*七月二十日*
ぐるぐるぐるぐる……マーブル状に混ぜられた風景が、あたしの周りを取り囲む。一目して夢だと分かるその光景の中で、あたしはふわふわ漂っている。身の置き所が無いような、不思議で不思議なこの感覚。ああ、でもなんだかいつまでもこうしていたい。いっそこれが夢じゃなくて、現実だったらどんなにた
(ガィン! ガィン! ガィン! ガィン!)
あたしの頭の中で、起こされたくも無い大革命が起き、あたしの意識がたちまちその行動を(開始したくも無いのに)開始し始める。盛大な金属音があたしの頭の中で乱反射を繰り返し、幾重にも折り重なったえもいわれぬ惨殺空間を作り上げる。やばい。うるさい。うるさくて死んじゃう。いやだ。そんな死に方いやだ。
(出所……)
出所。そうだ、この音の出所を突き止めなければ。あたしは毛布を蹴飛ばし、ふらつく体を無理やり立たせる。寝ていた状態から急に立ったもんだから、目の前が一瞬暗くなる。頭もガンガンする。うぅ、最悪な目覚めだ。この世にこれ以下の目覚めがあるとしたら、それはきっと永眠しかないだろう。
あたしはぼやけた目をカッと見開き、音源を探した。
そしてそれは、すぐに見つかった。
「たはは〜」
「……………………」
「たはははは〜」
「……………………」
……おい。ちょっと待て。どういうことだ。
「……渚」
「あ、愛子さん起きた」
「や、『あ、愛子さん起きた』じゃなくて」
「たはは〜」
(ガィン! ガィン! ガィン! ガィン!)
渚は例の「たはは笑い」をしながら……おたまでボールをガンガンガンガン叩いている。ガンガンガンガン。飽きもせずにガンガンガンガン。頭のなかでガンガンガンガン響いて、なんだか頭痛がしてくる。ガンガンガンガン。
「渚……あんた、嘘付いたわねっ」
「わ、渚っちは嘘付いてませんっ」
「付いとるわっ。昨日寝る前『フライパンとフライ返しは無しやで』って約束したやろっ」
「わ、愛子さん関西弁。あ、これで愛子『さん』じゃなくて、愛子『ちゃん』ですねっ」
「じゃかあしいっ」
あたしはそう言って、渚の手からおたまとボールを取り上げた。
「わ、返してくださいよっ」
「嘘付く子には返しませんっ」
「わ、愛子さん教育ママ」
「じゃかあしいっ。何で朝からこんなことするねんっ。昨日せーへんって約束したやんかっ」
「えー? 昨日は『フライパンとフライ返しは無し』って言いましたよー? だから、今日はおたまとボールにしたんですっ」
「なんでやねん! そんな屁理屈言うとったら、しまいに怒るで!」
「わ、愛子さん怖い顔」
「怖い顔は元々……って違うっ!」
朝から無駄にテンションの高いやり取りをしたおかげで、あたしの目はばっちり冴えていた……代償として、金属音が混ざった耳鳴りと、嫌な感じの頭痛をもらうことになってしまったが。
「まったく……頼むから、普通に起こしてちょうだい」
「え〜? これ、普通じゃないんですか?」
「これが普通だって? じゃあ渚はどうやって起きてんのよ」
「えーっと……」
「……………………」
「……ややこしいから、後でもいいですか?」
「や、ややこしい……? ま、まあ、別に後でもいいけど」
「ありがとうございますっ。あ、朝ごはん、できてますよっ」
「えっ? もう準備したの?」
「たははっ。渚っちにかかれば、朝飯前ですっ。一緒に食べましょっ」
渚に促され、あたしも台所へと歩いていった。その頃には、耳鳴りと頭痛はほとんど治まっていた。
「う〜ん……渚、一個聞いていい?」
「はいっ。なんでも聞いてくださいっ」
「この焼きじゃけ、手作り?」
「たはは〜。いくら渚っちでも、しゃけは作れませんよ〜。あっ、でも、商店街にあるお魚屋さんで、いっつも二十分は悩んでから買うんです。おいしいのが食べたいですからねっ」
そういう渚の表情は、とても輝いていた。いい笑顔だが、はっきり言って渚の言っていることはかなり所帯じみている。見た目は子供、頭脳は大人……いや、そう簡単に割り切れるものでもない。渚の行動は、極端に大人っぽいものもあれば、どこまでも子供っぽいものもある。言ってしまえば、よく分からない。
「渚……あんたって、子供っぽいのか年取ってんのか、分からないわ……」
「う〜。それって、どういう意味ですかっ」
「ごく簡単に言うと、よく分からない」
「うう〜。ちっとも簡単に言ってませんっ」
「噛み砕いて言うと、よく分からない」
「ううう〜。少しも噛み砕けてませんよっ」
「単刀直入に言うと、よく分からない」
「うううう〜。愛子さん、いぢわるですっ」
渚は頬を膨らませて、精一杯の反論をして見せた。いつも見せている、どこまでも子供っぽい、でも罪が無くて、見ていて安心できる表情だ。
「さぁさ、いつまでもこんな事やってないで、さっさと食べちゃうわよ」
「あ、はいっ」
あたしと渚は、昨日とは打って変わって和食となった朝食(でもやっぱりおいしかった)を早目に済ませ、家を出る準備をした。渚は気が付くといつもの制服に着替え終わっていて、学生かばんを提げて玄関に立っていた。あたしも手提げかばんを持って、玄関へと歩いていく。
「それじゃ、行きますか」
「そうですねっ」
ガラス戸を開けて、あたし達は外へ出た。
歩き始めてしばらくしてから、あたしはあることを思い出した。昨日のこの時間、ちょうど渚と約束した「あれ」についてだ。
「そうだ渚、地図、どうなった?」
「地図……あっ、できてますよっ。たははっ、ごめんなさいです。渡すの忘れてましたっ」
渚は学生かばんからクリアファイル(どうやら受けている科目ごとにファイルを分けているようだ。かばんの中は美しいぐらい整頓されてる)を一つ取り出し、さらにその中から白い紙を一枚抜き出した。
「これです。分かりにくかったら、遠慮なく言ってくださいねっ」
「ご苦労ご苦労。どれ……」
あたしはこの時、あの子供っぽい渚のことなので、地図に得体の知れない物体(多分、イヌとかねことかのイラスト)や謎の書き込みが山ほどされているに違いないと思い、ある意味では「ま、せいぜい位置関係程度が分かれば文句は無いかな」と、適当にタカを括っていた。
ところが。ところがである。
「……ねえ渚。一個、一個質問してもいい?」
「一個と言わずに、十個でも百個でもいいですよっ。なんですか?」
「……これ、本当に一日で書いたの……?」
あたしの手の中には……あたかも地図から精巧にコピーしたかのような、いや、それ以上に綺麗に整えられていて読みやすく、そして目に優しい色使いで書かれた、本気で気合い入りまくりのすごい地図があった。
渚の家を中心に、あたしがいた所、仲西商店、新開高等学校、そして商店街までしっかり記載されていて、あたしがまだ行ったことの無い「神社」「公園」「図書館」などもちゃんと入っていた。
それだけではない。各所に「※」と数字を組み合わせたマークが付いていて、裏側にそれぞれの場所の説明が書かれているのだ。例えば渚の通う新開高等学校だと、「開門は午前七時三十分。最終下校時刻は午後五時三十分」といった具合だし、商店街なら「午前十一時から午後二時にかけてが一番にぎわう」といった具合。恐ろしく的確だ。
「そうですよっ。愛子さんのために、頑張って書きましたっ」
「や、これはちょっと頑張りすぎでしょ。うれしいけどさ」
「わ、喜んでくれた! 渚っち、うれしいです!」
「これ、ホントにもらっていいの? なんか、あたしなんかがもらうのは勿体無いぐらいなんだけど」
「そんなことないですよっ! これは、愛子さんのために書いたんですから! 遠慮なくもらっちゃってください!」
「……それじゃ、もらうわね」
「はいっ。もらってあげてくださいっ」
そんなわけであたしは、渚お手製の超高機能地図を手に入れた。
ホント、渚って子は底が知れない。ひょっとしたらこの子、何か物凄い才能をいっぱい秘めてるのかもしれない。
と、あたしがちょっと渚への見方を変えていると。
「あっ!」
「どうしたの?」
「見てくださいあれ! すごいですよ〜」
「……どれ?」
「あれですよ〜。ほら、飛行機雲、飛行機雲ですよ〜」
「や、それはそうだけど」
「朝から飛行機雲が見れるなんて、渚っちは幸せ者ですねっ。はい、愛子さんにも、幸せのおすそ分けですっ」
「……………………」
「あっ、だんだん消えてく……愛子さん、一緒に追いかけますよっ」
「えっ? あ、ちょっと、渚!」
「待ってくださ〜い!」
やっぱり、渚は渚だった。
消える飛行機雲を追いかけて追いかけて、渚と一緒にぱたぱた走っていると、気が付かない間に学校まで到着していた。うーむ、実に都合のいい展開だ。あたしはちょっと息を切らしながら、対照的にまったく息切れしていない渚に問いかける。
「今日も昨日と同じ時間でいいわけ?」
「そうですよっ。昨日と同じ場所で待っててください」
「ん。分かった。そいじゃ、頑張って」
「はいっ。行って来ますです!」
「授業中に紙飛行機飛ばすんじゃないわよ」
「ううう〜。渚っちはおとなしくて扱いやすい模範的優等生ですっ」
「はいはい」
あたしは渚を見送ると、手提げかばんからクリアファイルに入った(渚が「余ってますから」と一つくれた)渚マップ(命名)を取り出して、見始めた。
「ここからだと……商店街に公園……あとは、図書館が近いわね」
商店街は昨日行ったので、大体の雰囲気は掴んでいる。ちょっと別の場所にも足を伸ばしてみたくなったので、あたしは少し考えてから、
「それじゃ、公園にでも行くとしますか」
公園の方に向かって歩き出した。
商店街を抜け、公園のある方角に向かって歩く。渚マップにしたがって歩いていくと、それはすぐに見えてきた。
「……フツーの公園だわ……」
使い古された遊具、でこぼこの砂場、錆びた注意書きの看板。すべてが、この公園を「普通」というオーラで覆う要素だった。何処にでもある、ごく普通の公園だ。あえて言うなら、真ん中にある大きな木が、ちょっと他とは違う感じがするといった程度。
「……しかも、人がいない」
あたしはここに来るまで「子供連れの親がたくさんいるかも」という、ちょっと甘い期待を抱いていた。昨日は親子連れから見事(?)に八百円を獲得したから、「よし、ここはもういっちょ」と、今日も親子連れをターゲットにするつもりだったんだけど……この公園にいる人間は、あたし一人だけだった。
どうやら、あては完全に外れてしまったみたいだ。ちっ。
「……なんだか、疲れたわね……」
公園に来るまで結構キツイ坂道を登ってきたし、何よりも昨日以上の暑さのせいで、あたしはすっかり疲れきっていた。正直言って、今から人形劇をやって人を楽しませられる自信は無かった。やったとしてもへろへろでぐだぐだになりそうな気がして、ホントはこの公園に人がいなくて少しホッとしてたり。
「……どれ、あの木陰で休むとしますか……」
あたしはそうつぶやいて、公園の真ん中にある木に向かってとてとてと歩いてゆく。日陰になってる部分とそうじゃない部分のコントラストがきつくて、木陰の部分が余計に涼しそうに見える。うー、早く入りたい。
……なんかあたし、木陰があれば休んでるような気がする。前は木陰で休んでるうちに寝ちゃって、そのまま渚の家に行っちゃったわけだし。
「……ふぅ」
あたしは木にもたれかかって、そのまま座り込んだ。あたしが今履いてるのは、渚の母親が持ち主のロングスカート。色は暗い赤だ。あたしが履いてたのとほとんど変わらない感覚で、違和感ゼロ。履き心地は実にいい。
そう言えば、これも渚が選んでくれたんだったっけ。あの子はよく分からない部分が多いけど、多分細かいところまで気が付く子なんだと思う。
学校でもきっと、クラスの中心とまではいかなくとも、友達が多くて、明るくて、よく気が付いて、みんなから好かれてるタイプの子だろう。いつも一人のあたしとは、大違いだ。
「……一人、かぁ……」
思えば、あたしはいつも一人だった。いろんなところを転々としてるから、無理も無い話だ。あたしはいつも一人だった。それが嫌だと思ったことはないし、多分これから先、嫌だと思うことも無いだろう。そう思っていた。
と、あたしが木陰で物思いに耽っていると。
「……ん? あんたも一人なの?」
「……にゃーん」
あたしの近くに、一匹の黒猫が近寄ってきた。首輪をしてるから、多分誰かの飼い猫なんだろう。毛並も良いし、ほっそりとしていて無駄のない体つきをしている。相当可愛がってもらってんな、こいつ。
あたしは黒猫を眺めてみる。普通黒猫って言うと、どこか目つきとかが鋭くて、猫の中でも「怖い」っていうイメージがあるもんだけど、この黒猫は違った。なんていうか、目がすごく「ほんわか」系で、黒猫っぽくない。でも毛はつやつやだし、尻尾は長い。れっきとした黒猫だ。
「猫は涼しいところが好きって言うし、似たもの同士だね」
「にゃー」
「ほら、ヒマならおいで。愛子お姉さんが膝枕したげるから」
「うなー」
「おー来た来た。よーしよしよし。いい子だいい子」
あたしは膝の上に黒猫を乗っけて、日陰でくつろぎ始めた。なんだかよく分からないけど、結構気分がいい。涼しい木陰の中で座ってて、毛並のいい黒猫が膝の上にいる。あー、なんだかすっごく平和な気分。ずっとこうしてたいなぁ……
と、あたしがちょっと意識を向こう側に飛ばしていると、急に膝の上がごそごそしだした。
「……ん?」
「にゃっ」
「きゃっ?!」
黒猫があたしの膝からぴょんっと飛び降りて、しかも……
「にゃー」
「え、あっ、ちょっと、な、こ、こらっ! 待ちなさい!」
「うなー」
……傍らに全開で放置してあったあたしの手提げかばんから……よりにもよって……
「こらー! 返しなさーい!!」
……よりにもよって。
「あたしの人形ーーーーーー!!」
「こらー! どこ行くのー!」
お人形加えた黒猫追っかけて、裸足……ではなくちゃんと靴を履いて追いかける不愉快な気分のあたし。黒猫はあたしの大切な大切な大切な大切な(強調)人形を口にくわえて、街をダッシュで駆け抜けている。あたしとしても、あの人形がないと絶対に生きてけないことぐらい分かってるから、必死だ。
「待てぇー!」
くっ。なかなかすばしっこいやつだ。猫の分際で……いや、猫だからかも。って、今はそんなことを気にしてる場合じゃない。あの猫をとっつかまえて、あたしの商売道具でなおかつこの世で一番大切な母さんの形見を返してもらわなきゃ。
あたしは黒猫を追いかけて、必死に走り続けた。
「ぜぇ……ぜぇ……く、あづい……ぐるじい……」
あたしは完全に息切れモードのだみ声でそんなことをつぶやきながら、それでも必死に黒猫を追いかけた。
角を右に曲がって、坂を駆け下りて、交差点で自転車と正面衝突しそうになって平謝りして、とにかく走り続けた。止まるわけにはいかない。あいつはあたしの大切な人形を持ってる。とっつかまえて、人形を返してもらわなきゃ。
「待てー!」
あたしが叫んだところで、黒猫の動きは止まらない。あっ、今度は角を左に曲がりやがった。ぐぬぬ、どこまでもすばしっこいやつだ。必ず捕まえてやるから、覚悟してろよっ。
「逃がすかー!」
黒猫が角を曲がるのを見てから大体三十秒ぐらいした後、あたしもその角をそのまま全速力で曲がる。あたしの目の前には、人形をくわえた黒猫……
「やあ。暑いのに元気だね」
「……………………」
……を抱きかかえた、半そで長ズボンの男の子の姿があった。あたしはそれを見て、思わず足を止める。男の子はニコニコしながら、あたしの方を見てる。
「……それ、あんたの飼い猫?」
「そうだよ。『ネル』って言うんだ。スペルは『N』『E』『L』。いい名前だろう?」
目の前の男の子は……歳はあたしとほとんど同じか、それよりちょっとだけ下ぐらい。顔立ちはまぁまぁいい方だろうが、今はそれが逆に気に食わない。なんたって第一声が「暑いのに元気だね」とかいうようなやつだ。きっとヤな性格をしてるに違いない。なんかこう、下っ端を戦わせてそれをじっくり見物してるタイプ。ごめん。言ってて自分でもよく分からん。
「……まぁね。悪くは無いと思うわよ。猫はよく『寝る』しね」
「さすがだね。こんな短い時間で、由来を見抜くなんて」
「……あー。こじれる前にカタをつけるわ。そのネルとかいう猫がくわえてる人形、あたしのなの。返して」
あたしは単刀直入に言った。正直、これで人形が返って来るとは思えなかった。だって、普通自分の飼い猫が何かヘンなものをくわえてたら、驚くかくわえるのをやめさせるかするはずなのに、あいつは人形くわえたままの猫をフツーに抱いている。
あー、こいつはきっと「返してあげても良いけど、その代わり、一つ条件があるんだ」みたいなことを言うタイプだろう。それで、あたしに訳の分からないことをさせるつもりに違いない。あーくそっ。どうすればノーリスクで人形を返して
「はい。これだね」
「……は?」
いきなり目の前に人形を差し出されて、あたしは思いっきり面食らった。
「いや、だから、返してって言われたから、言われたとおりに」
「あ、あ、ああ。どうも」
「何かヘンなこと考えてなかった? 例えば、僕がキミに何かさせるつもりだろ、とか」
「考えてない考えてない」
「そりゃ良かった。僕はそういうタイプじゃないからね」
思ったより、というか、まったく苦も無く、あたしの人形はあたしの手の中へ戻ってきた。黒猫の歯型が少し残ったが、まあしばらくすれば消えるだろう。とりあえずは、一件落着。あたしは右手で引っつかんでた手提げ袋の中に、人形をなるべく奥の方を意識して入れた。
「あたしが言うのも何だけど、これからは人様のものをくわえて走らないように、ちゃんと言っといてよ」
「悪いね。ネルは面白いものを見かけると、何でも持ってっちゃうんだ。確か前は……カブトムシだったかな」
「この猫……あたしの人形とカブトムシが同じ価値だっていうの……」
あたしはすっかり脱力して、そのままこの場を後にしようとした。もう、こんな訳の分からない猫や男の子に付き合ってなんかいられない。走り続けてすっかりへとへとになったし、まったくいい事無しだ。あーもう。やんなっちゃう。
「ねえ」
「……………………」
……後ろからあの男の子が声をかけてきた。あたしはやる気を一切見せずに振り向く。
「キミ、旅人かい?」
「……そうだけど」
「……そう。それならいいんだ」
「何が」
あたしのことを旅人かどうか確認して、向こうで勝手に納得した。正直、気分が良いとは言えないシチュエーションだ。いや、むしろムカつくシチュエーションと言ったほうが正しいだろう。あーもうっ。やっぱヤなやつだ。
「いや、こっちの話。それじゃ」
「あ、ちょっと」
そう言うと、男の子は後ろを向いて、ネルを抱いたままどこかへ立ち去っていった。あたしはちょっとの間その背中をジト目で見つめてたけど、なんかその場にいること自体が猛烈に虚しくなって、
「……帰りますか……」
あたしも歩き出した。
結局、その後も人が集まる場所を探してみたが、収穫はゼロだった。出会った人の数よりも、あたしの「あづい……」というだみ声つぶやきの方が圧倒的に多いという、悲惨な結果を晒すこととなった。今は結局あの公園に戻ってきて、ベンチで座っている。くそっ。あの黒猫とムカつく男の子さえいなければっ。もう気分は最低。
「ううう……昨日のはいわゆる『まぐれ』ってやつだったのかしら……」
あたしはくそ暑い中をあちこち歩き回り、完全にグロッキー状態だった。何気なく腕時計に目をやると、時計はそろそろ十一時半を指そうとしている。公園から学校へ行くには、大体二十分ぐらいかかる。ちょっと早いかも知れないが、歩くペースを考えて、そろそろ公園を出ることにした。
「……はぁ。後で洗ってあげなきゃ」
手提げかばんを引きずり気味に持ち、あたしは公園を後にした。
学校にたどり着く頃に、腕時計がちょうど十二時を指した。今から少し待てば、講習を終えた渚が校舎から出てくるはずだ。あたしは木陰に入って、渚が出てくるのを待つ。
時間はすぐに経ち、授業の終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。あたしは木陰から出て、校門の横に立つ。目を凝らして校舎の方向を見ていると、渚が一人でぱたぱた走ってきた。他の子と比較して、やっぱり背が低い。中学生が高校の制服を着て、高校に紛れ込んだみたいな感じ。
「あ、愛子さ〜ん!」
「別に走ってこなくていいって」
「たははっ。渚っちは、走るの好きですからっ」
「……ま、それならいいけど」
あたしは渚を拾って、家路に着いた。
今日は昨日にも増して、日差しが強い。
「愛子さん」
「何?」
道すがら、渚に突然名前を呼ばれ、振り向くあたし。渚はいつもの表情を浮かべて、あたしをじーっと見ている。あたしは渚が何をしたいのかよく分からず、同じくじーっと見ることしかできなかった。
「あれ、どうでしたか?」
「あれ?」
「ほら、渚っちが朝渡したじゃないですかっ」
「……ああ、あの地図ね。助かったわ。どこも迷わずに行けたわよ」
「わ、本当ですか?! 役立ちましたか?!」
「役立った役立った。結構力入れて書いてくれたみたいだしね」
「ううう〜。うれしいです〜。やっぱり、誰かにほめられることって、すっごくうれしいですねっ!」
「あたしみたいなのがほめても、あんまりいいもんじゃないと思うけどね」
渚はあたしにほめられたことがよほど嬉しかったのか、スキップをしながらあたしの横を歩き始めた。高校の制服を着て、満面の笑顔でぴょんこぴょんことスキップをする渚を、あたしはやっぱりどこかヘンな子だと思った。でも、あたしはそれと共に渚に、
(……ま、こういうところが、憎めなくていいんだけどね)
最初出会った時とは、ずいぶんと違った印象を抱いていた。ま、世の中の人間がみんな渚みたいな子だったら、それはそれでちょっと勘弁だけど。
商店街の横をすり抜け、何も無い道をてくてくと歩くあたしと渚。渚はあたしにひっきりなしに話しかけ、あたしもそれに適当に応じる。気が付くと、あたしから渚に話しかけていることもあった。
「ところでさー」
「なんですか?」
「渚って、夢とか見るタイプ?」
あたしは本当に何気なく、「夢」の話題を振った。別にあたしは渚がどんな夢を見ていようとどうでもよかったけど、なんとなく、会話のつなぎが欲しかった。だから、無難で話題にしやすい「夢」のネタを振ってみたのだ。渚の事だ。どうせきっと面白おかしい夢でも見てるんだろう。
あたしは深く考えず、そう適当に決め込んでいた。
「夢……ですか?」
「そう。寝てるときに見るアレ」
「……………………」
「……どったの?」
……妙だ。あたしの口から「夢」という単語が出た瞬間から、渚の顔つきが、微妙にだけど変わった。いつもの幼さあどけなさは残しながら、でもどこかこう……そう。あたし以外の、何か遠くを見つめているような表情。
「……………………」
今の今まで、子供っぽい表情しか見てこなかったあたしにとって、それは何とも奇異でおかしな感じに映った。それと共に、何か言い知れぬ感情があたしの中にどっと押し寄せてきた。あたしは直感的に、何か触れてはいけないものに触れてしまった気がした。
「渚……」
「愛子さん。わたしが朝言ったこと、まだ覚えてます?」
「朝に……言ったこと?」
「えっと……確か、『ややこしい起き方をしてる』って話です」
「……そういわれて見れば、そんな話も……」
あたしは奇妙な感覚に捕らわれ続けたまま、渚の目を見つめていた。あたしはふと、渚の一人称がいつもの「渚っち」ではなく、「わたし」に変わっていることに気付いた。それが何を意味しているのか、あたしには分からなかった。
「……夢を見るんです」
「……夢……?」
「はい。なんだか悲しい夢で、起きると目に涙が溜まってるんです」
「……………………」
「どうして悲しいのかも分からなくて、どうして泣いてるのかも分からなくて……でも悲しくて、涙が流れるんです」
「……………………」
いつもとは様子が違う。何か、何かが違う。おかしい、何かがおかしい。渚がこんなことを言い出すなんて、何かおかしいと思った。
あたしはこの時、強引に話題を変えることもできただろう。いや、変えるべきだったのかもしれない。もしこのまま前に進んでしまえば、何か、何か大切なものを失ってしまうような気がした。
でも、あたしは……
「……それは、どんな夢なの?」
……前に進むことを選んだ。好奇心から? いや、そうではない。あたしの中の「何か」が、「前に進め」と命じたのだ。あたしはそれに従ったまでだった。
「……………………」
渚は不意に空を見上げ、何かを思い返すような、物憂げな表情を浮かべた。あたしは渚が「空」を見上げた様子をこの目で見て、一瞬だけ、背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。
「……空を飛んでいるんです」
「空を?」
「はい。わたしの背中に、まっしろな羽根が生えていて、それで空を飛んでるんです」
「……………………」
「空の上にいて、空の上から、下をじっと見下ろしているんです」
「……………………!」
あたしは目を見開いた。あたしの頭の中で一瞬、あの言葉が残像を残しながら駆け抜けていくのが分かった。それが、渚の姿とダブって見えて、言葉を発することができなかった。
「ねえ愛子さん。こんな夢だったら、普通は楽しい夢だと思うんですよ」
「……………………」
「空を飛べるなんて、すっごく楽しくて、それこそ夢みたいな話だと思うんです」
「……確かにそうね。そんな夢だったら、むしろ目覚めはすごくいいはずだけど……」
「……でも、空を飛んでるわたしは、ただ悲しくて、悲しくて、涙がこぼれて……でもどうしようもなくて、ずっと同じ場所をぐるぐる回っているんです。それで、悲しくなって目が覚めて、起きたわたしも泣いてるんです」
「……………………」
「どこにも行けずに、ただずっと……同じ場所にいるんです」
「……………………」
「たはは……どうしてかな……もし今渚っちが空を飛べたら、行ってみたい場所、いっぱいあるんですけどね……」
そういう渚の表情は、いつもの子供っぽい明るさに、見たこともないほどの物憂げな表情をない交ぜにした、言葉で言い表すことのできないようなものだった。
「それで、そんな夢を見るおかげで、渚っちは目覚まし時計を使わなくても、六時にばっちり目が覚めるんですよっ」
「……その夢、いつから見始めたの?」
「えっと……渚っちが幼稚園に入って、すぐぐらいからです。それからは、ずっと同じ夢を見てます」
「ずっと……?!」
「はい。ずっとずっと、同じ夢をです」
あたしはもう一度、渚の顔を見た。渚の顔からは、あの物憂げな感じは、すっかり消えうせてしまっているように見えた。
そう、それこそ、まるで……
……短い夢でも見ていたかのように。
「さっ、こんな話はおしまいにして、お家に帰りましょっ。お昼、渚っちが用意しますから」
「う、うん……行こっか」
あたしはさっきまでの異様な感覚を無理やり頭の中から追い出すと、ぱたぱたと駆けていく渚の後を追いかけて、ゆっくりと走り出した。
「……ううむ。これはナスの形をしたまったく新しい食べ物なのでは……」
あたしは目の前に出された料理をむさぼるように口に運びながら、全っ然女の子らしくない(これでもまだ十代後半の乙女なんだけど。こらそこっ。十九はまだ十台だっ)口調でそれの感想を言っていた。あたしの前に出されたのは、小さく切ったナスを渚お手製のダシで味付けした、簡単なお漬物のようなもの。
んだけどこれがすごい。味に全然クセが無くて、本当にいくらでも食べられる。ナスの柔らかな食感に、だしが恐ろしくよくなじんで、かめばかむほど味が出る。そしてこれがまたよく冷やされているので、食べていてすっごく気持ちがいい。やばい。これは革命だ。ナス革命だ。ナス・レボリューションだ。
「たははっ。愛子さんったら、口調がヘンですよっ」
「ねぇ渚。これって、ホントにナスなの?」
「はいっ。お隣の白樫さんから、『たくさんできたから』って、おすそ分けしてもらったんです」
「あたし、前までナスはあんまり好きじゃなかったのに……」
「たははっ。たくさんありますから、遠慮なく食べてくださいねっ」
そしてあたしは素麺(今日はただの素麺じゃなかった。上に金糸玉子と千切りにしたきゅうり、それからかにかまぼこを裂いたのと戻したワカメがのっていて、さらにその上からめんつゆをかけてごま油をたらした、いわゆる「ぶっかけ素麺」だ。見た目もすごく綺麗)をすすりながらナスに箸を伸ばし、そして時折麦茶を飲むという行動を繰り返した。
素麺もナスも麦茶も、心地よいぐらいに冷えていて、暑さでどこかへいってしまいそうだったあたしの意識を、完全にこっちに引き戻してくれた。そんな食べることと飲むことの権化と化したあたしを、渚はものすごく幸せそうな表情で見ている。
もちろん、渚も食べてはいる。が、静かでゆっくりで落ち着いていて、あたしなんかよりずっと上品でおしとやかな感じだ。箸の持ち方とかに、それを感じずにはいられない。素麺を少しだけ箸で掴んで、静かに食べる。まるでいい所のお嬢さんみたいだ。ううむ。普段のかしましさはいずこへ。
「愛子さん、どうしたんですか? 渚っちの顔に、何か付いてます?」
「いや、なんとなく、食べるのがゆっくりだなー、って思って」
「たははっ。渚っちは、食べるのがちょっと遅いんです〜。だから、気にしないでくださいねっ」
「んー。それならいいけど」
あたしは言われたとおり、特に気にせず、再び食事を始めた。
「ごちそうさま」
「はいっ。ごちそうさま、でした」
涼しい昼食を取り終えて、あたしと渚はそのまま台所でくつろいでいた。外から聞こえるせみの声と、あたしと渚の間を往復している古い扇風機が回る音が、なんとも言えない居心地の良さを演出していた。
「渚、お昼からはどうするの?」
「えーっと……あっ、そうですそうです。冷蔵庫の中、もう空っぽなんですよっ」
「それじゃ、買い物に行かないとね」
「そうですねっ。愛子さん、どうします?」
「んー。中にいてもやることないし、付いてくわ」
「わ、本当ですか?! 一緒に来てくれるんですか?!」
「言ったでしょ。あたしは嘘は付かないタイプだって」
「ううう〜。うれしいですっ。うれしいですよ〜」
「そんなに喜ばなくても」
渚が目をキラキラさせながら、あたしの方を見ている。さっきのことがあったせいで、渚があたしといることを嫌がるんじゃないかと勝手に考えていたあたしには、渚のその「いつもの」としか言いようが無い幸せそうな表情が、どこまで深い安心を与えてくれた。
「それじゃ、着替えてきますねっ」
「……はっ!」
「たはは〜」
渚の言葉で、はっと我に帰るあたし。
「……しまった。『制服着たままじゃん』って指摘するの、忘れてた……」
渚のあの「エプロンon制服」という異様な格好に、あたしは一度も突っ込みを入れなかったのだ。単にお腹が減ってたからという可能性もあるけど、むしろ……
「……あたし……ひょっとしたら、あの格好に違和感を感じなくなってきたのかも……」
ううぅ。あたしは思わず頭を抱えた。ここに来て今日で三日。たった三日で、渚のすることのほとんどに違和感を感じなくなっていた。あたしの順応能力の高さかも知れないが(そうだったらどんだけありがたいことやら)、実際は多分、渚があたしの想像も付かないことを連発してきたから、あたしの感覚が麻痺してしまったのだろう。
「お待たせです〜」
その声と共に、階段をとてとてと降りてくる音が聞こえてくる。それから少しして、いつもの白いワン……
「……………………」
「たははっ。今日はこんな感じにしてみましたっ」
……ピースを着た渚の姿はなく、ある意味あたしの想像を超えた、あたしの想像の遥か斜め上を超高速でカッ飛んでいくような、凄絶な格好をした渚の姿があった……
「……………………」
「これ、三番目にお気に入りなんですよっ。お小遣いをためて、自分で買ったんです」
渚が何か言っているが、あたしの耳は現在大絶賛ちくわモード中だ。何も頭に入ってこない。いや、というか、入らない。入れたくても入れられない。我ながらなんか表現がヤだ。
「……………………」
「あれれ〜? 愛子さ〜ん。お〜い」
「……………………」
「あ〜い〜こ〜さ〜〜〜〜〜ん!」
家の中で絶叫する渚の姿を見て、あたしはようやく我に帰った。ああ、何かこう一瞬だけ、意識が空の向こうまで吹っ飛んでたような気がする。あたしはどうにか気を取り直して、絞り出すような声でつぶやく。
「……………………渚」
「わ、答えてくれた。どうしたんですか?」
「……………………つ……」
「つ?」
「……………………『通天閣』って、あんた……」
あたしの目の前には……なんかこう一発書き? みたいな感じの荒々しい書体で、
「通天閣」
と大書きされたシャツを着た、無駄に活動的な姿をした渚がいた。ちなみに、下は短めのスカートだ。下が平々凡々普通極まりない格好なだけに、上の「通天閣」が余計に目だって見えた。なんかこう、そこからヘンなオーラみたいなのがバンバン発されてるっていうか。
「……ひょっとして、その格好で外に出るつもりなの?」
「そうですよ〜。そのために着替えたんですからっ」
「……………………」
「いいですよね?」
渚が首を横に倒して、あたしに聞いてきた。あたしは迷わず、こう言ってやった。
「脱げ」
「わ、愛子さん大胆」
「やかましいっ。そういう意味じゃないわよっ。大体あたしはれっきとした女よっ」
「でも、燃え上がるような愛に壁はないって、ドラマで見ました」
「世の中には越えていい壁と越えちゃいけない壁があるのっ。って、そんな話じゃないわよっ」
「でも、渚っち、愛子さんとなら…………ぽ」
「顔を赤くすなっ」
「えっと、こういうときって確か、やさしくしてくださいね、でしたよねっ」
そう言って、わずかに頬を染める渚。怖い。真剣に怖い。年齢的にはあたしの方が上だが、このままだとあたしが渚にとって食われそうな勢いだ。きっとそうなるだろう。怖い。怖すぎる。さっきとは違う意味で、何か大切なものが失われてしまうような、いやむしろ奪われてしまいそうな悪寒。
って、何言ってんだあたし! これは一応全対(全年齢対象の略。って何でこんな説明してんだあたし)なんだぞ! 一応!
「じゃかあしいっ! ええ加減にせんかいっ」
「たははっ。冗談ですよ〜。愛子さん、なんだかかわいいです」
「あんたが言うとシャレになっとらんわっ」
……結局、渚はあのシャツを着たまま、買い物に行くことになった。あたしの隣に通天閣。世の中でこれ以上の精神的拷問があったら、多分それは……ダメだ。ちっとも思いつかない。
「さっ、愛子さん、行きましょっ」
「うう……あたしは普通よっ。普通なんだからっ」
「それでは、渚っちと愛子さんによる買い物部隊、でっぱつ〜」
「や、買い物部隊って。でっぱつって」
すさまじいファッションの渚を隣に、あたしは暑い中をとぼとぼ歩き始めた。
「お買い物♪ お買い物♪」
「……………………」
スキップをしながら道を歩く渚。その右手には、ちょっと大きな(少なくともあたしのよりは大きい)手提げ袋。髪はいつものポニーテール。夏らしい短目のスカートをはいて、そして……
……通天閣。
「……渚」
あたしが声をかけると、スキップしていた渚がその場にぴたっと止まった。
「あっ、愛子さん。どうしたんですか?」
「……やっぱり着替えてきなさい」
「え〜っ?! これ、お気に入りなんですよっ」
「お気に入りとかお気に入りじゃないとかはいい。服を着替えるんだ」
「う〜。それはダメですっ。今日はこれを着たいんですっ」
「あんたはいいかも知れないけど、あたしが恥ずかしいわっ」
と、あたしが言うと、手をぽんと叩いて、
「あっ、なるほど。そういうことですねっ」
と、どうやら納得してくれた様子の渚。何だ。話せば分かってくれる子じゃない。ちょっと感心。自分の我を思いっきり通す子だとばかり思い込んでいたから、少し見直した。
「お、意外と物分りがいいわね。そういうこと」
「分かりましたっ。それじゃ、ここで待っててください」
「分かったわ」
「すぐに戻ってきますから〜」
渚は手提げ袋をぶら下げたまま、とてとてと元来た道を戻っていった。やれやれ。あの格好のまま商店街に行こうものなら、二度とあそこに顔を出せなくなるところだった。それは困る。あそこはあたしにとって、唯一無二の稼ぎ場だ。あそこを封印されようものなら、二度とここから出られなくなる。
「ふぅ……物分りがいいんだか、悪いんだか……」
あたしは日陰に入って、渚が着替えて戻ってくるのを待った。
そう、あたしはこの時、渚が着替えてここに戻ってくるものだとばかり思っていたのだ。
服を着替えて、戻ってくると。
それからしばらくして、遠くに渚の姿を見つけた。渚はぱたぱた走りながら、
「お待たせですー」
こっちに向かって駆けてきた。あたしは「やれやれ」と思いながら、日陰から出てその姿を確認する。渚の呼ぶ声に、あたしは手を振って応えた。
「おっ。戻ってきたわ……ね……?!」
「ごめんなさいですー……あれれー? どうしたんですかー?」
「や、あれれー? じゃなくて、あんた、その格好……!」
あたしは思わず目を疑った。その場にありえない光景が、あたしの目の前で大絶賛展開中だった。そんな。ありえない。あの流れで、渚がこんな格好をしてくるなんて、正直ありえない。ぶっちゃけありえない。伸ばし棒をつけてもいいぐらいだ。ぶっちゃけありえな〜い。なんかあたしに似合わないので却下。
そんなことはどうでもいい。あたしの目の前には、あの
「通天閣」
シャツを装備したままの、さっきと全然変わってない姿の渚が、堂々と立っていたのだ。あの会話の流れで、まったく着替えることもせずに、今この場に立っている。一体、どういうつもりなんだ?
「えっ? 渚っち、どこかヘンですか?」
「どこかって、あなた……」
「たははっ。愛子さん、大丈夫ですよっ。ちゃんと持ってきましたからねっ」
「持ってきた?」
「もう、愛子さんったら〜。これですよ、これ」
「……………………」
渚はあたしに、ビニールで包装された一枚のシャツを手渡してきた。うん。なんかもうすんげえ嫌な予感がするんですけど。いや、これはもう予感っていうか、むしろ確信っていうか。っつーか、まさかあの会話でこんな展開に持ち込まれるなんて思ってなかった。さすが渚っ。あたしにはできないことを平然とやってのける。でもちっともそこにしびれないし、まかり間違っても憧れることなんてない。
「ほら愛子さん、開けてくださいよっ」
「却下」
「わ、どうしてですかっ! 渚っち、一生懸命走って持ってきたんですよっ」
「却下」
「わ、ひどいですっ。渚っち、ショックですっ」
「よし分かった。このシャツにプリントされてるのが『通天閣』以外だったら開けて着てあげる」
「うううう〜。愛子さん、とってもいぢわるですっ」
「図星かっ」
そう。つまり、こういうことだ。
あたしが「あんたが良くてもあたしが恥ずかしいわっ」と言ったのを、渚は「あたしが通天閣Tシャツを着られなくて、渚だけ着ているのがうらやましくて同時に恥ずかしい」と解釈し、それならということで、あたしにもシャツを着させてあげよう、と考えたのだ。さすが渚。思考が常にあたしの想像の斜め上をカッ飛んでいる。
「誰が着るかっ。絶対に着ないからねっ」
「そんなこと言わないで、着てみてくださいよ〜。絶対に気に入りますからっ」
「あたしはそれを絶対に気に入らない自信がある」
「わ、愛子さんひどいこと言ってる」
「どこがよっ。大体、あの会話の流れでどうやってこんな展開になるってのよっ。あれだと絶対、あんたが家に帰って着替えてくるもんだと思うわっ」
「え〜っ?! 愛子さんがこのシャツを着てなくて普通の服で、それを恥ずかしいと思ってたんじゃないんですか〜?」
「思うかっ」
あたしは通天閣Tシャツをどうにか渚に突き返し、渚もしぶしぶそれを認めた。
「愛子さん。渚っちはちょっと悲しいです……ううっ」
「目に涙を浮かべながら言うことかっ」
……結局、隣に通天閣を連れて歩くことに変わりは無かったが。
二人でしばらく炎天下の中を歩き、どうにか目的地である商店街へとたどり着いた。渚はあれからほんのしばらくの間「愛子さんにも着て欲しかった」と未練たらしくつぶやいていたが、あたしが適当に無視を決め込んでいるとその内何も言わなくなって、またいつもの機嫌のいい渚に戻った。
日陰を求めて、商店街のアーケードに入るあたしと渚。
「商店街にとうつき〜♪」
突然意味不明の言葉を口走る渚。あたしは脊髄反射的に、その言葉の意味を問うた。
「や、とうつきって。……何それ?」
「ええっ?! 知らないんですか?! 目的地に着いたときに言うんですよっ」
「……ひょっとして、最初に言ってた『でっぱつ〜』の逆版?」
「さすがは愛子さんっ。その通りですよっ」
「ちょっと待って……出て行くときが『でっぱつ』で、付いたときが『とうつき』……」
あたしはその二つの言葉を頭に思い浮かべ、必死にその由来と意味を考えた。出て行くときが「でっぱつ」、付いたときが「とうつき」。出発が「でっぱつ」、到着が「とうつき」……
「……待って。これって……」
あたしはぴんと来るものを感じ、渚が発した二つの言葉をすばやく漢字に変換した。漢字に変換すると「でっぱつ」は「出発」になり、そして「とうつき」はやや強引だが「到着」になる。おお、そういうことか。実によく分かった。これはすごい。
「……って、たったそれだけじゃないのっ」
「わ、大きい声。愛子さん、急にどうしたんです?」
「あ〜……また無駄なことで時間を使っちゃった……ううう、悔しい……」
「う〜ん……今日の愛子さん、なんだかちょっとヘンですよ?」
「ううう……渚にだけは言われたくなかった……」
「たははっ。愛子さん、元気出してくださいっ」
渚に背中をぽんぽんと優しく叩かれ、あたしはがっくりとした姿勢のまま、とぼとぼと商店街を歩き始めた。
「で、今日はどんなものを買いにきたわけ?」
「えっと……今日はカレーを作るつもりですから、とりあえずはその材料です」
「なるほどね。ちょっと多めに作れば、作り置きも効くし」
「一晩寝かせた方がおいしい、って言いますしねっ」
さて、すっかり普通のテンションに戻った(というかさっきまでがちょっと……というか相当おかしかったのだが)あたしと渚は、今日の夕飯の材料を買うために、商店街の店を覗いて回っていた。この商店街は思いのほか人通りが多く、人口が四桁程度だと思われるこの山村では恐らく一番にぎわっている場所だろう。
渚は持ってきたメモを見ながら、じっくりと吟味して材料を買っていく。あたしはその横で、渚の材料の新鮮かそうではないかの見極め方の説明にただただ頷いていた。こんな感じだ。
「たまねぎは、表面にキズが付いてなくて、つやつやとしていて、持ったときにちょっと重いかな? っていうぐらいのが一番おいしいんですよ」
「にんじんは、色が鮮やかで濃いものがおいしいんです。茎の付け根が黒くなってるのは、収穫してから結構日にちが経ってますから、パスしてください」
「じゃがいもは、まず芽が出てないかをよーく確認してください。出てなかったら、表面にキズが付いてないかもちゃんと見て、それから持ったときにちょっと重たいものを選ぶんですよっ」
あたしは渚が手に取る野菜を見ながら、そのどれもが見た目からして新鮮そうで、食べたらきっとおいしいだろうと思わずにはいられないものばかりであることに、とにかく驚いていた。渚の言っていることは、家事をしている人間から見ればごく基本的なことなのかもしれないが、それを十六の渚がしっかりとした知識として持っているということは、少なからずあたしを驚かせた。
「ねえ渚。どうして、そんなに詳しく知ってるの?」
「えっと……本とかを読んで勉強して、それで覚えるんです。お料理するからには、やっぱり新鮮なものを使って、おいしいものが食べたいですからねっ」
「ふぅん……」
あたしは渚から聞いた野菜の見分け方を頭の中で復唱しながら、楽しそうに野菜を選ぶ渚をぼんやりと見つめていた。渚と買い物をしている。このなんでもない時間が、あたしには何故か、とても大切な、かけがえの無い時間に思えた。
(……そう言えば、こんな風にゆっくり買い物する事なんて、久しぶりだっけ……)
あたしがいかに毎日をあくせく生きてきたかが思い返されて、なんだかちょっと複雑な気分になった。あたしは渚のことを子供だ、単純だ、とばかり決め付けていたけど、やっぱり見習うべきところはちゃんと見習った方がいいような気がする。
「あ! 愛子さん、愛子さんっ」
「何? どうかしたの?」
「愛子さん、すいかは嫌いですか?」
「かなり嫌いじゃない」
「わ、よかった! それだったら、決定ですねっ」
「決定? 何が?」
「たははっ。今日はデザートにすいかを食べる、っていうことですよっ。ここに、すっごくいいすいかがあるんです」
「マジなのそれ」
「本当ですよ〜。一緒に食べましょっ」
「賛成」
「わ、賛成してくれた!」
手を叩いて喜ぶ渚の表情は、どこまでも明るく、屈託が無く、純粋で、天真爛漫で……
……いつまでも見ていたくなるような、いい表情だった。
「……それにしても、すいかって重たいわね……」
「たははっ。もうちょっとですから、頑張ってくださいね」
「分かってるわよ。それにしても、こっちの道であってるの?」
「間違いないですよっ。何回も通ったことがありますから」
あたしはすいかを、渚は夕飯の材料をビニール袋に入れ、分担して持って帰っていた。商店街から渚の家までは、結構な距離がある。今あたしと渚は、行きに通ってきた道とは違う道を通り、渚の家に向かっている。別に同じ道を通ってもよかったんだけど、渚が、
「いろいろな道を知ってたほうが、きっと便利ですよっ」
と言うので、そう言われるままに裏道に入ったのだ。まあそれはそうだけど、すいかが入ったビニール袋が重たくて指に食い込んで、正直道を覚えるどころじゃない。あうー、すいかってこんなに重たかったのかー。一番最後にすいか食べたの、多分十四の時ぐらいだもん。重さも忘れるはずだ。
「あっ」
「どったの?」
「見てくださいよ愛子さん。あそこで引越しをしてますよ」
「引越し〜? この暑いのに、よくやるわね……」
渚の指差す先には、ちょっと大きめのトラックが止まっていた。そこで、濃い緑色の服を着た若い男の人数人が、たんすの角を持って運んでいる真っ最中だった。どう見ても、引越しだ。しかも、出て行くタイプの。
「ああ〜っ! そう言えば、あそこは古橋さんのおうちですよっ」
「古橋さん? 知り合い?」
「そうですっ。ご近所さんで、いっつもよくしてもらってたんです。引っ越していくなんて、渚っち、ちょっと寂しいです」
「ふぅん……」
どうやら現在引越し真っ最中のあの家は、「古橋」という人が住んでいて、渚と知り合いだったようだ。あたしはある意味毎日が引っ越しみたいなもんだから、そんなに珍しいものとは思えなかったんだけど。
「愛子さん、ちょっと挨拶してきてもいいですか?」
「ん。いいよ。知り合いなんでしょ」
「わ、了承してくれた! それじゃ、ちょっと行ってきますねっ」
「あいよ」
渚は買い物袋を手に持ったまま、古橋さんの家に駆けて行った。あたしは動くのも面倒なので、日陰を見つけてそこで待つことにした。すいかは勿論地べたに置く。すいかから解放された右手には、くっきりとアトが残っている。おお、あたしの美しい手が……なんてことは特に思わず、握ったり離したりして、痛みが引くのを待った。
……………………
……………………
……………………
「……遅い」
日陰で休み始めてそろそろ二十分。渚は未だに帰ってこない。ちょっとあいさつをしに行っただけのはずなんだけど、それにしてはちょっと遅すぎる。なんかヤな予感がする。
「……行ってみますか」
あたしはすいかの入った袋を下げて、トラックが目印の古橋さんの家に向かって歩き出した。
「……………………」
「それでね、出発するときは『でっぱつ〜』って言うんだよっ。ほら、言ってみて」
「でっぱつ〜」
「わ、よくできた! おりこうさんだねっ」
うん。単刀直入に風景の説明だけする。渚が小さい女の子に言葉を教えてた。以上。
「……って、どういうことなのよっ」
「わ、愛子さん。どうしたんですか?」
「あんたがなかなか戻ってこないから、様子を見に来たのよっ。そんな小さい子になぎなぎ語を教えてどうするっ」
「なぎなぎ語? あ、ひょっとして、『こんにちは』が『さっぬつひ』になるアレですか?」
「それはひんたぼ語だっ。えーっと、なんていうか、そう! 『でっぱつ』とか『とうつき』とか、えっとあとは……とにかくそういう言葉のこと!」
「あ、渚っちの言葉だから、なぎなぎ語なんですねっ。渚っちの言葉もついに全国進出ですねっ」
「意味が分からん」
あたしは思わず手で顔を覆った。やっぱり渚はどこかヘンな子だ。小さい子と遊んでただけなのかも知れないが、それでも「でっぱつ」を教えるのはまずいと思う。だって目の前の子、どー見ても三歳か四歳ぐらいだもん。間違って覚えてどっかで使って恥かいたら、それは渚の責任だぞっ。
と、そこに。
「あっ! 古橋さん! こんにちはですっ」
「こんにちは渚ちゃん。ごめんなさいね。聖(ひじり)が迷惑をかけたみたいで……」
「そんなことないですよっ。とってもいい子ですねっ」
多分、あの子の親と思われるお母さんらしき人が、戸をあけて姿を現した。どこからどう見ても、普通のお母さんだ。
「あら、そちらの方はどなた?」
「あ、紹介しますっ。この人、今渚っちの家に居候してる、愛子さんっていう人なんですっ。すっごくいい人なんです」
「どうも。渚のうちで厄介になってます。神崎愛子っていう者です」
「愛子さんね。短い間だけど、よろしくお願いしますね」
お母さんは至って普通の人だ。この調子だと、きっとあの女の子……聖ちゃんだったっけ? あの子もきっと普通の子なんだろう。まあ、渚を基準に見れば、よほどのことが無い限りどんな子でも普通の子だとは思うけど。
と、あたしが考えていると。
「……………………」
「あれれ〜? 聖ちゃん、どうしたの?」
「……………………」
渚の声でそっちを見てみると、指をくわえた聖ちゃんが、もう片方の手で……あろうことかあの通天閣Tシャツを掴んでいる。その目線は、渚の目を「じーーーーっ」と見つめている。見た感じは相当愛らしいが、ちょっと待って欲しい。ちょっとだけ時間が欲しい。プリーズギブミータイム。
「……まさか……」
ひょっとしてアレか。そうなのか。
「あ、分かりましたっ。聖ちゃんも、このシャツが欲しいんですねっ」
そうなのか。
(こくり)
「そこで何故頷く」
あたしは思わず口に出して言ってしまった。
結論。聖ちゃんもちょっとヘンな子だった。
「ダメでしょ聖。そんな事言って、渚お姉ちゃんを困らせちゃ」
「でも、あれ欲しい」
「たははっ。大丈夫ですよっ。今渚っちはなんと、コレと同じのをもう一つ持ってるんですっ」
「あれか……」
渚の言う「同じの」というのは、あたしが着るはずだったシャツの事だ。そう言えば、そんなこともあったっけ。
「ちょっと大きいですけど、これ、プレゼントしますっ」
「あらあら……なんだか悪いわ。本当にいいの?」
「いいんですよっ。シャツも着てもらった方がうれしいと思いますしっ」
「渚ちゃんはいつもいいことを言うわね。感心するわ」
「たははっ。それが渚っちですから」
簡単なやり取りでシャツを渡してしまう渚。でも、あのシャツはどー考えても大人用だ。あの子がだぼだぼのシャツを着て歩いているところを想像すると、なんだかちょっとどうしたらいいか分からない気分になる。
「ちょっと大きいですから、大きくなるまでとっといてあげてください」
「分かったわ。ほら聖、ありがとうを言いなさい」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「たははっ。コレぐらい、朝飯前ですよっ」
なるほど、そういうことか……って、十年ぐらい袋に入れっぱなしにするのだろうか。で、あの子が大きくなったら開ける。こりゃあちょっとしたタイムカプセルだ。感慨はゼロだけど。
「あ! そう言えば古橋さん、結婚おめでとうございますですっ!」
唐突に渚が切り出した。へぇー、この人結婚したのか。
「あらあら、いいのよ。それに今はもう古橋じゃなくて、『霧島』になっちゃったから」
「わ、そうでしたねっ。それじゃ、改めて! 霧島さん、結婚おめでとうございますですっ!」
新しい苗字は「霧島」らしい。となると、聖ちゃんの本名は「霧島 聖」になるのか。うーむ。なんだかかっこいい感じ。あたしもそんな要素がちょっと欲しいぞ。
ふと思ったが、そうなるとあの子は結婚する前に生まれた子なのだろうか。うーむ。これ以上は複雑だから、あんまり考えないようにする。
「今度また遊びに来てね。海の見える静かなところだから、渚ちゃんもきっと気に入るわ」
「わ! 海ですか! 渚っちも一度行ってみたいですっ」
「おーい渚ー、そろそろ帰ろうよー」
またすいかが重たくなってきたので、あたしはたまらず声をかける。
「あ、ごめんなさいですっ。それじゃ、また遊びに行きますねっ」
「それじゃあね。ほら聖、さようならのあいさつをしなさい」
「お姉ちゃん、さようなら」
「うん! また遊びに行くからね〜!」
「ばいば〜い」
渚はそう言って、ようやく古橋家……いや、今は霧島家かな。とにかくそこを後にした。
と、その時だった。
あたしの前に、「それ」が姿を見せたのは。
いや、もっときっちり言うなら、それが「耳に入ってきた」のは、かな。とにかく、その時だった。
「ぴこぴこっ」
「……?!」
あたしの足元に、白い毛玉のような謎の生き物が姿を現した。それは……うん。あえて説明するなら、綿菓子に小さな目と口、それから耳をつけたような感じ。って、そのままか。
「ぴこ?」
「……………………」
それはあたしのことを見慣れていないのか、首……うん。多分首だ。首を傾げるようなポーズをして、じーっとあたしの目を見つめている。あたしはその目線を外すことができずに、同じくじーっとその綿菓子を見つめていた。
「ぴこー」
「……あんた……」
その時、不意にあたしの中に、ぼっと燃え上がるような気持ちが湧き起こった。それは宿命のようで、そいつと相対した時には必ず抱く感情に違いないと本能的に思った。あの綿菓子を見た人間が、間違いなく抱く感情。あたしはそれを今、リアルタイムで感じまくっている。
「ぴこー?」
「……………………」
この気持ち、ぶつけるにふさわしいは今しか無いっ!
「せりゃああああっ!」
「ぴこ?!」
「あんた……どうしてこんなにかわいいのよっ」
「ぴこー」
「う〜……その鳴き声、それがいいのよっ」
「ぴこぴこっ」
あたしは迷うことなく、それを抱き上げた。それは特に怖がる様子も見せず、ただおとなしくあたしの腕の中に抱かれていた。さわり心地は……おおっ、やっぱ綿菓子だ。綿菓子のように繊細で、んでも簡単には壊れないような芯の強さを感じさせる。かわいさの最高潮に達しているぞ、これはっ。
「かわいいかわいい」
「ぴこー」
ああ、こいつとあたしは出会うべくして出会ったんだ。きっとそうに違いない。このふわふわ感、この小ささ、そして「ぴこぴこ」。これを可愛いと思わない人間は、絶対にいないはずっ。
「あ、愛子さんどうし……」
渚が横からひょっこり出てきた。が、そんなことはどうでもいい。今はこのふわふわのもこもこが一番重要だ。
「あーっ! ポテトじゃないですか〜。こんなところにいたんですねっ」
「ん? このふわふわもこもこはポテトっていうわけ? あたし、てっきりもっとすごい名前だと思ってた」
「そうですよっ。その子はポテトっていうんです」
「んー。あんたはポテトっていうのか。そうかー……ポテトかー……」
「ぴこぴこー」
どうやらこのふわふわのもこもこはポテトという名前らしい。うーむ。別に芋に似てるわけでも無い気がするんだけど、まぁそういうことになってるなら仕方ないか。
と、あたしが一人で納得していると。
「……………………」
「……どしたの? 珍しく難しい顔して……」
「……愛子さん、それ、ちょっと貸してくれません?」
「これ? ん。あいよ」
渚があたしにポテトを渡すよう言ってきたので、あたしは言われたとおりポテトを手渡す。ふふふ。渚もきっとあたしが抱いているのを見て抱きたくなったんだろう。渚は単純な子だから、可愛いものを見るときっとじっとしていられないに違いない。
「……………………」
「ぴこ?」
渚は黙ったまま、ポテトのことを見つめている。ポテトはポテトで、短い尻尾(これがまたプリティだ)をぴこぴこ振って、渚の方を見つめている。
と、突然。
「せーのっ……」
「ぴ、ぴこ?!」
「?!」
渚が、
「それーっ!!」
ポテトを、
(ぐぉんっ)
天高く、
「ぴこーーーーーーーーーーーっ……」
放り投げた。
「ちょ、な……!」
それがあまりにも突然すぎたので、あたしはしばらく呆然としてしまい、声をかけることすらできなかった。
しばらくしてようやく、あたしの中に渚に声をかけるだけの余裕が生まれた。
「ちょ……渚! あんた何やってんのよっ!」
「えっ? これ、いつものことなんですけど……」
「いつものことって……ポ、ポテトはどうなったのよっ」
「ぴこぴこ」
「あ、こんなところにいたのね……って、あれえええええええっ?!」
こ、これはどういうこと? ポテトはさっき、渚に天高く放り投げられたはずなのに……
「い、いや……だって、さっき、あんたは空高く……」
「ぴこぴこー」
「……ひょっとして、もう戻ってきたの?」
「ぴこっ」
ポテトは間違いなく、渚に天高く放り投げられたはずだ。どう見ても、高さ二十メートルぐらいは放り投げられて、あたしの向こうへぶっ飛んで行ったはず。なのにどうして、ポテトはここにいる。
「あ、あんた一体……」
「ぴこー」
「たははっ。びっくりしましたか? ポテトはこんな感じで、ちょっとすごい子なんですよっ」
「……渚。あんたの『ちょっと』は、あたしにとって『とてつもない』だわ……」
「わ、愛子さん、渚っちのこと褒めてくれるんですねっ」
「褒めてない褒めてない」
あたしはポテトを再び抱きながら、この……多分犬だろう。犬の謎について迫ってみたい気になった。
が、そんなことをしている時間は無さそうだ。すでに日が傾きかけているし、家に帰ってからもやることが無いわけじゃない。
ということで、あたしがポテトを地面に下ろそうとする、と。
「ぴこぴこっ」
「……? どったの?」
ポテトがあたしに何かを訴えかけるように、ぴこぴこと鳴いている。どうしたんだろ?
「……………………」
「ぴこっ、ぴこぴこっ」
ポテトの視線の先を追ってみる。あたしの腕より、少し下を向いている。すると、そこには……
「……ひょっとして、あんたもあたしの人形が気になるクチ?」
「ぴこっ!」
あたしの言葉が分かるのか、ポテトが大きな頭を揺らして答えた。ポテトの視線の先には、間違いなくあたしの人形がある。
(……朝の黒猫といいこの子といい、ひょっとしてこの人形、動物にはウケがいいのかも……)
ふと、朝に出会った黒猫と男の子を思い出す。あの時は「人形盗られたー」っていう気持ちで一杯になって完全にパニック状態だったけど、今思い返してみると、何故だろう。どうしてかあの猫と男の子が気になる。あの時は腹立たしかったのに、何故か今は無性に気になる。
「ぴこぴこ」
「あ、ゴメンゴメン。それにしてもあんた、あたしの人形に目を付けるなんて、さすがだね。やっぱあんたはすごいわ」
「どうしたんですか? さっきから、ポテトとおしゃべりして楽しそうです。渚っちも混ぜてくださいよ〜」
「却下。こんなかわいい子を放り投げるようなのとはおしゃべりしたくない……って、ポテトが言ってるから」
「う〜……ポテトはそんなことを言う子じゃないですっ」
「俺は変わったんだ、って言ってる」
「うう〜……全然、説得力ありませんっ」
「もう、これっきりにしようぜ、って言ってる」
「ううう〜……何がどうこれっきりなんですかっ」
「さよなら。次に会う時は、天国だな、って言ってる」
「うううう〜……愛子さん、いぢわるですっ」
会話に混ざろうとした渚をいつもの会話で向こうにやると、あたしは手提げから人形を取り出し、ポテトの前に置いた。
「あんたは特別だからね。じっくり見ててよ」
「ぴこー」
あたしは地面に置いた人形に、いつものように動け動けと念を送る。
「……ぴこ!」
今日は調子がいいみたい。人形はあっという間に立ち上がって、
「本番はここからだよ。よーく見てな」
ポテトの周りをとことこと歩く。とことことてとて。うーむ。こうしてみると、あたしの人形も案外可愛いもんかもしんない。
「……………………」
ポテトは短い尻尾をぴこぴこ揺らしながら、あたしの人形をじーっと見ている。
「……………………」
人形が動くと、ポテトもそれに合わせて動く。それにしてもホントかわいい。こんなのを蹴り飛ばすヤツがいたとしたら、あたしは迷わずそいつを蹴り飛ばしてやりたい。
と、そこへ。
「……………………」
「……………………」
人形を見つめる視線が、もう一つ。
「……あ、聖ちゃん。あんたも人形が気になるの?」
「うん。どうしてお人形さんは歩いてるの?」
「んー。これはね……うん。魔法なんだよ。魔法」
「まほう?」
「そう。漫画とかでよくあるアレ」
「お姉ちゃんは、他にはどんな魔法が使えるの?」
「んー。あたしは落ちこぼれだから、これぐらいしか使えないかな」
他愛も無い話をしながらも、聖ちゃんはあたしの人形をじーっと見つめている。その手には、さっき渚が渡した例のシャツがしっかりと握られてる。あたしは聖ちゃんがあのシャツを着て町を闊歩している光景を想像し、世の中って案外適当なのかもしれない、と考えた。
それからしばらくの間、渚も一緒に人形を見ていた。大したことはしなかったけど、渚も聖ちゃんもポテトも、何かするたびにちゃんと反応を返してくれた。うーん。やはり反応があるのと無いのとでは、モチベーションの具合が全然違うなー。
大体のネタはやりつくしたので、
「そいじゃ、そろそろ行くね」
あたしは人形をひょいと拾い上げて、手提げかばんの中にしまった。三人とももう満足していたみたいで、不満の声は特に上がらなかった。
「うん。お姉ちゃん、ありがとう」
「ぴこぴこっ」
「どういたしまして。また聖ちゃんのとこに行く機会があったら、もう一回見せたげるからね」
「その時は渚っちも一緒に行きますから、三人で一緒に遊びましょうねっ」
「うん。約束だよ」
聖ちゃんはそう言って、ポテトを抱えて家に戻っていった。家からはもうほとんど荷物が出されて、後はもう霧島さん親子が車に乗るだけになったようだ。
「あ、ポテトって、聖ちゃんの飼い犬だったんだ」
「そうですよー。でも、いつもは街をどこともなく歩いてるんです」
「ふーん。ま、ある種の放し飼いとでも思えば、どうってことないわね」
そうかー。ポテトも行っちゃうのかー。残念だなー。もう一回抱きたかったのに。
「たははっ。渚っちなら、いつ抱きしめてくれてもおっけーですよっ」
「……って、何であたしの心を読んでんだっ」
「え〜っ? 口に出してしゃべってましたよ〜?」
「……うっ……悪いクセが出た……」
この「思ってたことが勝手に口から出る」というのは、あたしの悪いクセだった。聞く所によると、このクセに悩まされてる人は結構多いんだとか。困ったもんだ。
「さ、ずいぶん遅くなっちゃったから、そろそろ行きましょ」
「あっ、はいっ!」
あたしは日陰に置いておいたすいかを手に提げて、渚の後ろについて歩き始めた。
「……渚、一言言わせて」
「あっ、なんですか愛子さん?」
「あんた、明日から学校辞めてカレー屋さんを開きなさい。あたしが接客とレジと仕入れをやるから」
「わ、愛子さん唐突」
あたしはまたしても、渚の料理に衝撃を受けて、自分でも意味の分からないことを口走ってしまった。自分でも意味の分からないことを口走ってしまうほど、渚の料理はいろいろな意味で(むしろまっとうな意味で)極まっていた。
「あんた……これ、ホントにただ本読んで勉強しただけなの?」
「そうですよっ。あとは、自分で作ってみて、どんな感じかな? っていうのを調べるんです」
「あたしが前に本を見ながら作ったら、とてもこの世のものとは思えない物体ができたんだけどね……」
渚のカレーを口に運びながら、あたしは渚についていろいろと考えを巡らせてみた。
ちょっと変わってて、子供っぽい仕草が多い。だけど、手先がとてつもなく器用で、細かいところまで気配りが効いて、おまけに人の話はちゃんと聞いてる。料理が上手いのは言わずもがなで、いろいろな事を知ってる。
そして思ったこと。
渚は誰かのために何かをすることに、とても大きな喜びや意義を感じている。それは自己犠牲だとか大それたものではなく、単に相手の喜ぶ顔を見たいがためにする事だと思った。することの一つ一つが完璧なので、されている方も気分がいい。渚はそれを、本心から喜んでいるように見える。
渚は……
ちょっと変わった子なのは間違いない。そうじゃなきゃ、見ず知らずのあたしとこんな風に共同生活をすることも無い。今までの奇行の数々からも、それは明白だ。
だけど。
根は、本当にいい子なのだろう。自分の行動に対価を求めないし、するべき事はちゃんと分かっている。これが本質なのかどうかはまだはっきりしないけど、少なくとも今の段階で、あたしは渚をかなり「いい子」として見ている。
……ま、渚と一緒にいるのはどんなに長くてもあと一週間かそこらだし、そんなに気にすることでもないだろうけどね。
「ふーん。そんなことやってんだ」
「そうなんですよっ。来年に備えて、今から勉強モードなんです」
「勉強ねぇ……あたし、勉強らしい勉強って、ほっとんどした記憶無いんだよね……」
あたしと渚は、渚が切ったすいか(食べやすいよう、小さめに切られてある。もちろん、種を取るなんて無粋な真似はしてない。この辺、渚もよく分かっていると思う)を食べながら、どーってことない会話をしていた。
「そういや、渚ってなんか部活とかやってんの?」
「う〜ん……やろうかな、って思ったことはありますよ」
「……ということは、実際にはしてないんだ」
「はい。その……ちょっと事情があって……」
「事情?」
渚が急に難しい顔をするものだから、あたしは思わずそのまま聞き返してしまった。
「……………………」
渚はしばらく唇に手を当てて、何か難しいことを考えているような表情をしていたが、不意に顔を上げ、
「実は、渚っちがその部活に入ろうとしたら……」
「……したら?」
「……………………」
「……………………」
一瞬、沈黙をおいた後。
「渚っちが入る前に、その部活が無くなっちゃったんですよ〜」
「……………………はぁ?」
意味不明な回答が返ってきた。
「ちょ……それ、どーいうことなの?」
え? 何? 渚が部活に入ろうとしたら、渚が部活に入る前にその部活がなくなった? なんだその部活は? 時限装置式の部活なんて、聞いたこと無いぞ?
「えっと、高校に入る前にその部活に入ってみよう、って思って、それで高校に入ってからそこに行ってみたんですけど……」
「……なるほど。そういうことね。行ってみたら、無くなってた……」
「そうなんですよ〜。うう〜……これって、絶対何かの陰謀ですよねっ」
「断じてそれは無い。で、あんたが入りたかった部活って何だったの?」
「えっと……あ、天文部、天文部ですっ」
「ある意味あんたらしいわね」
「渚っちは星を見るのが好きですから、学校の屋上とかで見たらきっとすごく綺麗に見えると思ったんですよっ」
「ふむふむ。で、なんでその天文部は消滅の憂き目に遭っちゃったわけ?」
「えっと……よくは分からないんですけど、顧問の先生……確か、遠野さん……だったかな? その人が転勤していなくなっちゃったんです」
「ほうほう」
「それで、部員が元々少なかった……というか、実はだーれもいなかった天文部は、渚っちが入る前に無くなっちゃったんです……」
「……部員がいないのに部として成立する方がヘンだと思うわ……」
あたしは渚の話を聞きながら、なんとも言えない気持ちになった。渚には気の毒だけど、その部活、ある意味入らなくて正解だったかもしんない。
「で、渚。天文部に入りたかったって事は、あんたは星を見るのが好きなわけ?」
「そうですよっ。きらきらしてて、とっても綺麗じゃないですかっ」
「まー、言われてみればそうだけど。あたしも星を見るのは嫌いじゃないよ」
「わ、そうなんですか! 渚っち、ちょっとうれしいです」
「見るっつっても、寝付けない時にぼーっと眺めたりするぐらいだけどね」
「そうなんですかー。渚っちも夜眠れない時、自分で星座を作って見るんです」
「……自分で作る?」
「そうですよっ。星を見ながら、こことここをつなげたら……あっ、ねこさんだ! みたいな感じですっ」
「……あんたのセンスにはついていけないわ……」
「たははっ。褒められると照れちゃいます」
「褒めてない褒めてない」
渚はいつもこんな調子なんだろう。とは言え、最初に比べるとこのなんとなくヘンなモノを抱えている渚とも、ずいぶんまともに会話できるようになった気がする。
「あ、もうこんな時間……愛子さん、そろそろ寝ましょっか」
「ん。そいじゃ布団敷いてくるから、食器片付けといて」
「あ、はいっ!」
あたしは和室に行って、布団を敷く事にした。
「明日はちゃんと起こしなさいよ」
「大丈夫ですよっ。ちゃんと起こしますから」
「フライパンとフライ返しは禁止」
「分かってますよっ」
「ボールとおたまも禁止」
「たはは〜。分かってますよっ。明日はちゃんと起こしますからっ」
「……頼むわよ」
あたしは最後にそう言って、
「それじゃあ、おやすみなさい、です」
「んじゃ、おやすみ」
ゆっくりと目を閉じた。一日中歩き回ったせいか、目を閉じるとすぐに瞼の感覚がなくなってきて、それがだんだん体全体にゆっくりとのしかかるように広がっていき、そのまま……
………………
…………
……
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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