七月十八日

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*七月十八日*

 

 

……夢を見ている。

……真っ白な光の中を、おぼつかない足取りで歩く夢。

……暖かい光の中を、まっすぐ歩いていく夢。

 

……夢はあるとき、突然姿を変える。

……白い光が白い光に打ち消され、新しい姿が目に飛び込んでくる。

……見慣れないのに、懐かしい光景。

 

……広い草原の夢を見ている。

……どこまでも続く草原に、一人佇んでいる。

……どこまでも続く、緑の海原。

 

……何かが倒れている。

……白いものが倒れている。

……白い何かを背負った何かが、倒れて――

 

 

「お客さん、ここで降りるのかい?」

「……………………?」

不意に声をかけられて、あたしは目を覚ました。知らない間に眠っていたらしい。目と頭がぼんやりする。眠りから覚めたときに感じる、あの気だるさだ。

「ここが終着駅だよ。どうするんだい?」

「あっ、降ります」

あたしは急きたてられるように(実際向こうにも仕事があるのでしょうがないけど)して、席を立った。ポケットから適当に小銭を出して突っ込むと、ステップを下ってバスを降りた。

(ブロロロロロ……)

あたしが降りたのを確認すると、バスはそのままどこかへ走り去っていった。あたしはしばらくそれを見送っていたけど、不意に……

「あづい……」

こんな声を出していた。意識して出した記憶なんてない。無意識のうちに出ていた言葉だった。そんな言葉を漏らしてしまうほど、ここはただひたすらに暑かった。嫌になるぐらい。

「前にいたとこは、肌寒いぐらいだったのにね……」

ここに来るまでしばらくいた前の街を思い出し、あたしは思わず顔をしかめた。前にいた街は前にいた街で、梅雨になっても肌寒い日が続くような場所だったけど、暑いのに比べれば肌寒い方がマシだと思う。

「……いつまでもこんなとこにいちゃ、溶けちゃうわね。さっさと街に行くに限るわ」

そうつぶやいて、あたしは足元に置いた少ない荷物を手に取り、来た道とは逆の方向に向かって歩き出した。

 

あたしは「神崎愛子」(かんざきあいこ)。訳あって、こうやって一人で当てのない旅をしてる。一人旅をし始めて、もうそろそろ十年と少しぐらいになる。その間、ずいぶんいろんなことがあったけど、結構忘れちゃってるから今は省略。

当てがない、って書いたけど、本当は嘘。一応旅の目的みたいなものはある。でも、あんまりにも漠然としてて、御伽噺みたいだから、あたし自身、それが本当に旅の目的なのかどうかはちょっと分からない。毎日毎日その日のことだけ考えて、その日のために生きている。

それが良いのか悪いのかなんて、考えたこともなかった。考える必要も考えたことなかった。考える必要を考えた……意味わかんなくなってきたから、この辺で止めとく。

とにかく、あたしはずっと旅をしてて、それはもう十年以上続いてる。それだけは確かなことだった。

 

「あづい……もう、なんでこんなに暑いのよ……」

暑い。この街の暑さは普通じゃない。まだ七月の中頃……多分、十八日かそれぐらいのはずなのに、天気はすでに夏真っ盛りもいいとこだ。額に汗が滲んで、やな感触。

「どっかで休もうかな……」

あたしは周囲を見回して、木陰か何かがないか探してみた。ここは人気のない山村で、周囲にはぽつりぽつりと人家が建っているだけ。お世辞にも、活気がある場所とは言えなかった。

周りをしばらく見回してみると、ちょうどいい具合にちょっと大きな木が隅に立っていて、焼けるような地面に影を作っている場所があった。あたしはその方向にまっすぐ歩いていって、その影の恩恵に預かることにした。

「……ふぅ……」

さすがに日陰と日向では温度が違う。我ながら原始的だなぁと思ったけど、やっぱり「避暑」といったら木陰だね、と考えずにはいられなかった。ほてった体に、日陰の涼しさが優しく染みこむ。

「……………………」

改めて周囲を見回してみる。改めて見回してみても、やっぱりここは人気のないうらぶれ気味の山村だった。建ってる建物は一応建物としての機能を果たしてる(壁にでっかい穴が開いてたりだとか、そういうのは無いって意味)みたいだけど、でもわざわざ立ち寄るような場所でもない、っていう気もする。

勘だけど、ひょっとしたらあたしは来るとこを間違えたのかもしれない。

あたしが旅をしていくためには、その場所に「人がいる」ということが不可欠だからだ。

 

「……なんか幸先悪いけど、景気付けにちょっくら練習でもしますか」

あたしはそう言って自分で自分に小さく喝を入れた後、提げてきたかばんの中をごそごそ探った。財布、手鏡、手帳、その他乙女の諸々用品(細かいことは聞かないこと)の中に混じって、

「あったあった」

それはあった。

「……………………」

それは「人形」。

布に綿を詰めて作られた、男の子の人形。小さな手足に、小さな頭。ごわごわとした手触りに、どこか手作り感の漂う見た目。

こう見えてもあたしと長年連れ添ってる、大切な相棒。

……なんだけど。

「……いっつも思うんだけど、あんたってなんかこうパッとしないよね……」

うん。どこかパッとしない。別に不細工だとか小汚いとかそういうわけじゃないんだけど(割合まめに洗ってあげてるし)、なんかこう今ひとつ目を引く要素がない。これ、一応あたしの母さんから受け継いだ、とっても大切な人形なんだけど……

 

あたしは物心付いた時から、ずっとあちこちを旅してた。思い出せる中で一番古い記憶は、あたしが三歳だったときの記憶。その時はもう母さんに手を引かれて色んな場所を旅してたから、多分、生まれてからずっと旅をしてるんだと思う。

母さん。あたしを連れて、あちこちを旅してた。あたしはいつも母さんに手を引かれて、知らない場所を歩き続けてた。言葉は少なかったけど、あたしのことはいつも気に掛けてくれてた。よくは覚えてないけど、あたしは母さんのことが好きだったんだと思う。

 

母さんには特別な力があった。普通の人には無い、特殊な力。

「手を触れずに物を動かせる」

そんな力だ。母さんはそれを「法術」と呼んでいた。

母さんはその力を、あたしたちが生きていくために使った。今は私が持ち主になってる「人形」を動かし、道行く人に「人形劇」を見せて、路銀を稼いでいたのだ。あたしも時々、それを手伝った。

人形だけじゃない。他のものも動かせた。高いところにあるものを手を触れずに降ろしたり、重いものを軽々と持ち上げたり。色んなものを一斉に動かして、曲芸のようなことをしていた記憶もある。母さんの周りでいろいろなものが飛び交う光景は、どこか不思議で神秘的だった。

 

そしてその力は、あたしにも受け継がれた。

あたしが八歳ぐらいのとき、母さんの見よう見まねで「人形」を動かそうとしてみたら、それがぴくり、と動いたのだ。

母さんはそれを、自分のことのように喜んでくれた。あたしもそれがうれしくて、毎日毎日、母さんの仕事が終わってから人形を借りて、ずっと動かす練習をし続けた。母さんはそれを、とてもうれしそうな顔で見てくれていた。

あたしは母さんがいつも苦労ばかりして、悲しい表情を浮かべている光景ばかり見てきた。

だから、あたしは母さんを喜ばせるために、母さんを笑わせるために、必死で人形を動かす練習をし続けた。人形が一歩動くたび、母さんの顔がほころんだ。あたしはそれがうれしくて、夢中で人形を動かし続けた。

……でも。

 

母さんはあたしが十歳のときに死んだ。

……本当は、死んだというのはおかしいかも知れない。気が付くと、いなくなっていたからだ。

その時のことはよく覚えていない。覚えているのは、母さんが消える間際、ずっと……どこかは忘れたけど、とにかく体のどこかが痛いと言っていた事、そして、布団の中でずっと……

「……ごめんね……私が不甲斐ないばかりに……あなたを……」

……誰かに謝っていたということだけ。目に涙を浮かべて、それでも誰かに必死に謝り続ける母さんの姿が、今もあたしのまぶたに焼き付いて、いつまでも変わらずに消えようとしない。

誰に謝っていたのだろう。周囲の人は、母さんはあたしに謝っていると言っていた。あたしを旅に巻き込んだことを、母さんが謝っていると説明した。

でも。

あたしは違うと思った。あたしは母さんと旅をしてきて、謝られるようなことをされた覚えなんか無い。確かに、辛いことは多かった。苦しいことも多かった。「ひょっとしたら、死んじゃうかも」って思ったことなんか、一度や二度じゃない。

でも。

「大丈夫? 愛子……」

どんなときでも、母さんはあたしのことを気に掛けてくれていた。二人で身を寄せ合って、どんな辛いことも乗り越えてきた。だから、あたしは母さんのことが好きだった。謝られるようなことなんか、一つも無かった。

母さんと一緒なら、どんな辛いことでも平気だった。

 

「……ごめんね……」

「……………………」

あたしはこう考えていた。母さんは自分じゃない、自分以外の誰かに謝っている。それも、何かしたことか、逆に何かしなかったことに対して。それが何かは分からなくて、誰に謝っているのかも分からなかったけど、とにかくあたしは直感的にそう感じた。

……誰に謝っていたのかは、少しだけ思い当たる節がないわけじゃないけど。

でもそれは、途方も無く遠い存在で、手の届かない存在のようで……

……それが、本当にいるのかどうかも分からなくて。

 

そこから先のことは、よく覚えていない。

気が付くと、母さんはいなくなっていた。あたしに残っているその時の記憶は、母さんがあたしに何かを言い遺したところまでと、気が付くと母さんがどこにもいなくなっていて……

母さんが寝ていたところに、あの人形が置いてあったところだ。

その間の記憶は……まるでそこだけ鋏でばっさり切り落とされたように、少しも残っていない。母さんがあたしに何かを語りかけていて、そして気が付くと母さんはいなくなっていた。あたしの頭は、その時の出来事をそう記憶している。

遺されたのは、あの人形だけだった。

 

「……………………」

あたしは手の中の人形を眺めながら、そんなことに思いを巡らせていた。母さんが死んで……正確には消えて、そろそろ十年。母さんの唯一の形見だったこの人形に、あたしは何度も助けられてきた。無表情で、味気なくて、ちょっとみすぼらしい感じがするのが、玉に瑕なんだけど。

「……さて」

そう言って、あたしは人形を地面に置いた。

「……………………」

人形を凝視し、それを射抜くように見つめる。人形に焦点が合ったら、今度は両手をかざす。手に力を込めて、あたしの中の何かを押し出すようにして、「力」を送り込む。母さんはこれを軽々とやってのけたけど(眠りながら何かを動かしてることもあったし)、あたしはまだまだ未熟だから、こんな風に集中しないと、うまくきっかけがつかめない。

「……それっ」

小さく声を出すと、人形がぶるっと震えて、よたよたと前へ歩き出した。最初おぼつかなかったそれは、だんだんとしっかりとした足取りになってきて、あたしの周りをトコトコ歩き始める。此処まで来れば、ちょっと気を抜いても大丈夫。

「まずはこれね。行くわよ……ホップ・ステップ……」

あたしの声にあわせて、人形が一段、二段と飛び上がり……

「ダイビングボディプレス!」

ずしゃーっといい音を立てて、地面と熱い口付けを交わす。これは掴みでやるネタ。本番はここからなんだから。

「そして次に取り出したるは、この小型ロードローラー! はいっ!」

あたしはかばんからおもちゃのロードローラー(なんでこんなの持ってるのかってのは乙女の秘密)を取り出すと、思いっきり天高く放り投げた。

「もう遅いっ! 脱出不可能よッ!」

そう言って、人形も天高くジャンプさせる。夏の太陽をバックに、ロードローラーと人形の影が重なる。そして……

「ロードローラーだっ!」

人形を乗せたロードローラーが、空から勢いよく降ってくる。地面に叩きつけられる瞬間にちょっとだけ力を込めて、ロードローラーが壊れないようにしてから着地させて……

「WWWRRRYYY!!! ぶっ潰れろおっ!」

人形の腕を信じられないぐらい高速で動かして、ロードローラーを叩く、叩く、叩き続ける。たったこれだけなのだが、客の受けはすごくいい。こうなると、もう止まらない。あたしはすっかり本番モードで、持ちネタを空気に向かって披露し続けた。

 

「やめて! その人は……その人は私たちの……」

「さあ、どんどんしまっちゃうからね」

「えぅ〜……そんな事いう人、嫌いですっ」

「分かったか? これが『モノを殺す』って事だ」

「あえて言おう! カスであると!」

「引かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!!」

「終わりが無いのが終わり……それが『黄金体験の鎮魂歌』だ」

「我、拳極めたり」

「あんた背中が煤けてるぜ」

「小便は済ませたか? 神様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いをする心の準備はOK?」

「それが俺の名だ」

「人は何かを為す為に生を受け、成し終えた時死んでゆく……」

「ボクのこと……忘れてください……」

 

……………………

「……ふぅ。あたし、何やってんだろ……」

結局気分がノってしまって、持ちネタを一気に全部やってしまった。見ている人もいないのに持ちネタ全部披露。なにやらとてつもなくアホなことをした気がして、さっきまでの高揚感はどこへやら、虚しさと脱力があたしの体にどっとのしかかってきた。

「……なんだか疲れちゃったし、まだ日も高いし、ちょっと休もうかな……」

あたしは一人でそうつぶやいて、木陰を提供してくれているちょっと大きな木に、足を伸ばしてもたれかかった。そのままの体勢で、目をゆっくりと閉じた。疲れたときは、寝るのが一番。母さんから教えられた事だ。

「おやすみなさい……ふぁぁ……」

目を閉じると、眠気はすぐにやってきた。あたしはゆっくりと、夢の中へと身を浸してゆく――

 

………………………………………… ………………………………………… …………………………………………

 

――どれぐらい時間が経っただろう。内容の分からない夢が、氷が日に当てられて溶けてゆくように、ゆっくりとあたしの瞼から身を引いてゆく。それと共にあたしの中に、今まで休んでた「意識」が返って来る。

「……ん……」

あたしは重たい瞼を、ゆっくりと開けようとした。どれぐらい眠っていたか分からないから、目の前がさっきと同じような夏の昼の風景なのか、それとも夕暮れ時の風景なのか、暑気の残る夜の風景なのかは、見てみないと分からない。昼だったらもう一回寝る。夕方だったら宿を探す。夜だったらここで野宿。ぼんやりする頭でそう決めて、あたしは瞼を開けた。

「あっ、起きた」

「……………………」

あたしは瞼を閉じた。

「わっ、また寝ないでくださいよ」

そう言って、あたしの体がゆさゆさと揺さぶられた。頭が揺れて、後頭部が後ろの木にガンガンぶつかる。痛い。すごく痛い。

「……………………」

あたしはまた瞼を開けた。

「よかった。起きてくれたんですね」

「……………………」

「えっと……どうしてそんなに怖い顔してるんですか?」

「……………………」

あたしは無言で後頭部を指差す。まだ頭がガンガンする。痛い。

「頭?」

「……………………」

「ガンガンするんですか?」

「……………………」

「……ひょっとして、さっきのせい……かな?」

「……………………」

合計三回頷いてから、あたしは改めて、目の前にいる女の子を見てみた。

「……………………」

顔立ちはそんなに悪くない。多分、可愛い方だろう。着ている服は……勘だけど、学校の制服っぽい。目を上にやってみると、綺麗な黒髪が目に映る。後ろに流れているから、多分ポニーテールにでもしてるんだと思った。

とりあえず、そんなことよりも、あたしには言いたいこと聞きたいことがたくさんあった。あたしは目を強引にこじ開けて、女の子を見据える。

「……こんなところで、何してるの?」

抑揚の無い声で尋ねてみる。相手の素性が分からない以上、警戒は解かないほうがいい。

「起きるの、待ってたんですよ」

「……あたしが?」

「うん」

「どうして」

「えっと……見たかったからです」

「見たい? あたしの寝顔を?」

「う〜。違いますよ〜。そうじゃなくて、あの……」

「この木?」

「うう〜。違いますよ〜。だから、あの……」

「何よう」

「さっき……こーやって動かしてたじゃないですか。なんか、小さいの……」

「……………………」

女の子が手をまん前に突き出して、うーとかあーとか言って唸っている。手を前に突き出して、何かを動かす。考えられる可能性は、一個しかなかった。

「……これ?」

あたしはポケットから、あの人形をひょいと取り出す。それを見た女の子の顔が、ぱっと綻ぶ。

「それそれ! それです! それが動いてるの、見せてほしいんです!」

「……ひょっとして、見てたの?」

「はいっ。近くを歩いてたら、ここから『月を見るたび思い出せ!』とか、『なんでちよちゃんは飛ぶのん……』とか聞こえましたから」

「……え゛……」

「それが動いてるの、もう一回見てみたいんです。お願いです。見せてくれませんか?」

「……………………」

あたしは固まってしまった。あの盛大な一人芝居を、この純真無垢っぽい女の子に思いっきり目撃されてしまったのだ。あたしはそのまま何も言えずに、ただ沈黙するしかなかった。

「ね?」

「……………………」

おまけの目の前の女の子は、あたしの人形劇をもう一回見たいと言っている。あの妙ちくりんな人形劇を、だ。今思う。この子は絶対ヘンな子だ。間違いない。あたしの勘は本当によく当たる。こんな子には係わり合いにならないに限る。

「帰る」

「わ、帰らないでください」

「……………………」

「その……見てて、すっごく楽しかったから……」

「……………………」

「もう一回……見せてほしいんです……」

「……………………」

「やっぱり……ダメですか?」

儚げな表情を浮かべて、女の子があたしに迫る。正直、起き抜けに頭をガンガンされた上に、あのこっぱずかしい一人芝居を見られてしまったとあって、一刻も早くこの場所とこの女の子の前から立ち去りたかったのだけど、なんかこう「見せてくれないと泣いちゃいます」的な表情をされて、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

結局、あたしは折れた。

「……しょうがないわねー。一回だけだから、ちゃんと見といてよ」

「わ、やってくれるんですね! ありがとうございます!」

あたしは人形を置いて、もう一度力を込めた。

「あっ……!」

人形がぴくりと動き、よろよろと前へ歩き出す。

 

それから、あたしは一通りの演技を見せた。女の子は一つ演技を見せるたびに、わぁ、とか、すごぉい、とか、うう〜……感激だよ〜、とか、とにかくいろいろ言っていた。

「『……さらばだ……ジョジョ……』……ふぅ。これでおしまいよ」

「すごい……感激です! 見せてもらって、本当にうれしいです!」

「よしよし。そいじゃ」

「……なんですか? これ……」

あたしはさっと右手を差し出した。当然の話。やるものをやったからには、もらうものはきっちりもらわなきゃ。何が起きるか分からない一人旅、こういうとこはきっちりしとかないと、後で泣きを見る。

「うーん……」

「……………………」

「うーん……」

「……………………」

「うーん……」

「……………………」

たっぷり三分は悩んだ挙句、

「……あっ! 分かりました!」

「それならよろしい」

あたしがこう言うと……

「こうですよね」

女の子はあたしの手の上に、女の子特有のすべすべとした手を重ねた。

「わ、あったかい」

そしてそのまま、あたしの手をぎゅっと握った。

「……何これ」

「知らないんですか? 『握手』っていうんですよ。こーやって手をつないで、お互いに仲良しさんになるんです」

「や、それは知ってるけど。っていうか知らない方がおかしい」

「えっ? 違うんですか?」

「違う」

あたしは確信した。この子はホンモノだ。ホンモノのヘンな子だ。天然記念物クラスかも知れない。係わり合いになると、いろんな意味で危険な気がする。なんかこう、あたしも同じ様な人間に見られるとか。

仕方ない。ここは単刀直入に言うべきだろう。

「お代」

「おだい?」

「人形劇のお代。見たでしょ? それだったら、ちゃんとお金を払ってもらわないと」

「お金…………」

「……持ってないとかいう答えは無しね」

「今、十円しかない……」

「……あたしにチョコでも買えって言うの……」

もうダメだ。この子はいろんな意味で終わっている。見た感じ背は結構高い。多分、中学生だろう。中学生にもなって十円しか持ち歩いていないとか、普通じゃない。前にいた街にいた子なんか、小学生なのに五千円も持ってた。正直、うらやましかった。

「……あの」

「なに」

あたしはぶっきらぼうに問い返した。もう、いろいろな意味でやる気が出ない。

「……旅人さん、ですか?」

「……どうして分かるの?」

「なんとなく、です」

「……まぁ、そうだけど。それがどうかしたの?」

「今日泊まるとこ、ありますか?」

「……あ゛」

あたしの口から、思わずにごった声が飛び出す。ふと周囲を見てみると、周囲はすっかり夕暮れ時。今から宿を探しても、泊まれるかどうかは甚だ怪しかった。大体、こんな辺鄙な山村に、人が泊まれるような場所があるのかどうかも疑問だ。

今更ながら、あんなとこで昼寝ぶっこいてた自分が情けなくなってきた。

「……あの」

「なに」

「もしよかったら、うちに来ませんか?」

「へ?」

「一緒にうちに来て、一緒にご飯を食べて、一緒に寝るんです」

「ご飯……?!」

あたしは女の子の発した「ご飯」という言葉に、目をカッと見開いて反応した。多分、「キュピーン」とか、そんな感じの擬音語を伴ってたと思う。ご飯の魅力は大きい。

「わ、大きい目」

「それ、本当なの?」

「本当ですよ。食べたいものがあったら、何でも作りますから」

「ラングスティーユのスパイシーソース」

「うちはフランス料理屋さんじゃないです〜……」

「分かるの?!」

「分かりますよぉ」

あたしが出した名前の料理がフランス料理だと分かるのに、なぜあたしが差し出した右手を「握手」と勘違いできるのか、いろいろな意味で釣り合いが取れない女の子だ。

「焼き魚」

「それだったらできますよー。うちにちょうど鯖がありますから」

「……いいんだけど、あたしがあなたの家に行って、邪魔にならない?」

ここまでの会話で忘れそうになっていたが、あたしはこれからこの子の家に行こうとしている。見た感じ、どう見ても一人暮らしをしているとは思えない。家族と一緒に住んでいるとしか思えない。そんなところにずかずか入り込めるほど、あたしも肝は据わってない。

「平気です。大丈夫です。一人ですから」

「……嘘は泥棒の始まり」

「うう〜……本当ですよぅ。お母さんと二人暮しで、お母さんは出張に出かけてるんですっ」

「……それじゃあ、本当にお邪魔してもいいわけ?」

「はいっ。旅人さんみたいな人だったら、大歓迎です」

どういう基準であたしみたいな人が大歓迎なのかは分からなかったが、とりあえずこの場はこの子の恩に着ることにした。人形劇を見せた代わりに雨露を凌げるならば、まあ悪く無い。それに、特にやましいところはなさそうだ。

ひょっとするとこの子は地下組織の一員で、あたしの法術を狙って甘い言葉で勧誘してきたのかも知れないが、それ以前にこんな子を雇う余裕のある地下組織なんか無さそうなので、それ以上その可能性について考えるのは止めた。

「分かったわ」

「わ、来てくれるんですね! うれしいですっ!」

「何がうれしいのか分かんないけど……それじゃ、連れてって」

「はいっ!」

女の子はスキップをしながら、あたしの前に立って道を行き始めた。

 

「どうして旅をしてるんですか?」

「……………………」

「そのお人形さん、手作りなんですか?」

「……………………」

道すがら、女の子はやたらとあたしに話しかけてきた。あたしは二回もフルコースの人形劇をして(一回は自業自得だけど)、おまけに朝から何も食べてなかったから、答えるのが面倒で何も言わなかった。女の子はめげずに、それでもあたしに話しかけてくる。

「昨日は何食べたんですか?」

「……………………」

「今まで、どんなとこを旅してたんですか?」

「……………………」

「うう〜。何かしゃべってくださいよ〜」

「何か」

「ううう〜……旅人さんって、いぢわるですねっ」

女の子が頬を膨らませて、ちょっとすねた様な表情で言った。

「旅人さんのお名前って、なんて言うんですか?」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……お魚さん、二匹にしようかな……」

「『神崎愛子』。神さまの『かみ』に山崎の『ざき』、愛するの『あい』に子供の『こ』よ」

「わ、答えてくれた。よろしくです、愛子さん!」

……頭の中に綺麗にカットされた鯖が二つ並んでる光景を想像して、あたしは無意識のうちに名前を吐いていた。しかも、無駄に詳しい説明付きで。あたしでも、現金だと思う。

「そういうあなたの名前は?」

「わ、質問までしてくれた! えっと、わたしの名前は『美崎渚』(みさきなぎさ)っていいます。『渚っち』って呼んでください!」

「渚っち……?」

「はい。渚っちです」

渚っち。正直、このセンスについていける自信が無い。あたしの名前を渚風に言うなら、「愛子っち」だ。何かとてつもなく寒々しいものを感じずにはいられない。なんかこう、ちょっと別の方向に行っているような気すらする。勘弁勘弁。

「却下」

「えーっ?! どうしてですか?」

「何か嫌だから」

「う〜……じゃあ、『なぎなぎ』でもいいですよ」

「却下」

「うう〜……それじゃあ、『なぎー』……」

「却下」

「ううう〜……『みさみさ』……」

「却下」

「うううう〜……もう思いつきませんっ。愛子さん、いぢわるですっ」

「いぢわるで結構」

「……そうだ。野菜炒めもつけようかな……」

「ほら渚っち、そんなとこに突っ立ってないで、あたしを家まで連れてって」

「あ、はいっ!」

……なんかあたし、この渚とかいう子にうまく乗せられてるような気がする……いや、むしろあたしの方からどんどん乗っていってるのかもしれないけど……

ともあれ、食事と寝場所を確保できるのだから、それはありがたかった。

「愛子さんのために、腕によりを掛けて作りますからねっ」

「頼んだわよ」

あたしと渚は、人気の無い道を、そのまま二十分ぐらい歩き続けた。

 

「ただいま〜」

渚がそう言いながら、家のガラス戸を開けた。

「ここが渚っちのうちですよ」

「普通の家ね。なんかこう、もっとファンタジックなのだと思ってた」

「うう〜。それ、どういう意味ですかっ」

「言葉通りよ」

「それじゃ分かんないですよ〜」

渚の家は、ごく普通の平屋建ての一軒家だった。木造で、見た感じ建ってから結構経っていそうな雰囲気がある。この辺りの山村に似つかわしい、平凡で特徴の無い家だ。

「向こうがお茶の間だから、ご飯ができるまでそこでゆっくりしててくださいね」

「分かったわ」

そう言って、渚は奥へと引っ込んだ。あたしは渚に言われたとおり、茶の間でくつろぐことにした。こうして誰かの家でご厄介になるのは初めてじゃないけど、この家は人気の無さもあって、妙に落ち着いた感じがする。

「……ふぅ」

ここへ来る道の途中、あれからずっと渚に話しかけられ続け、あたしの体力はいろいろな意味で消耗しきっていた。小さなため息を漏らして、壁に寄りかかる。土でできた壁が、心地よい硬さを背中に返す。

「……………………」

あたしは一人になってみて、あの騒がしい渚という少女のことについて、ようやくまともに考えることができた。

「美崎渚……」

渚。昼寝してたあたしのことをずっと待ってて、起き抜けのあたしに「人形劇が見たい」とせがんで、それを見せてあげたらこの世の終わりみたいに感激して、あたしが御代を請求したらそれを素で握手と勘違いし、お代代わりにあたしを家に招いてくれて、今こうしてくつろがせてもらっている。

正直、展開が速すぎてよくわかんない。

「……………………」

渚の特徴を思い出してみる。

口癖は「うう〜」で、自分のことを「渚っち」と呼ぶ。(多分)現役中学生で、家には自分ひとりしかいない。母親は出張中。髪型は予想通りポニーテールで、顔立ちはなかなかかわいい。それでいて、妙に抜けている。いや、というか、抜けてるんじゃなくて、最初っから足りてないって言ったほうが正しい気がする。でもフランス料理の名前は分かる。謎だ。

「……………………」

見ず知らずのあたしをいきなり家に招いて、食事まで用意してくれる。旅人のあたしにとってそれは願ったり適ったりのラッキーハッピーシチュエーション(今作った造語)に他ならないが、あの子の様子を見ていると、どうもハッピーな気分にはなれない。

「……前にお世話になったとこにも変わった子が多かったけど、渚はそれに輪を掛けてヘンだわ……」

あたしは思わず声に出してつぶやいてみた。間違いなく言える。渚はヘンな子だ。それも、超ド級のヘンな子だ。目の前にお菓子を持ったヘンタイゆうかいまが現れたら、渚は多分ひょこひょこと付いて行っちゃうと思う。渚はそんな子だと思う。

「……でも、それにうまく乗せられてるような気がするあたしって……」

会話の内容を思い出し、思わず言葉が出る。今思えば、渚がぼそっとつぶやいた「二匹の魚」と「野菜炒め」だけで、結局は渚の望んでいた「一緒にうちに来て、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る」という展開に持ち込まれている。情けなくて、なんだか涙が出てきそうだった。

「……気にしないでおこう」

頭からその考えを振り払って、あたしは無心でくつろぐことにした。

 

「愛子さーん。ご飯できましたよー」

「分かった。今行くわ」

渚の呼ぶ声が聞こえて、あたしはもたれかかっていた壁から体を離して立ち上がった。朝から何も食べていなかったので、ようやく何か食事にありつけると思うと、自然に足取りも軽くなる。

茶の間を出て左に曲がり、台所へと歩く。台所で、エプロン姿の渚が待っていた。

「そっちが愛子さんの席です」

「はいはい」

「こっちが渚っちの席です」

「分かった分かった」

きゃっきゃっとはしゃぐ渚をよそに、あたしは早くご飯を胃の中にかきこみたい一心で、渚の言葉をすべて適当に受け流していた。食卓を見てみると、渚が予告したとおり、あたしの皿には鯖の切り身を焼いたものが二つ、ちょっと多めに盛られたご飯にお味噌汁、そして真ん中には野菜炒め。

「……………………」

見たところ、どれもこれもなかなかおいしそうな感じ。渚みたいなメルヘンチックな子が作るというから、内心半信半疑だったのだけど、見たところは普通の、いや、どちらかと言うとよくできた料理が並べられている。ちょっと驚き。

「お代わりもありますから、遠慮せずに言ってくださいね」

「うん」

「骨は取ってありますけど、一応気をつけて食べてくださいね」

「うん」

あたしは答えもそこそこに、まずお茶碗を手に取り、ご飯を一口。ぱくり。

「……………………」

「どうですか?」

……思わず無言になってしまった。

(……これは……!)

なんというか、このご飯の感想をあえて言葉で言うと……

……「ご飯ってこんなにおいしかったっけ?」ってな感じ。

(おいしい……)

このご飯なら、普通の料理屋とかで出しても問題ないと思う。大げさに聞こえるけど、あたしの中での「ご飯観」が変わった気がするぐらい。それぐらい、このご飯はおいしい。どことなく甘みがあり、固すぎず柔らかすぎず、何かかけて食べるのは勿体無いと思えるような、そんなご飯。

あの何考えてるか分からない風に見える渚が、普通においしいご飯を炊いている。そのギャップがすごすぎて、どうにも言葉が出ない。ああいうふわふわした子が作るっていうから、もっとこう「炊いたのかどうか分からないぐらい固いご飯」とか、「おかゆとしか思えないぐらい柔らかいご飯」が出てくるもんだと思ってたけど、あたしの予想は見事に外れた。

これは、おいしい。

「……………………」

「おいしいですか?」

「……………………」

あたしが小さく頷くと、

「わ、よかった」

渚が笑顔を浮かべた。近くで見ると、意外と端正な顔立ちで、笑うと結構かわいい。

「たくさんありますから、どんどん食べてくださいね」

しかし、男ならともかく、女のあたしにご飯を食べさせて、それであたしに「おいしい」と言ってもらって喜ぶ渚というこの少女は、やっぱりどこかズレているような気がする。

結局その後鯖を焼いたの(無駄な脂が落とされててすごく食べやすかった)もお味噌汁も(きちんと昆布と鰹節でだしを取ったらしい。あたしは方法も知らないのに)野菜炒め(食べやすい大きさに野菜が切りそろえられていて、汁っぽさも無かった)も全部平らげて、ついでにご飯のお代わりももらって、とにかく満足した。

 

夕食が終わると、渚が大きなコップに冷やした麦茶を並々とついで、あたしに出してくれた。渚はそれより一回り小さなコップに麦茶を満たして、そのまま椅子に座っていた。

「……渚って、料理うまいんだね」

「わ、ほめてくれた。ほめてもらって、渚っちもうれしいです」

「誰かに習ったの? お母さんとか?」

「えっと……本で勉強しました」

「……本?! 本を読んだだけで?!」

「はいっ。そうです。本を読んでみて、自分で作ってみて、そうやって勉強するんです」

「……………………」

「自分で作ったものって、やっぱりおいしいですよねっ」

さっきから驚きっぱなしだ。普通、本を読んだだけであんなにおいしい料理を作れるなんて、ありえない。あたしも前に本を読んでいくつか作ってみたことがあるけど、正直「誰かに習わないとダメだ」と思うようなものばっかりができた。満面の笑顔で「自分で作ったものって、やっぱりおいしいですよねっ」と言う渚が、今まで以上に遠い存在に感じられた。

「愛子さんは、お料理とかしないんですか?」

「……しない」

「もし良かったら、何か教えましょうか?」

「……う」

あたしの心が傾きかけた。ここで渚に教えてもらえば、きっと後々役に立つ日が来るのは間違いない。が、あたしは明日にでもここを発つ身。ゆっくり料理の勉強なんて、とてもじゃないけどやってられなかった。

それに、年下の渚に何かを教えてもらうということ自体、あたしでどーにもやりきれない思いがあったのも事実だ。あたしにだって、プライドってもんがある。

「今なら無料サービスキャンペーン絶賛展開中ですから、いくら教えてもらってもタダです」

「タダ?!」

「さらに今申し込むと、もれなく渚っち特製スペシャルレシピをプレゼントしちゃいます」

「もれなく?!」

「どうですか〜? 渚っちの個人授業ですよ〜?」

「よろしくお願いします」

「わ、お願いされちゃった」

前言撤回。相手が年下だろうがなんだろうが、いい物はいいと認めてこそ真の大人だ。ヘンなプライドなんか、窓から投げ捨てればいいだけの話。それに二、三日滞在が伸びたところで、どうせ気にすることは無い。次の場所へ行く費用を稼ぐ必要もあるし、その間はずっと渚の家にご厄介になればいい話だ。

……こらそこ。意志が弱いとか言うなっ。

「でも今日はもう遅いですから、明日からにしますね」

「分かった」

あたしは小さく頷いて、なんとなく渚の方を見てみた。

そしてあたしは、ある違和感に襲われた。違和感の正体はすぐに分かった。あたしはその違和感をためらうことなく、ほやほやとうれしそうな表情を浮かべている渚にぶつけた。

「……渚。一個聞いてもいい?」

「なんですか?」

「……なんで制服のままなの?」

「へ?」

そう。渚は今、「制服の上のエプロン」という、奇抜にも程があるいでたちをしているのだ。一部の層にはウケそうだが、少なくともあたしには奇異な光景にしか写らなかった。というか、こんなのに興奮する人間がいたら、あたしはちょっと勘弁。

「や、普通家に帰ってきたら、普段着に着替えるもんでしょ?」

「これ、お気に入りなんです♪」

「や、音符マークつきで言われても」

「このひらひらとか、かわいくてすっごく好きなんです」

「や、やっぱ家で制服はおかしい。着替えてほしい」

あたしがそう言うと、渚は不満そうな表情で抗議した。

「え〜」

「え〜、じゃない」

「う〜」

「う〜、でもない」

「くー」

「寝るなっ」

「たははっ。冗談ですよっ。それじゃ、着替えてきますねっ」

悪戯っぽい笑みを浮かべて、渚が席を立った。そのまま階段を駆け上がる音が聞こえて、バタンとドアが閉まる音が聞こえた。しばらく間が開いて、またドタドタという階段を駆け下りる音が聞こえてきた。

「お待たせですっ」

「……うん。そっちの方がいい」

渚は夏らしい白のワンピースを着て、再びあたしの前に姿を現した。渚によく似合った服装だ。制服を着ていたときより、さらに子供っぽくなってるのはどうかと思うけど。下手すりゃ、ちょっと成長速度の速い小学生にも見えかねない。や、それは言い過ぎかもしれないけど。とにかく、余計に年下っぽく見えるのは事実だ。

「これは二番目に気に入ってるんですよ〜」

「一番目はあの制服なわけ?」

「もちろんですよ〜。夏服も冬服も、どっちも好きです」

「なして制服なのよ」

「え〜? だって、デザインがかわいいじゃないですかっ」

「そりゃあ、かわいくないわけじゃないけどさ」

制服に妙なこだわりを見せる渚に、あたしはやっぱり「こいつはヘンな子だ」という印象を抱いた。まぁでも、こうして見ず知らずの人間にここまで親しく話しかけられるというのは、ある種の才能かも知れない。

そして知らず知らずのうち、この渚という少女とごくフツーに会話している自分に気付く……なんか、ちょっと複雑な気分。

「あ、そう言えば、お風呂沸かしてたんだった。入ります?」

「先いいの?」

「いいですよー。その間に、食器片付けますから」

「そいじゃお先に」

「あ、服、どうします?」

「いいわよ。これ、もっかい着るから」

「お母さんの服、貸しましょうか?」

「いいっていいって」

「ここから少し歩いて、左がお風呂ですからー」

あたしは椅子から立ち上がって、渚の言うとおり、少し歩いて左に曲がった。

 

あたしに続いて渚がお風呂に入り、パジャマ姿で現れた。ほどかれた髪とピンクを基調としたパジャマ姿が相乗効果を発揮して、渚を余計に子供っぽく見せている。これで本当に中学生なのだろうか。ひょっとして、飛び級でもしたんじゃないだろうか。思わずそう思う。

「気持ちよかったですー」

「髪、ちゃんと拭いときなさいよ」

「たはは〜。分かってますよー」

渚は右手で髪を拭きながら、左手でコップに麦茶を注いでいる。普通に器用だ。そして、髪を拭く手を左手に回して、注いだ麦茶を一気に飲み干す。目を閉じながら麦茶を飲む姿が、やっぱり子供っぽい。

そして、ちらりと台所の壁に据え付けられた時計を見やり、

「わ、もうこんな時間。そろそろおやすみなさいの時間ですね」

「そうね。いろいろあって、疲れちゃったし。あたし、どこで寝ればいい?」

「ちょっと待っててくださいねー」

そう言うと、渚はとてとてと駆けていった。そしてしばらくドタバタという物音と、わ、とか、う〜、といった声が聞こえて、渚が向こうで何かしているのが分かった。あたしは注ぎ足した麦茶をとくとく飲みながら、渚が戻ってくるのを待った。

「……………………」

何気なく台所を見回してみる。食器が小奇麗に片付けられていて、落ち着いた佇まい。多分、渚がいつも綺麗に洗っているのだろう。落ち着きの無い渚とは何から何まで正反対なのに、この光景を作り出しているのはその渚だ。なんだか、妙な気分。

「愛子さーん。お布団敷きましたよー」

「分かった」

あたしは麦茶を飲んだコップを流しにおいて、椅子を立った。

 

「……………………」

「さ、おやすみなさい、ですよー」

「……………………」

「あれれ……? どうしたんですか?」

「一個、聞いてもいい?」

「いいですよー。なんですか?」

「……どうして二つなの?」

あたしの目の前には、薄い敷布団に薄い毛布が敷かれた夏仕様のお布団と、小さな枕……

……が、二セット。

「どうしてって、一緒に寝るためじゃないですかー」

「や、あなた自分の部屋があるじゃない」

「え〜。せっかく愛子さんがいるのに、そんな勿体無いことできませんっ」

「勿体無い、ってあなた」

「……だめですか?」

「だめですか、ってあなた」

「渚っちのこと、信用できないんですか?」

「信用できない、ってあなた」

「渚っちはそんな子じゃないですっ! 信じてくださいっ」

「そんな子じゃない、って……」

なんだかよく分からないが、渚はあたしと一緒に寝ることを切望している。瞳をキラキラと輝かせて迫るその姿は、何かものすごく威圧感と圧迫感を感じる。しかも両手をがっちり合わせて、完全におねだりモードだ。あれか、あたしは男か。渚のお兄さんか何かか。そんなアホな錯覚をしてしまうぐらいの勢いだ。

「分かった分かった。一緒に寝ていいから」

「わ、了承してくれた。うれしいですっ!」

「静かにしてよ」

「分かってますよー」

そう言って、布団にダイビングしてきゃっきゃっと嬉しそうにする渚。もしあたしが男だったら、今はきっとこの世に二つとないぐらいおいしい状況なんだろうけど、あたしは紛れも無いXX染色体持ちの女だ。ちょっと悔しい。

「電気消しますよー」

「あいあい」

「おやすみなさい、です」

「おやすみ」

渚が手をうーん、と伸ばして、茶の間の電気を消した。縁側へと続く窓は開けられていて、ちゃんと蚊取り線香もセットされている。外から聞こえる虫の音が、妙に落ち着いた気分にさせてくれる。

「……………………」

「……………………」

渚はもう眠ったのか、急に静かになってしまった。起きてる意味は無いので、あたしもゆっくりと目を閉じた。そうすると、すぐに眠気が瞼の裏から溢れてきて、そのまま――

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

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Written by 586