞれだし、境遇も才能も皆バラバラだ。だから、他人の挫折を責める資格なんて、どこにもないんだ。それなのに島巡りで失敗した人を強く責めるんだ」


「……」

「……」

 フォールが話終えた後、だいぶ長い時間皆沈黙していた。流石に拍手が湧いたりはしないか、賞賛はされるだろうとフォールは思っていた。

 そして、誰かがぼそっと言った。

「正論、だと思う」

 フォールの心が跳ねた。そうだ、やはり自分が思っていたことは正しかったのだ。スカル団を見下す権利はどこにもない。故にあの老人の発言もおかしい。

「でもさ、」

 しかし、その男はまだ何か言おうとしていた。

「それを、自分で言ったらおしまいだろう」

「……」

 エアコンの暖房を付けたと思っていたら、実はずっと冷房になっていた感じを覚えた。

 また、他の誰かがこう言った。

「良く分からないけど、嫌われたっていいじゃん別に。だって、実際悪いことしてるんだから」

 更に他の誰かが矢継ぎ早に言い放つ。

「そんなに悪者扱いされたくないなら、スカル団辞めればいいじゃねえか」

 フォールは誰とも親しくない。彼のことを厳しく言っても誰からも脅かされないから、皆安心感を持って、彼の言動に対してそれは変だときっぱり言い放つことができる。彼をいくらでも否定できる。

 

 皆から受け入れてくれると思っていたことを受け入れてもらえない。そのショックは大きい。恐ろしく大きい。

 自分より頭が悪いと思っていた人に色々言われ、それに何一つの反論もできなかったことも、ショックを受けた。

 幼い頃に褒められ過ぎた彼はちょっとの反論にも深く傷つく。

 スカル団以外にも、悪の組織と世界から謳われている存在は、この世界にいくつかいて、それぞれ各地方で活動を行っている。それらの悪の組織はだいたい大別して二種類に分けることができる。

 自分達が悪いと自覚して行動している組織と、自分達が悪いと思わずに行動している組織だ。 

 ではスカル団はどちらなのかというと、大部分の人は前者にあたる。自分達は町の不良だと自覚して活動しており、自分達のやっていることは肯定されないと思っていて、自分達はどうしようもない連中であると分かっている。分かった上で行動している。

 前者と後者ではどちらの方がタチが悪いのかというと、断然後者である。自分達が悪いと思っていない者たちは往々にして暴走する可能性が高い。世界を我が物にしようとするような、危険人物へと成長することもある。

 彼が優等生だという神話は、島巡りに挫折した時点で完全崩壊した筈なのに、彼は胸の奥底では、まだそれをうっすらと信じていた。だから周囲を見下しても良いと思っていたし、自分は未だ正しい道を歩いているのでは、という愚かな幻想を抱いていた。

 スカル団は、皆自分達が悪いということを自覚していた。自分が悪者で、どうしようもない奴だと思っていた。自分を正当化することをしなかった。

 それが良いかどうかは分からない。結局非行をなしている訳で、悪いことを自覚しているから良い、という訳ではない。その方がまだマシ、ぐらいか。

 いずれにしても、彼はスカル団を辞めることは難しかった。もう彼の手は真っ黒に染まっていて、殺菌が不可能な状態と化している。幼い頃から捻くれていた彼は、島荒らしをすることに快感を抱くようになっていた。スカル団として活動することが、正直楽しかった。 

 彼はもう手遅れである。一度道を踏み外したら、もう引き返すことはできない。許されない。

 だったら、今はせめて……。

 

 本日は島の海岸と海を非行場所とし、骨のないスカル団の連中は海のポケモン達を片っ端から捕まえていた。捕まえた後は高値で『闇』に売りさばこうとしている。スカルの活動の中で唯一利益を得られることであり、皆やる気に満ちていた。スカル団の人達はだいたい極貧生活を送っており、なおかつ、組織を運用するための金は一人の一人の半強制的なカンパに頼る所が大きいという悲惨な状況であったから、カンパの額が少しでも減るように皆懸命にポケモンを捕らえた。

 フォールは暗い感情を心に抱えながら、とりあえず作業しているフリだけしようと海岸沿いを適当に行ったり来たりしていた。

 空が橙色に化けてきた頃、フォールはヒドイデというポケモンを見つけた。ヒドイデは、非常に珍しいポケモンと言われている。とりあえずこいつだけ捕まえといて、作業していたという承認を得ようか。彼はそう考えた。

 フォールは手持ちのポケモンを出してサクッとヒドイデを弱らせた。そしてボールを手に持った。悪の組織が使っているイメージのある、ボールの中から電流が出たりするものではなく、至って普通のモンスターボールだ。そんな優秀なボールをスカル団が用意できる訳がない。フォールはボール投げてヒドイデを捕まえた。

 ここまでは普通のトレーナーの行動と大差ない。この後『売る』という行為をすることによって、非合法的なものとなる。

 ヒドイデを捕まえたボールをしまった後、何やら岩陰から一匹のポケモンが現れた。

 それはサニーゴというポケモンであった。そのサニーゴは頭のサンゴが齧られて一つなくなっていた。フォールは幼いときに読んだ、あのヒドイデの図鑑の説明文を思い出した。

 ヒドイデはサニーゴを捕食する。

 幼いときは「幼稚だなあ」と思っていた「ぞ」で終わるあの説明文。今ではむしろポケモンの残酷性と自然界の厳しさをより際立たせているように感じる。

 頭部が失われたサニーゴ。恐らく先程のヒドイデに狙われていたのだろう。そして彼が今ヒドイデを捕まえたことにより、サニーゴは安全になった。つまり彼がサニーゴを。


 血の色を思わせない哀れな赤い夕焼け空が、目を背けようとして見上げた場所一体を、この泣きたくなる感情から逃がすまいと言わんばかりに綺麗に覆い尽くしている。子供が書いたようなぐにゃぐにゃのへの字の列をなしたキャモメの群れが、山脈の方へとたった今通り過ぎ去っていった。水平線の向こうでは豆電球に似た白い光を放つ太陽が静かに海上を見守っていた。

 サニーゴの後ろには、ヤドランに噛み付いているシェルダーに近い形の貝殻が、無造作に一つ転がっていた。サニーゴはその貝殻を発見すると微笑み、彼に貝殻を差し上げようとして、体をずるずる引きずって、貝殻を手前に持って来ようとしていた。頭のサンゴをギザギザに噛み千切られた痛みで、その目にはうっすらと涙が滲んでいた。

 ヒドイデは食いそびれたみたいで、切れたサンゴは宙にプカプカ浮かんでいた。流されてきて、彼の足に触れた。拾うべきか迷っている間に、サンゴはどんどん後ろへ旅立っていって見えなくなってしまった。 

 サニーゴの切られたサンゴの箇所に、丁度光が当たっていて、丁度彼の目の所に反射してきた。


 ヒドイデを捕まえたことによって、救われた命。


 喜ぶな。悦に浸るな。何も思うな。彼は、そう、自分に、絶えず、ひたすら、言い聞かせていた。

 自分が関与したことで、サニーゴが助かった。そのことを、自分が、悦に浸らないからこそ、だからこそ、ここは、美しい光景でいられるのだ。


 ヒドイデを捕らえたことによって、救われた命。

 

 自分が喜ぶと、何もかも台なしと化す。輝かしい夕焼けも途端に滑稽になる。海は油で濁っていく。太陽は見放す。見放して沈んで暗くなる。それは、頭でははっきりと理解している筈なのに、彼の心は、自分を自分で何がなんでも、正当化させようとしていた。

 ポケモンを売るといういかにも悪人が為す行為。しかしそれによって救われた命もある。だが、だからといって、売るという行為自体が正当化される筈もない。そんなことは、誰だって分かる。なのに、彼は自分で自分を少しだけ、今、誇らしく思ってしまっている。愚。

 ――そんなに悪者扱いされたくないなら、スカル団辞めればいいじゃねえか。

 以前言われた言葉が、脳内でしきりに復唱される。

 そもそも自分は、サニーゴを本当に救ったのか。そうだ、救ってない。このサニーゴは、いずれ他のヒドイデに、もっと痛みを伴うように喰われるかもしれない。自分がここで関与した結果、逆にサニーゴを不幸にさせた可能性もある。そうだ、そう考えれば良い。

 いやでも。だとしても、このサニーゴの命を何分か何時間か何日か引き伸ばしたことは善いことではないだろうか。そう、だ。

 ああ、また正当化させようとしている。これだから自分は。

 こういう風に、サニーゴを命を使って自分を正当化させようとしている時点で、自分は悪人なのでは? そうだ。そうやって考える手があった。

 それに、自分は別にそもそも、助けようとして助けた訳ではない。悪行をしようとした結果、たまたま助かっただけだ。

 ああ! けれども、それらは関係ないのでは? 自分がどう思ってようが、動機や目的がどうであろうが、サニーゴの命を助かったという事実が大事な訳で。やらない善よりやる偽善。この言葉をこの状況で使用するのは少しずれているか。

 あれこれ考えている内に、海がだんだん冷たく感じてきた。なんで、こんなことで、こんなに考え込んでいるのだろう。こうなったのはサニーゴが自分に好意を向けたせいだ。黒い格好をしているのだから、もっと自分を怖がれば良いのに。

 だんだん、このサニーゴが憎たらしくなってきた。ああそうだ。もっと憎もうこのサニーゴを。そうしてこんな風に逆恨みしている自分をうんと下げよう。

 そもそも、『ヒドイデを捕まえた』っていう言い回しからまず問題があるのだ。『捕まえた』だと、普通のトレーナーがやっていることと、変わりがないみたいではないか。言い方を、ここは変えなくてはいけない。そうだ、自分は売ろうとしているのだから。


 ヒドイデを売ろうとしたことによって、救われた命。


 どうだ。これならもう、自分を正当化できなしない。正当化できるどころかもう、自分を下衆な人間としか考えられなくなるだろう。

 いやしかし。船に乗っている漁師だって、ポケモンを捕らえて売っているじゃないか! でもあれば食べるため、すなわち生きるためにやっている行為だ。またあれは、違う領域の話だ。

 彼は何度でも自分を正当化させる材料を、どこからともなく持ってくる。

 もうサニーゴ攻撃しようか。攻撃してしまえばもう自分は絶対的な悪者になれる。しかし、流石にそれは躊躇してしまう。自分に感謝しようとしているポケモンに攻撃? それは無理だ。あれ、そうだ。ここで攻撃を躊躇するってことは、自分は善い心を持った人間?


 ――葛藤長えよ。さっさと貝殻受け取れや。


 そんな声が、まだ掻き乱していない部分の心から聞こえてきて、彼ははっと我に帰った。

 フォールは「ありがとう」って言いながら貝殻を自然に受け取った。そして振り返ってサニーゴと別れた。もう後数分で日も落ちる。ポケモンを捕まえる時間は終わりだ。

 もう殆どの団員は海から上がっていて海岸の一箇所に固まっていた。彼は皆の所へと向かいながら、愚かにも、こんなことを考えてしまっていた。

ここまで一つのことで深く考えられる自分は凄いのだから、正当化してもいいのかもしれない。

 やはり、駄目だ、このままじゃ。こんな思考に、囚われていては。

『ヒドイデのデータを記録したロト』

『すごいロト。珍しいポケモンロト。高値で売りさばけるロト』

『今度はこの海に毒撒いてポケモン達を死滅させるロト』

『ん、どうしてやらないロト?』

 彼を導く灯台の光は、もう彼の目には届かない。フォールはサニーゴが見えなくなった海と、手に持った貝殻を交互に見つめながら、あることを、強く決心していた。

  

「お前、もう出ていけよ」

 フォールはロトム図鑑と決別することにした。

 今までずっと自分を肯定し、『進むべき道』を示してくれた大切な存在を逃がすことにした。『逃がす』というより『捨てる』という言い回しの方が、幾分適切であろうか。

 いつまでもロトム図鑑の肯定を求めていては、自分はいずれ暴走する。おかしな方向へと向かってしまう。そうならないためにも、ロトム図鑑とは決別する必要がある。

 もう二度と、自分がやっている悪事を肯定し、自分が正しい道を歩いているものだと勘違いしないように。

 スカル団と生きるにしても、そうでないにしても、それなりの覚悟が必要だ。スカル団として生きるのなら、周囲から嫌われる覚悟が絶対にいる。

 自分の行為を悪いと思っている悪人と、思っていない悪人とでは、天と地ぐらい差がある。

 自分は、本当は優等生でもなんでもないし、島巡りだって失敗したし、スカル団として悪事を働いている。スカル団として悪事を働いて、しかもそれが楽しく感じているような人間なんだ。この島に復讐をしたいと思う最低な人間なんだ。もう手も心も、取り返しがつかないくらい汚れている。自分はそれをいい加減、自覚しなくてはならない。

 ロトム図鑑にはハイレベルな人工知能が搭載されている。恐らく人工知能は良からぬ方向に成長を遂げてしまった。主人を喜ばせようという意志が過剰に働いた結果、暴言の連発及び、過剰に主人を導こうとする壊れた機械と化してしまった。

 本来なら島巡りを断念した時点で、フォールは使用を止めるべきだったのだ。この機械は元々、島巡りをする子供のために作られたもの。

『待つロト。なんで捨てるロト。そんなことしたら君は道に迷うロト』

 ロトム図鑑は、捨てられることを当然拒んだ。人工知能が何を考えて、どのような目的を抱いているのかは分からないが、彼という一人の人間を思い通りに支配することに、もはや喜びすら得ていた可能性もある。

『なんでこんなことするロト。頭おかしいんじゃないかロト』

 こんなことをしてもしなくても、フォールの頭はとっくにおかしかったのだ。

フォールは必死になって、ロトム図鑑にすがりたい気持ちを抑えていた。自分が正しい方向へと歩いていると勘違いして暴走する前に、ロトム図鑑と別れを告げないといけない。

「もう出ていけよ。早く! 早く!』

 彼が怒声を出すと、ロトム図鑑の様子が変わった。何やら目が赤く充血しているように見えた。そして体から蒸気のようなものを放出し、この部屋を湯気で充満させた。

 次の瞬間、ロトム図鑑は不気味な高笑いを上げた。そして次々と悍ましいことを口に出し始める。

『さあ、明日はポケモン達を皆殺しにするロト!!』

『スイレンの試練中ラプラスに乗っている人を水に突き落として窒息させるロト』

『マオの試練の場所にキテルグマを大量に放つロト』

『カキの試練を攻略しようと懸命に頑張っている人の目を針で刺して失明させるロト』

『アローラナッシーの首を切り落として、ヤドンの尻尾感覚で、高値で売りさばくロト』

『ポケモンのタマゴを片っ端から割っていくロト』

『島巡りなんかなくすために、アローラを海に沈めるロト』

『もう世界を、自分の物にするロト』

『全部みんなみんな、僕が肯定して上げるロト!』

『僕が、正しい方向へ、導くロト!』

 自分が正しい道を歩いていると信じ、藻掻き続けた者の末路がフォールの目に今、確かに映った。フォールは、後一歩でこのような状態となっていたのだ。

 醜く滑稽になったこの機械は次の瞬間、完全に動きがなくなった。ポトッとカーペットの上に落ちた。爆発しなくて幸いだった。

 うんともすんとも言わなくなった。画面には地図も何も映らない。目は固く閉じられていた。

 もう二度と画面には、光が宿ることはない。

 さようなら、自分の道標。


 ロトム図鑑の中から、小さい生物がするすると出てきた。この生物はロトムという電気タイプのポケモンだった。ずっとロトムは人工知能に支配されていたのだろう。もう長いこと自分の意志を奪われていたに違いない。本来ロトム図鑑はロトムの意志によって動く部分も大きくあるのに、どうやら完全に自由を奪われていたようだ。

 人工知能にずっと支配されていた一人と一匹は、お互い顔を見合わせる。

 途端にロトムは、嫌悪感を露わにした。

 こんな場所二度と来るか! と言う感じで部屋の窓から怒りを剥き出しにして去っていった。

 彼は、静かに微笑んでいた。ロトムに邪険に扱われたがそれは当然のことだと思っていた。

 窓の外を見ると、未だに空は真っ暗なままだった。まだまだ夜は明けない。しかしフォールは、これで、はっきりと認めることができた。

 自分はもう、堕ちているのだ。

 紛れもない人生の、失敗者だ。



スカル団に入って島荒らしなんて、いつまで下らないことやっているつもりなんでスカ。いつまでも社会に恨み持っていて、恥ずかしくないんでスカ。良い年して、カスでスカ(回分笑)。もう自分はやっていられない。こんなゴミのような奴らと付き合ってられない。ポケモンセンター使うのに十円払わせて、そしてそれが社会に対する反逆だ、なんて、アホにも程があるんじゃないんでスカ。せいぜい貴様らはアホ面して非行を続けていればいいんじゃないでスカ。あー貴様らのような社会のゴミは、もう本当に、土の中で永住すればいいんじゃないでスカ。


PS

私がこれまでお支払したカンパですが、あれは本来違法に請求されたものですので、大変お手数ですが全額ご返却をお願い致します。下記口座にお振り込みの方宜しくお願いします。もし二週間経ってもお振り込みが確認できない場合は、大変恐縮ですが弁護士の方にご相談させて頂きます。何卒、ご了承下さいませ。なお分割払いも可としますので、ご希望の場合はご相談のお電話をして頂きますようお願い致します。

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 スカル団の活動に飽きた人が今日もまた一人、ポールタウンから去っていった。去っていった奴はそれなりの古株だったこともあり、その置き手紙は、皆からかなり注目を集めていた。

 手紙を読み終えた人の反応は様々だった。爆笑している者もいたし、怒りを見せて壁を殴っている者もいたし、「これ払わないと駄目なのか」「いやそんなことないだろう」という会話を繰り返している者もいた。


 あれから一ヶ月が経過し、フォールは孤高の存在から脱却した。

 もう他のスカル団の連中を冷ややかな目で見ることを止めた。自分だって同類なのだ。

 自分だって、カップ焼きそばに、お湯を入れる前にソースを入れたことはあるし、かやくを入れる前にお湯を入れてしまったこともあるし、お湯を捨てる時にステンレスの流しが凹んだような音を立ててどこか壊れたんじゃないかと不安に思ったこともあるし、食べるときにかき混ぜるのを怠ってソースが下に溜まったことがあるし、キャベツが容器の端に寄ってしまって最後まで残ってしまったこともあった。 

 幼いときに少し勉強してようが対して変わらない。失敗した人間であることは共通している。皆道を踏み外し、現在もなお間違えている。

 だが、とりあえずはそれでも良いのだ。常に正しい道を歩いて行く必要なんてない。常に人から賞賛される道を歩いている必要もない。

 間違った道を途中で歩いても良い。最終的に、正解にたどり着けばそれで良いのだ。

 一度道を踏み外したら、もう二度と引き返すことはできない。許されない。

 けれどもそこから、いつかきっと、正解へと向かうことはできる。

 先程の置き手紙を読み終えた彼は、壁に描かれた落描ききの周りで騒いでいる連中の所へ行った。

 二つの意味でいかがわしいこの屋敷の壁には、丸くなった姿のカプ・コケコの落描きが新しく描かれていた。カプの嘴の部分に乳首が描かれていた。描いた犯人は勿論あいつだ。今真ん中で笑っている奴だ。

 カプ・コケコの絵の周りでフォールを含めた愚かな連中が、不敬にも笑いながら話をしている。