*七月十九日*
「……………………」
あたしは中身の無い夢の中で、その中のまどろみに身を任せていた。意識は夢現を彷徨い、実に気持ちの良い感覚。一生このままだったら、どんなに楽し
(ガン! ガン! ガン! ガン!)
「!!!?」
不意に頭に響く金属音が周囲に鳴り響き、あたしの頭が通常以上のスピードで強制覚醒する。状況がまったく飲み込めないまま、あたしは毛布を蹴り飛ばす。うるさい。すごくうるさい。
(ガン! ガン! ガン! ガン!)
あたしは寝ぼけ眼を力づくでこじ開け、この家に似つかわしくない金属音の出所を探ってみた。一体何事かと思いながら、周囲をきょろきょろと見回す。前、後、右、左……
……あたしの左に、出所があった。
「たはは〜」
「……………………」
「たはははは〜」
「……………………」
……音源はものすごく近くにあった。この「たはは笑い」に、罪の無い笑顔。思えば、可能性はこの一つしかなかった。どうして気付かなかったんだ、ついさっきまでのあたし。
目の前には、フライパンを右手に、フライ返しを左手に装備した、パジャマ姿のままの渚の姿があった。この子がさっきまで何をしていたかなんて、もう言うまでも無い。
「あ、愛子さん起きた」
あたしが起きたのを確認しても、まだうれしそうにフライ返しでフライパンをガンガン叩いている。うるさい。すごくうるさい。
「……何やってんの」
「何って、愛子さんを起こしに来たんですよ〜。これ、一度やってみたかったんです♪」
「……や、一度やってみたかったんです♪、じゃなくてさ」
「たはは〜」
(ガン! ガン! ガン! ガン!)
あたしの言葉を聞きながら、またフライ返しでフライパンを叩き始めた。うるさい。すごくうるさい。
「やめい」
「あ、とられちゃった」
「もう……普通に起こせないの? 朝から頭痛くなっちゃうわよ」
「うう〜……でも、ホントにやってみたかったんです。今まで、起こしてあげる人がいなかったから……」
「……………………」
微妙に寂しそうな表情をして、渚が言った。そんなアホな理由で、あんな無茶な起こし方をすなっ。
「まったく。これはあたしが預かる」
「う〜。返してくださいよ〜」
「叩かないと約束したら返す」
「わ、もう叩きませんよ〜」
渚が口を曲げて、あたしに反論する。
「……………………」
「……………………」
あたしは渚の顔を見つめる。そして下した結論。
「やっぱ返さない」
「うう〜。愛子さん、嘘つきですっ」
「朝からこんなアホちんなことをするほうが悪い」
「ううう〜。渚っちはアホちんじゃありませんっ」
「いや、アホちんだ」
「うううう〜。愛子さん、いぢわるですっ」
「いぢわるで結構」
あたしがそう言うと、渚はくるりと後ろを振り向いて、一言。
「……どうしよう……これじゃもう、愛子さんにご飯作ってあげられないよ……」
「すみませんあたしが悪かったです。この通りです。アホちんはあたしです」
即座にフライパンとフライ返しを返却するあたし。自分でも分かるぐらい、分かりやすい行動パターンだと思う。正直な話、やっててちょっと情けなくなるぐらい。ううっ、渚め……手の込んだ仕返しをっ。
「たははっ。冗談ですよっ。愛子さんって、正直でかわいいです」
「こらそこ。かわいいとか言うなっ」
「たははっ。あ、朝ごはんできてますから、一緒に食べましょ♪」
「そうね」
渚に促されるまま、あたしは台所へと歩いていった。
「……………………」
「今日はパンですけど、言ってくれれば、明日からパンとご飯、好きな方にしますよ〜」
「……これ、いつの間に……」
あたしの目の前には、しっかりと焼かれたトーストが二枚、レタスとコーンとトマトの色合いが映える野菜サラダ、半熟卵が食欲をそそるベーコンエッグ、湯気の立ち上るコーヒー。朝の短い時間で用意したにしては、非の打ち所のないメニューだった。
「朝起きて、すぐに準備するんです。これぐらい、『朝飯前』ですよっ」
「……言葉どおりね」
「たはは〜。そうですね〜」
あたしは苦笑いを浮かべながら、椅子を引いて座った。そしておもむろにトーストを手に取り、真ん中に置いてあったマーガリンを適当に塗りつけて、がぶり。
「……………………」
……あたし、人生をどれぐらい損してたんだろ……今まで、どんなパンを食べてたんだろ……この世で「パン」と名乗っていいのは、ひょっとしたら、今あたしがかじっているこのトーストだけなのかもしれない……
昨日のご飯に続いて、あたしは渚の手によって「パン観」も変えられてしまった。それぐらい、このパンはおいしかった。
「……ねえ渚」
「なんですか?」
「これ、ホントに普通に焼いただけ?」
「そうですよ〜。あ、でも、パンは手作りです」
「て、てづくり?!」
思わず平仮名になってしまうぐらい、あたしは驚いた。渚によると、このパンは既製品ではなく手作りだそうだ。食パンを自力で作ってしまうなんて、初めて聞いた。
「ひょっとして……おいしくなかったですか?」
「い、いや……そうじゃないんだけど……」
「それならよかったです〜」
……ホントに底知れない。渚はあたしが今まで出会ってきたすべての人間の中で、トップクラスの底知れなさを秘めてる。あたしの勘がそう告げてるんだから、間違いなかった。
「るるる〜♪」
あたしが黙々と食べてる間、渚はうれしそうにあたしの方を見ながら、パンにジャムをつけて食べていた。そのジャムの色は……オレンジだ。
「これ、おいしいんですよ〜」
ぺたぺたぺたぺた。ジャムを頻繁に塗りつけている。それも、一回一回の量が半端じゃない。ジャムがこんもり盛り上がって、パンが見えないぐらいの勢いだ。正直、ジャムが調味料ではなく、むしろパンが調味料といった方が正しい。こら、ジャムが垂れてるぞ、そこ。
「愛子さんもいかがです? すっごくおいしいんですよ〜?」
「や、あたしは遠慮しとく」
「え〜? どうしてですか?」
「……ジャムには、ちょっとヤな思い出があるから」
「たはは〜……それだったら、仕方ないですねっ」
渚はそれ以上あたしにジャムを勧めようとはせず、また鼻歌交じりでパンにジャムを追加しだした……ちょっと待て。あの状態にまだ追加するのか、あんたは。
「今日は二枚ですけど、足りなかったら三枚にしますね」
「いや、二枚でいい」
「たはは〜。良かったです〜。ゆっくり食べてくださいね〜」
「……うん」
あたしは言われるがまま、出されていた二枚のトーストを平らげ、野菜サラダ(野菜がきっちり水切りされていて、新鮮そのもの)もベーコンエッグ(見た目どおりのグッドな味だった)も食べて、最後にコーヒーを飲んで一息ついた。こんなに整えられた朝ごはんを食べたのは、久しぶりだった。
朝食が終わって、少し時間が空いた。あたしは暇だったので、何気なく渚に話しかけてみる。
「……ところで渚、さっきのジャム、どこで手に入れたの?」
「あ、あれですか? 実はあれ、特注品なんですよ〜」
「特注品?」
「はいっ。ここからちょっと離れたところにある街の、ちょっと大きなお店から取り寄せてるんです」
「ふぅん……そうなんだ」
「もし食べたくなったら、いつでも言ってくださいねっ」
渚がウィンクしながら言った。決して嫌ではなくて、むしろ印象はいいのだが……あたしみたいな「女」に向かって可憐にウィンクするこの渚という少女、やっぱり何かどこかが大きくズレてるような気がする。
「わ、もうこんな時間。そろそろ学校に行かなきゃ」
「あれ? 学生はもう夏休みの時期じゃないの?」
「そうなんですけど、渚っちは講習があるんです」
「なるほど。補習授業ね」
「補習じゃないですっ。夏期講習ですっ」
渚が腕をぶんぶんと振って、全力で否定した。あたしも「補習」と「講習」の違いぐらい分かっていた。前者は強制で、後者は任意だ。もちろん、後者の方がいい。が、面白かったので、そのままちょっとからかってみることにした。
「授業はちゃんと聞いときなさいよ」
「う〜。違いますっ」
「通信簿に響くわよ」
「うう〜。違いますってば〜」
「どうせ授業中にう〜とか言って寝てるんでしょ」
「ううう〜。睡眠はちゃんととってますよっ」
「あんまり先生を困らせちゃ駄目よ」
「うううう〜。愛子さん、いぢわるですっ」
渚はそう言って、ぷいっと顔を横に向けた。その仕草が可愛らしくて、なんだかちょっと心が和んだ。やっぱり、渚は子供だ。
「早く着替えた方がいいんじゃない?」
「わ、そうだった」
慌てて椅子から立ち上がり、あたしと自分の食器をてきぱきと集めて、流しに置く。そしてそのまま、二階へと続く階段をどたどたと上っていった。
「お待たせですっ」
「早いわね」
「お気に入りですからねっ」
「や、それは関係ない」
「え〜? ありますよ〜」
学生かばん片手に反論する渚の姿は、やっぱり子供っぽかった。
「あ、そう言えば、愛子さん、これからどうするんです?」
「どうするって?」
「ず〜っとうちにいるんですか? それじゃあ不健康路線まっしぐらですよ〜?」
「う……確かに」
「それに、愛子さんは、お金を稼がないといけないんですよね?」
「あ……そうだった……」
子供っぽい渚だが、どうもあたしが置かれている立場をあたし以上に把握しているような気がする。事実、ついさっきまであたしの頭の中から、あたしの中で一番重要であるはずの「お金を稼ぐ」という項目が、すっぽり抜け落ちていたからだ。
「それだったら、いい案がありますよ〜」
「何?」
「渚っちが学校に行く途中で、この街をちょっと案内するんです」
「ほうほう」
「それで、人がいそうな場所を探して、愛子さんがそこであの人形劇を見せるんです」
「なるほど」
「お昼になったら、渚っちと一緒に家に帰ってきて、一緒にお昼を食べるんです」
「うんうん」
「どうですか?」
「乗った」
「わ、了承してくれた♪」
渚は満面の笑みを浮かべて、きゃっきゃっと飛び上がり気味に喜びを表現して見せた。多分だけど、あたしと一緒に街を歩けることがうれしくて仕方ないのだろう。あたしにしても、この街の地理は少しでも頭に入れたかったし、渚が誰かにとって食われるとあんまりいい気分はしないと思うから、保護者代わりについていってやろうと思った。
「それじゃ、そろそろ出発です」
「分かった」
あたしはいつも持ち歩いてる手提げかばんを手にとって、渚に続いて外に出た。
「あづい……」
「わ、第一声がすごい声」
一歩外に出て、あたしは中へと引き返したくなった。外はまさに「焼けるような」暑さだ。せみがみんみんみんみん鳴いて、太陽がじりじりじりじり照りつけ、陽炎がゆらゆらゆらゆら揺れている。身に堪える暑さだ。
「あつはなつい……」
「たははっ。さ、行きますよ〜」
「……うう」
あたしは情けない声を出しながら、渚の後を続いて歩く。渚はいつものペースで、てくてく歩いてる。このくそ暑さをもろともしていない渚に、ちょっと尊敬の念を抱いてしまった。そしてその直後に湧き上がる、小さな悔しさ。そう言えば、ここに来てからはほとんどずっと渚のペースだ。うう。
「家から出てちょっと歩くと、『仲西商店』っていう小さなお店があります」
「小さいコンビニみたいなものね」
「ここのジュース、おいしいんですよ〜。帰りに買って飲みましょうねっ」
「……お金、ないんだけど……」
「あ、大丈夫ですよっ。今日は渚っちのおごりですから」
「……………………」
「今日はお金、ちゃんと持ってますから、大船に乗った気でいてくださいねっ」
「悪いわね」
どうやら、いつも十円しか持ち歩いてない、ってわけでも無さそうだ。めちゃくちゃな暑さなので、今すぐにでもジュースを買って飲みたい気分だったんだけど、渚が「帰りに」と言うので、素直に従うことにした。
「……ところで、渚は今何年生なの?」
「えーっと……あ、二年生です。来年は、年長さんの学年になるんですよ」
「なるほどね……講習に参加してるってことは、もう志望校決めてたりするわけ?」
「う〜ん……まだ、そこまでは決めてないですけどね……たはは……」
「……ま、あたしが関わることでもないし、ゆっくり決めればいいわ」
「たははっ。そうしますねっ」
渚はころころと笑って、また歩き出した。
「ここを右に曲がると、商店街に行けますよ。渚っちは、いつもここでお買い物をしてるんです」
「結構人通りがあるわね」
渚が指差す先には、商店街のアーケードが見えた。目を凝らしてみてみると、朝早いにも関わらず、人通りはそれなりにある。夏休みに入った子供が、小遣いを握り締めてお菓子でも買いに来ているのだろう。なかなかの稼ぎポイントに思われた。
「ここからは他にはどんな場所につながってるの?」
「そうですね〜……あ、ここを曲がって左に行って坂を上って右に曲がって直進すると図書館、図書館から奥に行って左に曲がって坂を下ると公園、図書館から右に曲がって坂を上って右に曲がると、駅に行けますよっ」
「え、あ、ちょっと……」
「それから、渚っちの家から左に曲がって坂を上って右に曲がって坂を下って山を登ると、『五十嵐神社』っていう神社があります。お正月とかは、人でいっぱいいっぱいになるんですよ〜」
「ちょっと」
「あ、どうしました?」
「……全然分からない」
「あ……ごめんなさいです……」
渚は平然とした顔で説明していたが、あたしの中ではそれぞれの位置関係がまるで頭に入っていなかった。かろうじて、ここからは「図書館」「公園」「駅」「神社」に行けるという事だけは分かった。
「う〜ん……ホントはゆっくり案内したいんですけど、渚っちはそろそろ学校にいかないとまずいです……う〜ん……」
「ま、今日が駄目なら、今度でもいいよ。もう少しここにいるつもりだし」
「えっ?! 愛子さん、もう少しここにいてくれるんですか?!」
「まぁね。次の目的地に行くまでの旅費を稼がなきゃいけないし」
「うう〜。うれしいです〜。うれしいですよ〜」
何がそんなにうれしいのかはよく分からないが、渚は幸せそのものの表情で、スキップをしながら歩き始めた。あれぐらいの年代の子とあたしみたいなのが一緒にいたら、むしろお互い息苦しいもんだと思うんだけど、渚を見てるとそんな様子は微塵も無い。心の底からうれしそうだ。
と、スキップをしていた渚が突然立ち止まり、口に手を当てた。
「あっ! 渚っち、ナイスアイデアひらめきました!」
「ひらめいた?」
「はいっ。ひらめきましたっ! すっごくいい案をです!」
「どんな案よ?」
「渚っちが愛子さんのために、この辺りの地図を書くんです! そうすれば、愛子さんはなんとたった一日で、この街の事なら何でも知ってる『物知り愛子さん』になれちゃいますよっ!」
「や、地図はいいけど、『物知り愛子さん』ってあなた」
渚のいつものよく分からないノリはともかく、渚に地図を書いてもらうというのは、確かにいい案だ。渚の説明を聞く限り、この辺りの位置関係はかなり正確に頭に入っているみたいだし、何より渚は地元の人間だ。地元の人間ならではの、人が集まるスポットなどの情報も期待できる。
「どうですか? 渚っち、頑張って書きますよ?」
「それじゃあ、お願いしようかしら」
「わ、お願いされちゃった。はいっ! 渚っち、全力で頑張りますっ!」
「期待してるわよ」
「わ、期待までされちゃいました! こーなったら渚っち、期待は裏切れません! なんだか緊張するです!」
「どーでもいいけど、そろそろ行かないと、遅刻するわよ」
「わ、大変大変。遅刻はダメですよねっ」
そう言って渚は、またとてとてと歩き出した。あたしもその後について、遅れないように歩いていく。
夏の日差しは、相変わらず強くてまぶしい。
「ふぅ〜。なんとか間に合いましたねっ」
渚とあたしは、渚が通う学校へとたどり着いた。何の変哲も無い、ごく普通の学校だった。スライド式の校門、外壁に取り付けられた時計、サッカーのゴールがある運動場。どれもこれもが、ごく普通の平均的学校像を作り出している。
「……………………」
……が、あたしは、その学校の校門にある、とあるものに目が釘付けになっていた……多分、「信じられない」といった感じの表情で。それぐらい、あたしにとって衝撃的なものが、その校門にはあったのだ。
「ここが渚っちの通う学校ですよっ。どうですか? 愛子さん?」
「……………………」
「あれれ〜? 愛子さ〜ん?」
「……………………」
「愛子さ〜ん?」
「……ねえ渚」
「わ、答えてくれた。なんですか?」
「……これ……」
「え……?」
あたしの指差す先。そこにあったもの。それは……
「……渚。あなたって、高校生だったの……?!」
……この学校の正式名称である「新開高等学校」という文字が刻印された、銅製のプレートが取り付けられていたのだ。それはもう、「俺は高等学校だ」と自己主張するぐらいの勢いで。いや、どう考えてもそのときのあたしが勝手にそう見てただけだと思うけど。
「あれれ〜? 気付かなかったんですか〜? 渚っちは立派な高校二年生ですよ〜?」
「二年生って……高校二年生って意味だったの……」
「……ひょっとして愛子さん、渚っちに何かこうすっごく大きな勘違いをしてませんでしたか……?」
「や、てっきり中学生かと」
「う〜……やっぱり……それって、どういう意味ですかっ」
「言葉どおりよ」
「うう〜。それじゃ分からないですよ〜」
「言葉どおりだって」
「ううう〜。同じこと二回も言わないで下さいっ」
「言葉どおり」
「うううう〜……三回も〜……愛子さん、いぢわるですっ」
また渚がぷいと横を向いて、ちょっと怒って見せた。何気に、この一連のやり取りを結構繰り返している自分に気付く。知らない間に、渚に気を許している自分に、内心ちょっと驚いた。基本が「必要なこと以外話さない」のあたしなのに、渚とは何かこう「普通」に話している。うーむ。なんか不思議な感じ。
「それより、早く行かないと授業に遅れるわよ」
「わ、そうだった。早く行かなきゃっ」
「あ、ちょっと待って。講習は何時ぐらいに終わるの?」
「え〜っと……あ、十二時十分です。それぐらいの時間に、ここで待っててください」
「分かったわ。それじゃあね」
「はいっ! それじゃ愛子さん、行ってきますねっ!」
「居眠りしないようにね」
「うう〜。渚っちはマジメな模範的優等生ですっ」
最後にそう言って、渚が手を振りながら校舎へと駆けていった。
「さて……」
あたしはそれを見送りながら、これからどうするかを考えていた。
「とりあえず、商店街にでも行ってみますか……」
来た道を一度戻って、商店街に行くことにした。ま、他の場所の行き方がよく分からなかった、ってのもあるんだけどね。
「さて、と……」
あたしは商店街の一角(もちろんアーケードの中だ)に腰を下ろすと、持ってきた手提げ袋の中から例の人形を取り出し、地面に静かに置いた。
(まずは深呼吸……)
大きく息を吸い込んで、声を張り上げる準備をする。こーいうのは、思い切りが肝心だ。うじうじしてちゃ、客はやって来ない。一人になってしばらくは、最初のきっかけをつかむのが大変で泣きそうだった。実際、何度泣いたか分からない。始まってしまえば、意外とどうということはないのだけど。
「さぁー寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 世にも不思議な人形劇が始まるよっ!」
あたしは声を上げてみて、周囲の人間の様子を見てみた。ほとんどは素通りだが、何人かの子供が興味を示し始めた。しめしめ。出足は好調。
「……………………」
「おっ……」
そこに、あたしに近づいてくる男の子が一人。メガネを掛けていて、どこか静かそうな印象。よっしゃ。いい感じだ。こういう子は割と素直に劇を見てくれるし、お代の取りこぼしも少ない。金額こそ期待はできないが、確実で手堅い収入になってくれそう。
「そこの君、あたしの人形劇を見たい?」
「うん。見てみたい」
「よーし分かった。これからお姉さんが、キミのために劇を見せてあげるね。あっ、そうだ。他に見せてあげたい他に友達とかはいるかな?」
「いるよ。呼んできてもいい?」
「いいわよ。ここで待ってるから、友達も呼んできなさい」
「分かった!」
男の子は立ち上がって、どこかへ駆けていった。よしよし。完璧だ。友達を呼ばせることで、もらえる額を着実に増やす。これぞ「チリも積もれば山となる」作戦。あの様子だと、見せてあげたい友達は確実にいるようだし、すぐにでも戻ってきてくれそうだ。初っ端からかなりの上客を引き当てたみたい。にしし。
五分ぐらいしてから、男の子が女の子を連れて戻ってきた。女の子は栗色の髪をツインテールにしてて、髪を止めてるゴムに付いた赤い玉がかわいらしかった。見たところ、十二歳ぐらいだろう。当然だが、渚とは比較にならないぐらい幼い。いや、一応現役高校生である渚と比較する方が間違ってるんだけど。
「ねえ竹生(たけお)君、人形劇を見せてくれる人って、この人?」
「そうだよ紅葉(もみじ)ちゃん。見ていこうよ!」
「そうね!」
ほうほう。かなり仲の良いお二人さんのようだ。それなら、子供向けのほのぼの純愛モノ、そしてハッピーエンドで終わるものがいいだろう。それじゃ手堅く、「白雪姫」でも……
と、そこへ女の子の方が、
「ねぇお姉さん、『脱走と追跡のボレロ』って知ってる?」
「えっ? 『脱走と追跡のボレロ』? 知ってるっていえば知ってるけど……」
「知ってるんだ! それだったら、それを人形劇で見せてほしいわ!」
「えっ? えっ? えっ?」
「あ、僕もそっちの方がいい! ねぇお姉さん、ダメかな?」
「……ほ、ホントに、それが見たいの……?」
あたしは思わず硬直してしまった。
あたしが戸惑う、というか、正直やりたくないのには、理由がある。「脱走と追跡のボレロ」は、プロットに問題がありすぎるからだ。問題がありすぎるというか、はっきり言おう。ややこしいを通り越して、理解不能な領域に入っているのだ。
……しかし。
「うんっ。すっごく見てみたいっ」
「お姉さん、お願いっ!」
子供たちはマジで「脱走と追跡のボレロ」を見たがっている。そんな感じで詰め寄られると、あたしとしても引き下がろうにも引き下がれない。
「わ、分かったわ。それじゃあ今からこの人形を使って、『脱走と追跡のボレロ』を再現してみるわね」
「ホント?! うれしい!」
「やったぁっ! 楽しみだなぁ!」
……あたしは覚悟を決めて、人形に力を込めだした。
その理解不能レベルのプロットとは、こんなものだ。
あるところに男が一人いた。男はひょんなことから「自分の住んでいる世界とは違う世界」に迷い込んでしまう。男は「自分の住んでいる世界」に必死に戻ろうとするのだが、戻ろうとすればするほど意味の分からない世界にどんどん深入りして行き、最後には何を持って「自分の住んでいた世界」を定義するのかも分からなくなってしまう。これはまあ、よくあるプロットだろう。プロットだけなぞれば、大したことはない。
問題はその「自分の住んでいた世界とは違う世界」の様相だ。これがもう筆者のセンスが大爆発しすぎていて、とてもじゃないけど言葉じゃ説明できそうにない。あえて言うなら、コンピュータの世界の中でプログラムネズミと七転八倒の大格闘を繰り広げたりだとか、数分前の自分がたくさんいたりだとか、ずーっとそんな調子で話が続くのだ。今例に挙げたのは、分かりやすいのを選んだつもりだったけど、正直自信ない。
それにも増して話をややこしくしてるのは、その男を追う「追跡者」の存在だ。こいつが話のところどころで支離滅裂にもほどがある「報告書」とやらを一章丸々使って書くのだけど、そのおかげで話が途切れ途切れになってややこしいことこの上ない。元々追いづらい話をさらに追いづらくする、そんな存在だ。
どー考えても、上の筋書きはお子様向けではない(大人が見たところで、全部理解できるかどうか怪しいぐらいだ)。まかり間違っても、純愛モノではない。天地がひっくり返っても、ほのぼのしたストーリーではない。誰がどう見ても、ハッピーエンドではない。完璧に対極に位置してる。見まごうことの無い、理解不能レベルのシロモノだ。
(……うぅ)
ああ。こんなアヴァンギャルド(意味違うかも)で(いろんな意味で)どろどろな劇を見せられて(あたし自身どんな風に演じていたか覚えてない)、あの二人の子供はどう思っただろう。いっそ途中で帰ってくれれば……
あたしはかすかな期待を込めて、顔を上げてみる。
「……………………」
「……………………」
ああ。まだいる。まだいるよ。あのグロテスクで(いろんな意味で)どろどろな劇を最初っから最後まで見たなんて、もう信じらんない。よっぽど律儀な子供なのか、怖くて逃げようにも逃げられなかったのか、それともアホ見物をしてたのか……ううっ。どんな理由でも、この場にいられること自体が恥だよ……
……と、あたしが思っていると。
「面白かったねー♪」
……………………へ?
「うん。すっごく面白かったよね!」
……………………は?
「見に来た甲斐があったね♪」
「うん!」
……今この二人は、何と言った?
「最後のシーンとか、すっごく面白かったよね♪」
「うん。自分達をパロディにしちゃうなんて、絶対思いつかないよ!」
「途中の時計屋さんのシーンとか、もう滅茶苦茶だったよね♪」
「うん。こんなプロットをまとめちゃうなんて、さすがは時空SFの決定版を書き上げちゃう作者なだけあるよ!」
……今この二人は、何について話している?
……よ、よくは分からないが、どうやらあの劇は好評だったらしい。あたしが言うのもなんだが、この二人、感性がすごすぎると思う。すごすぎると言うか、何と言うか。
と、そこへ。
「……あ、お母さん!」
「あら、竹生君と一緒に急にいなくなったと思ったら、こんなところにいたのね。探したのよ」
と、そこへ、恐らく女の子……紅葉ちゃんだったっけ。紅葉ちゃんのお母さんらしき人物が、あたしの前に姿を現した。見るからに優しそうな顔をしていて、あたしのような何処の馬の骨とも知らない人間と、自分の娘が一緒にいるのを目にしても、表情一つ変えない。うーん、きっとよくできた人なんだろう。
「ねぇお母さん、お小遣い、ちょっと前借りしてもいい?」
「いいけど、何に使うの?」
「すっごく楽しい人形劇を見せてくれたこのお姉ちゃんに、お金を払いたいの」
「あらあら、感心ね。それだったら、しょうがないわね」
母親はにこにこしながら、バッグから財布を取り出して、五百円玉を一枚、紅葉ちゃんに手渡した。それを見た男の子……竹生君の方も、ポケットから財布を取り出して、百円玉を何枚か掴み上げた。
「はい。これだけだけど」
「僕からも、ちょっと少ないけど」
「あ、ありがとう……」
あたしの右手に、五百円玉が一枚と、百円玉が三枚、載せられた。硬貨を乗せた手はどちらも小さくて綺麗で、触ってみたくなるような質感があった。
あたしがしげしげと四枚の硬貨を見つめていると、不意に、
「あの……」
「あ、はい」
紅葉ちゃんの母親が、あたしに声をかけてきた。
「……人形劇って、どんな感じのものなんです?」
「……え?」
あたしは目をまん丸くして、母親に問い返した。母親は頬に手を当てて微笑みながら、さらに言葉を続ける。
「実は……私もちょっと興味が湧きまして……よろしければ、様子を見せてもらえないでしょうか?」
「は、はあ……」
さすがはあの子の母親。やっぱり、普通の人とはどこかズレている。しかし、それはある意味では「寛容」とも言えるズレだ。恐らく、人当たりがすごくいいのだろう。きっと、彼女のことを悪く言う人間は、相当限られているに違いあるまい。
「えーっと、この人形を……」
あたしは再び、人形に力を込め始めた。
それからしばらく人形を歩かせたり、ジャンプさせたりして、母親にその様子を見せた。
「……という風に動かして、劇を見せるんです」
「あら……本当に手を触れずに、人形を動かしてるんですね。不思議ですわ」
「あたしの一族に、代々伝わる力なんです」
「それはそれは……それで、旅をなさってるんですね」
「ええ、そうです」
「お若いのに、大変ですね。尊敬しますわ」
「あ、いや、そんな……」
「これからも頑張ってくださいね」
最後ににこやかに激励され、母親と少女、そしてその友達の少年は、そのままどこかへと立ち去っていった。あたしはそれをぼーっと見送っていたのだけど、不意に母親が振り返って、
「旅人さん」
「はい?」
「その力を、誰かのために役立ててあげてくださいね」
「えっ?」
最後のそう言い残し、また歩き出した。あたしが驚いて何も言えずにいた間に、三人の姿はすっかり消えてしまっていた。
後に残されたのは、地面で寝転がってる人形と、手の中で熱を持ち始めた、四枚の硬貨だけだった。
「不思議なもんだねぇ……」
あんなに内容が(いろいろな意味で)やばい劇を見せたのに、見せた子供はすごく喜んでくれて、しかも自分からお代を払うと言ってきた。なんだか、良かったんだか悪かったんだか、いまいちよく分かんない。でも、この手の中にある八百円というお金は、紛れも無くあたしのものだった。
「……ま、結果が上々なら、言うことなしっ」
そうつぶやいて、あたしは閉まったままの店のシャッターに寄りかかった。ガシャンという無機質な音が、せみの大合唱の中でも妙な存在感を伴って、あたしの耳に飛び込んできた。
気が付くと人通りもまばらになり、あたしもちょっと疲れちゃったから、呼び込みもせずにその場でだらーっと座ってた。
「……………………」
何気なく左腕にしていた腕時計に目をやる……十一時四十三分。今から学校に向かって歩き出せば、ちょうどいい時間に渚と合流できそうだ。
「……行きますか」
あたしは手提げかばんを持って立ち上がり、商店街を後にした。
道を忘れそうになってちょっと冷や冷やしながらも、あたしはどうにか渚の通う高校にたどり着いた。
「……………………」
あたしは今一度、校門に取り付けられたプレートを見やる。朝見た光景が、未だに信じられなかったのだ。
「……『新開高等学校』……」
間違いなく、ここは高校だ。渚はここに通っている。つまりは、渚はれっきとした高校生だということだ。昨日出会った時から今日の朝まで、絶対に中学生だと信じていたのに、目の前の現実はそれを見事に打ち砕いてくれた。
「……ホント、底の知れない子だわ……」
あたしはため息を混ぜながら、そうつぶやいた。
それからしばらくすると、授業の終わりを告げるチャイムが聞こえ、校舎からかばんを提げた生徒達がぞろぞろと出てき始めた。あたしはその中から、渚の姿を探す。
「いたいた」
……いた。校舎から、一人でとことこ歩いて出てきた女の子。他の子より身長が一回りは小さいから、すぐに見分けが付く。向こうもこっちの姿に気付いて、手を大きく振って自分の存在をアピールしている。
「あっ、愛子さ〜んっ!」
「走らなくていいから」
「わ、ホントに待っててくれた! 渚っち、うれしいですっ」
「あたしは約束はちゃんと守るタイプよ」
「たははっ。そうですよねっ」
満面の笑みを浮かべた渚と肩を並べ、あたしは学校を後にした。
「愛子さん、どうでしたか? お金、稼げました?」
「んー。ぼちぼち」
「わ、良かったですねっ。でも渚っちは、あれだったらみんな喜んで見てくれると信じてました」
「そんなに面白かったわけ?」
「はいっ。もう一回見たいぐらいですよ〜」
うーん。渚もさっきの子供たちも、あたしの人形劇を面白い面白いと言ってくれている。それ自体はちっとも悪い気はしないのだけど、あんなよく分からないモノマネや、必要以上の理解不能描写がウリの劇なんかを見て「面白い」と言われると、やっぱりちょっと複雑。
「お昼からは、どうするんですか?」
「んー。家でごろごろ」
「それじゃ、渚っちもそうしますね」
「やっぱり今日とか昨日とかって、この辺でも『暑い』日に入るの?」
「今日はまだ涼しい方ですよ〜。一昨日はもっと暑かったです」
「ぐあ……これでまだ涼しい方なんて……」
「たははっ。愛子さんひょっとして、暑いの苦手ですか?」
「暑いのが得意な人なんか、人じゃない」
「わ、渚っちショック」
「全然ショックそうじゃない」
「ショックですよ〜。ハートブレイクですっ」
「こんなんでハートブレイクしてたら、あんた心臓いくつあっても足りないよきっと」
「たははっ。冗談ですよっ」
渚は笑って、あたしの前を歩き出した。外はまさにうだるような暑さ(実際あたしはうだり気味だ)なのに、渚は汗一つかいていない。渚の「暑いのは得意」という言葉は、あながち嘘でも無さそう。いいなあ、うらやましいなあ。
あたし達はそのまま歩き続けて、学校へ行く途中に通ったあの「仲西商店」の前まで差し掛かった。と、そこで渚が、
「あっ、そうだそうだ。ここでジュースを買って飲むんでしたよね」
「そう言えば、そんな約束もしたっけ」
「今日は約束どおり、渚っちのおごりですよ。どれにします?」
「んー。渚の好きなのでいい」
「分かりましたっ。それじゃ、これにしますねっ」
渚は財布(大方の予想通り、子供が使うようなビニール製のファンシーな財布だった)を取り出して、とてとてと自動販売機の方へ駆けていった。自販機の前まで来ると、まずお金を入れてから、しばらく「う〜」とか言って悩んでいたみたいだが、何を買うか決めたのか、ぽちっとボタンを押して飲み物を買った。その作業をもう一回やってから、あたしの方へ帰ってきた。
「お待たせですっ。はい、これ愛子さんの分」
「サンキュ」
「これ、すっごくおいしいんですよっ。飲んでみてください」
渚が買ってきたのは、オレンジ色の紙パックに入ったジュースだった。なんとなくだが、多分オレンジ味なのだろう。嫌いな味じゃない。
……が。
「……なんかこれ、妙に重たくない?」
「え〜? そんなことないですよ〜?」
「そう……ま、いいか」
あたしは紙パックのストローを引き千切り、ビニールを破って差し込んだ。そして、ストローに口をつけて、中のジュースを一気に吸い上
「げ、げほっげほっげほっ!」
あたしはジュースの「味」に、本能的に「これはヤバイ」というモノを感じた。複雑で、独創的で、そして何か得体の知れないこの味。間違いなかった。
「わ、愛子さん?! 大丈夫ですか?!」
「な、な、な、何なのよこの謎ジュースはっ!」
「謎ジュース?」
「謎ジュースよ、謎ジュース!」
あたしは大声で「謎ジュース」という単語を連呼していた。渚が呆気に取られた表情であたしを見ているのも気にせず、あたしは乱れに乱れた呼吸を整える。
よく見るとそれは、オレンジ色のジュースだった。でも、味は明らかにオレンジじゃなかった。むしろなんかこう……
……そう。あれだ。
……ジャムっぽかった……
ジュースなのにジャムっぽいって、一体どーいうことなのよ。
「ぜぇ……ぜぇ……な、渚……これ、なんのジュースなの……?」
「う〜ん……実は、渚っちもよく知らないんですよ〜。たははっ」
「……………………」
「ひょっとして、おいしく無かったですか?」
「断言するわ。これを『おいしい』なんていう人は、あたしは人として認めない」
「わ、ひどいですっ。渚っちはれっきとした人間ですっ。ホモ・サピエンスですっ」
「ダメ。これだけは譲れない。よって渚は人間じゃない」
「う〜。渚っちは人間ですっ」
「その『う〜』とかいう唸り声、それこそ渚が動物だっていう何よりの証拠」
「うう〜。これは口癖ですっ」
「そしてあの『たはは』笑い。あれはきっと仲間を呼ぶための笑い声ね」
「ううう〜。それも口癖ですっ」
「極めつけは身長。高校生にしては低すぎる」
「うううう〜。愛子さん、とってもいぢわるですっ」
渚はいつものようにぷいっと向こう側を向いて、口をへの字に曲げてしまった。これが面白くて、あたしはつい渚をからかってしまう。渚も渚で、多分このやり取りが楽しいのだろう。怒ったふりをしているが、口元には笑みがこぼれている。
と、あたしは自分の手を見てみる。そこにはまだ、中身を九十八パーセントは残していると思われる謎ジュース(命名)が、しっかりと握られていた。が、とてもではないが飲む気は起こらない。
「ねえ渚」
「あ、なんです? 愛子さん」
「これ、いる?」
「えっ?! いいんですか?!」
「あたしはこれ以上はもう絶対一滴も飲めないし、かと言って捨てるのもどーかと思うから」
「わわわっ、ホントにもらっちゃっていいんですか?!」
「もらうも何も、買ったのは渚だし」
「うう〜。うれしいです。うれしいですよ〜」
渚は感涙に咽びながら、あたしの手からあの殺人ジュースを受け取った。
「〜〜〜♪」
「……………………」
そして、まず自分のをすごくおいしそうに一気に飲み干してから、あたしの方を振り向いて一言。
「やっぱりおいしいですよ〜。本当にいらないんですか?」
「いらない」
「それじゃ、渚っちが飲んじゃいますねっ」
次にあたしの飲みかけのものを飲み始めた。
(しかし、どうしてあんなものをこんなにおいしそーに飲めるのかしら……)
見ていると、何故かあのジュースがとてもおいしそうなジュースに思えてくる。渚がジュースのCMをやれば、きっと中身が生ゴミの絞り汁のようなジュースでも飛ぶように売れるだろう。そして、買った人間が絶望にむせび泣くのだ。
(ひょっとして、味覚がおかしいんじゃ……)
と、あたしが考えていると、
「あ、今愛子さん、何かひどいこと考えてませんでしたか〜?」
と、渚。あたしはいつものように、渚をおちょくる。
「ん〜。正解」
「う〜。ひどいですっ。そこは否定してほしいですっ」
「嘘は泥棒の始まりだからね。あたしは嘘は付かない主義なの」
「うう〜。嘘も方便って言うじゃないですかっ」
「お、そんな言葉も知ってたの。感心感心」
「ううう〜。誰でも知ってますっ」
「次は『猿も木から落ちる』ね」
「うううう〜。それも知ってますっ。愛子さん、いぢわるですっ」
「いぢわるで結構」
「……そうだ。今日の愛子さんのご飯は、ジャムだけにしようっと。ジャムの上にジャムを乗っけて、ジャムをおかずにジャムを食べるの。飲み物はジャムを水で溶いたもの」
「それだけは、それだけは勘弁してください」
「たははっ。冗談ですよっ」
いつものやり取り(たった二日でもう「いつもの」と言えるぐらい馴染んでしまった)をして、あたしと渚は家路に着いた。
「……この素麺、ホントにゆでただけ?」
「たははっ。これはホントにゆでただけですよっ。あっ、でも、ダシは手作りです」
「……やっぱり」
あたしは渚がお昼に出してくれた素麺をすすりながら、素麺の味にただ驚いていた。氷でしっかり引き締められた素麺に、濃い目のダシ(市販のものとは風味が断然違う)が絡んで、なんとも言えないいい味を作り出している。口の中だけ、ものすごく涼しくて気持ちいい。
「たくさん作りましたから、遠慮なく食べてくださいねっ」
「あいよ」
渚の言葉に甘えて、あたしは渚お手製の素麺をひたすら食べまくった。渚は隣でたははと笑いながら、一緒に素麺をつついていた。うーん。夏はやっぱり素麺に限る。冷え冷えの麦茶(これも渚が作ったらしい。本当になんでもできる子だ)もあいまって、先ほどの暑さが嘘のように感じられる。
「渚ってさ……」
「ふえ?」
素麺を口いっぱいに頬張ったまま、渚が反応する。
「料理、うまいよね」
「ふえ?! うぐううぐうぐ!」
「あー、飲み込んでからでいいから。飲み込んでから」
「うぐうぐ……」
どっかのたい焼き少女(前にいた街で出会った子だ。からかうと渚みたいな子供っぽい反応を返す、一緒にいて面白い子だった)みたいに散々うぐうぐ言ってから、渚は麦茶を使って素麺を胃の中に押し込んだ。口の中が空っぽになったのを確認してから、渚が言葉を発する。
「わ、愛子さんが褒めてくれた! それ、嘘じゃないですよね?!」
「帰り道にも言ったはずだけど? あたしは嘘は付かない主義だって」
「ううう〜……うれしいですっ。誰かに褒めてもらうのって、こんなにうれしいんですねっ」
「あたしみたいなのに褒められても、あんまりいいもんじゃないと思うけど」
「そんなことありませんっ。もっと自分に自信を持ってくださいっ」
「や、別に自信が無いわけじゃなくて。というか……」
「え? どうしましたか?」
「……渚、あんたまだ着替えてなかったの……」
渚は……前にも見せた、「エプロンon制服」という服装を、今回も見せていた。正直、すげー格好だと思った。
「食べ終わったら、ちゃんと着替えなさいよ」
「え〜? これ、お気に入りなんですよ〜?」
「え〜? じゃないっ」
「う〜」
「う〜、でもないっ。あ、ちなみにこの後寝るのもダメだからね」
「ううう〜。愛子さん、いぢわるですっ」
こんな感じでわりと和やかに昼食を取って、午後からはゆっくりすることに決めた。
「あ゛〜〜〜……」
あたしが扇風機に向かってアホみたいな声を出している間(これ、実は好きだったりする)、渚は隣で黙々と作業をしていた。服装は昨日も着ていた白いワンピースだ。
その渚の隣には、何か薄いものが何枚か重なって積まれている。なんだろう?
「何してんの?」
あたしはそれに興味を持って、渚に問いかけてみた。
「あ、愛子さん。たははっ。これは渚っちのお遊びですよっ」
「お遊び?」
「はいっ。これです」
「……?」
そう言って渚は、あたしの前に何かを差し出した。
「……紙飛行機?」
「ピンポーン! 当たりですっ。これをいっぱい作って、飛ばすんです」
「それが渚のお遊びなの?」
「はいっ。渚っちが一番好きなお遊びですっ」
「……それはいいけど、どうしていっぱい作る必要があるわけ?」
「分かってませんね愛子さん。たくさん作って、一回ずつ飛ばして、一番飛んだのが優勝なんですよっ」
「や、優勝って」
「これだと、一人でも寂しくないですからねっ」
「や、寂しいって。絶対」
一人で紙飛行機をたくさん作って、一人でたくさんの紙飛行機を飛ばして、一人で一番飛んだ紙飛行機の優勝を祝う。これ以上寂しい遊びがあるだろうか。いや、ない。断言できる。絶対無い。
「あっ! 渚っち、ナイスアイデアひらめきました!」
「……却下」
「わ、まだ言ってませんよぅ」
「よし分かった。それが『愛子さんも一緒にやりましょうよっ』以外だったら言ってもいい」
「ううう〜。愛子さん、いぢわるですっ」
「図星かっ」
冗談じゃない。何が楽しくて、紙飛行機をたくさん飛ばさなきゃならんのだ。それに……
「そう言えば渚、地図はどうしたの?」
「あ、えっと……」
「……………………」
「その……」
「……『たははっ。忘れてましたっ』とかは無しね」
「ううう〜。その通りです……」
「……ごめん。できればなるべく早く書いてほしい」
「あっ、はいっ!」
渚は横に置いてあったもの――よく見たら、それは折り紙だった――を慌てて集めて、今度はそれよりもちょっと大きな紙と、定規とボールペンと、それから十二色のペンが入ったビニールのケースを取り出した。
「今から書きますから、ちょっと待っててくださいね」
「あ〜、ゆっくりでいいから。渚のペースでいいから」
「はいっ。頑張りますねっ」
そう言って、渚は作業に取り掛かった。ここからはあんまり邪魔するわけにも行かないし、かと言って外に出るのも、あの暑さが思い出されてためらわれたしで、あたしの取った選択肢は、
「……寝ますか」
……前と同じだった。
「毛布、いります?」
「いい。このままでいい」
渚はそれだけ言って、また作業に取り掛かった。あたしだけ寝て、渚に作業させるのはちょっと気が引けたけど、ちらりと見た渚の目はらんらんと輝いていた(多分、あたしに何かしてやれるのがうれしいのだろう。どうしてそんなことがそんなにうれしいのか、あたしには分からなかったけど)ので、すぐに後ろめたさも消えて眠りにつけた。
「……………………」
……どれぐらい眠っただろう。だんだんと意識がはっきりしてきた。
「……いっつ……」
寝たときの体勢がまずかったのか、あたしの背中に鈍い痛みが走った。起き抜けに、ヤな感じ。
「あ、愛子さん起きましたか?」
「う〜……ごめん渚、今何時?」
「え〜っと……もうすぐ六時、です」
「うわ〜……もうそんな時間なの……通りで空が赤いわけだわ」
あたしは窓の外へと目をやる。見ると、空は完全に赤色に染め上げられていて、昼間うんざりするほど自己主張していた青はすっかりなりを潜めていた。あたしが寝始めたのが大体一時半頃なので、ほぼ五時間は眠っていた計算になる。昼寝にしては、ずいぶんと長くなってしまった。
「もうすぐご飯にしますから、もうちょっと休んでてくださいね」
「悪いわね。任せっきりで」
「たははっ。気にしないでくださいね」
渚は明るく笑って、台所へととてとてと駆けていった。思えば、ちょうど昨日の今頃、渚と出会ったはずだ。成り行きで渚の家に来て、なんだかんだで結構仲良くやって、それで今に至っている。うーむ。ヘンな子なのは間違いないけど、多分渚はいい子なんだと思う。そんなに人間好きでもないあたしが、たったの二日でここまで気を許してるんだから、きっとそうだ。
「しかし、これから何処へ行こうかな……」
とりあえず今は渚の家でご厄介になっているが、いつまでもそうしているわけには行かない。できるだけ早く目処を立てて、ここを出なければならない。あたしには……一応、旅の目的がある。今までほとんど誰にも話したことがないけど、一応、目的らしいものはある。
「……………………」
少し記憶を辿ってみる。あたしの、旅の目的について。
あたしが旅をしていたのは、ただ単に住む家が無いからだとか、そういうのが趣味だからだとか、そういう理由じゃない。母さん、いや、もっともっと前の、じいちゃんばあちゃんの時代から、あたしたちの一族はずっと旅をし続けている。旅をすることが、この一族に課せられた使命だとでも言うように。
なぜ旅をしているのか、どうして一所に留まろうとしないのか。あたしには、その理由が分からなかった。というよりも……ヘンな話だけど、そんなことを考えたこともなかった。あたしは生まれたときからいろいろな場所を旅して、決して一所には留まらない。何かそんな考えが、最初から刷り込まれていた。
目的は分からない。最後に行き付く先もはっきりしない。旅をする理由は、はっきりとは分からない。
理由にたどり着くために、あたしに与えられたたった一つの手がかりは、母さんの残したこの言葉。
「空の上に、翼を持った一人の少女が囚われている」
それが何を意味していて、あたし達一族がそれをどうすればいいのか。そこまでは、あたしには分からなかった。空の上に翼を持った少女が一人囚われていたとして、羽も翼も無いただの人間に過ぎないあたしに、一体何ができるのだろう。それに、それとあたしが一体どんな関係にあるというのだろう。
あまりにも漠然としすぎていて、つかみ所の無い存在。普通だったら、さっさと忘れてしまうような、御伽噺のような母さんの言葉。事実、母さんから聞いた話は、ほとんど忘れてしまっていた。かすかに、その少女はずっと同じ場所にいるとか、大人にはなれないだとか、そんな意味深な言葉が記憶にあるだけだ。
……でも。あたしは不思議と、その母さんの言葉を否定する気にはなれない。むしろ、母さんの言ったことは本当で、あたし達が普段見上げている空の上に、その少女はいるのだと、あたしは信じているぐらいだ。自他共に認める現実主義者のあたしが、だ。普通の人なら、すぐに「そんなバカな」と否定してしまうような話を、だ。
それには、理由がある。
あたし自身の「力」。手を触れずに物を動かせるという、この「力」が、あたしにとって最大の理由だった。
手を触れることなく、目の前の物を動かす。こんなの、普通じゃありえない。普通の人なら、「そんなの、ありえないよ」の一言で終わってしまう。そんな、普通に聞けば突拍子もない話だ。
でも現に、あたしにはその力がある。その力を使って、今日まで生きてきた。
だから。
人間がこの世ではっきり説明できることなんて、説明できないことの半分も無いんじゃないかっていう、ちょっと哲学が入った考えを持つようになった。だからじゃないけど、あたしが探してる「空の少女」も、きっといるんだと思った。いなきゃ、あたしたち一族が何のために旅をしてきたのか、分からない。そんな考えも持った。
だから。
あたしはその「空の少女」を探し出さなきゃいけない。探し出してどうするのかまでは分かんないけど、とにかく探さなきゃいけない。だからこうやって旅をするんだし、一所に留まる事をしないんだ。旅をし続けていれば、あたしはきっと、答えにたどり着ける。そう思っていた。
あたしには、一応旅の目的がある。目的を達成していない以上、一所に留まるわけにはいかない。渚には悪いけど、なるべく早く、ここを出て行こう。あたしはそう思い、勢い込んでかばんを持ち上げた。よし。そうと決まれば、これから何処へ行くかを決めなければならない。先ずは手持ちの確認を……
「……そう言えば……今あたし……八百円しか……持ってないん……だっけ……」
……そう。あたしの財布には今、お昼に子供二人からもらった、四枚の硬貨しか入っていないのだ。決してどこかに行けない額ではないけど、多分行った先でまた立ち往生するだろう。それは困る。絶対困る。
「……もうしばらく、渚のご厄介になりますか……」
……さっきまでの勢いは何処へやら。あたしはまたかばんを下ろすと、壁に背を当てて身体を伸ばした。あー、難しいこと考えたから、なんだかお腹が減った。お昼からほとんど動いてないのに、お腹の中はなんだか空っぽな感じだ。どれ、渚の様子でも見に行くとしますか。
「どう? はかどってる?」
「あっ、愛子さん! ちょうどいいところに来てくれました!」
エプロン姿の渚が、こっちに手招きをしている。あたしはそれに招かれるまま、渚の方へ歩いていく。しかし、「ちょうどいい」って言うけど、何がちょうどいいんだろう。
「どしたの?」
「たははっ。今から愛子さんを呼んで、一緒にお料理しようと思ってたところなんですよっ」
「あたしを? ……あ、そう言えば昨日……」
「わ、ちゃんと覚えててくれた」
「そんな簡単に忘れるかっ。あたしは鳥かいっ」
「わ、愛子さん顔が怖い」
そう言えば、確か昨日「料理を教えてもらう」なんて約束もしたっけ。なるほどなるほど。確かに今から夕飯を作るし、できたものを食べれば無駄が無い。一石二鳥だろう。
「ん。分かった。今日は何を教えてくれるの?」
「えーっと……今日は、お味噌汁です」
「うし。分かった」
「それじゃ行きますねっ」
そう言うと、渚は必要な材料を用意し始めた。置かれたのは、昆布と鰹節。どうやらだしを取るところから教えてくれるようだ。うむ。確かにだしが取れればいろいろ応用が利くし、ありがたい。
「まず、昆布はよく絞った濡れぶきんで拭きます」
「ふむふむ」
「次に、お鍋に水と昆布を入れて、中火よりちょっとだけ弱いぐらいの火にかけます」
「中火よりちょっと弱いぐらい」
それからしばらく経ってから、
「昆布が浮き上がってきたら、さっと取り出すんです。入れっぱなしにしてると、だしがにごっちゃいます」
「さっと取り出す」
「それからまたしばらく煮立てて、沸騰するちょっと前ぐらい、泡が見え始めたぐらいに、鰹節を一気にどさっと」
「一気にどさっと」
「それから十秒だけ待って、一回火を止めます」
「十秒待って火を止める」
「そろそろ仕上げですよー。ざるにふきんを掛けて、ボールの上に重ねてください」
「ふきんを掛けて重ねる、と」
「そしたらもう一回鍋の方を見て、鰹節が沈んできたら、ゆーっくりだしを流し込んでください」
「ゆっくりね、ゆっくり」
あたしは渚に言われるがまま、その通り正確に動いていた。自主的に何かをするのは苦手だが、こんな風に横から的確な指示があれば、割合うまくできる自信がある。
「こんな感じ?」
「そうですよ〜。愛子さん、上手です」
「こう見えても一応女だからね」
「たははっ。そうですよねっ」
ちなみにこの後、このだしを取った後の昆布と鰹節を使って取る「二番だし」、それからお味噌汁で使う(あたしはてっきりさっき取ったのを使うものだと思っていた。無知って恥ずかしい)「煮干だし」の取り方も教わった。渚はいつもとは打って変わって、とてもいいタイミングで指示を出してくれるので、料理ベタを自認するあたしでも一度も間違うことなく、すべての工程をやり終えることができた。
「愛子さん、やっぱり上手です」
「んー。そう言われると悪い気はしない」
「でも、これも渚っちの教え方が上手いからですよねっ」
「こらそこ。自分で言うな自分で」
うーん。やっぱり渚は渚だ。分かりやすいのか、分かりにくいのか。
晩ご飯(今日は鶏のから揚げ。無駄な油が切られていて食べやすさは最高だった。ちなみに味噌汁も飲んだ)を食べた後、あたしと渚は昨日と同じように、コップに麦茶を並々と注ぎ、なんとも言えないまったりとした時間を過ごしていた。渚はあたしといるだけでなんだかうれしそうだ。やっぱり分からない。
「愛子さん、ちょっといいですか?」
渚が不意に話しかけてきた。
「なに?」
「今までどんなところを回ってきたのか、ちょっとでいいから教えてくださいっ」
なんてことは無い。おしゃべりをしたかったみたいだ。あたしも暇だったので、渚に付き合ってやることにする。
「別にいいけど、どうして?」
「えっと……実は渚っち、言うのがちょっぴり恥ずかしいことなんですが……」
「恥ずかしい?」
渚が珍しくうつむき加減で、ちょっと頬を赤らめながら(つーか女のあたしの前でそんな表情されても困るんだけど)、あたしに向かって言った。
「生まれてからずっと、この町から出たことが無いんですよ〜」
「……………………は?」
あたしは口を半開きにして硬直した。今渚は、何と言葉を発した? この町から出たことが無い? ひょっとしてそれはギャグで言っているのか? 新手のギャグなのか? そうなのか?
「たはは〜……恥ずかしいです〜」
いやいやあの渚の事だ。きっと本気(マジ)に違いない。本気で生まれてこの方、この狭い山村から外へと足を踏み出したことが無いのだろう。そうでなければ、あんな高校生とは思えない行動(例:朝にフライパンをフライ返しで叩いて起こす、家の中で制服着用、趣味が一人紙飛行機遊び等)をするとは思えない。
ちょっとかわいそうだなと思ったので、あたしはそれに乗ってやることにした。まぁ、話せるようなネタはそんなに多くないだろうが。お互いの暇つぶしになるなら、それで構わない。
「……で、あたしに外の世界の話をしてほしい、ってわけ?」
「えーっと……そういうことになりますねっ」
「……あんまり面白い話はないけど、それでもいいの?」
「わ、話してくれるんですねっ! いいです! どんな話でもいいです!」
「しょうがないわね。それじゃあ、まず……」
「……それで、ベンチで死に掛けてたのよ。猛吹雪の中」
「わ、愛子さん大ぴんちですっ」
「お金もなかったし、行くところもなかったし、母さんと二人身を寄せ合って、マジでここがあたしたちの墓場になるんじゃないか、って思ったわ」
「なんだか、すごくリアルな話です」
「んでも、世の中そう捨てたもんでもないのよ。あたしと母さんが半分ぐらい死に掛けてたところに、ちょっとカッコイイメガネの青年が参上したわけ」
「わわわっ! 急展開ですね!」
「それで、そのメガネ青年はあたしと母さんを自分の家に連れてってくれて、どうにか死なずに済んだのよ。あん時はほんっとに大変だったわ……」
「愛子さん、なんだかすごいです。渚っちだったら、きっと途中でだめになっちゃってます」
「あたしだって、何回ダメになりそうになったか分かんないわよ。他にもあるけど、聞きたい?」
「はいっ! いっぱい聞かせてくださいです!」
「よーし。それじゃあね……」
あたしの話を聞く渚は、いろいろな表情を見せて、とてもうれしそうだった。渚は元々顔立ちはいい方だし、表情も豊かだ。笑ったときは、女のあたしでも「かわいいな」と思えるぐらい、いい表情をする。これで中身が普通だったら(料理もできるし家事も得意みたいだから、ある意味ではあたしなんかよりずっと出来がいいんだけど)ねえ。そう思わずにはいられない。
「あっ、そろそろお風呂が沸く頃です。先に入ります?」
「そいじゃ、お言葉に甘えて」
「そうだ。服、一度洗った方がよくないですか?」
「んー。そう言われてみれば。でもあたし、着替え無いよ?」
「大丈夫ですよ〜。渚っちのお母さんの服を貸してあげますから」
「昨日も同じこと言ってくれたけど、ホントにいいわけ?」
「いいですよー。お母さん、まだしばらく帰って来ませんから」
「それじゃ、何か適当なの出しといて。ホントに何でもいいから」
「分かりましたっ。渚っちが、愛子さんにぴったりのものを選んできますねっ」
そう言って渚は椅子から立ち上がり、二回へと続く階段をどたどたと昇りだした。どうやら、渚の母親の部屋も、渚の部屋と同じ二階にあるらしい。
(……そう言えば、渚の母さんって、どんな仕事してるのかしら……)
あたしがここに来て二日。その間渚の口から、自分の母親についての話題は一度も出ていない。あたし自身、他人の家のことにいちいち口を出すタイプでもなかったし、漠然と「忙しいんだろう」と思っていた。多分、よほど仕事が立て込んでいて、家に帰ってくる余裕も無いのだろう。
(……ま、気にしないでおきますか……)
あたしは椅子から立ち上がり、風呂場へと歩いていった。
あたしがお風呂から上がると、渚が出しておいてくれたのか、渚の母親の服が、バスタオルの近くに置かれていた。渚が「ぴったりのものを選んできますからねっ」と言うから、内心すさまじいデザイン(例:年末恒例の紅白歌合戦のトリを飾るあの人が着るようなのとか)のものを持ってこられないかどうかちょっと冷や冷やモノだったのだが、見たところ何の変哲も無い、ごく普通の服だった。
(……もうちょっと、あの子を信用してあげてもいいかな……)
渚にあらぬ疑い(まぁ、かわいいものだけど)を掛けていた自分にちょっと罪悪感を抱きながら、あたしは台所へと戻った。
「渚ー。風呂、上がったわよー」
「あっ、はいっ」
あたしに続けて渚もお風呂に入り、昨日と同じ子供っぽいパジャマ(そう言ったらまた怒られた)を着て、再び台所へ現れた。
「たははっ。お風呂はいいですねっ」
「夏場はね。お昼に汗かくし」
「さっ、そろそろおやすみなさいの時間ですねっ。お布団、敷いてきますねっ」
「あー、ちょい待ち。昨日敷いてくれたから、今日はあたしが敷くよ。なんだか悪いし」
「えっ?! いいんですか?!」
「いいよ。なんだか世話になりっぱなしだし」
「そ、それじゃ、お、お願いしちゃっても、い、いいですか?」
「なんで口調が急にヘンになるのよ」
「な、渚ちんは、い、いつもこんな調子ですお! ぜ、全然おかしくなんかないんですから!」
「や、渚ちんって。ですお、って」
渚はうれしさと驚きで呼吸困難の金魚のように口をパクパクさせながら、あたしの方を見ていた。あたしは渚をほっといて、茶の間へと歩いていった。
あたしはちゃぶ台をどけて、昨日と同じように布団を敷くと、渚のいる台所へと戻った。
「敷いてきたわよ」
「うう〜。うれしいですっ。渚っち、感激ですっ」
「布団敷いただけじゃないの」
「それがうれしいんですよっ。誰かに何かしてもらえることって、こんなにうれしかったんですねっ」
「こんなのでうれしがってたら、誰かからお金もらった時うれしくて死んじゃうわよ」
「わわわっ、渚っちはまだ死にたくないですっ」
表情をコロコロと変える渚を尻目に、あたしは茶の間へと歩いていった。渚も後ろからとてとてと付いてくる。
薄い毛布をかぶり、寝る準備をするあたしと渚。
「それじゃ、おやすみなさい、です」
「待った。明日はもうフライパンとフライ返しは無しね」
「たははっ。フライパンとフライ返しはもうやりませんよっ」
「よしよし。そいじゃ、おやすみ」
「おやすみなさいですー」
渚が短い腕を伸ばして、電気のスイッチを消した。そのままぱたんと倒れこんで、すぐにゆっくりとした規則正しい寝息を立て始めた。あたしはそれを確認してから、瞼を閉じた。散々昼寝したのに、眠気はしっかりと訪れてきた。だんだんと瞼が重たくなってきて、そのまま――
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
Written by 586